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王の剣士4「かりそめの宴」  作者: 雅
第四章「生者達の舞踏」
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第四章「生者達の舞踏」(十五)

 白く泡立つ波が、イリヤとファルシオンの身体を飲み込む。

 イリヤの視線が一瞬、レオアリスに向けられたかと思ったが、言葉を発する間もなく二人の姿は渦に消えた。

「――イリヤ! 殿下ッ!」

 叫んで駆け出そうとしたレオアリスは、手足を掴んでいたビュルゲルの使隷達の腕に引かれ、その場から動く事もできずに自分の足元を睨み付けた。

「くそ!」

 振り解こうにも複数の腕が取り付き、水中から生えていながら地面に根を張ったようにぴくりともしない。ビュルゲルはレオアリスのすぐ脇の水面に立ち、嘲笑を含んだ愉悦の笑みを浮かべた。

「諦めろ。もう時間の問題でしかない。それとも面白味が無さすぎたかな? ただお前はまだもう少し、この舞台を楽しめる。――そこの近衛隊士も」

 剣の柄に手を掛けたグランスレイの動きを視線で制し、ビュルゲルはくつくつと笑った。

「おとなしく見ている事だ。後で我が使隷達が相手をしてやろう」

 グランスレイは剣の柄から手を放し、代わりにビュルゲルを睨んだ。グランスレイとビュルゲルの間には、二十体もの使隷が身を伏せ、グランスレイの動きを牽制するように身を揺すっている。

「――西海の三の戟ともあろう者が、見下げた手口を使うな」

 そうは言ったが今の状態では手の出しようもなく、グランスレイは奥歯で憤りを噛み殺し、ビュルゲルの横に立つレオアリスへと視線を向けた。

(上将――)

 レオアリスは手足を繋ぎ止められて立ったまま、為す術を失ったのか項垂れるように視線を落としている。その様子は、これ以上動きようがない、とそう見える。グランスレイは素早く、背後の林の奥を確認した。

「剣士、お前は生かして戻してやろう。戻ってお前の主に報告をする大事な役割が残っている。涙ながらに報告すれば良い仕上げになるだろう」

 レオアリスは答えず顔も上げようとしない。ビュルゲルはその状態に満足したように、口元をより深く歪めた。

 彼等の足元の水は泡立つ薄い緑に染まり、池の底のその向こうの奥深くから近付いてくる存在の圧迫感は、激しくうねる水面を更に小刻みに振動させるほどだ。

 近い。

 不意に激しく渦巻いていた水流がぴたりと止まり――、次いで池全体が振動した。

 微かでありながら、身体を突き上げるような、恐怖――畏怖。

 王と相対する時に感じるそれと似ている。

 ならば、薄皮を一枚隔てた向こうに在るものは。

「――海皇」

 俯いたまま低く、その名を憚るように呟いたレオアリスに目を止め、ビュルゲルの唇がめくれるように裂けた。赤々とした亀裂が広がる。

「左様。たまの余興に御自ら手をお加えになろうと御身わざわざのお越しだ。余りに飽いておられてな、この程度の余興でも、我等の世界では無いよりはましなのだ。それがこの国とだいぶ違うところかもしれないな? この国ではこの程度、誰も見向きもしないのだろう」

 悪意と愉悦を含んだ言葉で、ビュルゲルは笑った。

 再び、更に勢いを増した水流が渦を巻き始める。皮肉にも使隷がレオアリスの手足を捕らえている事が、レオアリスが水流に飲み込まれるのを防いでいるとも言えた。

 だが、いっそこのまま飲み込まれた方が、イリヤ達を追いやすいのも事実だ。

 レオアリスは何一つ手出しの仕様の無い水面を、睨むように見つめた。

 

 

 誰かが、自分に向かって叫ぶ声が聞こえた。

 何と告げたのか、はっきりとは聞き取れていなかったのに、その言葉が、暗い檻に閉じ込められていたイリヤの意識の中を、まばゆい輝きを以って照らすようだった。

(何て言ったんだ……)

『青い――』

 霧が晴れるように、曇り硝子の向こうにあった世界が再びイリヤの前に現れる。何かを押さえ付けている手の先に視線を落とし、そこにあるファルシオンの姿に、イリヤは自分が何をしていたのか判らないまま、それでもはっと息を呑み身を引きかけた。

「ファルシオン――」

 自分はまだ、あの池のほとりでファルシオンの首に手を掛けたままだったのか――意識が混濁している。

 上げた視線が一瞬、池の縁に立っていた少年と合う。

 それが誰だったか思い出す(いとま)もなく、押し寄せる波に掬われ、イリヤの身体は水の中に沈んだ。

 水は重い枷のように手足に纏い付き、あっという間にイリヤを引き摺り込んで水面が遠くなる。

 奥深く、落ちていく感覚がある。

 水に沈む恐怖よりも、そんなに深いはずが無い、という冷静な思考が働いていた。自分が今どこにいるかは判っていて、この池はイリヤが幼い頃から知っている。今のイリヤなら、一番深い場所でもせいぜい肩の辺りまでしか深さはないはずだ。

