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013-1 ポチ

「おい玲司、今日は西地区の見回りだったはずだ」

「いいや、今日は南東地区のここを確認する」


 人がいなくなり、何時かは訪れるであろう自壊を待つばかりだった空き家から、若い男の声が二つ響き渡った。

 一階客間にて、客人に茶菓子などを振る舞っていたであろうテーブルに市内地図を広げ、今日の予定を確認するのは、十九歳の玲司と迅だった。

 これは、貝塚迅が祓魔隊第六部隊大隊長に任命されるより四年ほど前の話。


 当時、それぞれ祓い屋の師匠を失った迅、玲司、水面の三人は十七歳という若さで、協会から認定を受けた祓い屋として活動していた。

 無論、東京大厄災から四年以上が経過した現在でも、爪痕を深く残した日本という島国では安定した仕事も満足な報酬も得られない。それは、祓滅業でも同じだった。

 それでも動くのは、やはり師匠の仇討が一番の理由だったのだろう。

 この頃の祓い屋協会と滅魔委員会は、大厄災で失った戦力の補充と、後の大混乱で逃げ出した人材の引き戻しで、さまざまな管理が遅れていた。

 報酬を満足に支払うことができない親組織に不満を持った祓人と祓魔師が、同時多発的に退職したのが原因で、そんな現状では、玲司たちのような未成年者でも戦力として手元に残しておきたいというのが、二組織の総意だった。


 迅、玲司、水面の三人は、基本固まって行動していた。

 バケモノが予想以上に強敵だった場合、最低限一般市民の避難誘導と時間稼ぎを出来るようにするための措置として。


 そんな、時代を逆行した、かつての祓い屋活動を実践していた折、担当となった栃木の辺境市を、三人は大きく東西南北の四ブロックに分けてバケモノを討滅して回っていた。



 数日前、南東の一画で不穏な空気を感じると唐突に言い出したのは水面だった。

 元来の野生の勘に何か引っかかったと見た迅と玲司は、水面が感じ取ったと言ったその日のうちに、件の一帯を一日かけて見回った。

 しかし、その日は何も見つからなかった。

 その時は、水面の疲労が限界に達していると結論を出し、水面を一日休ませた。だのに、今日になって、今度は玲司がもう一度見に行こうと言い出したのだ。


「何かあると思うのか?」

「逆に訊くけど、今まで水面の勘が外れた事があったか?」


 水面曰く『女の勘』と呼ぶそれは、野生の勘として聞き流すには的確過ぎて、もはや予知や予言の類だと二人は感じていた。

 実際、迅と玲司は、水面の勘に何度も命を救われている。

 そんな彼女の勘が、あの日は珍しく不発に終わっていた。

 確かに、不審に思わなかったと言えば嘘になる。

 口にはしなかったが、迅も引っかかり、残り続けていた疑問ではあった。だが、元々出向く予定だった区域には、既にバケモノ出現の報告が入っている。どちらが優先かは言うまでもなかった。



