氷の章
フェイズ1
☆1☆
とにかく、全然、まったく、視界が利かない。
一歩先すら見通せない。
最悪の吹雪だ。
壁面にへばりつきながら、険しい渓谷を踏破すべく、ぼくらは遅々と進む。
サークを先頭に、真ん中をアイナ、しんがりはぼく。
たった三人の強行軍だ。
ようやく渓谷を抜け出し、平野に出ても、見渡す限りの大雪原が続き、猛吹雪も相変わらず。
これで本当に、北方ギース国、アリアン城まで、たどり着けるのだろうか? 不安だ。
☆2☆
ガラージュ――ストームブリンガーを使用し、十万人に及ぶダイカ兵を蹴散らしたシン国だが、いまだに大陸中央、平原地帯にはダイカの残存兵力三十万人が腰を据えて立ちはだかっている。
初戦に勝利し、すぐに同盟を申し込んできたのがワ国だ。
ワ国はダイカにヒイロ島を侵略され、常駐する一万二千の兵をブチ殺された恨みがある。
初戦は様子見だが、アイナの戦いぶりに、ようやく重い腰を上げた。
ワ国の兵士、三万八千、シン国の兵士三万、あわせて六万八千。
ワ国の〈侍〉や〈忍者〉は、計り知れない戦闘力を秘めている。
実質的な戦力は、その倍はあると考えていい。
アイナはさらに、北方ギース国とも同盟を結びたいと言い出し、交渉のため単身ギース国へと乗り込んできた。
交渉が成立すれば、ギース国二万二千の兵が加わり、総兵力六万。
ダイカ三十万と戦えるギリギリのラインだろう。
交渉が成立すれば――の話だが。
☆3☆
アイナの護衛の途中、何度かサークに現実世界での事件について、聞こうとしたけど、アイナがつきっきりで、なかなか話せない。
アルカディナにおいて、現実世界の話は禁句とされている。
サークの様子は以前とまったく変わらない。
現実世界の事件など、何一つ知らない、かのように見える。
表面上、見た目上は、だけど。
☆4☆
「確か、この辺りで、落ち合う予定なんですけど…見当たりませんね?」
アイナが雪原をキョロキョロと見渡す。
ぼくとサークが呆れ果てながら、
「どこの誰が? こんな場所に来るのかな? ギース国と交渉に来たのに、こんな辺鄙な場所で交渉するのかな?」
「でも、ギース国のレリア王子が、ここで会おうって、密書をわたくしに送ってきたんですよ! だ・か・ら、ここで間違いありません!」
「悪いけど、見渡す限り雪原だよ。人っ子一人いないよ。猛吹雪で何も見えないよ。ぼくら完全に迷子だよ。完全にソーナンだよ」
「そーなんだ?」
「シャレじゃなくて…ていうか、レリア王子って、王子が目当てで、こんな場所に来たんじゃないよね? 交渉のために来たんだよね? 密書も本当に王子が出したんだよね? 偽者じゃないよね?」
「に、偽者じゃないですよ! ちゃんと…レリア王子の写真とサインが入ってるんですから!」
アイナがオタオタしながら密書を見せる。
ぼくは手紙をひったくって読み上げる。
なになに、
ダイカ国を蹴散らす勇猛、可憐なアイナ姫様(勇猛で可憐?)。
大切なお話があります。(フムフム)
ギース国、中央大雪原でお会いしましょう(凄い漠然とした場所指定だ)。
ぜひ、お越し下さい。(オイオイ)
アルカディナ暦、×月×日でいかが? 当日、ボク自身が、貴女をお迎えに参上いたします(ホストか!)。
貴女の愛の奴隷(奴隷かよ!)。
レリア王子より。
「これだけ? この手紙って、とりあえず引っ掛かったらメッケもん! みたいな、突っ込みどころ満載の文章だよね! 写真もピンボケで、遠くから撮ったヤツを無理矢理、拡大した、みたいなドットの荒い写真だし! サインはミミズがのたくったようなサインだし! 俺様俺様詐欺並みに怪しい密書だよ! いったいどうしたら、こんな手紙に騙されて、こんな場所まで来るのかな? ってか、一緒に来た、ぼくらの苦労って? いったい?」
「無駄骨…か…」
サークが途方に暮れながら一言で現状をあらわす。
「そんな事ナイもん! イイ文章だもん! 騙されてナイもん! ホシズのバカッ! バカバカッ!」
アイナが涙目で訴える。
「って! バカバカ言っても、罠にハマったかもしれないのに! 逆切れしてどうすんの!」
「ワナじゃナイもん! レリア王子は来るもん! 会うって書いてあるんですから!」
「そんなの、ありえないよ!」
「そんなことナイもん! ホシズのイジワル!」
イジワルって…正論を言っただけなのに、アイナがソッポを向く。
☆5☆
ぼくとアイナが言い争っていると、
ちゅどごぉっおおおんっ!
大雪原に轟音が響く。
吹雪の彼方、遥か前方で粉雪が舞う。
ぼくは索敵魔法を展開、状況を確認。
必死に逃げる者が一人。
その後を追う追跡部隊、約三十の兵士が、
「こっちに向かって来る!」
追跡部隊が〈氷系魔法〉〈氷烈破〉を撃ちまくり、炸裂。
先程と同じ轟音、舞い散る粉雪。
逃亡者が攻撃を上手く避け、ぼくらの近くに逃げ込む。
アイナが歓声をあげる。
「あれはレリア王子! レリア王子ですよ! レリア王子が会いに来たんです! やっぱり、わたくしの言った通りです! 疑い深いホシズはバカなのです!」
「バ、バカで悪かったね! でも、会いに来たっていうより、逃げてきたって、感じだよね? とにかく! 今は彼を助けないと!」
「わかってます! 〈聖なる盾〉!」
アイナがホーリー・スペルを紡ぐ。
レリア王子の周囲に〈聖なる盾〉が展開。
〈氷烈破〉の衝撃を弱める。
体力回復の魔法も唱えたのか、王子の逃げ足が速くなる。
サークが追跡部隊と激突、紅王剣を縦横無尽に閃かせ、次々に倒れる兵士たち。
ぼくも呪文を唱える。
「〈獄殺〉!」
暗黒の霧に包まれ十数人の兵士がバタバタ倒れる。
が、五、六人が逃げ出した。
効果範囲ギリギリで仕留め損なった。
この場の敵は、サークとアイナに任せ、ぼくは逃げた敵を追う。
☆6☆
吹雪のせいで気がつかなかったけど、わりと近くに森があって、敵がそこに逃げ込んだ。
迷わずぼくも森に飛び込む。
枝葉が視界を塞ぐ。
索敵してから、マズい! と気付く。
周囲の木々に隠れ、息を潜めた伏兵が、完全にぼくを包囲していた。
かなりの数だ。
しかも、高レベル臭い。
魔法使いが狭くて視界の利かない場所で、しかも、多勢に無勢で接近戦なんて、愚の骨頂だ。
林立する木の影から敵が躍り出し、ぼくを攻撃。
紙一重で避ける。
同時に呪文詠唱、とりあえず一人倒す。
一人だけならまだしも、一斉に襲い掛ってきたら呪文詠唱も間に合わない。
クソッ! 初歩的なミス! 致命的なミスだ! マズイ! マズイ、マズイ、マズイ! 冷たい汗が、背筋を冷やす。
集中しろ、周囲に気を配れ、気力の切れ目が、HPの切れ目。
用心しながら後ずさる。
途端に敵が次々に襲い掛かる。
間髪入れない集団戦。
ぼくの服が裂け、肉が切り裂かれる。
嬲り殺される寸前――真紅の紅刃が視界一杯に閃く。
無数の紅い光と残像が敵を瞬殺、屠ってゆく。サークだ。
紅王剣を手にサークが敵に立ち塞がる。
敵の動きが止まる。
再び木の影に身を潜め、新手の登場にジリジリと後退する。
☆7☆
「テメェラッ! オレ様ノ命令ヲ無視シテ! 勝手ニ逃ゲンジャネェッ!」
恫喝が森に響く。
声に押されるように、一人、また一人、サークに戦いを挑む。
が、ことごとく倒される。
ぼくも獄殺で援護、隠れた敵を倒す。
形勢は逆転した。はずだが、
「ケッ! 使エネェ奴ラダゼッ!」
森に潜む人物が叫び、魔方陣を展開――魔方陣? なのか? 奇妙にバラけて陣など形成しない。
帯状に拡がる。奇妙な魔方陣。
「〈烈異斬〉!」
サークが突進、ぼくを腕に抱え地を蹴る。
森を飛び越えた瞬間――空間に亀裂が走る。
裂け目が異界と繋がる。
寸前までいた森は、隠れた敵、木々、大地、雪も含め、全てが、千切れ、引き裂かれ、歪む。
形ある物は、ボロ雑巾のように滅多切りにされ、跡形も無くチリヂリのバラバラに分解される。
かつて何かだったものが――雪崩のように崩れ落ち、半分は異界に持っていかれた。
サークが着地。
ぼくが周囲を見渡すと、惨憺たる光景が拡がり、中心に一人の少年がいた。
十四、五歳ぐらい。
黒装束に身を包んだ、一見、少女のような少年だ。
「チッ! ハズシタカ! 魔力ノ消費ガデカ過ギテ、一度シカ使エナイノガ厄介ダゼ! ッタク! プラチナ野郎モ殺シ損ナッタシ! 今日ハ良イトコ無シダナ!」
少年が毒づき、生き延びた数人の仲間を周囲に集める。
「撤退ダ! 〈帰還〉!」
少年が仲間を引き連れ、移動魔法を詠唱した。
☆8☆
少年の姿が消えると、ぼくはその場にへたり込んだ。
思わず声を漏らす、
「た、助かった…あ、ありがとう、サーク。危ないと――」
ポカリッ! 頭を叩かれた。
強くはないけど、結構…痛いですよ、サークさん。
「ご、ごめんなさい」
「深追いしすぎだ。死ぬつもりか? ホシズ?」
「そんなつもりじゃ…ないけど、ただ…」
「ただ? 何だ?」
ぼくが押し黙る。
サークが背を向けて立ち去る。
サークに向かい、
「敵は全部倒さないと駄目なんだ! もう二度と悲劇を繰り返さないために! 敵は全部倒す! ぼくは、そう決めたんだ! 悪者を放っておいたら駄目だ! 奴らはドンドンつけあがる! 最後は手の施しようがない、最悪の事態になる! 今のぼくには、それがよくわかる! だから、ぼくは――絶対に敵は許さないし! 容赦もしない!」
サークが振り向かずに、
「オレが敵だった場合もか?」
「そ、それは…」
「…お前の話は、アルカディナの話だけじゃないな」
ぼくは肯定も否定もせずに逆に聞いた。
現実世界の問題を、
「サークは…サークが…円龍なの?」
豪奢な金髪がほんの少し揺れる。
サークの態度に動揺した様子、気配は、微塵も見当たらない。
いつも通りの静かな、灰の瞳、ちょっと無愛想な――
「そうだ。円龍は現実世界の――オレの本当の名前だ」
ここで否定されれば、それで全て終わり、勇んで出発したけど、ただの勇み足…で済んだはずだけど、
「やっぱり…あの時、日本に来ていたのは…サーク、円龍…なんだね…」
「似ているとは、思ったが…まさか、あの場にいた少年が、ホシズだったとは、な…」
これではっきりした。
ぼくとサークは敵なのだ。
現実世界においては。
☆9☆
ぼくは現実世界の事件をサークに話す。
「〈B・VG〉のせいで白野はおかしくなった。それだけじゃない、世界中に白野の記憶、負の記憶が拡がるところだった。どうしてあんな、〈B・VG〉なんて造ったんだよ! 何で、日本で売ったんだよ! そのせいで白野は、あんな…」
ぼくは息を継ぐ。
深呼吸して気持ちを静め、息を整える。
サークが、
「〈B・VG〉を売る事が、現実世界のオレの商売だ。日本なら半値以下でも儲けが出る。売り上げを見込んで日本の市場に進出した」
「し、白野は? 白野はどうして――」
「一緒にいた少年か? あの少年も擬似波の気配が漂っていたな。ネットを侵食したのが、あの少年…というわけか…」
「だから…どうして? あんな事に?」
「〈B・VG〉には、ちょっとした術式が掛けてある。それは、脳を刺激するパルス放出の際、負の感情を増幅させる仙術、擬似波が流れる仕掛けだ。恐らく擬似波の影響だろう」
サークも雷華みたいに術が使えるのか?
「何で? そんな事を!」
「〈B・VG〉を売るためだ。日本人は中国製品を信用しない。中国製品である〈B・VG〉を売る為には、〈VG〉より良い製品だと思わせる必要がある。〈B・VG〉に施した術式――負の擬似波は、人をよりゲームに熱中、興奮させる作用がある」
「し、白野は、急に術が使えるようになったり、人格が変わったり――」
「一部の例外。シラノ…という例外を除けば、術式は完全に無害だ。負の感情を増幅させる…といっても、術式の目的はあくまで〈B・VG〉が日本に浸透するまでの、単なる起爆剤、副作用の無いクスリのような物で、最終的には〈VG〉以上にゲームを楽しんだ人間が〈B・VG〉をより多くの人間に宣伝すればいいだけだった。口コミほど強力な宣伝媒体は他に無いからな」
「例…外!?」
なおも説明するサークに、ぼくは叫ぶ。
「ぼくは! そんなの認めない! 例外なんて認めない! 副作用は無い? 完全に無害? 口では何とでも言える! 屁理屈はたくさんだ! 白野は現実におかしくなった! 宣伝のため? 金儲けのため? それで白野が例外? 違う! 白野は犠牲者だ! 金儲けの犠牲者だ! 全部! サークのせいだ!」
「オレの責任だとしたら…オレはどうすればいい? 商売を辞めろ…と?」
「それ…は…」
言葉に詰まる。どうすればいい?
