第九十七話 比叡山炎上
元亀二年九月十二日。澄み切った秋の空の下、比叡山は、紅蓮の炎に包まれていた。山腹を駆け上がる業火は、まるで生き物のようにうねり、轟轟と音を立てて、千年以上の歴史を誇る堂塔伽藍を飲み込んでいく。黒煙は、天高く舞い上がり、太陽の光さえ遮り、辺り一面を、暗黒の世界へと変えていた。
山麓からは、逃げ惑う人々の悲鳴が、風に乗って、断続的に聞こえてくる。老若男女問わず、信長軍の兵士たちは、容赦なく、彼らを追い詰め、刀で斬りつけ、あるいは、炎の中に突き落としていく。
宗則は、信長様の傍らに立ち、燃え盛る比叡山を、呆然と眺めていた。彼の心は、凍りつくような恐怖と、言い知れぬ怒りで、満たされていた。
信長様は、冷酷な表情で、炎を見つめていた。彼の瞳には、一欠片の憐憫の色も見えない。まるで、目の前で繰り広げられている惨劇が、彼の心を、揺さぶることはないかのようだった。
「…これが…信長様の…天下統一への道…なのか…。」
宗則は、呟いた。彼の声は、炎の轟音にかき消され、誰にも届かなかった。
信長様の傍らには、森可成の姿はなかった。可成は、先月、近江宇佐山城の戦いで、戦死していた。信長様は、可成の死を、深く悼み、彼の武勇と忠義を、称えていた。
信長様は、燃え盛る炎を見ながら、静かに言った。
「…可成…見ておるか…これが…わしの…力…じゃ…。」
信長様の言葉は、炎の轟音にかき消され、宗則の耳には届かなかった。しかし、宗則は、信長様の唇の動きから、彼が、何を言っているのかを、理解した。
信長様は、比叡山を焼き討ちすることで、自らの力を示し、敵対勢力に、恐怖を与えるつもりだった。そして、同時に、彼は、可成の死を、無駄にしないために、天下統一を、必ずや、成し遂げると、心に誓っていたのだ。
宗則は、信長様の横顔を見ながら、複雑な思いに駆られた。信長様は、確かに、冷酷な男であった。しかし、彼は、同時に、強い意志と、信念を持った男でもあった。
(…信長様…貴方は…一体…何を…目指しておられるのですか…?)
宗則は、自問自答した。彼は、信長様の真意を、いまだに、理解することができなかった。
比叡山焼き討ちは、三日三晩に渡って、続いた。山全体が、炎に包まれ、多くの堂塔伽藍が、灰燼に帰した。逃げ惑う人々は、容赦なく殺され、比叡山は、文字通り、地獄絵図と化した。
宗則は、信長様の命令に従い、逃げ惑う民衆を救い出すために、山の中を駆け回った。彼は、陰陽術を使って、炎を避け、敵兵の目を欺きながら、必死に、人々を助け出した。
しかし、宗則一人では、救える命は、限られていた。多くの者が、炎の中に消え、無念の死を遂げていった。宗則は、自らの無力さを、痛感した。
三日後、炎は、ようやく、鎮火した。比叡山は、一面、焼け野原と化し、かつての荘厳な姿は、どこにも見当たらなかった。
宗則は、焼け跡を見ながら、深い悲しみと、怒りを感じた。信長様は、自らの野望のために、聖なる山を、焼き尽くしたのだ。
(…これが…信長様の…正義…なのか…?)
宗則は、自問自答した。彼は、信長様への忠誠心を、失い始めていた。
宗則は、覚恕を探した。覚恕は、重陽の節句に、義昭様の招待を受け、都へと向かっていた。宗則は、覚恕が、無事であることを、祈った。
数日後、宗則は、都で、覚恕と再会した。覚恕は、無事であったが、比叡山焼き討ちの知らせを聞いて、深く悲しんでいた。
「…信長殿は…なぜ…このようなことを…。」
覚恕は、嘆いた。
「…父上…。」
宗則は、覚恕の肩に、手を置いた。
「…わたくしは…信長様に…仕えておりますが…今回のことは…許せませぬ…。」
宗則は、覚恕に、自らの気持ちを、打ち明けた。
「…宗則…。」
覚恕は、宗則の目をじっと見つめた。
「…そなたは…どうしたいのだ…?」
宗則は、覚恕の問いに、答えることができなかった。彼は、自らの進むべき道に、迷っていた。
「…宗則…わしは…そなたに…見せたいものがある…。」
覚恕は、宗則に、そう言うと、彼を、ひそかに比叡山へと連れて行った。
比叡山は、まだ、焼け跡から、煙が立ち上っていた。宗則は、覚恕と共に、山を登っていった。
覚恕は、宗則を、山奥にある、隠された洞窟へと案内した。洞窟の中は、ひんやりとしており、湿った空気が、漂っていた。
「…ここは…?」
宗則は、覚恕に尋ねた。
「…ここは…比叡山の…隠し部屋…じゃ…。わしは…ここに…大切なものを…隠しておる…。」
覚恕は、洞窟の奥へと進み、壁に手を触れた。すると、壁が、ゆっくりと開き、隠し部屋が現れた。
隠し部屋の中には、古い巻物が、置かれていた。それは、宗則が、白雲斎から受け継いだ、烏の巻物とは、異なるものであった。
「…これは…?」
宗則は、覚恕に尋ねた。
「…これは…新しい…烏の巻物…じゃ…。比叡山に古くから伝わる秘宝と聞いておる。わしは…この巻物を…そなたに…託す…。」
覚恕は、宗則に、巻物を手渡した。宗則が巻物に触れた瞬間、背中の烏の痣が、熱く脈打つように光り始めた。
「…宗則…この巻物を使って…この世を…救ってくれ…。」
宗則は、覚恕の言葉に、深く頷いた。彼は、覚恕の願いを、叶えるために、自らの力を尽くすことを、誓った。
宗則は、新しい烏の巻物を手に、洞窟を後にした。彼の背後では、比叡山が、静かに、燃え続けていた。
数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。
気が向きましたらブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたらこの後書きの下部にある⭐︎5の高評価を宜しくお願い致します。
執筆のモチベーションが大いに高まります!




