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王の剣士4「かりそめの宴」  作者: 雅
終章
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青い花(五)

 秋の気配が庭園を覆い、色を移ろわせる植え込みや樹々も、少しずつ葉を散らしている。

 静かな、音が消えたような晩だった。

 庭園の中に端然と立ち、澄んだ空気を漂わせる夜の庭を見つめながら、シーリィアはずっと待っている。

 ふと身体の中から語り掛けてくる振動を感じ、臨月を迎えた自分の腹部に、そっと手を当てた。

 口元に柔らかな笑みが浮かんだがそれは一瞬の事で、留まる事無く淡い雪のように消えた。

 ごめんね、と、呟こうとした言葉は音にはならなかった。代わりに唇を固く閉ざす。

 その言葉はこの命に取って、何の意味も救いも持たないだろう。シーリィアにその言葉を口にする権利もない。

 どんな子が生まれるのか――、ただ元気な子が生まれてくれればと、ずっと心待ちにしていたのに、最早彼を産んでやる事はできないのだ。

 王妃は、生まれた我が子を、まだその腕に抱く事も無く、失っている。

 名を呼んでやる事すらできずに。

 父であるウィネス男爵が王子を暗殺した以上、シーリィアは無関係ではない。

 いや、何かに要因を求めようとするならば、シーリィアこそが、全ての要因とすら言えた。

 王は国主として、血縁であり最大の原因でもあるシーリィアを処断する必要がある。それが王家の不文律でもあった。

 毒を飲んで自害する事も考えたが、シーリィアはそれをしなかった。

 王の手で裁かれる事だけが、シーリィア達の罪を償い、王妃への罪を償い、たった一日で失われた小さな命への償いになる。

 それ以外で一体、どう償えるというのだろう?

 王子の為の東の館は、長い間ずっと無人だった。

 そこをいずれ、幼い王子が駆け回る姿を思い浮かべ、誰もが今すぐにでも王子を迎え入れられるように、館を整え、庭園を花や緑で満たした。

 シーリィアもまた、あの美しい庭園が主を迎え入れる日を待っていた一人だ。

 明るい、楽しそうに陽射しに輝く笑い声を。

 幻を掻き消して風が吹き過ぎ、シーリィアの足元で、小さな星のような薄青い花弁が揺れる。

 さく、と草を踏む音が鳴り、シーリィアはゆっくりと振り返った。

 長い服の裾を引いて両膝を付き、首筋を差し出すように(こうべ)を垂れる。

 王はシーリィアから少し離れた所に立ち、静かに視線を注いだ。

 シーリィアは顔を伏せたまま、穏やかに、だが決然と告げた。

「お待ちしておりました。わたくしも、この身を以って償いとうございます。どうぞ――」

 父、ウィネス男爵の処刑は、夕刻に行われた。

 前例に無いほどの迅速な審議と与えられた結末は、ウィネス男爵家の行為の重大さを物語っている。

 王は長い間黙ったまま、裁断を待つシーリィアを見つめていたが、やがて低く告げた。

「そなたの父の血によりこの件は(あがな)われた。そなたはここを去り、二度と戻らず、そして語ってはならない」

 シーリィアは戸惑ったように、薄い夜の光の中にある王の顔を見上げた。

「アヴァロンがそなたを王都の外まで連れ出す。街道辻に馬車が待っているだろう」

「……、そのような――」

 ようやく王の意図を悟って、シーリィアは緑柱石の瞳を震わせ、離れた場所に立つ王の姿を見つめた。

「王都を去り、王家であること、子の父がある事も全て忘れよ」

 それだけを告げると、王は断ち切るように裾を翻し、館へと向かった。

「――陛下……!」

 シーリィアは王に追いすがり、長衣の裾を捉えてその足元に伏した。

「どうぞ、陛下……! わたくしにも贖う義務がございます! 正妃様のお子を奪っておきながら、何故わたくし一人が、のうのうとこの子を産めましょう!」

 シーリィアもまた、王子を待っていた。

 あの東の館を駆け回る王子の姿を、瞼の裏に描く事すらできたのに。

 もう決して、取り戻す事はできない。

「せめて――わたくしにも償いをお許しください」

 王は無言のまま、シーリィアに背を向けている。

「陛下……!」

 懇願の響きにようやく王は振り返り、その黄金の瞳をシーリィアに注いだ。

「――そなたは、母であろう」

 低く落ちた言葉に、はっとしてシーリィアは王を見上げた。

 夜の薄い光の中で、王の面差しは普段と変わりなく深い思慮を漂わせながら、瞳には微かに揺らぐ光がある。

 それは、シーリィアが初めて、王の瞳に見る光だった。

「まだ生まれもせぬ子に罪を負えと言うか」

「――」

 シーリィアを責める響きではない。だからこそ、シーリィアは胸を突かれ、唇を噛み締めた。

「母であれば、自らの子に寄せる想いを知らぬはずもない。正妃の子は生きたいと願っていただろう。そなたの父を罰しても、最早王妃へ王子を返してはやれず、奪われた命に代えられるものはない。だが」

 王の言葉は淡々としながら、シーリィアの弱さを刺すようだ。

「その子もまた、生きたいと願っているはずだ」

「――」

 王は深い色を湛える黄金の瞳を、シーリィアと彼女の内にいる子供へ向けた。

 庭園を緩やかに渡る風が、足元の小さな花の花弁を揺らし、花弁が触れ合う微かな音すら聞こえそうに思える。

 王の言葉がシーリィアの上に落ちる。

 ただ静謐な響きだった。

「生まれてくる新しい命に、罪も贖いもいらぬ」

 シーリィアの頬を初めて、涙が零れて伝った。

 涙を零したまま、シーリィアは真直ぐに面を上げた。

 庭園を秋の冷えた風が渡る。

 いつか、幼い王子が駆け回り、明るい笑い声を立てるはずのあの東の庭園も、今は秋の色を深めているのだろう。

「わたくしは――」

 命すら、王と王妃の為に差し出せるものはない。

 もしかしたらシーリィアの望んだ贖罪は、全てから逃げ出したいという願いだったのかもしれない。

 父母を失った悲しみと、罪の意識と、幼い命が失われた悲しみと。

 自らも罪を負い、王の手で断罪される事が、シーリィアにとって確かに、苦しみから逃れる最も容易い方法だった。

「生き、この子を産み育てます」

 罪は全て、自分一人のものとして。

 何も語らず。

「この子にあげられるものも、貴方に差し出せるものも、わたくしには何もごさいません」

 シーリィアは傍らに咲いていた、薄青い小さな花を指し示した。

 既に季節を終えようとしている、最後の花弁。

「この花を――。わたくしの負うべき罪も、この子の命も、全て忘れずにゆきましょう」

 せめて、この青い花のようにただ全てを忘れず、忘れない事を誓う為に。

 花の名を問う王へ、シーリィアはそっと答えた。

 ミオスティリヤ――

 忘れな草と呼ばれる、薄青い小さな花。

「わたくしを、忘れないでくださいませ」

 二度と再び向かい合う事の無い、愛おしい相手に、この小さな青い花弁ほどの微かな記憶として、留まる事を望めるのなら。

 けれど都合良く望むのはただ、生まれてくる我が子を、王が忘れずにいてくれる事だ。

 王は手を伸ばし、小さな青い花を一輪摘んだ。


「忘れまい。この花の名のように」












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