008 ホワイトアウト
視界が真っ白に染まる。
過去の記録を流していた脳は、白一色の壁と、ジーとなり続ける円運動を続ける回転音だけを玲司に与えた。まるで、役目を終えた映写機と白幕のようだった。
顔に降りかかり全身を濡らしていたはずの雨も、気付けば霧へと変わり全身を包み込んでいた。
「いい加減、目を覚ませ。今の俺は、酉牧祓イ処の四級祓人だ」
白一色に回転音が響くだけの空間に、玲司の声が木霊する。
その声は、蹲って現実を拒否していた少年から、正面を見据えて現実と闘う青年へと成長していた。
「過去に縛られてる暇なんかないんだ、九頭玲司」
アスファルトの上で、擦り剝けた膝を抱えていた少年の姿が消えた。
どこまでも広がり溶ける玲司の声に合わせて、周囲を取り巻く霧が渦を巻き、一斉に霧散する。
視界が広がりそこに映し出されたのは、住民の八割が退去、もしくは死亡したかつての隣町の成れの果てと、背丈三メートルの四本腕、四本足の半球頭のバケモノだった。
風を感じる。バイクに乗っている時に感じるような、自身の速さに周囲の空気が遅れて絡まるあの心地の良い風だ。しかし、その風に混じってバケモノ特有の腥い臭いが鼻に触れた。
「——ッ、クソ! 寝起きの人間に、随分な歓迎だなオイ!」
意識を取り戻した玲司は、今自分が、バケモノに体を掴まれ振り上げられている途中だと理解した。
両腕を巻き込んで掴まれたこの状態では、地面に叩きつけられて、よくて骨折、当たり所が悪ければ死ぬ。
拡張された五感が生命の危機を訴えつつ、周囲の情報も一緒くたに取り込んだ脳で、玲司は反撃を伝達した。
「<風絶>」
結果、まだ体に馴染んでいない機龍が吐き出したのは、お粗末な制御で広がった無音が支配する空間だった。
バケモノを中心に、半径二十五メートルの空気が静まり返り、温度を二、三度低下させる。
両腕の動かせない玲司の言葉に呼応して、光の灯らない瞳を持つ鈍色の龍は、甲高い咆哮を上げる。
咆哮は低下した空気を震わせ、見渡す範囲以上にまで、その威圧感のある音を反響させた。
半球の頭のバケモノは、玲司から広がった異変に気付いた。が、知性よりも野性に傾いたその頭で出した答えは、回避や防御ではなく、迅速な奪命だった。その判断の是非は、玲司を掴んだ四本腕が、頂点に振り上げられた瞬間に判明する。
玲司の視点がバケモノの背丈を越えたと同時に、開けた視点がズルリと斜めに滑り、一段下がった。
玲司を掴んだまま、バケモノの四本の腕は二の腕の中心で、骨を中心とした綺麗な断面を晒して地面に落ちた。
四本の腕と一緒に地上へと戻った玲司が、両足を地面に触れさせると同時に断面が黒く濡れ、噴水の如く噴き出す。しかし、噴水の如く噴き出したのは、ほんの一、二秒の短い間だけだった。
玲司が自然体に構える正面で、四本の腕を失い噴水と化していたバケモノを中心に、気温の変化を起こした半径二十五メートルの円内に、無数の裂傷が彫り込まれた。
地面は抉られ吹き飛ばされて、空気は見えない暴力に煽られる。
バケモノの肉片は細切れとなって、最後は傷だらけの地面と同化し視認ができなくなった。
周囲を黒く濡らす水たまりが、その身を広げるのを見ていた玲司はふと、視線を外へと向けた。
「やりすぎた…………」
道路に面していた家屋は倒壊、広々とした空き地が出来上がり、こちらを恐喝してバケモノを前に気絶した男たちも、地面に赤い花を咲かせて消えていた。
「……仕方ないか。烽師に連絡」
朱歌の部下へと連絡を取った玲司は、開口一番に言った。
「都市の隣町なんだけど、来れます?」
『バケモノの回収ですか?』
「はい」
正直、ここで来られては困る事になるのだが、玲司は知っていた。都市部から烽師が出てくる事が少ないのを。
『都市部外であれば、名憑き以外はお応えできません』
「あ~、ですよね。じゃ、いいです」
『お力になれず、申し訳ありません。失礼いたします』
イヤホンから聞こえていた烽師の声が聞こえなくなった事を確認し、玲司は大きくため息を吐いた。
「コレ、放置でいいかな……」
一面に広がった赤と黒の水たまりが、玲司の周囲に広がっている。
見上げれば、梅雨の時期らしい灰色の雲が一面を覆った空が確認でき、湿気の含まれた風を感じる。が、これではまだ降らないだろうと感覚が言い、玲司はガックリ首を傾いだ。
一人の祓い屋が、バケモノを一瞬で屠るその様を、廃校の屋上から望遠鏡で観察していた。
気づけば口元は笑みを形作っていた。
仲間であり、強請りに行くよう指示した者とは思えない表情に、男はフードを目深に被り、ついっと屋上を見渡す。
