022 外様の剣士
今から十年前、俺は父と母、兄二人と姉一人、そして妹が一人の七人家族で、神奈川の辺境に住んでいた。
辺境と言っても人口はそこそこ多く、バケモノ被害が少ない集合住宅の一画に家を持っていた。
大厄災前で、隣の東京都にはまだ人がいた。そんな時代。
裕福とはいかないまでも、人としての平和な生活を送れていたのだと、今の生活を見れば思える。
これ以上上げる事がないそんな一般家庭の蓑虫家の前に突如、一体のバケモノが現れた。
集合住宅の一画に住んでいたのだから、正確には蓑虫家の前とは言い難い。が、それでもあのバケモノは確かに蓑虫家を襲った。
何故なら、あのバケモノは、俺以外を殺したから。
兄も姉も妹も。そして、当時は知らなかったが、帰宅途中だった両親も。
俺は、何も出来なかった。
誰も、守れなかった。
その日は、両親が仕事から帰るのを妹と一緒に待っていた。
兄も姉も、親の代わりに家事をこなしてくれていて、俺もたまには兄姉三人の手伝いをしていたけれど、その日は妹の相手をして過ごしていた。
なんて事はない、温かな日常の風景が記憶として残っている。
しかしバケモノは、そんな日常を前足を横に薙いだだけで奪って行った。
記憶にあるのは、何かがぶつかり爆ぜた轟音。次いで、家がバラバラと崩れる倒壊音。
どこかで弾けた瓦礫が、額に当たって血が流れた。
片目に血が流れ込んできて痛みを訴えたが、倒れて来た妹を思わず抱き止めた時、何が起きたのかを理解した。
バケモノに殺される。
そう思った瞬間、本能が痛みや恐怖を越えて体を突き動かした。
妹を抱き上げて走ったのは、きっと普段から「俺たちに何かあったら、お前が妹を守るんだ」と兄たちから教えられていたからだと思う。
そんな兄たちと姉の最後は、直に目にしていないから知らない。しかし、妹が背にしていた壁の向こうの台所に三人はいて、そこからは血の鉄臭さと、料理用とは思えない生臭さの感じる油の臭いが土煙と共に立ち上っていた。
息を乱しながら胸に妹を抱いて家を飛び出した俺は、土埃が舞い上がり視界を完全にふさいだどこかの空間を走り抜けた。
そして見た。
頭上十数メートル付近に浮かんだ二つの半月を。
抱き上げていた妹は、首から上を失っていた事を。
この後、俺は泣き叫んだのだっただろうか。それとも、そのまま気を失っていたのだろうか。
そこだけは、真っ赤な霧が顔の前に広がったようで、薄ぼんやりとしていて幾ら思い出そうとしても思い出せなかった。
ただ何となく、夢と現実の狭間のような場所から、二つの半月がゆっくり地上に地下近づき、黒くて長い指で、地上の何かを摘まみ上げるような仕草をしていたのは覚えている。
その後、アレはこっちを見て…………。
気付けば、救助に来た祓魔隊に保護されていた。
両腕に妹だったものはなく、ただ血に濡れて重くなった服がペタリと体にくっ付くその感触が、あれは現実だったのだと突き付けて来た。
それからしばらくは、何も考えず死人のように過ごした。
何も考えず、何も感じず、ただ茫然と、保護された施設の窓から灰色の空を眺めていた。
そんな抜け殻の生活を送っていたなった俺に、誰かが言って来た。
両親もまた、ローニンの進路と帰路が重なっていた事で殺されていたと。
ローニンとは?
あの半月の正体は?
伸びていた長い指は?
