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罪と罰の栞

 雨上がりの午後、図書館「ことのは」は、静寂と本の香りが心地よく混ざり合っていた。


 窓の外では、雨上がりの陽光が木々の緑を鮮やかに照らし出し、水滴が葉先でキラキラと輝いていた。


 司書の私、水瀬栞(みなせしおり)は、カウンター越しにその美しい光景を眺めながら、どこか物憂げな気持ちを抱えていた。


 雨露が葉から滴り落ちる様子は、まるで自分の心の涙のようだった。


「あの、この本を…」


 聞き慣れた声が背後から聞こえ、私は反射的に振り返った。


 そこには、いつも同じ本を借りる男性、天翔 直人(あまかける なおと)が立っていた。


 彼の瞳は、深い森のように静かで、どこか憂いを帯びていた。


 直人は、毎週金曜日に必ず図書館を訪れ、同じ小説『罪と罰』を借りていく。


 しかし、彼は一度もその本を最後まで読んだことがなかった。


 いつも、ある特定のページを開き、じっと見つめているだけだった。


 それは、まるで過去に囚われているかのように。


 直人がいつも借りていく『罪と罰』は、主人公が罪を犯し、その罪悪感に苦しみながらも、最終的には贖罪と再生へと向かう物語だ。


 直人は、親友を救えなかったという罪悪感に苛まれ、この小説の主人公に自らの姿を重ね合わせていたのかもしれない。


 彼のミステリアスな雰囲気と、本を愛する姿に、私はいつしか惹かれていた。


 しかし、私にとって直人は遠い存在。


 図書館司書という仕事に誇りを持つ一方で、自分の内気な性格にコンプレックスを抱いていた私は、彼に話しかけることさえ躊躇っていた。


 彼を見るたびに、胸が高鳴りながらも、目を逸らしてしまう自分がもどかしかった。



 ある日、私は閉館作業中に、直人が落とした栞を見つける。


 それは、『罪と罰』に挟まれていた栞だった。


 栞には、直人の筆跡で「あの日、僕が君を助けられていれば…」という言葉が書かれていた。


 この言葉に、私は衝撃を受けた。


 直人の秘密が、彼自身の言葉で、少しずつ明らかになっていく予感に、私は胸騒ぎを覚えた。


 翌日、直人はいつものように図書館を訪れた。


 私は、彼に栞を返す。


 直人は、栞を見るなり顔を青ざめ、私から目をそらした。


 私は、彼に「あの日」について尋ねた。


 直人は、深く息を吐き、ゆっくりと語り始めた。


 5年前、大学時代の親友・翔太とドライブに出かけた帰り道、直人の運転する車が交差点でトラックと衝突した。


 助手席に乗っていた翔太は、帰らぬ人となった。


 直人は、事故の瞬間を今でも鮮明に覚えていた。


 翔太の笑顔、そして、衝突音。


 彼は、あの時自分がもっと注意深く運転していれば、翔太を救えたのではないかと、自責の念に苛まれ続けていた。


 彼は、事故以来、毎晩のように悪夢にうなされ、眠れない日々が続いた。


 罪悪感から逃れるために酒に溺れたこともあった。


 しかし、どんなに苦しんでも、翔太は戻ってこない。


「生きているのが辛い…」


 直人は、絞り出すようにそう言った。


 私は、彼の言葉に胸が張り裂けそうになった。


 私は、直人の告白を聞きながら、彼を責める気持ちにはなれなかった。


 それよりも、彼の苦しみを理解し、寄り添いたいという気持ちが強くなった。


 しかし、どう接すればいいのか分からず、私は戸惑っていた。



「誰にも言えなかったんです。ずっと一人で抱え込んで…」


 直人の声は震えていた。


 私は、彼の肩にそっと手を置いた。


「話してくれてありがとうございます。一人で抱え込まないでくださいね」


 それから、私たちは図書館で過ごす時間が増えた。


 直人は、私に彼の好きな本を紹介してくれたり、自分の過去を少しずつ語ってくれたりした。


 彼の言葉は、いつも私の心に響き、私を勇気づけてくれた。


 ある時、彼が私に『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの心情について尋ねてきた。


 私は、自分の解釈を話すと、彼は深く頷き、「あなたと話していると、心が軽くなります」と呟いた。