屋上は、静かに風を流すばかり。さっきまでは他にも団員がいたが、バケモノの出現で校舎内に姿を消したらしい。
フードの内側に笑みを隠した男は、他に人がいないことを確認すると、再度望遠鏡を覗き込んだ。
延長された視線が捉えるのは、バイクに跨る一人の祓い屋。
男の胸には、懐かしさと忌々しさが同時に湧き上がり、気づけば望遠鏡が白くなるほど握りしめていた。
たっぷり五分ほど覗き見ていた男は、もう誰も通っていない静かな道路を見つめている事にようやく気づき、望遠鏡から離れ一人のんびりと空を見上げた。
仲間を殺されたとは思えないほどの落ち着きが男の周囲に降りていた。
事務所に戻った玲司は、無言で作業机に向かったままの弟子の背中を確認した。
おそらく、あれは徹夜をするつもりだ。そう感じた玲司は、一足先に休息を取る事にした。
機龍を使った反動か、玲司の体は鉛のように重く、ベットに沈みこんだ。
夢へと落ちて行く意識の端に、託人に頼んでいた調査結果はどうしたのかと疑問符を投げる自分がいたが、引っ張り込まれた玲司の意識は、抗うことなく真っ暗闇の中へと落ちて行った。
日が昇っても、創瑚は作業机から動いていなかった。
机の上は散らかり、部品と工具が、何かいな模様を描いている。そんな弟子の背中を眺める玲司の体調は元に戻り、機龍の使用による疲労は抜けていた。
ただ、寝起きで確認したスマートフォンには、託人からの連絡はなかった。これは、早急に確認しなければならないと今日の予定を考える玲司は、突き抜ける青空を映す窓を見て鬱々とした感情に苛まれていた。
(今日は蒸し暑くなるんだろうなぁ……)
事務所から大通りに出て、徒歩五分の距離にあるその銀行は、外からでも中を見渡せるガラス張りになっていて、店内の賑わいを視覚情報でこちらに届けてきた。
重い足で外に出た玲司の視線は、銀行内の従業員を次々映していたが、思考は別の方へと傾いていた。
「タクに連絡」
イヤホンに触れて玲司は呟いた。しかし、託人は中々通話に出ない。
鳴り続けるコール音を片耳に、玲司は銀行内をぼんやり眺め続ける。と、従業員スペースらしき奥の扉から、依頼人の女性、興梠美空が姿を見せた。
事務所に来た時より数段顔色の悪くなった美空は化粧で誤魔化し、接客対応を行う。見ている側が不安になるやつれ具合だが、玲司はそこから観察するだけで、接触はおろか、接近することもしなかった。
『……何だよ』
「何時間経ったと思ってんだ?」
ようやく電話に出た託人は、いつも以上の不機嫌を滲み出した声で通話に応じた。
約束の時間を反故にされた上、呼び出しに五分もかけられた玲司にも不満は溜まっていたが、それでは話ができないと、思考を仕事に切り替えた。
『お前、昨日町中で何やらかした?』
「ん? ん〜、何もやってないな。何かあったのか?」
正確に言えば、自警団に恐喝されてバケモノを呼び寄せたのだが、それは自警団員がやらかした事であり、玲司本人ではないと、脳内で一人処理した。
『ネットに、ここらでバケモノと祓い屋が暴れたって投稿があった。しかも、自警団の奴らも殺したって』
「仕掛けてきたのはあいつらだし、俺はちゃんと避難勧告をしたぞ?」
『それが伝わる相手じゃないって、分かってただろ!』
玲司は美空を観察しながら、受話器に怒鳴りつける託人を想像して、一つの結論に至った。
「なあ、タク」
『何だよ』
「お前、まだ自警団と繋がってるだろ」
返事はない。しかし、それが答えだ。
部屋の前に積まれた大量のインスタント食品のゴミ。営業もせずに得られた仕事。棚の増えた玩具。
全てを繋げてみれば、一つの結論に辿り着く。
「お前、自警団に情報売って、貨物列車襲わせただろ?」
都市部を繋ぐ線路には、各地の避難所へ配給される備品を乗せた貨物列車が通る。これを襲撃する自警団は案外多い。そのため、警護で祓い屋が搭乗するのだが、人数の少ない列車を狙ったのか、新人の祓い屋がいる列車を襲ったのか、その方法までは分からないが確実に言えるのは、託人が複数回、自警団に強盗を働かせたという事だ。
『……もし、仮にそうだとして…………それを知ってどうする気だ?』
声色が変わった情報屋からの質問に、玲司は飄々と返事をした。
「何も。俺には関係ない話だからな。ぁあでも、俺の仕事を放置すれば、家を破壊しには行くのは変わらない」
『……何も、する気はないのか?』
「それは俺の仕事じゃないんでな。それで? 頼んでた仕事は?」
『もう終わってる。今、送った』
「そうか。じゃあな」
通話を終えようとした玲司だったが、その手を止めたのは、通話相手の託人だった。
『ちょっと待ってくれ!』
「……んだよ。俺も忙しいんだ」
