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荊棘後宮の盗妃伝  作者: ひらめ
第1章
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第12話


夜の帳が降りた帝都は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

しかし、その静寂の裏で、月の氏族の陰謀は、新たな段階へと移行しようとしていた。

月影は、自らの宮殿の一室で、冷たい光を放つ月明かりの下、一枚の古い地図を広げていた。

そこには、帝都の地下深くに張り巡らされた、忘れ去られた通路の網が記されている。

そして、その通路の先には、帝都の心臓部、すなわち皇帝が執務を行う離宮の真下へと続く、秘密の入り口が示されていた。

「 この通路は、先祖代々、有事のために隠されてきたもの。

まさか、この時代に、このような形で役立つとはね 」

月影の口元には、薄い笑みが浮かんだ。

彼女の隣には、全身を黒い装束で包んだ、一人の男が立っていた。

その男は、影のように静かで、一切の感情を読み取ることができない。

しかし、その手には、不気味な光を放つ短剣が握られていた。

「 準備は整いましたか? 」

月影が問うと、男は無言で頷いた。

月影は、再び地図に目を落とした。

彼女の計画は、玄葉と夕霧が知る以上に、周到に、そして巧妙に練られていた。

廃寺での件は、確かに彼女の計算を狂わせたが、それはあくまで序章に過ぎない。

夕霧の「 特別な血筋 」の確信を得た今、彼女の野望は、もはや誰も止めることはできないだろう。

一方、玄葉の執務室では、夕霧が李蘭の体調に関する報告書に目を通していた。

彼女の表情は、報告書の内容を読み進めるにつれて、少しずつ硬くなっていく。

李蘭が安全な場所に退避しているとはいえ、その症状は古文書に記された「 荊棘の呪い 」の初期症状と驚くほど一致しており、夕霧にとってその身に迫る危険は肌で感じるほど現実的だった。