 その瞬間、私は直人の瞳に、微かな光が宿るのを感じた。


 まるで、ラスコーリニコフが長い苦悩の末にソーニャとの出会いで救いを見出したように、直人もまた、私との出会いで心の闇から抜け出そうとしているのかもしれない、と。


 雨の日は、特に二人の心が通じ合った。


 雨音は、私たちの心の叫びを代弁してくれるようだった。


「雨の音って、なんだか落ち着きますよね」


 直人は、窓の外を眺めながら言った。


「そうですね。まるで、心が洗われるようです」


 私は、彼の隣で頷いた。図書館には、様々な人が訪れた。



 学生、主婦、お年寄り。


 それぞれが悩みや希望を抱え、本を求めてやってくる。


 ある日、図書館で窃盗事件が発生した。


 犯人は、常連の男性だった。


 彼は、生活に困窮し、つい魔が差してしまったという。


 私は、彼に厳しく注意しながらも、更生を願う気持ちで、支援団体の情報を提供した。


 この出来事は、私にとって、図書館司書としての責任と、人への思いやりについて深く考えるきっかけとなった。


 また、ある時は、子育てに悩む母親が、絵本を借りに来た。


 私は、彼女に子育てのアドバイスをするだけでなく、同じ悩みを持つ母親たちの集まりを紹介する。


 図書館は、単に本を貸し出す場所ではなく、人々の心を癒し、支える場所なのだと実感した。


 図書館で働く同僚たちとの交流も、私にとってかけがえのないものだった。


 ベテラン司書の山田さんは、いつも優しくアドバイスをくれ、私の心の支えになってくれた。


 また、同期の佐藤くんは、いつも明るく場を盛り上げてくれ、私の心を和ませてくれた。



 直人との時間は、私にとってかけがえのないものとなった。


 彼と過ごす中で、私は彼を深く愛していることに気づいた。


 そして、彼もまた、私を大切に思ってくれていることを感じた。


 それは、言葉にはしないけれど、彼の優しい眼差しや、さりげない気遣いから伝わってきた。


 ある雨上がりの午後、図書館の庭で、私は直人に想いを伝える決意をした。


「直人さん、あの…少し、お話してもいいですか?」と勇気を振り絞って声をかけた。


 直人は、驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべ、「もちろんです」と答えた。


 私は、彼に自分の気持ちを正直に伝えた。


 すると、直人は私の手を優しく握りしめ、「僕も、栞さんが好きです」と答えてくれた。


 私たちは、雨上がりの澄んだ空の下で、静かにキスを交わした。


「僕でいいんですか?」


 直人は、不安げに呟いた。


「はい、直人さんでなければダメなんです」


 私は、彼の瞳を見つめながら、力強く答えた。



 直人と私は、恋人として新たな一歩を踏み出した。


 過去の傷を抱えながらも、私たちは互いに支え合い、愛を育んでいった。


 直人は、少しずつ心を開き、人との関わりを大切にするようになった。


 彼は、図書館でのボランティア活動に参加したり、地域の人々との交流イベントを企画したりと、積極的に行動するようになった。


 それは、彼にとって、親友の死を受け入れ、未来に向かって歩み出すための新たな一歩だった。


 まるで、『罪と罰』のラスコーリニコフが罪を償い、新たな人生を歩み始めたように。


 そして、私もまた、彼の影響を受けて、より強く、優しくなれた気がした。


 ある日、直人は私に言った。


「栞さんのおかげで、僕は変わることができました。ありがとう」


 彼の言葉に、私は涙が溢れた。


 直人との日々は、私にとってかけがえのない宝物だ。


 私たちは、図書館でたくさんの本を読んだ。


 それは、私たちの世界を広げ、心を豊かにしてくれた。


 これからも、私たちは共に歩み、愛を深めていく。


 それは、本のページをめくる音のように、静かで温かい、未来への物語。


 そして、数年後、私たちは結婚し、小さな命を授かった。


 図書館「ことのは」は、私たちにとって、二人の愛が芽生え、成長した場所として、いつまでも心に残る特別な場所となった。

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