しかし、そんな疑問は、当時の壊れてしまった俺にとってはどうでもいい事だった。
数年後、抜け殻を続けていた俺の前に、一人の祓魔師が姿を現した。
薄霧の向こうで見えた二つの半月の正体。それが<ローニン>と呼ばれる名憑きのバケモノの双眸だったのだと教えてくれた。
伸びていたのは指などではなくローニンの鋭い牙で、恐らくは家族が食われているのを見ていたのだと、祓魔師の男は隠すことなく言い放った。
それから、その人も大切な相棒をローニンに喰われたのだと、寂しげな笑みと生気を感じさせない瞳の顔で語った。
俺は、その祓魔師の男の話を聴き、ただ静かに涙を流した。
妹を守り切れなかったと気付いた時に長居して以来、流していなかった温かい生を感じさせる涙だった。
その後、覚醒者となった俺は全てを包み隠さず教えてくれたこの祓魔師に戦い方を教わり、師として仰ぎ、そして死別する事で独り立ちを余儀なくされた。
「せ、先輩……どう、したんですか?」
背後から聞こえた後輩祓魔師の声で、現実へと引き戻された體斗は、眼前に空いた大穴を見て小さくため息を零した。
一直線に廃校を目指し、時折襲い来る放逐者の集団を祓滅して進んだ體斗と無美は、危なげなく廃校へとたどり着き、校舎の脇に開けられた大穴を前に立ち止まっていた。
正確に言えば、立ち止まったのは體斗一人で、無美はその一歩後ろを歩いていたが為に、體斗が止まったのを見て足を止めた状況だった。
「……いや、何でもない。行くぞ」
たっぷり数秒の間をおいてからそう言って、體斗は足音を殺して校舎の中へと踏み込んだ。
壁に開いた大穴が、吹き飛ばされた家を思い出させたなどとは言えなかった。
そんな體斗と少し離れて続く無美が、大振りのサバイバルナイフを二振り構えて廃校へと入った。
割た窓も、穿たれた穴も、ブルーシートで内側から塞がれていた校舎の中は、時代に取り残されているとは思えないほど人の営みを色濃く抱えていた。
幾つも積まれた殻の段ボール箱に、乱雑に放り込まれた空の缶詰類。そして、薄汚れた毛布は、誰かが包まっていて何か急用で弾き飛ばしたかのように、教室内の床に散らばっていた。
「百、避難所だな」
「です、ね」
確証を得たことで心の波が一段穏やかになった體斗は、色褪せ脆くなったスライドドアを開け放ち、中の様子を次々確認する。
しかし、どこも夜逃げでもしたかのような慌ただしさを見せるばかりで、守るべき居住者は見当たらなかった。
散らかった空き缶に、所々擦り切れた印字面が霞んだ雑誌の山、長いこと使っていたのだろう薄汚れて穴の空いた服。
とるものもとりあえずといった様子を思わせる痕跡ばかりが映る體斗の視界に、時折動くモノが視界の隅を通過するようになった。
ふと體斗がそちらに視線を向ければ、転がった空き缶の前にしゃがみ込む一つの影が。
それは、一人の少女だった。
首から上を失いながら、犬のぬいぐるみを抱いた少女。
いくら時が経っても色褪せる事なく、常に體斗の頭の中にいた少女が、視界の端で飛んだり跳ねたり走ったりと、無くした頭から血の飛沫を飛ばしながらはしゃぎ周る。
そして今度は、ブルーシートに覆われた窓辺によって何かを覗き込むようにつま先立ちをする。
ふらふらと弥次郎兵衛のように動く少女の危うげなバランス感覚に、體斗は咄嗟に手を伸ばそうとしたが、途中でそれに気づき、自身の頬を張った。
パチンッと乾いた音が教室の中で跳ね返り、體斗の脳を揺さぶった。
「何か、ありました?」
突然の音に肩を飛び跳ねさせた無美が、白く濁った青い瞳を俯きがちに體斗へと向けた。
「いや、なんでもない。それより、デバイスの準備をしておけ」
「は、はい」
もう、少女の姿はどこにもなかった。
體斗自身、理解はしている。今の自分の精神は、健康とは程遠い状況にあることを。
時間がどれだけ流れても、情勢がどれだけ変わっても、肉体を精神を繋ぎ止める『核』とでも呼ぶべきそれは、はるか過去のあの破壊された集合住宅地に忘れてきてしまったのだ。
そして、それを拾いに行くに理由も意味も、體斗は持ち合わせていなかった。
そんなこんなで現在、體斗は屋内の探索を行う際には必ずと言っていい頻度で、少女の幻覚を見る。
少女の幻覚。
