009 情報屋の諦念
玲司が一方的に情報収集の依頼をしに来た後の託人の家には、一人の青年の叫び声が木霊していた。
「くっ、そ! くそくそくそくくそっ! あいつはいっつもそうだ。ぼくの話を一切聞かない、暴力を盾に好き勝手しやがって。くそくそくそっ——だぁ!」
怒りに任せて机を叩き、握っていたスマートフォンを投げた瞬間、机の上の吊戸棚から、トマトスープの缶詰が一つ、託人の頭頂部を殴打した。
「ぃぃぃいいつつ…………こいつっ!」
殴打された頭頂部を掻きながら、何のラベルも貼られていない銀色の缶を引っ掴み忌々しげに睨んだ託人は、それ叩きつけようとして固まった。
「…………円」
青年の脳裏に浮かぶのは、一人の友人。かつて自警団を束ねていた彼女は、皆から向けられる圧に耐えながら、決して笑みを絶やさず、何時だってこちらを明るくさせてくれた。
こんな絶望的な状況になった現代において、彼女は確かに一人の英雄だった
鼬狩円はもういない。その事実が、何度も託人の胸を締め付けた。
この缶詰のスープは、別に美味くはない。ただ腹を満たし、ある程度の栄養と暖を取る事を目的に、かつての各市町村区に配布、販売されていたものだ。
しかし今は、貨物列車から奪い、自警団内で配給している。
託人も円も、金さえあれば、この缶詰を普通に買いに行っていただろうか。もしくは、まだここが町の判定を受けていられれば、強奪などという野蛮な行為に及ばなくてよかったのだろうか。
栃木の都市部から一時間とかからず来ることができるこの場所は、もう町の物差しで見られることはない。
東京大厄災で経済が混乱したその衝撃は、辺境に行けば行くほど醜く鋭利な牙を剥いた。
都市部に引っ越す者。家族が動けずその場に残る者。バケモノに喰われて命を落とす者。そのどれかに分類されるくらいに、人間の社会は崩壊した。その結果、政府は元々の県庁所在地を各都市と認定し、そこから県境の間の中にある一定の人命が残っている場所のみを市町村区と認め、少数を切り捨てた。
この町もその一つだった。
前は名前のついた町だった。それなのに、バケモノの大量発生、隣の区との自警団同士の殺し合いと奪い合い。それによってもたらされた人口減少が、ついに政府の引いた一線を下回った。
この政策に異を唱える者は多かった。しかし、心のどかかでは納得していた。
資源には限りがあり、全員に補うなど到底不可能だと。
二万人が暮らしていた町から、千五百程度にまで減ったとしたら、そんな扱いを受け入れるしかなかった。
(力を持つものは肥え太り、力のない者は互いに蹴落とし合う。それが、人間の築き上げた社会の限界だ。
強きを挫き、弱きを助ける。そんなのは弱者の妄想の中でしか行われない。
ノブレス・オブリージュは、自身に見返りがある前提での考えだ。慈善なんかじゃない)
ラベルのない簡素な缶詰を見下ろす託人の目は、何処までも冷め切っていた。
二十八の生存者が集まる避難所に、政府の援助は望めない。ならば、自力でなんとかするしかないと考えるのが普通だ。
今なら分かる。まだここが『町』と呼ばれていた時に都市部か他の安定した市区町村に移住し、貧乏ながらも人として生き延びればよかったと。
しかし、もうそうするだけの自由も理由もなく、故に託人はこの地に残り、自警団を支援していた。
かつて何処かの村か町かで始まった自警団と呼ばれる自衛手段。その情報を仕入れたのは、他でもない託人だった。
「なあ円、知ってるか? 自警団」
「自警団?」
東京大厄災から始まった経済の混乱はその後、大量発生したバケモノに、対抗できるだけの安定を取り戻せてはいなかった。
日に日に崩れて行くいつもの町並み。方々から響いて来る悲鳴。バケモノが甲高く上げる恐ろしい雄叫び。
町の中にあったいつかの平和は誰にも守れず、誰にも救うことができなかった。
家族と逸れた託人は、一人なんとか避難所として門を開いた母校に逃げ込んだ。
