猫のようなモノは、ずっと僕のそばにいる
僕を見て逃げようとしたから、「待って」と声をかけた。無意識のうちに、腕を掴んでいた。
彼女の視線が流れ、僕の足元をちらりと見た。
僕にまとわりつく、猫のようなモノを確認して、少しだけ笑った。ホッとしたみたいに、優しい表情を見せた。
「もしかして、嘘だったの」
彼女は、必死に首を振る。
「君はこいつが見えないと言っていたけど、明らかに今、見たよね」
そういうことか。やっと僕は理解した。
「もしかして、僕のために、あんなこと言ったの」
「違う」
「違わない」
「違うから、離してっ」
「だったらどうして、そんなに泣いてたの」
「合コンの相手に振られたから」
「それ、嘘だよね。結局あれから、僕の知り合いに、合コンのセッティングの連絡が来たこともないし、君が合コンに参加したなんて、話は聞いたことがない」
「あなたが知らないだけ」
「全部、嘘だったんじゃないの」
「嘘じゃない」
猫のようなモノが、彼女の足に擦り寄りをする。
かなり猫の擬態がうまくなっている。
きっと今のこいつなら、本物の猫のように見えるかもしれない。
僕だって、少しは彼女との生活のおかげで、普通の人間のようになれていたように。
「僕は、君のおかげで、よくも悪くも、変わってしまったのかもしれない」
彼女との生活は、毎日が知らないことだらけで、最初は怖かったけれど、本当に些細なことで、彼女は笑って、怒って、火薬庫と一緒にいるみたいで。
ずっと同じ日を同じように、平穏に過ごしたかった僕にとって、煩わしいことも多かった。
まるで線香花火みたいに、いつその炎が落ちてしまうのか、それだけが心配で。
そんな気持ちが自分の中にあるなんて、思いもしなかった。
一人では絶対に体験できない日々だったのは確かだ。
「けど、君がいなくなったら、何もかも色合わせしまって」
足りないんだ刺激が。
生活に音がなくなってしまった。
君の声が聞こえない。君の歩く音が聞こえない。君が冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえない。
生活の中に他人がいないということが、こんなに静かだったなんて。
君がいなくなるまで、意識すらしたことがなかった。
それまでは、それが当たり前だったから。
一人の生活は静かで、穏やかで、とても心地よいものだったけれど。
なぜだかずっと、寂しくてしょうがなかった。
「君は僕と別れてから、何か感じたりしたのかな」
「やっと別れられて、せいせいしてたよ」
「そっか」
「細かいことをうるさく言われなくなったし」
「ごめんね」
確かに、僕は細かいことが気になるタチだ。タオルのたたみ方ですら、揃っていないと気持ち悪く感じてしまう。面倒なやつだと思う。
でも、君は嘘が下手だ。
僕と猫のようなモノを見つめる君の目は、幸せだったあの頃と、まったく同じだ。
とても優しくて、幸せなものを見ているような、澄んだ瞳をしている。
「君にとっては、そんなに簡単に捨ててしまえるほど、煩わしいだけの生活だったかもしれない」
何も言えないままだったから。
せめて、これぐらいは言わせてくれ。
「でも、君には感謝しているんだ。さよなら、ありがとう」
それからも何度か、夜の公園を見に行ったが、彼女と遭遇することはなかった。
けれど、時々、猫のようなモノが散歩に出かけて、戻ってこない時間が、さらに長くなっていた。
前は長くても数時間したら戻ってきていたのに、日によっては、丸一日、戻ってこない時もあった。
もしかしたら、どこか別の家で、くつろいでいるのかもしれない。
僕はふいに、猫につけるGPSのことを思い出した。
ほんの出来心だった。
猫のようなモノはいつも、どこに行っているんだろうと。
試しに通販で届いたGPS装置を、こいつにつけてみることにした。
何日か経って、久しぶりに、猫のようなモノが長めの散歩に出かけた。
丸一日、帰ってこない
スマートフォンのアプリを立ち上げて、行動履歴を確認する。
猫のようなモノは、さすがに猫を擬態しているだけあって、猫のようにあちこちを、うろうろしているようだ。
思ったほど行動範囲は広くないが、思ったほど狭くもない。
そこそこの範囲を移動しているようだ。
さらに、ある特定の場所で、長い時間を過ごしていることがわかった。
もしかしたら、その場所がやっかいになっている別宅なのだろうか。
