16 皇太子の嘆き
薄幸の皇太子
春の明るい日ざしがカーテンの隙間から差しこんでいるが、この部屋は薄暗く深い海の底のように静かだ。
豪華な大きなベッドに横になり、皇太子アレクサンダーは重い息を吐いた。
去年の秋のデビューの夜会では、無理をしたが初めてダンスを踊ることだってできたのに。
あれからなぜかどんどん体の調子が悪くなり、今は一日のほとんどをベッドの上で過ごしている。
胸が苦しくて息が出来ない。
目もよく見えず、わずかに明かりを感じるのみだ。
原因が分からないため、医師も治癒師も治療のしようが無く、今は体力の低下を防ぐことと症状のの緩和のみになっていた。
(どうしてこんなことになったのだろう…。)
アレクサンダーは暗くて重い泥の底に沈んでいるような、動かない体で今までのことを思い出していた。
初めて体調が悪くなったのは今から10年ほど前、十一歳の時だった。
高熱が続き体が思うように動かなくなった。
それまでは特に大きな病気もせず、普通の子供と同じだったと思う。
私を産む時に皇妃だった母は亡くなり、もちろん顔も覚えていない。
宮殿のエントランスに飾ってある父上と二人で描かれた肖像画で見るのみだ。
薄い金色の髪にタンザナイトのような紫紺の瞳を持つ美しい人だ。
たおやかで聡明で強い魔力を持った人だったらしい。
そして私の顔は母上に似ていると父皇帝は懐かしむように語った。
私は母親を知らずに育ったが、代わりに父が、乳母が、侍従達が、たくさんの勉強や剣術の師達が私を慈しんでくれたのであまり寂しいとは感じなかった。
そして私の目標は賢い皇太子になり、やがて強く立派な皇帝となり、この国をますます繁栄させ平和に治めていくことだった。
そのために子供の頃から様々なことを一生懸命に学んできたつもりだったのに…。
十一歳を境に私の全てが変わってしまった。
すぐに熱を出して寝込んでしまうこの弱い身体で、何とか成人とともに皇太子となったが、ほとんど人前に出られることなくこの歳まできた。
3年前にはあまり顔を合わせる機会も無かった婚約者も事故で亡くなってしまった。
なぜか私の周りには誰もいなくなった。
父上の病が悪化して政務ができなくなり、この国の不安で不穏な空気を払拭するため、今こそ皇太子としての役目を果たす時なのに、私まで寝込んでしまって…。
今は叔父のベルゼルク大公が摂政として、従兄弟のチェザーレが元帥としてこの国を支えてくれてはいる。
でも私の世話をしてくれている者達は気を使ってか何も言わないが、幼馴染の宰相の息子のテレンスは私の見舞いに来た折にいつも遠慮なく叔父と従兄の悪口を言っていた。
その悪い噂をそのまま信じる訳ではないが、二人の行いはあまり良いものでは無いと思っている。
もしこのまま私が死んでしまったら…。
他に兄弟がいないので、次の帝位は叔父が、皇太子には従兄が就くことになる。
せめて父上がお元気であれば何とかなるかも知れないが、このままではこの国の未来に大きな不安が残ってしまう。
なぜ、こんな事になってしまったのか。
私は何もできないまま終わってしまうのか…。
アレクサンダーの目から苦痛と焦燥と不安で涙が流れた。
それでも涙を拭う力さえ無く、見えない目で天井を見つめることしか出来なかった。
その時、何者かがアレクサンダーの冷え切った手に触れた。
控えめに指先だけ触れた温かい手は、そこから熱を伝えるように全身を巡り、苦痛が、息苦しさが和らいでいく。
心地よさに大きな息を漏らしたアレクサンダーの目にぼんやりとした明るい光が戻る。
そしてそこに見えたのは、南の海のような美しいエメラルドグリーンの瞳だった。
その目は優しく微笑むように細められたのを見たことを最後にアレクサンダーはゆっくりと眠りに落ちていった。
ミリアムは大きなランドリーカートを押しながら、静かに後宮の長い廊下を進んで行く。
そしてある大きな扉の前まで来ると、その扉を守って立つ近衛騎士にニッコリと笑いかける。
「シーツの交換に参りました。入室をお許し下さいませ。」
少し鼻の下を伸ばした騎士達は
「ああ、分かった。
シーツを含めて洗濯物は前室の衣装室の中だ。
殿下はお休み中であるから寝室には立ち入らないように。」
と伝える。
「はい。ありがとうございます。」
ミリアムはカートを押して入室すると、誰もいないことを確かめて防音魔法をかける。
ごそごそと洗濯物を掻き分けてカートから出てきたのはディアーナだ。
「お嬢様、お急ぎ下さい。」
ディアーナはするりと皇太子の寝室へと忍び込んだ。
落ち着いた雰囲気の静かな寝室の奥に大きなベッドがあり、皇太子殿下が寝ているのが見える。
こちらには気付いていないようだ。
ディアーナは足跡を忍ばせてベッドの脇まで来る。
久々に見た皇太子殿下はワルツを踊ったあの夜よりも更に痩せて顔色も驚くほど悪かった。
虚ろに目は開いているので眠ってはいなさそうだが、ピクリとも動かない。
目尻に涙の跡を見つけて、ディアーナは兄、リオンハルトと面差しが似ているだけに、余計に痛ましさに胸が詰まった。
よく見ようと眼鏡を外したディアーナは驚きの余り立ち止まる。
(お身体から瘴気が!なぜ…?)
皇太子殿下の体から、うっすらとどす黒い瘴気が立ち昇っていた。
ディアーナは思わず殿下の手に触れて祈りをこめる。
瘴気が無くなるように。
少しでも体調が良くなるように。
しばらくすると大きな呼吸とともに、殿下の虚ろだった目に微かに光が戻る。
その時、扉の向こうからミリアムの密かな声がした。
「お嬢様、誰か来ました。お戻りを。」
ディアーナは慌てて寝室から出てまたカートに潜り込んだ。
ミリアムは何事もなかったようにカートを押し、護衛の者達に挨拶をして、部屋を後にした。
ディアーナ心を痛める
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