そこに、希望はあった。
「タク?」
「円? 良かった、生きてた」
鼬狩円は、生きていた。
その腕に、まだ一歳になったばかりの弟が抱かれ、毛布を肩にかけていた。
「……まさか、そんな…………おじさんと、おばさんは?」
駆け寄り腕に抱かれた赤子を見ながら、託人は円に訊いた。しかし、円の顔を見た瞬間、全てを悟った。
円の両親はバケモノに喰われていた。そして、託人の母親も。
それから三年後、円は避難民のまとめ役である託人の父の補佐をして、託人は町の外や都市部の状況を探るようになった。
この三年で、国は変わった。
元は四十七の都道府県があったが、現在残されているのは四十四府県。
一都は瘴気に埋もれ、人間の生きていられる場所ではなくなった。そして一道は北国の植民地となり、南の一県は大陸の中にある大国によって奪われた。
しかし、奪われた最北の一道と、最南端の有人島を持つ一県は現在、どこの国にも属さない孤島として扱われている。
理由は、その地の土を耕そうとした北の大国と、その地に残された民を支配しようとした大陸の国が、見知らぬバケモノに襲撃され、撤退を余儀なくされた為だった。
そうして、一道一県は人間の手が届かぬ、自然へ帰した。
国の現状も悲惨ではあるが、目下の心配事は、避難所に届く補給物資が全く足りていない事だろう。
他の地区に移動することも考えられたが、そこに辿り着くまで一度もバケモノに遭遇しないなど不可能で、結局避難所の学校からは動けなかった。
何か解決策はないのかと調べているうちに辿り着いたのが、先の言葉『自警団』だった。
最初は、上手く行っていた。
町に残ってくれていた十にも満たない祓い屋を中心にチームを分けて、避難所周辺の安全を維持したことで、動ける範囲が広がった。
他の地区に行っては国からの安定した補給を望める場所に皆で行かないかと提案したり、安全な拠点の数か規模を拡大して多くの人が集まれるようにしようとしたり、明日を迎える方法を模索できるくらいには、目の前の危険が取り除かれていた。
祓い屋も自警団も互いに手を取り合い、生き残ってきた。
しかし、そんな日々は突然に瓦解する。
自分たちだけでバケモノを殺せると勘違いした自警団は増長し、報酬に不満を抱いた祓い屋は避難所を離れたのだ。
自分たちなら、都市部同様の町を興せると言い出す者がいれば、他所の地区から物資を奪おうと声高々になる者もいた。
それらの中で最悪だったのは、働きに対して配給される物資が足りない。自分をもっと敬え、崇めろと傲慢さを前面に押し出した祓い屋が現れた事だった。
一人が言い出せば、自分も自分もとなるのが人間の性。
その時の自警団のまとめ役は託人の父だったが、激昂した祓い屋に上半身を吹き飛ばされ、他にも多くの避難民が殺され、気付けば祓い屋たちは一人として残らず姿を消していた。
祓い屋の暴走を呼び水に、その身勝手さが自警団員に飛び火した。
横暴な態度を取り、警備の仕事を投げ出す者。避難民に手を出し辱める者。避難所の備蓄庫を荒らし外に逃げ出す者と、避難所は自警団の暴走に伴い統率を失った。
残された避難民は絶望し、連日悲鳴が母校の廊下を反響させた。
あの悲鳴が自分のものだったのか、他者の叫びだったのかなど、その時の託人には分からなかった。
父を失い、避難所が地獄の様相へと堕ちた事で、託人は何も考えず何も感じない、生きた屍と化していたから。
そんな託人に、唯一円だけは自警団をまとめ直すから手を貸して欲しいと言った。その顔がとても凛々しく、託人は再度希望の灯を胸に何の迷いもなく手を取った。
しかし、その選択が間違いだったのだと、後になって託人は知った。
(あの時、手を取るんじゃなくて、手を引いて逃げるべきだったんだ)
消えない傷を胸に抱える託人は、毎日夢に見る。
手を取り逃げる三人の影。
託人、円、円の弟の角人が避難所を抜け、何処か遠く、暖かくて綺麗な何処かに辿り着く。
