第11話
廃寺での死闘を辛うじて切り抜け、夕霧が玄葉の執務室に戻ったのは、夜も更けた時間だった。
彼女の体は傷つき、疲労困憊していたが、その瞳は、持ち帰った古文書と装身具――**「 真実の片鱗 」**を前に、鋭い光を放っていた。
玄葉は、彼女の無事な姿を見るなり、安堵の息を漏らした。
彼の顔には、それまでの緊張と焦燥が色濃く残っていた。
「 李蘭!無事だったか…… 」
玄葉は、その場で立ち尽くす夕霧に駆け寄った。
彼の声には、抑えきれない安堵と、そして、彼女の身を案じる個人的な感情が滲み出ていた。
夕霧の顔は泥で汚れ、髪は乱れていたが、その手にはしっかりと古文書と装身具が握られていた。
「 はい、陛下。
ご心配をおかけいたしました。
これを…… 」
夕霧は、玄葉に古文書と装身具を差し出した。
彼女の腕は震えていた。
玄葉は、それを受け取ると、古文書の表紙に刻まれた月の氏族の紋章を凝視した。
そして、その隣に添えられた装身具を見て、その目に驚きの色を浮かべた。
それは、手のひらに乗るほどの小さな木彫りの鈴だった。
表面は長年の土の中にあったせいで黒ずみ、細部の彫りも摩耗していたが、玄葉は、その形に見覚えがあった。
それは、かつて故郷で目にした、古くから伝わる伝統的な魔除けに似ていたからだ。
しかし、最も彼の目を引いたのは、鈴の底に彫り込まれた、極めて微細な三つの刻印だった。
一つは、故郷の村に伝わる、特定の紋様。
二つ目は、鈴の表面に、かすかに残る小さな欠け。
そして三つ目は、その欠けの隣に、辛うじて読み取れるほど小さく彫られた、「 夕 」の文字。
それは、他の何よりも確かな、持ち主を示す印だった。
玄葉は、以前夕霧が語った故郷の様子と、彼女自身の名を重ね合わせた。
この鈴が、ただの魔除けではないことを、彼は直感した。
それは、夕霧が、幼き日に身につけていた、彼女自身の過去を証すものだ。
彼の心に、夕霧の壮絶な過去への、深い衝撃が走った。
影の部下が、月影の影の者たちとの交戦状況を報告した。
「 月影の者たちは、訓練された精鋭でございました。
手練れの刺客、そして毒使いも混じっており、我々も苦戦を強いられましたが、
陛下の援軍が間に合い、何とか退けることができました。
月影姫は、我々の追撃を振り切って、地下の隠し通路から逃走いたしました。
おそらく、最初から追跡を振り切ることを想定していたのでしょう 」
部下の報告に、玄葉は険しい顔で頷いた。
「 そうか……。
だが、これで、月影がそなたの過去を探っていたことが確実になった。
そして、そなたの過去と、月の氏族の陰謀が深く結びついていることも。
廃寺にわざわざこの鈴を置いたのは、そなたを誘き出すためだったのだろう。
そして、そなたを捕らえ、そこにあるとされる証拠を奪い取るか、あるいは、そなた自身を消すためか…… 」
玄葉は、古文書を卓に置き、夕霧の前に座るよう促した。
彼は、燭台の光を古文書に近づけ、その埃を払った。
彼の瞳は、古文書と鈴、そして夕霧の顔を行き来し、思考を巡らせていた。
「 この古文書には、何が記されているのだ?