兄姉との約束を守る事もできず、すぐ目の前で失った妹を、忘れる事も自分の中で消化する事もできずに幻覚として遺している。だのに、それを首のない少女として扱う自身に、體斗は自身に絶望感を覚えていた。
それ自体が鏡文字に結びついたトラウマをより強固なものとして、紐づいた文字の威力を増加させていた。
そう、自身では制御ができないほどに。
廃校の中は、様々な物音に溢れてはいた。が、人の気配は感じられなかった。
人の気配『は』感じられない。
幻覚が時折視界の端でチラチラと映って集中できない體斗ではあったが、上の階や廊下の奥にある教室から響いてくる、床をナニかが這い回る音や、何かを飲み下したと思われる嚥下音。さらに、暴れまわっているのだろう硬質なものがぶつかり、金属のひしゃげる破砕音を聞き取る事はできた。
「バケモノが大量にいるな。まさか、全員喰われたなんて言わないよな」
「ひぅ! 何か、今、そこの角に……」
短い悲鳴を上げた無美は、震える右手に握った方のナイフの切っ先を廊下の突き当たりへと向けた。
ブルーシートを貫通して通ってくるほんの少しの光を反射する銀の刃が向いているのは、昼過ぎだというのに、光を遮られて薄闇を下ろした廊下の突き当たりだった。
そこからもナニかの息遣いが聞こえて、體斗は警戒を強めたが、横目に無美を確認すれば目尻に涙を浮かべて竦み上がっていた。
「怖いなら、デバイス起動していつでも逃げられるようにしとけ」
「は、はいぃ…………<骸嗣>叫鳴」
ナイフの背同士をぶつけ合わせた無美の顔から、ふぅと表情が消えた。
一瞬、鏡人格かとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
甲高い金属音が物音に満ちた廊下で反響し、無音無光の空間が形成される。
元から日差しがあまり入れられていなかった廊下は夜の学校を思わせる暗闇に染めらた。
音も光も閉ざしたその空間は、視界に映る廊下の一本道に静謐さを漂わせる。
暗闇に染まった廊下に、音は一つもない。
それまで聞こえていたバケモノたちの活動音が、何処かへと飛ばされた。
もしくは、自分たちを含め、目の前の廊下だけが世界から切り離されたのだろうか。
自分たちの存在が世界に否定されたかと思えてしまうほどの静寂に、體斗の脳は警鐘を鳴らす。
その間にも変化は続いた。
真っ暗闇に染まった廊下の奥から、悲鳴が一つ上がる。
若い女性が上げたと思われる「キャアアアァァ!」という甲高い金属の冷たさを感じる悲鳴だった。
一つの悲鳴に意識が向いた瞬間、今度は足元から少年らしき声変わり前の音程の高い悲鳴が上がった。
悲鳴は伝染するように廊下中から次々に上り、幾層も重なり絶叫合唱へと変化する。
小さな花弁を散らせた火の小花が一つの風となって、無美の羽織った和風パーカーが大きく揺らす。
風に引っ張られるように、廊下に広がった闇と絶叫の合唱は、白く艶めかしい四肢を晒した無美へと殺到した。
無美の病人や死人を彷彿させる真っ白な腕や足に、青黒い痣が広がる。何者かの掌を思わせる、八手や紅葉、楓の葉の形をした痣だった。
「……体調に問題は?」
「ありません。それより、来ます」
静かに紡がれたその言葉は、いつも俯き、人からの視線から避けようとしている彼女のものとは一転して、大人しくも凛々しい誰かの声だった。
疑問が募る現象を目の当たりにした事で、思考が停止した體斗は無美の発した言葉の意味を掴み損ねた。
結果、脳内で警鐘が突然けたたましくなり出した。
視線を正面に意識を引き戻せば、先刻無美が指した廊下の突き当たりから、一体の放逐者が、爬虫類と人間を掛け合わせたかのような歪んだ頭を覗かせた。
右半分はヤモリの頭部で、突き出た鼻面とその下を横断した大きな口が、成人男性の左半分の顔を無理やり引き伸ばしてくっ付けられていた。
というよりも、元は人間の頭部だったモノが、半分だけヤモリに変わったかのような歪さを見せていた。
頭をその場につなげる首は人間のそれそのままで、その下には人間の体に限りなく近しいものが伸びていた。
数ヶ月は洗っていないのだろう汚れた服を身に着けたその胴体はしかし、右袖が肩から引きちぎられて、二倍以上に肥大化して灰褐色に変色した右腕を晒していた。
元は人間だったのでは? そんな疑問が體斗の思考の海に浮上した。
が、そんなものは前例がない。