『分かってる。ただ……』
それは、何を言えばいいのか分からない沈黙ではなかった。言いたい事はある。しかし、それを告げていいのかで迷っている沈黙だった。
玲司は、そんな迷いを見せる情報屋を待ってやる人徳を積む気はなかった。
「んじゃな」
『今日の昼——』
何かを言おうとしていた託人を無視して、玲司は通話の終了ボタンを押した。
(今日の昼? どこかで待ち合わせ? 何故? あいつからそんな約束してきたことなんて、今までなかっただろ……)
思考に邪魔が入ったと頭を振った玲司は、本来の仕事に戻った。
元は、興梠美空から頼まれたバケモノになった姉を楽にしてほしいと言う依頼だった。そのため、情報屋の家に足を運び、情報収集を頼んだ。これ以上、情報屋と関わる必要はないのだ。
依頼人は、カウンターから離れて奥の事務机に腰掛けた。接客対応が終わり、事務社業に入ったらしい。
遠目に見ている分には何ら問題はない。そう考えた玲司は、託人の集めた資料を見ようと、視線をスマートフォンに落とした。
瞬間、視線を外すその刹那、玲司の目は確かに捉えた。
ガラス越しに映った彼女の姿が、異形の姿と重なったのを。
見間違いだと思った。
スマートフォンを起動してメールを確認する。その指が託人から届いた新規メッセージを開くより先に、玲司の脳が思考した。
あれは、本当に見間違いか? と。
違和感や不快感、猜疑心は、一度抱えればそれが解かれるまで延々と膨らんで行く。
資料を見ているはずの玲司の目が追ったのは、画面に表示された文字の羅列ではなく、記憶に留めていた過去に起きた祓い屋協会内での事故記録だった。
半覚者の弟子が捕食型のバケモノを産み、協会本部を危晒したとして準二級祓人、蝗守源氏を捕縛、収監したというものだ。
半覚者から産まれるバケモノ、それは現在、玲司が最も危惧している結果だった。
捕食型のバケモノは、宿主の抱える闇の中で育つ。故に、バケモノ自体の力は、宿主に依存する。それがもし、祓い屋や祓魔隊だった場合、能力は常人の二倍にはなる。バケモノが、鏡板を取り込み産まれるからだ。
半覚者であれば二倍にまでとはならないだろうが、脅威になるのは確実だ。
ふっと顔を上げた玲司の目に映ったのは、ガラスが全て粉々に砕け、悲鳴を上げて逃げる客と銀行員を殺して暴れる異形化した美空の姿だった。
しかし、その異形は全く別の人物がバケモノに喰われた後のものだった。
幾つもの小さな手が重なり合ってできた人型のバケモノ。
二本の腕に、二本の足。それらを繋いだ縦に伸びる楕円の体に、俯きがちに伏せた一つの頭。
人の手を重ねた皮膚でなければ、一見、見間違える容姿をしたバケモノはしかし、その両腕に一つの小さな命を抱いていた。
呼気はなく、心拍もない。しかし、命の灯は消えることなく、そこで揺れている。
異形が抱く、異形の赤子だった。
バケモノの赤子を抱くバケモノ。それは、隣町の自警団をまとめていた一人の女性から産まれた捕食型のバケモノの姿だった。
かつて祓ったはずのバケモノが、銀行の中で暴れている。
客を殺し、従業員を踏み潰す。しかし、そんな血の海と化した銀行の前の通りを歩く通行人たちは、それに気づかず通り過ぎて行く。
何事もなく流れて行く銀行前の光景から、音が遠ざかって行った。
鳥の囀りも、蝉の大合唱も、ビル風の唸り声も、車の吐息も、雑踏から発せられるざわめきも。
悲鳴が聞こえる。バケモノが暴れている。だのに、玲司はその場から動かず、ただその光景をじっと見ていた。
心臓は冷静に鼓動を繰り返し、ヘルメット越しの外気を肺に取り込んだ。そこに血の臭いは一切感じられない。
バケモノが、店内で最後の一人を殺した。そして、こちらを見る。
耳にまで届きそうなほど口が裂け、見るも悍ましい笑みを浮かべて人語を紡ぐ。
「次はお前だ」と。
大きく息を吐き出し、忘れていた瞬きをした瞬間、見えていた世界は一転した。
遠ざかっていた音が、玲司の全身に小雨の如く浴びせかける。
小鳥の囀り、蝉の合唱、ビル風の唸り声、車の吐息に、眼前の雑踏から発せられる命のざわめき。
乾燥で傷んだ目の代わりに、耳が過剰に情報を脳へと送った。
痛む両目を、ヘルメット越しに右手で覆った玲司は考える。
後悔、或いは懺悔。もしくは前兆……。
まとまらない思考も、痛みが和らぐと輪郭を取り戻し始める。
五感が正常に戻ったのと時を同じく、玲司が握っていたスマートフォンに一件のメッセージが入った。
『九頭玲司<四級祓人>』
そんな書き方で送られるメッセージなど、一つしかない。
「個別指名依頼か……」
協会側から出される公式の依頼だ。