 けれど薄く開いた瞳が捉えた水面は、その意識を嘲笑うかのように遥か遠い。

 身体は木の葉の如くうねる水に揺さ振られ、喉の奥から空気の泡が零れる。

 イリヤは何かを探すように手を伸ばした。

 何か――大切なものだ。

 何だったかが思い出せず、イリヤの手はただ虚しく水を掴んだ。

 ごぼ、と喉が鳴る。意志が遠退いて行く。

 ここで死ぬのだ、という考えは、どこか他人事のようだった。

 仕方ない。

 その言葉を呟くと、楽になる。だから何となく身体が穏やかな温もりに包まれているようで、イリヤは瞳を閉じた。

 ゆっくり、沈む。

『――イリヤ』

 せっかくゆっくり眠ろうと思っていたのに、誰かがイリヤの名前を呼んでいる。

『イリヤ……』

 悲しそうな響きだ。重い瞼を無理やり開いて瞳を向けると、薄い緑の水の向こうに、少女が一人立っていた。

(ラナエ……!)

 はっとして、イリヤはラナエに駆け寄ろうとしたが、身体は上手く動かない。

(ラナエ……)

 ラナエにはイリヤの姿が見えていないのか、青ざめた顔で辺りを見回している。いつもの明るく優しい笑顔ではなく、ラナエは泣いている。

(ああ……帰らなきゃ)

 やはり、彼女のもとに帰りたい。戻れるものなら、彼女の傍に。

 イリヤが抱き締めれば、ラナエは泣き止んでくれるだろうか。

 でも、帰れる訳が無い。

 それだけははっきりと判っていた。ラナエを抱き締めるには、自分はもう罪を重ね過ぎた。

 伸ばしかけた腕を下ろし、拳を握り締める。

 イリヤの詫びる視線の先で、ラナエは顔を上げ、イリヤに示すように足元を指差した。

 彼女の足元に、何か小さな青い光が幾つも散っている。

(あれは――)

 目を凝らそうとした時、別の声が聞こえた。

『……ヤ』

 母の声だ。イリヤを呼んでいる。十八年も、イリヤの傍にいて――、ずっと彼女はイリヤの名を呼んでいた。

(いいよ、母さん。いつまでもここに居たって仕方ない。もう自由なんだから、あの男の傍に行けよ)

『……ィリヤ』

(いいんだ)

 ふわりと、地上に積もった花びらを風がゆるく吹き散らすように、青い光の欠片が舞った。

 あれはイリヤが母の墓標に零した、青い花。

 存在すらし得ない名への、手向けに。

『イリヤ』

 次に聞こえた、低く威厳に満ちた声に、イリヤは苦笑を洩らした。多分、そんな声の響きなのだろう。

(呼ぶ訳ないだろ)

 単なる想像のはずなのに、それでも心が震え、自分自身が可笑しくなってイリヤは笑った。

 もういいと思ったはずなのに、自分を慰めようと、自分が一生懸命だ。

(いいよ。それはもう、ファルシオンがくれただろ)

 そう、ファルシオンが――。

(――ファルシオン……)

 その名が強い焦りと不安を呼び起こし、イリヤは自分の両手を見つめた。

『兄上』

 幼い声が確かに、イリヤを呼ぶ。

 イリヤはファルシオンを探して周囲を見回した。

 自分を兄と、そう呼んでくれた。ずっと会いたかったのだ、と、そう言った。

 イリヤの事など知らなかったはずなのに。

(ファルシオン)

 目の前に広げた手には、何もない。ただ、彼の首を締めた、指先が凍り付くあの感覚がまだ残っている気がした。

 彼の首を掴んだ感触――そして、彼の手が握った温もり。

 今は、何もない。

 どくん。

 心臓が鼓動を刻み出す。

 言い知れない焦りが胸の奥で渦を巻く。

 自分は、何を、していただろう。

(どこだ……)

 捕まえなくては――この手で。

 イリヤの手が再び、何かを掴もうと伸ばされる。

 早く。

 青い光がぽつりと光る。

(青い――)

 光は、言葉になった。

 

『……の』

 

『王の……に』

 

 不明瞭な途切れ途切れの声が、舞散る青い花びらと重なり、ゆっくりとイリヤの中に降ってくる。

 それが一つの言葉になって、もう一度響いた。

 

『王の庭には、青い花が咲いてる――今も』

 

 鼓動が束の間静止し、次いで沸き上がるように、静寂の中に(こだま)する。

 花が、咲いている?

 王の――、庭に――?

