024 舞い落ちる快晴
緑光が零れる鬼を模した仮面越しに玲司が目にしたのは、緑の翼を畳み校庭の中央へと着地したオランウータンのバケモノだった。
空の移動で疲労がたまったのか、片腕を苔生した棍棒へと変えたバケモノは、校庭のど真ん中で仰向けに寝そべった。
手負のバケモノが寝返りを打つのを、玲司は廃校正面の校門跡地から静かに眺めていた。
元々はレンガ造りの二本の柱に、鉄柵が設けられていたのだろうそこには、錆びたレーンだけが残され、他は完全に崩れ去っている。
玲司は、そんな学校と外界との境界線に立ち、校庭に居座る巨躯のバケモを仰ぎ見る。
「あいつら、祓い切れなかったのか」
都市部を飛び出し、何の障害もなかった空の移動は、創瑚が迅を見つけたとして、突然に終わりを迎えた。
創瑚が迅の加勢に向かい、玲司は地上へと放り出されたのだ。
戦鬼によって運動能力が跳ね上がっていた玲司は、何の問題も無く着地をしたが、空を飛ぶ手段を持っていなかった。
結果、地上に同じく取り残されていた六郎を引き連れ、世界記録以上の速度で避難所へと走った。おかげで体力を無駄に消費させられ、着いた頃には更なる障害に阻まれているというのが現状だった。
臭い物に蓋をするではないだろうが、倒壊しかけている廃校の内側から掛けられたブルーシートは、その中に潜む悍ましいモノを外には出さないようにしている鉄格子のようで、避難所というよりも監獄を思わせた。
そんな巨大な監獄の前に広がる乾燥してヒビの目立つ校庭のど真ん中で、石灰色の毛に苔を絡ませたオランウータンはゴロゴロと寝返りを打つ。
片腕を失い、その痛みに悶得ているかのように転がるその様を確認した玲司は一歩、学校の敷地内へと足を踏み入れた。
「あのバケモノ……じゃあ、隊長は」
「創瑚が連れてくるだろ。それより、アレをさっさと祓わないと校舎が潰されるぞ」
先行する玲司の耳に、六郎の震え混じりの声が飛び込んで来た。
肩で息をする六郎が悪い予感を働かせて紡がれた言葉だったが、それを玲司は飄々と切って捨てた。
次いで、校門跡地の向こう側に佇む青年へと、次手の意思を問う。
「分かってんだよそんな事。俺に命令するな」
鬼を模したお面から緑の眼光が帯びを引く玲司に、羽織を色鮮やかに染めた六郎は噛みつき、それを玲司はスルーする。
ここに来るまでの数分で、二人の間にはそんな流れが組み上がっていた。
視線を正面へと戻した玲司は、未だ寝転がり続けるバケモノへと大きく一歩踏み出し、そして力を込めた。
手入れを受ける事を止めて長い月日が経った校庭の土は、乾燥によってヒビ割れ、玲司の一歩で簡単に砕かれ陥没した。
沈み込む体を、前へと傾ける。
前傾斜四十五度付近にまで達した瞬間、玲司は足に込めていた力を解き放ち、土を掘り返しながら足を前へと飛び出させた。
背後で爆発にも似た大きな音が鳴り、土煙が空高くにまで広がった。
次いで風が体の周囲異で渦を巻き、前へと進める体に煩わしくも絡まり付いてきた。
それらを振り切るように腕を振り、足を前へと向ける玲司は、人外の膂力によって風も音も引き離し、瞬きする間もない短時間で、バケモノの横たえられたその懐へと飛び込んだ。
石灰色の毛並みを、玲司の引き離した風が撫で、爆発音がバケモノの意識を覚醒させる。
玲司の緑光と、人間の血を思わせる鮮やかな赤を宿したバケモノの瞳がぶつかった。
「子御木蹴術、三前趾足!」
オランウータンにオウムを合わせたような名憑きのバケモノであるケンジンの意識は、突然目の前に現れた玲司を捉え、一秒にも満たない思案を行った。
その隙は大きく、玲司が敵だと認識した時には、ケンジンの巨躯は空へと打ち上げられていた。
左足の蹴り上げによってケンジンの顎の骨を粉砕した玲司もまた、ケンジンの後を追って空へとその身を躍らせる。
中空で体勢を整えようと、二本の腕を乱暴に振って空を掻くにケンジンの頬を、玲司は無慈悲にも右足で穿ち抜く。
