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王の剣士4「かりそめの宴」  作者: 雅
第四章「生者達の舞踏」
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第四章「生者達の舞踏」(十三)

 イリヤは愕然と、足元の墓標を見下ろした。

 白い墓標はまだ名前を刻んだ跡も新しいまま、水面を抜ける風によって打ち寄せた微かな波の音を受け、しんと静まり返っている。

 固く冷たく、温度の無い石。

 あの時撒いた青い花も風が吹き散らし、今は花びらの欠片さえ見当たらない。

 何故この場所に来たのだろう。意識などしていなかったはずだ。イリヤの無意識がここを目指したとでも言うのだろうか。

 それとも――、母が、呼んだのか。

 イリヤが、父親と会えたかどうか、確認する為に。

(――確認?)

 イリヤはもう一歩、墓標の際まで近寄り、それを見下ろして口元を歪めた。

「はは……久しぶり、母さん」

 もう二度と、ここには来ないと思っていた。名を捨てて――王都で死ぬはずだったから。

「どうなったか、結果を聞きたかった? でも、俺がここにいるって事は、どういう事か判ってるよね」

 くすくすと、イリヤは喉の奥に笑いを転がした。

 今更、わざわざ聞かなくても判っているじゃないか。

 何て馬鹿馬鹿しい。

 王都に行く前から――、イリヤが生まれた時から、結果は判っていたのだ。

「あの男は、俺達なんて知らないってさ」

 母が聞き逃さないように、語調を強めてそう言った。墓標の下で、母はどんな顔をしているだろう。

 イリヤはまた笑う。

「あんたは予想していたんじゃないか? こうなる事が判ってたから、俺に何も言わなかったんだろう? でも」

 悲しそうな顔をしているだろうか。当然だと、お前は何て愚かなのかと、そういう顔をしているのか。それとも。

「もしかしたらって期待して、あの日記を俺に残したんだろう?!」

 いいや、違う。

 母は多分、またあの遠くを見る瞳で、イリヤの向うを見るだけだ。

 イリヤの右の金の瞳。同じ色をしたあの男の影を。

 目の前には、イリヤはいない。

「一生、黙ってれば良かったんだ」

 どうせ判り切った結末だったのだ。

 激情が、ふいに込み上げた。

「――墓の下まで持って行くべきだったんだよ! あんたは!」

 喉を切り裂きそうなほどに、イリヤは激情を吐き出した。

 イリヤの叫びを吸収し、しん、と樹々が静まり返る。

 暫く俯いたまま、イリヤは肩で荒い息をついていた。

「――」

 瞳はまだこの墓を睨み付けているはずなのに、沸き上がった激情は名残を惜しむ事もなく引いていき、空虚さだけが残る。

「くそ――」

「兄、上……?」

 心の隙間を突くように、そっと、確かめるような声がかかり、イリヤはぎくりと振り返った。

 離れた岸辺にファルシオンが起き上がり、じっとイリヤに瞳を向けている。イリヤの叫び声で目を覚ましたのだろう。

「兄上」

 心細そうな、少し驚いたような、心配そうな声だ。

(心配――?)

 誰を、心配しているのか。

「――ああ、ファルシオン。目が覚めた? 気分はどうかな」

 ファルシオンは座ったままきょろきょろと辺りを見回した。暗い樹々の影と池、見た事もない景色に、不安そうに身体を竦める。傍らに横たえられたラナエに気付き、彼女の名を呼んで屈み込んだ。

「ラナエ、ねぇ」

 イリヤはファルシオンへ向かって、ゆっくり歩き出した。

「俺はね、気分がいいよ。すっきりしたからかな」

 ラナエは呻いたものの目を覚まさず、ファルシオンは顔を上げてイリヤへ視線を戻した。

「兄上、ラナエはどうしたのですか? ねてるの? こんなところでねたら、かぜをひいちゃう」

 イリヤは答えずに、ファルシオンとの距離を縮めていく。

「シルマンたちもねてた。でも、どこ?」

 見渡してもシルマン達の姿は見当たらない。居城の庭園のように、月明かりで明るく照らされた整えられた場所ではなく、夜明けとは言えまだ夜の影が残る木立は、幼いファルシオンには恐ろしく感じられる。ざわざわと樹々が身を揺するのも。

