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王の剣士4「かりそめの宴」  作者: 雅
第三章「癒えぬ想い」
36/59

第三章「癒えぬ想い」(十三)

 ずっと、イリヤはただ待っていた。もう待つだけでいいと判っていたからだ。

 長い道のりを覚悟していたが、今やあと一歩、それで、イリヤは王の前に立てる。

 目眩にも似た感覚を覚え、心臓が、鼓動がどくりと鳴った。次第に早く刻まれていくのが判る。

 ちょうど、寝台の上で、レオアリスが身動いだ。視線を向けた先ではまだ眼を開く様子はないが、眠りは大分浅くなっている。

 効かないかもしれないという懸念から睡眠薬の分量を多めに入れたが、通常よりも目覚めが早い。剣士ゆえ、だろうか。

 それもイリヤにとっては都合が良かった。

 彼等がこの館を押える前に、レオアリスとはもう少し話をしなければならないからだ。

 イリヤは椅子から立ち上がり、彼が横たわっている寝台の傍に寄った。

 こうして眠っている姿は、確かに十七という年齢そのままで、近衛師団大将という地位にいるとは思えない。

 剣士――、しかも、王の剣士など。

 イリヤと、一歳しか違わず、背格好もさほど違わない。話した感覚も、特別な近寄り難さなどは見当たらなかった。

 では、違うのは何だろう。

 イリヤの立場と彼の立場を隔てているものは。

(違わない。――良く、似てるじゃないか)

 イリヤの親族は、王の子を暗殺した。

 レオアリスの一族は、王の軍に刃を向けた。

 互いに伏されていた過去。

 まるで一枚の硬貨の裏と面のようだ。

 初めてその事実を知ったのは、まだたったひと月ほど前でしかない。イリヤが自分の過去を知ったのが、その一ヶ月前くらいだったろうか。

 レオアリスの過去を耳にした時、まず思ったのは、同じだという事だ。

 自分と同じ。

 歳も、境遇も、良く似ている。

 だが、レオアリスはその過去を持ちながら、なお王に認められ、若くして近衛師団の大将にまで上りつめ、今や王の剣士とすら呼ばれている。

 王に、その名を授かり――。

 彼が認められているのなら、どうして自分が駄目な理由があるだろう。

 彼の過去が受け入れられるのであれば、イリヤの過去も同様に、受け入れられるはずだと、そう思った。

 そうであるべきだ。

 そうでなければ何故、彼だけが――

 右目の金が、奥に陽炎のような光を揺らめかせる。

 視線の先で、レオアリスが瞼を伏せたまま眉根を寄せ、再び身動いだ。

 イリヤはそっと足を引き、壁際の椅子に腰掛けた。

 

 

 

 眼を開けてまず瞳に映ったたのは、見慣れない板張りの天井だ。

「――」

「起きた? 気分はどうかな」

 声のした方向へ視線を向ける。

 視界に金の瞳を捉え、レオアリスの脳裏に、眠りに落ちる直前の記憶が蘇った。

 跳ね起きた途端、ぐらりと視界が回る。

 寝台の上に手を付いた時、また笑い含みの声がかかった。

「本当に気が早いなぁ。無理しない方がいいよ、まだ薬が残ってるんじゃないかな」

 レオアリスは黙って顔を上げ、イリヤを睨み付けた。

 イリヤは先ほどまでレオアリスが座っていた椅子に腰掛け、相変わらずにこやかな笑みを向けている。レオアリスは逆に彼が腰を降ろしていた寝台に横になって、位置が入れ替わっているのが奇妙な感覚だ。

 まだ少し目が回ったが、それを無視してレオアリスは立ち上がった。足元がふわふわと覚束ないのも、取り敢えず無視をする。

「もう起きれるんだ、さすが剣士」

 指先まで、意識は行き届く。立ち回りには多少心許ない気もするが、今の状態であってもイリヤを押える位は容易いだろう。

 レオアリスは一度息を吐き、イリヤを真っ直ぐ見据えた。

「――どういうつもりか、説明してもらうぜ」

「どっちの事かな。一服盛った事か、さっきの俺の話か」

 レオアリスの意図を判っていない訳ではないはずだが、イリヤは全く悪怯れる様子もなく、椅子に掛けたままレオアリスの視線を受け止めている。あくまで親しげな雰囲気だ。

 ただもう、レオアリスもイリヤの態度に乗るつもりは無かった。

「両方だな。納得行く理由があるんなら」

「じゃあまず、君を眠らせた理由からか」

 平然と言ってのけ、イリヤはちらりと窓の外を見た。口元に笑みが閃く。

「時間がね……、欲しかったんだ」

 その言葉とイリヤの視線を追って、レオアリスは唇を噛み締めるように引き結んだ。

 既に陽は西の地平に落ち、窓の外は濃い藍色に包まれている。

(どのくらい寝てたんだ)

