第八十八話 雪解けを待つごとく
比叡山は、すでに冬の白い帳に覆い隠されていた。麓から吹き上げる風は、鋭利な刃のように肌を切り裂き、木々から舞い落ちる枯葉が、哀しげな音を立てて凍てついた地面を覆い尽くす。
吐く息は白く、指先がかじかむ寒さの中、宗則は、信長からの書状を懐に、険しい山道を登っていた。春蘭の命により、護衛として綾瀬が静かに後を追う。二人が目指すのは、比叡山に籠城する浅井・朝倉軍の陣営であった。
数日前、覚恕と共に信長の元へ赴いた時のことが、脳裏をよぎる。冷徹なまでの野心が燃え盛る瞳。信長は、宗則に、浅井・朝倉軍への和睦交渉という重大な役目を命じたのだ。
(信長様は、なぜ、それがしにこのような重大な使命を…?)
これまで信長様の元で手柄を立てたのは事実。
しかし、このような役目を任せられるには、宗則はあまりにも経験不足であった。ましてや、宗則は、現在、信長の配下である柴田勝家の家臣という立場でもある。
(これは、一体どういうことなのだろう…?)
信長から、義昭を監視するよう命じられている身でありながら、今、信長は、宗則に、義昭と同盟関係にある、浅井・朝倉軍との和睦交渉を命じてきたのだ。
その時、宗則の背中のあざが、熱く脈打つように感じた。
(宗則…)
心の中で、八咫烏の声が聞こえた。
(信長は…お前を試しているのじゃ…)
宗則は、はっとした。
(信長様は…私に…義昭様を裏切ること…を望んで…おられる…のか…?)
冷や汗が流れ落ちるのを、感じた。信長様に逆らうことなど、できなかった。
しかし、義昭様を裏切ることも、また、できなかった。
(…一体…どうすれば…)
苦悩の末、宗則は、ある考えを思いついた。
(そうだ…表向きは信長様の指示に従い和睦交渉を行う。そして、裏では、義昭様に有利な情報を集め、織田陣営の動きも把握するのだ。)
宗則は、決意を固めた。信長の期待に応えつつも、義昭様を守る方法を見つけると誓ったのだ。
二人は、雪が降り積もる山道を、一歩一歩、踏みしめていく。木々の枝葉に積もった雪が、時折、音を立てて崩れ落ち、白い粉雪が舞い散る。枯れ枝を踏む音が、静寂に響き渡る。寒さは厳しく、吐く息は白く、指先がかじかむようだった。
(これが…私の試練か…)
宗則は、今回の和睦交渉が、単なる任務ではなく、自らの陰陽師としての能力と、人間としての器を試される、試練であることを、感じていた。信長様の期待に応えなければならない。
しかし、同時に、義昭様を裏切ることも、また、できなかった。宗則は、自らの運命に、葛藤しながら、山道を進んだ。
やがて、木々の間から、幾重にも張り巡らされた柵と、土塁の上に立つ、武装した兵士たちの姿が見えてきた。浅井・朝倉軍の最前線の砦である。砦からは、兵士たちの怒号と、金属がぶつかり合う音が、かすかに聞こえてくる。緊張感が、張り詰めた糸のように、宗則の心を締め付けた。
砦の門番は、宗則と綾瀬の姿を見るなり、槍を構え、鋭い声を上げた。
「止まれ! 何者じゃ!」
宗則は、ゆっくりと歩み寄り、懐から、信長の朱印を押した書状を取り出した。
「織田信長様の使者、東雲宗則と申します。浅井・朝倉両将軍に拝謁し、和睦の儀についてお話したい。」
門番は、書状を手に取り、砦の奥へと消えていった。しばらくすると、別の兵士が現れ、二人を砦の中へと案内した。砦の中は、張り詰めた空気で満ちていた。
兵士たちは、それぞれ持ち場につき、鋭い視線を周囲に向けている。宗則は、その異様な雰囲気に、思わず息を呑んだ。
砦の奥へと進むにつれて、宗則は、血と鉄の匂いを感じ始めた。それは、生臭く、そして、重苦しい匂いだった。宗則は、この砦で、多くの血が流されたことを、悟った。
やがて、二人は、砦の中心部にある、簡素な造りの本陣へと通された。冷え切った室内は薄暗く、火鉢の燃える音が静寂を際立たせている。
獣の脂と汗の匂いが混ざり合い、宗則は、思わず、眉をひそめた。火鉢の周りには、数人の男たちが集まっていた。その顔色は、火の色に照らされ、赤黒く浮かび上がっている。
鋭い眼光を放つ、精悍な顔立ちの男。浅井長政。彼は、若くして北近江を平定した、優れた武将として知られていた。
しかし、その顔には、深い皺が刻まれ、信長への恐怖と、朝倉家への義理の間で、苦悩している様子が、見て取れた。 彼の鎧からは、かすかに血の匂いが漂い、戦場の緊張が、まだ、彼の身に染みついているようだった。
