第二章「波紋」(十)
レオアリスがファルシオンの元に赴いた後さほど時を置かず、ロットバルトは再び士官棟を出た。向ったのは地政院の地籍管理部だ。
もう一つ気に掛かっている事があったのだが、この件については王立文書宮では用が足りない。
地政院は王城の東の区画を、一階から四階まで占めている。管轄は国内の土地の統制や治水、農産物、商工業、人々の生活に直接関わる食や衛生面など多岐に渡り、内政官房、財務院、軍部の四大組織の中でも最大規模の組織だ。
東の区画は百近い部署に分けられ、午後も二刻ばかりの最も込み合う時間という事もあり、様々な立場の者が引きも切らず廊下を行き交っていた。
ロットバルトが一階にある地籍管理部を訪れた時も、十ある窓口は皆接客中で、他にも三人ばかりが待ち合い席で待っているところだった。
壁際に置かれている申請書の記載台に向かいかけた所で、窓口の奥からロットバルトの姿を見付けた一人の管理官が飛んできた。
「これは、ヴェルナー中将」
名前を聞いた途端、事務官達も慌てて立ち上がる。窓口の仕切りを押し開けてロットバルトの傍までやって来たのは、二等書記官、いわゆる部署課長だ。
「お世話になっております。地籍管理長のヘイゼンです」
ヘイゼンは丁寧に頭を下げた。
「本日は何かお約束を? 申し訳ありませんが、部署長のメディッシュは会議に出ておりまして……」
「いえ。地籍を幾つか見せて頂こうと」
「わざわざお運びにならずとも、使者を寄越して頂ければ必要な資料をお渡ししたものを」
ヘイゼンは恐縮しきっているが、これは何もロットバルトが特別、侯爵家だからという扱いではなく、階位の高い者は直接自分では足を運ばないのが普通だからだ。
言うなれば第一大隊の考え方が少し変わっているのだ。大将であるレオアリスがその辺に無頓着に動く為、周囲も少なからず麻痺してきている。
軍は事務系の部署より比較的現場主義とは言え、その現場感覚ではっきり言えば、普通は大将や中将級に事務室をうろうろされたら迷惑だろう。
見れば窓口の管理官も立ち上がり、業務が止まってしまっている。
悪い事をしたかと、ロットバルトは気付かれない程度に苦笑を浮かべた。
いつもレオアリスを注意している割には、自分も大分彼の流儀に染まっているらしい。
「お互い仕事でしょう、気を使う事はない。それにここで直接地籍簿を閲覧した方が手間がかからないのでね」
地籍簿とは、国民の情報、家族構成や居住地を把握する為に整備されている。この国の国政を運営する上で非常に重要な書類だ。
基本的に一つの地籍は家族単位で構成される。
その家の保有する土地の情報に加え、構成人員の名とそれぞれの出生、婚姻、死亡など人が経験するおおよその変化が記されている。
人口の把握や課税基準の一つ、個人に於いては身分証明として役立てられる。
原本は各地の領事館に保管されるが、必ず副本が作成され、それらは全てここ、王都の地籍管理部に備えられていた。
個人では複雑な手続きを踏まない限り、簡単には他者の地籍簿を閲覧する事はできないが、司法や軍の場合は職務権限の中で書類申請をすれば閲覧が認められていた。
「ともかくこちらへ。別室へご案内いたします」
ヘイゼンは窓口の奥にある扉を示した。ここには閲覧の為の卓もあり、個々に仕切り壁で仕切られていて閲覧に不自由は無いが、ロットバルトは気にならなくとも周囲は不自由だろう。
「失礼しました。どうぞ業務の続きを」
まだ立ったまま座れずにいる事務官達に笑みを向けて座るよう促し、ロットバルトはヘイゼンの後から奥の扉を出た。
