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王の剣士4「かりそめの宴」  作者: 雅
第二章「波紋」
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第二章「波紋」(五)

 

 深く冥い、途方も無い重量を備えた水が、ゆらりと揺れた。


 それは水面に吸い込まれた陽光が漸く指先を伸ばしたほどの、弱々しい光の中で、かろうじて輪郭を浮かび上がらせていた。明らかに自然物ではない石造りの建物だ。


 その建物は一見しては、小さな東屋のような造り。八本の丸い柱だけが不思議な存在感を放って床を囲み、ただ壁は無く、屋根も無い。


 地上の常識を以ってその建造物を見た者は、しばらく考えた後に陽射しや雨風を遮る必要が無いからだと思い当たり、そして自らが縛られている固定観念とそこが深い水の中なのだという信じ難い事実に改めて気づき、苦笑と驚嘆の溜息を洩らさざるを得ないだろう。


 信じ難くとも、ここは確かに、水の中なのだ。

 そして宙に――いや、水中に、二間程の幅の円形の床とそれを囲む八本の柱が、ぽっかりと唐突に浮いているのだった。


 一箇所だけ、柱と柱の間に、石段が設けられていた。大人の片腕ほどの幅の石段は深く、深く、水の底に向かって続いている。

 下へ、下へ、下へ――石段を辿って行けば、いずれこの深い水の底に辿り着くのだろう。――おそらく。


 ここは西海、(いにしえ)の海。海皇と呼ばれる存在が治める古い国だ。だがそこはあまりに地上の世界とは違う。

 国というよりもむしろ、異界、と――、そう呼ぶ方が相応しいだろう。


 今、その異界に浮ぶ舞台の真ん中に、一人の男が立っていた。

 どういう理由なのか、揺らぐ水の中で、男の纏う長い衣類は裾をそよがせる訳でもない。


 ぬるりとした表皮、髪の毛一筋生えていないいびつに突き出た後頭部と、一直線の裂け目のような口。

 それはフォルケ伯爵の館に現れた、あの男だった。


 男は何かを待つように首をもたげ、瞼の無い銀色の瞳を、遥か水面を見透かすようにじっと注いでいる。

 その瞳がふと、微かな光を弾いた。


 男の視線の先、八本の円柱の上、ちょうど中央辺りで水が渦を巻き始める。

 渦の先端が竜巻のように、男の足元に降りてくる。


 ゆっくりと渦が消えた後、三体の生物が男の前にぺたりと座っていた。人型を取ってはいるが、肌は半透明に透け、血管や内臓器官が脈打っているのが見える。


 男は三体の人型を見回し、瞳を訝しそうに細めた。


「もう一体はどうした」

『消エタ』


 人型は口を開いた。声というよりそれは、水を震わせて届く音に近い。


「消えた? なるほど、力を確認したか。消し去る程とは素晴らしい。我が君もさぞ悦ばれよう。さあ、どのようになったのか見せてくれ」


 男の満足そうな顔は、次の言葉に凍りついた。


『剣士』

『剣』


 人型達の身体が輪郭を崩し、水袋を揺らしたように上下左右に伸び縮みする。


「――剣士だと?」


 男の瞼の無い瞳が、驚愕を宿して銀貨のように光る。


「消し去ったのは、剣士だというのか」


 人型達はまるで子が親に対して、身に受けた手痛い仕打ちを訴えるような素振りで、ざわざわとその身を揺らめかせた。

 男は彼らをじっと見つめ、それから人型達の上に手をかざした。


 人型が身を震わせ、形を崩し、収縮し――、小鳥の卵ほどの丸い玉に変わる。

 男は横に長い口をぱくりと開けた。ずらりと並んだ鋭い牙の奥の、真っ赤な喉の色が覗く。


 同じ色の長い舌が水中に伸び玉を絡め取ると、その口の中に次々と三つの玉を飲み込んだ。喉が玉を嚥下して動く。


 男は暫くの間、何かを見透かすように瞳を細めていた。そうする事で、男は人型達が目にしたものを全て、自ら目にしたと同様に知る事ができた。

 やがて再び瞳が見開かれる。


「これほど容易く消し去るとは――。フォルケめ、聞いていないぞ」


 苛立ちと戸惑い、そして微かな焦りがその声に滲んでいる。男の造り出したあの人型は強い再生能力を有している。通常の剣では切り裂く事すら難しいはずだ。

 それを一刀のもとに消滅させた、青白い刃。


 男は再び真っ赤な口を開き、その喉の奥から靄のように白いものが流れ出した。辺りの水に漂い、やがて消える。


「我が君――いかがいたします」


 暫しの沈黙の後、わん、と水が震えた。

 それはまるで、水そのものが喋ったように感じられた。


『何を、どうすると?』


 この周囲を満たす重量を帯びた水と同様に、深く冥い響きだった。

 声の主の姿は見当たらず、男は一点を見ていたが、そこに何かの姿を捉えようとしている訳ではない。


「今御覧戴いたとおり、(くだん)のイリヤ・キーファーとやらは確かに力を受け継いでいるようです。しかし偶然とは言え剣士が関わってくるとなると、いささか面倒な事になりましょう」


『面倒?』


 男の言葉の意味を問うように、声は一言それを繰り返した。


「左様、御望みはひと時の御趣向であったかと。この状況では」


『随分と小心な物言いよ』


 男はたちまち恐れと焦燥の色にぬらりとした顔全体を染めて、見えない存在に向かって膝を付いた。


「滅相も――」


 声の主にはその様子すら手に取るように見えているのか、失笑とも宥めるとも付かない笑い声が男を包む水の(とばり)を揺らす。


『大戦の折の、懐かしい血を引く者だろう。珍しく、奴が興味を示したと言うではないか。どう関わるか、それもまた一興』


 遠い過去を思い出すような、そして珍しいおもちゃでも見つけたような声で、水はもう一度笑った。笑い声は少しずつ遠退いて行く。


『いずれにせよ、余興の一つに過ぎん。――次に(まみ)えるまでのな』


 男は全ての意をただ受けるように、跪いたまま深く頭を下げた。


 声が消え去った後の無音とも呼べる静寂の中、男は再び顔をもたげ、そして次々と、赤い喉の奥から丸い玉を吐き出し始めた。





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