人間の肉体をバケモノに変えるなど聞いたことがないと、冷静に腰の鞘から刀を引き抜いた體斗は正面で構える。
すぐそばでは、少女が裸足で駆け回るペタペタと走り回り、正面からは肥大化した右腕をズルズルと引きずり迫る。
二つの不快音が耳に飛び込み混ざり合い、不協和音となって鼓膜を揺らす。
正面に構えた刀が、細かく震えていた。
そんな事はお構いなしと、一直線に半身を引きずり迫ったバケモノは、射程圏内に入ったと見たのか、その右腕を体全身を使って振り下ろす。
大振りでのろまな攻撃を避けて、そのまま反撃しようと左に体の位置をずらした體斗は、背筋で虫が蠢いているかのような悍ましい悪寒に襲われた。
背骨をよじ登ろうと、細長い胴体を動かし這い回る虫に侵されている錯覚を覚えるほどの、悍ましい気配。
頭上から、ナニか来る。
それに気づき、後ろに大きく飛び退いたのは、殆ど本能に任せた咄嗟の行動だった。
両足が黴の生えた床に付いたと同時に天井が崩れ、土煙によって視界が塞がれた。
もうもうと立ち込める埃と黴の煙から顔を背けた體斗は、横目にそこにいる大きな気配を捉えた。
視界が塞がっていようと、残りの感覚全てが警告を発する。
目の前にいるのは、危険なナニかだと。
煙の中のナニかから更に横へと視線を移し、後輩の無事を確認した體斗は素早く考えた。
逃げるか。残るか。
ここが避難所だという事は、状況証拠から明らかだ。しかし、ここに住んでいた者たちの気配は何処にも感じられない。
既に逃げたか、喰われたと考えた方がいい。
であれば、ここで無理に戦闘を行うだけのメリットは何もない。
そう結論付けた體斗は、撤退の指示を出そうと無美を見た。
その瞬間、體斗が正面に捉えていた放逐者の立っていた場所で小爆発が起きた。ポンッと、溜まっていた空気が何かの拍子に飛び出したかのような、小さな空気の破裂音だった。
音からして、被害はないに等しかった。しかし、たった今撤退を指示しようとしていた體斗は口を半開きに動きを止める。
その顔には、嫌悪と憎悪、それにほんの少しの恐怖を滲ませた。
煙を煽った風に乗って體斗と無美の前に飛来したのは、黒に染まった小さな霧だった。
観賞植物に水やりをするときや、拭き掃除で見かける霧吹きでサッと吹きかけられたかのようなそれ。
但し、吹きかける水の色は黒に染まっていて、まるで腐った魚のような臭いが鼻先に触れた。
肌が粟立ち、正面に捉えたそのナニかの危険度を推し量ろうと脳が演算を勝手に始める。
その間にも、目の前の出来事は変化を起こす。
天井から降り注いだ瓦礫を踏み砕き、煙の暗幕を光沢を放つ深緑の腕で払い除けながら、ソレは姿を現した。
真っ黒な水たまりの上に、二股に裂かれた鉤爪が伸びた二本の脚が付けられ、それより一回り細く刺々しい四本の腕が、こちらに鋭利な殺気の切っ先を向ける。
頭部は、人間の頭に無理矢理昆虫の頭部を張り付けたかのような見た目で、相貌の位置には丸い楕円形の複眼が一対嵌め込まれて、こめかみのあたりから二本の片刃鋸を思わせる角が生えていた。
昆虫と人間のハイブリット。どこかで聞き覚えのあるフレーズが頭の隅でよぎった體斗と、ソレとの距離は、およそ一・五メートル。
どちらかが一歩でも踏み込めば、間合いに入るであろう距離で、互いの視線はぶつかり合っていた。
「クワガタ型のバケモノ……<カイガク>か」
體斗の呟きに、両肩を跳ね上げて反応を示した無美は、一歩後ろに後退した。
『祓魔隊共有掲示板』
<カイガク>
現在飼育が禁止されている外来種の昆虫を違法に所持しているとして、都市部在住の自称生物博の男を警察が逮捕した。この時、飼育されていた昆虫類は警察によって回収されているが、ネットではこの昆虫を使って生物実験をしていたのではないかと、突拍子のない憶測が飛び始めた。
ネットに書き込まれた「人と昆虫との交配でできた新たな人類」という一文から発展を繰り返していった憶測は、一人の創作者の手によって「人と昆虫による新たな種は、これからの時代を生きる全ての人々の英雄となる」というあらすじの物語が作られるにまで至った。
そして、『昆虫と人間のハイブリット』を主軸としたこの物語の主人公には『カイガク』の名が付けられた。
物語の中でのカイガクは、外来種のクワガタの遺伝子を取り込んだ改造人間という設定で、昆虫をそのまま人の形に近づけた容姿となっている。
