018 鎖苔蔓延
円お姉ちゃんがバケモノになって殺されるまで、私はたった一人残った母の笑顔を守るにはどうすればいいか。その事ばかり考えていた。
でも答えは見つからなくて、とても苦しかったし、とても辛かった。
祓い屋も自警団も当てにできなくなった時には、もう死ぬんだと思った。でも、そうはならなかった。
託人が、貨物列車の時刻表をどこかから手に入れてきたからだった。
避難所の男手はみんなこの貨物列車の通る線路に、さまざまな物を手に向かって行って、数を減らして帰ってきた。
その手には、鉄パイプの代わりに缶詰の詰まった箱を。
金属バットの代わりに、包帯や消毒液がたくさん入った医療箱を。
そして、マンホールを両手に抱えて行った男は、新しくて綺麗な穴の空いていない衣類を持って帰ってきた。
盗むのは悪いこと。その考えはあったけれど、避難所の焚き火で温められたトマトスープの匂いには、勝てなかった。
暖かくて穴の空いていない服には勝てなかった。
時々小石を踏んで痛かった地面を、靴を履いて飛び跳ねることができた事には勝てなかった。
そうして、私は悪い人になった。
悪い人には罰が下り、そしてもっと悪い人が近づいてくるのだと、その時の私は知らなかった。
ご飯が毎日食べられるようになって、暖かい服を着ることができるようになってしばらくした頃、円お姉ちゃんはバケモノになって祓い屋に祓われた。そして、一人の男が現れた。
居場所を失ったのだと言って助けを求めてきたその男を助けたのは、胸の端に引っかかっていた残り少ない善意だったのだと思う。
「——っ!」
鋭く突き刺された痛みで、意識が浮上する。
どうやら、日課の途中だったらしい。
見慣れた保健室の天井が見えて、ベッドに裸で寝ている事に気付くと、倦怠感が全身を襲った。
頬の筋肉がぴくぴくと痙攣するけれど、叫ぶのも泣くのも億劫で、ただ右太ももから伝わる痛みに、脳を好きなように弄ばせた。
私には、この時間を生きることが許されていない。
視界の端に映る男の気が済むまで、私は人形になる。
この男がここに来てから始まった日常だ。
食料も薬も服も、避難所全員に安定して行き届くようになったのはこの男のおかげで、今も母が笑顔でいられるのは、やはりこの男のおかげなのだから。
一度成功した襲撃が、二度三度と上手く行くわけがない事など、子供の私にだって分かった。
だから、考えた。
どうすれば、もう一度貨物列車から持ち帰ることができるのかを。
でも、私には何もできなかった。考えても何もできない私には、避難所のみんなを助けられなかった。
だけど、この男は違う。
避難所に来たばかりの頃、誰もこの男を信じていなかったけれど、自分も行くと言ってみんなと一緒に帰ってきた時に、避難所の評価は一転した。
その日から、私の日常には人形となる時間ができた。
この男のおかげなのだからと自分に言い聞かせて人形になった。
私にできることは、この男をこの避難所に留める為に体を差し出す事なのだと言い聞かせた。
だけど心は疲れ切っていて、死にかけていた。
この日常が早く終わることを望み、目の前の男が無惨に死ぬことを願っている。しかし、母にはやはり笑顔でいて欲しくて、それだけは守りたくて、結局今日まで何もできなかった。
今日もしばらく体を好きに触られ、腰を打ち付けられるたびに私は、自分の体が汚されて行くのを感じるのだろう。
覚悟はとっくにできている。諦めもついている。
しかし、男は太ももから指を引き抜くと、保健室の隅に脱ぎ散らかした服を着て、部屋の外へと出て行った。
今日はもう終了なのか。その疑問すら口にするのが億劫で、私はベットの上で目を閉じた。
脱走時に、すれ違った祓い屋たちに植え付けた能力が発動したのを感知したのは、避難所の女の中で一番若い、十二歳の少女の四肢に指を這わせ、その柔肌を堪能している頃だった。
「想定よりも早かったな」
自我を感じさせない、くすんだガラス玉のような目で中空を見るその表情はあまり面白くはなかったが、変に騒がれるよりかは幾分マシだろうと自分に言い聞かせた。
栄養不足によって発育の悪い今の時代にしては珍しく、この子は大当たりの豊作だったのだから。
ツルツルと滑る肌触りも、チクチクと指先を突いて反抗してくる感触も良いが、やはりこの歳故の高温によって温められたフワフワサラサラの新雪の感触を与えてくる実り豊かな畑は、何物にも変え難かった。
時間も激情も忘れ、幸福に包まれた世界を夢見ることができた。
