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王の剣士4「かりそめの宴」  作者: 雅
第四章「生者達の舞踏」
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第四章「生者達の舞踏」(十四)

 ファルシオンを両腕に抱き抱え、ラナエは必死に朝靄の流れる林の間を走っていた。

 張り出した枝が顔や肩に遠慮無く当り、足元は木の根や下草ででこぼこと盛り上がって、ラナエが走るのを妨げる。

 そもそも四歳とは言え、子供を抱えて少女がどれほども走れる訳が無く、あっという間に息が上がった。心臓はどくどくと早い鼓動を打ち破裂しそうに思えたが、それでもラナエは足を止めようとはしなかった。

 イリヤが、逃げろと言ったのだ。

 ファルシオンを連れて逃げろと。

 ラナエは絶対に、ファルシオンを守って、軍に、王に返すつもりだった。

 その為に、イリヤはあの男が追って来るのを止めるつもりでいる。

 だからそれは彼の贖罪で、これは彼の為のラナエの贖罪だ。

 苦しくても走って、走って、走って――そうすればきっと、また後で彼に会える。

 きっと。

 足元を這う木の根につまづき、ラナエは足をもつれさせて宙に放り出された。咄嗟にファルシオンを庇い、肩から地面に倒れこむ。

 地面に打ち付けられる衝撃に一瞬全身が強張ったが、地面に肘を付いて半身を起した。

「――ファルシオン様!」

 倒れたまま腕の中の顔を覗き込む。

 幸いファルシオンに怪我はなかったが、逆にこんな状況でさえ、固く閉ざされた瞳はまだ開く気配は見えなかった。

 彼の喉元に薄い手のあざが浮いているのに気付き、ラナエは唇を噛みしめ、顔を上げた。

(もう少し――)

 幼い頃から馴れ親しんだ雑木林で、方向は間違っていないはずだ。記憶の中では、後少しで街の裏手に出られる。

 林は街の真東に広がっていた。靄に差す樹々の影を真っ直ぐ辿っていけば街があるはずだった。

 あれから逃げて、軍に助けを求めなくては。

 あの――池の中から現れた、あの男。ラナエはイリヤ達に絡む西海の事など知らなかったが、あの男はとても恐ろしく思えた。

 姿形ではなく存在そのものが、とても恐ろしかった。纏っている、悪意のようなものが。

(イリヤ)

 たった一人で残って、どうするつもりなのだろう。それを考えると身体の震えが止まらない。

「大丈夫……、大丈夫」

 起き上がろうとして足ががくがくと震え、ラナエは力の入らない自分の足を叩いた。

「立って――」

 傍らの樹の幹に手を当て、立ち上がろうと足に力を込める。

 足元で踏みしだかれた小枝が小さな音を立て――、それから背後でも、枯れた枝がぱきんと鳴った。

 ラナエはびくりと身体を震わせ、振り返った。

 朝日が横から差し込む樹々は、ラナエの視線の先でまだ眠るように静まり返っている。白い靄が地面を覆うように漂い、そこにかかる薄い陽射しは幻想的とさえ言える。

 その靄が今はラナエの視界を狭めていたが、見渡す限りでは誰もいない。

「――」

 ファルシオンを抱え直し、そっと息を吐き掛けた時、今度は別の音が聞こえた。

 ぴちゃん。

 滴が落ちて弾ける音だ。

 ぴちゃ。

 ぴちゃん。

 初めは樹の枝が朝露を零す音かと思ったが、滴の音は不自然に大きく、そして確実に背後から近付いてくる。

 背筋をぞくりと冷たいものが走った。

 移動している。

 枝を踏む音――、水音――。何者かが、歩いて来ている。

 濡れた音は池の上に立っていたあの男の姿を否が応にも呼び起こし、ラナエは身を震わせた。

(まさか――イリヤは……)

