第八十七話 父子の契り
比叡山延暦寺は、深い雪に覆われていた。麓から吹き上げる冷たい風は、木々を揺らし、伽藍の屋根からは、白い粉雪が、まるで砂時計のように、静かに降り落ちていた。
雪が降り始めて数日。宗則は、覚恕の庵の縁側に座り、白い息を吐きながら、眼下に広がる雪景色を眺めていた。数日前、彼は、覚恕から、自身の出生に関する真実を告げられ、激しく心を揺さぶられていた。覚恕は、宗則の実の父親であり、彼を陰陽師として育てるために、白雲斎に預けたのだった。
「まさか…私が…覚恕様の…」
宗則は、未だに、その事実に、戸惑いを隠せずにいた。これまで二十九年間、彼は、自分が孤児であり、白雲斎に拾われたのだと信じて生きてきた。しかし、真実を知った今、彼の心には、様々な感情が渦巻いていた。喜び、驚き、そして、微かな不安。
「宗則殿。」
静かな声が、宗則の思考を遮った。振り返ると、覚恕が、温かいお茶の入った湯呑を手に、穏やかに微笑んでいた。
「何をそんなに考え込んでいるのだ? 雪のように、顔が冷え切ってしまっているぞ。」
「いえ…ただ…」
宗則は、うまく言葉にできないもどかしさを感じながら、覚恕の顔を見つめた。覚恕は、宗則の迷いを察したように、静かに語りかけた。
「宗則殿、そなたに、真実を告げずに、ここまで育ててきたこと、詫び申す。だが、私には、そなたを守るために、そうするしかなかったのだ。」
覚恕は、宗則に、自らの過去、そして、宗則の母である幸徳井家の娘との秘めた恋について語った。それは、許されぬ恋であり、もしも、そのことが公になれば、宗則の身に危険が及ぶ可能性もあった。
「幸徳井家は、代々、朝廷に仕える陰陽師の家柄。しかし、その力は、時に、権力者たちの脅威となることもあった。そなたの母は、そのことを誰よりも案じておったのだ。」
覚恕は、静かに目を閉じ、遠い日のことを思い出すかのように、言葉を続けた。
「彼女は、そなたが、陰陽師としての力に目覚め、幸徳井家の血筋が知られることを恐れていた。そして、私に、そなたを、陰陽師の世界から、遠ざけてほしいと…頼んだのだ。」
覚恕は、少し間を置いてから、言葉を続けた。
「実は、わしは、かつて、幸徳井家の娘に、恋をしておったのじゃ。しかし、二条家の反対により、二人の仲は、引き裂かれてしまった。」
「幸徳井家の娘は、その後、ひっそりと子供を産み、そして、その子供を守るために、白雲斎殿に託したのじゃ。」
「幸徳井家は、代々、烏の巻物を守り、伝えてきた家柄じゃ。そして、その巻物は、烏のあざを持つ者のみが、その力を引き出すことができると、伝えられておる。」
宗則は、覚恕の言葉に、胸が締め付けられるような思いがした。彼の母は、我が子の身を案じ、自らの命と引き換えに、宗則をこの世に送り出してくれたのだ。
「母上は…」
宗則は、声を震わせながら、問いかけた。
「彼女は…今、どこにおられるのですか?」
覚恕は、静かに首を横に振った。
「すまない…宗則殿。そなたの母は…もう、この世にはいない。」
宗則は、その言葉に、言葉を失った。母と会うことさえ叶わぬのか。深い悲しみが、彼の心を覆い尽くそうとした。
その時だった。庵の戸が、勢いよく開け放たれ、一人の男が、雪を蹴散らしながら、飛び込んできた。男は、息を切らしながら、覚恕に向かって、深々と頭を下げた。
「覚恕様! お手紙を預かってまいりました!」
男は、覚恕に、一通の書状を手渡した。覚恕は、書状を受け取ると、眉間に皺を寄せた。
「これは…。」
「信長様からの書状でございます!」
宗則は、その言葉に、緊張が走った。信長からの書状とは、一体、何を意味するのか。覚恕は、ゆっくりと書状を開封し、その内容に目を通した。
「…………」
覚恕の表情が、みるみるうちに険しさを増していく。書状を読み終えると、覚恕は、深く息を吐き出し、宗則に向き直った。
「宗則殿、信長様からの命だ。そなたは、信長様の使者として、浅井・朝倉軍の陣営へ向かうのだ。」
宗則は、覚恕の言葉に、驚きを隠せなかった。
「浅井・朝倉軍…? しかし、なぜ、私が…?」
「信長様は、浅井・朝倉軍に、和睦を申し入れるおつもりだ。そして、そなたには、その使者として、彼らを説得してきてほしいと…。」
覚恕は、静かに、しかし、力強く言った。
「宗則殿、これは、そなたに課せられた、最初の試練だ。自らの出生の真実を知り、そして、陰陽師としての道を歩み始めた今、そなたは、己の力で、この戦乱の世を終わらせるために、立ち上がらねばならない。」
覚恕の言葉は、宗則の心に、深く突き刺さった。彼は、覚恕の期待に応えたいと、心から思った。そして、同時に、自らの出生の秘密を知ることで、背負うことになった運命の重さを、改めて実感した。
「承知いたしました。覚恕様。私は、信長様の使者として、浅井・朝倉軍の陣営へ向かいます。そして、必ずや、彼らを説得し、和睦を実現させてみせます。」
宗則は、決意に満ちた眼差しで、覚恕を見つめ返した。彼の瞳には、もはや、迷いはなかった。
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