「サークの言う通り、今の仕事を…商売を…」
「辞めるわけにはいかない。それは――オレの存在意義に反する」
「存在…意義?」
「オレの存在意義は善と悪の調和だ」
何を言ってるんだサークは? 前にも言ってたような、でも、それはアルカディナの話で、
「それが何で? 今の話と…何か関係が?」
「善と悪の調和には力が必要だ。途方もない力が。力とは物理的な力だけではない。金もまた、巨大な力になる。オレは、どちらも手に入れ、自身の存在意義をまっとうする」
サークの言う事が、さっぱりわからない。
善と悪の調和って? 存在意義って? 何だ? その為に何をしてもいいのか? 許されるのか? 白野のように犠牲者が出てもいいのか? でも、ぼくにも、これだけはわかる。
サークは…間違っている。
☆10☆
アイナとレリア王子が森に入って来る。
サークが二人の元に戻るその背後から、ぼくは小声で呟いた。
「サークは…まだ、ぼくの敵じゃないけど…」
横に並んで一緒に歩いた。
その横顔を睨みながら、
「でも…味方でもない。今は…」
「そうか」
サークの端正な横顔は小揺るぎもしない。
灰の瞳は、あくまで穏やかで、先程のやり取りなど無かったかのように、静かだ。
☆11☆
レリア王子は、白金色のサラサラの髪に、透き通るような白い肌の少年だ。
だけど、一番の特徴は、誰もが好奇の眼差しを向けるであろう、血で染めたような――真紅の瞳だ。
それはともかく、とりあえず、手紙の件をレリア王子に聞く。
「あの手紙の事だけど――」
「手紙ですか? あの手紙って、ボク的には、ちょっと背伸びしすぎて、恥ずかしい内容だなって! 今は、ちょっと反省してます」
アイナの瞳が輝く。
「やっぱり手紙はレリア王子が出したんですね! ホシズは疑い過ぎなのです!」
「う、疑い深くって、悪かったね」それと、「森で綺麗な黒髪の少年に会ったんだけど、たぶんレリア王子を襲った連中のボス…だと思うんだけど…」
「綺麗な黒髪の少年ですか。それは、通称クロカミ王子! です。ギース国内部は現在、シン国派とダイカ国派に別れて、どちらにつくか? で、もめています。ボクはシン国派。クロカミ王子はダイカ国派。彼は一番の武闘派です。昔は友達だったんですが、今は敵同士です! それでもボクは諦めません! きっといつの日かまた、わかり合える日が来ると信じてます! 昔の人もこう言ってました。ワシの若い頃は、もっとこう――」
話しが長くなりそうなので、割愛。
「あの、クロカミ王子についてだけど…」
「クロカミ王子ですか? 彼には恐ろしい通り名があります。別名ハラグロ王子です! 彼は狡猾な罠を張り巡らせ、人を陥れる策士として有名です。罠にハマり何人死んだ事か…彼は〈竜騎士〉でもあります。そしてなんと! 魔法も使える〈魔竜騎士〉なのです! 彼の魔法は、広大なアルカディナ大陸でも、滅多にお目にかかれない代物で、なにしろ魔法が発動したら、大地が、空が、異界へと繋がり、大概の敵は空間ごと真っ二つに切り裂かれる! という噂の魔法で、その魔法を喰らって生きて帰った者は一人もいない! という話です」
「そ…そうなんだ…」
「とにかく、ボク達シン国派の兵二万はアイナ姫に従います! そして、ダイカ国と戦います!」
「え!? 二万も!? 二大勢力だったんじゃ…」
「ダイカ国派は二千人います。結構、大きな勢力ですよね!」
「そ、そうだね。大きいよね。結構、確かに…」
その後、レリア王子の行動は迅速を極め、竜騎士三百騎を含む、ギース国二万の兵が、あっと言う間にシン国軍と合流した。
唯一の不安材料はクロカミ王子こと、ハラグロ王子こと、ええと、本当の名前は何だっけ? 王子王子で名前を聞くのを忘れていた。
☆12☆
アルカディナ大陸。
中央大平原。
西にダイカ軍三十万。
東にシン国、同盟軍八万八千。
両軍が大平原で対峙する。
ダイカはガラージュを警戒し、その効果が及ばないよう、まばらに兵を展開。
先に仕掛けたのは同盟軍だ。
ダイカのように、まばらに兵を展開していたが、両軍が近付くにつれ、徐々に密集形態へ変化。
地上部隊が仕掛けると同時に、大空では竜騎士隊が激しい空中戦を展開。
ギース竜騎士隊、三百騎VSダイカ竜騎士隊、二千騎。驚いたのは、ハラグロ王子が黒竜にうち跨り後方で指揮していた事だ。
ダイカ竜は、南方〈印〉国のイン竜で、その巨体はギース竜の二倍。
体長七メートルはある。
ほとんど傭兵で、装備は南方らしい明るい極彩色。
イン竜は、巨体を生かした長距離飛行による高高度からの爆撃が基本戦法だ。
空中戦には全く不向きである。
対するギース竜は、険しい渓谷や猛吹雪の中でさえ、安定した飛行、卓越した機動性を持ち、空中戦は得意分野だ。
さらに、竜を操る竜騎士の腕前も天下一品。
寄せ集めのダイカ竜騎士隊とギース竜騎士隊では、空中戦において天と地ぐらい力に差がある。
瞬く間にダイカ竜騎士隊が撃墜される。
ギース竜騎士隊にとって、ダイカ竜騎士隊は、いくら数を揃えても、格好の餌食にしかならない。
ハラグロ王子は戦闘中にもかかわらず、さっさと戦線を離脱した。
ギース竜騎士隊が早くも制空権を押さえた頃、地上部隊が激突した。
同盟軍はすでに逆三角形型の完全な密集形態となり、いっきにダイカの中央を突破。
ガラージュを恐れ、部隊、兵士を分散したダイカはひとたまりもない。
三十万の兵が、ほんの数刻で、中央の同盟軍を境に左右に分断される。
空から見ると、同盟軍が引き裂き、通り抜けた跡が、くっきり残っている。
数で劣っても同盟軍は迅速かつ的確な行動で、アイナの指揮を完璧に再現した。
中央突破後、即時反転、次の目標を右翼に定める。
突撃開始。
このまま右翼、左翼と、各個撃破されるのを恐れ、ダイカが慌てて左右両部隊を中央に集結させる。
右翼に突入する同盟軍を避けつつ、徐々に巨大な密集形態を取る。
ダイカ自慢のバリスタ部隊は、すでに制空権を得たギース竜騎士隊により一掃され、今は飛び道具なしの直接対決以外ない。
アイナが全軍の突撃を中止。
後退を指示する。
ギース竜騎士隊がこれを援護。
今度はこちらの攻撃――とばかりに、ダイカが突進しようとする。
が、その遥か上空、超・高々度――索敵魔法の範囲外から、一体の竜が、ダイカ残存兵二十万の、ど真ん中に飛来。
巨大な翼を広げ、戦場に舞い降りる。
白金色に輝く鱗。
並の竜を凌駕する巨躯。
巨竜をより一層、象徴、印象付ける――紅い眼〈紅眼白金竜〉竜騎士・レリア王子の巨竜だ。
複座で、ぼくも乗っている。
ガラージュの術式は上空で展開済。
残すは呪文詠唱のみ。
ぼくは最終式〈発動禁止・呪文〉を厳かに詠唱する。
「白き聖なる氷柱、氷刃、氷隗、穢れを知らぬ無垢なる乙女…集え――〈聖なる館〉!!!」
ダイカ兵二十万の表情が凍りつき、字義通り凍る。
フワリ…と、純白の靄と霧が、ダイカ全軍を覆い隠す。
通り抜けた後には、全身を純白に染めた二十万の兵士が残る。
純白の、無数の彫像と化した兵士が、陽の光を浴び美しく輝く。
大地、大気さえもが、純白に美しく輝く中。
バキンッ! バキン! バキンッ! 耳障りな無数の破裂音が広大な戦場に響く。
絶対零度。
断熱消磁にさらされた物質は、硝子細工のように脆くなる。
突然、常温に戻れば、瞬時に砕け散るだけだ。
彫像の全身が破裂し、真紅の粉雪となって飛び散る。
まるで、風に乗った真紅の粉雪だ。
鮮血の粉雪が、高く、舞い散り、舞い踊る。
フェイズ2
☆1☆
「星図! 星図!」
ガックン! ガックン!
ぼくの名を呼びながら雷華が腕を振る。
「ってぇ! 何? 何なの? 今、いいとこなんだよ!」
ぼくは何事かと思いながら、アルカディナをセーブし、額から〈VG〉を外す。
「見ろ! 上海の街が見えてきたぞ!」
「ほんとだ」
眼下に広がる上海に、超高層ビル群が立ち並ぶ。
まるで近未来の都市のようだ。
なかでも東方明珠タワーは、今の上海を象徴するように、一際高くそびえ立つ。
ぼくと雷華は、羽田の臨時国際線から上海行きの飛行機に乗り込み、一路上海へ旅立った。
不幸中の幸いは、新型ウィルスが猛威をふるっているせいで、ただでさえ安い格安航空券が値下げして、さらに安くなっていたことだ。
途中ヒマなので、ぼくはアルカディナをプレイしていた。
が、雷華が逆八ノ字の眉を吊り上げ、ぼくを睨む。
「君という男は、ホントに、いつもいつもゲームばかりやって、何でそう、ゲームばかりするのかな!」
短時間でも十分、アルカディナは楽しめる。
何しろ、向こうの時間の流れは、現実世界の二十四分の一。
一時間が二十四時間だ。
その仕掛けは、脳を活性化して思考速度を二十四倍にパワーアップしている、と聞いたことがある。
現実世界の十分も、アルカディナでは二百四十分。四時間遊べるわけだ。
「いや、でも、結構重要な情報が、ゲームの世界にもあって…どうせヒマだし」
「ヒマとは何だヒマとは! 私はタイクツなオンナという事か? ツマンナイ仙術使いという事か? どうせ修行の毎日でロクに女をミガいてないだろう! とか、そういう事か! そういう事だな! そうだよ! どうせ私はロクな女じゃないよ!」
雷華が涙目で訴える。
何だ? 急に何を言い出すんだ? この娘は?
「私は今、超・後悔している! 何で、こんな、ゲーム好きに付いて来たんだろう? わたしみたいな美少女が、そばにいながら…ゲーム、ゲームゲームだ! わたしよりそんなにゲームが好きか! ああ~! もう! 超ムカつく! キィ~!」
美…少女? って誰?
「だいたい君はオトメごころ、がゼンッ! ゼン! わかってない!」
え? 乙女心?