真っ黒な血飛沫が眼前に広がる中、玲司はそれらの情報の一切を遮断して振り抜いた勢いそのままに体を回転させて体勢を整える。
澄み切った視界がぐるぐると激しく動き、景色の輪郭が溶ける。
キャンバスへと無作為にぶちまけられた色を、幅広の刷毛で荒々しく横に退いたような一枚絵が、玲司の眼前に広がった。
ケンジンの脳が、混乱の中から自分に羽があり空を飛ぶことができたと思い出した頃には、玲司は次の行動へと移っていて、視界の半分を真っ黒に染めたケンジンの思考は再度、パニックの荒海の中に引き戻された。
奇声を上げながら、棍棒へと姿を変えたその腕を大振りに振るケンジンの腕を片手で弾くと、その衝撃を利用して肉薄し、振り上げた左足を鋭く振り下ろし、ケンジンの頭頂部へと踵を沈み込ませた。
力を込めて硬くなった筋肉が骨とぶつかる衝撃が玲司の左足全体に電気となって走り、次いで風を切る軽やかな感触が痺れる足を優しく包み込む。
お面越しに見る世界には黒一色の花火が打ちあがり、その花弁を広げると同時に、腐った魚の臭いと脂と血の臭いをかき混ぜた不快な臭いを解き放った。
轟音が校庭中に広がり、突風が伸び放題になった野草を揺らす。そんな、陽光をたっぷり浴びて育った人の手が加えられていない自然の輪廻の中で生きていた生命へと、不快で不潔なバケモノの血が豪雨の如く降り注ぎ、鮮やかな新緑のその身を、暗闇の中へと引きずり込むかのように黒一色に染め上げた。
バケモノの血特有の生臭さを含んだ突風から顔を守るために腕を掲げた六郎がその後目にしたのは、陥没した頭頂部から噴水のように黒い血を吹き出し、下半身を地面にめり込ませた名憑きのバケモノの亡骸だった。
(この祓い屋、強い)
速度は隊長の迅のほうが上だが、力に関しては玲司の方に分があった。
そのほかの戦闘能力に関しては拮抗していて、どちらが目に見えて強いとは、六郎に経験では答えを出せない。
ただ一つ、六郎の中で確定したのは、目の前にいる祓人は大隊長クラスの戦闘能力を有するという警戒に値する人物だという評価だった。
今はまだ、その暴力がバケモノに向いているからいい。しかしもし、それが何の罪もない一般人に向けばどうなるか。そんなことを考えると、ゾッと冷たい感覚が首筋から脳へと、虫が這うかのような嫌な感覚と共に駆け上って行った。
久頭玲司というこの男は、敵か、味方か。
その答えを出さなければいけないという強迫観念にも似た思いを抱えながら、六郎は校庭を常人の全力疾走以上の速度の駆け足で縦断した。
コンクリートの敷かれた昇降口にはもう、何も残ってはいなかった。
ガラス張りの扉は枠ごとどこかに取り外されて、開けっ放しとなり、僅かな風にブルーシートがガサガサと耳障りな音を立てる。
翻ったブルーシートの端を摘み上げた玲司に続いて、捲れ上がったシートを片手で押さえながら中に入った六郎が目にしたのは、これまでたくさんの靴と上履きを出し入れされた背の高く幅の広い靴入れだったと思われる廃材の山と、そこから飛び出した無数の釘の棘だった。
何か大きなモノがぶつかって崩れたかのように一方向に引き摺られてできた廃材の針山を見つめる玲司は、意識だけを廃校全域へと広げて気配を探る。
埃っぽい空気に混ざって、人間の血と脂、そしてバケモノの生臭さが鼻を突いた。
確かにいる。そう確信したのと同時に、拡張された思考回路から学校全体の立体模型が吐き出された。
正面昇降口を起点に全体を見ると、大きく三つの棟に分かれていることが分かる。
昇降口の設けられているこの棟は、中央棟。そこから東西に一つずつ棟が設けられ、ほとんどの気配は東棟に集中していた。
人間もバケモノも入り乱れた、不快感と不安感、そして焦燥感を掻き立てられるその気配は、東棟の模型の三階奥の教室で渦を巻いている。
「東棟の三階、バケモノが集まってる」