だのに、背の高い若稲穂を指先で梳かす至福の時を邪魔され思わず爪を立てたのは、自分でも軽率だったとは思う。がしかし、それも仕方のないことだろう。
ここで憤慨しないほど、私の心は仏に堕ちてはいない。
手早くいつもの服を身に纏い、お気に入りの濃紺のスニーカーに足を通したところで、胸の内でざわつく苔たちが私に危険を知らせた。
「これはこれは……まさか、雨の魔女がいたとは。私の運の無さは、筋金入りのようだ」
クツクツと、笑みを浮かべて外に出た男は、真っ直ぐ会議室へと向かう。
元々は学校だった避難所に残る、唯一正しい用途で使用される部屋には、五人の屈強な男と一人の少年が座って待っていた。
「やあやあ、皆が不安に駆られるのもわかる。私だって、可愛い畑の世話を途中で止めざるを得なかったのだから」
いつもの如く軽口から始まる男一人語りに、会議室の誰もが閉口して眉根を寄せる。
「まあ、そんなことを言っている状況ではないね。もう時期、祓い屋と祓魔隊が攻めて来る。私たちは、どうやらやり過ぎたらしい」
会議室に広がった男の言葉を、一同は数秒かけて消化して行く。
そして始まるは、どよめきと怒号と殴打の合唱。
「どうする気だ! やはりあんな引きこもりにあんな機械を渡したのが間違いだったんだ。俺たちが生きていく中で、あれほど無駄な物はなかったんだからな!」
「いつもと変わらんだろう。殺して奪う。それだけだ」
「そもそもケネス。あんたがここにきた時からおかしくなったんだ。分かっているだろ?」
「おい、角人。お前もなんとか言ってやれよ」
「角人はまだ子供だ。いくら円の弟だからって子供に重荷を背負わせる気か!」
それぞれに喚く中で、十歳にも満たない少年は一人静かに、ケネスの苔が覆ったような、鈍い深緑の双眸を捉えていた。
「ケネスさん」
声変わりもまだの少年の、高い声が会議室の壁を打った。
「ケネスさんは、どうするおつもりですか?」
「私はここに残るさ。ここは私の家で、皆は大切な家族なのだから」
いつもの優しげな笑みは、練習して身につけた。
独房に入れられて暇だったから、人身掌握の術を考えた。
その一つとして、人当たりの良い笑みと口調は早々に習得した。
「けれどね、君たちに同じ道を強いるつもりはないよ。私はここに残り皆を守るけれど、皆はどうか安全な場所まで逃げてほしい」
会議室内でわめいていた数人の男たちは口を閉じ、少年は机の上で強く拳を握る。
悲しげに眉を下げることも学んだ。相手の気を引き、罪悪感を植え付ける事ができるから。
「さあ角人君、指示を。ここから逃げて、どこか別の避難所を頼るんだ」
「僕は……」
鼬狩角人は、筋金入りのお人好しだ。
自分が不幸になると知りながら、他人を助けようとするその心は、この時代には似つかわしくない蓮華を掲げる仏の心だ。
壊して救いたいと思うのも、無理からぬ事だろう。
堕落した仏の心など、この世界には必要ない。
必要なのは敵を斬り祓う力と、研いで鋭さを保ち続けるための、殺意を押し固めた砥石のような心だけだ。
「僕も、ここに残ります。祓い屋も祓魔隊も、同じ人間なんです。話せば分かるかもしれない。
勿論、みんな無事に保護してもらえるとは思っていません。次郎さんたちは、隣区の避難所を頼ってください。あそこはまだ物資に余裕もあって、区としての機能を持っていますから」
(自分より二回りも下の子供にこう言われて頷ける外道は、ここには一人しかいないんだよ。少年)
内心ニヤリと口角を歪ませるケネスは、誰にも気づかれないよう、吊り上がったその顔を心の奥底に封じて、表面には困惑を押し出す。
「角人君、君の気持ちは痛いほど良くわかる。けれどね、君一人が残っても意味はないんだ。だから君も、皆と一緒に逃げてほしい」
「ダメですケネスさん! これ以上……僕は家族を失いたくない!」
最年少にここまで言わせては、他の面々は何も言えないだろう。そう思ったケネスは目尻に涙を浮かべ、正面の心清らかな堕落した少年を見た。
「ありがとう、角人君。君は私が守る。命に代えても」
「なら、僕がケネスさんを守ります。命に代えても」
二コリと人好みする笑みを浮かべる角人は、次郎他、屈強な男たちに指示を出す。
幼いころから円と呼ばれる前代少女の働きを見て育ったからだろう。その指示に迷いはなく的確だった。
(だけどね少年。君がそうして必死になればなるほど、周囲の大人たちは気を病んで、バケモノの揺り籠になってしまうんだよ)
「角人、俺も残る。俺はこの男を信頼しない」
角人の隣に座していた一人の男。先ほど、お前のせいではないのかと訊いてきた男だ。