 恐ろしい予感に心臓がどくどくと激しく脈打ち、体内で響くその音がラナエの不安を煽った。

 振り返りたくない。そんな事になっていたら、もうラナエは立ち上がる事ができない。けれど、もう一度振り返って、確かめなくては。

「――」

 意を決し、数を数え、後ろを振り返って、ラナエは身を固めたまま樹々の間に瞳を忙しなく彷徨わせた。

 音はぴたりと止まり、辺りは既にしんと静まり返って誰の姿も無い。

 けれど確かに、誰かがいて、息使いが感じられる。

「た――立って」

 足に力が入らない。疲労からだけではなく、幾つも圧し掛かる恐怖のせいだ。

「立って立って、早く」

 ファルシオンを抱え、がくがくと震える身体を必死に抑えながら、力の入らない足を叩く。

 ファルシオンを街に連れて行くのだ。軍に預けて、彼が無事王都に帰れさえすれば、イリヤとの約束を果たせる。

 ラナエが約束を果たせば、イリヤもきっと約束を果たして、そうすれば――。

 ラナエの手がぴたりと止まった。

(イリヤは――)

 イリヤは、約束をしていない。自分がラナエの元に帰るとは、一言も――。

 その考えを振り払うように、ラナエは足を叩いた。

「早く立って!」

 ぴちゃん。

 音は、正面で聞こえた。

 ひゅうっと笛のように喉が鳴る。

 身を凍り付かせ、叫び出したい気持ちを堪えて息を止めたまま、ラナエはゆっくり、ゆっくりと顔を上げていく。

「――」

 靄に足を浸すように――、誰かがラナエの前方に立っていた。

「――あ」

 瞳が捉えたものに、ラナエは瞳を瞬かせた。

「――イリヤ!」

 正面の楠の幹の傍に、イリヤが立っていた。

 ラナエの頬から張り詰めていた恐怖が溶けて消え去り、それまでの疲労も恐怖も全て、あっという間に例えようもない安堵に変わった。

「イリヤ! 無事だったのね! 良かった――」

 ラナエはイリヤに駆け寄りたかったが、今度は安堵で力が抜けていて、その場に座り込んだ。イリヤが一歩近寄り、右腕を差し伸べる。

「ラナエ――殿下を」

 力が抜け、座り込んだまま、ラナエはこくりと頷いた。

 もう安心なのだ。二人で街へ行って、ファルシオンを軍に預ければ、それで全て終わる。

 ラナエは涙ぐみながらも力の抜けた腕を何とか上げて、ファルシオンをイリヤの手に委ねようと腕を伸ばした。

 その手に、ぽたりと水が垂れた。

 差し出しかけた腕が、イリヤに届く直前で止まる。

 イリヤは訝しそうに、少し微笑んで首を傾げた。

「ラナエ?」

 イリヤの身体は、薄らと濡れ、髪や指先から滴を滴らせている。

 ぴちゃん。

 再び指先から落ちた滴が、ラナエの手を伝った。

 ラナエは咄嗟にファルシオンの身体を掻き抱いた。イリヤは促すように濡れた手を差し伸べて、不思議そうに尋ねた。

「ラナエ、どうしたんだ。殿下を」

「イリヤこそ――何があったの」

 安堵が瞳を曇らせていたが、見上げるイリヤの表情は、まるで別人だ。

 口元に笑みを浮かべていても感情があるとは思えず、ラナエが綺麗だと思っていた二つの色の瞳には、冥い影が落ちてくすんでいる。

 悔しさが込み上げ、ラナエは唇を噛み締めた。ラナエの瞳に涙が沸き上がり、青ざめた頬を滑り落ちる。

 イリヤを怖がるなど、会いたくなかったと思うなど、絶対にしたくなかった。

「どうしちゃったの!? イリヤ!」

 イリヤは無表情に、再び手を差し出した。

『殿下を渡すんだ、ラナエ』

 無理矢理喉から押し出しているような響きだった。

『ラナエ』

 まるで彼女を抱き締めようというように、イリヤは両手を差し伸べている。

 ラナエは首を振ってファルシオンを抱えたまま後退り、イリヤは彼女を追って構わず距離を詰めた。

 ぴちゃん、と滴が落ちる。

『ラナエ』

「――嫌だぁっ! あんたなんかイリヤじゃない! イリヤ、イリヤ!」

 突き放すように叫び、ラナエは地面に散っていた落ち葉や土を掴んで投げ付けると、目の前のイリヤではない、ここにはいないイリヤの名を呼び、立ち上がって走り出した。