 今がどのくらいの時刻なのか、時計の無いこの部屋では判断できない。この季節の陽が落ちるのは早い。とはいえ、正午近くから五刻、いや、それ以上か――。

 その間、イリヤは一体、何をしていたのか。

「――何の為の、時間だ」

 警戒心を滲ませた詰問にも、イリヤは笑みを崩さない。

「それはもう少し後にしよう。その前に、まだ話が終わってなかったよね。どこまで話したっけ?」

「いい加減にしろよ、話なんて――」

 言いかけて、数刻前にこの場で聞いたイリヤの言葉が、脳裏を閃光を帯びて走った。

「ああ、そうだ」

『父は――』

「俺の父は」

 茫然としているレオアリスに、丁寧に、まるで言い含めるように語りかける。

「この国の、王だ」

 レオアリスは慎重に視線を上げ、椅子に足を組んで座っているイリヤの姿を見た。

「判っただろう、もう」

 向けられる漆黒の瞳に浮かんだものに、イリヤが口元に笑みを浮かべる。

 白に近い淡い銀の髪と、右目片方だけの金の色。

 光を湛えた黄金。

 レオアリスをここまで導いた、王の瞳だ。

「……違う」

「――何が?」

 レオアリスの呟きは明確にイリヤに向けられたものではなかったが、耳に触れたその言葉に、イリヤは初めて、柔らかい笑みを消した。

「何が違うんだ?」

 レオアリスの瞳が、僅かな驚きをもってイリヤの顔を見つめる。

 それは、イリヤが初めて見せる感情だった。

 ふとそこに、彼の真実があるように感じた。

 座っていた椅子から、イリヤが静かに立ち上がる。

「君が、何を知ってるんだ」

「――」

 声に含まれた響きは苛立ちに近く、だがすぐに、何事も無かったかのようにイリヤは元の笑みを取り戻した。

「言っただろ、知らないのは当然だって。ついこの間まで俺だって知らなかったんだから」

 座り直そうか、イリヤは少し思案した様子で椅子を見て、結局ただ椅子の背に手を掛ける。

「俺の母、シーリィアは本当に、呆れるくらい上手くそれを隠してたよ。一度だって俺に、父の事を洩らした事は無かった。多分命を助ける代わりの、条件だったんだろうな」

 あっさりとも言える口調で、イリヤはレオアリスにそれをどう思うかと尋ねるように、首を傾げた。

 黙っているレオアリスに肩を竦める。

「別に俺は、父親なんていてもいなくてもどうでも良かったけど」

 一度、顔を反らして壁を見つめ、それからまたイリヤはレオアリスに向き直った。

 笑みを浮かべていながら、その面には暗い陰りが見え隠れしている。

「――この眼」

 右手を持ち上げ、イリヤは右の瞳を指差した。

「いつもこの眼だけ見てた」

 深い、奥底を見透かせない深さを持った響きだ。

 誰が、とは言わなかったが、聞かなくても何となく判る。

 イリヤの母、シーリィアが第二王妃となった物語は、その後の悲劇と対を為すように、この国では良く語られる。確かにそこには、愛情が存在していた。

「俺じゃなく、この眼の向こうにいる奴を。だから、やっぱり、気になってね」

 イリヤにとってそこにどんな思いがあったのか、ただ物語としてそれらを聞いていただけのレオアリスには計りようがない。

 くるりと硬貨の裏と表が入れ替わるように、イリヤの声から陰りが消える。

「俺は、王に会う為に、王都に来た。キーファー子爵家の養子になって。養父は俺を足掛かりに王家に近付くつもりだったんだ。俺を、王家の血統――正直に言えば、王位継承権を持つ王子として認めさせて、権力が欲しかったんだよ。認められれば、ファルシオン殿下よりも俺の方が、継承権は上になると考えたんだ。俺はその考えを利用する事にした」