それまで息を詰めていた室内は、扉の閉ざされる音とともに賑やかさを取り戻した。
「初めて見た。ヴェルナー侯爵家って実際いるんだなぁとか思っちゃったよ」
「俺なんて喋った! とか思った」
「あーっ、思った」
「思った思った」
「もっと偉そうにしてるのかと思ったけど、意外だな」
窓口の仕切りの向こうで、自分の地籍を取ろうと申請中だった男が身を乗り出す。
「そういやつい先日、街で王の剣士見ましたよ。一人で歩いてた。想像より若くて驚いたな」
「本当ですかお客さん」
「大将なのにいいのかねぇ」
「あ、シェリーが固まってる」
見れば一番端の窓口に座っていた若い女性管理官が、まだ驚いた顔のまま奥の扉を見つめている。
「え、おお。良かったなシェリー、良く他部署の女とヴェルナー中将がどうのブラフォード様がどうのって騒いでるもんな」
「そうなのか? お前、そりゃ確かにあの外見はすごいが、そういうんじゃなくて周り見た方がいいぞ。普通が一番」
「その歳の女に言っても無駄だって」
「そう言えば、近衛師団の女性志願者が増えたらしいよな」
「羨ましい――うちなんて人気最低だもんなぁ、地籍部は暗いとか淀んでるとか言われてさぁ。そうだ、うちはブラフォード様に看板になってもらうってのは?」
「絶対無理だろう、あの方は」
がちゃりと音を立てて扉が開き、ヘイゼンが渋い顔で賑やかな室内を見渡した。
「廊下まで聞こえてるぞ、恥ずかしい。もう少し真面目な話題にはならないのか?」
「結構真剣、いや、死活問題です、改善しましょう!」
若い地籍官がかなり真剣な表情で上司に訴える。
「野郎ばっかで気が滅入りますよ!」
「お前が言うな」
「まあ、地籍は枯れてますからね。唯一の花のシェリーはあらぬ方見てるし」
シェリーは名前を呼ばれてはっと我に帰った。
「あのっ、お茶お出ししますか?!」
「構う必要はないと仰っていた」
すげなく却下されがっかりと肩を落としたシェリーの横で、年配の管理官が苦笑していた顔を引き締める。立ち上がって興味深そうに声を潜めた。
「構うなって事は重要な話ですかね。大体自分で来るのも珍しいし、何の用件だったんですか?」
漸くまともな話題が出た事に少なからずほっとした顔で、ヘイゼンが窓口の傍から離れる。
「閲覧だよ」
「それだけ?」
「そう、それだけだ。この十件、急いで抜いてきてくれ」
ヘイゼンが手渡したのはロットバルトの書いた閲覧申請書で、十枚ほどある。
「はい。多いですね」
「新年の、ほら、陛下への大謁見に招待する客の選定だって事だ」
「ああ、なるほど、そういやその時期ですねぇ」
管理官は納得した様子で保管庫に向かい、ほどなく十冊の綴りを抜き出して抱えてきた。
一冊一冊はそれぞれ厚さが違い、厚いほどその家系が長く続いている事が判る。薄ければ最近分家したか、理由があって親の地籍から抜けて新たに地籍が編纂されたものだ。
「重いでしょ、一緒に持って行きますか」
「助かるよ、頼む」
手元に揃えた地籍簿を持って、ヘイゼンと管理官は再び奥の部屋へ向かった。狭い廊下のすぐ一つ目の部屋が応接室になっている。
「お待たせいたしました」
管理官と二人で簿冊を抱えて部屋に入り、ヘイゼンはロットバルトの前の卓に二つの山にして置いた。
「副本が必要なようでしたらお申し付けください。すぐに作成いたします」
「ありがとう。だが写しまでは必要ないでしょう。それに今回は謄本の申請事由には当りませんしね」
謄抄本、いわゆる写しを取得するのは閲覧よりも更に厳しく相応の理由を求められ、申請者も限定される。個人であれば多くは婚姻や財産相続の為などが通常で、本人もしくは代理人が請求する。
