005 半覚者の存在
引退した祓人が一人で切り盛りする喫茶店<銀月道>にて、玲司から依頼の内容を聞いていた創瑚の耳に、入店を知らせる鈴の音が届いた。
「遅い!」
「悪いな。お前と違って、私は多忙なんだ」
喫茶銀月道に入ってきた客に、玲司は最初から喧嘩腰だった。そして玲司は、店内を一望できる席、つまりは扉を背にした位置に座している。そんな玲司が、背後を振り返りもせず威嚇する為、創瑚は一人、別のお客さんだったらどうするのだろうとチラリと考え、それからその考えそのものを否定した。
(玲司が、迅さんの気配に気づかないわけがないか)
喧嘩腰の玲司に負けず劣らず、煽りで切り返して来た客は、生まれつきの金の髪を後頭部で一つに結った祓魔師、貝塚迅だった。
迅の後に追従して、学生服っぽい羽織りの隊服を身にまとった祓魔師が一人、何やら仏頂面で入店して来た。
当然、創瑚の興味はその祓魔師に向いた。
「迅さん、その人は?」
創瑚が聞くと、祓魔師の男は更に顔を顰め、嫌悪感たっぷりの睨みを創瑚に返した。
「隊長、何で祓い屋がいるんスか。ちょっと休憩とか言ってましたけど、まさかこの祓い屋とっスか?」
「ああ。そこの筋肉達磨ならば断るが、創瑚からの呼び出しだ。何か事情があると思ってな」
迅は創瑚に甘い。とてつもなく甘い。その理由を昔、創瑚は玲司に訊いた事があった。
本人に直接訊かなかったのは、踏み込んでいいか分からなかったからだ。
バケモノが流行り病のように猛威を振るうこの時代、誰にだって踏み込まれたくない辛い過去はある。
心に一生癒えない傷を抱えているのが当たり前だと言われるほどに。だから当然、玲司も他の誰かから興味本位で訊かれたのならば、話す気はなかっただろう。
しかし、人一倍他人の過去を詮索する事を是としない創瑚が訊いてきたのだ。答えない理由が上手く見つけられず、話した。そこには、直接迅に訊けばきっと話しただろうという、幼馴染間の理解があったのも大きい。
迅は元々、純血の祓魔師一家の長男として産まれた。
その日も迅の実家には、迅、父親、母親、五つになったばかりの弟、屋敷のお手伝いさんがいた。
迅は当時、十歳になったばかりだったという。
そんな平和な一家の元に、原典型のバケモノが一体、突如襲い掛かった。
残ったのは迅たった一人。そして、そんな迅が覚醒したのは、五歳の弟が、目の前でバケモノに喰い殺されたからだった。
『覚醒』とは、日本の全国民に配布されている固有番号識別証、通称マイナンバーカードに隠された鏡板に、魂の色と呼ばれる固有色素で核言が刻まれることを指す。
覚醒は、本人が死ぬより辛く、耐え難い苦痛を受けた際に起きる現象、つまりはトラウマが引き金になると、専門家たちは見ている。
因みに格言は、覚醒者の精神状態によって変化を起こす異能の源だ。
そんな覚醒に結び付く過去を持つ迅は、無意識のうちに創瑚を亡き弟に姿を重ねているのだろう。
玲司は言った。「言葉を選ばずに言うのであれば、体の良い人形にでも見えているのだろう」と。
創瑚は悩んだ。迅をそのままにしてもよいのだろうかと。しかし解決策は見つからず、結果、今のような歪んだ人間関係が構築されてしまっている。
「迅さん、少し言いにくい事なのですが……」
「何だ? 何でも言ってみろ。私にできる事ならば喜んで協力しよう」
玲司の隣に移動し席を空けた創瑚は、対面に座った迅を正面から捉え、昼前に来た依頼人の話をした。
玲司がここで話さないのは、玲司が話しても迅は真顔で断るからだ。
待ち時間で玲司が創瑚に依頼内容を話した背景には、玲司自身の整理の時間と、迅から情報を聞き出すためといった二つの意味が込められていた。
迅は創瑚に対しては盲目的になるが、反対に玲司には、過保護な母親も斯くやの指摘をする。