 イリヤの瞳が、普段とは違う寒々とした色を浮かべて歪められる。

『逃げても無駄だ』

 イリヤの足元から、ずるりと使隷が這い出す。合わせて六体の使隷達はイリヤの視線の先、ラナエの姿を追って四つ足で歩き出した。

 使隷達はあっという間にラナエとの距離を詰め、彼女の前に回り込んで行く手を塞いだ。

 慌てて方向を変えたその先にも、そして周りを見回せば四方を使隷に囲まれ、ラナエはどちらにも行きようが無くなって、真っ青になって座り込んだ。

 ラナエを取り囲む使隷の向こうからイリヤが――イリヤの姿をしたものが近付いて来る。

「イリヤ、目を覚まして!」

 ラナエの叫び声を耳にしながら、イリヤは無表情のまま、冥い瞳を使隷に向けた。

『ファルシオンを』

 イリヤの言葉に従い、使隷の半透明の腕が伸びてラナエの手からファルシオンを奪い取る。

「ファルシオン様!」

 ラナエは叫び幼い身体を取り戻そうとしたが、使隷の振った腕に容易く弾かれ、地面に倒れた。

 二体の使隷はファルシオンを挟み込むように、身体に押し当てた。

 半透明の二つの身体が、触れた部分で皮膚の境を失って、一つの塊のように合わさっていく。

 ごぼりと音を立て、ファルシオンの身体は使隷の身体に呑み込まれた。

 跳ね起き、ラナエは最後に残ったファルシオンの指先を掴もうと腕を伸ばしたが、横から伸びたイリヤの手がラナエの手首を掴んだ。

 腕を振り解こうともがくラナエの目の前で、二体の使隷は完全に一つに溶け合った。

 四本の足を持ち背中や腹から余分な手を突き出した歪な形を取り、ファルシオンの身体をすっかり呑み込むと、べしゃりと重い音を立てて林の奥へ歩き出した。

「イリヤ、止めて!」

 すぐ傍にあるイリヤの瞳は、ぞっとするほど冷たい。それはラナエの言葉と、希望を奪い去るのに十分な光だった。

「――」

 唇を噛み締め、項垂れたラナエの足を別の使隷が掴み、地面に引き倒す。

『ファルシオンだけでいい。娘は始末しろ』

 乾いた声が、辺りの樹々の幹に当たってするりと落ちる。

 イリヤは無表情のまま、地面に座り込んで俯いているラナエへと近付いていく使隷達の姿を眺めていた。

 硝子のような瞳に、イリヤはラナエの姿を映している。

 それほど時間も掛からず、あの娘も静かになるだろう。後はファルシオンを主のもとに届けるだけだ。

『――』

 意識の奥底で誰かが叫んでいたが、それは重く淀んだ水に沈められるように、すぐに形を失った。代わりにイリヤを急かすものがある。

 その渾然とした、それでいてイリヤの意識を支配する者の意思を聞き取ったように、残った四体の使隷は四方から八本の腕をラナエへと手を伸ばした。

「イリヤ……」

 ラナエは一度だけイリヤを見上げ――、その瞳を閉じた。

 睫に弾かれて頬を伝った涙の滴が、喉元に伸ばされた使隷の手に落ち、混じり合う。

 ラナエに触れる寸前で、ピタリと使隷の手が止まった。

「――っ」

 イリヤの瞳が揺れ、両手が震えながら持ち上がり、頭を押さえる。

 爪を立てるように指が頭を掴み、呻き声が洩れた。蹲り、苦痛を堪えるように頭を抱え込む。

 ラナエは驚き、目の前で起こった変化を瞳を見開いて見つめた。

 イリヤは地面に膝を付き、暫くの間、頭を抱えたまま肩で大きく息をしていた。

 不規則だったその呼吸が、次第に整い、静かになっていく。

「イリヤ……? イリ」

 微かな期待を持ってイリヤに触れようとしたラナエの手は、届く前にイリヤの手に弾かれた。

 再び向けられた瞳は、やはり無表情なくすんだ色だ。

「――」

 ラナエは全てを諦めて、そのままぺたりと腰を落とし、再び動き出した使隷の姿を見つめた。

 もはや怖いとも思わない。

 もしかしたら――自分が死ぬ事で、イリヤは正気に返るかもしれないと、そんな事をぼんやりと思い浮かべる。

 それなら、いいかもしれない。

 正気に戻れば、きっとイリヤが、ファルシオンを助けに行ってくれる。

 使隷の冷たい手が、ラナエの喉元に触れた。

(イリヤ――)

