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王の剣士4「かりそめの宴」  作者: 雅
第四章「生者達の舞踏」
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第四章「生者達の舞踏」(九)

 王城の裏門を、武装した兵列に囲まれた馬車が音もなく滑り出る。

 窓の無い黒塗りの車体はまだ暁には遠い街の闇に紛れ、車輪には革を巻き石畳を噛む音すら拒否して、ひっそりと、しかし停まる気配は微塵もなく、西の街道に続く大通りを下っていく。

 馬車は三台、間隔を置いて連なり、その周囲をそれぞれ二十名ほどの司法警護官が囲んでいた。乗っているのは先頭がフォルケ元伯爵、最後がイリヤだ。

 王都を出れば、その先の街道辻で三方向に別れ、別々の街に移送される事になっている。その街から先は、それまでの地位、財産、名誉、全てを失って身一つで放り出されるのだ。

 王都からの永久追放となった以上、再び王都の門を潜れば、待っているのは死でしかない。

 絶望を憂鬱そうに腹の中に抱え、馬車は無言のまま進んだ。

 眠った街を影のように抜ける葬列。

 付き従うのは沈黙のみだ。

 

 ごとん、と車輪が石畳を噛む振動が身体に伝わる。

 イリヤは狭い馬車の中で、縄で括られた両手で膝を抱え込み、先ほどからずっと額を膝頭に押し当てたまま俯いていた。

 窓もない車内に嘲笑うように寒さが忍び込み、身体を骨から凍り付かせるようだ。

 けれど頭を伏せたまま、イリヤにはその寒さも感じていなかった。

 彼の中は、今や空っぽだった。強引に名付けようとするならば、その空白の名は虚無だ。

 失われたのはただそれまでの生活などではなく、彼の唯一の望み――、父に会い、ただ一言、十八年間の時がイリヤの中に形作った言葉を告げる、それだけの望み。

 その結果訪れるものが死ならば、それでも良かった。

 イリヤに与えられる死は、イリヤが王の子だと認められた証だ。

 だが、王はその死すら、イリヤに与えなかった。

 ただ一言の言葉もなく、たったの一瞥すらもなく――イリヤという存在など無いかの如く。

 死すら与えられないのなら、王は、父はもはや、イリヤの事など忘れているのだ。

 いや――。

 初めから、イリヤなど、存在しなかった。

 第二王妃の息子、ミオスティリヤは、王妃と共に生まれる前に死んだ。

 イリヤは、いない。

 王の子は、王女エアリディアルと王子、ファルシオンのみなのだ。

 拳がきつく握られ、爪が掌に食い込む。

『ファルシオン様はとてもお可愛らしくて、聡明なの』

 ラナエは本当に、ファルシオンに対する愛情をその頬に浮かべていた。

 国民への謁見の際に、王と共に姿を見せるファルシオンへ、王都の住民達が見せる親愛。

 王が覗かせる愛情。

 王家には、ファルシオン一人で充分だ。

 イリヤなどいらない。

(何の望みがあったんだ)

 愚かな事だ。

 十八年間、ずっと父親などいなかった。それで良かったはずなのに、愚かにも捉われて。

 何を根拠に、自分が認められると思っていたのか。

 食い込んだ爪が、薄い皮膚を破った。

 彼が。

 ぽたりと血が滴り、イリヤは闇に紛れて見えないはずの雫を追った。

(ああ、そうだ)

 ほんのひと月前、あの話を聞いたから。

 北の地で十七年前に起った反乱。王に剣を向け、滅びながらも、その唯一の生き残りであるあの剣士は王都で認められ、近衛師団の大将にまで登った。

 王に認められ――王に命を救われ、名を与えられ。

 許されて。

 握った拳の端から、血が滴る。

 名を、与えられて。

 それがイリヤの心にも、一つ、鮮やかな印しを打ったのだ。

 彼が許されるなら、自分も許されるのではないか?

 何故、彼だけという事があるだろう。

 同じなのだから。

(そうだ――同じだったはずだ)

 虚無の中にあった心に、ぽつりと黒い点が生まれる。

 それはゆっくり、布に零した墨汁のように広がっていく。

 王は彼を認めた。

 そうであれば、何の血も繋がらない彼だけを認め、血の繋がったイリヤを認めないという事がある訳がない。

 そのはずだった。

 じわりと心に闇が広がる。

 初めは確かに、レオアリスの過去はイリヤにとって希望だった。

 だから彼に近付く事で、王に近付けるとそう思っていた。彼がイリヤを、王のもとに導いてくれると。

 だが、結局それこそが、単なる思い違いだったのだ。

 王はレオアリスだけを認め、イリヤを振り返る事は無かった。

 握り込んだ指が掌に食い込み、血の気が白く失せる。心が染まっていく。

 ぽたぽたと血が滴る。

 ならば心を染めるのは、この血だ。

 王から受け継いだ――、受け継ぐ事無く、途切れた。

 イリヤは唇を噛み締めた。血の味がした。

(何で)

 何故、彼だけが認められる。何故、自分は認められない。何故、何故、

 何故――!?

