38 嵐の前
束の間の日常
先日、テレンスからリオンハルトの消息を聞かされたディアーナは、余りの衝撃的な内容と、安堵感で令嬢らしからぬ取り乱し方をしてしまったという自覚がある。
あの冷酷眼鏡宰相補佐殿が珍しく差し出してくれたハンカチを自分でも引くぐらい涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしてしまった。
そのまま返さなかっただけまだマシだと思いたいが、ハンカチに刺繍まではムリだが、せめて綺麗に洗濯しようと思っている。
そうだ、せっかくだから久しぶりにフェルトでテレンスのマスコットを作ってみよう。
いわゆる推しぬいだ。
マルティオス領は牧羊も盛んで、羊毛からはフェルトも作られており、母からは刺繍の腕は諦められたが、そっちの方は中々いけるんじゃないかと自負している。と、ディアーナがあれこれ考えていると、ガッと両手に衝撃を感じハッとする。
ディアーナが握っていた練習用の剣が叩き落とされていた。
「何やってんスか、お嬢。」
目の前に呆れ顔のカイルが立っていた。
「すまない。考え事をしていた。」
「若様の事ですか。まぁ、嬉しいのは仕方ないですけど、実戦だったらやられてますよ。」
「そうだな。気をつける。」
ディアーナは剣を拾い上げながら思う。
今までずっと心配で心から離れなかったリオンハルトが無事で、何と聖騎士になってこの国に帰ってきたことは涙が出るほど嬉しかったが、出生の秘密を聞かされ兄ではなくなってしまった事は正直まだ受け入れられないでいる。
デビュタントの夜会の日から、心の底ではもしかしてという疑念があったが、わざと考えないようにしていたのかもしれない。
例え血の繋がりは無いとしても兄は兄と思えるが、本当のリオンハルトの身分はこの国の唯一の継子だ。
ゆくゆくは皇太子となられ、皇帝とお成りになる方を気安く兄と呼ぶ事は出来ない。
まして今までのようにマルティオス領の騎士団に戻れるはずもなかった。
その時、
「調子はどうだ。新人達。」
と、デカい声がした。
二人が振り返ると、第一騎士団の鍛錬場に黒の制服を着た大男が入ってきた。
以前、ディアーナが手合わせをして戦う前にすっ転ばせて逃げた分隊長、今は昇進して第一騎士団副団長になった子爵家の次男であるルドルフ ホーエンだった。
「しかしどうした?ディー少年よ。
前みたいなキレが無いぞ。何か悩みでもあるのか?
そんな時はひたすら身体を鍛えろ!
しっかり食べて大きくなれ!二人とも。
分かったな。」
「「はいっ。ありがとうございます。副団長殿。」」
胸に拳を当てて騎士の礼をする二人に、ルドルフ副団長は
「よしっ。頑張れよ。」
と、言って去って行った。
ディアーナとカイルはテレンスが上手く手を回し、カイルとミリアムの母の実家のリヒテル男爵家の遠縁の者として第一騎士団に入り、宰相室付きの護衛としての任務を任されることになった。
ルドルフ副団長は早朝から熱心に鍛錬する二人を眺める。
ひょろっとして頼りなさそうに見える新人騎士のルークは、その見た目によらず実はかなり腕が立つ。
そしてそれ以上に強いのが、見習い騎士のディー少年だ。
細くて可愛らしい見かけとは異なり、剣の腕前も魔法も相当なものだと感じている。
以前は手合わせする間もなかったが、真剣に戦っていたら、何となく微妙なチェザーレ団長は置いておいて、実力で第一騎士団の副団長にまでなった自分より上かもしれないと思っている。
宰相補佐官殿直々の肝煎りだから、二人には何かしらあるのだろうが、強さは正義だ!と、細かい事は気にしないことにした。
やっぱり脳筋な副団長が暑苦しく去って行った後、ディアーナは釈然としない顔で呟く。
「ディー少年…。」
確かにディアーナは、第一騎士団に入るために長い髪を一つに括り、騎士見習いの制服を着ている。
名前も「ディー」と変えたが、男女共によくある愛称だし、女性騎士もそれほど珍しくもないため、特に胸にさらしを巻いたりして男と偽ることもしてはなかったのに。
「解せぬ…。」
隣で腹を抱えて大笑いしているカイルを一つ殴っておいた。
帝宮、サラセナ宮殿のほど近く、ローゼンシア帝国で最も大きなケスニア教の神殿である白い石造りの優美なビエナブルク大神殿の最奥、祈りを捧げる信者達も入れない大司教の居住区の庭に面した回廊に大きな床几を置き、老大司教と聖獣がその上で額を寄せ難しい顔をしていた。
二人の間にあるのは白と黒の丸い石の乗った細い線の引かれた木の盤だ。
大司教がパチンと音を立てて盤上に黒い石を置く。
「ちょっ、ちょっと待て!ツェルニヒ。そこはないだろう!」
焦った声を上げる聖獣に、大司教は何食わぬ顔で
「ほっほっほっ。これで勝負は決まりましたなレグルス様。待て、は3回までですぞ。
これでお約束の今日のおやつは私のものですかな。」
明るい初夏の日差し溢れる美しい庭を眺めながらお茶を飲む二人の姿は平穏そのものだ。
主神の女神アルテーアとその伴侶の男神トリトーネを中心にたくさんの神々を信仰するケスニア教は、夫婦の愛や家族への愛、隣人や地域への愛と、さまざまな社会への愛情を根底とする緩やかな教義を説き、神々への恵みを感謝して生きることを規範とする多神教だ。
一方でその愛を脅かす者に対しては容赦なく立ち向かう苛烈な面もある。
よって聖職者も結婚も家族を持つことも出来るが、このツェルニヒ大司教は後継を指導するのに忙しく、結婚はしなかった。
今は故あって手元に置くことになった青年、リオンハルトのことを孫のように慈しんでいる。
「リオンハルトは今日も皇帝の所か。」
「はい、熱心に学んでおられます。」
「ふむ。」
あの日以来、汚染された水を飲まなくなり、大司教により何度かの浄化も受け、皇帝の病は改善に向かっていた。
そして今までの空白を埋めるかのように何度もリオンハルトを宮殿に呼び、交流と立太子への教育を行なっている。
「陛下もリオンハルト様という新たな希望を得て、生きる気力をお持ちになったのでしょう。」
「そうだな。内にも外にも取り除かなくてはならぬ障害は多いがな。」
「その若き希望の芽を守ってやるのも我らの務めでしょうな。」
「もちろんだ。これから来る嵐にも。
それが我が女神より遣わされた務めだ。」
レグルスの金色の瞳は強い光を湛えてじっと北の空を見上げていた。
黒髪の宰相補佐は銀縁眼鏡がテンプレかと。
お読みいただきありがとうございます。
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