「だな。さて、どうするか」
情報を整理し切ったところで、隣から声が上がった。
視線を横に向けた玲司が捉えたのは、同じく気配を探っていたらしい六郎だった。
その言葉に同意しつつ、脳内の模型から、気配が渦巻く教室を拡大して、その中に押し込められたモノを観察する。
(学校内に二十九のバケモノ。そのうち二十七体が東棟三階に集まってる。蝗守の仕業か? 人間の気配は、同じ場所に三つと……その真下の階に二つ。床と天井に穴が空いてるってことは、追い詰められて逃走を図ってるって感じか。西棟にも気になる気配はあるが……)
「何言ってんだ。體斗先輩たちが戦ってんだろ。早く援護に向かわないと」
思考を加速させていた玲司の耳に、六郎の焦燥に染まった声が飛び込んできた事で、意識を切り替えさせられた。
即座に一人先に行こうとする六郎の羽織の襟を掴み、その歩みを止めた玲司は、お面越しに呆れの眼差しで六郎をみた。
「その一つ下の階に誰か居るだろ。そいつの動き次第だって分からないか?」
「下の階?」
言われて気付いたと驚きの表情を見せた六郎から手を離した玲司は、再度西棟の気配から状況を推察しようとしたが、勢いよく振り返った六郎によってそれは阻まれた。
「あれだけ気配が集まってる中で見分けがつくのか?」
六郎の驚愕に染まったその声を無視して、玲司は再三の思考へと潜り込む。
(西棟に二人と一体が同じ場所に止まってる。……罠と見て間違いない。飛び込めば、あの二人は殺されるから後回しだ。中央棟と東棟の渡り廊下の一体は、イマイチ理解できない行動だな。どこに向かうわけでもなく徘徊してる。だが、この中では間違いなく一番危険なのはコレだな)
「……人間同士でやり合ってるって事は、片方は祓い屋だ。そしてその真下の教室内にいるのが蝗守。俺はこっちを優先する」
西棟の避難民から意識を離した玲司は、気配が集まりお祭り騒ぎを起こしている東棟の三階を見ながら語る。
「お前の仲間が戦ってる相手は元一級祓人だ。足止めには十分すぎる」
玲司にとっての最優先は、託人の保護である。次点で蝗守源氏の捕縛。鴻上翔の身は生死問わず。
しかし、ここに来るまでに探したが、託人は見つからなかった。つまり、もう死んでいるか既に逃げたかの二択という事になる。
結果、玲司の目標は次点の蝗守源氏の捕縛へと移り、二階の二つある気配へと意識が向いた。
しかし、今の状況で捕縛に動けば、上の階からバケモノに奇襲をかけられる可能性が高い。
対処自体は簡単だが、量が量なだけに一斉に来られれば、校舎が崩れるだろう。そして何より、捕らえて無力化したところで、苔に侵食されたバケモノの洗脳が解除されるとは限らない。
最悪、捕縛したその状況で、上階から迫るバケモノを相手にしなければならなくなる。
かと言って三階の援護に向かえば、バケモノの祓滅と鴻上の捕縛はできるだろうが、その間に蝗守に逃げられる。
外にいた祓い屋の練度を見れば、捕まえる事ができる確率はは三割以下。
総司がいる場所が分かれば連携が取れただろうが、あまり期待はできない。
創瑚と迅の到着すれば問題ないが、こちらも総司と同様、二人が途中で足止めを喰らえばその間に蝗守には逃げられる為、あてには出来ない。これだけの騒ぎでは、追跡は困難なのだから。
「お前、三階のバケモノを一掃できるか?」
結果、取れる行動は二手に分かれて同時に無力化する事。
しかし、それには前提条件があった。
それは、上階の戦力を殲滅できるだけの力を持った者が、この場に居る事。
気配を探り感じたのは、鴻上と三十未満のバケモノの群れに苦戦する二人の祓魔師の気配。そこに手元の若い祓魔師を合流させただけで覆せるのか。そこが、玲司には分からなかった。
「できるに決まってんだろ」
「念の為言っておくが、一級の祓人は、校庭にいたバケモノを数秒で祓滅できる実力を持っている。それでも行けるのか?」