表面上は、玲司と迅は犬猿の仲と評せるぐらいに噛み付き合っている。
そう、『表面上』はである。
心中では互いの実力を認め合い、人の命のかかった場では背中を預け合えるほどには信頼し合っていると、創瑚は知っている。
しかしそれを本人たちに確認を取らないのは、本人たちは絶対に本心を語らないだろうと予想しているからだ。
「成程、確かに奇妙な話だな」
「いや、何ホントに相談に乗ってるんスか隊長。祓い屋なんかに、こっちの情報を話せる訳ないっスよ」
「六郎。創瑚は確かに少し若い。だが優秀だ。こうして互いに協力関係を結ぶのは、何も悪い事ではない」
「そうだぞ新人、創瑚はできる祓人になる。なんせ、俺が教えてるわけだしな」
「いや、アンタはそもそも誰なんスか!」
盲目の迅の一切答えになっていない説明と、名前すら知らない祓い屋からの遠回しな自讃を受け、六郎は机を叩いて声を荒げた。
一向に話が進まないと見た創瑚は、注文していたアイスコーヒーにミルクを加えてかき混ぜ、玲司が若手の祓魔師、午場六郎と、互いの身分を打ち明け合うのを静かに待った。
「へえ、午斑の分家か。その歳で祓魔師やってるって事は稼ぎ頭か?」
「何だアンタ? 俺が午の人間じゃ悪いってのか?」
「落ち着け六郎。こいつは確かに人格破綻者だが、対バケモノの生物兵器としては、多少活躍できるだけの腕を持っている」
迅の褒めているようで貶している台詞に、六郎も困惑を隠せずにいた。
「隊長、もう出ましょうよ。俺、祓い屋なんかと関わり合いたくないっスよ!」
自己紹介から十分も経っていないのに、六郎は迅の腕を引っ張り店を出ようと言い出した。
「ずいぶん嫌われてるね」
それまで我関せずで黙っていた創瑚は、小声で玲司に訊く。すると玲司は、当たり前だろと視線だけで言って来た。
「なあお前、六郎とか言ったか」
「何だ祓い屋、お前なんかと話すことは何もないぞ」
迅に対する軽い後輩口調が抜け、嫌悪感を露わにする六郎に、創瑚は首をすくめた。
「止めろ六郎。創瑚が怯えているだろう」
「隊長、何で祓い屋なんかの肩を持つんスか」
「先日も言ったはずだ。祓魔師だから、祓人だからと言っていては、救える命も救えなくなると」
迅は六郎を席に着かせると、元祓い屋のマスタ―にホットコーヒーを二つ、そして創瑚にとパンケーキを一つ注文した。
「ちゃんと食べなければ、いざというとき動けないぞ」
そう言う迅に、今度は玲司が噛み付いた。
「そうか、なら俺にも何か奢ってくれよ」
「馬鹿と猫の二重悪舌のお前は、水でも飲んでいろ」
迅に冷たく突き放されても意に介さない玲司は、常温にまで冷めたコーヒーを啜り、さっきの話はどうなったと話を戻した。
「そうだな。創瑚の話に出ていた大通りは、私の元に届いている捕食型の発生現場の情報には含まれていない。それに、創瑚も話した内容のような噂も、現状確認されていない」
「となると、残りは」
「ああ、そうなるだろうな」
玲司と迅は、幼馴染で表面上は相性が最悪だ。しかし、祓人と祓魔師としての働きは、二人揃って誰よりも熱心で、内心お互いを正しく評価している。
そんな二人が、同一の意見に落ち着いた。その内容が、創瑚には分からなかった。
「蔓延でも捕食でもないって、他に何が残ってるって言うんスか?」
話を黙って聞いていた六郎が、何気なく興味を示した。それに続いて創瑚も、玲司と迅を交互に見比べ、疑問に首を傾げた。
「それ以外って言ったら、原典型か、特異型になるけど、どっちでもないんでしょ?」
「そうだな。確かに創瑚の言う通り、どちらにも合致しない。原典型は物語に出る様な見た目で、特異型は一見バケモノと気付けない。それ以外の可能性を、二人は考え付くか?」
迅は、創瑚の疑問の答えを口にはせずに、創瑚と六郎二人に質問を投げた。
「分かる訳ないじゃないスか。新種のバケモノとかっスか?」