『ミオスティリヤ』

 忘れな草。

 誰からも、忘れ去られるはずだった名だ。そう思い、イリヤはずっとその名を疎んできた。

 それが今、イリヤに別の意味を見せようとしている。

 母は――、彼女が口癖のようにイリヤに向けた言葉は。

『ミオスティリヤ』

『忘れないで』

 忘れないで、と――。

 彼女は、その名を持つ花を、王に贈ったのだ。

 そして、イリヤに。

 霞んで形を成していなかった視界が、くっきりと姿を取り戻す。冥い緑の水の中で、目の前に銀の髪が揺れた。

(父、上――)

「ファルシオン――」

 すぐ傍に、イリヤに寄り添うように、ファルシオンの身体が浮かんでいた。

 この激しい渦の中でファルシオンは静かに横たわり、ただ眠っているように見える。その身体を、微かな金色の光が取り巻いていた。

 イリヤはファルシオンの身体を引き寄せようと手を伸ばし、伸ばした自分の手もまた、金色の光を帯びている事に気が付いた。

 柔らかく温かい光だ。

 水の中で感じていた穏やかな温もりは、この光なのだと判る。

 ファルシオンが無意識の中でさえイリヤの傍に寄り添い、彼を激流から守っていたのだ。

「――」

 唇を噛み締め、イリヤは腕を伸ばしてファルシオンの腕を掴んだ。引き寄せて抱え込むと、ファルシオンが身動ぎをして、顔を上げた。

「――兄、上……?」

 その声が暗い水の中で、イリヤの心に安堵の灯りを灯す。

「ここはどこ?」

「大丈夫、すぐに出る。掴まってるんだ」

 イリヤの言葉に、ファルシオンはほっとした顔で頷き、兄の背に手を回した。

 けれどファルシオンの意識が戻った事で、逆に二人を包んでいた金色の光は薄れている。おそらくファルシオンはまだ意図しては、自らの力を使いこなせないのだ。

 それまで遠くに感じられた水流が、膨大な質量を以って二人の周囲を渦巻く。

 ファルシオンが纏う光は不安定に瞬き、時折消え入りそうなほどに色を潜める。この光が途切れるのもそう遠くはなく、途切れればあっという間に水流はイリヤ達を押し潰すに違いない。

 歯を食い縛り、ファルシオンの身体を抱え込み、イリヤはここから抜け出す方法を求めて辺りを見回した。

 水の渦に視界を遮られ、天も地も判らない。ただぐるぐると回る視界のどこかに、寒気を催す場所が一点ある事にイリヤは気が付いた。

 イリヤ達を引き摺り込もうとする、冥く底の無い淵。在り得ないはずの、深い淵だ。

(――あそこは、駄目だ)

 怖い。

 そしてそれ以上に、ファルシオンをそこに近付けてはいけないと、強く思った。

 しがみつくファルシオンの腕が震えているのは、ただ渦巻く水を怖がっているだけではなく、彼もまたあの存在を感じ取っているからだろう。もしかしたらイリヤ以上に、ファルシオンはあの存在を感じているかもしれない。

「大丈夫だ。ちゃんと、ここから出られるから。――上に、レオアリスが来てるよ」

「ほんとう?」

 ほっとした顔をするファルシオンを見て、イリヤは少し笑った。

「ああ。こういう事には、俺より頼りになるよね」

「兄上も、たよりになるよ」

 イリヤはもう一度笑って、ファルシオンの身体をしっかりと抱え直した。何にしても、あの存在から、離れなくては。

 そう思ったとたん、イリヤの意図に気付いたように、渦の速度が早まる。

「――っ」

「兄上」

 イリヤの右の瞳が、黄金の輝きを帯びた。二人の身体を包む黄金の膜が、それに伴い強さを増す。

 意識を水面へと向ける。ごくたまに枝を折ろうとした時やったように、自分の望む状態を想像する――身体を浮上させる事を思い浮かべる。

 渦巻く水を僅かに押し退け、イリヤの身体がじり、と浮き上がり始めた。水を動かす意思との、鬩ぎ合いのようだ。

 不意にイリヤ達を取り巻く渦がぴたりと止まり――

 水が震えた。

 それが何なのかに気付き、恐怖が全身を走る。

 それは、忍ぶような抑えた笑いが発する振動だった。

 イリヤの抵抗に気付き、水が、笑っている――

 あの時、ビュルゲルがイリヤの無力を笑ったよりも更に無慈悲に、取るに足らぬ者の愚かしい行為を見るように。

 水全体が笑っている。

 全身に、凍るように冷たい血が走った。あれは、ビュルゲルなどよりも更に、想像も及ばないほどに恐ろしい存在だ。

(――逃げろ……早く!)

 更に激しい水流が渦巻き、どっと叩き寄せた。黄金の膜が弱々しく瞬く。浮び上がろうとする意思とそれを邪魔する水流が激しくぶつかり合い、光が明滅する。渦は光を巻き込み、水中に散らした。


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