即答する六郎に重ねて尋ねた玲司は、一人先に東棟へと向かって移動を始めた。
「それは……」
「俺は、お前の隊長みたいに他人の力量を推し量って適材適所に割り振る事なんかできない。お前ができるって言うならそれを信じてあそこに向かわせる。それで死んでも俺は知らん。行けるか?」
先を行く玲司が背中越しに語る一方的な言い方に、六郎は拳を震わせた。
鬼を模したその面が、気配を探り中空を見つめるその横顔に拳を振り抜こうかと頭をよぎるぐらいには、怒りが思考をを侵食した。しかし同時に、残された冷静な部分では的確に彼我の差を計算していた。
「多分、行ける……と、思う」
「そうか。ならそっちはお前たちで何とかしてくれ。俺は下の奴を確保する」
それだけの返答で会話を終わらせた玲司は、中央棟と東棟とを繋いだ外を横断する渡り廊下への扉を横に滑らせ開いた。
目標は二階突き当りの教室。
廊下を渡り、東棟一階の端へと移動する。そこから左に体を曲げて一本道の廊下を進むと、すぐに右手に階段が現れた。
バケモノが往復を繰り返し、段差の角が丸くなったその階段へと足を乗せた玲司は、そこから一気に加速した。
駆け足で、しかし、足音は殺して階段を登り切り、廊下右手の一番奥にある『図画工作室』と書かれた札を確認して、追従していた六郎へと緑光を向けた。
「お前はこのまま上を目指せ。俺はこっちだ」
「一々命令すんな」
苦々しげに顔を顰めた六郎が、階段の踊り場から姿を消したのを確認した玲司は、一息に廊下を飛び越え扉へと蹴りを放った。
廊下は一本道で、その間には何の障害物も無く、緩やかな放物線を描いた玲司の跳躍は綺麗にカビの生えた合板の扉へと吸い込まれた。
足の裏にほんの少しの抵抗を感じたが、そのまま蹴り飛ばすと、傷だらけの古臭いその扉は、易々とその身をくの字に折った。
レールから外れた扉は玲司の勢いを一身に抱えて教室内の黒板前に置かれた教卓を巻き込み、反対の壁へと突き刺さる。
埃を巻き上げた折れ曲がった扉を目で追っていた教室内の人物は、深緑の瞳を新円に近づけ驚き硬直していた。
そんな男の前へと移動した玲司は、壊れた扉からその男へと視線を移し、正面から対峙した。
「お前が蝗守源氏だな」
鬼の面に浮き上がった緑の眼光が、鋭く細められた。
「祓魔師の次は、同業者のおでましか…………っと、君は」
やれやれと首をふりふりため息を吐いた源氏は、乾燥したまん丸な瞳を瞬かせて潤いを持たせて、それからしてようやく玲司を捉えた。
「ん? どっかで会った事があったか?」
源氏の反応は、以前どこかで関わりを持ち、偶然この場で出会した知人のそれだった。
しかし玲司は、頬のこけたやつれた顔を見て、くたびれた雰囲気を放つその男を一通り確認して、それから思い出せないと首を傾げた。
いくら記憶を遡っても、何処にも若白髪で髪を鈍色に染めた男が出てこなかったのだ。
結果、相手の何らかの勘違いだろうと結論づけ、殺気を纏って源氏へと肉薄した。
「待ちたまえ!」
そんな玲司に、両の手を前に突き出した源氏は声を上げる。が、当然玲司はその声を無視して蹴撃した。
しかし、玲司の人間からかけ離れたその動きを目で追った源氏は、動きに迷いがないと感じ取るや否や、同じく人外の速度で反撃に動いた。
パーカーのポケットから動物用の巻き取り式リードを引き抜き、鞭を振るうかのように苔の鎖を床に叩きつけ、銃声を想わせる乾燥したパシンッ、という軽い音を教室中に広げた。
瞬間、玲司の進行方向の源氏との間に広がる床が割かれた。
「っ!」
床の下から飛び出した一体のバケモノを前に、飛び込んでいた玲司は上体を反らしながら、振りかぶっていた右足で、飛び出してきたバケモノを蹴り上げる。
首を突き出して飛び出して来たのは、カメの甲羅を背負ったキンギョのバケモノだったと認識したのは、そのバケモノの機能しているのかは甚だ疑問の残る真っ赤な鰓を抉りながら、そのまま頭を引きちぎった後だった。