軍が業務上取得する時は大将の、この場合レオアリスの署名入りの交付依頼書が必要だ。
扉を開け、管理官とヘイゼンは部屋を出た。
「何か御用があればお呼びください」
かちりと扉の閉まる音を確認し、ロットバルトは綴りの一つを手に取った。
綴りの表に記されている家名を一つ一つ確認し、重ねた綴りの中からある一冊を抜き出す。
十冊ほど出してきてもらったが、実際にはこの一冊しか必要はない。他は本来の目的をぼかす為のものだ。
手にした綴りの表紙にはキーファーとある。
ロットバルトがここに来たのは、キーファー子爵家とイリヤの地籍簿を調べる為だ。あの生物とは別に、引っ掛かりを覚えていたもの。
最初の数枚の項を繰り、ざっと目を通していく。記載は年代順に並んでいる。
地籍簿によれば、キーファー子爵家は三代前に爵位を得て西南部のマウルスに封領されている。元は地元の富裕な商家だったようだ。前領主の家が後継者が無く廃絶した事から、街の有力者であるキーファー家に爵位が付与されたとある。
現当主がディラルド・キーファー。二十七年前にアイリン・ヤルヴィと婚姻、家を継いだのは二十年前になる。長女ラナエ・キーファーが生まれたのは、ディラルドが四十六の年だ。
それが十六年前。その後は暫く記載は無く、十六年を空けて今年、新たな行が加わっている。
「養子か」
キーファー子爵家の地籍簿の最新の事項は、イリヤの養子縁組について記載されていた。
イリヤが養子になったのは、ほんの三ヶ月前の九月末の頃だ。
(娘と歳が近いな)
イリヤが十八、ラナエは十六。養子縁組は家を継ぐ男子が必要だった為とも取れるが、貴族の娘ならばラナエはもう結婚してもおかしくはない年齢だ。
子が娘だけの場合、貴族の家では家の存続の為、通常はどこかの家から婿養子を迎える事が多い。
ましてや遅く生まれた娘ならば、手元から離したくないと考えるのが一般的な親心だろう。
自らの血筋を残す為の婚姻を選ばず、敢えて全くの他人を養子に取った理由には、何があるだろう。
合わせて綴られている養子縁組届出書の写しには、縁組みの理由を、イリヤの母の死による養育を目的と記してある。
イリヤの父母の欄に眼を向けると、記載は母親の名前だけだ。父親の欄は空白になっている。
旧姓は、ハインツ。母方の姓なのだろう。
『どこの誰かも判らない』
昨日のイリヤの言葉。
ロットバルトは考え込むように瞳を細めた。
(ハインツという家は九十九家にはないな……とするとおそらく彼は市井の出身だろう。それほど珍しい例でもない。だが、あのキーファー子爵という男は、そうした事を好むようには見えなかったが)
言動からは、身分などに拘る質が伺えた。
そしてイリヤが力について話した時のあの不快そうな様子は、キーファー子爵が彼の力に肯定的ではない事を現している。
それこそ、グランスレイが言ったように、元々が忌避する土地柄なのだろう。
その感情を曲げて、イリヤを養子にしている。
母を失って独りきりになった子供への同情というには、イリヤは既に独り立ちできる齢だ。
(同情でもない、あの力への興味でもない、としたら――)
次の項に紙が一枚挟まっているのに気付いて、ロットバルトは項を捲った。
綴りの紐がしっかり通されていなかったのだろう、ぱらりと外れて白い紙が足元に落ち、身を屈めてそれを拾い上げる。
もう一つ、別の届出書のようだ。
何気なくそれを開き、ロットバルトは手を止めた。
「これは――」
標題には「出仕申請及び身元保証書」とある。王城に就労する際などに必ず提出されるものだ。