「せっかく思春期、真っただ中の少年少女が二人! 二人っきりで広大な中国大陸へ渡ろう! というのに、ゲームばかりで何も語らないって…どういう事? ロマンの欠片も無いよ! 信じらんないよ!」
いや、ぼくも信じられません。
君の言う事が。
「昔の歌には『わたしを星まで連れていけ』とか、歌った歌もあるのに、君の場合、私を地獄に連れて行きそうだな! ホシズ!」
完全に雷華がキレている。
バリッ! とか、鳴る音と共に、青白い火花が舞い散る。
こんな所で放電されたら飛行機が墜落する。
ぼくはビビりながら、とにかく雷華をなだめすかした。
☆2☆
なんとか雷華を落ち着けて、その頃には上海国際空港に到着した。
ぼくが〈VG〉を再び装着すると、
「またゲームか!」
と案の定、雷華が逆八ノ字の眉を吊り上げた。
ので、すかさず言い訳。
「ち、違うよ! ゲームじゃないよ! 〈VG〉はリアルタイムの翻訳機能が付いているから、中国語の翻訳をさせようと、思ったんだよ」
雷華がちょっと感心する。
ぼくの〈VG〉を手に取り音声を聞く。
「ふむ。確かに北京語に変換されているな」
〈VG〉をぼくに返す。
「ちなみに、今、わたしは北京語で話しているのだが、ちゃんと変換されているのか?」
ぼくが首肯する。
「だが、そんなゴツイゴーグルを付けていたら、敵に、ぼくは日本人で、敵を探しに来ました…と宣伝するようなものだ…」
雷華が左右に首を振り、ロビーを見渡す。
「まだ蘭花は来てないようだな。よし、ちょっと待て」
雷華がロビーの座席に座りこみ、仙術で何か作り始める。
手持無沙汰になったぼくは、ロビーをブラブラ歩き回る。
十五分も歩けば見る物も無くなる。
ふと、ロビーの入り口に立つ一人の少女を見る。
腰まで伸びた白金色のサラサラの髪。
透き通るような白い肌。
顔立ちは雷華に似ているけど、表情は柔和で優しげ。
一番の特徴は、誰もが好奇の眼差しを向けるであろう、血で染めたような真紅の瞳。
恐らく、先天性・色素欠乏症――アルビノに違いない。
けど、人目で、その娘がある人物ではないか? と、ぼくは思い、思いきって尋ねてみる。
〈VG〉の翻訳機能を起動、ゴーグルを装着しないで、音声部分だけ軽く耳に当てる。
「し、失礼します。ちょっと聞きたい事があるんですが…もしかして君は、アルカディナというゲームをご存知ですか?」
彼女もぼくの姿に見覚えがあるようで、いきなり話しかけたぼくに不信感もいだかず、笑顔で答える。
「はい。知ってるどころか、そのゲームのプレイヤーです」
と、答えた。
ぼくはまさか、と思いながらも、レリア王子の名を口にする。
「も、もしかして、君は、アルカディナでレリア王子と名乗っていませんか?」
「はい。その通りです。アルカディナでは、レリアと名乗っています。性別を変えていますが、失礼ですが、もしかして、あなたは、アルカディナのホシズさんじゃないですか? 見た目も雰囲気もそっくりです」
「は、はい。アルカディナのホシズは、ぼくのアバターで、あ、自分は星図って言います。まさか、こんなところでレリア王子に会えるとは、思いもしなかったな。あはは」
二人で話していると、雷華がスッ飛んで来て間に入り、ぼくと彼女を引き離す。
「わ! わたしという者がありながら! 妹の蘭花をナンパするとは! いい度胸だな! 君は!」
物凄い誤解を招く台詞を口にしながら、雷華が怒鳴る。
え? 今、妹とか、言った? 蘭花が、
「雷華姉様、誤解をしないで下さい。これは違うんです。ホシズさんは…もとい、星図さんは、ゲームのアルカディナで一緒に戦った仲間なんです。つまり戦友です。偶然会えて、つい嬉しくなって、ゲームのノリで楽しく話していましたが、軽卒でした。反省します。ゴメンなさい。雷華姉様」
ペコリ と、蘭花が頭を下げる。
「いや、べつに、蘭花は悪くない。星図…クン、にも、ちょっと言い過ぎた。けど、ゲームで知り合ったとはいえ、しょ、初対面の、こんな年端もいかない、可愛いい妹を相手に、いきなりナンパと誤解される行為をするのは…どうかな~と思うけどな! 星図…クン! コホン。というか、少々軽率じゃないか? 星図…クン! そう思わない! かなっ!」
所々語気が鋭くなるのを必死に抑える雷華…しかも、何故かクン付け。
雷華を怒らせても話が進まないので、蘭花と辻褄を合わせる事にした。
ついでに現実世界の蘭花を再確認。
全身は白のセーラー服。
首まで覆うインナー・シャツ着用。
スカートは膝まで隠れるフレア・スカート。
ベレータイプの帽子を斜めにかぶり、胸元には〈護国聖常〉学院の校章が付いている。
セレブが通う超・有名高校だ。
バリッ!
「うわっち!」
ぼくが叫ぶ。
雷華がいつの間にか帯電している。
猫のように大きな瞳が、今は妖しく細められ、ギラギラと光を帯びながら、ぼくを睨む。
「星図…クン。君は何で、蘭花の胸元ばかり見るのかな? わたしという者があり…それはともかく。そんなに女の子の胸に興味があるのかな? 星図…クン?」
何故か不気味なクン付けが続く。
非常にヤバイ気がする。
放電寸前だ。
蘭花も危険を察知したのか、ぼくと雷華の間に入って仲を取りなそうとする。
ぼくも必死に説得する。
下心は一切無い! と。
そもそも蘭花の胸はペッタン…いや、将来が楽しみな、成長途中の第一段階で、やましい心が湧くわけがない! と、力説。
すると、納得したのか雷華が独り言をブツブツ呟く。
「そ、そうだな。確かに蘭花の胸は、わたしより遙かにペッタン…というか、薄い。まだまだ成長途中だし。うむ。どうやら、わたしの考え過ぎなようだ」
『ペッタン』とか『成長途中』とか『薄い』とか聞こえるたびに、蘭花が、
「はうぅ~」
と、嘆息の声を漏らす。
ちょっと可哀相だが、今は蘭花に避雷針代りになってもらう他ない。
「それと星図、ちょっと、コレを着けて欲しいのだが。試してくれないか?」
雷華がイヤホン。
ピンマイク付きを、ぼくに渡す。
先ほど仙術で作っていたモノだ。
ぼくが装着すると。
「とりあえず、わたしの言う事が分かるかな?」
「えっと? もしかして北京語? いや、普通に日本語に聞こえるけど」
「うむ、問題ないようだな。擬似波で作ってある翻訳機だ。普通の人間には見えないし、見える奴がいても、イヤホンにしか見えない。ゴツイゴーグルよりは、遙かにマシだろう」
「そ、そうだね。ありがとう、雷華」
ぼくが感心したように礼を言うと、雷華が眉間にシワを寄せ、怒ったように頬を赤くして、トンデモない事を口にする。
「べっ、別に、礼なんていい! それより! ゲームは、今後、一切禁止だな! あのゴーグルを着けたら、即! ブチ壊すから! 覚悟するように!」
「何それ!? 横暴にもほどがあるよ!? ゲームが無くなったら、ぼくの楽しみが何一つ無くなっちゃうじゃないか!?」
ぼくは必死に抗議したが、雷華はガンとして聞き入れてくれなかった。
☆3☆
旅行用の組み立て式デッキ・チェアに漆黒のゴスロリ・ファッションに身を包んだ少女が悠然と座っている。
レースをあしらったドレスから白い足を覗かせ、上目遣いにぼくら三人を睨みつける。
「いつまで待たせんのよ、たくっ! これだから日本人の付き人なんて嫌なのよ。さっさとよこしなさいよ! もうすぐ開演なのに、こんな直前で食事なんて、上手く歌えなかったら、あんたの責任だからね! 蘭花!」
蘭花が少女に手作り弁当と飲み物を渡す。
少女がぼくと雷華を睨み、
「あんた達が蘭花の姉とそのお友達? スタッフ以外は立ち入り禁止なんだけど、まあ、大目にみてあげるわ、せいぜい邪魔にならないよう気をつけてね」
蘭花と雷華が他のスタッフたちにも弁当を配ってまわる。
少女がブツクサ文句を言い出す。
「何でスタッフの弁当まで作るのよ? 裏方に媚びても、何の得にもならないのに」
少女が弁当に手を付ける。
ビックリしたように瞳を見開く。
「ま、まあ、美味しくは、あるけど」
ここは上海国際空港からタクシーで三十分の浦東エリア。
世界でも有数の敷地面積を誇る大規模デパートの中だ。
今はイベントを行う野外広場のセット裏にあるスタッフ休憩所にいる。
野外広場は千人近い客を収容できる大劇場といってよい大きさだ。
ぼくと雷華、蘭花は、野外広場へ来る途中、南京東路エリアに住む雷華の伯母、冬架のアパートに立ち寄り、といっても冬架は不在だが。
例の手作り弁当を手早く作り、そのあと、野外広場へ戻ったのだ。
ちなみに、蘭花は冬架のアパートに居候しながら、ゴスロリ少女の付き人のバイトをしている。
今日は野外広場で子供向けのショウが開催される予定で、その後、入れ替わりに少女の新曲発表会が行われるのだ。
☆4☆
少女は黒姫といい、上海で人気急上昇中のアイナドルだ。
年は十四、五歳ぐらい。
幼い顔立ちに華奢な体つき。
大きく黒々と輝く瞳は、美しくも妖しげな光を放つ。
漆黒のゴスロリ・ファッションに身を包み、艶やかな黒髪をツインロールにしている。
はてな? この顔立ち、どこかで見たような? 気がするけど。
黒姫が、
「にしても、子供向けのセットを作るのに、随分と時間が掛かるのね。こんな事なら〈VG〉を持ってきて、暇潰しにアルカディナでもプレイすればよかったわ」
「ハッ! ハラグロ王子!」
思わず、ぼくが叫ぶ。
黒姫が、キョトンとした顔つきでぼくを見る。
が、すぐに鋭い視線で、
「たしかに、アルカディナでは王子って呼ばれてるけど。ハラグロじゃないわ。クロカミ王子よ」
黒姫がマジマジとぼくを見つめる。
訝しげに問いかける。
「あんた、もしかして、アルカディナのホシズじゃないの? なんか、凄い、似てるんだけど? リアルのホシズは日本人で、オリジナルのデータを使っているって、噂で聞いた事があるわ。けど…アルカディナのホシズと比べると、まるでダサイし、サエないし、印象が薄い気がするわね。っていうか薄過ぎ! でも、まあ、ホシズに似てなくもないけど」
何か、酷い言われようだけど、とりあえずアルカディナのホシズです。
と、答える。黒姫が激高、
「あんただったのね! アタシの計画を台無しにしたのは! 本当なら、プラチナ野郎をおびき出して、やっつけるつもりだったのに! その後もダイカをコテンパンにしてくれて! アッタマくる! だいたい、ガラージュを使うなんて! 卑怯じゃない! 禁呪って書いてガラージュでしょ、使っちゃいけない魔法って事よね! ルール違反もいいとこだわ!」
ハラグロ王子に卑怯とか言われた。
どっちが卑怯なんだか。
「まあいいわ。いずれ全員、恐ろしい罠に嵌めて、とっちめてやるから。今に見てなさい。アタシは絶対! 諦めないわよ!」
罠に嵌めるって、そーいうのを卑怯と言うのでは?
☆5☆
ドスン!
突然、鈍い音がセットの裏側に響く。
会話を打ち切り、ぼくと黒姫が、音のしたほうに走る。
すでにスタッフが集まり、中心に倒れている人物が、担架で運ばれてゆく。
セットの組み立て中、二メートルの高さから足を滑らせ、床に転落したそうだ。
幸い、命に別条はないけど、スタッフが困った表情を浮かべる。
時間がないのに、作業をする人員が一人減ったのだ。
当然、作業は遅れる。
ケガをしたスタッフの仕事を誰かが負担しなければならない。
一人当たりの作業は増える事になる。
スタッフの顔つきが見る見る曇る。
それも仕方がない。
そんな中で、蘭花が、
「アタシが代わりに手伝います! 何でも言って下さい! 困ってる時は、お互い様です!」
大きな声で申し出る。
「蘭花が手伝うのなら、姉のわたしも手伝うぞ。わたしに出来る事なら、何でも言ってくれ」
雷華が蘭花に続き申し出る。
「な、何言ってるの? 蘭花? あんたはアタシの付き人でしょ! 勝手な事するんじゃないわよ!」
黒姫が抗議の声をあげる。
が、誰も聞かないフリ。
ぼくはスタッフの邪魔にならないよう、黒姫を休憩所に連れ戻す。
スタッフが次々に雷華と蘭花に指示を出す。
二人は素早く指示をこなし、スタッフを驚かせる。
女の子の細腕では到底、無理な大道具を、蘭花は軽々と運び、指示に従い正確に配置する。
熟練のスタッフでなければ不可能な釘打ちを、雷華が見事にこなす。
スタッフ一人どころか、二、三人分の仕事を姉妹二人が楽々とこなした。
瞬く間に作業が進み、開演十分前には、キッチリ全作業が完了する。
スタッフから歓声と感謝の声が飛び、蘭花がスタッフに招かれコメントを求められる。
蘭花がオズオズと話す。
「いえ、先ほども言った通り。困っている時は、お互い様です。それに、開演はこれからです。勝負は、まだこれからです。気を引き締めて、事故の無いよう、お互い頑張りましょう!」
蘭花の言葉に、スタッフ一同が気勢を上げる。
いつのまにか黒姫がセットの裏で誰に言うともなく愚痴をこぼす。
「何よ、何よ、アタシの新曲発表会なのに! アタシが主役なのに! おのれプラチナ野郎! 絶対! いつか思い知らせてやる!」
「って、蘭花がプラチナ王子って事、知ってたんだ」
「当たり前でしょ。アタシが待ち時間に退屈してたら、付き人の蘭花が〈VG〉で遊んでるから、無理矢理取り上げて、遊び始めたのがキッカケ。まあ、今じゃ アタシのほうが、遥かにレベルは上だけど」
ゲームのレベルは上でも、人としては最低だな。
そういえば、何でアルカディナでは少年のアバター姿なんだろう? 二人とも? 黒姫にそれとなく聞いてみる。