「ハンプトン――」

 いつも傍にいるハンプトンもいない。何故だろう、と首を傾げる。そう言えば、シルマン達は寝ていたのでは無かったのではないか。ハンプトンも、あの時、いつもとは全然違う厳しい顔をしていた。

 小さな両手がぎゅっと服の裾を掴む。何があったのか余り思い出せないが、少し、怖かったからだ。

 さくりと乾いた草を踏む足音に、ファルシオンは顔を上げた。イリヤが歩いてくる。

「兄上」

 兄がもうすぐ近くまで来てくれている、そう思うと怖さは消えた。

「兄上、ここはどこ?」

 ファルシオンのあどけない問いに、イリヤはうっすらと、柔らかい笑みを浮かべた。

「王都から、遠い所」

「とおいところ?」

 ファルシオンがきょとんとして瞳を瞬かせる。遠いと言っても、ファルシオンにはどれほどの距離か判らないに違いない。例えば王都から馬でひと月はかかると言ってみせても。

 いや、それ以上に、自分がもう王都に帰る事はないのだなどと言っても、ファルシオンには理解できないに違いない。

「お庭から、ここに来たの?」

「そう」

 イリヤの笑みは、まるでちょっとした悪戯をしているかのように柔らかい。だからファルシオンも少し、楽しそうな顔をした。兄と一緒に遊んでいる気分になったからだ。

 例えば、かくれんぼとか。

 そう言ったら、イリヤはまた笑った。

「いいね、かくれんぼ。見つけられるといい」

「でも、だめだよ、兄上、だまって始めちゃいけないんだ。おうちにかえろうよ。みんなしんぱいするよ」

「そうだね。今ごろ皆、君を探してるだろう。隠れた君がどこにいるのか、本気で」

 イリヤはさくりと軽い音を立て、ファルシオンと少し離れた位置で足を止めた。

「かえらなくちゃ。きっとハンプトンなんてすごく怒るから、早くごめんなさいってしなくちゃいけないんだ。それに――、レオアリスも、きっとさがしてる」

 先ほど見たハンプトンとレオアリスはすごく驚いたような、恐がっているような顔をしていた。きっとファルシオンが黙って兄に付いて来てしまったからだ。かくれんぼが始まる事を告げずに隠れてしまったら、ただ心配を掛けるだけだ。

 帰ったらしなければいけない事を一生懸命想像して、ファルシオンは一つ、とても大切な事を思い出した。ハンプトンもレオアリスも、それを言ったら安心するだろうし、ファルシオンにとってそれは一番大切な事だった。