そして、この鈴は……なぜ、そなたのものだと分かるのだ? 」
玄葉は、夕霧の顔をまっすぐに見つめた。
彼の瞳には、真実を知ろうとする強い意志と、
そして、夕霧への、深い関心と、彼女の痛みを理解しようとする微かな共感が込められていた。
夕霧は、玄葉の視線を受け止め、ゆっくりと、その重い口を開いた。
「 この古文書は、おそらく月の氏族に伝わる**『 真実の書 』の片鱗でございます。
そして、この鈴は……わたくしが、故郷を失ったあの悲劇の日に、魔除けとして常に身につけていたものです。
この小さな欠けと、『 夕 』の文字は、わたくしが幼い頃、自分で彫ったものにございます。
故郷の習わしで、生まれた時に身につける魔除けの鈴に、親が村の紋様を彫り、子は自分の名を彫り込むのです 」
夕霧の声は、震えていた。
その言葉を口にすること自体が、彼女にとってどれほど苦しいことか、玄葉には痛いほど伝わった。
彼女の瞳の奥には、遠い日の悲しみが浮かんでいた。
「 真実の書……そして、故郷の悲劇と、その鈴か…… 」
玄葉は、その言葉を反芻した。
彼の脳裏には、以前夕霧が語った「 疫病 」の記憶が、再び鮮明に蘇っていた。
「 この書には、月の氏族の禁忌とされる『 荊棘の呪い 』**の真実が記されていると、直感いたしました。
そして、わたくしの故郷を襲った「 疫病 」の正体も…… 」
夕霧は、意を決して、古文書を開いた。
そこには、月の氏族の歴史、そして、彼らが代々秘匿してきた「 毒の知識 」に関する記述が、難解な古代文字で記されていた。
その文字は、夕霧が過去に盗み出した古書に記されていたものと酷似しており、彼女はためらうことなく読み解き始めた。
夕霧は、自身の故郷で得た薬学の知識と、盗賊時代に培った古文書の解読術を駆使し、玄葉と共に、その古文書を読み解いていった。
一文字一文字、紐解かれる真実は、玄葉を、そして夕霧を、驚愕させた。
古文書の紙は、長い年月を経た独特の黄ばみを帯び、インクは薄れかかっていたが、
夕霧の指がそれをなぞるたび、秘められた歴史が蘇るようだった。
その古文書には、月の氏族が、遥か昔から**『 荊棘の呪い 』**と呼ばれる宿命を背負っていたことが記されていた。
それは、月の氏族の血筋が薄れるにつれて、身体が徐々に衰弱し、最終的には皮膚がまるで棘に覆われたかのように変質し、植物のように枯れてしまうという、恐ろしい呪いだった。
その症状は、夕霧の故郷を襲った「 疫病 」の症状と、驚くほど酷似していた。
「 なんと……!これが、月の氏族の真の目的だったというのか……!
己の血を浄化するために、他者の命を贄にしてきた、と……!? 」
玄葉は、古文書の記述に、怒りに顔を歪めた。
彼の拳が、静かに握り締められる。
卓の上の燭台の炎が、彼の怒りに呼応するように揺らめいた。
「 彼らは、己の血を浄化するために、他者の命を犠牲にしてきたのです……。
わたくしの故郷の村人たちも、その秘術の犠牲になったのでしょう 」
夕霧は、その真実に、背筋が凍るような恐怖と、言いようのない怒りを覚えた。
故郷を滅ぼした「 疫病 」の正体が、このおぞましい秘術によって調合された毒だったと、彼女は確信した。
彼女の握りしめた拳が、微かに震えていた。
そして、古文書には、さらに衝撃的な記述が残されていた。
月の氏族は、この秘術を完成させるために、特定の血筋を持つ者――すなわち、**「 清浄なる血 」**を持つ者を、古くから探し続けてきたという。
その「 清浄なる血 」を持つ者は、月の氏族の毒を受け付けず、むしろ、その毒を吸収し、浄化する力を持つとされていた。
彼らは、その「 清浄なる血 」を持つ者を捕らえ、実験台として利用することで、自らの呪いを解き、さらには、その血の力を取り込もうとしていたのだ。