「何でこっちなんだよ」


 予定通り西地区に赴いた迅を、玲司は必要以上に責め立てる。


「バケモノが確定で出現しているんだ。優先順位の問題だ」

「こっちを速く片付けて見に行けばいいじゃない」


 今日は水面も同行しての仕事だ。

 もし、バケモノ騒動で社会が混乱してしていなければ、今こうして三人並んで歩く様は、学生の散歩にでも見えたのだろう。だが、今はそんな平和な世の中でない。

 家屋に引き篭ろうが、外に出て働こうが、みな平等にバケモノの脅威に怯えながら生きていなければいけない。そんな陰鬱とした空気が蔓延した日本社会は、疲弊しきっていた。

 若手が頑張らなければ。そんな、悪循環を加速させるばかりの意識が根強く発芽しているのは、何も祓い屋、祓魔隊の二組織に限った事ではないだろう。

 絶望と疲労が強く現れた顔で、都市部から渡された補給物資を避難所へと運んで行く人を見る度、迅は心を痛めた。




「バケモノの討滅完了、烽師(ほうし)に連絡だ」

「了解」

「何か、あっけなかったな~」


 民家と同等の図体を持つクモのような見た目の放逐者の死骸の上で、玲司が仮面を外しながら空を仰ぐ。いつもの光景だ。

 一対一ならば今の時代、玲司は全祓い屋の中で五本の指に入る単独火力を持っている。対して水面は広範囲殲滅型で、今日のような標的が一体だけだと、力の制御に手間取り苦戦を強いられる事がある。要するに、水面の場合は市街地戦には向いていないのだ。だからこそ、壊滅した市区町村に蔓延ったバケモノを討滅する遠征には、積極的に声がかけられる。担当区域外に飛び出し活躍しているという点では、水面以上の祓い屋はいないだろう。

 そんな実力者の片割れの玲司はしかし、不平不満の溜まった顔で空を眺めていた。


「玲司、とっととそこから降りろ」

「ああ? 命令すんなよ。俺はお前の手下じゃねえ」

「喧嘩すんなよ男子ども。連絡は済んだから、後は死骸の引き渡しまで周囲の警戒でしょ」


 協会か委員会、もしくは連盟にのみ通話可能なスマートフォン片手にあきれ顔を見せる水面と、玲司の不満顔を交互に見た迅は今朝のやり取りを思い出していた。


「確か、南東の一画だったよな?」

「あっ!」

「見に行くの?」


 二人の食いつきの速さから、やはりあの区画の何処かに潜伏が得意なバケモノがいると踏んでいるのが見て取れた。


「二人がそんな不満顔するからな」


 長い髪をずっと伸ばしっぱなしにしていた迅は、そろそろ邪魔になってきたと後頭部で一つに結いながら烽師の到着を待つ。

 今の時代、個人経営の美容室などは不定期営業で、祓滅業をしていると自分で切る暇すらもらえない。だからこれは、あくまで急場しのぎだと、首に毛先が触れる奇妙な感覚を感じながら、迅は短く息を吐きだした。


 最近、ため息を吐く回数が増えた気がする。



 件の区域に移動し、そこで一人の少年を保護したのは、日が傾き、空がほんのり赤みかかり始めた頃だった。


「勢いで連れてきたけど、このガキ汚いんだけど?」


 拠点にしている一軒家の客間には、来客用ソファが置いてあった。そこに少年を寝かせたすぐ後、玲司が不満を洩らしていた。

 そんな玲司を無視して、迅と水面は保護した少年の身元が分からないかと、あれこれ話し合う。


「やっぱ無理だね。所持品は無し。見た感じ、服も今着てるのだけだし。多分親もいないと思う」

「あの状況じゃそうだろうな」


 公園の東屋で寝泊まりしていた少年。

 三人が見つけた時には、特異型のバケモノに食われそうになっていた。

 見つけられたのは水面の勘に従ったからだが、助けられたのは殆ど偶然だった。

 

「あの特異型のバケモノ、そこそこ喰っていたな」

「だね。まさか玲司の一撃を食らって死なないなんてね」

「何だよ。俺は手加減なんてしなかったぞ?」


 拗ねた子供のような事を言う玲司に、迅はため息を零し、水面はフォローを入れる。いつもの光景だ。


「分かってるよ」

「そんなお前の一撃を受け止めたバケモノの方に、問題があったと話しているんだ」

「ああそう」


 ふと何かを思い出したかのように、埃臭さの残る天井を見上げた玲司が、時間をおいてから話出した。


「あのバケモノ、多分人の存在そのものを食うタイプだったんだろ」

「存在を食う? 何それ」

「何か知っているのか?」


 玲司が意識を失った少年に視線を戻し、それでも意識は過去を見つめながら説明する。


「師匠が言ってたんだ。バケモノの中には、相手に成り替わろうとする個体がいるって。そいつは相手の情報を訊き出して自分のものにする。そんで最後には、本人を喰らって完全に成り替わる。らしい」