図画工作室の中に置かれた木製の備品棚へとキンギョの頭部がぶつかり、ガラスの割れる甲高い悲鳴が聞こえた。次いで、むっと鼻腔に絡まる腐臭が一室に立ち込め、途端に教室内の空気を、放置された終末世界のゴミ箱のような、不快感の塊へと変貌させた。
飛び出して来ていたカメの甲羅を背負ったその胴体は、視界と思考の両方を同時に失った事で、しばらく下階から飛び出してきたその姿でゆらゆらと揺れたが、そのまま木と埃の香りに包まれた教室に、鈍重そうな胴体を横たえ、カメの四肢を投げ出した体勢で痙攣を続け、やがて動かなかくなった。
「まさか一撃とは……やはり、君の実力は四級などには納まらないようだね。久頭玲司君」
漆黒のインクが原稿用紙を侵すように、木張りの床を黒く染める首を失ったバケモノの死骸を横目に、机の上に腰掛けた源氏は、血と脂と腐った肉の死臭が漂う空気を肺一杯に含み、ゆっくり吐き出してから、補機のリードを握り締めたその手で、パチパチと賛辞を送った。
「いや、こう呼んだ方が正しいのだろうね。『辰』の獣姓を受け継ぐ守人が一柱、辰御玲司殿」
「あ?」
ニヤリと笑みを浮かべた源氏に対し、玲司が被った戦鬼の緑眼は細く鋭く尖り、殺気を放った。
「おお、怖い怖い。流石は守人の正統後継者様」
「誰から聞いた?」
「誰から、とは?」
首を傾げてとぼける源氏へと一歩近づいた玲司は、拳を握り、苛立ちを募らせた。
「その情報を調べられる人間は限られる。タクをどこにやった?」
「タク? ああ、託人君の事か。そうかそうか、君たちは知り合いだったのだね」
飄々と語る源氏から視線を外した玲司は、血腥さが強く漂うこの場には似つかわしくない少女の姿を捉え、そちらに拳を向けた。
コンマ一秒にも満たない速度で抜かれた拳が、全裸で鎮座する少女の頭部に向かう。
肉を貫く柔らかな感触と、右手を濡らす血。
鼻先に絡まる鉄錆の臭い。
視界に広がる筋繊維と骨の破片。
戦鬼に血飛沫がぶつかり、ビチャビチャと不快な音が耳元で鳴った。
玲司は、何の躊躇いも無く人殺しの拳を振り抜いた。しかし、そんな玲司の正面には依然として、無感情で無関心な空っぽの瞳で中空を見つめ続ける少女が一人、傷の一つも受けず、机に腰掛けていた。
「流石に宝物を壊されては、温厚な私でもどうなるか分からないよ」
「温厚? 人の命を平然と奪えるような奴が、口にしていい言葉じゃないだろ」
補機を起動した膂力ならば、人の体など簡単に吹き飛ばすことができる。それを知っているからこそ、源氏は動いた。
玲司の拳を自身の左手で受けた源氏は、左腕を肘から先を失っていた。
衝撃で折れた骨が露出し、筋肉が断裂した歪な断面を見せる左腕から、滝のように血が流れ出た。
バケモノの真っ黒な血ではなく、鮮やかな赤にほんの少しの黒を浮かばせた人間の血だった。
源氏は額から同じく滝のように脂汗を浮かばせ、奥歯を噛み締め痛みに耐えていた。が、痛みに苦しむその顔の中で、一対の瞳だけは弓なりに弧を描き、愉悦から来る笑みを形作っていた。
狂ってる。
玲司の中で、蝗守源氏という元祓人の人間性が定まった。
「タクは何処だ?」
壊れたオーディオ機器では音楽が聴けないのと同じで、壊れた人間に何を訊いてもまともな答えなど返ってはこない。
無駄だとはわかっていても、玲司は疑問を口にする。それは単なる時間稼ぎで、源氏の寿命と直結していた。
蝗守源氏を殺す。
玲司の中で、その考えは目的という椅子に深く腰掛けた。
「もういないよ。私が殺した」
「そうか。西棟の一階に居たのがタクだったんだな」
「……補機有りでも、そこまで気配察知に長けている者は中々いないだろうね」
「時代遅れだなおっさん。脳みそにまで苔生えてんのか?」