 跳ねるように立ち上がり、イリヤへと駆け寄ると、その左手をしっかりと握る。イリヤはぴくりと身を震わせた。

「兄上、かえろう。兄上をみんなに見せなくちゃ」

「――」

 イリヤが答えなくても、ファルシオンはイリヤの存在を確かめるように、繋いだ手に力を込めた。

「ずっとずっと、兄上にお会いしたかったんだ」

 無邪気で、純粋な思慕の籠もった声の響き。小さな手の温もり。

 イリヤは、ゆっくり、息を吐いた。

「俺にじゃないだろ――」

「ううん、兄上はお亡くなりになったって、みんなそう言ってたけど、でも、もう一人兄上がいるんだって、ラナエがおしえてくれたの」

 胸の奥が重く締め付けられるような気がして、イリヤは眉を寄せた。

「だから私は、すごくうれしくて、ずっと兄上にお会いしたいと思ってて、そうしたら」

 ファルシオンの瞳が喜びに輝く。真昼の太陽のように、眩しい輝きだった。その強すぎる輝きから瞼を閉ざすように、イリヤは瞳を細める。

「会えたんだ。すごく、びっくりしたけど――でも、兄上だってすぐにわかったよ。ねぇ、兄上は私に会いに来てくれたの?」

「――そうだね」

 喜びの色が、ぱぁっとファルシオンの頬を染める。イリヤの手を握る暖かい手が、ぎゅっと強さを増す。

「みんなに兄上をお見せしたら、おどろくかな。私の兄上だって言ったら」

 本当に、嬉しそうに笑う。きっとこの笑顔は、周囲の人々の喜びでもあるのだろう。

 あの、王も。

 こんな笑顔があるなら、どうしたってイリヤなど必要ない。

「でも、きっとみんなよろこぶんだ。父上も」

「煩いな」

 イリヤは自分の声を、この少年に掛けるにはあまりに相応しくない、冷たくて固い響きだと思った。あの、母の墓標のように。

「兄、上?」

 ファルシオンはイリヤを見上げ、戸惑ったように瞳を見開いている。

「どうしたの……?」

「煩い」

「兄上」

 吐き捨てるようにそう言ったが、それでもファルシオンの上にあるのは戸惑いと、イリヤを気遣う思わしげな色だ。

 何かに突き動かされ、イリヤは口を開いた。ただ突き動かすものの正体などイリヤは知らず、知りたくもない。

「煩いんだよ、君は。俺はお喋りする為に君を連れて来たんじゃない。初めての出会いを喜び合う為でもない」

 イリヤはファルシオンの手を振りほどき、そのまま両手を伸ばして彼の首を掴んだ。すっぽりと、掌に納まるほど細い。

「兄……」

 戸惑い、それでもファルシオンは逃げようともせずにイリヤを見上げている。イリヤは両手に力を込めた。ファルシオンの手が苦しそうに上がり、イリヤの手を掴む。

「かくれんぼをしよう。場所はどこがいい?」

「あ、に」

 ファルシオンの瞳が歪み、爪が手の皮膚に引っ掛かる。

「池の中がいいかな――。俺の母の隣だけど、気分を害さないでくれよ。君の兄を殺した奴の、娘だけどね」

「あ――」

 イリヤはじっと、ファルシオンが藻掻く様子を見下ろしていた。

 そうしながら自分の中にどんな感情があるのか、それを探していたのかもしれない。ファルシオンに――、初めて会ったこの少年に対して。

 理由を。

 彼が、王の子として育てられたから。

 王が、父が唯一認めた王子だから。

 存在すら認められない自分と、正反対の存在だから。

 だから――

「あに、うえ……何で……」

 苦しそうな息の下で、ファルシオンは途切れ途切れに呟いた。

 だから?

 だから、憎んでいるのか?

 殺してしまいたいほどに?

「何、で……、泣いてるの……?」

 イリヤは、息を止めた。

 打ちのめされたように立ち尽くし、凍り付く。

 自分の手の中から、ファルシオンは苦しみに潤んだ瞳をイリヤに向けている。

「――何」

「泣か、ないで……」

「う」

 泣いてなどいない。涙など流れていない。

 別にこの少年を殺したいほど、憎い理由も無い。

 ただ――

「煩い……煩いっ! 俺はッ」

 力を込めなくては。

 ただ

「俺はそんな事思ってない!」

「イリヤ、止めて!」

 体当たりするようにイリヤにしがみついたのはラナエだった。力を込めていたはずの手は簡単にファルシオンの喉から離れた。

 ファルシオンは草の上に倒れ込み、意識を失ったのかぐったりしている。

「あ……」

 倒れている小さな身体が視界一杯を埋め尽くすように感じられ、イリヤはよろよろと後退った。

「ファルシオン様!」

 ラナエが彼の身体を庇い、まだ息がある事を確認して肩を下ろし、それからイリヤを見上げた。

「イリヤ、何でこんなことするの?! ファルシオン様は、あなたのこと聞いて、ずっと、会いたがって」

 ひゅうひゅうとファルシオンの喉から擦れた呼吸が漏れていたが、それでも次第に呼吸は整っていく。イリヤはそれを確認するように、じっとファルシオンの姿を見つめていた。

「ファルシオン様は、あなたの弟じゃない」

 ラナエの顔の、その頬に光る筋を目に留めて、イリヤは小さく笑った。

(何だ、泣いているのはラナエじゃないか。やっぱりそうだ、俺じゃないよ)