「 まさか……わたくしの故郷が襲われたのも、この『 清浄なる血 』を狙って……
そして、わたくしが生き残ったのも…… 」
夕霧の顔から、血の気が引いた。
彼女自身が、その「 清浄なる血 」を持つ者なのではないかという、恐ろしい予感が彼女の心を支配した。
彼女が、故郷の悲劇から生き延びたのは、単に毒への耐性があったからではない。
彼女の血に、毒を浄化する、特別な力があったからだ。
それは、彼女の人生の全てを根底から覆す、あまりにも残酷な真実だった。
玄葉は、夕霧の不安と、彼女の顔に浮かんだ絶望の色を察したかのように、古文書から目を離し、彼女の顔を見つめた。
「 夕霧……そなたが、その特別な血筋の持ち主なのか……? 」
彼の声は、僅かに震えていた。
彼は「 清浄なる血 」という具体的な言葉は使わず、ただ「 特別な血筋 」という曖昧な表現に留めた。
彼の心には、夕霧への、深い心配と、そして、彼女の運命への、抗しがたい感情が芽生え始めていた。
彼は、この真実が、夕霧にどれほどの重荷を背負わせるかを理解していた。
彼の表情は、一瞬にして、皇帝としての冷静さを失い、一人の人間としての驚きと、
そして、彼女への庇護欲のようなものが浮かび上がっていた。
古文書の最後のページには、さらに、驚くべき記述が記されていた。
「 月の氏族は、この『 清浄なる血 』を、帝国の血筋からも得ようとしていた、と……。
彼らは、長きにわたり、後宮に自らの血を送り込み、他者との間に子をもうけ、その血筋に『 清浄なる血 』が発現することを狙っていた……。
この血が発現した者がいれば、月の氏族の秘術を完成させ、帝国の権力を奪い取ろうと画策していたというのか…… 」
玄葉は、その言葉を読み上げると、雷に打たれたような衝撃を受けた。
彼の顔から血の気が引いた。
月の氏族の狙いは、単なる後宮の覇権争いや、自らの血の浄化に留まらない。
彼らは、帝国の根幹を揺るがし、ひいては帝国の支配権を握ろうとしていたのだ。
李蘭が狙われたのも、彼女が皇族と姻戚関係にあったため、その「 清浄なる血 」を持つ者が生まれる可能性を狙われたためだった。
玄葉は、奥歯を噛み締めた。
「 月影の狙いは、俺の想像を遥かに超えていた。
李蘭を毒で蝕み、その身代わりを立て、そして…… 」
玄葉は、はっと顔を上げた。
夕霧の顔を凝視した。
「 まさか、月影は、そなたがそのような『 特別な血筋 』の持ち主であると知っていたからこそ、李蘭の身代わりとしてそなたを後宮に引き入れたのか……?
そなたを、利用するために……! 」
玄葉の推測に、夕霧は、恐怖で顔を蒼白にさせた。
しかし、彼女はすぐに、その考えを否定した。
「 流石にそこまでは……。
月影様は、わたくしが故郷の毒を生き延びたことや、毒に関する知識が豊富であることから、何らかの特別な血筋を持つ者であると疑ってはおられたかと存じます。
しかし、それが月の氏族の**『 清浄なる血 』そのもの**であると、明確に認識していたとは考えにくいです。
もし本当にご存知であれば、廃寺にあの鈴を置いたり、直接わたくしを罠に誘き出すような稚拙な真似はなさらないはず。
もっと巧妙に、わたくしを捕らえ、その血を奪い取ろうとしたでしょう。
わたくしの毒への耐性や知識は、彼女の計画に利用できる、便利な駒程度にしか思っていなかったのではないでしょうか 」
夕霧は、月影の性格と、これまでの行動パターンを冷静に分析し、その可能性を否定した。
彼女の言葉は、玄葉の思考をさらに深めさせた。
玄葉は、夕霧の分析に頷き、深く納得したような表情を見せた。
彼は、自らの推測が、感情に流されすぎたものだったと悟った。
夕霧の冷静な洞察力は、彼の思考を補強し、より正確な結論へと導いてくれる。
「 確かに、そなたの言う通りだ。
月影がそこまで確信していれば、もっと周到な手口でそなたを捕らえようとしただろう。