「じゃあこの子、結構危なかったの?」

「ああ。多分、なんかあって成り代われなくて、喰われそうになってたってとこだろ」


 玲司と水面がそんな話をしている間に、少年が目を覚ました。

 その後、少年には記憶がないと分かり、だからあのバケモノは成り替われなかったのかと、三人の中で合点が行った。

 記憶を失った少年は、玲司のふざけ半分の選択を真に受け、自身を『ポチ』と呼んだ。迅は頭を抱えたが、この流れの源流である玲司は、大変満足げに笑っていた。



「ポチ、今日はここからここまでの見回りだ。何か不審なもの、危険そうなものを見たり聞いたらすぐに教えてくれ」

「はい!」


 数週間後、迅も水面も自然に少年をポチと呼び、祓い屋の仕事を手伝ってもらっていた。が、いい加減、着替えを探さなくてはいけない。

 公園で保護してから、一番体格が小さい水面の服を着せていたが、それでも栄養不足なのか、平均よりも小さな体躯のポチには袖は広く、裾は長すぎた。

 結果、外に出るときには、保護した時のぼろ布のようなポチの着ていた服を着せるしかなかった。

 バケモノの捜索をしつつ、どこかで服を仕入れようと思考を巡らす迅の背後で、水面がポチを呼んだ。


「ポチ、ちょっとこっち来て」

「はい」


 おいでおいでをする水面に呼ばれて、トテトテ歩いていく様子を横目に見ると、なるほど子犬にも見えると迅はこっそり思った。


「いつまでも、外出着がその服だけだと不便でしょ。だから貰って来たよ。ポチ用の服」


 そう言って水面が紙袋から取り出したのは、黒地に差し色のコバルトブルーが入ったパーカーと、ハイネックのシャツ。それらのセットアップになっているカーゴパンツに、黒のハイカットスニーカーだった。だが、問題はそこじゃない。

 水面が持って来た紙袋だ。貰って来た時に入れたであろうその紙袋には、炎を思わせる円の中に一羽の鳥が山を抱いている家紋が印刷されていた。

 その家紋は『火ノ鳥山』と呼ばれる緋山(ひやま)家の家紋だ。

 緋山家一族は代々、祓い屋と祓魔隊にとても深い関わりを持つ。

 協会から正式に認められた祓い屋が、仕事着として仕立てて貰う装備の出所が、製作修理専門一家である緋山家だ。

 東京大厄災後、迅も玲司も水面も、緋山家から装備一式を支給されている。

 まだ十歳になったかどうかの子供には過ぎたお洒落だと言える。いやそもそも、それ以前の問題があった。


「おい水面、まさかポチを祓い屋として育てるつもりか?」


 玲司の疑問はもっともだ。所持品の一切がないために確認できていないが、ポチが覚醒者か非覚醒者かの確認も行えていない。もし後者の場合、水面は、現在進行形で掟を破っている事になる。


「そんなつもりはないよ。勿論、掟だって忘れてない。『民間人に緋山の作品を渡してはならない』でしょ?」

「それなら何で——」

「死んでほしくないからだよ」


 ポチの頭を撫で、墨色の癖っ毛を指先で梳かしながら、水面はさも当然だと語る。


「せっかくこうして知り合って、一緒に仕事するようになった。それなのに、覚醒の有無(ありなし)だけで死ぬ確率が上がるなんて、私は認めない」

「だな」

「お前らな……」

「それに、その辺は大丈夫だと思う。いつもの私の勘だけど」


 玲司も水面の意見に賛成だと、ポチに着替えてくるよう指示する。

 ポチは一体何の話なのかと首を傾げていたが、玲司から着替えて来いと言われて装備一式を抱えて隣室に行こうとした。


「ちょっと待て」


 それを止めたのは迅だった。


「なんだよ、まさかせっかく作ってもらった装備も付けずに、ぼろ布姿でバケモノの近くをうろついてろってのか?」


 玲司がポチの前に出て迅と向かい合う。


「違う。こうなったら予定変更だ。先ず、ポチの固有番号(こゆうばんごう)識別証(しきべつしょう)を取りに行く」

「どうやって? 名前と登録住所が分からなきゃ再発行も無理だよ」


 水面が驚きに目を見開いた。

 深海先生を思い出させる蒼い瞳が、いくつかの感情に揺れていた。


「まさか、ポチで新規登録しようってのか?」

「ポチかタマで決めさせたのに、お前がそれを言うのか」


 玲司の心底驚いたという声に、頭が痛いとこめかみを押さえる迅は、緋山印の祓い屋装備一式を抱えて不安げに視線をさまよわせるポチに、視線の高さを合わせて優しく声をかけた。