(君はそう来るよね。まあ、それが狙いで彼には残ってもらったんだけど)
「駄目です誉人さん。貴方は、この中で一番の力持ちです。避難には、貴方の力が必要です」
「大丈夫だ。ここ最近、周囲のバケモノは驚くほど静かで、隣の区までならここにいるメンバーで何とかなる」
「誉人、本当に残る気か?」
「それなら私も——」
「駄目だ。これ以上の戦力は残せない。お前たちは角人の指示通り、皆を連れて隣区に逃げろ」
誉人と呼ばれる四十代の男は、元々は角人の父親と旧知の中だったらしい。故に、娘と息子のこれからを託されていた。だのに、こうして自ら死地に残る事しかできない現状に、ケネスは高笑いが喉元まで出かけて口を片手で塞いだ。
歪に吊り上がった口角を隠すには、こうして嗚咽を我慢している風を装うしかなかったから。
「ありがとう誉人殿。三人、皆を守る為、互いに命を預けこの窮地を脱そう」
「ふんっ! お前を信頼していないと言っただろう。だが、信用はしている。使うだけ使わせてもらうだけだ」
「誉人さん、そんな言い方はケネスさんが……」
「大丈夫だよ角人君。私は、何時だって家族を守る為、私にできる事をするだけなのだから」
そうして、避難所の移動は決定し、この廃校には三人の男衆が残る運びとなった。
最後にあの畑を愛でたいと思うのは、当然の流れだっただろう。
ケネス——蝗守源氏は、深緑の瞳を仄暗く光らせながら保健室へと戻ると、空っぽになったベッドを見て頬が痙攣するのを感じた。
(私の許可なく逃げた? 何故? これだけ丹精込めて育てたと言うのに!)
源氏の心の拠り所は、成長期の女児の作況を見守り、時折指先でその穂先を梳かして愛でる事に合った。
しかし、目の前にその少女がいない。心を満たしてたあの景色に霞がかかり、胸骨の内側に押し込み心臓を温めていた記憶が、急速に熱を失って行く。
心の拠り所を他の生命に求める祓い屋はかなりいる。
愛玩動物、体のみの相方、人生を共有する相棒、自身の子供、或いは家族。
そう言った祓い屋の末路は、往々にして拠り所を失った瞬間に幕を下ろすと決まっていた。
しかし、まだ源氏の拠り所は形を止めている。生命活動を続け、愛する畑を死守してくれていた。
(彼女に植え付けた苔の反応は、まだ校舎内か……このまま逃げられてはもったいないし、しょうがないよね)
ニチャニチャと粘ついた笑みを浮かべた源氏が、パーカーのポケットから補機を取り出す。それは、持ち手が黒で、それ以外はつや消しの白に塗られた巻き取り式の動物用リードだった。
「<鎖苔>蔓延」
先の尖った鈎が飛び出したリードは、源氏の体を守るかのように、平たい苔の鎖部分で輪を作り、源氏の体を囲う。
「導苔繁茂」
リードを鞭のように振るった源氏の声に呼応して、苔で形成された鎖は空を切り裂き、鈎が保健室の割れたガラス棚を粉砕した。
次いで、遠く離れた場所に広げていた苔を一斉に動かし始める。
仮根でバケモノに固定した苔は、自身では動けない。その為、体を固定している土台を操作する。
かつて町と呼ばれていた崩壊した建物群の中にある避難所は、苔に体を蝕まれたバケモノによって包囲されている。
源氏の待機命令に従う異形のモノたちは、鼓膜を震わせる鎖の風切り音を聞いて、雄叫びを上げた。
「避難などできるはずがないだろう。私の大切な畑も、私の大切な家族も。皆、私の大切な手足であり、武器であり、薬なのだから」
深緑の双眸は爛々と輝き、蟻の巣の景色と荒廃した街並みを映す。
苔で支配した肉体の視覚情報を共有し、聴覚も一部同調させている源氏は、脳に直接流れ込む無数の情報を拡張された思考回路で分析し、これからの行動を決めて行く。
「蟻の巣内の苔は六割ほど焼かれたか。雨の魔女が想定以上の被害をもたらしているな。だが、こちらに祓い屋どもが来る頃には準備は終了しているだろう。ならば、何の問題もない」
源氏は一人、熱を失って久しい保健室のベッドに寝転がり、心臓が凍りそうなほど冷えている事を思い出した。
「あの子はこちらに。それ以外は避難民へ」
苔の群れへと指令を送る源氏は、一筋の涙を流した。
(胸が冷たい。思考が霞む。駄目だ。私はまだ、壊れるわけにはいかない。理想も妄想も、現実に引っ張ってこそ価値がある。まだ私は……この世界を生きていない)
事前に仕込んでいた命令同様、一度指示を出せば、鎖苔の能力による進軍は止まらない。状況が大きく動かない限り、これ以上やる事もない。
能力の行使による疲労が脳を襲い、源氏はほんの少しの休息を決めた。