だが、それでも、月影がそなたの特別な血筋を疑い、それを利用しようとしていたことは間違いない。
そして、月の氏族の最終的な目的が、この帝国を完全に支配することにあるとすれば……
月影は、そのための重要な一端を担っている。
これは、後宮の内紛などという生易しいものではない。
帝国そのものが危機に瀕しているのだ 」
玄葉は、再び古文書に目を落とした。
彼の瞳には、冷静な知性と、この状況を打開しようとする強い意志が宿っていた。
この真実が明らかになったことで、二人の間に、新たな使命感が生まれた。
玄葉は、帝国の危機を救うため、そして、夕霧の故郷の無念を晴らすために、この月の氏族の陰謀を徹底的に暴き、根絶やしにすることを決意した。
夕霧もまた、自身の血に流れる秘密と、故郷の悲劇の根源を突き止めるため、そして、李蘭の願いを叶えるため、玄葉と共に闘うことを誓った。
彼女の心には、恐怖とともに、この悪しき宿命を断ち切るのだという、強い覚悟が芽生えていた。
「 月影は、もはや後宮の妃などではない。
帝国の敵だ。
そして、そなたの命を狙う、危険な存在だ。
この古文書と、そなたの血の秘密を知る者は、月影以外には、誰もいない。
この真実は、決して外に漏らしてはならぬ。
特に、そなたの血筋が**『 清浄なる血 』であること、
そしてその力が月の氏族の呪いを解く鍵となることは、決して月の氏族の者に知られてはならない。
もし知られれば、彼らは手段を選ばず、そなたを狙うだろう 」
玄葉は、静かに言った。
彼の声には、怒りと、そして、夕霧を守ろうとする、強い決意が込められていた。
彼の視線は、夕霧の瞳に強く注がれた。
「 陛下…… 」
夕霧は、玄葉の真剣な眼差しから、彼が自分をただの協力者としてだけでなく、
個人的に守るべき存在として認識していることを感じ取った。
そのことに、彼女の心に、これまで感じたことのない、しかし確かな温かい感情**が芽生え始めていた。
それは、まだ恋とは言えないが、玄葉という存在への、深い信頼と、そして、彼に守られているという、安心感のようなものだった。
しかし、この真実が明らかになったことで、玄葉は、夕霧の身の危険をより強く感じるようになった。
彼は、月影が、夕霧の「 特別な血筋 」が「 清浄なる血 」であると確信し、奪い取ろうと、さらに過激な行動に出ることを危惧した。
玄葉は、夕霧に、絶対に無茶をしないよう、そして、彼の指示に従うよう、強く命じた。
「 夕霧。
そなたは、もはや一介の盗賊ではない。
この帝国の未来、そして、そなた自身の命が、俺の手の中にある。
絶対に俺の指示を逸脱するな。
いいな。
そなたの命は、今や俺の命と同じくらいに重いのだ 」
玄葉の口調は厳しかったが、その言葉には、夕霧への強い心配と、彼女を守りたいという切実な願いが込められていた。
彼の瞳は、夕霧の瞳から決して逸らされなかった。
夕霧は、その言葉に、玄葉が自分をどれほど気にかけているかを理解し、彼の信頼に応えたいと強く思った。
その頃、月影の宮では、薄暗い部屋の中で、月影が自らの手元にある資料を凝視していた。
廃寺での計画は失敗に終わったが、彼女はそこで得た情報から、ある確信に近づいていた。
「 あの鈴……確かに、あの紋様は、古き月の氏族の儀式に使われるものに酷似している。
そして、彼女の毒への耐性……偶然ではありえない 」
月影は、指先で卓の上の古びた絵図をなぞった。
それは、月の氏族に伝わる、特定の紋様を持つ鈴の絵図だった。
廃寺に置かれた鈴は、夕霧の故郷の紋様が彫られていたが、その根底には、
月の氏族の古き儀式と繋がる意味合いが隠されていると、月影は睨んでいたのだ。
彼女の目は、冷徹な光を放っていた。
彼女は、密かに手に入れた夕霧の身体から採取された微量の血痕を、特殊な方法で解析していた。