「昔、女の子のアバターで遊んでいたら、リアルでも女の子じゃないかって、つきまとわれて、それ以来、アタシは少年のアバターを使っているの。出来るだけ、美しいアタシに似せてあるけど」
左様ですか。
「蘭花は…何か、別の理由らしいわ。教えてくれないけど」
そのうち、蘭花にもそれとなく聞いてみよう。
☆6☆
時刻は十二時三十分。
開演の時間だ。
広場は〈パケニャー・モンスターズ〉ショウ目当てに集まった子供達の異様な熱気に包まれている〈パケニャー・モンスターズ〉通称〈パケモズ〉は、アルカディナに登場するモンスター、パケニャーのスピンオフ作品だ。
パケニャーは、黄色と白のフサフサした毛を持つ、一見可愛らしい猫型モンスターだが、実は強烈な電撃攻撃を得意とする強力モンスターだ。
少年とパケニャーが協力して戦うアニメが日本で制作されるや、世界中で爆発的大ヒット、超人気キャラクターに成長した。
☆7☆
「なんでアタシがガキ相手に歌わなきゃなんないのよ! アタシの新曲発表会は、ショウの後でしょ! ファンだってまだ来てないじゃないの!」
黒姫が金切声をあげる。
舞台も役者も揃っている。
なのに、パケニャーの着ぐるみを積んだ車が、ガス欠で遅れている。
車が到着するまでの約十五分、黒姫に場を繋いで欲しい。
と、スタッフが要請しているのだが、黒姫は一向に首を縦に振ろうとしない。
「そんなのそっちの勝手な都合じゃない! アタシには関係ない! ふざけんじゃないわよ!」
「そ、それでしたら、アタシが…」
蘭花が何か言おうとした途端、
『パケニャー! グッドだぜ! ズンジャカ、ジャカジャカ、ズ~ン♪』
聞き覚えのある着信メロディーが鳴る。
『空の中、海の中』
とか、
『スカートの下』
とか、聞き覚えのある歌詞が続く。
蘭花が携帯電話を取り出し、黒姫に渡す。
事務所の連絡みたいだ。
気の強い黒姫が丁寧語で応対する。
「ですが、それはスタッフの落ち度で、はい、はい、わかりました。歌います。すぐ用意します。はい、すみません。以後、気をつけます。パパ…じゃなくて、しゃ、社長」
携帯を切って蘭花に渡す。
黒姫の黒々とした瞳が、怒りに満ちた光を放ちながらスタッフ全員を見据える。
「チクッたわね…ギリ、ギリリ…よくも、この…アタシを…ギリギリ、ギリ…」
耳障りな歯軋りの音と共に、怨念の籠った凄まじい声音を絞り出す。
スタッフ一同、ぼくも含め、恐怖で青ざめつつ、目を合わせないよう視線を逸らしまくる。
「パパ…じ、事務所の社長が…カンカンに怒ってたわよ…なんで歌わないんだ? って」
視線を逸らしてなお圧搾重機で押し潰すような物凄いプレッシャー。
「いい…わよ。歌ってやろうじゃないの。ただし…場を繋ぐ十五分間だけよ」
言い終わるや黒姫がステージへと向かう。
重圧を逃れたスタッフが我に返り、慌ててステージの裏を駆け巡る。
奇妙な変則ショウの始まりだ。
☆8☆
耳をつんざく大音量、巨大スピーカーが、雷鳴のごとく響く。
エフェクトを効かせたドラム・マシン、ベースがハイ・スピードでリズムを叩きだす。
先行するメイン・メロディが裏メロに切り替わるや、黒姫の圧倒的ボーカルが野外広場の主役として爆発的に拡散、炸裂する。
幅広い音域は、高音、さらに超・高音さえ楽々と安定、持続し、絶対に音を外さない。
ずば抜けた声量はマイクが必要ないほどだ。
息継ぎもせず、どこまでも続く伸びやかな歌声は、人気、実力、ともに彼女が本物であることを証明している。
選曲は、彼女のデビュー曲とチャート入りした最新の二曲。
計三曲。
だが、子供の反応はシビアだ。
最高の歌い手であろうと、馴染みのない曲には容赦がない。
始めこそ圧倒されてポカンと聞いていたものの、しだいに飽きたのか、席を立ったり、大声で泣き出したり、なかにはウルサイとか言って耳を塞ぐ子もいる。
喜んで聴いているのは、かなり前から子供達に混じって席を陣取っていた、黒姫の熱狂的ファンだけだ。
☆9☆
「最悪…最っ低のステージだわ…こんなライブは二度と御免よ」
着ぐるみ車両はまだ到着していない。
あと十分だけ頼みます、と頭を下げるスタッフたち。
対して黒姫は、マイクを床に叩き着け、大声で罵倒する。
「歌ならアンタが歌いなさい! ざっけんなっ!」
異様なハウリングが響き、黒姫はステージを離れ楽屋へ向かう。
「あ、あの、アタシが代わりに出ましょうか? いえ、ぜひ出させてください! 十分、必ず繋いでみせます!」
蘭花がスタッフに申し出る。
選択の余地はない。
子供達には一刻の猶予もない。
上海で興行の仕事を続けたいなら、失敗は許されない。
多少の妥協は許されても、だ。
☆10☆
野外広場は子供達のカエル・コールとパケニャー・コールで収拾がつかない状態だ。
今日のイベントは完全に失敗。
スタッフは解雇され、再就職まで、鬱々とした日々を送る。
そんな絶望的な状況で、蘭花だけは溌剌とした笑顔で、ステージへ向かう。
クルリと子供達に向き直り、ペコリ と挨拶。
顔を上げ、マイクも使わず、スピーカー並みの大音声で子供達に呼びかける。
「みんなっっっ!!! 元気いぃっ!!!」
ザワついていた子供達が思わず蘭花を見る。
勘のイイ子供、何人かは元気! とか返事を返すが、ほとんどの子供はキョトンとしている。
「もう一度っ! みんなっ! 元気いぃっ!!!」
親にせかされ、半数の子供が返事をする。
「まだまだっ! もう一度っ! みんなっ! 元気いぃっ!!!」
ようやく子供全員の声が揃う。
注意力のある子供は、蘭花の鮮血のような紅い瞳に気付きビックリするが、彼女の天真爛漫な微笑みに、気にも留めなくなる。
マイクのスイッチを入れ、やや、かすれた声で蘭花が、
「パケニャーさんから、みんなに伝言があるよ! よ~く聞いてね。『パパーニャ、パパンニャ、ニャー!』はいっ! パケニャーさんは何て言ってるのかな?」
何って? 何? このクイズは? 子供達が沈黙する。
また子供が暴走するんじゃないか? と、心配するが、雷華が、
「『遅れてゴメンなさい!』だな」
とか翻訳する。
「えっ? わかるんだ、アレ?」
雷華の瞳がキラリと光る。
当然だ、と言わんばかりに胸を反らし、同時に一人の子供が声を上げる。
「ハイ! 『遅れてゴメンなさい!』です!」
少年の答えは雷華と同じだった。
うっそ~ん。
蘭花が、
「当たりです! もう一つ伝言があるよ! 今度はチョット難しいかな? 『パパ~ニャ、パニャニャ~ニャ、パッニャニャ、ニャ!』と言ってるよ! わかるかな?」
全然ワカリマセン。
すかさず雷華が、
「『ミンナおとなしく待っててね!』だな」
ほぼ同時に子供が、
「ハイ! 『ミンナおとなし待っててね!』デス!」
蘭花が笑顔で、
「正解です! よく出来ました!」
なんか…他の子供もみんな納得顔で…完璧に意思疎通が出来てる様子だ…わからないのは…ぼくだけか?
「パ、パケニャー語…? 子供達の間で流行ってるのかな…? パケニャー語」
雷華がすかさず、
「そんな妙チクリンな言語が流行るはずがないだろう」
「いや、でも、アレ、アノ言葉は一体?」
「星図…正直、わたしはガッカリだ。君には、オトメ心はおろか、パケモン心すらわからないのだな」
「わからないよ! わかるほうが無理だよ! パケモン心って? 何?」
雷華が長い長い溜息を吐き、
「スマン…星図。子供心という…純心、無垢な気持ちを失った、今のお前に、ワカレと言うほうが無理だった…本当にスマン」
スマンとか謝られても全然、謝られた気がしないよ! 雷華が諦めきった、厭らしいモノ、汚いモノを見る目付きでぼくを見つめる。
何これ何これ? スッゴイ居心地が悪いんですけど。
そんな気分を、ぼくが味わっていると、スタッフが、あと五分、と合図を送る。
ステージの影から雷華が指を五本立て、蘭花に合図を送る。
気づいた蘭花が一連のパケニャー語クイズを終了し、
「みんなっ! どんな歌が聞きたいっ!?」
と問うと、子供達は当然のように、
『〈パケニャー! グッドだぜ!〉』
と叫ぶ。
「〈パケニャー! グッドだぜ!〉だね! オッケーいくよ! スリー、ツー、ワン!」
『〈パケニャー! グッドだぜ!〉』
蘭花と子供達のピッタリと息の合った大合唱が始まる。
☆11☆
パケニャー・ショウは三十分遅れて始まった。
笑いあり、涙あり、バトルありのショウは、子供達に大受けだった。
あとはラストシーンを残すのみ。
だが、再びハプニングが起きる。
問題は雪だ。
どういう事かというと。
ラストシーンにおいて、主人公サトリは、仲間が傷つかない戦い方を主張するが、パケニャーは傷ついても戦うべきだ。
と、譲らない。双方の意見が食い違い、サトリとパケニャーはケンカをする。
結局パケニャーは、仲間の元を飛び出し、道に迷い途方に暮れる。
そんなパケニャーに、追い討ちをかけるように、冷たい雪が降りだして、ますます孤独に襲われる。
というシーン。なのだが、肝心の雪が無い。
といっても、発砲スチロールを砕いて作った、作り物の雪なのだが。
とにかく、それが突然なくなったのだ。
黒姫が、
「いいじゃない雪なんか無くったって、どうせ子供騙しの安っぽい猿芝居なんだから、余計な演出しないで、さっさと終わらせればいいのよ」
今までのスタッフの苦労を無駄だ。
と、言わんばかりの黒姫の態度に、さすがに温厚なスタッフも険悪な空気になる。
数人のスタッフが黒姫に詰め寄ろうとする。
が、一人のスタッフが、雪の置いてあった辺りに黒姫がウロついていた。
と、口にする。
すると、そうだそうだ。
と、他のスタッフまで同意し声をあげる。
確かに、黒姫は楽屋をウロついていた。
そして、その辺りにビニール袋に入った雪が置いてあった…はず。
「アタシを疑っているの!? 冗談じゃないわ! 何でアタシが、ガキ相手の猿芝居を邪魔しなきゃなんないのよ!」
スタッフは納得しない。
最早、黒姫に掴みかからんばかりの勢いだ。が、
「証拠はあるのか? 誰か、黒姫が雪を持って行くのを見た。と、ハッキリ証言出来る者は居るのか? 真相がはっきりしないのに、喧嘩腰で詰め寄るのはおかしいぞ」
雷華がスタッフと黒姫の間に入る。
蘭花も黒姫をかばう。
「そうです! きっと清掃さんが間違って持って行ったんです! みなさん落ち着いてください!」
蘭花の言葉に、ようやくスタッフ、黒姫の双方が冷静さを取り戻す。
だけど、雪が無い、という事実に変わりはない。
落ち込むスタッフに蘭花が笑顔で話す。
「雪ならアタシに任せてください! 得意中の得意ですから!」
その場の全員がポカンとする。
雷華がフォローを入れる。
「ああ! あれだ! 蘭花は気象に詳しいのだ! 雪の降る天気予報は任せて! という意味だ!」
凄い…無理のあるフォローだ。
でも、とにかく、蘭花、雷華、そして、ぼくの三人は、何でぼくまで? は、ステージ裏。
セット最上段の、雪を降らす仕掛けの所で待機することになった。
スタッフは半信半疑。
雪の代わりに蘭花が何かを降らすのだろう。
と、予想しているようだ。
降らないなら、それも仕方ない。
ぐらいの気持ちだ。
☆12☆
舞台最上段から客席を見下ろす。
広場は子供達で溢れ返り、その顔は笑顔に輝いている。
蘭花が誰に言うともなくつぶやく。
「子供の笑顔は最高ですよね。子供に笑顔を与えるお仕事は、子供に夢を与えるお仕事です。そんなお仕事が出来たら、きっと、アタシも幸せです…うぅ~。はっきり言います! アタシの将来の夢は、せ、声優さんになる事! なのです!」
蘭花の頬がほんのり紅潮する。
「歌も、お芝居も大好きですけど、本当の夢は声優です。アルカディナのアバターを少年にしたのは、少年役の練習、という意味があるんです」
雷華が、
「恥ずかしがることはないぞ、蘭花。星図は、人の夢を馬鹿にしたり、茶化したりするような、そんな奴じゃない。本音で話せる奴だ。よし! 本音ついでに、わたしの夢も語ってやる! 聞きたいか? 星図?」
「ちょっと待って」
「えっ! わたしの夢は聞きたくないのか! 星図!」
「もう合図が来てるよ。雪を降らさないと」
セットの下からスタッフが雪を降らせてくれ――と、合図を送っている。
「く、仕方無い。頼むぞ、蘭花」
「はい、任せてください!」
まるで神に祈りを捧げる乙女のように、片膝をつき、両手を組む。
そして厳かに詠唱を始める。
「冴える乙女の氷の刃――舞い上がって!」
蘭花の全身が白く輝く。
「〈雪月下〉!」
一陣の冷風が吹き抜ける。
そのすぐあとだ。
雲一つない空から、
フワリ、フワリ、
と、真綿のような雪が降ってくる。
仙術の、擬似波で造った雪だ。
すっかり忘れていたけど、蘭花も仙術の使い手として修行を積んでいる。
雪は舞台だけではなく、広場中に舞い落ちた。
客席の子供達が歓喜の声をあげ、はしゃぎまわる。
本物の雪が急に降ってきたのだ。
大人だって驚く。
広場が一時騒然となるが、舞台にパケニャーが登場した途端、歓声が静まる。
子供達にとってパケニャーは、雪より大切な現実に存在する友達の一人だ。
パケニャーが雪の冷たさに身震いしながら、空を見上げ、一人ぼっちの孤独感に襲われる。
客席にも雪は降りつのり、子供達も同じ気持ちを共有する。
舞台と客席は一つとなり、ついに待ち焦がれたサトリと仲間が駆けつける。
すると、二人はすぐに仲直り。
そして迎える大団円。