 瞳を閉じたラナエの前で、不意に使隷達が動きを止めた。

 四体の頭が一斉にラナエの背後に向けられる。

 同時に――、イリヤの正面、ラナエの背後から眩しい光が差した。

 瞳を刺す眩しさに、イリヤが咄嗟に顔を覆う。

『朝日――』

 いや、朝日ではない。太陽はイリヤの背後から差している。

 拳大だった光は急速に広がり、白く煌煌と林を照らした。

 風を裂く鋭い音が走る。

 次の瞬間、ラナエを取り囲んでいた使隷が切り裂かれ、三体同時に形を失って崩れた。

「!」

 残っているのは樹の影にいた一体だけだ。

「大丈夫?」

 柔らかい女の声がかかり、ラナエは声のした方を振り返った。

 何が起ったのかラナエには判らなかったが、ラナエに声をかけた女――フレイザーは差し掛かる光を弾く白刃を鞘に収め、まだ震えているラナエの傍にしゃがむと背中に手を当てた。

「怪我はない?」

「あ……は、はい」

「近衛師団よ。私は第一大隊中将のフレイザー。貴方はラナエ・キーファーね?」

「はい……」

 ラナエは茫然としたまま、辺りを見回した。彼女の傍らに、ラナエも居城で目にした事のある青年と大柄な男の姿がある。

「アルジマール院長の分析通りですね。光の影響で核が見えやすかったようですが」

「光が無いと視認は厳しいな。一体残っているぞ、クライフ」

 言葉と同時に、右から伸びた槍が使隷の胸部を貫いた。ラナエが悲鳴を上げる前に、使隷は一度液体のように身を震わせ、崩れ落ちて水溜まりを作る。

「俺のは樹の影になって見えにくかったんですよ」

 槍を戻し答えたのはラナエが初めて眼にする青年だったが、フレイザーやロットバルトと同じ軍服を身に纏っていた。

(……近衛師団……)

 近衛師団が、この場に来ている。

 その事実は安堵より、ラナエの心臓を不規則に高鳴らせた。

(イリヤ……)