「あとは……実は恵さんが生きていて、バケモノになっていた。とか?」
ふふっと笑みを漏らした迅は、創瑚に暖かな眼差しを向ける。それを横目に見ていた六郎は、仕事では決して見る事がない迅の表情に呆気に取られた。
「気持ち悪い顔をするな。創瑚はお前の弟じゃないんだぞ」
玲司の一言に、創瑚は身を固くした。同じく迅も一瞬固まったが、瞬きよりも速い速度で姿勢や視線を元に戻すと、鋭い視線を玲司に向けた。
一方で六郎は、生まれた時から一人だと言っていた迅の話を思い出し、一人首を捻る。
「分かっている」
「いいや分かってない。いつまで過去に囚われるつもりだ?」
「お前にだけは言われたくないな。いつまでも過去を引きずっているのはお前の方だろう? あの時のお前は、全くの役立たずで、逃げに徹するしかない足手まといだったのだから」
玲司と迅の鋭い睨み合いの間に、喫茶店のマスター、元祓い屋の蜂保志蜜野がコーヒーとパンケーキをそっと置いた。
「誰だって過去には囚われるものさ。でなければ、今の私たちは一体何なのかと言う話になる」
「マスター?」
基本無口な隠居老人の蜜野は、激戦を生き抜き、戦場に生命力を全て吸い取られた様な、光の映らない灰色の瞳で玲司と迅を捉えた。
(この人の魂の色は、白よりの灰色なんだ)
覚醒者に現れる一つの特徴として、虹彩の変色がある。
玲司なら緑、迅なら琥珀、六郎なら栗色。
日本人で一番多い瞳の色は茶色だが、覚醒者の中にこの色のままでいる者は極稀だ。
一人そんな事をぼんやり考えていた創瑚の耳に、蜜野の声が刺さった。
「重要なのは、囚われた過去に縛られない事だ」
「爺さんの言ってる意味、全然分かんないスよ?」
六郎はテーブルに肘を突き、行儀悪くコーヒーを啜る。
思考から現実に戻った創瑚は、祓い屋嫌い故の反発だろうと、ストローを噛みながら六郎を視界の端に捉えた。
「苦労はしても、苦痛のない道を進むものには難しい話さ」
「なっ、どう言う意味だ爺さん!」
「止めろ六郎。すまないなマスター」
コーヒーカップをテーブルに叩きつけた六郎が、席から立ち上がる。それを片手で止める迅は、蜜野の目を真直ぐに捉えて謝罪した。
そんな二人を窺いつつ、創瑚はテーブルに飛び散ったコーヒーをナプキンでさっと拭き取った。
「過ぎた口出しをしました。ここのお支払いは結構ですので、どうかご勘弁を」
恭しく頭を下げる蜜野の独特な雰囲気に、怒りを迷子にさせられた六郎は、火の消えた蝋燭から登る煙のようにヒョロヒョロと揺れて席に腰を落とした。
「話を戻そう。依頼人が見たと言うバケモノは、正確にはバケモノではない」
コーヒーを一口含み、飲み込んで気分を落ち着けた迅が静かに言った。
「だろうな」
迅の言葉に、玲司が同意する。
「だったら何だって言うんスか?」
「依頼人、興梠美空と言ったか。その女性本人だ」
「それってもしかして……」
創瑚の中で、穴だらけになった写真が一枚、真っ暗闇の中から突如浮き上がった。
「無自覚醒?」
創瑚の呟きは、他に客のいない店内に響いた。
「何だそりゃ。ムジカクセイ?」
首を傾ける六郎を前に、玲司は小さくため息を零した。
「ほう、創瑚は知っていたか」
「当然、俺の弟子だからな。それに比べてお前は、もっと部下の教育に力を入れたらどうだ?」
「お前は少し黙っていろ」
迅に褒められたが、そこに玲司が横槍を入れる。
そんな目の前の光景を遠くに、創瑚の頭は突然浮かび上がった一枚の写真に向かっていた。
(穴だらけで分かりづらいけど、どこかの和室? この端っこは縁側っぽいし、畳敷の部屋……だよね?)
中心には一際大きな穴が空いているが、その縁から下には着物が見える。
(胡座を描いてるってことは、この人、ここに座ってる? 机の前っぽいけど何で?)