後脚での二足歩行に前、中脚の四本を腕とした独特なフォルムが一定層に人気を博している。
戦闘描写では、一対の羽による高速移動、残りの四本の足と頭の大顎による切断攻撃が主に描かれている。
これに遭遇した場合、単独での祓滅は控え、最低でも小隊規模の人数で祓滅にあたる事。
體斗と向かい合って動きを止めたカイガクは、こめかみから伸びた一対の片刃の鋸と、口端から飛び出した鋭利な二本の牙をそれぞれぶつけ合い威嚇する。
ガチガチとぶつけられる鋭利なそれらの凶器からはその度火花が散った。
それを見た體斗の脳は、ひとりでにカイガクの硬度を推し量り、今握っている得物で祓滅可能かを演算する。
脳裏に表示された結果を眺めながら、掲示板通り、人の形に無理矢理クワガタを変形させたようなカイガクを前に、體斗は苦笑いを浮かべた。
(フレーズに覚えがあって当然だ。カイガクって確か、胡桃がやたら興味持ってた奴だ)
人の創作物が絶滅危惧種である原因の一つには、バケモノの誕生につながるというものがある。
しかし胡桃は、それを差し引いても是非商品化してほしいと声高々に言っていたと、體斗は記憶していた。
そしてその記憶の中の胡桃は、體斗にカイガクの強さを力説し、目の前に現れたら必ず私が祓うとも言っていた。
(あ~、今すぐ胡桃と持ち場を交換したい)
現実逃避に走るのも無理はないだろう。
カイガクの硬度は、刀一本では到底切断できるものではないと答えは出ている。更に、先ほどの黒い霧。あれは、ヤモリ型の放逐者の頭を握りつぶした事で発生したものだと、カイガクの足元の光景から答えを得た。
バケモノ通りの怪力に、刃を通さない鉄壁の全身鎧。それだけに留まらず、一対の羽根による高速移動に、鋭利な四本腕の爪撃。更にさらに、頭部の大顎による挟み込み、掴み、切断の中距離攻撃。
攻・防・速の全てを兼ね備えた万能型の名憑きを前に體斗は現実から目を逸らす。
本来、噂から産まれた蔓延型のバケモノは、共通認識の密度によって強さが左右される。その為、情報の撹乱や共通認識の上書きなどによって、弱体化の処置が施せる。
運が良ければ、そのまま実態を霧散させる事だって可能だ。
しかし、これが噂ではなく物語にされると、一人の明確なイメージが共通認識となる為に撹乱も上書きもできなくなる。
それが指すのは、実体化したその肉体を霧散させることは勿論、弱体化させる事がほとんど不可能になるという事だ。
因みに、物語だの創作物だのから実際にバケモノが産まれたケースなど、原典型を除けば片手で数えられる程度で、その対処法は確立されていない上、この手のバケモノは蔓延型ではなく原典型に分類すべきなどと言う意見まで研究機関からは上がっている。
つまりは、東京都を瘴気で閉ざしたバケモノに迫る強さを、目の前の鎧武者は持っているという事だ。
「ひぃぃぃ!」
悲鳴を上げ更に一歩後退した無美だったが、その体には死者の手形の痣が無数に憑き、カイガク同様、見ていて不安感を煽る外見になっている。
そんな人外たちに前後を挟まれた體斗は何も言わず、カイガクと対峙し続ける。
覚醒者のような色鮮やかな新緑色の瞳がたくさん埋め込まれた複眼は、見ているだけで気分が悪くなる。
節足の後脚が、水たまりに波紋を広げた。
来る。
そう感じた時には、両手に握った刀を横に構え直し、大きく踏み込んだ。
「子御木抜刀術、五月雨醜散!」
波紋が血の水たまりの縁に触れるよりも前に、體斗の振るった刃はカイガクへと触れた。
そよ風が、頬を撫でた。
体長一・八メートルはあるその全身鎧の中で、比較的柔らかそうな腹部へと刃を入れた。
眼前で巻き起こった突風によって、体全身が奇妙な浮遊感に包まれた。
目の前に広がった火花。
開花する火と血の赫い華。
耳に届いた金属音と風切り音、それから左頬から伝わる激痛。
指の先端から肩を通り抜け、電流を思わせる痺れが、刀を通して感じた硬質な感触と共に流れ込む。
頬から唇、そこから首へと流れて伝わる、人肌に温められた血の温度。
グルグルと回る。
カイガクの肉体に刃を通すことは、叶わなかった。その事実だけは、意外とすんなり受け入れられた。
遅れてやってきた衝撃が、腹部から全身に広がった時には、床を二、三点した後で、どの痛みがどれによるものなのかの判断が付きにくくなっていた。
今、何をされた?