そうして三人は明るく幸せに暮らす。そんな夢。
目を覚ますと夢が鮮明に頭の中に残り、現実がより辛くなった。
どれだけ祈ろうと、どれだけ目を逸らそうと、円はもういない。
感傷に浸っていた託人は、机の上に缶詰を置いて大きく息を吐き出した。
(昨日あいつが祓ったバケモノは、名前の付いていない個体だった。つまり、烽師は動かない。なら、あいつが人を殺した事は誰にも伝わらないんだ。誰も、あの人たちが死んだ事に気付かない。誰も、あの祓い屋を裁かない。……何だよそれ。何なんだよ)
託人は別に、玲司を裁きたいわけでも、恨んでいるわけでもなかった。
ただ、悔しいのだ。
都市部で生活していないだけ。生存者が三十にも満たない。ただそれだけで、生まれ育った場所は町とは見られず援助は受けられない。自分たちは死んだものとして扱われれ、明日を夢見る暇などない。ただ今日という一日を怯えながら生きている。
それに比べてあの祓い屋はどうだ。
都市部に事務所を構え、暖かなご飯を買って、お茶を片手にのんびり寛いでいる。
もし危険が迫ろうとも、それを上回る暴力で無理矢理にでも道を切り開く。
祓人だから。祓魔師だから。都市部だから。荒廃地だから。
(こんな事になるなら、あの時、円に殺されてるんだったな)
玲司から言われた言葉は、この考えを真っ向から否定した。それでも託人は、考えずにはいられない。
もしあの時、円に自警団のリーダーを引き継がせなければ、と……。
一人延々と闇に身を落とす託人の耳に、スマートフォンの着信音が流れ込んできた。
投げつけたスマートフォンが、床の上で発光している。
大厄災で大勢が死に、その後の大混乱でさらに死んだ。
多くの技術が失われ、多くの生活が失われた。だのに、こんな通信機器は生きている。娯楽の海と化しているネットは生きている。承認欲求を満たしたいだけの都市部住まいの愚者が、SNSを盛り上げている。
元々は、ここまで復旧するつもりはなかったらしい。
最初に動いたのは祓い屋協会の一部の職員だった。
都市部から離れた市区町村の住民を助けようと、緊急連絡網を確立した。それだけだったらしい。しかし、連絡網はそこから細かく枝分かれをして、結果、現在は悠々自適に暮らす都市部の人間の娯楽品と化してしまった。
バケモノに襲われる人々を見ては笑い、無責任に共通認識を広め、果てにはバケモノの存在を名前で縛るまでに至った。
どれもこれが悪いわけではない。ただ、皆精一杯なだけなのだ。腕を伸ばして届く距離の現実を見るだけで精一杯。それ以上視野を広げれば、きっと自分は絶望してしまう。そんな奴らが集まった結果が、今の国の内情につながっている。
(こんな事考えてたって、しょうがないのにな)
自嘲を浮かべる託人は、画面に目を落として通話を求めている男を脳裏に浮かべて鬱気が一層増したが、無視することもできずに『応答』を押した。
「もしもし?」
『やあテディ、ごきげんよう。今日は雨が降らなそうではあるけれど、気分が沈みそうな分厚い雲が空を隠していて、地上は湿気と鬱気で落ち込んでいるよ』
機械越しの男の声は、直に聴くより幾分マシにはなっているが、それでも彼の声には耳に絡みついてくる嫌な熱が帯びていた。そんな声で紡がれる長ったらしい冗談を聴いて、託人は鼻筋に皺を寄せた。次いで疑問に首が傾いだ。この男がここまで上機嫌だったことなどなかったからだ。
「ケネス、一体何がそこまで君を笑わせているんだ?」
今まで抱えていた、負の感情が胸奥底で渦を巻く。それを片手で押し込めながら、託人は感情が声に乗らないよう気をつけながら話しかけた。
この男に、本心を見抜かれてはいけない。明確な根拠はないが、何となくそう感じる託人は、声が変に震えないよう、小さく息を吐いた。
ケネスを自称するこの男は今から三年前、円から産まれたバケモノが祓われて少し経った頃に、何処かから唐突に現れた。何でも行き場がないらしく、避難所に匿うと瞬く間に信頼を得て、気付けば自警団の頭目になっていた。