 違う。

 そんな事などどうでもいい。

 ただ、自分は忘れ去られた。

 初めから、王の子などではないから。

 王子は――、王に名を呼ばれ、その手で抱き締められるのは、ファルシオン一人だ。

「は――」

 喉が引き攣った。

「はははッ!」

 縄で括られたままの両手が、馬車の座席を打った。

「俺は、そんなものは欲しくないッ!」

 拳を振り上げ、再び叩き付ける。振り上げる。

「俺は!」

 ガッと木の座席の角に亀裂が入り、堪え切れずに皮膚が弾けたイリヤの手から、再び血が飛び散った。

「そんなものいるもんか! ただ俺は」

 ただ

「憎いだけだ!」

 イリヤの右眼が暗い室内で、そこだけ灯りを灯したように輝きを増す。ぴしり、と馬車の木の板に亀裂が走った。

 馬のいななきと共に、つんのめるように馬車が停まる。乱暴に扉が叩かれた。苛立つような声と、剣の柄か何かで叩いた騒々しい音が狭い馬車内を圧迫する。

「静かにしろ! 騒いでも無駄だ!」

 しん、と馬車の中が静まり返る。

 馬車は商業区と呼ばれる王都第二層の、運河に架かる長い橋の上で止まっていた。

「全く、忌々しい」

 中からの反応が無い事に、扉を叩いた司法警護部副官ヒックスは鋭く舌打ちをした。キーファー子爵家のお陰で、かかなくてもいい恥をかいた。

 もう一度馬車の横っ腹を叩いて僅かに溜飲を下げ、ヒックスが再び動き出す合図をしようとした時だ。

 足元で、ぴしゃりと水の叩く音がした。

 橋の下は荷を乗せて上がってきた小船の船着き場になっている。船底を運河の水が叩いたのだろうと、ヒックスはその音を気にも止めなかった。

 ぴしゃ、ぴしゃり。

「行きますか?」

「ああ、静かになった、さっさと行くぞ。前の馬車と離れ――」

 びしゃ。

 馬車の前にいた別の警護官が、声が途絶えた事に振り返る。

「出しますよ」

 問いかけた口の形のまま、警護官は辺りを見回した。

 扉の横にいたはずのヒックスの姿が見えない。

「どうしました?」

 馬車の中に入ったのかと、扉へ近づこうとした時、橋の下で何か重いものが水に落ちる音が聞こえた。

「? 何の音だ?! まさか」

 欄干に走り寄りかけて、足を滑らせる。転んで手を付いた橋の表面が、水溜まりを作ったように濡れていた。

「何だ? 何をやってるんだ」

 馬車の後方にいた他の警護官も走り寄る。

「今の音は? お前、何で座りこけてるんだ」

「いや、水溜まりに滑って」

「水溜まり? 何でこんな所に」

 今日は雨が降った訳でもなく、周囲は全く濡れていない。

 警護官は持っていた灯りを近付け、足元を照らした。薄く溜まった水が光を弾く。

「ん?」

 水溜りから、何かを引き摺ったような後が欄干へと続いている。顔を見合せ、二人は欄干へと近寄った。

 欄干に手をかけ、下の運河を覗き込もうとした時。びしゃり、と背後で湿った音が立った。振り返った一人の顔面を、黒っぽい塊のようなものが包み込む。

「うわ……、!……」

 慌てて振り返ったもう一人と、悲鳴を聞いて駆け寄ろうとした他の警護官達の前で、藻掻く警護官の足元に広がっていた水溜りが、ぽっかりと盛り上がる。

 まるで地面から首を生やすように、頭と顔が形作られ、肩が盛り上がり、胴体が現れる。夜の闇を孕んだように透ける、半透明の身体。ビュルゲルがイリヤを襲わせ、そしてイリヤに与えた、あの使隷だ。