 イリヤは、まだそこにいる。

 眩しそうに光に手をかざし、彼等から距離を取っていたが、逃げてはいなかった。

 近衛師団はすぐにでも、イリヤを捕らえるだろう。まだラナエが、何も方法を考えていない内に――。

 ゆっくりと光は失せて、再び陽光が戻る。

 さくりと草を踏む音がし、振り返ったラナエは瞳を見開いた。その瞳に青白い光が映り込む。

 最初に眼が行ったのは、銀色の鱗を持った飛竜の姿だった。だがすぐに、その翼の前で青白い光を身に纏わせている少年が眼に入る。

 ファルシオンの館で見た姿――けれどファルシオンに向けるあの笑みではなく、ずっと厳しい表情を浮かべている。

「カイ。アスタロトと閣下へ報告に跳べ。使隷が複数体この場に出ている。囲い込んで抑える」

 レオアリスの肩から、黒い影が飛び立つ。

 ラナエの横を通る際の一瞬、レオアリスの漆黒の瞳がラナエの上に落ちた。そこに何かが揺れた気がしたが、すぐにその視線はイリヤへと向けられた。

 ラナエの前に立つと、距離を取って立つイリヤと向かい合う。

「イリヤ・キーファー、ファルシオン様はどこだ」

 レオアリスの声は低く冷え、それがラナエの不安を増す。

 彼が――レオアリスがここに来た事を喜ぶべきなのか――、ラナエは束の間、激しく迷った。

 ファルシオンを、イリヤを助けて欲しい。それがおそらく、この少年にはできる。

 けれどこれで、イリヤは捕まり、処罰されてしまう。

 ただレオアリスは、青白い陽炎を身に纏わせているものの未だ剣を抜いてはおらず、部下達も剣を下ろしている。

「イリヤ。殿下を返すんだ」

 イリヤは無表情のままレオアリスと向かい合っていたが、不意に肩を震わせて笑い出した。喉から零れたのはイリヤの声ではなく、別人のものだ。

『ようこそ、剣士殿。ファルシオンは既に我が手元に向っている。追いかけるのも良いが、お前に何ができるか見せてもらおう』

「――貴様、三の戟――ビュルゲルか」

『いかにも』

 レオアリスの身を包む光が一度ゆらりと揺れた。それがラナエにまで、圧迫感とも言うべきものを感じさせる。

 色合いは異なりながらもビュルゲルから感じた圧迫感に似ていた。

 イリヤ――彼の向こうにいるビュルゲルもそれを感じ取ったのか、口元を歪めた。

『急ぐ事だ。私もそう気が長い方ではない』

 乾いた音を立て、レオアリスの足元から空気が弾けて走り、イリヤのすぐ横にあった樹の枝が一振り、地面に落ちた。それと同時にイリヤが身を翻し、林の奥へと駆ける。

「待て――」

 イリヤを追おうとしたレオアリスの腕を、咄嗟に伸ばしたラナエの手が捕まえた。

「待って、イリヤを殺さないで!」

 驚いて振り返ったレオアリスの前で、ラナエは地面に伏せるように頭を下げた。

「お願いです、イリヤを殺さないでください! イリヤは、イリヤはファルシオン様を守ろうとしたんです!」

 フレイザーが肩に手を当て、そっと彼女の身体を起こす。

「落ち着いて――貴方は我々が保護します。もう心配しなくていいから」

「いえ、私なんてどうでもいいんです!」

 ラナエは必死に首を振り、再び頭を下げた。ここで話を聞いてもらわなくては、全て終わってしまう。

「聞いてください、イリヤは、ただあの男に操られてるだけです! だから――お願いだから、イリヤを助けてください!」

 上手く説明などできなかったが、言葉を途切れさせればラナエの願いなど、あっという間に存在を失いそうな気がして、ラナエは懸命に言葉を継いだ。

 フレイザーが宥めるように肩に置いた手の温もりは判っていたが、自分に対するものなどいらないのだ。

「罰なら、私が代わりに受けます、イリヤは、ただ」

「貴方は、ラナエ・キーファーだろ。落ち着いて」

 レオアリスの声がすぐ傍で聞こえ、ラナエは顔を上げた。レオアリスはラナエの前に膝をついていて、真っ直ぐに視線が合う。

 本当ならレオアリスは一刻も早くファルシオンを助ける為に、ラナエの話など聞いている時間は無いはずだ。それでも向けられた瞳には、ラナエの話を真剣に受け止めようとする色がある。

「イリヤから、貴方の事は聞いてる」

「イリヤから……」

「結局、間に合わなかったけどな」

 多分それは独り言のようなもので、レオアリスはすぐラナエの顔を見つめた。

「俺達の目的は一つ。――ファルシオン殿下の救出だ」

 レオアリスがイリヤに触れない事がどういう意味を持つのか、ラナエは想像するしかない。

 けれどラナエの中に、小さな光が確かに生まれた。

「正確にでなくてもいい、ビュルゲルがどこにいるか、判れば教えて欲しい」

「――池です、向こうの……林の奥にあって、」

 ラナエが指差した方角を確認し、レオアリスは立ち上がると林の奥へと歩き出した。

「フレイザー、ここで彼女に付いていてくれ」

「判りました。師団の預かりに?」

「そうだ。あと四半刻もすれば正規が到着するだろうが、引き渡しを求められても応じなくていい」

 フレイザーは頷き、ラナエの手を引いて立ち上がらせると、彼女の傍に立った。ラナエはもう一歩だけ、レオアリスに近寄った。

「イリヤは――」

「軍の目的は一つ。――だが、俺の目的は、二つある」

「――」

「確かな事なんて、俺にも言えない。けど、それでもいいなら」

 レオアリスは一度、ラナエの願いに答えるように視線を注いだ。

「俺に、出来る限りの事をする」

 

 

 