「イリヤ!」

 くすくすと、イリヤの笑い声が落ちる。ラナエはイリヤがおかしくなってしまったのではと怖くなって、身体を強ばらせ彼を見つめた。

「イリヤ――」

「似てないよなぁ……、全然」

「イリヤ?」

 イリヤは笑うのを止め、俯いている。不安から、心配へと瞳の色を変え、ラナエはファルシオンの身体をそっと横たえると、立ち上がってイリヤに近付いた。

「ねえ……あなた、どうしたの?」

「似てる訳が無いんだ」

「――」

 イリヤが王都で何を見てきたのか、ラナエには判らない。

 ただラナエは、俯いたイリヤの顔を覗き込み、それから腕を回して彼の身体を抱き締めた。

「帰ろう、ねぇ。もういいよ」

「――帰る?」

 少し放心したような瞳がラナエを見返す。

「そうよ。帰ろう」

「どこに?」

 帰る場所など、無い。イリヤは全て壊してきた。

「でも――」

「君の帰る場所も、俺は奪ってしまった」

「――イリヤ、私は、あなたと」

「君まで、帰る場所がないんだ――」

「私はあなたと」

 ラナエの言葉を聞いているのか、イリヤはつと顔を上げた。

「ああ、そうだ――、一つ方法があるな」

「イリヤ?」

 イリヤの瞳はラナエを見ていない。何かを確認するように辺りを見回し、自分を抱き締めているラナエを引き剥がすと彼女の肩に手を置いた。

「君は、ファルシオン殿下を連れて帰るんだ」

 ラナエの瞳が見開かれる。

「イリヤ、何を言ってるの?!」

 不安に駆られてラナエはイリヤの両手を掴んだが、イリヤはそれを解き、林の向こうを指差した。

「この林を出て、軍に助けを求めるんだ。まだ軍がここに来てない今なら間に合う、俺から逃げてきたって言って。そして、彼に、近衛師団大将に会う。会って事情を話せば、きっと何とかしてくれるはずだ」

 ラナエは俯いてそれを聞いていたが、やがて唇を震わせた。

「イリヤ――勝手な事ばかり言わないで……」

「うん、随分勝手な言い草だけどね」

 イリヤは口元を歪めた。

「でも、彼なら、きっと」

「嫌よ!」

 滅多に聞かない撥ねつける口調に、イリヤが口を閉ざす。

「勝手な――、勝手な事ばかり! 王都に来た事も、父様の養子になった事も――私の意見なんて聞かないで勝手な事ばかり!」

 イリヤは目の前のラナエの顔を見つめた。ラナエは青ざめ、涙ぐんでイリヤを睨み付けている。

「さよならって何? あの手紙は何? あなた一体、何考えてるの?! わ――、私を何だと思ってるのよ!」

「ラナエ……」

「周りの事なんて全然考えないで、勝手な事ばかり言わないでよ!」

 ラナエはその場にぺたりと座り、わっと泣き出した。イリヤは戸惑い、躊躇って、傍にしゃがむとおずおずと彼女の肩を抱き締める。

「ラナエ……泣かないでくれよ」

「泣いてないわよ、怒ってるんだから!」

「ラナエ」

「あなたが勝手な事ばかり言うから、悲しいんじゃない! イリヤが――」

「――ごめん」

 イリヤはラナエの身体を抱き締めた。街にいて――まだ何も知らなかったあの頃のように。

 あの頃はただ、ラナエを幸せにしたいと、それだけを思っていたのに。

 どうしてこんな場所で、もうどうにもならないこの腕で、彼女を抱き締めているのだろう。

(俺は、馬鹿だな――)