舞台は大成功のうちに、その幕を下ろした。
☆13☆
パケニャー・ショウが終わり、広場から帰る親子と入れ替わりに、黒姫のファンが押し寄せてきた。
スタッフと一緒に、ぼくと雷華姉妹が客席の整理に追われる。
蘭花の仕事の見学のつもりが、いつのまにかスタッフの一員となってしまった。
まあ、いいけど。
舞台に近い客席で、ファンの若者と親子連れが、何か言い争っている。
とりあえず仲裁に入った。
親子かと思ったら、お爺さんと孫だった。
パケニャー・ショウが終わったのに、子供が席を譲らない! と、興奮する若者を、ぼくがなだめすかす。
お爺さんは早く帰るよう孫を説得するが、孫は一向に耳を貸そうとしない。
仕方がないので、とりあえず若者を別の席に案内する。
この子供も黒姫のファンだろうか? 精彩さを欠いた暗い子供だ。
その瞳は、生気や輝きの皆無な、作り物めいた、まるで人形のような瞳だった。
お爺さんも孫も、ホームレスとは言わないまでも、どこか薄汚れた感じの服装で、よけいに暗い印象を与えている。
お爺さんが、
「スタッフさん。すみませんのお、この娘の両親は、新型ウィルスで二人とも亡くなってしまったのじゃ。生前、娘をアマチュアだったころの黒姫のライブに連れて行った事があるんじゃ、この娘はその時の思い出を忘れられないんじゃろう」
と、ぼくに弁解した。
☆14☆
アクシデントの連続だった。
しかも、多分、故意。
黒姫の新曲発表会は波乱に満ちていた。
というより、最初から滅茶苦茶だった。
歌の途中で打ち込みの音程が上がったり下がったり。
リズムが速くなったり遅くなったり。
その都度、絶対音感とリズム感で曲に対応する黒姫だが、さすがにBGM自体がブツ切れし始めると、どうにも手の打ちようが無くなる。
しまいには巨大なハウリングを響かせ、BGMが完全に沈黙。
いかに天才的才能の持ち主でも、これでは歌いようがない。
黒姫がマイクを高々と掲げ、また叩きつけるかと思ったら、静かにステージの上に置いた。
そして、そのまま客席を振り返りもせず立ち去る。
実質的な新曲発表会の打ち切りだ。
マスコミの注目を集めたライブだけに、惨憺たる内容と、一言の謝罪もない黒姫の態度に、相当なバッシングが予想される。
誰もが黒姫の破滅を予感したはず。
だが、彼女を絶望の縁から呼び醒ます、幼い声が広場の中から高々と、いや、死に物狂いの絶叫となってほとばしった。
お爺さんと一緒に来ていた子供の叫びだ。
「お姉ちゃんガンバッテー! お歌、歌ってー!」
彼女の歩みが止まる。
幼い子供の叫びが二度三度、続けられる。
ファンも子供に負けまいと声を張り上げる。
黒姫がステージの中央に戻り、マイクを握り直す。
マイクを試すが、やはり音は出ない。
彼女の瞳に挑戦的な光が宿り、唇元には不敵な笑みが浮かぶ。
仕方なく彼女が選んだ曲は、名も無いブルース。
ゆったりとした、切ない歌声と歌詞。
聴き手の心を揺さぶるフレーズ。
華奢な体のどこから声を絞り出しているのか? 広大な広場を物ともせず、彼女の歌声が響き渡る。
子供も若者も、今はただ彼女の歌に聞き入っている。
この瞬間を永遠に留めようとするかのように。
彼女は天才だ。
いつの間にか、ぼくの目から涙が零れ落ち、止める事が出来ない。
スタッフも反省したのか、その後は機材をキッチリ運用した。
一波乱あったものの、ライブは成功だ。
☆15☆
追っかけのファンを振り切るように、黒姫とぼく、雷華姉妹を乗せた車が急発進。
広場をあとにする。
運転席には黒のスーツに身を包んだ三十代の女性が座っている。
切れ長の瞳が印象的だ。
助手席に黒姫。
後部座席に、ぼくと雷華姉妹。
女性がミラー越しにぼくらを窺う。
「あんた達が蘭花の姉の雷華と、その友達の星図ね。私は、この子のマネージャーで月慈。つーことで、今後も小竜事務所と、この子をヨロシク。これ、ウチの名刺ね。取っといて」
豊かな胸元から名刺を取り出し…殺気! とっさに目を逸らし、名刺を受取る。
雷華が、ぼくの視線と名刺を冷ややかに覗いていた。
どうやら、まだ帯電してないようだ。
ほっ…とした瞬間、車が急激に蛇行。
「お母さん! 前見て! 前!」
叫ぶ黒姫。
の、お母さん? なのか? 月慈さんは? 月慈は、というと、雷華にも名刺を渡そうと豊かな胸を探る。
その間、一切、前を見ない。
ので、また蛇行した。
酷い揺れに、座席の左側に座っていたぼくは、真ん中の雷華へと倒れ込む。
ムニュッ!
視界は真っ暗。
が、何事が起きたかは即座に理解する。
柔らかな二つの膨らみ、感触が、悠然と事態を物語っていた。
ぼくは恐る恐る顔をあげる。
定番の逆八ノ字の眉が、珍事にうろたえ、今は八ノ字に変化。
雷華は首筋まで真っ赤にして、一瞬、ほんの一瞬だけカワイイナ。
とか思うけど、すぐに後悔する。
いまさら言うまでもないけど。
「ほ~し~ず~! き、君という人は…エロエロエッチ大魔神かっ!」
超・連続・電撃攻撃が炸裂。
雷華の怒りが納まった頃、小竜事務所に着いた。
☆16☆
おしゃれな女性がショッピングに訪れる上海市、西南部、ジョカワイ・エリアの巨大ビル群。
その挟間にひしめく雑居ビルの一角。
そこに小竜事務所があった。
月慈が、ぼくらを車から降ろすと、
「まったく、三人もタレントを掛け持ちするマネージャーってのも、辛いわよね~。娘と…もとい、黒姫とロクな話も出来やしない。パパ…社長に今夜の夕飯は愛情スタミナ・ギョーザって、言っといて、黒姫! それから、愛してるからね、二人とも! んじゃマタ!」
そう言い残し、ドリフトの痕を路面にクッキリ付けながら、月慈は走り去る。
月慈と黒姫の様子を羨ましそうに雷華姉妹が見つめていた。
二人の母、桜夏は行方不明だ。
視線に気づいた黒姫が気恥ずかしそうに、口を尖らせる。
「さ、さっさと事務所に入るわよ! 何、ボーッとしてんの! 早く来なさい!」
☆17☆
「犬野郎は死にやがれ! 犬みてぇに尻尾振ってノコノコついて行ってみろ、それこそ身の破滅だ! いいか! 大物プロデューサーだろうが、大物タレントだろうが、イイ仕事を回すとか言う野郎の撒き餌にあっさり食いつくな! イイ仕事どころか骨の髄までシャブられるだけだ! 上手い話にゃ、裏がある! 愛想良く、愛想は忘れんな! あくまでやんわり、敵にまわす事なく、上手く立ち回れ! それが出来なきゃ、この世界で生き抜く事は出来ねぇ! 芸能事務所歴、二十年の小竜様が言うんだ! 絶対間違いねぇ! わかったな!」
ガッチャン!
受話器を乱暴に叩きつける四十代の男。
浅黒く引き締まった精悍な顔立ち、髪はオールバック。
グラサンにチョビ鬚、仕立ての良い三つ揃えのスーツ。
スーツ姿じゃないとチンピラに間違えられそうだ。
「おう! 戻ったか黒姫! それと、その二人が蘭花の連れか、俺は芸能事務所歴、二十年! の小竜だ! 当然、この小竜事務所の社長だ! ヨ・ロ・シ・ク!」
小竜がぼくらに体を向け、ぼくと雷華が簡単に挨拶する。
三階の事務所は八畳ほどの部屋で、右手に窓、左手に棚と書類の山。
中央に来客用のソファと事務机がある。
実用的なオフィスだ。
「話は聞いたぜ、黒姫。大事な新曲発表会を台無しにするトコだったらしいな。お前も新人じゃねぇんだから。いつまでもワガママが許されるわけじゃないぜ」
「あれはアタシじゃなくて、スタッフが――」
「スタッフごときと揉めてんじゃねぇっ! プロならスタッフも味方にしろ! どんなに才能があっても、この世界、才能だけじゃ生きていけねぇ! お前は天才だが、欠点が一つだけある!」
「な、何よ?」
「凡人の気持ちが分かってねぇって事だ! 凡人の気持ちになって考えろ! だいたいお前は――」
このあと芸能事務所歴、二十年の小竜のウンチクが延々と続くが、割愛。
「とにかく! お前は少々人気が出て、図に乗って、調子に乗って、破滅のレールに乗っている! つまり! デカイ軌道修正が必要だ! 荒療治が必要だ! つーことで、次の新曲は蘭花にも歌わせる事にした!」
「「「「うぇええ!」」」」
四人同時に叫ぶ。
蘭花が付き人から、いきなりデビュー? 黒姫が、まなじりを吊り上げ、抗議する。
「黒姫! お前には黙っていたが、新曲は…来年から日本で始まる新作アニメ〈コビットの小さな冒険〉の主題歌だ!」
「なにそれ!? ジャリ番の歌ってこと? それなら、蘭花に譲るわよ!」
黒姫が安心したように言う。
ジャリ番とは、つまり、子供向けの番組の事だ。
「全然わかってねぇな! この新曲は、世界中のキッズにバカ受けのモンスター番組〈パケモス〉のスタッフが制作する超・期待作なんだよ! …ちょっ! ちょっと! 黒姫! テメェ! 俺の話をちゃんと聞けって!」
すっかり興味を失い、黒姫はソファーでくつろいでいた。
「いいわよ、もう。そんな曲は…子供好きの蘭花に任せるわ。よかったわね、蘭花。〈コビトの冒険〉でデビュー出来て」
「ちっ! が~うっ! 〈コビットの小さな冒険〉! だ!」
小竜が訂正するが、
「どっちでもいいわよ。アタシは歌う気ないし」
黒姫がやる気のない返事を返す。
小竜も諦め、肩を落としながら、蘭花に向き直り、
「…と、いうわけだ。急な話で驚いたかもしれんが、未来の第二の〈パケモス〉の主題歌。こいつは俺にとってもビッグ・チャンス! やるか? 蘭花?」
「はい! 喜んでやります! 是非! アタシにやらせてください!」
「そっ! そうか! そう言ってくれるか! く…黒姫にも百分の一でいいから、蘭花のような素直な所があれば…このガンコさは一体誰に似たんだ? おっと、それから、こいつも言っとかないとな…」
小竜が机から新作アニメ〈コビットの小さな冒険〉の企画書を取り出し、中身を調べる。
「こいつのエンディングだが、なんでも…日本で人気の歌手…」
小竜が企画書を見ながら、
「えーと、岡、月…律…子。そうそう、岡月律子が歌うらしい」
「岡月律子!? ですって! マジっ!?」
突然、黒姫が叫び声をあげる。
「その通り…だが」
「な!? 前言撤回! アタシが歌うわ! アタシにやらせてよ! パパ!」
「今は社長と呼べ!」
「しゃ社長! お願いします! この通り!」
急に黒姫の態度が変わる。
深ぶかと頭を下げた。
「岡月律子は神様みたいに尊敬している歌手なのよ! 彼女の天才的な作曲、作詞は、日本、いいえ! 世界一よ! 天使の歌声〈ウィスパー・ボイス〉を聴けば、本当に天国が見えるぐらいね! アタシが天才だとしたら、岡月律子は超・超天才! 神才よっ! 神と一緒に仕事が出来るなんて…ヤッター!」
「いや、お前…さっき、やらないって…言ったじゃん」
「そんな昔の事は忘れたわ!」
黒姫は、やる気満々だ。
「よ、よし、わかった。お前にも歌ってもらおう。だが、最初に言った通り、蘭花にも歌ってもらう」
「何で!」
「いいから、話は最後まで聞け。さっきも言ったように、お前には荒療治が必要だ。今回二人に歌ってもらうのは、同時にCDを発表して、売上げの高い方を主題歌に選ぶ。事にしたからだ」
「な~んだ。そんなデキ・レースなら、アタシが勝つに決まってるじゃない。でも、蘭花にとっては、いい勉強になるかもしれないわね」
黒姫が勝ち誇ったように言い放つ。
蘭花など、ハナから眼中にないようだ。
小竜が蘭花に条件を確認する。
無論、蘭花は、
「はい! 正々堂々、勝負します。アタシに異存はありません!」
「なら、話は決まりだ!」
小竜が話を打ち切る。
今日はもう帰っていいぞ、と言われ、ぼくと雷華姉妹は、冬架のアパートへ帰る。
小竜と黒姫は事務所に残り、レコード会社とCDの打ち合わせをするそうだ。
☆18☆
帰りがてらジョカワイ・エリアを通る。
雷華姉妹が女の子向きのオシャレな洋服屋、アクセサリー屋の前で、たびたび立ち止まっては、ウィンドウ・ショッピングに花を咲かせる。
夕暮れに赤く染まる道端で、ぼくは三十分以上も待ちぼうけをくらい、ようやく店を出てきた二人に、とりあえず、ぼくだけ先に帰るから、と話す。
雷華がすまなさそうに、
「う、うむ、久しぶりに蘭花と会って、つい羽目をハズしすぎた。でも星図、上海は初めてなのに、道はわかるのか?」
「〈VG〉のヴァ―チャル・マップがあれば大丈夫だよ。それに、久しぶりの姉妹水入らずなんだから、のんびり楽しみなよ。明日から蘭花のデビューCDの製作で忙しくなるだろうし」
雷華姉妹が嬉しそうに礼を述べ、ぼくと別れる。
実は、ここで別れた理由は他にもある。
トイレに行きたかったのだ。
とはいえ、周りは女の子向けのオシャレな店ばかり。男子がトイレを借りるのは少々恥ずかしい。
事務所の雑居ビルに共用トイレがあったはずだ。
ぼくは一旦戻って、用を足す事にした。
☆19☆
雑居ビルのトイレは想像以上に汚い。
個室というのが唯一の救いだ。壁には、いたる所に卑猥な落書き、バーの宣伝文句などが、所狭しと書かれている。
よく見ると、小竜事務所の宣伝文句? もあった。
用を足し終わってトイレを出ようとすると、皮靴をガチャガチャ、チェーンをジャラジャラ、慌ただしくトイレに入ってきた男が、慌ただしく携帯電話で誰かと話しだし、野太い声がトイレに響く。
でも…この声って! 間違いない! 聞き覚えのある声だ! いや、忘れようもない! 三須賀・特二区・北公園で、サークと一緒にいた、大男。
三龍の、耳障りなダミ声だ!