 その傍らで、ぶよぶよした塊に顔を覆われた警護官が手足を藻掻く様は、上から吊り上げられた出来損ないの操り人形のように見える。

 二十名近い警護官達は、目の前で起きている不可解な光景に動くのも忘れ、呆然とその人とは思えない物体を見つめていた。

 藻掻いていた男が痙攣し、ぱたりと手足の動きを止める。

 警護官の顔を覆っていた水の塊がするりと離れ、人型の肩に吸い込まれる。音を立てて男の体が橋の上に倒れ、人型の身体がぷるんと波打った。

「……っ、な」

「リック!」

 呪縛が溶けたようにはっと我に返り、警護官達が剣を引き抜く。

「この」

 一人が地面を蹴って駆け寄り、一直線に剣を振り下ろした。

 人型が肩からばっくりと二つに割れ、崩れ落ちた橋の石畳に水飛沫が跳ね飛ぶ。

 斬り付けた警護官は息を吐き捨て、それから倒れている同僚に屈み込んだ。

「リック、リカルド、おい!」

「駄目だ、息がねぇ」

 背後で、息を呑む音が聞こえた。

 振り向いた警護官は、まだしゃがみ込んだまま、言葉もなく背後を見上げた。

 斬り倒したはずの人型が、何事も無かったかのように立ち上がっている。

「こいつ、もしかして……」

 漸く、思い出した。

 この件に関わっていたのは、西海だ。

 この、不気味に揺れる半透明の生物は。

「くそ、前の隊に、援護を……」

「行ってきます!」

 一人が身を翻して走り出したが、橋のたもとで何かに気が付いて足を止めた。

 ぴしゃぴしゃと、橋から続く道の向こうから湿った足音がする。驚きとも怯えとも付かない声を上げ、馬車を囲んでいた警護官達が後退った。

 救援を呼びに行こうとしていた道の奥から立ちはだかるように現れたのは、もう一体の人型だ。その半透明の胴体から何かが押し出され、がらんと固い石の舗装に落ちた。良く眼を凝らせばそれは、司法警護官に支給される剣だった。

 馬車と警護官達を挟むようにして、ゆらゆらと人型達が揺れた。

 

 

 レオアリス達がイリヤに会う為に降り立ったのは、西外門辻だった。イリヤ達の馬車が通るのは明けの四刻――あと四半刻ほどだ。

 さすがに街道を通る者は無く、深々と凍り付くような寒さと静寂が辺りを支配している。レオアリスはハヤテの首を撫でながら西外門を振り返った。

 時折、衛士の持つ槍が松明の光を弾き、夜の闇を切る。

 彼等の背後には山のような王都の姿が、街の街灯や窓の灯りを散りばめて夜空を切り取り浮かんでいた。特に下町と呼ばれる裾野の辺りは、この時間でもまだ灯りが多い。

 そして頂上部に朧気に浮かぶ王城の影。

 レオアリスは暫くの間、青く凍り付くような王城の影を見つめていた。やがて、息を吐いて視線を戻す。

「来たはいいけど、どうやって止めるかな。警護が二十名付いてるんだろ、術で眠らせるか、取り敢えず全員当て身で眠らせるか」

 ロットバルトはレオアリスの発想に呆れの籠もった視線を向けた。

「過去に何かやらかしたんですか? まあそんな犯罪すれすれの方法を取らずとも、証拠品押収の場所を確認させると言えば捜査権限で止められますよ。西海の使隷の捜索に関しては一義的に師団が権限を得ています、多少強引でも説明は付けられる」

「――そうだな……」

 少しばかりの反省を伴いつつ、自分の吐いた白い息を視線で追った。

 そう言えば、昨日ここでアスタロトに待ちぼうけを食らわせたのだったかと、ふと思い出した。

(まだ謝ってないな)

 その時間が、全くと言っていいほど無かった。目まぐるしいばかりで、あれからまだ二日も経っていないなど、振り返ってみても実感が湧かない。

 その間に自分の意思や考えが通用した事が、一体どれだけあっただろう。

 いや――誰一人、こんな結末は望んでいないはずだ。

 誰も望んでいない結末に向って、事態は着々と進んでいる。

(そういうものなのかもしれない)

 今、レオアリスがやろうとしている事に、どれほどの意味や効果があるのか判らない。

 想いは明確な形や質量を持つ訳ではない。厳然たる現実、圧倒的な流れの前には、時に沈黙を余儀なくされる。

 まさに今回がそれだ。

(でも)