記載されている名前はラナエ・キーファー。
地方の貴族の娘が、行儀見習いや社会勉強の目的で王城に上がるのは珍しい事ではない。その裏には王都で良縁を得るというまた別の思惑があるが、長く習慣ともなっているものだ。
だが、長女を出仕させるというのは余り例が無い。
そして何より、ラナエが上がった先――申請書に書き込まれていたのは、王子ファルシオンの館だった。
同じ用紙の下部にある許可欄には、申請が受理された印もある。申請の日付はイリヤの養子縁組の受理日の後、十日と変わらない。
ラナエは子爵家の娘だ。王子付きとなるのはおかしな話でもない。
「――」
(今回の件と繋がりがあると考えるには早いが――)
この紙切れだけではほとんど見えて来るものは無いが、何か引っ掛かる。
初めに感じていたざらつくような感覚が、地籍簿を確認する事で解消されるどころか、この二つの届け出によってより深まった。
紙やすりのように硬く、指先に掛かる感覚だ。
ロットバルトは立ち上がり、扉を開いた。事務室の扉を開けるとすぐにヘイゼンが気付いて歩み寄る。
「どうかされましたか」
「この届けの従前の地籍は?」
受け取った養子縁組の届けを確認し、ヘイゼンは頷いた。
「お待ちください、お持ちします」
待つ事もなく、ヘイゼンが持って戻ってきたのは非常に薄い綴りだ。
「ずいぶん薄いな」
ロットバルトの意外そうな呟きを聞いて、ヘイゼンは決まり悪そうに首筋を撫ぜた。
「これについては、簿冊自体がごく最近作られたようです。どうやら申告洩れか処理漏れだったようですね。どこからか土地を移った時に一度失われたのでしょう」
「失われた……」
ロットバルトは内心で溜息をついたが、それは顔には出さずに礼を言って受け取った。
再び部屋に戻り、長椅子の肘置きに腰掛けてイリヤの従前の地籍を開く。
綴られているのはたった一枚のみだった。それも出生の記載はあるが、どこで生まれたのかも、父親の名も無い。
通常地籍を移せばどこから移り住んできたか、その地名の記載があるものだが、先ほどヘイゼンが言ったように申告漏れか処理漏れか、いずれにしてもイリヤの出生からしか記載されていなかった。
出生の記載の後は、養子縁組の事が書き加えられている。
だが、それ以上にロットバルトの目を引いたもの――
「ミオスティリヤ――」
ミオスティリヤ・ハインツ
従前の地籍簿には、そう記されている。
もう一度キーファー家の地籍簿と養子縁組届けを見たが、そこでは既にイリヤと記載されている。
「イリヤというのは通称か」
十五になれば本人の意志で名を変える事ができる。特に本名より通称の方が通っている場合などだ。
地籍にはその記載は無いが、どこかの時点で名の変更などの届けを出しているのかもしれない。
「ミオスティリヤ……」
ロットバルトはもう一度、それを繰り返した。言いにくい名前ではある。
いや、それよりどこかでその響きを聞いた事があるかもしれない。
暫く考えを巡らせたが、思い当たる人物は無かった。
再び地籍簿に視線を落として、繰り返し文面を辿る。キーファー子爵家の地籍、ラナエ・キーファーの届け、養子縁組届、それからイリヤの従前の地籍。
(ここまでか――)
来歴を辿れるのは、イリヤの従前の地籍までだ。その前は、空白。
彼の母がどこから移り住んできたか、母親が結婚していたのか、イリヤの父親は。
通常記載されているはずの全てを、そこから先辿る事はできない。
(敢えて消したのか、それとも単純な処理漏れで消えたのか――)
それによって、考えるべき方向は大きく違ってくる。
(他に辿る手段はあるか?)
