猫になりたがっている、猫のようなモノを拾った
昼間の公園を散歩するのが好きだった。
そよぐ風で、葉っぱが擦れる音と、野鳥の鳴き声がするだけの、澄んだ場所。
サラリーマンにとって移動時間の、ちょっとした息抜きとして、至福の瞬間だった。
なのに、コロナのせいで、今は人が溢れていて、まったく憩いの広場じゃなくなってしまった。
リア充さんたちの、幸せ品評会みたいになっていて、独り身にとっては、毒の沼を歩いているみたいなものだ。
あのひっそりと、静かだった癒しの空間は、もう戻ってこないのだろうか。
そんなある日。
僕は、猫のようなモノに遭遇した。
猫っぽいけど、なんだか猫じゃない。
なぜかついてくる。
いくら走ってもついてくる。
なんだこれ。
まるで、必死に猫になろうと学習中だけど、いろいろ間違ってるみたいな。
そんな感じの謎の物体だ。
でも、自分もそうなのかもしれない。
必死に普通の人間のようなふりをして、生きているという点では、そんなに変わらない。
「お前も、うちにくるか」
猫のようなモノは、ニャーと鳴いた。
その日、僕は、猫になりたがっている、猫のようなモノを拾った。
一緒に暮らしていくうちに、いくつかわかったことがある。
その猫のようなモノは、餌を食べない。
せっかく揃えたキャットフードや猫缶、それからトイレや猫砂なんかの出番がくることはなかった。
手間がかからないのは結構だが、やっぱりなんだか、得体が知れない謎の物体だという印象が強くなった。
しかも、どうやら、自分にだけしか見えていない風だった。
僕の居るマンションには、頑固なおじいさんが住んでいた。生き物全般が嫌いなのか、近所のペットの鳴き声や、赤ちゃんの夜泣きがするたびに苦情を言い、警察に通報して、何度も面倒を起こしているような人だ。
なのに、僕の連れ帰った猫のようなモノが、いくら鳴いても、部屋を走り回っても、なにも言ってこない。
一度、ゴミ出しをする時に、ばったり遭遇して、心配になって、自分から申し出たことがある。
「いつもうるさくて、すみません」
「なにが」
「えっと、鳴き声が」
「は? お前までバカにしてんのか。おれは、耳だけはいいんだよ」
てっきりお年を召して、さすがにもう、あまり騒音も、気にならなくなったのかなと思っていた。
けれど、その翌日、うっかりドアを開けた瞬間に、猫のようなモノが外に飛び出した。それを追いかけて捕まえようとしていた瞬間、おじいさんも玄関から出てきたところに、鉢合わせをした。
猫のようなモノは、おじいさんの足元にすり寄った。
なのに、おじいさんは、まったく気付かないで、うっかり踏みそうになったから、僕は慌てて拾い上げた。
「何してんだ、あんた」
怪訝そうな顔で、僕を見ていた。おじいさんの後ろには、可愛らしいお孫さんが、こちらの様子をうかがっている。
明らかに、おじいさんとお孫さんの目には、僕が抱っこしているはずの、猫のようなモノは写っていないようだった。
その後も、同じようなことが何度か続いた。宅配便の人に、猫のようなモノが飛びついた時も、無反応だった。
それで、どうやら猫のようなモノは、僕だけにしか見えないのだと、思い込んでいた。
けれど、隣に引っ越してきた女子大生は、粗品と書かれたタオルにじゃれつく猫のようなモノを、じっと見ていた。
自分だけしか見えないはずの、そいつを。
「……見えるんですか」
「見えるもなにも、猫ですよね。かわいい。触ってもいいですか」
「あ、はい」
その女子大生は、猫のようなモノを気に入ったらしく、ちょくちょくうちにやってきて、猫のようなモノと遊んでいった。
けれど、彼女と仲良くなればなるほど、僕には、猫のようなモノの存在が、感じられなくなっていった。
最初はただ、機嫌を損ねて、どこかに隠れているのだと思っていた。
猫になりたがっていたあいつが、より猫に近づこうと、学習中なのかもしれないと、軽く考えていた。
ある日、家を出た形跡もないのに、家のどこにも見当たらなかった。
さすがに、丸一日、姿を見せなかったことは、今までにない。
「あいつ、どこに行ったか、知らない?」
彼女に聞いたら、とても驚いたような顔をしている。