 レオアリスはじっと、注意深くイリヤの顔を見つめた。一見何でもないような口振りだが、それは、こんなふうに第三者に話す内容だろうか。

 イリヤ達が計画していたのは、確実性さえ持たないものの――王位継承権の纂奪だ。

「でも、たかが一地方のちっぽけな子爵家の力だけじゃ王に近付く事なんてできやしない。それで、養父が前から親交のあったフォルケ伯爵を頼った。彼が近衛師団にいたのは聞いた事があるかな? 確か、十八年のあの時もいたはずだ。

「彼は母の日記を読んで、俺とあの事件との繋がりを確信し、俺に協力を約束した」

 何故、イリヤは自分達の企みを、これほど詳らかにレオアリスに語って聞かせているのか。それが次第に明確な疑問として、レオアリスの中に落ちてくる。

 レオアリスに考える隙を与えまいとするように、イリヤは途切れる事無く語り続けていく。

「彼が一番役に立ったのは、伯爵家という地位でも、彼の財力でもなかった。はっきり言って、期待したほどの役には立たなかったよ。ただ、いい人脈を持ってたんだ」

 イリヤはまるで、朗らかに歌うようだ。

 淀みなく語りながら、一番効果的に使う為に取っておいた言葉を、今、口にした。

「西海との、繋がりを」

「――西海? どういう事だ」

 イリヤの狙いどおり、レオアリスは瞳を見開き、一歩踏み出した。

「あの時……、ゴドフリー侯爵の館のあれは」

 イリヤは束の間、レオアリスが迷いも無くゴドフリー侯爵邸での事件を挙げた事への驚きと、それがどういう意味を持つかを考えていたようだ。

「そうか……。その様子だと、近衛師団でももう調べはついてたんだ。――あれはフォルケ伯爵が仕組んだみたいだよ。正確に言うと、西海が仕組んだ。俺が力を受け継いでるか、確認する為に。君という思わぬ邪魔が入ってさぞ焦っただろうね。問い詰めたら話してくれた」

「――」

「それで俺は、彼の館で、西海の使者と会った。昨日の事だ。君なら知ってるかな、近衛師団大将。使者は西海の三の戟――ビュルゲルと名乗ったよ」

 レオアリスの表情がすうっと変わった。鋭い眼光と引き締められた頬には、今までとはまるで違う、触れるだけで切り裂かれそうな近寄り難さがあった。

 その事に感心と、そしてこうした状況下でさえイリヤに対しては、彼はまだどこか甘さを残していたのだと、心の片隅で思う。

「顔色が変わるって事は、あのビュルゲルって奴はそれほどの相手なんだ。フォルケ伯爵の知り合いなのに」

 喉の奥で笑うイリヤの声が、室内を忍ぶように伝わる。

「大したものだ――。結局のところフォルケ伯爵が一番、役に立ったのかもしれないな。あれを埋めに行ったお陰で、君に会えたし」

 その言葉にどこか、微かな違和感を覚えながらも、レオアリスは鋭い光を帯びた瞳を慎重に細めた。剣が、身の裡で静かに騒めき始めている。

「そいつは、何をしようとしてる」

 レオアリスが視線の先に見据えているのは、既に目の前のイリヤではなく西海の影だ。

 多分彼なら、あの使隷達を全て消し去れるだろうと、そんな考えがイリヤの心を過る。そこには、確かに安堵のかけらが含まれていた。

 だがそれはイリヤが意識していた考えではなく、口に出しては別の事を言った。

「さあね。俺に手を貸すと言ったけど、本心じゃないな。でも、使隷を置いていった。ゴドフリー邸で俺を襲った奴と同じものを、四体。どういう仕組みかな、このくらいの珠になった」