地籍以外では来歴など細かく調べられるものは無い。
母親の姓から探す事も不可解ではないが、国内全ての同姓の地籍から捜し出すとなると時間がかかり、またイリヤについて調べている事を公然と明かす事になる。
今はそれをすべき時か――
イリヤがこの件にどこまで関わっているのか、それがまだ判然としていない。襲撃がおそらくはイリヤを狙ったものだとして、今手元にある地籍からはそれを伺えるものは読み取れない。西海との関わりも微塵もない。
元々これだけで全てが判るとは思っていなかったが、逆にこれほど情報が少ないとも思ってはいなかった。
それだけに、この空白が妙に気に掛かる。
「――」
ふと強い視線を感じて、ロットバルトは振り返った。
薄暗い室内にはロットバルト以外誰もいない。窓もなく、扉はぴたりと閉ざされたままだ。
室内に視界を遮るものも、人が隠れる場所すらない。
水、花瓶や水盆、それらに類するものもない。
だが、視線は確実に、射るような鋭さでロットバルトに向けられている。
見えない存在が壁際をぐるりと回っているように、ゆっくりと動いている。
まるで自分の存在を誇示するかのような不自然さ。
ロットバルトは部屋のほぼ中央に立ち、瞳だけを巡らせて視線の発生元を追った。
左手は腰に佩びた剣の鞘に添えられていたが、抜く必要は感じていなかった。少なくとも、害意は感じられない。
それでいて確かに、視線の主はその存在をロットバルトに教えてきている。
暫くそうして奇妙な睨み合いが続いた後、まるで初めから無かったかのように、視線は消えた。
「――」
ロットバルトはもう一度室内を見回した後、剣の鞘に添えていた手を下ろした。
それから卓の上の地籍簿に視線を落とす。
イリヤ・キーファーの空白の過去。
ラナエ・キーファーのファルシオンの館への出仕。
敢えて存在を誇示するかのような視線。
まるで、触れるな、と――
「警告、か。だが、何に対してだ?」
瞳を向けた先のただの紙の綴りには、無論答えなど無い。
ロットバルトは脱いでいた外套をはおり、部屋を出た。
レオアリスは二刻ほどファルシオンに本を読み聞かせ、とりとめのない話をして、それから退出した。
彼が帰る頃にはファルシオンもすっかりいつもの様子を取り戻し、昨日からずっと心配していた侍従達もほっと胸を撫で下ろした。
夕食も済み、今は湯浴みの最中だ。ハンプトンは湯殿から聞こえるはしゃいだ声に柔らかな笑みを向けた。
「良かったわ、すっかりお元気になられて」
傍らの侍従達も同意を示して大きく頷く。夕食の間も、どんな本を読んでもらったとか、どんな話をしたのだとか、ファルシオンはとても嬉しそうだった。
兄という立場ではなくても傍にいてくれるのだという、その事が逆にファルシオンの気持ちを浮き立たせてもいたようだ。
「本当に、殿下は大将殿がお好きなのですねぇ。あんな風にお笑いになるのは嬉しいこと」
「お夕食もしっかり召し上がられましたし――そうだわ、ハンプトン侍従長、今度大将殿を夕食のお席にお招きしてはいかがでしょう」
「それは素敵な思い付きね。それなら殿下には内緒でお呼びして――きっととてもお喜びになるでしょう」
「いつがよろしいかしら」
ハンプトン達が顔を見合せた時、ファルシオンの声が大きくなった。湯浴みを終えて出てきたのだ。
ハンプトン達はそっと口元に指を当て、ファルシオンへの秘密に微笑み合った。
「さあ、それは後でゆっくり考えるとして、殿下のご就寝の用意をしなくてはね。ラナエ」
ハンプトンは綺麗に整えた白髪の頭を巡らせて、扉の傍に控えていた少女を呼んだ。
ラナエは彼女達が会話している間じっと一点を見つめていたが、声を掛けられてはっと顔を上げた。
「どうかしましたか?」
何事か考え込んでいた様子の若い侍従に、ハンプトンは訝しげにその顔を見つめる。ラナエは慌てて首を振った。