残された情報はあまりなく、あとは天気がいいことと時刻が昼過ぎだろうということだった。
(見つけられるのは、これくらいかな)
そう思った瞬間、創瑚の眼前で青白い火花が飛び散り、真っ暗闇を映す穴から、真っ青な炎が吹き出した。
大小様々な穴から一斉に燃え上がり、内側から風が吹き出しているように炎を揺らす。
青い火の粉が陽炎と共に舞い上がり、真っ暗闇の中へと消える。
消し炭になるのかと思った写真だが、蒼炎が燃える穴は見る間に円を縮め、数秒で綺麗な一枚の写真へと姿を戻した。
写真に写っていたのは、和室で寛ぐ一人老人。
気難しそうなその顔は、カメラを見てニヤリと笑みを浮かべている。
胡座を描いてニヒルに笑うその老人を、創瑚は知っていた。
周囲の暗闇が一斉に退き、創瑚を中心に描き出したのは、写真に写っていた和室だった。
そこは、自身を祖父だと名乗る一人の老人と共に住んでいた、四方を田んぼに囲まれた、田舎の木造二階建ての一軒家。
「いいか創瑚。どれだけ切羽詰まっていようと、絶対に手を抜いてはいけないんだ」
痩せ衰えてなお、その体には不思議な力が宿っているかのように感じる老人が語る。その膝の上には、一人の少年がちょこんと座っていた。
幼き日の、記憶を失っていない能登創瑚だ。
創瑚は、頭上から降ってくる優しげな老人の声音に、何度も頷く。
「そして、決して焦るな。心穏やかに。ただ、己が持てる全ての技術を、目の前の一作品に注ぎ込めばいい」
畳敷の和室にて、白髪を後ろで一つに結い、銀縁眼鏡を鼻の上に乗せた老人は、胡座で作業をしている。
その足の間に乗った創瑚は、老人の指先を目で追っていた。
机の上に広げられた細々とした機械の部品たちが、老人の指先が動くたび、一つ、また一つと形を変えて行く。
十分も経たないうちに、机の上には一つの仮面が、外装を外された状態で寝かされた。
犬を思わせる仮面に、老人は命を吹き込むかの様なやさしい手付きで、最後の一パーツ。プレパラートを思わせる鏡板を差し込んだ。
創瑚は、この老人を知っていた。正確には、殆どの事を忘れた頭の中で、唯一残された存在だった。
創瑚は八年前の東京大厄災で、殆どの記憶を失った。そんな欠落した記憶の中でしきりに思い出されるこの老人は、創瑚に製作技術を教えるだけ教えて死んだ祖父、陽可楽燈匠だった。
「創瑚、お前が補機を作るようになったら、まず最初は、気持ちを落ち着けるところから始めなさい。これができないのなら、絶対に触れてはいけない。お前の揺れ動く気持ちは、補機に悪い影響を与えてしまうからな」
「わるいえいきょうって?」
回りきらない舌で訊く、幼き日の創瑚は、癖毛と同じ色の瞳を爛々と輝かせながら、机の上で形を整えられた一つの作品だけを見ていた。
「この補機とは本来、体の中で暴れるもう一人の自分を安定させるために使うものだ。そこに、お前の不安定な気持ちが入ったらどうなる? 淵ぎりぎりにまで水を張った甕に、小石を投げ込むようなものだ」
「みずがあふれちゃうね」
幼い創瑚は燈匠の言っている言葉の意味を理解せず、机の上に置かれた整備が終了した鏡板装填補機を見続けた。
「そうだろう。水が溢れたら、その人はもう元には戻らない。だから私たち魔鏡師は、鏡板を大切に扱う。絶対に、魂の色で刻まれた鏡文字を傷つけてはいけないんだ」
「もしきずついたら、みがけばいいんじゃないの?」
幼き日の創瑚がかつて見た光景が、現代の創瑚の脳裏に浮かぶ。
燈匠が手鏡を磨いている記憶だった。
この時は確か、隣人が曇った手鏡を磨いてほしいと持ってきたのだったと、現代の創瑚がまた一つ記憶を取り戻した。
「そうだな。普通の鏡なら、磨けばいいかもしれない。だが、傷が深ければ、磨いてもその傷は消えない。その傷から細菌が入れば傷は膿む。そうなれば、どんな魔鏡師にも修復は不可能だ」
燈匠は机の上に置かれた犬の形を模倣した補機を、創瑚の小さな頭の上に被せた。