 丸められた指先を、レオアリスは鋭く睨み付けた。

「どこだ」

「埋めた。君と昼に会った、あの場所の近くだ」

「西外門――」

 それだけを聞いて身を翻したレオアリスの腕を、イリヤの手が掴む。

「まあ待ってくれ。まだ、肝心な話が終わってないんだ。わざわざ俺がここまで話したのは、俺にも目的があるからだ。言っただろ、君なら俺を王の元に導けるって」

 構わず腕を引こうとしたレオアリスの足を止めたのは、王という一言だ。

 イリヤが皮肉だと感じたのは、彼等二人が王を中心に置いて、広い川の対岸に立っているように思えたからだ。眺める景色はまるで違う。

 これまで渡し手の無かったその川を、イリヤは渡ろうとしていた。いや、レオアリスをこちら側へ、招き寄せようとしているのだ。

 慎重に、だが最早、ぐずぐずと危険を顧みていたら川の水は溢れ、瞬く間にイリヤの足元を攫うだろう。

「王に会う、一番簡単な方法はなんだと思う?」

 緑と金の両眼に、それぞれ違う光を宿し、イリヤはにこりと笑った。

「君が、俺を捕えるんだ。そして今話した事を王に報告する」

 レオアリスの驚きは、イリヤの予想通りだっただろう。イリヤは満足そうに、言葉を失っているレオアリスの瞳を覗き込んだ。

「俺を、王の前に突き出す。君に協力して欲しいのはそれだよ」

「何を考えて……そんな事が、上手く行く訳がない……」

 イリヤがレオアリスに自分達の考えを語って聞かせた理由は、これではっきりと判った。

 だが自らを敢えて危険に晒すとしか思えないやり方に、イリヤが一体何を望んでいるのかが見えず、レオアリスは立ち尽くしたままイリヤを見つめた。

「上手く行くよ。証拠もある。西海の使隷を見せて君が証言すれば、誰もが信じる」

 確かに、イリヤの存在は王に伝わるだろう。だが一旦レオアリスが彼を捕えれば、イリヤは確実に反逆者という烙印を押される事になる。

「……無理だ。そんな事をしたって王に会えるとは限らない。それどころか罪を受けて――、死ぬ事だってあり得る」

「そうかもね。でもそれが何なんだ?」

「――」

「今と、何が違うんだ。俺は大罪を犯した一族の子供だ。死んだはずの」

 イリヤの瞳に揺らぐのは、どう表現すべきか掴み取れない陽炎だ。

 憤りか、悲しみか。

 その色を浮かべながら、なおも柔らかい笑みを頬に刷き、レオアリスと向かい合う。

「未だに罪は消えてない。――存在していないんだ、俺は」

 自嘲。それが辛うじて、相応しい形容かもしれない。

「君なら判るだろう。一族の反乱という過去を持つ君なら。だから、君を選んだんだ」

「――」

「罪を犯して隠された、同じ過去を持っているから」

「俺は……」

 レオアリスは一度口を閉じ、それから瞳を上げた。

「同じじゃあない。俺の一族とお前の親は、それぞれの選択をしただけだ」

「同じだ。問題は彼等じゃない。今だ。君は、過去をどう捉えたんだ? それを聞いた時、少しも迷わなかったのか?」

「俺には俺の望みがある。だから過去は、俺自身で受け止める」

 強い響きの言葉だ。迷いを飲み込んで自分の内に消化した者が有する響き。

 イリヤの面に、苛立ちが生まれる。

「――それは君が、王に認められたから言える事だ」

「……そうかもしれない。けど」

「だったら! 今度は俺に手を貸してくれてもいいんじゃないか?」

「――」

 イリヤが見せた一瞬の感情の高ぶりが何の故なのか、レオアリスはそれを見い出そうと、じっとイリヤを見据えた。

 掴み所のない柔らかな笑みの奥に、まだ彼が見せていないものがある。

 イリヤが、レオアリスを選んだ、本当の理由。

「君はただ、俺を捕えればいいんだ」

 イリヤはそう繰り返したが、どうしても、イリヤを捕えようというよりは、このまま進ませてはいけないという思いが強かった。

 イリヤの言葉が真実ならば、イリヤは、王の子だ。そして――、ファルシオンの、兄。

(そうだ。殿下の――)