「いいえ、何も、侍従長様。すぐご用意いたします」
「よろしくお願いしますね。今晩は貴方が一番にお付きのお役をするのだったわね、大丈夫?」
「はい」
ラナエは服の裾を持ち上げてお辞儀し、寝室を整える為にハンプトンの前から離れた。急ぐ様子は、どこか逃げるようにも見えたかもしれない。
ラナエ・キーファーが王城に上がってからもうみ月が経ち、最近ではファルシオンの就寝の世話の役に就けるようになっていた。
寝台を整え、着替えを手伝い、ファルシオンが寝入るまで寝台の傍らに座って見守る。寝入ってからは前室に退き、交替で朝まで番をするのだ。
簡単に見えながら、疎かにはできない役目だ。
はじめは先輩の侍従が一緒に入っていたが、ここ数回はラナエ一人で役割を担えるようになった。
眠りに就く前のファルシオンと言葉を交わす事も少なく無い。
ファルシオンはラナエから見てもとても愛らしい。もっと高慢になってもおかしくない立場でありながら、ラナエのような入りたての侍従へも、何の隔たりもなく話しかけてくれる。
他の侍従達がそうであるように、このみ月の間に、ラナエもまたファルシオンを自分の弟のようにすら感じていた。
ファルシオンが笑うと、本当に嬉しくなる。
だから、昨日からファルシオンが塞ぎ込んでいた様子に、ラナエもずっと心配していた。
『兄上なら呼ばなくても来てくれる』
その言葉に秘められた、強い兄への思慕。
会う事が叶わなかった兄に、どれほどファルシオンがその存在を求めていたのか、どれほど会いたいと願っていたのか――あの小さな胸の中にそれを隠して、周囲の大人達を心配させないように元気に振る舞っていたファルシオンを思うと、ラナエの胸も痛みを訴えた。
どくどくと心臓が高鳴り早鐘を打ち、周囲に聞こえてしまうのではないかと思ったほどだ。
もし聞かれて訝しまれたら、困る。
何故ならラナエは、秘密を抱えて王城に上がったからだ。
父、キーファー子爵がラナエにそれを命じた時、そんな事は絶対に無理だと思った。
実際にファルシオンの姿を見てからは、余計できる訳が無いとそう思っていた。
ファルシオンと二人きりになる僅かな時間に、ラナエは何度もそれを思い出しては迷い、その都度飲み込んできた。
だが今、ファルシオンは兄への強い思慕に、幼い胸を痛めている。
ならば、告げてもいいのではないか。
いや、告げるべきなのではないだろうか。
『兄上なら』
(ファルシオン様――)
どんなにか、ファルシオンは兄に会いたいだろうと、ラナエは想いを巡らせた。そして、ファルシオンが会いたいと思うように、彼も――
昼に見たレオアリスの様子は、まだその事実を知っている風には見えなかった。
イリヤはまだレオアリスと会えていないのだろうか。それともまだ、話していないのか。
けれどきっと、事実を知れば、彼も会わせてあげたいと、そう思うのではないだろうか。
いいや、イリヤはそう言っていた。彼ならきっと理解してくれるだろうと。
『だから頼むよ、ラナエ。もし機会があったらでいい。少しでも殿下が会いたいと思っているなら――』
ラナエはラナエの役割を。
きゅっと唇を引き結び、ラナエは顎を上げた。
広い寝室の壁に掛けられた灯りを一つ一つ丁寧に吹き消し、ラナエは手元の灯り一つを持ってファルシオンの寝台に近寄った。
「殿下」
そっと呼ぶと、まだ瞳も閉じていなかったファルシオンは、羽毛の掛布に包まったままもぞもぞと身体を動かした。肩口に、毛布の端からぴょこんとジェイクの耳が覗いている。
「だいじょうぶ、もう寝るから」
ラナエが注意すると思ったのだろう、ファルシオンは口元まで掛布を引き上げて、ぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「いえ――」
「どうしたの?」