グルグル回る視界と思考の中で、體斗は必死に平静を保とうと大きく息を吸う。
ズキリと電気の走った脇腹に手を当て、そこでようやく肋骨がいくつか折れている事に気が付いた。
「先輩!」
「くそっ! 無美、一度外に」
痛みをこらえて飛び起きた體斗は、左頬から流れる血をそのままに、何とか手放さずに握っていた刀を引き戻しながら無美を見た。
撤退の指示を出そうと声を飛ばす。しかし、それを遮る風が再度頬を撫で、ソレは視界に飛び込んでくる。
光沢を見せる深緑の全身鎧。その四本の細腕に生えた棘が、深々と體斗の左腕に食い込んだ。
一瞬の隙を突いたカイガクが、人間の視力では負いきれない速度で肉薄し、體斗の左腕を掴み動きを封じた。
その状況を理解する間に、カイガクは次の行動に移っていた。
食い込んだ棘が、枝葉を伸ばし成長する樹木の如く、皮膚を貫き、筋を断ち切り、筋肉の内部へと侵入しながら細かく枝分かれした。
細かな針が体の内側から突き刺すその感覚に、體斗は体を強張らせる。
次いで、強引に態勢を崩された體斗は、前のめりに倒れ込んだ。
カイガクはその勢いを利用して體斗を投げ込み、暗がりの続く廊下の奥へとへと投げ込んだ。
「せ、先輩!」
無美の叫びが、遠くから聞こえた。
気づけば廊下の一番奥にあった空き教室の中にいた體斗は、正面からの威圧感から咄嗟に体を横に転がした。
転がる瞬間、裂かれた左頬が床に触れ、視界一杯に星が散った。
積み上げられた机や椅子を倒しながら転がった體斗は回る視界の中で、たった今自分がいた場所にカイガクの大顎が突き刺さっているのを確認した。
切断に特化しているように見えたその大顎には刺突の能力もあるのかと、背筋に冷たい汗を流す。
(勝てる気がしない……)
體斗は、今までに名憑きのバケモノを祓滅したことがないわけではない。それでも、これまで祓ったバケモノと目の前のバケモノは全くの別物であると本能が逃走を叫ぶ。
折れた肋骨を庇いながら立ち上がった體斗は、教室の中をぐるりと確認し、それから深緑の全身鎧を捉えた。
警戒を新たに最善手は何かを必死に思考しながら対峙する。
(ここが避難所なのは確実だ。だとすれば、時間さえ稼げれば隊長が来てくれる)
迅と六郎が合流してくれるのがベストではあるが、この際、野暮でもいいから来てくれと祈らずにはいられない。
しかし、もし仮に避難民がこちらに向かっている途中の迅たちと合流した場合はどうなるだろう。
その可能性を見てしまった體斗は、もう一つの不安要素から頭痛を感じずにはいられなかった。
校舎の中へと入り、追いかけて来たのだろう無美が瓦礫を踏む音が聞こえる。
(撤退一択だろ。だけど……一人で大丈夫か?)