 既に夜はすっかり明け、斜めから差す朝日に白く照らし出された疎らな木立の間に、凛と張り詰めた冬の朝独特の空気を漂わせている。その林の中を、べしゃり、べしゃりと奇怪な足音が抜けて行く。

 ファルシオンを腹の中に飲み込んだ歪な使隷は、時折その身から余分な肉を削るように水を零しながら、ラナエの走った跡を逆に辿るように池へと向っていた。

 小さな水溜まりを点々と後に残し、それはまるで、跡を追って来いと言っているようにも見える。

 四つん這いの身体ががさがさと下草を鳴らしながら林を抜け、ほどなく先ほどの池のほとりに出た。水際に立つビュルゲルの姿を見つけ、飼い犬が主に呼ばれた時のような仕草で駆け寄る。

 使隷の腹に納まったファルシオンの姿を眺め、ビュルゲルは満足そうに口元を笑いの形に歪めた。

「――我が君、僅かなりとも、無聊(ぶりょう)のしのぎをご覧に入れましょう」

 ビュルゲルの裂けた口から、喜びにすら満ちた声が流れる。

 傍にいた使隷の一体が、ぐにゃりと身体を揺らす。ビュルゲルの周囲に屈んでいる十数体の使隷達も、同様に身を揺すり始めた。

 打ち寄せる潮騒のような音が、か細い池の水音を打ち消す。

『我が君』

 ざわりと使隷達が唱和する。

 言葉は使隷達を伝わり、背後の池に吸い込まれるように思える。

 次いでビュルゲルの喉が動き、赤い口の中から珠が一つ吐き出された。

 鈍く緑色の光を帯びた球は、ふわりと漂い背後の池の水面に落ちると、光の尾を引きながら沈んだ。

 水面に生じたゆるい波紋が、広がってすぐに消える。

「我等に供された冥い世界の返礼に」

 とぷ、と一度、水面が揺れた。

 ビュルゲルの笑みが更に深まる。その瞳が林に向けられた。

 視線の先で、下草を踏む足音と共にイリヤが姿を現す。イリヤは無表情のままビュルゲルの元に歩み寄り、その傍に立った。

 俯いた視線は、使隷の中で瞳を閉じたファルシオンに向けられているようにも見える。

「娘は逃したか。面白い見せ物になったものをな」

 ビュルゲルはもの柔らかな嘲る口調で、くつくつと笑い声を響かせた。

 だが残念がっている訳ではない。ただそれが見れたら面白かった、とそれだけの事だ。

 ビュルゲルに――西海にとっては、全て。

 イリヤには声が耳に入っていないのか、それとも既に彼にとっては意味の無い言葉になっているのか、ビュルゲルの言葉にも反応する様子は見えない。

 ビュルゲルはちらりとその姿を眺め、再び口元を歪めた。イリヤにはもう一つ、重要な役割がある。

「さて」

 向き直ったのは、林の方へだ。

「初めて(まみ)える」

 離れた所に在ってさえ、肌を震わすほどの圧迫感を纏った気配が近付いてくる。それは三の戟と言われるビュルゲルだからこそ、より強く感じ取る感覚かもしれない。

 ほどなく林から現れたそれは、ビュルゲルの眼には最初、青白い光の輪郭だった。

 その中に次第に、少年の姿が像を結ぶ。

 レオアリスは立ち止まり、ビュルゲルと正面から向かい合った。

 冷えた光を宿した漆黒の瞳が、射抜くようにビュルゲルに注がれ、そして周囲の状況を捉える。

 ビュルゲルの近くにはイリヤが立ち、イリヤは俯いてビュルゲルのすぐ横にいる使隷に視線を落としている。

 他の使隷達よりもふた周りほど大きな体格を持つ、歪な形をした使隷。その中に、小さな姿が透けて見えた。

「上将」

 遅れてグランスレイが追い付き、その場の状況を見て取り太い眉を寄せた。

 グランスレイは腰に帯びた剣の柄に手を掛けたが、レオアリスは片手を上げて彼の前に出ようとしたグランスレイを止め、代わりに一歩、前に踏み出した。

 レオアリスとビュルゲルの間に横たわる距離は、僅かに五間程度だ。

 ビュルゲルは笑みを浮かべ、その場にいる者達を見渡した。

 レオアリス、グランスレイを見て、イリヤを見、最後にファルシオンへと視線を注ぐ。