ラナエが言葉を濁したので、ファルシオンは枕の上で首を傾けた。蝋燭の灯りが揺れて、ラナエの影も揺れる。
告げようと決めたものの、ラナエはまた迷っていた。
口を開きかけ、一度閉ざしてから、ラナエは微笑んだ。傍らの台に持っていた灯りを置く。
「今日は、ようございましたね」
「うん」
こっくりと頷いた顔は本当に嬉しそうで、ラナエをまた躊躇させる。
このまま、告げないでいるべきかと――
その思いが強まった時、ふと、ファルシオンが小さな声で尋ねた。
「ラナエは、兄弟はいるのか?」
「私には……」
瞳を落として、そこに見えたものにラナエははっと息を飲んだ。
銀色の髪の毛を蝋燭の淡い光が縁取り、まるで白に近い色に見える。
幼い頃の「彼」の面影が、確かにそこにあった。
ゆっくりと息を吸い、心の中の躊躇いと一緒にそっと吐き出す。
「ございます」
それは、一番ファルシオンには聞かせてはいけない言葉だ。ただ、ラナエに今見えていたのは、幼い頃から共に過ごした存在だけだった。
「――兄、が」
ファルシオンは瞳を見開き、やがて少しだけ淋しそうな笑顔を浮かべた。
「そうなのか……。――じゃあ、今は離ればなれでさみしいな。会いたい?」
「ええ、とても」
ラナエは素直に頷いた。
会いたい。
とても。
あの時の彼に。
『兄』としてでは無く。
ファルシオンは何を思ったのか、掛けていた布を跳ねあげるようにして寝台の上に起き上がった。
びっくりしているラナエの前で、寝台に手を付いて彼女の顔を覗き込む。
「もしかして、ここにいるから、兄上に会えないのか?」
「――それは」
「だったら、かえらなきゃ」
ラナエは瞳を見開き、ファルシオンの顔を見つめた。
「ラナエがここにいるのは、ラナエのしごとだからだ。でも、兄上がいるのに、会えないなんてだめだ」
「殿下――」
「そんなの絶対だめだ」
ファルシオンの瞳は真剣そのもので、ラナエの心を揺さ振った。
兄に会いたい。
ファルシオンの気持ちはやはり、それを強く願っている。
告げるべきだ。
喉に引っかかっている重苦しい塊を飲み込むようにしてラナエは息を吸い込み、真っ直ぐにファルシオンの瞳を捉え、一言一言、ゆっくりと区切るように告げた。
「殿下、お聞きください」
それを告げる事が、どれほど恐ろしい運命を呼び起こすかも知らず。
「貴方様には――、お兄様が、おいでなのです」
ファルシオンはぱちりと瞳を瞬かせた。それから、四歳という年齢には似つかわしくない、悟ったような笑みを浮かべる。
「知っている。兄上は、私よりもずっと小さい、生まれたばかりのころにお亡くなりになった」
ラナエは高鳴り疾走する鼓動を何とか押さえ込んだ。身体全体が脈打つように感じられる。
「いいえ。――いいえ、殿下」
知らせてあげたい。彼女の心の中で、それだけが繰り返し響いている。
寂しげな顔をするこの少年に、もう一人。
「もう一人――。殿下、貴方様にはもう一人、お兄様がおいでです」
もう一人、血を分けた兄がいる事を。
唐突な言葉に、ファルシオンは不思議そうにラナエを見つめた。
最初は彼女が何を言っているのか、良く判らなかったようだ。
それは当然だ。他の誰が聞いても、ラナエが言っている事など全くの冗談に聞こえるだろう。
第一王子は生まれてすぐ亡くなった。そして王家に王子は、ファルシオン一人だ。それは明確な、厳然たる事実だった。
ファルシオンはまだ幼く、そこまで思い至らなかったが、本当にそんな事があれば、王家が覆る。
ラナエが告げたのはそれほどに恐ろしい言葉だ。
ファルシオンはただ不思議そうな様子のまま、首を振った。
「兄上? それはちがう。だってそんなこと聞いたこともない」
「本当です」
ファルシオンの面に、傷ついた表情が浮かぶ。
「うそをつくな」
ラナエが単なる慰めを言っているのだと、ファルシオンはそう受け取ったのだ。苛立ちを露わに、ファルシオンはふいと顔を背けた。