創瑚は小さな手で、頭の上に乗った犬に触れ、祖父を仰ぎ見る。
「分かるか創瑚。鏡文字はこの世で最も強く、最も脆いんだ」
「どういうこと?」
難しくて理解できず、小さな創瑚は首を傾げた。
「私たち魔鏡師が作り渡した補機以外で、もう一人の自分と対話しようとすると、危険だという話だ」
古い記憶がフラッシュバックし、思考が完全に停止していた創瑚の意識が、現代に浮上する。
「どうした創瑚、大丈夫か?」
心配そうにこちらの顔を覗き込む迅に、創瑚は笑って答えた。
「大丈夫です。アイスコーヒーが冷たくて、頭がキーンってなっただけですから」
はははと笑う創瑚は、パンケーキを頬張り誤魔化す。その一連の動作を横目に見ていた玲司だけが、創瑚のほんの少しの変化を捉えていた。
「隊長、どういう事スか?」
「ああ。簡潔に言ってしまえば、依頼人の興梠美空は、覚醒者だという事だ」
「なっ! そ、そんな事、あり得るんスか!」
驚く六郎と対照的に、沈黙を貫く創瑚。その様子を、外から眺めていた玲司が口を開いた。
「祓魔師や祓人の家系だと、産まれつき覚醒者な事が殆どだが、本来覚醒者ってのは、自分一人じゃ抱えきれない、死ぬより辛い苦痛を受けた時に始めて発現するものだ」
コーヒーを飲み終えた玲司が、六郎へと教鞭を振るう。
「そんな初歩的な事、知ってるっての」
態度の悪い六郎を、面白半分に見る玲司は続けて言った。
「そういった覚醒者の中には、時々既に覚醒していながら、鏡文字が刻まれない人がいるんだ」
「文字が、刻まれない?」
「ああ。原因は不明だが、覚醒するに足る力が不十分な状態で、何らかの外的要因が合わさった時、半ば強制的に覚醒したとする説。それか、本人の魂が弱く、色が薄いのが原因だとする説もあるが、現状ではどれが正解かとかは分かっていない」
迅が玲司の説明の補完を行った事で、六郎の中で、鏡文字について一つの知識を得た。
「それで? 覚醒していながら、鏡板に文字が刻まれない場合の対処法は、なんかあるんスか?」
「無自覚な覚醒者、この場合は『半覚者』って呼び方をするんだが、半覚者本人を殺すか、覚醒を完全なものにするかの二択だ」
玲司の説明に六郎は眦を吊り上げ、食って掛かった。
「そんなの、後者一択だろ!」
「そうでもないさ」
「そう単純な話じゃないんだ」
六郎の意見を、玲司と迅は首を横に振って否定する。
二人からの否に勢いを殺された六郎は、続く言葉を飲み込んで話の先を促した。
「もしその半覚者が、犯罪に力を使う危険人物だったら? お前はそれでも覚醒を促すか? 覚醒したとしても、到底祓人や祓魔師にはなれないような気の弱い奴だったら? 鏡板に文字を刻ませるべきだと思うか?」
「それは……」
祓人や祓魔師の力は強大だ。故に、これが自警団を自称する犯罪者グループの手に渡った場合、絶滅に傾いている現状の人類の天秤は、簡単にその角度を鋭角に傾かせ、皿の上に乗った錘を放り出すことだろう。
今でこそ、人間とバケモノの敵対関係で綺麗にまとまっているように見えるが、落陽時代のように人対バケモノ、人対人をもう一度行ってしまえば、今度こそ誰も生き残ることができなくなる。
だからこそ、滅魔委員会と祓い屋協会は、政府に鏡板を秘密裏に全国民へ配布するよう指示し、大々的には人材を募集したりしないのだ。
危険な思想を持っていたり。私利私欲のために力を使おうとする者に余計な情報や刺激を与えないようにと、統制を取っている。
「しばらくは興梠美空の周辺を監視、調査するようにするべきだろうな」
「だよな」
仕事の会話をしている間は、玲司も迅も敵対せず、互いに最善の選択をしようと知恵を絞り協力できる。そんな光景に、創瑚は一人こっそりと笑みを浮かべた。
ピリリ、ピリリ、ピリリ……..。
丁度話がまとまったタイミングで、迅のスマホが着信を知らせた。
「すまない、部下からだ」