 ラナエは自分もまだ涙を零しながら、それでも腕を伸ばし、イリヤの頬に触れた。

「イリヤ……泣かないで」

 微かな笑みが、イリヤの口元に浮かぶ。

「俺は、泣いてないよ」

「泣かないで」

 泣いている訳じゃない。

 ただ――、悲しいのだ。

 多分ずっと、それだけだった。

「私がいるから、ずっと傍にいるから」

「――」

「一緒に行きましょう。ファルシオン殿下をちゃんとお連れして、きちんと罪を償って、そうしたら――」

 ラナエはそこまで言って、ふと口をつぐんだ。

 イリヤが微かに笑う。

 罪を償って――

 その先は、無い。

 あの居城の庭園で、イリヤは多くの命を手に掛けた。

「でも――でも、」

「いいよ、ラナエ。でも、そうだね。俺も一緒に行くべきだ」

「でも」

 抗うように何度も首を振り、ラナエは彼を隠そうというように、イリヤの身体を抱き締める。

「嫌だ、考えるから、もっと」

 不意に、池の水が波打った。

『考える必要は無い』

 低く嘲る、這い寄るような声が池から伝わる。

 鼓動を凍り付かせ、イリヤは素早く立ち上がり、ラナエとファルシオンを庇うように池を振り返った。

 樹々の隙間から真横に漏れる朝日を受け、池の中央が盛り上がる。

 ずるりと水面から抜け出し、あの男――ビュルゲルが池の真ん中に立ち上がった。ラナエが悲鳴を上げ、身体を縮める。

「なかなかの余興であった。我が君もさぞ喜ばれよう。もう気は済んだかね?」

「――ビュルゲル」

 ビュルゲルは、初めて、全身を現している。別に取り立てて変わった姿ではない。異海の住人とはいえ、足元までの長衣を纏った様子は、イリヤ達と服装もほとんど変わらない。

 ただ水面に全身を現している、それが何か、イリヤの脳裏に警鐘を鳴らしていた。

 ぐい、と顎を引き、足に力を込める。

「――もうお前に用はない、消えろ!」

 ビュルゲルの笑い声が水面を揺らし、イリヤの足元へもさざ波が寄せる。

「消えろとは勇ましい。だが用がないとは言わせん」

 ビュルゲルを睨み付けながら、イリヤはラナエ達をどうこの場から逃がすべきか、それを必死に考えていた。ビュルゲルとの距離は僅か十間ほどしかない。走って林に逃げ込んでも、すぐに追い付かれてしまう。

「そなたは私と契約を済ませた。その望みの為に我が力を貸したのだ、対価を支払っていただこう」

「イリヤ――あの人は何? 何を言ってるの?」

 イリヤはビュルゲルを睨んだまま、早口でラナエに囁いた。

「ラナエ、逃げるんだ。ファルシオン殿下を連れて」

「逃げるって、どういう事」

「いいから」

 あの男の姿を目にして、逆にはっきりとイリヤは目が覚めた。

 何故一時なりと、あの男の言葉を受け入れたのか。

 あれは何も、何一つ、イリヤ達の事には関係のない相手だ。

 この国には。

 西海の、目的は――。

「契約通り、ファルシオンを貰っていく」

「……初めから、それが目的だったんだろ」

 イリヤの怒りを嘲るように、ビュルゲルはちらりと赤い舌を閃かせた。

「なぁに、その方が面白いからさ」

「――」

「そなたもあの男が慌てる様を見たくないかね? 慌てふためき、嘆き、悲しむ様を」

 思えばずっと、この男の口は毒を含んで囁き続けていた。イリヤはそれを理解しているつもりだった。

「それを見るにはそなたより、ファルシオンの方が効果的と言うだけの事だ。そう思うだろう? そなたではどうも効果が無さそうだからな」

 完全にビュルゲルは、イリヤの苛立ち、苦しみを逆手に取って嘲笑っている。

 何故イリヤに接触してきたのか。

 協力? 同情? 交易の自由化だと?

(あり得ない。こいつ等は――)