 昨日ファルシオンが見せた兄への思慕が、レオアリスの心の中に蘇る。

 それはレオアリスの迷いを、一つの方向へと向けさせた。

 イリヤの望むやり方では、彼の命すら保障はない。

 このまま進めば、ファルシオンは全く知らないところで、もう一人の兄を失う事になる。

 傍にいてやる事など不可能だとしても――、イリヤは、ファルシオンの兄だ。

 もしあの事件さえなければ、ファルシオンの傍に居たはずの。

 レオアリスはイリヤを見据えた。

「考え直せ。方法は他にもある。王に会う為なら、もっと」

 ぴくり、とイリヤの眉が跳ねる。さっと面に広がったのは、失望の色だ。

「困ったね。もしかして、俺が王に会いたいのは、父親に頭を撫でてもらいたいからだとか思ってるか? 感動的な再会を果たしたいからだって?」

「――」

 レオアリスがそれをどう思ったのか、いや、どう思っていようと関係ない口調で、イリヤはゆっくり言葉を吐き出した。

「違うよ。俺は――」

 望みは、一つだと判っている。

 母の墓前で誓った。

 それだけが。

「この名前を捨てに来た」

 王に会い、母が死んだ事を告げ、おそらく自分が生きている事さえ知らないだろうその男に、事実を突き付ける。

 その上で、この先一切関わらないと、そう言いたい。

 それで全て終わりにして、この鬱陶しい名前を捨てるのだ。

「さあ」

 捕まえろと促すように、レオアリスの方へ手を差し出す。だがレオアリスの瞳には躊躇の色が濃く、イリヤは首を傾げた。

「何を悩むのか判らないな。君が王に仕えるのなら、俺を捕えるのは当然じゃないか」

 王の守護、そして引いては国の守護――。近衛師団大将に課せられた責務はそれだ。

 それが無くともレオアリスは、王を護る為に剣を持つ。

 ぐっと口元を引き締めたまま、一向に動こうとしないレオアリスの様子に、イリヤは薄く唇を歪めた。

「君は本当に甘いな。ここまで来てまだ俺に、引く道があると思っているのか?」

「――」

「もう遅い。今頃師団はここに向かってるよ」

 レオアリスは打たれたように、瞳を見開いた。

「――何だと」

「君に眠ってもらったのは、時間が欲しかったからだって言っただろう。その間に近衛師団に手紙を届けたんだよ、こことフォルケ伯爵邸を押えるようにって」

 執事のエイムズが上手く近衛師団に手紙を渡せたらという条件付だったが、それに関してはイリヤは成功を疑ってはいなかった。エイムズに持たせたあの長布があれば、彼等は必ず手紙を読むだろう。

 張り詰めた表情のレオアリスと、笑みを浮かべたイリヤが向かい合う。

「……師団が動くとは限らない」

「動くよ。ちゃんと証拠も示したし――、何より、君がここにいる。近衛師団が愚かじゃなければね」

「どういう――」

 問い掛けを口にする前に、レオアリスはイリヤの言葉が示す意味に気が付いた。

 イリヤがレオアリスをこの館に招き入れたのは、ただ協力をさせようとしたからではない。

 レオアリスがキーファー子爵家に関わっていると見える状況を作り出し、手を引けなくする為だ。

 歯噛みをしたくなるような思いが胸の中に沸き上がり、レオアリスは両手を握り締めた。

(何をやってるんだ、俺は)