「いいえ、殿下、本当に」
ラナエは膝を付き、寝台を覆う絹の掛け布に縋った。
「うそだっ! ラナエのうそつき! レオアリスは私の兄上はたった一人だって言った! たった一人しかいないんだって」
「彼はまだご存知無いのです、本当に、殿下にはお兄様がおいでです」
「うそだっ」
「いいえ、お聞きください! お兄様は今も生きて――ちゃんと生きてるんです!」
それはラナエの心の叫びでもあっただろう。
ファルシオンに兄の存在を知らせてあげたい。いや、兄の――彼の存在をファルシオンに知ってもらいたくて。
これまで十八年間、その存在すら語られる事すらなく闇に葬られていた、彼の事を。
ラナエの必死な瞳に、幼いファルシオンにも彼女の想いが伝わったのか、次第にその面に戸惑いが生じる。
「兄上……」
ファルシオンの呟きに、ラナエは頬を輝かせた。希望が見えたのだと、そう思った。
「そうです。いつでもお側にいてくださるお兄様が」
その時、寝室の扉を叩く音が響き、ラナエははっと息を詰めた。
開かれた扉から侍従の一人が顔を覗かせる。
「殿下、どうかされましたか? 大きなお声が聞こえたようですが」
「いえ、すみません、その――」
慌ててファルシオンを見れば、ファルシオンは掛布を握り締めた自分の手にじっと視線を落としている。
「あの、大丈夫です。少しだけ、お話をさせていただいていて」
侍従は思わしげな瞳をファルシオンに注いでいて、ラナエの心臓はどんどん早くなった。
自分は何を言っただろう。
もし、ファルシオンが今の話を侍従にしてしまったら――
どくどくと血が巡る音が響く。
永劫とも思える、実際にはほんの束の間の沈黙の後で、ファルシオンは微かに首を振った。
「何でもない。もう寝るから」
ファルシオンはそれだけ言うと、寝台に横になって掛布に包まった。
「ファルシオン様……」
「ラナエ、お前はもうお下がりなさい。私が代わりますから」
経験の浅いラナエを慮っての言葉なのかもしれないが、侍従の顔にはほんの少し、不審の色が覗いているように見える。
「はい――すみません」
ラナエは躊躇いながらも立ち上がり、最後にもう一度ファルシオンへと視線を落としたが、ファルシオンが一体どんな顔をしているのか、それを見る事はできなかった。
侍従が見つめる中を足早に扉へ向かい、お辞儀してその傍を擦り抜ける。
扉が閉ざされてもラナエは足を止めず、まるで走るように前室を抜け、冷えた廊下を通り、庭園を巡る回廊に出た。
頬をぴりぴりと刺激する寒さが身を包んだが、そこが庭園だとさえ認識しないままに、ラナエはまろぶようにして歩き続ける。
告げてしまった――
頭の中に恐ろしい言葉が鳴り響いている。
誰もファルシオンに伝えていなかった事を、ラナエが告げてしまった。
伝えていなかったのは、理由があるからだ。
イリヤの母が持っていたあの日記に、その理由は書いてあった。
ラナエが見ても、それは恐ろしい事だった――
ぴたり、と足が止まる。
綺麗に整えられた植え込みが右に、白い石膏の彫像が左にある庭園の真ん中で、ラナエは立ち尽くした。
(――どうしよう)
取り返しのつかない事をしたのではないかと、今更ながらに恐ろしさが込み上げてくる。
ラナエがファルシオンに告げた事は、見方によっては王家に対する侮辱ですらある。取り沙汰されれば不敬として、下手をすればキーファー子爵家そのものが罪に問われるだろう。
(どうしよう、どうしよう……)
ラナエは庭園に座り込んだ。
頭がぐらぐらとして心臓は弾けそうな程に早鐘を打っている。
世界が彼女だけを残して、回転しているように思えた。
それは彼女にこそ、全ての罪があると、そう宣言しているかのようだ。
(イリヤ――)
縋るようにずっと、ラナエは彼の名前を唱えていた。