避難所の誰かだと予想していただけに、放置した事を悔やんだ玲司は、そのまま血に染まった拳を握り締め、源氏の頭部目掛けて振り下ろした。
それを軽々避けた源氏は、右手に握ったリードから苔の鎖を伸ばし、肘から先を失った左腕に絡めた。
「生苔三焦」
深緑の鎖が幾重にも絡まり左腕全体を飲み込むと、古かしい像に苔生すように仮根が皮膚を貫き、その中の肉を穿ち骨へと絡まり広がる。
侵食するかのような光景を見せる深緑の苔は、固定が完了すると同時に中空へと踊り出た。
根と根を絡め、茎と茎を繋げ、葉と葉を擦り合わせて三次元に広がり、一つの形を成した。
失った肘から先の、人間の腕を模して固まった苔の塊は、窓枠だけが残った壁から入り込む風に靡いて、そよそよと緑の深い香りを血腥い教室に流した。
「ずいぶんと便利な能力なんだな」
「万能とはいかないけれどね。手足の一二本程度ならば、この通りだ」
朗らかな笑みを見せた源氏だったが、目は虚ろげに光を弱め、呼吸と心臓の鼓動は不規則に乱れていた。
それを見逃す玲司ではなく、今の行為がどれだけ体力と精神力をすり減らして成した事なのかを察した。
「なら、もう一本試してみるか?」
「いや、止めておこう。失った腕の形は戻せても、これでは感触を楽しむことができないのでね」
「安心しろ。次は足だ。逃げられるのも面倒だからな」
言うや否や、右膝の皿目掛けて蹴りを放った玲司だったが、その動きに源氏は反応した。
補機を起動しているからこその、人外の反応速度だった。
源氏が立っていた場所を蹴り砕くに止まった玲司は、跳び退いた源氏を追い、その首に狙いを定めて踵から叩きつけた。
更に後退する源氏は、鎖だけを伸ばして少女を庇いつつ、教室の壁を背に立つ。
「面倒だし、さっさと捕まってくれよ」
玲司が再度床を穿ち悪態を吐いたのと同時に、上の階に雷でも落ちたかのような轟音が響いた。
上階にいたバケモノの気配が一気に消えたのを感じる。
(迅が来たって事は、創瑚も来てるはず。……そうか、タクたちの所に向かってるのか)
迅の放った衝撃が天井に広がり埃を落とし、壁へと移り建材のかけらをパラパラと剥がす。
そして、玲司と源氏の意識を散らした。
伝播した衝撃によって、それまで互いに向け合っていた敵意も揺れ動き、標的の輪郭をぼかしたのだ。
「捕まってくれ? 私から見れば、そちらは私を殺そうとしているように見えるのだがね」
源氏は、汗だくのその顔に軽薄な笑みが浮かべ、命の輝きとでも呼べるだけの鼓動を、胸の奥底から感じていた。
対して玲司は、心底面倒くさそうに鼻から大きく息を吐き出した。その両手はジャケットのポケットに突っ込まれ、低く構えていたその姿勢を伸ばし、自然体で源氏を見る。
「別に。俺が求めてるのはいつだって平和的解決だ。自主するならそれで良し。骨の一、二本砕いて捕まえられるなら、それでもまあ良し。だ&けどそうじゃないなら、抵抗したから殺したって事にすれば、それはそれで解決だろ。結果的に平和にはなってるしな」
「何とも危険な思考回路を……守人の正統後継者様とは思えない。いや、大厄災を乗り越え、狂気に飲まれてしまったからと考えれば、辻褄は合うのかな」
敵意はなくなっても戦意を失ったわけではない源氏は、どこかに逆転の糸口はないかと、しきりに視線を巡らせた。
希望という名の糸を通すには、目の前にそびえたつ守人の存在はとても眩しかった。
暴力という名の光で全てを潰し、それまで見えていたはずの選択肢を全て漆黒の影へと沈める。結果、手元に残された細々とした異能の糸は結ぶ場所を見失い、見窄らしく右手に垂れ下がった。
「アンタほど重症じゃないさ。まあ、全否定しきれないのが情けない所だがな」
そんな源氏の思考を知ってか知らずか、玲司は源氏の話に耳を傾け、自身の心の内を明かした。
「いいや。それは本来、私のような先達が祓い切るべき遺恨だったんだ。それを君たちのような若人に、呪いという名の重荷にして押し付けたのは私たちの力不足故、申し訳ないとは思っている」