猫のようなモノが、見えているということは、きっとその人も、寂しい人なのかもしれない。
どこかで他の誰かが、こいつがいることで、少しだけ幸せな気分になっているのなら、それでもいいかと思っていた。
僕がこいつの存在に救われてきたように。
けれど、ある日、猫のようなものが帰ってこなくなった。
また見えなくなったのかと心配していたが、GPS装置は動いている。
しかも、あの長く居座っていた別宅を拠点にしているようだ。
もしかして、もうあいつは戻ってこないつもりなのだろうか。
自分より必要としている人がいるのなら、それでもいいかという気持ちはある。
けれど、やっぱりこのまま、二度と会えなくなるのも寂しい。
一目見るだけだ。
そう思いながら、目的の場所に足を進める。
勝手につけたGPS装置も、できれば取り外したほうがいいかもしれない。
そう自分に言い聞かせていたが、ただの好奇心だった。
地図の示している場所に、僕の足はどんどん近づいていた。
猫のようなモノがそばにいようとするのだから、きっと僕よりも、ずっと寂しい人なのかもしれない。
人というのは時として悪趣味だ。
自分より下の人を見て、安心するようなところがある。
今の僕も、その類の、ろくでもない心理状態だったという自覚はある。
だが僕にだって、権利ぐらいはあるはずだ。
彼女と出会い、彼女と別れるきっかけとなった、猫のようなモノが、誰か別の人のものになるなんて。
このまま終わりなんて、寂しいじゃないか。
相手は猫のようなモノだから、別れの挨拶をしろというのも無理な話だけど、やっぱり急に終わりと言われても、気持ちの整理がつかない。
自分以外の誰かを幸せにしているのだという、何か確証のようなものが欲しかった。
諦めるための口実が欲しかった。
少しだけ新しい飼い主を確認できたら、帰るつもりだった、なのに。
黒と白の幕が張られた家の前で、喪服を着た彼女が泣いていた。
泣いている彼女の足元に、猫のようなモノはずっと寄り添っていた。
慰めるみたいに、時々長く甘い声で、ニャーと鳴いている。
その声が聞こえているのはきっと、彼女と僕だけだろう。
彼女は、無意識のうちに、猫のようなモノの頭を撫で、何度も涙を拭いながら、必死に参列する人たちの相手をしている。
祭壇に飾られている遺影は、彼女と瓜二つだった。
「遺伝性の病気なんだって。だから、私にこの子、押し付けられても、困るから」
もし彼女が死んでしまって、こいつが路頭に迷わないように、僕を孤独に戻して、猫のようなモノを見えるように、仕向けたということなのかもしれない。
「そうだったのか。バカだな」
「バカとは何よ」
「この猫のようなモノが、寂しい人にだけ見えるというのなら、大丈夫だよ」
「大丈夫って何が」
「君がいつか死んでしまうかもしれないという事実が変えられないなら、むしろずっと君と一緒にいるほうが、僕たちは寂しい人でいられるだろうから」
僕は手を差し出した。
「だから最後まで、一緒にいさせてください」
「バカなのは、あなたのほうじゃないの」
「そうだよ。僕はバカで寂しい人なんだ」
彼女が吹き出すように笑った。やっと笑ってくれた。
それだけで、この馬鹿げた提案をした意味があったかもしれない。
ただの屁理屈だった。
けれど、それしか道はなかった。
きっと大丈夫だと思った。
それを信じるしかなかった。
こうして僕たちは、再び恋人同士になった。
二人でいるのに、きっとこれからもずっと、僕たちは寂しい人のままだろう。
彼女を看取ってから、一年が経った。
どうしても見たいからと、無理を言って病院に外出許可をもらって、最後に桜を見に行った公園に、久しぶりにやってきた。
相変わらず、リア充の家族やカップルが、自分こそが一番幸せだといわんばかりに、楽しそうに過ごしている声が聞こえて来る。
風が吹き抜けて、公園の桜から花びらが舞い散った。
青空と桜色のコントラストが美しかった。
あの日も、同じように、舞い散る桜を見上げていた、彼女はもういない。
でも、僕のそばには、猫のようなモノがいる。
寂しい人だった僕が拾ってきたモノだ。
生きているのか、死んでいるのかよくわからない。
なぜか、いつも僕のそばにいる。
彼女がいなくなってからも、猫のようなモノは、ずっと僕のそばにいる。
僕は猫のようなモノを抱き上げ、優しく頭を撫でた。
甘えたような声で、ニャーと鳴いた。
きっとこれからも、猫のようなモノは、僕のそばにいるだろう。
僕がずっと寂しい人である限り。