羽織りの内ポケットからスマホを取り出した迅は、画面を見て席を外そうとした。それを玲司が止める。
机を人差し指でトン、トンと二回叩く。特段取り決めのない言外のコミュニケーションではあったが、迅は玲司のその仕草を見て、六郎にスマホを渡した。
「何スか隊長?」
受け取りながらも困惑を隠せない六郎は、席に座り直した迅を訝しむ。
「胡桃からだ。話を聞いておいてくれ」
「いや、自分で出ればいいじゃないスか」
「私は、これと少し話がある」
スマホ片手に、しぶしぶ喫茶店の外に出て行った六郎を、玲司と迅は静かにに見送った。
扉が完全に閉じられ、外から六郎の話し声が聞こえてから口を開く。
「一体、何の用だ?」
「本当に覚えがないか?」
机に頬杖を突く玲司に、迅は肩眉を吊り上げ「無い」とだけ返事をする。
二人のやり取りを眺めていた創瑚は一人、パンケーキを口にしながら、水底から急に上がって来た白泡を浮かべた水面を見つめるように、記憶を繰り返し見る。
もっと、他の記憶も浮かび上がってくるのではないかと、記憶の中の光景の仔細までに目を通す。
「あの電話は、おそらく出動命令だ。私には時間がない」
「なら単刀直入に言ってやる。なんであの新入りをここに連れて来た?」
目を細めて迅を威嚇する玲司は、隣でぼんやりパンケーキを見つめる弟子に視線を向けてから、幼馴染へと戻した。
迅はその視線だけで意味を理解し、ああと小さく声を洩らした。
「それについては、すまないと思っている。先日、任務であいつと行動を共にしてから変に気に入られてな。どこに行くにも付いてくるようになってしまったんだ」
「流石、新聞で英雄扱いされる祓魔師様だな」
「茶化さないでくれ。正直、私だって困っている。ほんの少し、上下関係を教え込むつもりだったのが、まさか餌付けされた野良犬のように付きまとってくるとは思わないだろう」
空笑いを浮かべる迅を見て、それが嘘ではないと理解した玲司は、ため息を一つ。それから、創瑚が見たバケモノの影がまとわりついた依頼人の男の話を口にした。
祓魔隊も人員不足で、護衛も監視もできる状態ではない。それでも、何らかの事件が発生し、被害者として依頼人の男が出てきた場合には、すぐにバケモノ関連だと絞り込めるよう情報は共有しておく。
「そうか。一応、記憶の片隅に入れておこう」
「ああ、そうしてくれ」
二人が話し終えたタイミングで、喫茶店銀月道の扉が開かれた。外から通話を終えた六郎が戻って来る。
「隊長、出動命令っス!」
迅の予想通り、第六部隊の管轄区域内で、危険なバケモノが発見されたらしい。
「了解だ。すまない創瑚、私はもう行く」
「へ? ああ、はい。お気を付けて」
一瞬、自分が呼ばれた事に気づかなかった創瑚は、呆けた返事をした。
「大丈夫か、創瑚。疲れているのか?」
普段ならば、創瑚の見送りの言葉を受けて浮ついた足取りで出ていく迅が、創瑚の異変に勘付き足を止めた。
「昨日夜遅くまで作業してたから、その疲れが残ってるんだろ。なっ、創瑚」
「あっ、うん。そうなんです。ちょっと寝不足で」
玲司からのフォローに乗った創瑚を見た迅は一つ頷き、真顔で言った。
「これの弟子が嫌になったら、真っ先に私に連絡すんだぞ。私が力になる」
「隊長?! 何言ってんスか! そいつは祓い屋っスよ!」
六郎の素っ頓狂な叫びが喫茶店内に響いた。
「六郎、何度言わせる気だ? 祓い屋も、祓魔師も関係ない。そして、創瑚は本来、こんな男の下に居ていい人間ではないんだ」
「おい」
玲司のツッコミを無視して、迅は真顔で六郎に説明しいようと口を開きかけた。
それを止めたのは、話題の中心にされた創瑚だった。
「あの迅さん」
「どうした創瑚?」
素早く振り返った迅に、創瑚は申し訳なさそうに言った。
「行かなくていいんですか? その、出動命令」
「そうだったな。すまない創瑚、私はもう行かなければいけない」
まるで今まで忘れていたかのような迅を見て、創瑚は何とか正気に戻せたと胸を撫で下ろす。