 だからと言って想いを、殺す事はないだろう。

「そろそろ時間です」

 ロットバルトの声に、レオアリスは顔を上げた。

 移送の馬車が外門を出てくる頃だ。

 寒さが手足に染み込んできて指先に息を吐きかけ、そうしながらいつの間にか王都の気候に慣れ切っているのだと、ふと思った。もう四年近く、王都で過ごしているからだ。

 ただ、理解し変わらなくてはいけない部分はあるにしろ、慣れ切ってはいけないものを、確実に自分の中に持っていたかった。

「――遅いな、定刻を過ぎてるんじゃないか?」

「確かに――この時刻で、通常遅れる事はないはずですが」

 レオアリスは馬車が出てくるはずの外門を睨んだ。なんとなく、嫌な予感がしている。

 それを漫然と考えているつもりは無かった。

「カイ」

 呼ばわると、軽い羽音と共に空中に黒い鳥が姿を現し、レオアリスの伸ばした右腕に止まる。どんな用かと問う丸い眼が、ぱちりとレオアリスに向けて瞬いた。

「王城までの道を飛んで、隊列がどこに居るか確認してくれ」

 カイは一声鳴くと、彼の腕から浮かんで二、三度羽ばたき、弓から放たれた矢のように、一直線に街道を飛び去った。

 

 

 

 イリヤは馬車の外で沸き起こった騒ぎを、身を固めて聞いていた。

 悲鳴と怒号が上がり、時折馬車の車体に重いものがぶつかる。興奮した馬のいななき。

(何が起ってるんだ……?)

 それはしかし、程なく静まった。

 暫く待ったが、誰も、馬車に声を掛けてくる様子が無い。

 狭い室内で腰を浮かせかけた時、馬のいななきが聞こえ、次いでぐらりと車体が揺れた。

「!」

 咄嗟に掴まるものもなく、身体が浮き上がり、直後に叩きつけられる。肩をしたたかに床に打ち付けた。

「ッ」

 最初は何が起こったのか判らなかったが、身を起こそうとして支えになるものを手探りし、イリヤは自分の置かれている状況を理解した。

 先ほどまで座っていた座席が、イリヤの顔の横にある。

 馬車は横倒しに倒れたのだ。

 茫然として座り込んでいたイリヤの頬を、冷たい空気が撫でる。見回せば、今は天井になった右側の扉が、倒れた衝撃でずれていた。

「――」

 イリヤは立ち上がり、手を伸ばした。気が付けば手を戒めていた縄が弛んでいる。まずは何とか片手を抜いて縄を外し、再びイリヤは扉に触れた。

 上に押すと、扉は簡単に開いた。差し込んだ月明かりに、馬車の室内が青く染まる。

 馬車から這い出て辺りを見回し、そこに広がる光景に、イリヤは身体の痛みも忘れて息を飲んだ。

 馬車は無惨に横転して橋を斜めに塞ぎ、巻き添えを喰った馬がいななきながら藻掻いている。周囲には警護官達が倒れていた。二十人もいた警護官達の内、誰一人立っている者はいない。

「何があったんだ……」

 茫然としながら馬車から降り、近くの男の傍にしゃがんで顔を覗き込んだ。虚ろに見開かれた瞳と眼が合い、ぎくりと身を引く。

(死んで――)

 紫色に膨れ上がった顔は、窒息死を物語っていた。そして全身、水に浸かったように濡れそぼっている。

(窒息? こんな所で、まるで溺れたみたいに)