「これで役者と観客が揃った――いや、最大の観客が一人足りぬか」

 ビュルゲルの喉から忍び笑いが洩れる。その言葉の指す意味を理解して、レオアリスは瞳に怒りの色を閃かせた。

 ビュルゲルはファルシオンと、イリヤの父――、王の事を言っているのだ。

 それだけで切り裂かれそうな鋭い光にも、ビュルゲルは浮かべた笑みを崩さない。

「改めて言おう。ようこそ、剣士殿。我が名は既にご承知のようだ」

「知ってる。随分好き勝手に動いてくれたな」

 低く抑えられた声は、レオアリスが彼の内に沸き起こっている怒りを抑え込もうとしている為だ。

 理由は二つ。ファルシオンは今、ビュルゲルの手の中にある。無事取り戻すには、冷静にならなければいけない。

 そして、目の前のあの男は、怒りに任せて剣を振っても倒せる相手では、無い。

 こうして離れていても、ピリピリと肌を焦がすような空気が伝わってくる。

 そしてビュルゲルを囲む、十数体もの使隷。昨夜の状況から考えれば、あの数でも通常の小隊一つの戦力を優に超えるはずだ。

 レオアリスはビュルゲルを睨み据えたまま、背後のグランスレイに問いかけた。

「正規軍の状況は」

「カイが戻りました。街を調査していた南方第四軍の中隊が既にここへ向かっています。ロットバルトは後方で隊と合流を」

「使隷は任せる。分散させて確実に核を砕け」

 ビュルゲルの忍び笑いが耳を打つ。レオアリスは細めた瞳をビュルゲルに向けた。

「中隊か、手回しの良い事だ。だが、どれほどの兵を遣そうと意味が無い」

「――意味はある。お前の行為は明らかに、不可侵条約を侵した。軍を以って捕縛し、王都で正式な審議にかける」

 レオアリスの身を包む青白い陽炎がゆらりと揺れ、口元に凄惨とも言える笑みが閃いた。

「尤も俺には、この場での最終的な判断の権限も与えられているが」

 ビュルゲルを取り囲む使隷達が騒めき、圧されるように後退った。

 ビュルゲルは明らかに怯えた自らの兵の姿を微かな感嘆を込めて眺め、だが返すように避けた口を歪めた。

「『王の剣士』――なるほどお前一人在れば、逆に中隊などいらぬかもしれんな。だが、言っただろう、どれほどの兵力を用意しようと意味が無いのだよ、剣士。そもそもお前は勘違いをしている」

「何だと?」

「お前達の役割はただの、観客だ」

 嘲笑う口元の亀裂が、更に深く広がる。

「戦いも気に染まぬではないが――剣を抜く必要は無い。ただ、そこで見ているのだ」

 それはただの言葉では無く、警告だ。そしてそれをレオアリス自身が半ば承知している事も、ビュルゲルは判っている。

 ビュルゲルは手を伸ばし、ファルシオンを呑み込んだ使隷を掴み、引き寄せた。レオアリスが唇を噛み締めるのを、瞳を細めて眺める。

「これは我が主への供物。再締結の儀式に先駆けて戴いて行こう」

 レオアリスの視線はそれだけでビュルゲルを切り裂き、霧散させるような光を帯びていたが、ビュルゲルはそれを横目にイリヤを手招いた。

 イリヤが操り人形のように動き、ビュルゲルの隣に立つ。彼の面には、感情の陰は見当たらない。

「供物を捧げるのは、このもう一人の王子の役目。そしてお前はそれを見届け、王都の主へと報告をするのが役割だ」

「――貴様」

 苛立ちがふつふつと身体の中で沸き返っている。

 向けられているのは、愉悦と、完全なる悪意だ。

 それはこの国と西海との間に横たわる、深く消しようの無い歴史の一端でもあった。

 イリヤがファルシオンを包む使隷の手を引き、池の中に足を踏み入れる。足は水面に沈む事なく、土の上を歩くように水面を渡っていく。

「さて、最後の一幕をお楽しみ戴こう。そこから良く見えるかね? お望みならば、ここまで来て眺めるといい」

 ビュルゲルの愉悦に染まった声を聞きながら、レオアリスは拳を握り締めた。水面を渡るイリヤの歩みは慎重で、乱れる様子もない。すぐにさほど広くはない池の中央に辿り着く。