「ポチ。嫌かもしれないが、一度身分証を発行しよう」

「はい、行きます!」


 しかし、迅からの提案にすぐに明るい笑みを浮かべてポチは頷いた。


「そこで、一度ポチに何か別の借り名を付けなければいけない。何て呼ばれたい?」

「……ポチじゃ、駄目ですか?」


 玲司の笑い声が客間の壁や天井を叩き、水面はあっけにとられた顔で呆け、迅は完全に頭を抱えた。




「ポチさんで登録が完了しました。こちらが固有番号識別です」


 生気を感じない目をした市役所職員から、一枚のプラスチックカード——通称マイナンバーカードを受け取ったポチは、うれしさ半分、困惑半分で自分の顔写真が張られたカードを様々な角度から見ていた。


「迅お兄さん」


 三人それぞれ、名前の後にお兄さんかお姉さんを付けて呼ぶポチは、見た目は十歳だが、三年間の昏睡で、外見よりもさの残る口調で喋る。しかし、知能の方はそこまで幼さを感じず、元から頭の良い子なのだと迅は思っていた。


「どうした?」

「これは何ですか?」


 カードを受け取ったはいいが、どうすればいいのかと振ってみたり、天井の照明にかざしてみたりしているポチは迅にカードを手渡した。


「これは、国が発行してくれる身分証だ」

「身分証?」


 首を傾げるポチに、迅は説明を続ける。


「表向きは日本国籍を持つ全員に配布される身分証だ。しかしその実——」


 説明の途中で言葉を失った迅の顔を仰ぎ見るポチは、どうしたのかと口を開こうとした。が、それよりも速く迅がポチの手を取った。


「急いで拠点に戻るぞ」


 その声は深刻さ二割と、驚き二割を含んでいた。残りは、やはりと言った納得の感情だった。

  

「覚醒者だった」


 拠点の民家に戻り、今日の見回りを終えて戻っていた玲司と水面を見て、迅は片手に持っていたポチの身分証の裏面を二人に見せた。


「そうだな」

「ねっ、私の言った通り」


 玲司は半分どうでもよさそうに、水面は自分の勘が当たったと、ポチとハイタッチして喜んだ。


「迅お兄さん、そのカードがどうしたんですか?」


 ポチが何の説明もなくて不安だと、瞳を揺らして迅を仰ぎ見た。


「ああ、すまなかったな。説明の続きをしよう」


 ポチをソファに座らせ、迅と水面がそれぞれポチを挟んでソファに腰掛ける。対面には玲司が一人座った。


「先ず、市役所でも説明したが、このカードの表向きの意味は身分証だ。しかし裏向きの目的は、覚醒者を見つけるための発見装置として全国民に配られているんだ」


 市内を四分割した地図を広げたテーブルの上に、迅はポチの固有番号識別証を裏面を上に置いた。


「覚醒者って何ですか?」


 ポチの疑問に答えたのは、玲司だった。


「覚醒者ってのは、本人が死ぬよりも耐え難い何かに会った時とかに、ふと見知らぬ力に目覚めた奴の事を指すんだ。そんで、覚醒者がこのカードに触れると、裏面の端にこっそり取り付けられてるライトが光る」