 その思考を読み取ったかのように、びしゃり、と湿った音が立ち、イリヤはさっと顔を上げた。

 初めは、自分が何かを見ているという事自体が判らなかった。目の前に何かぐにゃぐにゃしたものがある、とそれだけだ。

 イリヤは二、三度瞼をしばたたかせた。

「あ――」

 ほんの、数歩先に、半透明の人型が揺れている。その姿を見て、橋の上の惨状は、ぼんやりとだが納得が行った。

 だが、埋めたはずではなかったか。近衛師団に、引き渡したはずでは――

「西海、の」

 今更ながらにあの時の恐怖が蘇り、イリヤはぞくりと身を震わせた。

 逃げる為に腰を浮かせかけ、しかしイリヤは視線を離す事ができずに、そのまま動きを止めた。イリヤの方へ突き出された人型の、目の無い顔が渦巻き、形を変え始めたからだ。

 半透明の顔はぬるりとした皮膚に取って代わり、巻いた渦が瞼の無い二つの銀の眼を作り出す。

 あの男――ビュルゲルの顔だけが、そこに入れ替わっていた。

 口が耳元まで裂け、赤い舌が覗く。

『……失われた御子よ』

 水の幕を通したような、くぐもった聞き取りにくい声だった。

 しかしその事よりも、この状況への驚きよりも、告げられた言葉に、イリヤは奥歯を噛み締め、ビュルゲルの顔を睨み返した。

 イリヤの視線を受け止め、ビュルゲルはにたりと笑った。

『この呼び名はお気に召さぬと見える。さもありなん。あの王は、そなたを一顧だにしなかった』

「!」

 イリヤは眉を揺らしたものの何とか感情を表すのを押さえ込んだが、胸の奥を掴まれるような気がした。

『王の血を引く御子は、正妃の子のみ。第二王妃の存在には蓋をし打ち棄てて、顧みる事もない。そなたも最早、過去の存在という訳だ。何とも酷薄な』

「――」

『そなたが生きていては、王家にとって都合が悪い。要は無かった事にしたいのだ』

 謡うような口調でそう言い、ビュルゲルは同情していると言わんばかりに瞳を細めた。

『そう言えば――、ミオスティリヤとは、花の名前とか』

 唇を噛み、イリヤはビュルゲルの顔を睨み付けた。

 底光りする銀の眼がイリヤの瞳を捉え、覗き込む。銀の眼に潜むのは、嘲笑だ。

『――憎いか』

 不明瞭な声に引き出されるように、するりと、イリヤの口から言葉が落ちる。

「――憎い」

 湧き上がる感情を押し殺すように拳を握れば、掌に刻まれた痛みが甦る。

(そうだ)

 憎い。

 胸の中が、その感情一色に染められていくようだ。それに苦しさを覚え、その感情を何でもいい、吐き出したかった。

 ビュルゲルが囁く。

『このまま逃げるも良い。だが、それでは余りに虚しかろう。何の為に、そなたはこの王都まで来たのか――』

 何の為に。

「俺は」

『約束どおり、我が力を貸そう。そなたが望む事を実現させる為の力となる』

 人型の手が、イリヤに向って伸ばされる。

『この手を取るがいい』

 渦巻く感情を色違いの瞳に宿しながらも、イリヤはじっと動かず、差し出された手を見つめた。

 今や抑えがたい激情は確実に心の中を染めていたが、それでもイリヤの中の奥底にある部分で、警鐘が響いている。同情めいた言葉を語りながら薄っぺらい言葉の陰で、ビュルゲルは何かを企んでいる。

「……何が、望みだ」

 ビュルゲルはくつくつと嗤う。

『そなたは常に、対価を見い出さねば気が済まぬのだな、王の御子』

「――俺は、あんな男の子供じゃあない」

 打って返す苦々しさに満ちた響きに、ビュルゲルの哄笑が弾ける。

『なるほど、なるほど――。では、こうしよう』

 仰け反らせた喉を戻し、ビュルゲルは明け方の静けさを避けるように、囁いた。

『その憎しみに見合うもの――それを、我に差し出せ』

「……どういう、事だ」

『そなたの、弟を』

 イリヤは口の中で、その言葉を繰り返した。

「弟――?」

 ファルシオンを。

 ぎくりと青ざめ、イリヤは目の前の顔を見つめた。

『何を躊躇う事がある。そなたが本来持っていたはずのものを、代わりに差し出すだけの事。それは単なる取り引きの手段に過ぎん』

 ファルシオンを、差し出す?

『迷うのか。迷うほどの関わりが、そなた等の間にあるとでも? それとも半分でも血が繋がっていれば、やはり可愛い弟と言う訳かな』

 イリヤは唇を噛み締めた。

「関わりなんて――無い」

 ファルシオンの顔も、イリヤは知らない。ファルシオンに対する愛情など、一切ない。

(そんなもの、あるはずもない)

 ビュルゲルの条件など容易い事だ。

 それでもイリヤは動く事ができずに、目の前の手を見つめたまま立ち尽くした。

『全て諦め、背を丸めて消えるか』

 ビュルゲルの声はイリヤの心の奥をつついて掻き回す。

『そなたの存在を全て、無かった事にされたとしても、それに甘んじるか。そなたの父の望みどおり。なるほどそなたは、父の望みを叶えたいのだな』

 イリヤの右の瞳が、鈍く光を増した。

「――馬鹿にするなよ」

『では、自らの望みを貫くのだ』

 イリヤは一度瞳を伏せ、次に開いた時には、右の瞳に揺れる炎のような光を宿していた。

 手を伸ばし、人型の手を掴む。

 ビュルゲルはにたりと笑った。

『英断だ』

 掴んだ腕を伝い、水の膜が這い上がる。イリヤの姿は人型と重なった。ぐにゃりと歪む。

 人型は包み込んだイリヤの身体ごと地面に沈むように消え、後には小さな水溜まりだけを残した。

 