月の氏族に伝わる秘術の一つ、それは、血に含まれる「 気 」の流れを読み解き、その持ち主の属性や隠された可能性を探るというものだった。
完全な解読は不可能だったが、そこには、通常の人間にはありえない、毒への異常な耐性と、特異な生命力が読み取れたのだ。
「 あの女は、単なる盗賊ではない。
あの故郷の悲劇から生き延びたのも、毒の知識があったからだけではないでしょう。
あの血……間違いなく、月の氏族が長年探し求めてきた『 清浄なる血 』に繋がる何かがある 」
月影の口元に、ゆっくりと邪悪な笑みが浮かんだ。
彼女は、李蘭の身代わりとして夕霧を後宮に引き入れた当初は、ただの「 捨て駒 」として考えていた。
しかし、夕霧の毒への驚くべき対応力、そして廃寺での古文書の出現、
さらには、彼女が身につけていた鈴の存在が、月影の疑念を確信へと変えていったのだ。
「 つまり、あの女の血は、単なる毒への耐性だけではない。
月の氏族の『 荊棘の呪い 』を解く鍵となり得る可能性を秘めている、ということ……。
もしそれが真実であれば、これは、月の氏族の悲願を達成するための、またとない好機だわ 」
月影は、自らの掌を見つめた。
彼女の指先が、微かに震えていた。
それは、野望の成就を予感させる、興奮の震えだった。
「 陛下は、まだあの女の真の価値に気づいていない。
だが、いずれは気づくでしょう。
いや、気づかせねばならない。
そして、あの血は、わたくしのものとなる。
この月の氏族の悲願を、このわたくしが成就させるのよ! 」
月影の瞳は、狂気に満ちた、しかし同時に、確かな知性を持った光を宿していた。
彼女は、夕霧の「 特別な血筋 」が、月の氏族の歴史と深く結びついていることを、この時点でほぼ確信していた。
それが「 清浄なる血 」そのものであると断定するには、さらなる証拠が必要だったが、その可能性は限りなく高まっていた。
彼女は、夕霧をただの敵として排除するだけでなく、その血を奪い取る、あるいは利用する方向へと、自らの計画を大きく転換させていたのだ。
玄葉と夕霧は、廃寺で手に入れた古文書と、月の氏族に関する他の資料を照らし合わせ、さらに深く分析を進めた。
彼らは、月の氏族が古くから、ある特定の時期に、他者の「 清浄なる血 」を持つ者を選び、その血を奪い取ることで、自らの血筋を保ってきたという、恐ろしい歴史を突き止めた。
それは、帝国が栄える一方で、月の氏族の陰で、血塗られた儀式が繰り返されてきたという、忌まわしい真実だった。
彼らは、古文書の記述から、月の氏族が血筋の薄れるたびに、特定の紋様を持つ鈴を贄となる者に贈っていたという、古くからの習わしを見つけ出した。
それが、夕霧の持っていた鈴の紋様と酷似していることに、玄葉は背筋が凍る思いがした。
この鈴は、単なる魔除けではなく、月の氏族が「 清浄なる血 」の持ち主、あるいはその可能性を秘めた者を特定するための、恐ろしい印だったのだ。
そして、月の氏族が過去に、帝国の特定の高位の氏族にもその鈴を贈っていた形跡を見つけた。
それは、彼らの陰謀が、宮廷の奥深くまで根を張っていることを示唆していた。
「 これでは、まるで、我が帝国が月の氏族の『 贄 』にされてきたようなものだ…… 」
玄葉は、自らの祖先が、知らぬ間にこのような陰謀に巻き込まれていたことに、深い怒りと、そして、屈辱を感じた。
彼の表情は、激しい怒りに燃え上がっていた。
「 そして、李蘭様も、その『 贄 』にされようとしていた、と。
わたくしが身代わりにならなければ、李蘭様も、そのおぞましい儀式の犠牲になっていたかもしれません 」
夕霧の言葉に、玄葉は、李蘭への哀悼と、夕霧への感謝の念が混じり合った。
「 そなたが、間一髪で李蘭を救ったのだ。
そして、この真実を俺に教えてくれた。