一連のやり取りを前に、六郎は納得いかないと、わだかまりが胸の中で膨らむのを感じていた。
「ではマスター、今回はご馳走になる。今度店に来るときには、何か手土産を持って来る」
扉を半分開いた迅は、店内の奥に隠れていた蜜野に声をかけた。
蜜野は姿を見せると、無言で迅に頷きを返し、また店の奥に姿を隠す。
「行くぞ六郎」
「……っス」
釈然としない気持ちを抱えたまま、六郎は喫茶銀月道を後にした。
玲司と創瑚も、祓魔隊二人が出て行ってから数分後に、喫茶店を出て事務所に戻った。
「何か思い出したんだな」
事務所に戻って、開口一番に玲司がそう言った。勿論、創瑚もそう聞かれるだろう事は想定の範囲内だった。
「少しだけ、思い出した。……爺ちゃんの事」
「燈匠魔鏡師の?」
コクリと頷く創瑚を見て、玲司はもっと詳しく話を聞こうとして、踏みとどまった。
人一倍、他人の過去を知る事を是としないのが創瑚だ。それなのに、本人に直接過去の事をあれこれ聞いていいのかと、玲司の中で迷いが生まれた。
「玲司、あのさ……」
「あ、ああ。何だ?」
言いにくそうに視線を彷徨わせる創瑚の次の言葉を、玲司黙って待った。
「悪いんだけど、戦鬼を預かってもいい?」
「は? 戦鬼を?」
「うん」
鏡板装填補機<戦鬼>それは、創瑚が自身のために作った補機で、訳あって玲司に預けていたものだ。
「まあ、元々お前のだからな。でもどうする気だ?」
「今なら、少しはマシな調整ができると思う」
記憶が脳裏に浮き上がった時、創瑚の中で気持ちがこれまでとは比較にならないほど穏やかになった。それと同時に、燈匠から受け継いだ技師のあれこれが、源泉の如く溢れ出ていた。
風一つ吹かず、快晴の空を反射させる森の中の泉のような気分に浸っている。そう語る創瑚は、この状態なら玲司に合わせた調整ができると言った。
「俺に合わせたって。でもこれ、元々お前のだぞ。何で他人の俺に使えるのかも分かってないのに、大丈夫か?」
鏡文字は変化するとはいえ、一人の覚醒者に一つ。
文字を浮かばせた鏡板を装填した補機は、装填された魂の色を持つ覚醒者本人以外には使用できない。それが常識のはずだった。
しかし何故か、創瑚の鏡板とデバイスは、他の覚醒者でも使用できた。その理由を探るためにも、玲司はこれまで創瑚の鏡板装填補機に自分の鏡板を装填し、祓い屋業をこなして来た。
それを、本来の使用者ではない玲司に合わせて調整すると、創瑚はそう言っているのだ。
「大丈夫、今の僕ならできる」
燈匠の言葉が、創瑚の体を巡る。
『気持ちを落ち着かせろ。揺れている時には、絶対に鏡板に触れてはいけない』
(大丈夫だよ爺ちゃん。今の僕は、たぶん、今までで最高の状態なんだ)
心の中で、記憶に残された老人に語り掛ける創瑚。
玲司はそんな創瑚を見て、ウエストバックに入れていた、一枚の機械仕掛けの仮面を手渡した。
「分かった。お前に返しとく。だから、俺のを返してくれ」
「分かった」
創瑚も、ウエストバックから一枚の仮面を取り出し玲司に渡した。
鋭い眼窩、緩い弧を描く輪郭、そしていくつもの小さな金属板を鱗のように一定の角度と向きで貼って作られたその仮面は、機械仕掛けの爬虫類とでも表現できるデザインとなっていた。
「じゃあ、俺はちょっと出てくる。作業してていいが、戸締りには気を付けろよ」
雑居ビル一階に降りた創瑚は、玲司にバイクのヘルメットを渡しながら頷く。
事務所のあるビルの一階は、玲司のバイクを停める車庫であり、創瑚の作業部屋だ。
バイクがエンジンを盛大に吹かして飛び出したすぐ後に、創瑚は扉を全て閉め鍵をかける。
一階車庫の電気を付けると、部屋の隅に置かれた作業机に戦鬼を置き工具を取り出した。
「さあ、始めようか」
工具を片手に、一度自分の心臓に手を当てる。
ドクンッ、ドクンッ、と一定のリズムで鼓動する心臓を確かめ、創瑚は補機の調整作業に入った。