「ああっ!? 何だって!? 水が流れる音がする!? ぎゃははっ! 気にすんなっ! にしても、例のマジナイを本当に組み込んじまうたぁ驚きだぜ! さすが龍姫、これでCDの売上げも倍増するってもんだ! アリガトよ! んじゃ、また電話するぜ!」
携帯を切り、入って来た時と同じように慌ただしくトイレを出る。
ぼくも気づかれないよう、注意しながら、あとをつける。
驚いた事に、三龍は小竜事務所へと入っていった。
小竜事務所へそっと近づき、小窓に耳をあてる。
建付けの悪い小窓には、若干の隙間があり、三龍の声がそこから聞こえる。
中の様子を窺うと、僅かに、覗く事が出来た。
☆20☆
来客用のソファーを三龍が陣取り、対面する形で小竜、黒姫が事務所の椅子に腰かける。
三龍は、小竜事務所のCD製作・販売を手掛け、ライブ、地方巡業、興行にも深く関わっているようだ。
小竜事務所は、上海の黒社会と密接に繋がり、持ちつ持たれつの関係にあるらしい。
今回は言葉がわかる――という事が有難い。
いまさらながら雷華が仙術で造った翻訳機に感謝する。
話はやがて、黒姫と蘭花のCD売上対決に及ぶ。
「CD対決にゃ賛成だ。この業界、なにかと話題作りは欠かせねぇからな。けど、勝つのは黒姫だ。こっちもボランティアで商売してんじゃねぇからな。二人がセールスを喰い合って、逆に売上げが落ちたんじゃシャレにならねぇ。新人にゃ下請の製作会社からCDを出す。当然、予算も規模も縮小して、な。お情けでレーベルは、同じ〈スリー・ドラゴンズ〉の名義で構わない。それと――」
蘭花を馬鹿にするにも程がある。
が、三龍の次の言葉に再び聞き耳をたてる。
「黒姫のCDにゃ、ちょっとしたマジナイをかける」
マジナイ? さっきもトイレでCDに何かを組み込むとかナンとか言ってたけど、〈B・VG〉に仕込んだ術式みたいなモノか? 小竜が訝しげな表情で三龍に問いかける。
「マジナイっすか? 三龍さんトコが、黒社会の中でも特殊な…存在って事は知ってますが…噂の仙…術って、奴ですか? それはいいんですけど。術の影響で、娘…黒姫に変な影響が出たりとか…しないでしょうね? ちょっとばかし、心配なんですが?」
絶対にヤバイに決まっている。
白野は変になって大事件を起こした。
にもかかわらず、三龍は平然と素知らぬフリを決め込み、
「な~に、本当にちょっとした、お遊びの術式だよ。黒姫にゃ、まったく影響は出ねぇな。こいつは聴き手に影響が出る。つーか、とにかく気にすんなっ! いま流行りの癒し系? の、術式で、まあ要するに、あろは・てらぴん油? みたいな、やつ~」
「アロマ・セラピーっすか?」
物凄い不安そうに小竜が聞き返す。
「そう、そいつ! みたいな感じ? 聞くと気分がスッキリ! ちゅう、不思議なオマジナイCD。で、売上倍増! 闇資金も倍増! そんで上海ヒットチャート・ナンバーワン! を狙うわけよ! いい話だろ!」
「全っ! 然っ! ちっとも!! よくねぇえええっ!」
やってしまった。
思わず勢いで乱入してしまった。
ぼくの乱入。
というか、突然の闖入者に、事務所三人の顔が引き攣り、唖然とする。
☆21☆
事務所のソファに踏ん反り返った三龍が、ぼくを睨み、
「はてな? おめぇ、どっかで会ったような気がするな? どこだっけか? うむむ~?」
黒姫がぼくと三龍の間に割り込み、
「三龍さん! この馬鹿の事は気にしないで下さい! ただのバイトですから!」
「バイトって、随分羽振りがよくなったな、この事務所も、つうか、確かに…どこかで…」
牛のように呻く三龍に、またまた思わず勢いで、ぼくが身を乗り出し、
「ぼくは! はぐっ!」
絶妙のタイミングで黒姫の肘鉄が、ぼくの鳩尾に決まる。
「ええ! 蘭花も今日まではバイトだったんですよ! 一人や二人、バイトを雇う余裕ぐらいありますよ! ところで、さっきのお話ですけど、是非! やらせて下さい! えっと…オマジナイCD? ですか? いいアイナデアですね! 癒し系、流行ってますし。三龍さんの言う通り、チャート入り間違いなしです! 気合い入れて歌いますから!」
小竜が不安げに忠告する。
「しかしよ、万が一なんか起きちまったら――」
「パパ…社長は黙ってて! 歌うのはアタシなんだから!」
ぼくも肺に酸素を満たし、
「しょ、小竜さん…の…言う通り。何か…起きて、からじゃ…ずあっちゃあっ!」
黒姫の踵が容赦なくぼくの足を踏み抜く。
激痛にヨロヨロと後退し、ぼくはドアを通り抜けて廊下に出た。
黒姫がご機嫌な調子で、三龍と怪しげなCD製作の約束を取り交わす。
直後、黒姫が廊下に飛び出し、ぼくが反対の声を上げるのを強烈なビンタで封じる。
パシーン! 小気味良い音が廊下に響き、間髪入れずに黒姫が、
「いいかげんにしてよね! ちょっと、こっちに来なさい!」
ビンタで頭の中が真っ白になったぼくの腕を引っ張り、黒姫が雑居ビルの屋上に、ぼくを連行する。
☆22☆
「あんた何様のつもりよ! アタシの仕事の邪魔すんじゃないわよ! 三龍さんトコの〈スリー・ドラゴンズ〉はね、新進気鋭のメジャー・レーベルで、売り出し中の新人を何人もヒットチャート入りさせてるの! アタシだって…〈スリー・ドラゴンズ〉から歌を出して、ようやく軌道に乗ったのに! パパ…社長がどんなに苦労した事か! 実力がどんなにあっても! 才能がどんなにあっても! 世間に認められないマイナー・レーベルが、どんなに悲惨か…あんたにはわからないのよ! これ以上アタシの足を引っ張るな! あんたはアタシとは無関係なんだから!」
黒姫が物凄い剣幕で息も継がずに喋る。
宵闇のなか、周囲の雑居ビルの壁面に、無造作に取り付けられた派手なネオンが、微かに黒姫を照らし出す。
表情を窺うことは出来ないが、激昂した気配は感じられる。黒姫の気迫に圧倒されながら、
「無関係じゃない! 蘭花が…蘭花も巻き込んでるじゃないか!」
「な、たかが、咬ませ犬じゃない…この業界じゃ、よくある」
「咬ませ犬じゃない! 蘭花は本気だ! 本気で君と勝負するつもりだ!」
「何言って? 今日、始めて会って、よく、そんな事が言え――」
「わかるよ! わからないほうがおかしい!」
「?」
「蘭花のステージを見れば誰だって、すぐにわかる。蘭花が、どれだけ歌や子供が好きか。そして…好きだからこそ、本気で君と勝負するんだ。たとえ、相手が天才的音楽センスの持ち主――黒姫だろうとね。蘭花は決して諦めない。挫けない。相手が天才でも、絶対、逃げない。君とは違う。君みたいに、黒社会の力に頼ったり、変な術の力は借りない。目的が違うんだ。蘭花の目的は…売れる事じゃない、歌う事、誰かの為に歌う事だけが目的なんだから」
闇夜に黒姫の瞳が妖しく輝く。
「うるさい、うるさい、うるさい! 売れる事の何が悪いのよ? 売れなきゃ意味ないじゃん! ていうか、何であんたに、そこまで言われなきゃなんないのよ!」
黒姫の爪が ギラリ! と光り、ぼくに襲いかかる。
「ふざけんな! あんたなんかに! 何がわかるって」
がしっ! 無数の引っ掻き傷が出来る寸前、黒姫の背後から、両肩を掴み、動きを抑えた人物が、嘆息しながら呟く。
「そこまでにしとけや、黒姫。それから、あんたもちょっと言い過ぎじゃねぇか? ウチの娘…黒姫をあんまりイジメないでくれよな」
小竜だ。とりあえずホッと一息つく。
たしかに言いすぎた。
「す、すみません。小竜さん。言いすぎました」
素直に謝った。
小竜が真面目な顔付きで言い繕う。
「三龍の旦那は、ああ言ってるけどよ。ウチの事務所にとっちゃ、黒姫も蘭花も大事なスターの卵だ。二人とも大事に育てるぜ」
黒姫が仏頂面で、
「アタシはとっくにスターじゃない」
とこぼすが、聞かない事にする。
☆23☆
蘭花のCD製作は困難を極めた。
下請けの製作会社は、会社とは名ばかりの酷い設備。
そのうえ専門知識の欠片も無い。
これで本当にCDが作れるのか? 疑問符だらけだが、実際に作業に入ると、手の施しようもない駄目駄目スタッフだった。
この給料泥棒どもがぁ! キリキリ働かんかぃ! 何度、胸の内で叫んだ事かわからない。
ボロ設備の代わりに、ぼくと雷華は、上海の中古電子機器店、ジャンク・ショップで、使える音響機器を格安の値段で入手した。
その頃、蘭花は歌の歌詞を必死に作っていた。
作詞家は給料が安い。
とか、ぬかして逃げたのだ。
他にアテもないので、蘭花自身が作詞する事になった。
蘭花が作詞に乗り気だった。
という事もあるけど。
さらに、作曲家も同じ理由で逃げようとしたが、雷華が雷の結界〈雷界〉を張り巡らせ、半ば監禁して無理矢理、作曲させた。
苦労に苦労を重ねて、ようやく全トラックの録音が終わった。
最終工程の楽曲の合成や効果、簡単な編集はフリーソフトを使い、深夜にもかかわらず、ぼくは徹夜。
目の下にクマを作りながら、懸命に働いた。
雷華、蘭花、それに、駄目駄目スタッフも一同総出で、生のカラCDにラベルを貼ったり、ケースに表紙を挟み込んだり。
と、CD製作の最後の仕上げを黙々とこなした。
黒姫のCDは、とっくに店に納品されている。
最高のスタッフ、最高の機材を使い、余裕でCDが出来るんだろうな~。
と、ちょっと羨ましくなる。
が、ウチはウチだ。
血と汗と涙と、その他、諸々のエキスが詰まった、CD製作の最終行程を粛々と続けるしかない。
考えるうちに、早くも東の空が薄っすらとピンク色に染まってきた。
うわぁ~い、綺麗なバニラ・スカイだぁ~。などと、
朦朧としながら見とれていると、うっかり、血と汗と涙と、その他諸々のエキスの詰まった、CDデータを、本当に! ついうっかり! 削除してしまった! 一瞬、冷や汗というか、落雷による心肺停止を覚悟する! けど…幸い、蘭花の〈VG〉に楽曲のコピーがバックアップされていた。
危うくぼくは感電死を免れた。
そんなこんなで、黒姫のCD発売に合わせるように、蘭花のCDも発売にこぎつけた。
が、そう…発売までは、苦心惨憺たる苦労の末、ようやく、こぎつけた。のだけど、
☆24☆
「そこをなんとか! お願いします! 平置きして下さい…とは言いません。棚置きで構いません! せめて、五枚…いえ、三枚…この際、贅沢は言いません! 一枚で結構です! なんとか、お店に置いて貰えないでしょうか? アタシのデビューCDなんです! この通り! お願いします!」
これで何度目になるだろうか? 蘭花が、このCDショップに入ってから、十数回目のお辞儀をする。
上半身と下半身が直角になるような、礼儀正しいお辞儀で、蘭花のことだから、ほっといたら土下座までしかねない。
苦労して作ったCDを、店に置いてもらうため、店の主人に懇願するが、主人も簡単には首を縦に振らない。
「その話は事務所の営業さんが来た時に断ったはずなんだけど。いまさら言われても…ねぇ」
主人の言う通り、小竜事務所の月慈が、このCDが出来上がる前に、上海のCDショップを営業でまわり、店に置いて貰うよう働きかけた。
が、色よい返事がなく、無名の新人の歌より、上海チャート入りを果たし、実績を持つ黒姫のCD納品に、より積極的な姿勢を示した。
結局、蘭花のCDを納品する店は数軒で、これではラチがあかない。
と、蘭花みずから営業活動を開始したのだ。
当然、雷華とぼくも一緒に店巡りをする事になった。
店内を見渡すと、黒姫のポスター、チラシが埋め尽くし、店先の平置きコーナーは、黒姫のCDが山と積まれている。
圧倒的な物量の差がある。
正直、絶望的な気持ちになる。
こんな状態でCDを一枚や二枚、お情けで置いても、一体なんの意味があるのか? 客は素通りするだけだろう。
蘭花は諦めずに粘り強く店の主人と交渉する。
蘭花の天真爛漫な笑みに、なんとなく、和やかなムードが漂い、置いて貰えるのか? なんて雰囲気になるが、主人が、
「本当の事を言うとね、いい曲ならウチも引き取りたいし、お客さんにも、お勧めしたい。けど…実は、その、ここだけの話だけどね」
店主の声が小声になる。
蘭花に囁くように喋る。
「蘭花ちゃんだから教えるけど。実は〈スリー・ドラゴンズ〉の三龍さんから、君らのCDを納品しないようにって、凄い圧力がかかってるんだよね。もし納品したら、今後、〈スリー・ドラゴンズ〉のCDだけじゃなく、他のメジャー・レーベルのCDも店に納品出来ないようにしてやるっ! て、半ば脅されてさ。ウチとしても、そんな事になったら、商売にならないから、仕方なく従ってるんだ」
うんぬん。
それでも蘭花は笑顔を浮かべ、わかりました。また来ます! と元気に挨拶して店を引き上げた。
どの店もこんな調子だった。
いい雰囲気になるのだが、三龍の圧力話が最後に出て、結局、断られる。
おにょれ三龍…とにかく、今日で三日目。
まわった店は、軽く百軒を超える。
けど、いまだ、収穫はゼロだ。
☆25☆
帰りは午後十時を過ぎていた。
朝十時の開店に合わせてCDショップをまわり、十二時間近くも歩き続けた事になる。
そのうえ収穫ゼロ。
三日も続けばさすがに疲労困憊。
ぼくだけでなく雷華も疲れを隠せない様子だ。
というかいったいぼくは何をやっているのだ? サークを捜しに上海に来たんじゃないのか? 三龍がいるけど肝心のサークとは全然会えないじゃないか。
蘭花のCDの売り込みもしたい。
けど、個人の力でどうにかなるほど甘くはなさそうだ。
黒姫の言った通り、売れなきゃ全てが無意味なのかもしれない。
やっぱり好きなだけじゃ駄目なのか? いや、そうじゃなくて…問題はサークの事で、その前に三龍すら居場所が全然掴めない。
あ~! もう! いったい、ぼくは、どうしたら!?