そなたがいなければ、俺は、この陰謀に気づくことすらできなかった。
いや、この帝国は、闇に囚われていたかもしれぬ 」
玄葉は、夕霧の顔をまっすぐに見つめた。
彼の瞳には、深い感謝と、そして、夕霧への、特別な感情が宿っていた。
それは、命を救われたことへの感謝だけでなく、彼女の存在そのものへの、かけがえのない思いだった。
夕霧もまた、玄葉のその言葉に、心が温かくなるのを感じた。
玄葉は、影の部下たちに、月の氏族の全ての動きを厳重に監視するよう命じた。
特に、月影の宮周辺の警備を強化し、彼女が後宮外の者と接触することを阻止した。
しかし、月影の狡猾さは、玄葉の想像を超えていた。
彼女は、既に別の手段で、夕霧の過去を玄葉に暴露するための決定的な証拠を送り込んでいたのだ。
それは、玄葉が夕霧を深く信頼し、彼女の「 特別な血筋 」の可能性を受け入れた直後のことだった。
月影は、玄葉の最も弱点となる「 信頼 」を打ち砕こうとしていた。
ある日の早朝、玄葉の執務室に、一通の匿名の書状が届けられた。
それは、玄葉の影の部下たちも検閲をすり抜けるほど、巧妙に隠されていた。
書状は、上質な紙に、筆跡を偽装した達筆な文字で記されており、一見しただけでは、誰が送ったものか判別できなかった。
玄葉は、その書状を静かに読み上げた。
その内容は、夕霧が盗賊であったこと、そして、彼女が過去に盗みに入ったとされる屋敷の記録、
彼女が関わったとされる事件の詳細、さらには、彼女の故郷の悲劇の裏にある、
月の氏族の**「 特別な血 」に関する、月影が独自に突き止めた推測の域を出ない秘密**が、事細かに記されていた。
それは、月影が用意周到に集め、周到に送り届けた、夕霧の過去の全てを暴露する、決定的な書状だった。
そこには、夕霧が盗みに入ったとされる屋敷の平面図や、盗品の詳細な記述、
そして、彼女が関わった特定の「 合図 」についても、詳細に記されていた。
月影は、この書状で、夕霧の信用を失墜させ、玄葉の心を揺さぶろうとしていたのだ。
玄葉は、書状を読み終えると、その場で立ち尽くした。
彼の顔から、血の気が引いていた。
怒りでも、驚きでもない。
それは、夕霧の秘密が、このような形で暴かれることへの、強い衝撃と、
そして、彼女の身を案じる、深い苦悩が混じり合った表情だった。
彼の心には、皇帝としての責務と、一人の人間としての夕霧への感情が、激しく葛藤していた。
玄葉は、即座に夕霧を執務室に呼び出した。
部屋には、彼と夕霧、そして、その書状だけが置かれていた。
部屋の空気は、張り詰めていた。
窓の外は、まだ夜明け前で、微かな月明かりが部屋に差し込んでいた。
玄葉の瞳は、夕霧を射抜く。
その瞳には、隠しきれないほどの動揺と、そして、夕霧への、複雑な感情が渦巻いていた。
「 夕霧……この書状に記されていることは、真実か 」
玄葉の声は、低く、そして重かった。
彼は、書状を卓に置き、夕霧に差し出した。
その書状には、夕霧の最も隠し通したい過去が、詳細に記されていた。
夕霧は、書状を読み終えると、その場で膝から崩れ落ちそうになった。
月影が、ここまで、自分の過去を暴いていたとは。
そして、玄葉の手に、その全てが渡ってしまったとは。
彼女の顔は、絶望の色に染まっていた。
「 はい……陛下。
この書状に記されていることは、全て真実でございます 」
夕霧の声は、震えていた。
彼女は、もはや隠し通すことはできないと悟った。
そして、玄葉の失望した表情を見るのが、何よりも恐ろしかった。
彼女は、玄葉に嫌われることを、今、何よりも恐れている自分に気づいていた。
玄葉は、静かに、そして深く息を吐き出した。
彼の心は、夕霧の壮絶な過去と、彼女が背負う重い宿命に、強く揺さぶられていた。