「もしかして、いるの?」
彼女はソファーに視線を飛ばして、困ったような顔で微笑んだ。
どうやら今度は、僕だけが見えなくなったらしい。
「今、ニャーって鳴いたよ」
声まで聞こえなくなったようだ。
どうして見えなくなったんだろう。
突然現れて、勝手についてきて、勝手に見えなくなった。
わけがわからない。
しばらくずっと、猫のようなモノを探し続けた。けれど、見えないものは仕方がない。寂しさを感じてはいたが、諦めようとした時のことだ。
「すまないけど、僕の代わりに、あいつのこと、頼む」
「……いい加減にしてください。そんなの……見えるわけないじゃないですか」
「え?」
突然、彼女が怒りだした。
「わかりませんか。気を使っていただけですよ」
「どういう……こと?」
「高スペックだから、付き合っておけば美味しいかなとか、友達に合コンセッティングを頼まれた時に、あなたの友達だと、出身大学も有名どころだし、大企業勤めの人が多いし」
彼女の言っている意味がわからなかった。
「貯金もあるみたいだから、食事もご馳走になれたし。なのに、あなたはいつまで経っても、私より、あの子の心配ばっかり」
泣きながら、出て行った彼女は、その夜、戻らなかった。
彼女を探そうとしたが、僕は彼女のことを、何も知らなかった。ただ隣に住んでいるということ以外には。
彼女を待っているうちに、眠ってしまったようだ。
翌朝、人の声と気配がして、慌てて玄関から飛び出した。
マンションの通路にいたのは、引越し業者だった。
隣の部屋は、もぬけのからだ。
彼女は姿を消した。何の連絡もなしにだ。
あんまりだとは思ったけれど、彼女にも、何か事情があったのだろう。
出会いがあれば、別れがあるのも必然だ。
リモート飲み会で、同僚に少し愚痴ったら、笑われた。
「良かったじゃないか。ATMにされる前で。俺みたいに、子供が出来てからじゃ、遅いからな。って、痛いっつーの」
どうやら嫁に、頭を叩かれたらしい。
雲行きが怪しくなってきたので、飲み会を早めに切り上げた。
一人きりになった部屋は、やけに静かだ。
ふいに、ニャーという声が聞こえた。
声のするほうを探すと、猫のようなモノがこじんまりと座っていた。
気がついた時には、抱きしめていた。
「やっぱり僕が、普通の生活を求めるなんて、無理だったんだ。きっと」
わかりきっていたことを、口にした瞬間、いろんな思いが溢れて、止まらなくなった。
泣いて泣いて、ずっと泣き明かした。
また一人と一匹の生活になった。
時々、猫のようなモノが、外に行きたがって、長い散歩に出かけることが増えた。
けれど、きちんと戻ってくるから、今のところは心配していない。
前みたいに、猫のようなモノが、見えなくなるということもなく、平穏な日々が続いていた。
猫のようなモノが散歩に出て行ったので、僕も久しぶりに、夜の公園を歩いてみることにした。
さすがに夜なら、リア充さん集団とエンカウントすることもないと思ったのに、案外、飲み屋から締め出された人たちが流れてきているのか、あちこちで酒盛りをしている姿が見られた。
でも前ほど、人であふれる公園を歩いても、毒の沼とは感じなくなっていた。
きっとそれは、彼女との生活のおかげかもしれない。
リア充に見える人だって、裏を返せば、恋人や家族とけんかをしていたりする。
今、幸せそうにしていたって、明日また仲違いをするかもしれない。
もしかしたら、離婚した夫婦が、子供のために、月に一度、家族ごっこをしているだけかもしれない。
表から見ただけじゃ、その人たちの本当のことなんてわからない。
だから、眩しい光を見た時みたいに、目をつぶって、目を背ける必要なんてないのだということを、少しは学習できたかもしれない。
そういう意味では、彼女との恋人ごっこのような生活は、無駄ではなかったのだろう。
いつの日か、僕もまた恋をすることができるのだろうか。
もしできなかったとしても、彼女との生活を、タイムカプセルに埋めた古い手紙のように、忘れた頃に掘り起こして、昔は幸せだった時もあったなと苦笑いをするために、心の奥底に、そっと大事にしまっておくことにしよう。
そう思った時だった。
彼女がベンチで泣いていた。