ムニュッ!
「うにゅっ!」
ぼくが変な声をあげる。
蘭花がぼくの目の前にいた。
両手でぼくのホッペを掴み、ムニュ、ムニュ、ほぐす。
普段なら、例え妹の蘭花であろうと、こんな行為を見逃さない雷華なのだが、疲れが溜まっているのか、今日は睨みつけるだけで、何も言わない。
すると蘭花が、今度は雷華のホッぺを掴み、ぼくと同じようにほぐす。
「むにゃっ! にゃにをっ!?」
雷華も変な声をあげる。
最後に自分のホッペをほぐし、ニッコリ笑顔を浮かべて、蘭花が話す。
「星図さんも、雷華姉様も表情が硬いですよ! だから、ほぐしてあげました。ホッペが柔らか~くなったところで、ニッコリ笑顔を浮かべて下さい! 笑って、笑って! 問題です! アタシたちの、最大! 最後! の武器は何でしょうか? 星図さん。答えて下さい!」
「え? いきなり言われても? 何だろう?」
蘭花がとびきりの笑顔で、
「その答えは…笑顔でーす!」
何を言ってるんだ? この子は?
「作り笑いでもいいんです。笑って下さい。もちろん、心の底から笑えれば、それがベストです。いっぱい笑ったら、心の中を真っ白にリセットして、明日からもう一度、一からすべてを始めましょう!」
なんだかな~。
でも、モノは試し。
自分で自分のホッぺをほぐしてみた。
蘭花ほどいい笑顔じゃないけど、笑ってみた。
たしかに笑うと、堂々巡りをしていた頭の中が、ちょっとスッキリした気がする。
といっても、真っ白。というほど、割り切れた訳じゃない。
けど、リセットぐらいは出来そうだ。
雷華を見ると、ぎこちなさは残るものの、こちらも多少は元気を取り戻した様子だ。
やらなきゃいけない事は山ほどあるし、考えなきゃいけない事も無数にある。
けど、どうせ一つずつしか出来ないのだ。
なら今は、蘭花に協力するのも悪くない。
そのうち再び、三龍と接触する機会もあるだろう。
三龍と接触出来たなら、今度こそ、サークの手がかりを見つけてみせる。
☆26☆
変化が現れたのは一週間ぐらい経った頃だ。
たびたび蘭花が訪れ、すっかり仲良くなったCDショップの店長が、急にこう切り出した。
「せっかく今日も蘭花ちゃんが来てくれたから、CDを十枚…いや! 二十枚仕入れようかな!」
蘭花が瞳をキラキラ輝かせて喜ぶ、
「本当ですか! ありがとうございます!」
一瞬茫然としたけど、ぼくも、
「あ、ありがとうございます」
と礼を言い、紙袋からCDを取り出し、店長に手渡す。
雷華が、
「しかし店長、三龍のことは大丈夫なのか? ジョカワイ・エリアの中でも、かなり目立つ、大きな店だし、業界関係者もよく来る。という話じゃないか?」
オイオイ。水を差すなよ。
おしゃれな女性に人気の大型CD店は、今も大勢の客でごったがえしている。
当然、業界関係者がいてもおかしくない。
店長がポケットから何か取り出す、
「ぬふふ。もう、店長イチ押し推薦カードも作っちゃったんだ。な~に、三龍さんが来ても、スグ隠せば大丈夫だろう」
手の平サイズのカードに、店長イチ押しの推薦文が書かれている。
なになに、
粗削りでラウドなサウンドながら、キュートな歌詞が素直に心に響く。
この上なく瑞々しいデビュー作。
ドキドキのクリスタル・ボイスに耳を澄ませば、無限の可能性に気づくはず。
店長イチ押しの一枚です。
読んでて気恥ずかしいのか、蘭花が顔を真っ赤に染める。
雷華は当然だ。
といった顔つきで、
「悪くないが、さらに豪華! 可憐! 超美少女! が、歌う今年度最高! グラミー賞間違いなし! の最強CD! と付け加えるべきだな!」
いや、そこまで褒めるのは? どうだろう?
「実を言うとね。僕の甥っ子が、君の大ファンなんだよ。甥は一度だけ君のショウを見た事があるんだけど、それは、〈パケモズ〉のイベントの時なんだけど、もう一度見たい、また、君の歌が聴きたい。って…何度も言うんだ。始めは誰の事かわからなかったけど、何度か話しを聞くうちに、君の事じゃないかって、ピーンときたんだ。歌の都…上海には…歌手や歌手志望の女の子が星の数ほどいる。けど…白金髪に紅玉の瞳…といったら…君しかいないだろう? 蘭花ちゃん」
「はい! ええ! 確かにパケニャー・ショウは一度だけ、あります。とにかく、ありがとうございます! 店長!」
蘭花が礼を言い、店長がさっそくCDを一番目立つ場所に平置きする。
手作り推薦カードも添える。
目ざとい客が、さっそく興味を持ち、手に取って見る。
他の店もこんな調子で、蘭花のCDをどんどん納品し始めた。
手持ちのCDはすぐに無くなり、ぼくと雷華が入れ替わり立ち替わり、事務所に戻っては、大量のCDを運んで店に納品する。
その日を境に、急に蘭花のCDが売れ始める。
ぼくは、弱小下請会社のボロ設備を駆使してCDの増産体制に入った。
駄目駄目スタッフ一同も、今度ばかりは必死に働いた。
自分達の手掛けたCDが売れる。
嬉しさは大きいだろう。
暗い雰囲気が嘘のように消え去り、今は活気に溢れていた。
☆27☆
上海中のCDショップが、強烈に蘭花のCDを後押しする。
CDを聞いた常連客が、こぞってクチコミや微博で大絶賛。
人気に火がつき、気がつくとチャート入りを果たし、ジワジワと順位が上がる。
派手なテレビCM、街頭広告、ポホシズ、チラシ攻勢で、とっくにチャート入りし、上位に食い込んでいる黒姫を、カメのように、だが、ゆっくりと、着実に追い駈ける。
心に余裕が出たのか、蘭花のCDを店に補充したあと、ぼくは黒姫のCDが目にとまり、つい手を伸ばして調べてみた。
例のオマジナイが気になったからだ。
微妙に術が掛けてある。
けど、あまりに微妙過ぎて、術として未完成な感じだ。
害があるとは思えない。
雷華が、
「敵に塩を送るつもりか? 星図?」
「そうじゃないよ。その、術が掛かってないか、ちょっと調べただけで」
雷華にオマジナイの件を話す。
「オマジナイか…こんな小さな盤に、しかも大量生産するような代物に、術を掛けるのは無理があるはずだが」
雷華が黒姫のCDを手に取って調べる。
「微妙に術らしきモノが掛っているが、酷く粗雑な術だ。いってみれば虫食いだらけの術式で…とても術として発動する代物じゃない」
ぼくもそう思う。
〈B・VG〉のような、あきらかな禍々しさが感じられない。
ぼくは雷華に内緒で、黒姫のCDをこっそりと買い込み聴いてみた。
愕然とした。
術式は確かに掛かっていた。
CDならではの方法で、
☆28☆
小竜事務所はひっそりと静まりかえっている。
CD発売直後の熱気も一段落。
夕日に赤く染まる事務所にイベント帰りの黒姫だけが残っている。
黒を基調としたステージ衣装をまだ着替えてもいない。
イベントで嫌なことがあったのか? 黒姫の眉根が寄り、イライラと不機嫌な調子で、せわしなく組んだ足を揺らしている。
やがて、CDをガシャガシャと乱暴に鳴らし取り出すと、CDプレイヤーにセットした。
イヤホンを耳に当て、CDを聞こうとするが、なぜか躊躇している。
スタートボタンを押すか迷っている。
我慢出来ないのか、震える指先がホシズトボタンを押す。
プレイヤーが微かな回転音を発し、イヤホンから黒姫の歌声が漏れ聞こえる。
途端に黒姫の全身から蒼黒い霧のような靄が次々に溢れ出し、CDへと吸い込まれてゆく。
不機嫌な顔つきは嘘のように消え去り、穏やかな表情へと変わる。
それも束の間、再び不機嫌――さを通り越して、血の気を失ったような、蒼白い顔へと変わる。
先程までの蒼黒い霧や靄は、跡形もなく消え去っている。
ぼくは黒姫に声をかけた。
「CD単体では虫食い状態の術式だけど、CDプレイヤーで回転させると、術が完成する…手の込んだ仙術だよね」
黒姫が鬼のような形相で背後に立つぼくを睨む。ぼくが続ける。
「悪いけど、そのCDに掛けられた術は途中で消してあるんだ。オマジナイ無しの自分の曲を聞いてみて、どう思った? 単純な打ち込みと単調なメロディー…音楽っていうより、呪文か、儀式の祈祷みたいだよね。はっきり言って、これは音楽じゃないな。イベントで受けが悪いのも当たり前だよ。ライブじゃ術は掛けられないからね」
黒姫が押し黙る。
「ためしに、ぼくもCDを聞いてみたんだ。はじめは妙な曲だと思うけど、すぐに術が効いて、気分がスッキリしてくる。雷華にいわせると、邪気がCDに吸い取られるって話だ」(白野の時とは逆。あの時は、むしろ邪気が膨れ上がっていた)「とにかく…人の負の気、憎しみ、悲しみ、他にも色々、それが術で抜け落ちるんだから、まるで麻薬か何かみたいだよね。ぼくの場合は、雷華が途中で止めに入ったからいいけど、なにも知らない人は、嫌な事があるたびにCDを聞いて、麻薬中毒ならぬ、CD中毒になる」
「そ、それの、どこが悪いのよ? 癒し系ってやつでしょ、べつに――」
「悪くない? じゃあどうして黒姫は、さっき聞くのをためらったのさ? 悪くないなら躊躇しないで聞けばいい。そうしないのは…薄々気づいているからだ」
「な、何をよ?」
黒姫の問いに答える。
「麻薬よりも、もっと強力な中毒性がある事だよ」
ここから先は、雷華の受け売りだ。
「麻薬は治療をすれば治る。本人の努力しだいだけど。いい薬も開発されている。でも、これは治療出来ない。これは邪気を吸い取るかわりに、忍耐とか我慢とか、人が長い時間かけて身につけた精神そのものを壊す。治療は不可能なんだ。癒しの効果があるように見えるけど、実は、最もタチが悪い術式だ。一度壊れた精神が元に戻るか? それって凄く難しい事だよね。元に戻す。治すには、たぶん…それまで生きてきた時間と同じぐらいの、長い時間が必要だ。下手をすると…一生治らないかもしれない」
黒姫が目を吊り上げて反論、
「そ・れ・が、どうしたって言うのよ? 芸能界っていうのはね、ライバルを蹴落として蹴落として、そうやって這い上がっていくものよ! たかが…一介のファンなんて、蹴落とす価値もない! 勝手に潰れちゃえばいいのよ! アタシの曲で潰れるなら、ファンも本望でしょ! それに…」
黒姫の黒々と輝く瞳は、妖しい光を放っている。
奇妙な事に、CDプレイヤーが逆回転を始めている。
過去に吸い取ったはずの黒姫の邪気が、大量に蒼黒い靄となり、今は黒姫に逆流している。
黒姫へと次々に流れ込んでいる。
「それに、この事を知っているのは、アンタだけよ…アンタ…さえ、いなくなれば…」
つまり消すって事ですか? ちょっと待って、この事は雷華も知っていて、ぼくになにかあれば雷華が…と話す間もなく、黒姫が叫ぶ。
「〈烈異斬〉!」
もう、本能的に、咄嗟によけた。
アルカディナの戦闘や、白野の件があるから、即座に予想出来た。
というか、避けるのが、あと数瞬遅れたら、ぼくの首が飛んでた。
黒姫の周囲から、無数の漆黒の刃が空を切り裂いて飛び交う。
築三十年を軽く超える雑居ビルには完全な、致命的な一撃だ。