 単に、面白がっているだけだ。

 イリヤ達が藻掻き、右往左往する姿を見て、嘲笑っている。

「ラナエ――」

 小さな呼び掛けに、茫然と池の上の男を見つめていたラナエは、はっと我に返った。

「俺が合図をしたら、殿下を連れて林の中に逃げるんだ。ここは俺達の街の近くだから、街に行って、軍に駆け込むんだ」

「駄目よ、それは」

 先ほど話したじゃないかとラナエは責める眼をしたが、イリヤは声音を抑えたままきっぱりと言い切った。

「それとは違う。今は説明をしてる暇はないんだ、ラナエ」

「――」

 ラナエは二、三度瞳を瞬かせ、だが次には両腕でしっかりとファルシオンを抱えた。まだファルシオンは気を失ったままだ。

 イリヤはそれを横目で確認し、再びビュルゲルを睨み付けた。ビュルゲルはまだ池の中央で、薄い笑みを浮かべたまま、イリヤ達の様子を眺めている。

 イリヤの右の瞳が、次第に金色の光を増していく。

 ビュルゲルの肩が揺れた。

 小刻みに揺れるその動きに合わせるように、さざ波が打ち寄せる速度を増していく。ぴしゃぴしゃと、波が岸に打ち付ける。

 ビュルゲルは今や上半身を震わせ――、不意に、抑え切れない哄笑が弾けた。

「ははははは!」

 周囲の林を圧するように、哄笑の波が押し寄せる。それを追って、身を震わす、叩きつけるような声が奔った。

「面白い! 充分な余興だ! ――(あらが)ってみせよ!」

 一瞬恐怖に飲まれて凍り付いた身体を、イリヤは無理矢理奮い立てた。

「ッ――ラナエ、走れ!」

 ラナエがぎゅっと唇を結び、ファルシオンを抱き抱えて走り出す。

 ビュルゲルもまた、水面の上を大股に歩き出した。

「そこで止まれ!」

 イリヤが右の手をかざし、叫ぶ。右手はいつかの庭園で使隷に襲われた時のように、金色に輝いていた。だがビュルゲルが止まる気配は見えない。

「くそ……止まれっ!」

 苛立ちと焦りがイリヤの中に巻き起こる。ビュルゲルが止まらないのは、イリヤの力など何も問題にしていないからか――、気付かれているからだ。

 イリヤはこの力の使い方を知らない。

 元々細い枝すら折るのにも苦労するほどの、僅かな力しかない。

 正面の、圧倒的な力を纏った男をどう止めればいいのかなど、全く判らなかった。

 ビュルゲルは薄笑いを浮かべたまま、無造作に歩いてくる。

(くそ、何て役に立たないんだ、俺は)

 だから、父は――

 しつこく心に食い下がる想いに、イリヤは奥歯を噛み締めた。

(どうでもいいよ!)

 今は、ラナエ達を逃がすのだ。

「止まれって言ってるんだ!」

 不意に、身体の奥底で何かが膨れ上がり、体内を奔った。

 イリヤの手から金色の光が溢れる。それは一条の帯のようにビュルゲルへ走り、その姿を包んだ。

 水面が大きくうねり、ビュルゲルの後方に波濤となって飛び散る。

「――っ」

 イリヤの身体が揺れ、足から力が抜け落ちるように、膝を付いた。全身の力が根こそぎ持っていかれたような感覚だ。両手で身体を支えていないと、そのまま地面に倒れてしまいそうだった。

 ぴしゃ、と正面で足音がした。

「残念な事だ」

 はっと顔を上げた目の前に、ビュルゲルが立っている。

「――」

(何も――)

 イリヤの力など何も、ビュルゲルの薄い肌にかすり傷一つ追わせてはいない。

「抵抗は終わりか? 随分と情けない。それではそなたの父も、そなたなどいらぬと言うのは当然よな」

 イリヤが唇を噛み自分を睨み付けるのを見て、ビュルゲルは口元を笑いに歪めた。

「悔しいか――ならば今一度、我が力を貸してやろう」

「そんなものいるか」

 ビュルゲルの背後の池が、幾つも盛り上がった。何本もの半透明の腕が生え、ゆらゆらと揺れた後、びしゃり、と岸を掴む。そのまま自らの身体を引き寄せるように、池の中から全身が現れた。

 四体、いや、五体の使隷達が、主を慕うようにビュルゲルの周りを取り囲む。その背後で、まだ水の音が響いている。息を呑むイリヤの前で、半透明の使隷達は次々と上陸し、ビュルゲルの周囲に隊列を作った。

 湿って凝った水の匂いが鼻を突く。

 それは、ビュルゲルが生み出す西海の軍だ。たった二体でイリヤ達の移送の隊列を襲い、居城の警護隊を壊滅させた、恐るべき兵士の列。ざっと見ても二十体を越えるそれが、ゆらゆらと不気味な花のように身体を揺らした。

「娘とファルシオンを追え」

「そんな事、させるか」

 身を起こそうとして、イリヤは凍り付いた。ビュルゲルの視線は真っ直ぐイリヤに向けられている。

 命じたのは、使隷達に対してではない。

「契約の対価を支払え。ファルシオンを連れて来い」

「――」

 ぴしゃりと肩に冷たいものが当たった。振り返ろうとしたイリヤの身体を、水が這い上がる。

「――止めろ……」

 ビュルゲルの意図を悟り、イリヤは呻いた。

 ビュルゲルは正面の林に眼を向けた。既にラナエの姿は無い。水掻きの付いた手が伸び、イリヤの頭を掴んで無造作に引き上げる。

 瞼の無い銀の瞳が、イリヤの瞳を覗き込む。発っせられたのは、単なる部下に命令するが如き響きだった。

「娘は、殺しても構わん」

「ふざけ」

 開いた口の中に水が流れ込む。ごぼりと喉が鳴った。

 抗う術も無く、イリヤの意識は水に囚われた。


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