 テーブルの上に置かれたポチの身分証は、左下端で緑色の光が点灯していた。


「この光が、覚醒者か見分けてるんですか?」

「ああ。だけどな、重要なのはこっちだ」


 ポチの質問に頷いた玲司が、点灯した固有番号識別証をテーブルから拾い上げると、ライトの点灯している左下の端を指先で摘まむと、カードから引き抜いて見せた。


「これは?」

鏡板(ペルソナプレート)って呼ばれる覚醒者だけが引き抜いて使える特別な鏡だ」

「その鏡面に色の付いた模様が出ていれば、ポチも人外の力が使えるの」


 玲司の説明に水面が補足する。それらを聞いたポチが、玲司から引き抜かれた鏡板を受け取ると、鏡の面を覗き込んで目を輝かせた。


「模様、出てます。水面お姉さん!」


 キャッキャと無邪気にはしゃぐポチに、玲司は頭を掻いて困った顔をした。迅はそれらをただ黙々と眺める。


「だけどなポチ、その鏡板はそのままじゃ使えないんだ」

「どういう事ですか?」


 飛び跳ね喜んでいたポチが玲司を見る。


「俺たちの場合は仮面だが、バケモノと戦う時に被ってるのを何度か見てるよな」

「はい。玲司お兄さんのは、着けた途端に緑に光ってどこかに消えてます」

「ああ。それはただ、人間の視認できる速度を超えて移動してるだけだ」

「へ?」


 玲司の説明を受け、目を丸くするポチ。そんなポチに、水面が鏡板装填補機(ペルソナデバイス)の説明やその他の補完を行った。


「つまり、覚醒者は身分証の中に隠された鏡板を取り出せて、それを補機と呼ばれるデバイスに挿す事で、バケモノと同じような力が使えるって事ですか?」

「そう。ポチは頭がいいねぇ」


 水面がポチの頭を撫で、それにポチがはにかむ。今日までで何度か見た光景だ。


「とにかく、今のポチじゃ覚醒者の力は使えないけど、重要なのはポチが覚醒者だったって事だけだから問題なし!」


 ビシッ、と親指を立ててグッドサインをポチに向けた水面は、次に迅を見上げ両手を伸ばす。


「ってことで、ポチの装備は?」

「そうだな。覚醒者なら何の問題もない」


 紙袋に入れて二階の倉庫として使用している寝室に置いてあることを告げると、ポチは部屋を飛び出して行った。


「二人はどう思う」


 ポチが扉を閉め、二階に駆け上がって行くのを確認した迅が、真顔で玲司と水面を見る。そこには、ポチに説明していた時の暖かな雰囲気はなくなっていた。


「何度見てもないよな、模様……」

「でもこれ、光に翳すと確かにあるっぽいんだよね」


 鏡板に刻まれる鏡文字には、色がついている。この色は『魂の色』と呼ばれ、色によってその持ち主がどんな人物か計る事ができると言われている。


「普通に考えたら透明って事だけど、透明なんて他にいたっけ?」

「水面、確かにそこも不思議ではあるが、今重要なのはそこではない。ポチは記憶を無くしていて、何があったかも覚えていないという所だ」


 覚醒者の条件、若しくは前提条件とでもいえる『死ぬよりも苦しく辛い経験』、つまりはトラウマによる覚醒は、本人の記憶に依存するという研究結果が出ている。


「つまり、トラウマを抱えた者が覚醒者になる。しかし、その覚醒者が記憶を失うと、鏡板に刻まれた鏡文字は消え、力を使用することができなくなる。

 研究機関から、正式に発表されている研究結果だ。」

「だけど、ポチはその研究結果から外れて、記憶が無いはずなのに覚醒者のままって事が問題なんだろ?」


 玲司の言葉に、迅は黙ってうなずいた。


「じゃあ、ホントはポチは記憶を失っていなくて、私たちに噓を吐いてるって?」

「それか、本人が気づいていないだけで、記憶が無くなってなんていないとかな」

「いや、水面の言った話には信憑性がある。だが玲司、お前の話はさっき話した研究結果と矛盾が生じる。おそらくだが、無意識に記憶に蓋をした場合も、記憶を失った覚醒者と同じ結果になると俺は思う」