華奢な体つきで、どこか頼りなげな雰囲気を漂わせる男。朝倉義景。
彼は、名門・朝倉家の当主として、プライドが高く、周囲の意見に耳を貸さない、頑固な男として知られていた。信長に対しては、強い敵対心を抱いており、和睦に応じるつもりは、毛頭なかった。高価な香を焚いているにもかかわらず、その顔色は青白く、疲労の色が濃かった。
そして、二人の背後に控える、僧衣をまとい、険しい表情を浮かべた僧兵たち。その中に、宗則は、見覚えのある顔を見つけた。
比叡山で出会った、武闘派の僧、法雲である。彼は、筋骨隆々とした体格で、眼光鋭く、いかにも好戦的な人物だった。信長に対しては、激しい憎悪を抱いており、和睦など、もってのほかだと考えていた。法雲の纏う僧衣からは、線香の香りが漂い、宗則の鼻をくすぐった。
宗則は、深々と頭を下げた。
「浅井長政様、朝倉義景様、そして、比叡山延暦寺の皆様。織田信長様の使者、東雲宗則と申します。本日は、このようなお忙しい中、お時間をいただき、誠にありがとうございます。」
長政は、宗則を一瞥すると、冷淡な声で言った。
「信長の使者か。和睦の話とは、一体どういうことだ? 我らは、信長如きに頭を下げるつもりはない。」
長政の言葉に、周囲の兵士や僧兵たちから、賛同の声が上がった。宗則は、彼らの険悪な視線を感じながら、静かに話し始めた。
「皆様のお気持ちは、重々承知しております。しかしながら、この度、信長様は、御上より、和睦の勅書を賜りました。これは、戦乱の世を憂う、御上の御心であり、我々臣下として、決して、おろそかにできるものではございません。」
宗則は、懐から、丁重に包んだ天皇の勅書を取り出し、長政に差し出した。長政は、一瞬、顔をしかめたが、御上の権威を前にして、それを拒否することはできなかった。
勅書を受け取った長政は、渋々、それを開封し、内容に目を通した。すると、先ほどまでの険しい表情が、わずかに和らぐのが見て取れた。
「…御上が、和睦にと…。」
長政は、小さく呟いた。彼は、若くして家督を継いだばかりであり、朝倉家との同盟関係や、比叡山との関係に、頭を悩ませていた。御上からの勅書は、彼にとって、まさに渡りに船だったのかもしれない。
しかし、朝倉義景は、納得がいかない様子で、声を荒げた。
「待て、長政! なぜ、我々が、信長如きの申し出に乗らねばならんのだ! 我らは、これまで、優勢に戦を運んできたではないか!」
「しかし、義景様…。」
長政は、言葉を濁した。
「このまま、戦を長引かせても、得るものはありません。冬は、すぐそこまで来ております。越前の兵を率いる朝倉家にとって、雪深い比叡山で冬を越すことは、大きな負担となるでしょう。」
宗則は、すかさず、言葉を継いだ。
「その通りでございます。朝倉様。信長公は、朝倉様の御苦労を慮り、和睦に応じるならば、越前までの安全を保障すると、約束されております。さらに…」
宗則は、法雲たち僧兵に視線を向けると、言葉を続けた。
「比叡山延暦寺様には、信長公より、寺領を返還するとの約束も頂戴しております。これは、覚恕様からも、強く要望されたことでございます。」
法雲は、一瞬、目を見開いた。寺領の返還は、比叡山にとっても、大きな利益となる。法雲は、これまで、強硬に信長との対決を主張してきたが、覚恕の顔を立てるという名目があれば、しぶしぶ納得せざるを得ない。
「…覚恕様が、そこまで…。」
法雲は、小さく呟いた。
義景は、しばらくの間、考え込んでいた。彼は、利に聡い男として知られていた。長政の言葉、そして、宗則の言葉が、彼の心に響かないはずはなかった。
「…うむ…。」
義景は、ついに、重い口を開いた。
「信長め…うまくやったものだ…。よし、分かった。わしは、和睦に応じよう。」
義景の言葉に、長政は、安堵の表情を浮かべた。法雲も、渋々ながらも、頷いた。
こうして、浅井・朝倉軍と、織田信長との間には、和睦が成立した。それは、長く苦しい戦乱の世に、一筋の光が差し込んだ瞬間であった。しかし、宗則は、この和睦が、真の平和への第一歩に過ぎないことを、心のどこかで感じていた。
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