「 陛下……李蘭様の症状が、古文書の記述とあまりに似ております。

これは、月の氏族が李蘭様を、あの恐ろしい儀式の『 贄 』として狙っている可能性を示しています 」

夕霧の声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。

玄葉は、深く頷いた。

彼の顔にも、緊迫した色が見て取れる。

「 分かっている。

月影が李蘭を身代わりにしたのは、李蘭の血筋に『 清浄なる血 』が発現する可能性があったからだろう。

そして、もし李蘭が月の氏族の手に落ちれば、彼らの秘術は完成に近づく。

何としても、李蘭を守り抜かねばならぬ 」

玄葉は、卓を叩き、静かに命じた。

「 夕霧、そなたは李蘭の身の安全確保に最大限の注意を払え。

退避先からの報告は、全てそなたが確認し、何か変化があれば直ちに報告せよ。

俺は、月の氏族の動きを徹底的に監視し、奴らの次の手を読む。

そして、帝国内に潜む月の氏族の者を炙り出す 」

夕霧は、玄葉の言葉に力強く頷いた。

彼女の心には、李蘭を守るという使命感と、そして、この陰謀を打ち砕くという、強い決意が宿っていた。

「 かしこまりました。

わたくしが、李蘭様の安全を確保し、この陰謀を阻止いたします。

命に代えても 」

玄葉は、夕霧の真摯な瞳を見つめた。

その瞳の奥には、確かな覚悟が宿っている。

彼は、夕霧が、単なる後宮の妃や盗賊ではないことを改めて確信した。

彼女は、この帝国の未来を左右する、かけがえのない存在なのだ。

その夜、月影は密かに宮殿を抜け出し、地下通路へと足を踏み入れた。

彼女の背後には、先の男が影のように付き従っている。

闇の中、松明の炎が揺らめき、湿った空気が二人の周りを包み込んだ。

「 陛下も、夕霧も、まさかこの通路が存在するなどとは夢にも思うまい 」

月影の声が、薄暗い通路に響き渡る。

彼女は、この通路を使い、玄葉の執務室へと忍び込むつもりだった。

目的は、玄葉の傍にある古文書と、そして、夕霧の血の真の力を示すであろう、決定的な証拠を手に入れること。

さらに、玄葉自身に、夕霧の「 特別な血筋 」の危険性を再認識させる、という副次的な目的もあった。

通路の奥へと進むにつれて、空気はさらに冷たくなり、微かな潮の香りが漂ってきた。

それは、地下水の流れる音と、遠くで響くかすかな足音――衛兵たちのものだろうか――が混じり合う、不気味な空間だった。

月影は、立ち止まり、男に命じた。

「 貴方はここで待機しなさい。

何か異変があれば、直ちに連絡を。

私は、一人で向かう 」

男は再び無言で頷くと、闇の中に溶け込むように姿を消した。

月影は、短く息を整えると、再び歩き始めた。

彼女の足音は、闇に吸い込まれるように静かだった。

玄葉の執務室では、夕霧が古文書の記述と、月の氏族に関する新たな資料を照合していた。

彼女の集中力は極限に達しており、資料に記された古代文字の一つ一つを、慎重に読み解いている。

玄葉は、その傍らで、帝国全土からの報告書に目を通し、月の氏族の活動の兆候を探っていた。

その時、執務室の奥から、かすかな物音が聞こえた。

夕霧は、瞬時に身構えた。

剣の柄に手を伸ばし、玄葉と古文書を庇うように前に出る。

玄葉もまた、音のした方向に目を向け、その顔に緊張が走る。

壁の一部が、音もなく、そして静かに開き、そこから、月影の姿が現れた。

彼女の顔には、冷たい笑みが浮かんでいる。

その手には、毒が塗られた扇子が握られていた。

「 まさか、このような場所で、あなたと相見えるとはな 」

月影の言葉に、玄葉の顔が険しくなる。

彼は、月影が、自身の執務室の秘密の通路を知っていたことに、驚きを隠せない。

「 月影……一体、何のつもりだ!? 」

月影は、ゆっくりと執務室の中へと足を踏み入れた。

その目は、玄葉の傍らに立つ夕霧を捉えた。

「 李蘭……いいえ、夕霧……あなたの血に流れる『 特別な力 』を、私は知っているわ。

そして、その力が、月の氏族の悲願を達成するために、どれほど必要かということも 」

月影の言葉に、夕霧の顔は蒼白になった。

彼女の最も隠したい秘密が、月影に知られていた。

しかし、それ以上に、月影のその言葉には、夕霧の血が「 清浄なる血 」であると、月影が確信しているような響きがあった。

「 あの鈴……そして、廃寺で見つかった古文書。

全ては、あなたをここへ誘き出すためのもの。

そして、あなたの血の真の力を引き出すためのものだった 」

月影は、扇子を優雅に開いた。

その扇子の柄には、毒が塗られている。

彼女の目は、夕霧を射抜く。

「 さあ、夕霧。

その血を、私に捧げなさい。

そうすれば、月の氏族の悲願は成就し、この帝国は、新たな時代を迎えることができるでしょう 」

月影の声は、誘惑的でありながら、同時に恐ろしい響きを持っていた。

彼女の言葉は、夕霧の心を揺さぶる。

自分の血が、本当に月の氏族の悲願を叶える鍵となるのか?

もしそうであれば、故郷の悲劇の連鎖を断ち切る唯一の道なのではないか?

玄葉は、月影の言葉に激怒した。

彼の瞳は、燃え上がる炎のように赤く輝く。

「 黙れ、月影!そなたの企みなど、俺が許すものか! 」

玄葉は、剣を抜き、月影に斬りかかった。

しかし、月影は軽やかにその攻撃をかわす。

彼女の動きは、まるで舞を舞うかのように優雅でありながら、その内には、冷酷な殺意が秘められていた。

夕霧は、玄葉の戦いを傍で見守る。

彼女の心の中では、激しい葛藤が渦巻いていた。

月影の言葉は、彼女の心の奥底に、ある問いを投げかけた。

自分の血の力が、本当に月の氏族の呪いを解くことができるのなら、それは、故郷の悲劇の連鎖を断ち切る唯一の道なのではないか?

しかし、夕霧はすぐに、その考えを振り払った。

月の氏族の悲願が、他者の命を犠牲にする上に成り立っていることを、彼女は知っている。

それは、故郷の村人たちが、何の罪もないまま犠牲になったことと同じだ。

自分は、決してその加担者にはならない。

夕霧は、玄葉を守るように、そして古文書が置かれた卓の前に立ち、月影と対峙した。

「 月影様!わたくしは、あなたに協力するつもりはございません!

たとえこの身がどうなろうと、あなたを止めます! 」

月影は、夕霧の言葉に、不敵な笑みを浮かべた。

「 愚かな。

あなたは、自分の運命から逃れることはできない。

その血は、月の氏族のものとなるのだ 」

月影は、扇子を素早く振り、毒の霧を夕霧に向かって放った。

夕霧は、とっさに身を翻し、毒の霧を避ける。

しかし、その刹那、月影の指が、夕霧の腕にかすかに触れた。

それは、毒を塗布された指だった。

夕霧は、腕に微かな痛みを感じた。

月影の指が触れた部分の肌が、かすかに変色している。

しかし、その毒は、夕霧の体内で、まるで水が染み込むように、すぐに消えていった。

月影は、その光景を見て、目を見開いた。

彼女の顔から、笑みが消え、驚愕の色が浮かぶ。

「 まさか……この毒が、ここまで簡単に……!? 」

月影は、夕霧の毒への耐性が、彼女の想像を遥かに遥かに超えていることを目の当たりにした。

それは、単なる「 特別な血筋 」という推測ではなく、夕霧の血が、月の氏族の「 清浄なる血 」そのものであるという、決定的な証拠だった。

月影の瞳は、狂気に満ちた、しかし同時に、確かな知性を持った光を宿していた。

彼女は、夕霧をただの敵として排除するだけでなく、その血を奪い取る、あるいは利用する方向へと、自らの計画を大きく転換させていたのだ。

「 やはり、あなたは……紛れもない『 清浄なる血 』の持ち主……!

この月の氏族の悲願を、このわたくしが成就させるのよ! 」

月影の声が、執務室に響き渡る。

その言葉は、玄葉と夕霧の心を深く揺さぶった。

月の氏族の「 清浄なる血 」が、まさに夕霧の血筋そのものであることが、この瞬間、月影によって明確に示されたのだ。

玄葉は、その真実に、強い衝撃を受けた。

彼の視線は、月影から夕霧へと移る。

夕霧の顔は、月影の言葉に、蒼白になっている。

「 月影……貴様……! 」

玄葉の怒りが、頂点に達した。

彼は、夕霧を守るため、そして帝国の未来を守るため、月影との戦いに決着をつけることを決意した。

この戦いは、もはや後宮の争いではない。

月の氏族の長きにわたる陰謀と、夕霧の血に秘められた真実が交錯する、帝国の命運をかけた戦いの幕が、今、切って落とされた。


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