主に自分が。とは、たとえ思考でも明確に考えずに流しながら、カイガクの接近に合わせて刀を振る。
迫る節足の薙ぎ払いを弾き、大顎による突進を回避する。その度に体中から激痛が脳を襲い、四肢が震えるのを感じた。
両足から力が抜けるのだけは避けねばならないと、意識的に筋肉を動かし、両腕は柔軟に振るう事で、弾きから受け流しへと行動を切り替え、三度振るわれた攻撃をいなして移動する。
机と椅子が集められているらしい教室内では逃げ場が限られると、廊下に飛び出した。
対面の壁に激突しながら廊下へと飛び出した體斗を、驚きで見開いた瞳で無美が見る。
見ていて不安になる白濁した青い瞳が、體斗の視線と重なった。
カイガクの気配が迫る中、體斗は辿々しい足取りでこちら向かっている無美を見て声を張り上げた。
「役所に迎え!」
この状況を隊長に伝えてくれ。そう叫ぼうとしたが、それはカイガクの攻撃によって止められた。
ぎりぎりでその攻撃を回避した體斗は、再度廊下の中程を見る。
そこにさっきまではあった痣だらけの姿はなく、こちらの意図はしっかり伝わったのだとため息が洩れた。
決して、援護の一つもしない後輩に対して失望したなどとは思っていない。これで不安要素が一つ減ったと思っている。
そう自分に言い聞かせながら、體斗は刀を肩の高さに構え、刃の切っ先を目の前のバケモノへと向ける。
一方、體斗から殺意を凶器と共に向けられたカイガクは、その場から動かなかった。
まるで、自分にお前の攻撃は届かないと言いたげなその仕草に、體斗は目の奥で炎が激しく灯るのを感じた。
「子御木抜刀術、晒雨!」
覚えている剣術の中で、唯一にして高速の連続突きを放つ。
対してカイガクは、左の中脚一本で全てを防ぎ、逸らし、そして掴んだ。
一切傷を受けていないバケモノを前に、體斗は頭の奥で揺らしていた炎を一回り大きくする。
身体中の血管が膨張し、血に流れが加速するのを感じる。
左頬から鼻筋を通った裂傷から流れる血の量が増した。
(俺の力じゃ、コイツは払えない。なら)
覚悟は決まった。目の前のバケモノは、何があってもここで祓う。
先刻まで感じていた恐怖が、波が引いていくかのようにどこかへと消えた。代わりに迫るのは、闘争心という名の大波だった。
「悪いなバケモノ。お前をここから動かすわけにはいかないんだ」
避難所はもぬけの殻だった。つまりそれは、今この場がここら一帯で最も安全な戦場だといえる。
どれだけの被害が出ても、消える命の数は一つしか変わらない。
俺と一緒に死ぬか。それとも俺だけが死ぬか。
刀を握られ動けない體斗は、肉食獣のような鋭利な笑みを見せた。
隊長ならば、この程度のバケモノは祓っててくれるだろう。
そんな考えは最初に浮かんでいた。しかしそれは、避難民の被害を考えない場合の話だ。
もしも今この場に迅がいれば、目の前の全身鎧は瞬く間に切り刻まれて祓われていただろう。
しかし、體斗にはそれだけの技量が無かった。
所詮は、子御木の剣術を騙る偽りの技術。
體斗の目には、一つの諦めの念が浮かんでいた。
自身の命を捨てる。
ある意味では覚悟であり、ある意味では諦念と呼ばれる色彩の薄い激情がそこにはあった。
それをバケモノが感じるのかは誰も知らない。しかしカイガクは、體斗のその目を見て行動に移した。
互いに互いの命を狙う。終始不変のその目的だが、幕引きの手段は変わっていた。
一方は自滅確定でデバイスの起動を。もう一方は、全力で目の前の敵を屠ると、大顎同士をぶつけて熱を放出する。
體斗は握る刀にさらに力を込めてカイガクの脚を振り払い、呪いを唱える。
「<夢現>」
対してカイガクは、高温発光した大顎を開き迫った。
陽炎が、カイガクの輪郭を曖昧にしながら近づくだけで、體斗の顔には大量の汗が浮かんだ。
「か……」
「冥狂心酔」
一人の祓魔師と、一体のバケモノの意識の外から声が聞こえた。
既にいなくなったはずの後輩祓魔師の声が、頭上から響いた。
それは體斗の意識を揺さぶり、大顎を伸ばしていたカイガクの動きを止めるのに十分な圧を含んでいた。
天井から、冷気が流れ込む。
肌を冷やし、熱を奪うその冷気は暗幕を伴い姿を見せた。
天井が崩れ、瓦礫の中に紛れた感情の薄いその顔を體斗は捉えた。
それは、カイガクの丁度真上。
大振りなサバイバルナイフの背をぶつけ合わせて火花を散らしながら降下した無美の視線の先にいるのは、名憑きのバケモノ。
先輩としては当然、退避を命じなければいけない。戦ってはいけないと叫ぶべきだ。
だのに、白濁した瞳の前で火花を広げ、背後から眼下に暗闇を広げるその姿が、四肢に浮いた痣を晒し、重力に引かれる彼女のその姿が、體斗は美しいと思い魅入ってしまった。