メリメリとかミシミシとか、なんか屋台骨らしい部分がバキバキとか鳴ってる。
崩壊の序曲とともに一気に崩壊。
ぼくは床を転げ落ちながら、それでも、開け放してある扉から外に飛び出す。
といっても、半ば三階の窓から飛び出したような格好で、地面に激突するのがオチ。
だが、地面に激突する寸前、ぼくの体に急制動がかかる。
両足に雷糸がからまり、ぼくを地上に降ろす。
隣のビルの屋上に雷華の姿が見える。
雷糸を使って雷華も隣に降りてきた。
雷華が呟く。
「交渉決裂…か」
返す言葉もない。
☆29☆
瓦解した雑居ビルから大量の粉塵が舞い上がり、通りが真っ白に染まる中、漆黒の少女が飛び散る瓦礫を漆黒の刃で薙ぎ払いつつ、悠然とぼくらに近づく。
粉塵に衣裳が汚れる事も無く、まったくの無傷だ。
雷華の全身が青白く輝き、ほっそりとした手刀を高々と掲げる。
「わがままアイナドルには、少々、しつけが必要だな」
雷華の言葉が届いたのか、黒姫にまとわりつく青黒い靄が、狂ったように対流し始める。
「はっ! ヤレるものなら、ヤッテみなっ!」
雷華が帯電した手刃を振り下ろす。
「〈雷刃〉!」
「〈烈異斬〉!」
ほぼ同時に繰り出された青と黒、二つの刃が中央でぶつかり、はじける。
が、はじけたのは雷華の〈雷刃〉だ。
それも予測していたぼくは、漆黒の刃が雷華を真っ二つにする寸前、雷華に体当たりして最悪の事態を免れる。
地面を転がり、粉塵の粉だらけになる。
あまりの無様な格好に、黒姫が腹を抱えて笑いだす。
「無様ね! 無様だわ! それでアタシを止めようなんて、無謀もいいところよ! お遊びはお仕舞い。そうだ。その女も秘密を知ってんのよね。なら…仲良く死になさい!」
「させません!」ぼくの背後で蘭花が叫ぶ。「〈雪月花〉!」
ぼくらの周囲に無数の粉雪が舞い散る。
漆黒の刃が雪に絡め取られ、一見、無効化されたかに見える。
「逃げます! 長くはもちません!」
蘭花に言われ、三人揃って大通りへ逃げ出す。
「何だ? あの術は? いったい?」
走りながら雷華が問う。
「空間を切り裂く術ってとこかな!」
ぼくが答える。
「そんな理不尽な仙術は、見た事も、聞いた事もないな! たくっ!」
雷華が憤る。
蘭花はアルカディナのプレイヤーだ。
〈烈異斬〉に関する知識がある。
〈烈異斬〉は、実際に刃を飛ばすわけではなく、空間を開いて異界と繋げる術だ。
蘭花は〈雪月花〉の雪を使い、開きかけた空間を一時的に閉じた。
が、あくまで一時的なもので、ぼくらが逃げ出した数秒後には、雪を食い破り、再び漆黒の刃が飛び交う。
とにかく、ぼくらは大通りまで逃げのびた。
☆30☆
裏通りの喧噪を聞きつけ、集まった野次馬を押しのける。
すでに日は落ち、大通り、ジョカワイ市のきらびやかな夜景が広がっている。
そこで、さらなる異変が起きる。
まるで停電が起きたかのように、次々と照明や音響機器が停止。
建物だけでなく、車も停止する。
あたり一面、真っ暗やみ、無音状態に陥る。
そんななか、街の中央、巨大液晶モニターが、燦然と輝き始める。
同時に、街中の映像機器が輝きを取り戻す。
でも、どういうわけか? モニターに映っているのは、紛れもなく、黒姫その人だ。
巨大モニターの周囲をよく見ると、モニターの下部。
バルコニー風の小さなステージに黒姫が屹立している。
やがて、漆黒の歌姫が、軽やかに詩を歌い始める。
例の、呪文めいた、儀式の祈祷のような、禍々しい曲を。
不思議な事に、街中の音響機器という音響機器が、何故か黒姫の歌を鳴らし始める。
「どうなってるんだ?」
ぼくの混乱をよそに、突然のアイドルの出現。
と、ゲリラ・ライブに、群衆は好奇心を隠せない。
それを歓迎する若者も少なくない。
次に起きる事態は簡単に予想出来た。
咄嗟にぼくは、両耳を塞いだ。
が、街中の音響機器を使った大音量の前に成す術もなく、街中の人々が、蒼黒い負の感情を靄として抜かれ、靄は黒姫の元へと集まる。
〈烈異斬〉は、大量に魔力を必要とする。
現実世界においては、負の力が魔力がわりに必要なのだろう。
でも、負の力だけでは足りないのか、別の力も抜き取られているようだ。
体中から力が抜け落ちる。
脱力感と眩暈に襲われ、ぼくは片膝をつく。
別の力とは、たぶん…人が持つ根源的な力。
生命力…そのもの…だろう…。
「蘭花!」
「はい! 雷華姉様!」
雷華と蘭花は両耳に結界を張り、力の流出を抑えている。
「星図!」
雷華が同じように、ぼくの耳にも結界を施してくれた。
倒れこむ寸前に、なんとか踏みとどまる。
周囲の人々は、全員その場に倒れていた。
☆31☆
ふと、夜空を見上げる。
無数の星が輝くはずが、いまは蒼黒い靄が、夜空を幾筋も棚引き、星の光を?き消している。
チャート入りした黒姫のCDは、上海だけでも数十万枚は売れている。
上海中に散ったCDを中継しながら、黒姫は上海中の負の力、生命力、を奪うつもりなのだろう。
先ほどまで蒼黒い靄を纏っていた黒姫が、今はドス黒い、漆黒の靄を纏っている。
☆32☆
巨大モニターに黒姫の顔がアップで映る。
瞳は光を失い、唇は青紫色に変化。
皮膚は?細工のように精彩さを欠く。
無表情に見える両の瞳から、輝く雫が溢れ、銀の連なりが頬を伝う。
唇が震え、吐息のような囁きが漏れ出る
「そう…よ…ね」
夢遊病者のように両腕を差し上げる。
「みんな…苦しい…のよ…ね」
上海中の負の感情を取り込み、
「そんなに…壊したい…なら…」
黒姫が危うい事を口走る。
「アタシ! が! 壊す! すべて! を!」
ドス黒い靄が舞い上がる。
当初の目的。
ぼくの息の根を止める。
は、完全に忘れ去られ、なんか、とんでもない方向に暴走している。
黒姫の絶叫と共に、大鎌が彼女の周囲に出現。
〈烈異斬〉のはずだが、その高さは周囲のビルを遙かに超えている。
上海を切り刻み、完全に破壊する、死神の大鎌。
「〈烈異斬・壊〉!」
黒姫が叫び、
「〈氷雪花〉!」
同時に蘭花も叫ぶ。
巨大な漆黒の刃が、折り重なる巨大な氷の花に阻まれ、僅かに動きを止める。
が、氷の花に無数の亀裂が走り、砕け散る。
それでも、突破されまいと、蘭花が次々に氷の花を咲かせ、刃の進行を阻む。
蘭花自身の限界を遥かに超える仙術――神技を駆使し、黒姫に向かい蘭花が叫ぶ。
「黒姫さんは思いっきり間違ってます! みんな我慢してるんです! 辛くても、悲しくても! 泣きたいのを堪えてます! はたから見れば、惨めな負け犬です! 格好悪いし! 最悪です! 我慢出来なくて、生きるのを止めたくなっちゃいます! でも、それでも、みんな生きてます! 頑張ってます! 堪えてます! それって凄い事です! それは、惨めでも負け犬でもありません! とっても凄い事です! だから壊させません! 絶対壊させない! 死んでも守ってみせる! この街を! 諦めずに戦ってる! 人たちの…ために!」
すでに術式を制御出来ないのか? 蘭花が末期の病人のように、尋常でない手足の痙攣と戦い、歯を食いしばる。
奥歯が砕け、口の端から鮮血が零れ落ちる。
☆33☆
蘭花が巨大〈烈異斬〉を食い止める僅かな隙を使い、ぼくは地味で姑息な策を雷華に授ける。
雷華が迷わずそれに応じる。
無数の〈雷糸〉が紡がれ、黒姫へと伸びる。
が、黒姫は〈烈異斬・壊〉とは別に、通常の〈烈異斬〉を易々と生成。
〈雷糸〉をぶった切る。
〈雷糸〉を次々に断ち切られながらも、雷華は千切れた〈雷糸〉を制御。
雷華自身〈雷糸〉を短くカット。
〈雷糸〉は、すでに糸…というよりは、針と化す、
「〈雷糸・改・雷針〉!」
細かな雷の針が、黒姫の周囲。
いや、全方位に展開、黒姫へと襲いかかる。
〈烈異斬〉で切ろうにも、無数の〈雷針〉は、刃と刃の間をあっさりとすり抜け、黒姫を直撃。
雷撃のショックで黒姫は気絶した。
術者の制御を失った死神の大鎌も、嘘のように消え去る。
〈烈異斬〉を一時的に止めた蘭花の〈雪月花〉のように、〈雷糸〉を分散して攻撃を出来ないか? と、雷華に話したのだが、この攻撃が、どうやら上手くいったようだ。
☆34☆
ステージに倒れ込む黒姫を大男が支える。
三龍だ。
「見覚えがあるはずだぜ! よっく考えたら! 日本で会った餓鬼じゃねぇか! にしても。こいつの曲を聴いていた奴らが、次々に倒れるっつぅ。情報がネットに流れて! 中心の場所を龍姫に探ってもらって来てみたら! まぁたっ! テメェらか! さすがに今回は容赦しねぇっ!」
三龍の怒気が膨れ上がる。
「って! 言いたいトコだが! 今回は、むしろ、こいつを止めてくれて、感謝するぜ! あの、デケェ、黒カッターを食い止めたんだからな! 街が破壊されたんじゃ、商売あがったり! だぜ!」
三龍が黒姫を片手に抱え、捨て台詞を残しつつ、ステージの奥へと消え去る。
「けぇど! また邪魔するようなら! そんときゃ容赦しねぇっ! 〈ホシズ〉に〈ゴウカ〉だな! 覚えとくぜっ! あばよっ!」
☆35☆
黒姫事件収束後、〈スリー・ドラゴンズ〉に出向き、三龍の行方を尋ねたが、三龍なる人物は存在しない。
との一点張りで埒があかない。
小竜事務所…というか、事務所は倒壊しているので、小竜の携帯電話に電話をかけたが、繋がらなった。
しつこくコールすると、マネージャーの月慈が出た。
結果――やはり月慈も三龍の居場所はわからない。
との返事。
事務所は黒姫のCD回収やクレーム処理、さらに、黒姫の精神状態が不安定で病院通いをするなど、完全に混乱状態に陥っていた。
電話を切る前に月慈が、蘭花の口座に、CD売上げの印税を振り込んだから。
と言い残してくれた。
振り込まれた額が高額で蘭花が恐縮していた。
蘭花の砕けた奥歯は乳歯の最後の一本で全く問題無かった。
それはともかく。
これでサークの足取りは完全に失なわれた。
倒壊した小竜事務所前で、ぼくが途方に暮れていると、雷華がこう切り出した。
「そう落ち込むな。あまり気乗りはしないが、万が一という事もあるから、一応、星図には話しておこう…円龍の、その、手掛かりを見つけられそうな場所が、この中国には一カ所だけ…なくもない。円龍の組織〈スリー・ドラゴンズ〉が黒社会と繋がっているなら、たぶん、その総本山へ向かう可能性がある。だが、私は絶対! そこへ近づきたくない! のだ…」
蘭花が雷華とは対照的にウキウキした調子で話す。
「雷華姉様! その街の事は是非、星図さんに話すべきです! もしかしたら、刀火姉様に会えるかもしれませんし!」
「あぁ~! その名前は、聞きたくないっ!」
雷華がおもいっきり両耳をふさぐ。
青白い顔がより一層、青くなる。
「悪夢が…あ、悪夢が、数々の悪夢が蘇る、るるるう~」
雷華がぶつぶつと独り言を呟き始め、数分後、呟きが治まった頃、ぼくが尋ねる。
「その…手掛かりがあるかもしれない…街って? いったい? どこなの?」
雷華と蘭花が顔を見合わせ、
「「それは…」」
同時に答える。
「「香港・特零区――亜人街!」」