彼は、夕霧の正直な告白に、怒りよりも、深い哀しみと、そして、彼女への憐憫の情を感じていた。
彼は、彼女が、どれほどの苦しみの中で、この真実を隠し続けてきたかを理解したのだ。
そして、彼女の瞳の奥にある、曇りのない真摯な光に、彼の心は強く打たれた。
「 ……そうか。
ならば、この書状にある『 特別な血筋 』の記述についても、そなたが、毒への耐性を持つ特別な力を持つ者であるということも、真実なのだな 」
玄葉は、声色を変えずに尋ねた。
それは、責めるような口調ではなく、ただ、真実を確かめようとする、静かな問いだった。
夕霧は、頷いた。
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「 はい……わたくしは、この血筋ゆえに、故郷を失いました。
そして、李蘭様もまた、この血筋ゆえに狙われたのです。
わたくしが、この後宮にいる限り、月影様はわたくしの血を狙い続けるでしょう。
陛下にご迷惑をおかけすることは本意ではございません。
わたくしは…… 」
夕霧は、自ら後宮を去る覚悟をしていた。
彼女は、玄葉に迷惑をかけ、その立場を危うくすることを何よりも恐れていた。
玄葉は、立ち上がり、夕霧の傍らに歩み寄った。
彼は、そっと夕霧の肩に触れ、彼女の瞳を深く見つめた。
「 夕霧。
そなたが、どれほどの苦しみを背負ってきたか、今、初めて理解した。
そして、この血筋が、そなたにどれほどの運命を強いてきたか、と 」
玄葉の声は、以前よりも柔らかく、そして、深い優しさに満ちていた。
彼の指先が、夕霧の頬を伝う涙をそっと拭った。
その触れ方は、皇帝としての威厳と、一人の男性としての温かさが入り混じった、繊細なものだった。
玄葉の指先が夕霧の肌に触れた瞬間、彼女の心臓は、微かな電流が走ったかのように、わずかに跳ねた。
「 だが、その血筋が、そなたを特別な存在にしていることもまた、真実だ。
そなたの持つ毒への耐性、そして、その知恵。
全てが、この帝国の未来を救うために必要不可欠な力だ。
そなたがいなければ、この月の氏族の陰謀は、誰にも暴かれることはなかっただろう 」
玄葉は、夕霧の手を取り、その柔らかな指をそっと包み込んだ。
彼の掌の温かさが、夕霧の心に、静かに染み渡っていく。
「 俺は、そなたを信じる。
そなたの過去も、そなたの血筋も、全てを受け入れよう。
だから、恐れるな。
俺が、そなたと共に、この陰謀を打ち砕く。
そなたを、決して誰にも渡さぬ。
この帝国も、そなたも、俺が必ず守り抜いてみせる 」
玄葉の言葉は、夕霧の心を強く揺さぶった。
彼の瞳には、彼女への深い信頼と、そして、彼女を守り抜こうとする、揺るぎない決意が宿っていた。
それは、命令でも、皇帝としての義務でもない。
一人の男性として、夕霧を支え、守ろうとする、純粋な思いだった。
彼の言葉は、まるで夕霧の心の奥底に染み渡るように響き、彼女の心を震わせた。
夕霧は、玄葉の言葉に、これまでの孤独な人生の中で、初めて心の底から安堵した。
彼女は、彼が自分の全てを受け入れてくれたことに、深い感動を覚えた。
そして、玄葉のその言葉が、彼女の心に、新たな、そして確かな希望の光を灯した。
彼女は、玄葉の存在が、自分にとってどれほど大きいものか、改めて認識した。
彼の言葉は、彼女の心の奥深くに、静かに、しかし確実に、根を下ろし始めていた。
玄葉と夕霧の間には、この夜、言葉以上の、深く、そして強固な絆が結ばれた。
それは、単なる協力関係や、皇帝と妃の関係を超えた、互いの魂が共鳴し合うような、特別な繋がりだった。
後宮の闇が深まる中で、彼らの心は、互いを求めるように、静かに、しかし確実に惹かれ合っていく。
真実が暴かれたことで、彼らの関係は、新たな局面へと突入した。
そして、その関係が、後宮の、そして帝国の運命を大きく左右することになるだろう。