今まで感じた事のない感情。それが體斗の思考を鈍らせ、眼前の景色に釘付けとなった。
動きを止めたのは、體斗だけではなかった。
意識外からの攻撃。それを考えていなかった、若しくは考える必要が無いと判断していたカイガクは、降り注ぐ瓦礫を苦々し気に二本の前脚で振り払うと、こめかみから伸びた赫く鋸を上へと向け、自由落下する一人の祓魔師へ向けて開いた。
しかし、赤光したその大顎が閉じられることはなかった。
無美の背中から広がった暗闇が、一足先に一階廊下に暗幕のように下ろされる。
次いで、体に浮いていた痣のいくつかが青白く光り、中空に同じ大きさの掌が手首までを浮かばせた。
半透明なその手は死者の手だと、體斗の直感が告げる。
血の気の失せた半透明の白い手首は、暗幕に包まれたカイガクの大顎と四本の脚にまとわりつくと、釘を刺したかのように固定する。
それは、一匹の昆虫で標本を作るのに似ていた。
金縛りにでもあったかのように動きを封じられたカイガクの脳天を、逆手に握ったナイフで五回突き刺した無美は、一階廊下に白く艶めかしい両足を付けると同時にナイフを順手に持ち替える。
一歩軽やかに踏み込み、八回の刺突を瞬く間に放った。
計十三か所の穴を空けたクワガタの体から吹き出した黒い血を避ける為か、軽やかなステップで後退した無美は、腰を低く両手のナイフを前面に構えた姿勢で體斗の横へと立った。
これが、カイガクが驚愕にその複眼を見開いた一瞬の出来事だった。
(こいつ、普通に隊長レベルに強いな……)
戦闘面においては、迅に次いで六郎が入ると思っていた體斗は、その間に自己の主張が薄い少女が入っていた事に目を見開いた。
「先輩その、大丈夫、ですか?」
「ああ……助かった」
隣に立った無美は、目の前で痛みにもだえ苦しむカイガクから視線を外さない。その横顔を見ていた體斗は、感じた事のない鼓動の高鳴りから、視線を正面へと戻した。
自分の中で燃え盛っていた闘争心の火事が急速にその日の勢いを失っていくのを感じる。それと同時に、不快感は感じられない不思議な鼓動が、耳元で大きく鳴り響く。
言葉にできない視線を逃がしたくなる気恥ずかしさが胸の内から湧き上がった。
幸い、目の前には祓滅対象のバケモノがいる。そちらに視線を固定した二人の祓魔師は、互いを確認することなく次の行動へと移った。
が、確実に祓滅できるだけの攻撃を打ち込もうと肉薄する。
「子御木抜刀術、雨天海嘯!」
「子御木短刀術、寅児双爪」
迫る三本の凶刃を前に、カイガクも咆哮を上げ全身の凶刃を向けた。
が、それらがぶつかる事はなかった。
體斗の刀がカイガクに触れるよりも先に、無美のナイフがカイガクに届くよりも前に、カイガクが向かって来る二人の祓魔師に自身の凶器を突き立てるよりも速くソレは現れた。
ソレ……紐状に伸ばされた苔が、カイガクの強靭な肉体を貫き、そのまま廊下に突き刺さった。
「なっ!」
「これは……都市で見た、苔?」
攻撃の手を止めた體斗と無美は、眼前で背中から腹部を貫かれたカイガクを見てさらに驚いた。
黒緑の全身鎧に瞬く間に苔が広がり、流血が続く穴を塞ぎ血を止めた。
腹部の八か所と、頭部の五か所の穴が苔によって埋まったカイガクは、それまで向けていた敵意を完全に霧散させると、體斗と無美を無視して体の向きを校舎の奥へと変更する。
體斗と無美の目の前には、無軽快な背中を見せる一体の名憑きのバケモノが。
「コイツっ!」
「て、體斗先輩……」
今にも刀を振りかぶって攻撃しようと踏みだした體斗を、無美は呼び止めた。
「どうした?」
「その、誰かいるみたいです」
「誰か? 人か?」
「おそらくは……二人、います」
「ソイツら、本当に人間か?」
人間の限界では捉えきれなかった気配を掴んだ無美からの報告に、體斗は顔を顰めた。
もし、それらに気付かずデバイスを起動していれば。
想像した景色に全身を粟立たせた體斗は、自身の無力さに苛立ちを募らせた。
しかし、思考は即座に切り替える。
ここで重要なのは、この廃校にいるのが人間であるか。そしてその人間は、保護すべき一般市民なのかだ。
「はい、間違いないです。片方は、子供だと思います」
何度も頷く無美を見下ろし、體斗は小さくため息を吐いた。
「だったら行くぞ。こんな所、長居するもんじゃないからな」
「はい」
先刻までカイガクのいた場所を見て、體斗は視線をその奥へと持ち上げ、それから右手に伸びた廊下へと体を向けた。
心のどこかで落胆している自分からは目を逸らしつつ、上の階を目指して移動を始めた。