 迅、玲司、水面は、テーブルの上に置いたポチの鏡板を見下ろしながら、腕を組んでそれぞれ唸る。

 正直、覚醒者かどうかの判断の他に、ポチの過去を知る何かを得る事ができるのではないかと、三人は密かに期待していたのだ。

 しかし、実際に得られたのは、研究機関が正式発表した結果からポチが逸脱している事と、見たことのない魂の色をポチが持っていたという事だけだった。

 疑問の風船が膨らみ増えたが、一つも割れずに天井に浮かび張り付いているかのような現状に、玲司と迅は天井を仰ぎ見て、同時にお手上げだと匙を投げた。

 因みに、水面は最初からこれらの疑問を重要視していないため、ポチの着替えが終わるのを今か今かと待っていた。


「分からないものは今は分からないし、後回しでいいんじゃない?」


 ポチの鏡板を拾い上げた水面は、光の反射で模様がほんの少し浮かんで見えるプレート部を識別証内に挿し込み直しながら、飄々と語る。

 この水面の気軽さが、時々迅と玲司を苦しめ、時々救って来た。

 今回の場合はどちらなのか分からず、迅は水面が差し出してきたポチの固有番号識別証を受け取り、ため息を吐いた。


「そうだな。ってか、それよりその身分証だよ」


 玲司は水面の意見に賛成らしく、迅の受け取ったカードを指差し、カードに印刷されたポチの個人情報を覗き込んだ。


「何で住所が俺の事務所に設定されているのかは、この際置いといてやる。何で、名前がポチ単体で通ってんだよ」

「お前が、ポチかタマかを指定したんだろ」

「マジかこいつ」


 迅と水面のドン引きに、玲司は違うと首を振る。


「そうじゃなくって、何で名前がそのまま通って、身分証が発行できるんだよって話をしてんだ」

「ああ確かに。まさか、玲司が雑に付けた『ポチ』が本名だったとかじゃないよね?」

「そうじゃない。今役所では、市民の避難誘導や死者の身元確認で仕事が滞っているんだ。そんな状況で身分証の再発行や新規発行を一つ一つ精査していては、役所全体が崩壊してしまうとして、規制が緩くなっているんだ」

「それ、結構致命的じゃない?」

「国主催で海外の亡命者たちの為に、移住無制限パーティが開催されてるってわけだ」

「こんな状況の国に住みたい奴がいればの話だがな」


 祓い屋の仕事が溜まる一方なように、役所にも仕事が積りに積っている。そんな中に、記憶を失った少年が一人、ポチという新しい名前で身分証を発行したところで、職員は不審に思う暇も精査する余裕もない。


「着替えてきました」

「おお、私の目に狂いはなかった。似合ってるよ、ポチ!」

「馬子にも衣装だな」

「先に言っておくが、覚醒者だと分かったからと言って、戦闘に参加させるつもりはないからな」


 三者三様の返答を貰い、ポチははにかんだ。


 ポチが覚醒者だと判明して二年が経った。この頃にはポチの知能は年齢通りにまで戻っていた。


「ポチがここまで器用なのも、やはり大厄災前に誰かから教わったからなのか?」

「さあ、それは僕にも分かりません」


 十三歳にしては器用で知識の幅が広いポチは、玲司がどこからか拾って来た中型二輪車を拠点の民家横の車庫の中で、一人修理していた。


「そもそも、ポチの記憶喪失は他とは異なっているみたいだからな」

「そうなんですか?」

「通常の記憶喪失の場合、日常的に使用する知識や一定の常識は消えないらしい」

「ああ確かに。僕の場合は、どちらも抜けてましたからね」


 バケモノやこの世界の常識として分類される様々なことをポチは忘れていた。知らないわけではないと分かったのは、一つ一つ教えた時に、これは覚えている。や、言われて思い出したと言った事が何度もあったからだ。