 

 

 ハヤテの背を蹴って、レオアリスは橋の上に降り立った。鋭く細められた瞳が、橋の上の惨状を一つ一つ拾っていく。

 来る途中、他の二つの隊列が襲撃を受けていたのを確認した。それと、全く同じ状況と言える。

 もはや、ここは脱け殻だ。

 馬車は横転し、その周囲には警護官達が倒れ、動く者は無い。何が起きたのかを、つぶさに物語るものは無い。

 ただこの場に残された、微かな気配あった。既に知った、西海の使隷の気配だ。

 そして、それに重なるように存在していた、今でさえ肌にぴりぴりと触れるような冷気。

 身の裡で、剣が鳴動する。

 ここにいたのは、あの使隷だけではない。

 レオアリスは横転した馬車の上に飛び乗り、開け放たれた扉から室内を見下ろした。

(いないか)

 判っていた事だが、やはりイリヤの姿は無かった。周囲を見回しても、動く影は見当たらない。

 レオアリスが溜息を落としたのは、イリヤに告げようと思っていた言葉が行く先を失ったからだった。その考えを振り切り、レオアリスは視線を上げた。この事態に陥った以上、それ一つに捉われている訳には行かない。

(どこに――)

 イリヤが馬車を出た時、既に襲撃は終わっていただろうか。それともまだ争っている最中に馬車を出たのか。

 西海は何の為に隊列を襲ったのか。もとからイリヤは、西海の力を利用するつもりでいたのか。

「――」

 イリヤがどこへ行ったのか、それが一番の問題だった。連れ去られたか、騒ぎに紛れて逃げたか、それとも。

 緩やかに風が吹き抜ける。橋の下からは運河の護岸を叩く水音が穏やかだ。

 しかしレオアリスは、神経を研ぎ澄ますように、じっと思考に沈んでいた。

 連れ去られたのならば追わなければいけない。逃げたのなら探す必要がある。

 それ以上に、今想定すべきは、最も危険性の高い事態だ。

(考えろ――。これがもし、仕組まれたものだった場合だ。イリヤは、どこに向う?)

 どこに。

(考えろ)

 何をしに

 レオアリスは顔を上げた。心臓が跳ねようとするのを、ぐっと抑え込む。

 イリヤは王に会う為に、王都へ来たのだ。ならば、彼の足が向う先は――

(居城、か――)

 夜の先を見透かせば、遠く高い位置に王城の尖塔に灯る灯りが見える。

 イリヤは居城への侵入――、王への強硬な面会を試みるかもしれない。考え過ぎかもしれないが、レオアリスはその考えを打ち棄てる事はできなかった。

(居城の防御陣は誰も破れない。王ご自身でない限り……)

 けれど、イリヤは王の血を引いている。可能性は皆無ではない。

 ちりちりと鳩尾の辺りを熱が焦がしている。ただの思い過ごしであればそれでいい。この機に乗じてイリヤがただ逃げたのであれば、その方がいい。

 もしそんな事になれば、誰も、王ですら、もはやイリヤの命を救う事はできない。

「――ハヤテ」

 上空を旋回していた飛竜が、レオアリスの呼び掛けに応じて橋の上に降り立つ。手綱を掴んでハヤテの背に乗り、ちょうど飛び立とうとした時、複数の飛竜の羽ばたきが静まり返った街の上に響いた。

 レオアリスが呼んだ、ヴィルトールの右軍小隊だ。

「ヴィルトール!」

 ハヤテを宙に浮かせ、ヴィルトールに向って声を張り上げる。ヴィルトールは自分の飛竜をレオアリスの傍に寄せた。

「司法と正規軍には一報を入れたか?」

「入れています」

「ここを頼む。どっちかが来るまでは、このまま現場を保持してくれ。その間に生存者を確認して、収容と処置を。それから、キーファー邸とフォルケ邸に何人か送って、内部の確認をしてもらいたい」

 そこに、イリヤがいればいい――いや、いて欲しいと、それはレオアリスの本心だった。

「承知しました。――上将は」

「居城に行く」

「居城?」

 何故、と問いかけるつもりだったが、レオアリスの上にある緊張と押し殺した懸念を見て取り、ヴィルトールは黙って頷いた。


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