どうやら人心の掌握に長けているらしく、避難民たちは皆揃ってケネスを気に入っていた。
『中々面白いものを見たんだ。そのうち君にも教えるよ。ところで、さっきバケモノを祓った祓い屋の情報が欲しいんだ。何か知っていないかな?』
「何処のバケモノと祓い屋の話だ? バケモノなんて今時何処にでもいるだろう?」
電話越しに大きく息を吐き出したケネスは、寛いでいるのか大きく数秒の間を空けた。
『ついさっき、我が家の近くにバケモノが出たんだよ。勿論、君も知っているだろう? 君の耳の速さはよく知っているつもりなんだ』
我が家とは、避難所になっている廃校のことだ。
この男は廃校を家と呼び、生き残った避難民を家族と呼んでいる。しかし、そこに暖かな感情はなく、誰も彼もが使い捨ての駒であると言いたげだと、託人は思っていた。
「そのバケモノの事は知ってるよ。だが祓い屋については申し訳ないが知らないな」
この男を玲司に会わせてはいけない。直感にそう囁かれた託人は、すまし顔で嘘を吐いた。
ケネスは何かを隠している。今時は珍しくもない事だが、それでも自身の名前も隠しているのは妙だ。そして存在自体も謎に包まれていて、ここに来る前までの足取りが一切見つからない事が、信頼してはいけないと言う思考の一助になっていた。
『そう。では、少し調査をお願いしたい。都市部からこちらに来た目的と、その祓い屋の素性を』
「それは勿論。だが、時間はかかるぞ。祓い屋の情報は、特段セキュリティが頑丈だからな」
『どれくらい待てばいいかな?』
少し間を空け考える。どれくらいこの男の好奇心を止めておけるのかと。しかし、情報の収集以外に自分にできる事はないと思った託人は、祓い屋のデーターベースの強度を考え時間を算出して答えた。
「一日だ。一日でケネスの知りたいことを全てまとめて送るよ」
『いいよ。丁度、君から暇潰しのおもちゃを貰ったんだから、これを使わない手はないからね』
ではまた。そう言って通話を切ったことを確認した託人は、大きく息を吐いた。
額と背中を汗がじっとりと流れて行く。緊張からくる匂いの強い、ベタつく汗だった。
(あいつ、今度は何を企んでるんだ?)
幸い、今は別のおもちゃを与えている。今日一日を凌ぐことはできるだろう。
ケネスの言っていたおもちゃ、それはここから徒歩十五分の位置に敷かれた線路を通る貨物列車の事だ。
今日の午後五時、都市部から他県に向けて貨物列車が出発する。これを襲撃するため、避難所では今頃、装備の確認やら、狙いの物資のすり合わせやらを行っている事だろう。
あの男が来る前までは自警団総出で襲っていた貨物列車も、ケネスが入ってからは、数人を引き連れて行くだけで、無事に物資を担いで帰ってくるようになった。この辺りも、ケネスが認められる要因なのかもしれない。
「角人、ごめんな…………」
スマートフォンを握る手を震わせ、託人は無力な自分を呪った。
その脳裏に浮かべるのは、避難所に一人残した友人の弟の幼い姿だった。
不眠不休で作業をしていた託人は首を捻った。
右肩からぽきぽきと音が出た。どうやら長時間作業していたらしく、自分はその事に気付かなかったらしい。
「今何時だ?」
パソコンの角に表示された時計を確認した託人は、大きなため息を吐く。
昨日電話でケネスに頼まれていた情報は、十分なほど集まっていた。
そして、物資の強奪にも成功したと、昨日の九時には連絡が入っていた。
避難所は平和な姿に戻っている。人数が減り、ケネスという新たなリーダーを得たからだ。
「やあ。今日は突き抜けるほど空が綺麗だよ。まあ、地上は相変わらずの湿気と熱気で汗だくになるけれどね」
唐突に、背後で声がした。
耳に絡みつく熱を帯びた男の声だ。
驚き振り返った託人の目に映ったのは、古い玩具が並ぶ棚の前の出入り口に立つ、現在の自警団の頭目だった。