「戻ったぞ~。おっ、もしかしてもう直ったのか?」

「んっと、もう少しかな」

「お前、何で拾ってきた張本人が手伝わないんだ」

「いやだって、俺不器用だし」

「最初は玲司も手伝ってくれてたんですけどね」


 いつの間にか、ポチは玲司に対しては敬語が抜け、呼び捨てになっていた。おそらくその原因となったのは、今目の前で天井から吊られている骨だけの鉄の馬だろう。


「玲司が修理を手伝うって言って少し目を離したていたら、どういう訳か、部品単位にまで分解されてたんですよね」

「俺にも分からん。気づいたら、全部のねじ外して並べてた」

「どういう理屈だそれは」

「僕も驚きました。まさかエンジンまで一つ残らず分解されて並べられているなんて。でも、それ以上に驚いたのはどこにも傷を付けずに分解してたって事です」


 呆れて声も出なかった。素人に直せるような物でもなければ、傷一つ付けないで分解できるものでもないはずだ。

 しかしそれと同時に、確かに玲司の歪な不器用さは昔からあったなと、迅は古い記憶を思い返した。


「でも、そのおかげで修理は楽になりました」

「いや、何の資格も持っていないポチが何故、部品レベルにまで分解されたバイクを修理できるんだ?」

「そりゃお前、ポチは器用だからな」


 もう何も言う気が起きなかった。

 不器用で触れれば全てを分解する玲司と、完全にバラバラにされた機械を設計図も見ずに組み直してしまうポチの謎の技術力を前に、迅は説明不可の疲労を感じた。


「戻ったよー。あっポチ! バイク直った?」


 もう一人騒がしい人物が戻って来た事で、迅の疲労が限界を越えた。


「お前ら、今日の報告はどうした?」

「報告って、別に私たち祓魔師じゃないし~。何でそんな上下関係を築きたがるかイミフ~」

「お前ぇ、まさか俺たちよりも上だって、そう言いたいわけじゃないよなぁ?」


 自分の髪の毛先を弄りながら不満を洩らす前時代的なギャルを彷彿とさせる水面と、その悪ふざけに乗っかり、前時代のチンピラを演じる玲司。

 二人の頭頂部に順番に拳を落とした迅は、癖になったため息を吐いてから客間に戻った


「俺たちは確かに祓い屋で上下関係はない。でも、互いに得た情報を話し合い、明日の予定を立てる必要がある。何か文句はあるか?」

「異論なし」

「私も~」


 玲司も水面も、既に疲労が限界を越えている事には迅も気付いている。しかし、東京大厄災から六年が経過した今でも、バケモノの脅威は変わらず続いていて、祓い屋と祓魔隊の人員不足が加速度的に大きくなっているのが現実だ。

 人手不足の状況が続く中、ここにいる三人が休める(いとま)など無い。

 だからこそ、悪ふざけやポチを構う事で少しは精神面を回復しようとしている二人の考えも、十分理解している。だが、それで重要な情報を共有し忘れては、明日を生き残ることはできない。


「ずっと気を張り続けろとは言わない。ただ、メリハリは付けてくれ」


 今日何度目かのため息と共に吐かれた迅の本音に、玲司と水面は顔を見合わせ、やりすぎたかと目線だけで内緒話をする。しかし当然、九頭玲司(くとうれいじ)貝塚迅(かいづかじん)丑海水面(うしうみみなも)は幼馴染の三人組だ。話の内容は迅にも伝わっている。それについては二人は何も言わず、言外で話し合った。


「今日は、西地区とそこから北地区までの間にいるバケモノを片っ端から祓って来たわ。種類としては蔓延型の群れって感じ」

「俺は東側だな。ただ水面みたいに広範囲にはできなかったから、多分いくらか取り逃がしてると思う。危険な奴は優先的に祓ったから、二、三日の猶予は確保済みだ。あっ、あと、捕食型が目の前で産まれたから洗浄依頼も出しといたからな」

「悪いな二人とも。無茶を頼んでいるのは、重々承知しているつもりだ」


 迅は残りの南区域でバケモノを祓い、その後、他の幾町村を担当している祓い屋や祓魔隊との連携を図るため、協会や委員会と話し合いの場を設けて走り回っていた。


「今日はもう休もう。明日も早い」


 二十と少しにしては、過剰な疲労を溜めている三人をこっそり見ていたポチは、自分にできる事はないかと一人焦っていた。

 三人に守られながら生きている自覚はある。そして、自分にできることは事務所内の清掃と、近隣の状況を確認して報告することぐらい。正直、それだけでは三人の負担を軽減しているとは言えないと思っていた。


 迅、玲司、水面のために何かしたい。そう思いながらも、目の前のバイクの修理以外にできる事がないと、悩みながら手だけは動かし続けた。

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