 ビュルゲルは両手を広げた。発せられた声は、愉悦と、畏怖に満ちている。

「我が君――お受け取りください」

 イリヤの足元が、ぽつりと薄い緑の光を灯す。

 一度明滅し、次の瞬間には池全体に広がり、陽光を受けた鏡のように発光した。

「!」

 水面から突風のような風が吹き付け、レオアリスの髪や纏う長布、周囲の樹々の枝を煽る。

「上将!」

 グランスレイの声は滅多にないほど張り詰め、そしてそれはレオアリスも同様だった。吹き付ける風に瞳を細めながら、レオアリスは池に意識を注いだ。

(何か――)

 あの下に、何かがいる。

 巨大な、精神を凍り付かせるような、何かだ。

 ビュルゲルが身体を揺すり、高い笑い声を上げる。レオアリスは地面を蹴り、池へ向って駆け出した。

「殿下!」

 使隷達も、ビュルゲルすら、駆け抜けるレオアリスを止めようともしなかった。

 池に踏み込んだレオアリスの足は、簡単に足首まで水の中に沈む。水に触れた瞬間、氷の刃に似た感覚がぞくりと全身を駆け上がった。

「っ」

 池の水深は浅く、水底の感触は確かに足に伝わってくる。

 だが、その更に下に、強大な力の気配があった。

 まだ遠い。

 しかし確実に、気配はこの場に近付いてくる。

 引きずられる意識を無理矢理振り解くように、レオアリスは顔を上げた。嵐の中の如く激しく波打つ水面の、その中央に、イリヤとファルシオンが浮かんでいる。

 イリヤは、ファルシオンを包んだ使隷ごと水に沈めようと言うように、使隷の身体を抑えてのしかかっている。

「止めろ、イリヤ!」

 水面は次第に、二人を中心に渦を巻き始めた。駆け寄ろうとする足が、波に取られて上手く進まない。

 ビュルゲルの笑い声が波音に混じり、風と共に吹き荒れる。ぎり、と奥歯を噛み締め、レオアリスは鳩尾に手を当てた。

 青白い光が零れ落ちかけた瞬間、水面から腕が伸び、鳩尾に沈みかけた手を掴んだ。

「!」

 続けざまに複数の腕が突き出し、レオアリスの手や足を捉え、池の中に繋ぎ止めた。背後でビュルゲルの忍び笑いが揺れる。

「黙って見ていてもらおう。それとも今すぐ、ファルシオンを殺したいかね?」

「――っ」

 怒りと苛立ちで、頭の奥がずきりと痛む。

 ビュルゲルはレオアリスの横に浮かび、イリヤへと顔を向けた。

「イリヤ。お前の手で、ファルシオンを沈めろ」

「止せ!」

 イリヤは更に、使隷の身体ごと、ファルシオンの上に馬乗りになるようにして押さえ付けた。

 使隷の身体が、水の中に沈んで行く。

「止めろ! 目を覚ませ、イリヤ!」

 レオアリスは声を限りに叫んだ。

 届かない訳が無い。ラナエは確かに、イリヤがファルシオンを助けようとしたと、そう言ったのだ。

 例えレオアリスの声は届かなくても、イリヤの心を引き止める唯一の言葉を、レオアリスは持っていた。

「イリヤ――!」

「西海の主へ捧げよ」

 水面が迎え入れるように明滅する。

「イリヤ、聞け!」

 手足を繋がれたまま、レオアリスはそれでも一歩踏み出した。

「王の庭には青い花が咲いてる――今も!」

 言葉に打たれたように、ぴたり、とイリヤの動きが、止まる。

 緑と金の瞳が光を取り戻し、、自分の手の下にある幼い少年の姿を捉えた。

「――ファルシオン……」

 その瞬間、水面は一層激しく渦巻き、イリヤとファルシオンの身体を呑み込んだ。


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