 ロットバルトに、確かに言われたはずだ。イリヤに近付くべきではないと。

 グランスレイも同じ意見だとはっきりと言った。ワッツもまた、レオアリスがこの件に深く踏み込む事への危惧を口にしていた。

 そこにあった彼等の懸念を、何故もっと深く考えなかったのか。

 いや、今回だけの問題ではなく、以前ヴェルナー侯爵が告げた言葉が、今のレオアリス自身を端的に現わしている。

『王の剣士がその程度の認識で務まるか』

『王の剣士と呼ばれる事で、人は貴方の後ろに、王の姿を見る』

 その言葉の意味は、レオアリスの行動には、一つ取っても、近衛師団大将としての責任が掛かっているという事だ。

 誰もがそれを理解していて、理解していなかったのはレオアリス一人だ。

 唇を噛み締めたレオアリスの姿に、イリヤはにこやかに笑みを刷く。

「君にももう引く道はない。どうせ大した問題はないだろう? 君の義務として、俺を捕まえればいいだけだよ。そして、俺を王の元に導く――」

 王の名に、一瞬、レオアリスの瞳から全ての迷いが消えた。入れ替わるように、イリヤの面に言い様のない陰が差す。

「それはできない」

「できる」

 強く言い放たれた言葉と共に、レオアリスの意識を捉えたのは、色違いの二つの瞳だ。左の緑と、右の金。

 幻惑するような二つの色、その奥に、揺らめく蜃気楼のように何かの感情がある。

 口に出して告げた言葉の、裏の。

「王の剣士――。君は、王から名を貰った」

 ゆるゆると、イリヤは右腕を伸ばし、レオアリスの喉元に手をかけた。

 イリヤの瞳が近付く。

 その二つの色。片方だけの金は、本来持っていたはずのもの、失われた過去、消し去られた存在、それとも。

 かけられた手を振り払う事も忘れ、目の前のそれを、レオアリスはただ見つめた。

「――」

「君だけが」

 イリヤの右手が、次第に輝きを帯びる。

 その淡い金の輝きと、同じ色の金の瞳には、確かに、殺意に良く似た陰があった。

 喉にかかった手に、ゆっくりと力が加わる。

「何で――」

 ふいに、イリヤの背後の扉が開く。

「上将から離れな。もうしまいだ」

 開け放たれた扉から、クライフが室内に足を踏み入れた。

 イリヤの手から、輝きが消える。

「クライフ……、――ロットバルト」

 中将達の姿に、近衛師団がどんな判断を下したのかは聞かなくても判った。

 ロットバルトが複雑な色を浮かべた瞳を、大胆なやり方で近衛師団を動かした少年へ向ける。

「――イリヤ・キーファー。要望どおり、証拠物は押収し、この館も近衛師団が制圧した。とは言え、制圧と呼べるほどのものもありませんでしたが、形だけは整えさせていただいた。――王の御前で証言に立てるか、そこまでは我々は保障しない」

「――」

 告げられた容赦の無い響きに、重い溜息を落としたのはレオアリスの方だ。

 イリヤはこれで、引き返しようのないところまで踏み込んだ。

 両手を下げ、イリヤは少し俯くようにして、口元に笑みを浮かべた。

「――ありがとう」

 そう言って、壁際の机の上を指差す。

「その日記も持っていってくれ。俺にはもういらない」

 レオアリスの返事を待たず、イリヤは彼に背を向けて戸口へ向かうと、扉の脇に立つクライフとロットバルトの横を抜けて廊下へ出る。そこに控えていた近衛師団兵が、両側からイリヤの腕を押さえた。