四方八方に飛んでいた視線が、玲司の翡翠の瞳を射抜いた。そして紡がれた言葉には、嘘偽りなど一つも無く、ただ源氏の本心が玲司の鼓膜を震わせた。
「だからこそ、私は止まれないのだよ。かつて押しつけたその呪いを、これ以上流行り病のように広げないために。私は導きの巫女様の御業を模倣し、追従し、そしてこれからの皆へと道標を遺す」
深く沈んだ後悔と、自身へと矛先を向けた怒りの渦の中心。そこには、狂気とでも呼ぶべき炎が揺れていた。
魂の色に染められた瞳を覗き込むと、時折こういった相手の感情が浮かび上がる事がある。
玲司が視線を絡めた源氏もまた、玲司の瞳から玲司の抱えたモノを垣間見た。
「君のような、若人たちに与えるんだ。人々の新たな可能性を。希望に満ちた未来を!」
互いに抱えたソレが反発して、玲司も源氏も互いに殺意を再燃させて対峙する。
水と油のように、性質が似ていようとも交わる事のないソレが、この場にいる二人の祓人へと囁いた。
目の前の敵を殺せ、と。
「私の使命だ。私がなさねばならないんだ。だから、ここで終わるわけにはいかないんだ!」
「目的と手段が混濁してんだよ。気付けこの馬鹿!」
源氏が鞭を打つかのように振るったリードが、教室の床の上で跳ねた。
軽快な風切り音と打撃音が教室の壁や天井に跳ね返り、上の階へと吸い込まれる。
迅が到着した上の階の状況は分からないが、静かになりつつあった三階に源氏の声は良く響いた。
「こっちだ、鴻鵠!」
源氏の一声で、天井の一部が震えた。
そちらに視線を向けた玲司は、そこでソレが天井などではない事に気付いた。
白いもちのような弾力性を持ったソレは、天井に開けられた穴を玲司に見せる。
三階の散らかった景色を映す天窓のような大穴は、二階と三階のそれぞれに広がっていた血腥い空気を混ぜ合わせた。
目では見る事の出来ない空気の流れが、この時の玲司には鬼の面越しに、確かに見えた。
しかしそれは、補機を起動しているからではない。
バケモノが退いた事で動き出した大気に流され、三階から無数の羽根が降り注いだからだ。
鮮やかな快晴の空を切り取り竹串に通したかのようなその羽は、パステルカラーの水色を毛先に溜めて、根本へ向かうほど輪郭を曖昧にする白に染まっていた。
風を受けてクルクル回る羽が、角度を付けてゆっくり舞い降りる羽が、ふらふらと左右に揺れながら降りる羽が、皆一様に玲司の頭上から落ちて来る。
「苔器万傷!」
戦闘中にも関わらず晒した間隙に、源氏のくたびれていながらも祓人としての鋭さを含んだ声が、玲司の危機感を煽った。
視界の外から迫る狂気が脳へと警戒を促し、鐘の音が脳内でけたたましく鳴り響く。
一瞬の硬直。その時見上げていた無数の快晴羽は、敵からの攻撃の前兆だと脳が処理した時には、事態は大きく変わっていた。
体が動いたのは、玲司の本能か。それとも、戦鬼の内に宿る何らかの意思か。どちらともつかない無意識の反応に、玲司の意識が一拍遅れで現状を把握する。
視界に広がっていたのは、現在も緩やかな落下を続ける快晴の羽。それらの隙間に体をねじ込んだ玲司は、中空へとその身を晒した。
全方位を羽に囲まれた位置に跳んだ玲司は、すぐ下方を通り過ぎた緑の流線を視界の中央へと持ち上げ、それの出所を辿る。
すると、右手に握った巻き取り式のリードを前面に押し伸ばし、殺意を滾らせた一対の苔玉とぶつかった。
視線と視線が交差する。その奇妙な感覚が脳へと達する前に、源氏は動いた。
苔の左義手を、中空へと躍り出た玲司へ向ける。すると、シュルシュルと音を出しながら木の幹に絡みつく蔓が伸びるように、苔でできた鎖が肘より先に伸びる義手から飛び出した。
「水浴噴孔・瀑布!」
源氏の行動を知ってか知らずか、頭上からもう一人の男の声が響いた。