 促されて歩きかけ、すぐに足を止める。振り返った顔を、一瞬どこに向けるべきか迷ったようだった。

「……一つ頼んでもいいかな。俺には、妹がいるんだけど」

「ラナエ・キーファー」

 ロットバルトの低い声にイリヤは瞳に動揺を走らせ、瞬きの中にそれを隠した。

「――ラナエは何も関係ないんだ。そう、君からも言ってもらえるかな」

「――」

 何か知っている様子のロットバルトは、口を閉ざしてただレオアリスに視線を向けている。

 レオアリスは廊下の暗がりに立つイリヤと向かい合った。室内からの明りが、イリヤの左半分を照らしている。レオアリスに見えるのは、左の、緑の瞳だ。

「……それは、お前の本心からの望みだな?」

 左の瞳しか見えないせいか、その時のイリヤの表情には、先ほどまでの振り子のように揺れる陰は無かった。

 まるで取り繕う事のないイリヤと向き合ったのは、この時だけだったかもしれない。

 イリヤはただ頷いた。

「――判った」

 イリヤは束の間黙って視線を向けた後、背を向けて廊下を歩いて行き、レオアリス達の視界から消えた。

 それを暫く見送ってから、クライフがレオアリスに向き直り、持っていた書状を差し出した。

「上将、アヴァロン閣下の指令を。中軍がこのキーファー子爵邸を、左軍はフォルケ伯爵邸に向いました」

 レオアリスは広げた書状に目を通して、頷く。それからクライフとロットバルトに向き直った。

「手間をかけた。俺は少し、……大分軽率だった」

 クライフがレオアリスの顔を見て、困ったように眉を下げる。ロットバルトは改めてレオアリスの前に立った。

「――申し上げたい事は山ほどありますが」

「判って――」

 判っていると言おうとして、一度口を閉ざす。判っているなどと、容易くは言えない。

「いや、戻ったら全部聞く」

 ロットバルトも、クライフも少し複雑そうな表情をしたものの、レオアリスの無事な様子に安堵するように口元を緩めた。

「じゃあ、さっさと引き上げましょう。どうしても上将に居てもらわなきゃいけねぇ事があるんですよ」

「何だ?」

「公が多分、怒り心頭です」

 ぎょっとして顔を上げ、レオアリスは瞬く間に青ざめて凍り付いた。クライフがにやりと笑う。

「ってのはまあ冗談で」

「冗談かよ……」

 ほっと胸を撫で下ろしたレオアリスに、今度はロットバルトが含みのある薄い笑みを浮かべる。

「冗談で済むかはともかく、それに関しては後ほどご自分で収拾なさってください」

「――」

「それより今の問題は、イリヤ・キーファーが提示した西海の使隷です」

 西海の使隷と聞いてもレオアリスは驚く様子を見せず、それを確認してロットバルトは言葉を継いだ。

「検証には、貴方の同席が必要でしょう」

「――三の戟か」

 その響きだけで、室内の温度がぐんと下がったように感じられる。

 西海の目的は、イリヤのそれとは確実に違うはずだ。使隷を貸しただけで干渉が終わるとは思えなかった。

「失礼します!」

 開かれたままの扉を叩いて配下の少将が入室し、レオアリス達に敬礼すると、きびきびした口調でクライフに撤収の許可を求めた。クライフがレオアリスを振り返る。

「上将、少し残しますか」

「そうだな――、幾つ来てる?」

「一小隊です」

「……なら、十五名、残ってもらおう。状況が落ち着くまで、三交替で館の保持を」

 少将は踵を鳴らして敬礼し、廊下へと出た。クライフもそれを追って扉を抜ける。自らも廊下へ向かいかけたレオアリスを、ロットバルトが呼び止めた。

「上将」

 低く落とした声に、レオアリスが視線を上げる。ロットバルトの瞳にはいつにない厳しい色があり、レオアリスはもう一度部屋の中央に戻った。

「イリヤ・キーファーについては」

「――聞いた」

 短い一言だけで、ロットバルトは頷いた。ロットバルトがここへ来たのは、早い段階でレオアリスにこの事を告げる為だ。

「では、それを他者の前で口になさらないようお気をつけ戴きたい。今回の件で審議があるでしょうが、その場では西海だけを切り離して話すべきです」

「――」

 その言葉の意味を考えるように、レオアリスは瞳を細めた。ロットバルトは既にそこに行き着いていて、レオアリス以上に、事の真相に近付いている。

「クライフにも聞かせられない事か」

「副将にも、それで許可を戴いています。本来は貴方を関わらせるべきではありませんが、現状ではもうそうも言っていられない」

「何故だ」

 レオアリスは素早く問い掛けた。

「私が調べを進める中で判ったのは、今回、王都側の目的のほぼ全てを占めるのが、イリヤ・キーファーがどう動くかではなく、事実を隠す事そのものだという事です。結論だけを申し上げれば、イリヤ・キーファーは」

 ロットバルトの声がぐっと低くなる。

「王の子であってはならない」

 奇妙な言い方だ。王の子ではない、ではなく。レオアリスはロットバルトの冷厳とも見える瞳を、束の間見つめた。

 その言い方に含まれた微細な意図を、レオアリスは少なからず感じ取った。

「――イリヤは、王の子として、王に会うつもりでいる」

「それが実現する可能性は低いでしょう。取り沙汰されるのはおそらく、西海の事だけになるはずです」

「――」

 視線を転じた先には、イリヤの机がある。その上に置かれたままになった、イリヤの母の日記。

 ロットバルトはレオアリスの視線に気付き、日記を手に取った。パラパラと捲って眼を通し、すぐに項を閉じる。

「それはどうする? 証拠として、提出しない訳にはいかないだろう」

「――スランザール公に提出すべきでしょうね」

「スランザール?」

 レオアリスは改めて驚いた表情を浮かべると、床に視線を落としてじっと考え込んだ。

「スランザールが関わるのか……」

 スランザールの名によって、レオアリスは一時的ではあるが、迷いを消した。

「判った。とにかく戻ろう。後でもう少し、詳しく話を聞かせてもらいたい」

「可能な限りは」

 曖昧なロットバルトの返事にもレオアリスは頷き、窓の外に目を向けた。

 窓の外は濃紺に塗りつぶされ、庭に植えられているはずの樹の影を見る事すら出来ない。

 レオアリスは一度、思い切るように息を吐いた。

 扉へと足を向けながら、瞼の奥で、イリヤとファルシオンの面影が重なった。


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