その声に合わせて、全方位を囲んだ羽に変化が訪れた。
羽の軸になっている緑の竹串のその根元から輪郭を失い、拳大の水球へと変質を成す。
次いで、反転した景色を抱えるその水球が、何者かが内側から打ち破ろうとしているかのように大きく膨れ、薄膜が破れるような軽やかな破裂音と共に、内包した大量の水を衝撃波と共に玲司へと向けて解き放った。
源氏の攻撃、頭上からの奇襲。それらに囲まれ、防御も回避も不可能になった今、玲司は攻撃の一手に出ていた。
右足を大きく振り上げ、迫る苔の鎖へと正面から叩きつける。
「子御木蹴術、卯円乱翔!」
子御木草壁が考えた本来の『卯円乱翔』は、蹴術による乱撃である。しかし、現状それでは手数が足りないと、咄嗟に玲司は振り上げた足を真下へと落とした。
ふくらはぎを貫き、体の内側に異物が入り込む不快感が込み上げる。
喉の奥で、苦味と酸味を含んだ唾が飛び跳ねて食道を焼いた。
筋肉の筋一本一本に絡みつくナニか感じる。
血管に入り込み、体全身へ渡ろうとするナニかを感じる。
しかし、玲司はそれらをまとめて右足ごと、教室の床へと叩きつけた。
空気が下敷きとなって、最初に教室の床部にぶつかる。第一の衝撃が、足元から掬い上げる突風となって源氏を襲った。
伸びていた鎖がさわさわと騒ぎ立てて波状に揺れる。
不可視の抵抗が踵から爪先へと駆け上り、痺れる感覚が脳を焼いた。
ジリジリと迫る痛みを押し退け、玲司は振り下ろした足に更なる圧力を加え、その下に敷いた空気の塊を大きく歪ませ押し潰した。
一瞬の静寂が耳を穿ち、次いで轟音が鼓膜を震わせる。
足裏にへばり付く感触が体中を駆け巡り、その内に蓄えた大気に漂う全てが、第二の衝撃となって教室中に向けて噴き出した。
玲司を中心に暴風が渦を巻き、人外の膂力によって破裂した空気の塊は不可視の暴力となって、迫っていた水玉爆弾を吹き飛ばした。
次いで、風圧が玲司の足に繋がった苔の鎖を引き千切り、肉に絡まった根を掴んで引きずり出すだけに留まらず、血管の中に潜り込み脳を目指していた胞子まで捕まえ、教室の床にぶちまけた。
風の暴力が教室中の血と脂の腥い空気を巻き取り、上階と繋がる大穴を通して外へと飛び出した後には、息ができないくらいに空気が希薄になった教室がひっそりと取り残された。
台風が直撃した後に感じる胸にぽっかりと穴が開いたかのような静寂に、幾ばくかの虚無感。そして、生き残ったという実感と共に見上げる、灰色の空。
そんな自然災害後の感傷を胸に広げる景色の中で一人、動いた者がいた。
「あぁぁ……あぁああ……ぁぁぁあああ!」
喉を絞り、ひき潰したカエルのような声を洩らした源氏が、どさりと担いでいた土袋を落としたかのような音を立ててその場に崩れ落ちた。
二つの目からは涙が溢れ、唾を飛ばしながら教室の床を拳で叩く。その姿は理不尽な暴力によって、大切なものを失った者特有の、こちらにまで悲痛さを伝播させる空気を孕んでいた。
そんな源氏が見つめる先へと、玲司も視線を動かした。そして、それを捉えて理解した。
教室に置かれていた作業机は、全て折れ曲がり、粉々に砕けて教室の四隅へと吹き飛んでいた。
その中には、源氏が身を挺して守っていたあの少女が腰掛けていた机も含まれている。
中央から窓際にまで吹き飛んだのその机の残骸には、少女の物と思われる原型を留めていない臓物がぶら下がり、周囲にはこれまたどこかの骨の破片やら、肉の一部が削ぎ落とされていた。
『他者に精神の安定を求め縋った者は、その生命が絶たれた瞬間、精神的に死亡する。故に、どれだけ孤独に苛まれても、他者に依存することなかれ』
とある重度の薬物依存学者が遺した言葉だ。
そんな破滅主義の学者が語っていた言葉を思い出した玲司は、絶望を前に崩れ落ちた源氏を冷めた目で見下ろした。
苔の鎖に守られていた少女は、源氏の全てを抱えて、何も残すことなくこの世から去った。




