7:5.スバルとユキの出会い
初めてユキがスバルに会ったのは、ユキが十歳の時だった。
きっかけは、突然届いた一通の手紙だった。
それは、第二王子とのお見合いの招待状だったらしく、父はえらく喜んでいたのを覚えている。しかし、ユキにとってはまるで他人事で、父が喜んでいるのならと、そんな風にしかこの見合いを考えていなかった。
ずっと煙たがれ、嫌悪され、暴力しか振るわれなかったユキが、やっと父の役に立てる。ユキはそのことだけがうれしかった。だから正直、第二王子がどんな人かなんて興味なかったし、知ろうともしなかった。
この見合いがうまくいけば、きっと父はもっと喜んでくれる。それだけでこの見合いに行く価値がある。
しかし、ユキは本当に第二王子のことをよく知らない。いつかの夜会で見かけたことはあるが、冷たい相貌で、無愛想そうな人。ただそんな印象だけだった。
それなのに、なぜ選ばれたのだろうか。それだけがよくわからない。
そして見合い当日、メイドのサヤが張り切って見立てたドレスを着て、ユキは見合いの場である王城の客間へと足を踏みいれた。
「……初めまして、スバル殿下。ユキ・ツクヨと申します」
家庭教師に教わった淑女の礼をして、ユキはチラリとスバルの顔を盗み見た。
艶やかな黒髪に、灰色に似た青い瞳、切れ長目の冷たい眼差しでやはり端正な顔立ちをしている。十歳にしては、冷めたような顔つきではあるが、やはり初めの印象とあまり変わらないな、とユキは思った。
そう観察していると、突然スバルは立ち上がってユキに近付いてきた。ユキは驚いて思わず一歩後ろに下がってしまった。
(な、なに……⁉)
何も言わずに近づいてくるものだから、ユキは怯えておずおずとスバルを見上げた。するとスバルは、不機嫌そうに眉を潜めながら形の整った唇から言葉を放った。
「三十分で退出しろ」
「…………はい?」
一瞬頭が真っ白になって何を言われたかわからなかったが、徐々にスバルの言葉を理解すると思わず素っ頓狂な声をあげた。
しかしスバルはそのまま背を向け、ソファとスクエアの机に近付き、机に置いてあった本を手に取った。
「俺は、今から読書に入る。お前はそこにでも座っていろ」
「は、はあ……」
そう言ってスバルの向かいのソファを指され、ユキはわけもわからず言われるがまま、そこに座る。その様子を見て、スバルは顔をしかめながらユキを見下ろした。
「いいか。これから三十分、一切俺に話しかけるな。それから出ていけ。いいな?」
「は、はい。わかりました……?」
ユキの返事を聞くと、スバルもソファに座り手に持っていた本を開いて読み始めた。
「……」
ユキはその様子を茫然と眺めた。
もしかして、これが見合いの正しい形式なのだろうか――……?
普通なら怒って出ていってもおかしくない状況だが、初めての見合いでよく知らないユキは、この状況を徐々に受け入れ始めていた。
しかし、ユキとて三十分ぼーっとしているなど暇だ。ちらりとスバルをうかがうと、一向にこちらを向く気配はなく、本のページに釘付けだ。話しかけるなと言われたし、どうしようかと考えていた時、ふと思い出したことがあった。
『一番大事なのは、共有することです! 時間や価値観、好きなものとか、なんでもいいですけれど、お互いの何かを共有するんです。これは、関係性を縮められる最強のテクニックですよ!』
なんてメイドのサヤが張り切って教えてくれたことを思い出した。
なるほど。もしかしてこれは、『共有する時間』ということか。だからスバルもあえてユキを放置しているのか。それに、もしかしたらスバルは、読書が趣味なのかもしれない。それなら、ユキも共有するために読書をしなければいけない。しかし、あたりを見渡しても本が一冊も見当たらない。
もしかして試されているのか――……?
この場をどう切り抜けるのか、もしかしてこの見合いを通して見合い相手に足りうるか試験され、結果によっては、落第なんてこともあるのかもしれない。
それではだめだ。父が悲しんでしまう。
ユキは焦って必死に頭を働かせた。
何か、何かないのか。本、本、本……。
そこでふとあるものに目がついた。
ユキは、ソファから立ち上がり向かいのソファに向かい、そして、スバルの隣に座った。スバルは集中しているのか、ユキに気づかない。ユキは気にせず、スバルの読んでいる本を覗き込んだ。
本来ならこんな大胆なことはしないが、ユキの頭の中では『本を読むこと』で頭がいっぱいだった。もうユキの中では、この見合いは試験になっており、これをどう通過するか。そして、通過するには本を読むことが必須。ならばスバルの本を読むしかない。
「………! おい……ッ」
さすがに近づきすぎてスバルに気づかれ、諫めるように声をあげられたが、ユキはそれどころじゃなかった。
(何これ……。全然読めない……)
ユキは、スバルの読んでいた本の文字を見て、驚愕した。難しい文字が並び、全く読めないのだ。ユキも男爵令嬢としてそれなりに教養を身に着けている。礼儀作法やダンスや楽器のレッスン、語学や歴史の勉強だってしている。なのに、今スバルが読んでいるこの本はユキの知識のさらに上をいっていた。これはもっと大人が読む本だ。しかもなんとなくしかわからないが、これは、経営学の本だ。十歳が読むものではない。
さすがは第二王子。ただの男爵令嬢のユキとは違い、身に着ける知識が格段に違う。
いつもなら、すごいと褒めたたえているところだが、今のユキは『本を読む』という使命感で埋め尽くされていた。
(なんだか悔しい……。何としてでも読みたい……)
ユキが使命感に燃えている間、諫めても無視して本を覗き込んでくるユキにスバルはいい加減腹を立てた。
「おい。どういうつもりだ。俺は、そこに座っていろと言ったはずだ」
「……」
「まさか、そうやって色目でも使っているつもりか?」
「……」
「……って。おい。聞いてんのか?」
「……」
「おい!」
「……スバル様、動かないでくださいませ。読めません」
「はあ⁉」
いくら話しかけても無視し続けるユキにスバルが苛ついていると、なぜか逆にユキに諫められた。わけもわからずスバルはユキを凝視した。ユキは一向にスバルの方に顔を向けず、本にばかり目を向けている。さすがのスバルも混乱する。
「スバル様、ページをめくってくださいな」
スバルは左側、ユキは右側にいたので、読むためには必然的にスバルがページを捲らないといけなくなった。スバルは混乱しながら、言われたとおりにページを捲った。
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本を一緒に読むこと三十分。約束の時間だが、ユキが帰る様子はない。集中して本を読みこんでいる。なぜだが言われるがまま本のページをめくっていたスバルは、だんだん落ち着きを取り戻していった。
(なんで俺が、こいつのページ捲り係になってるんだ……)
スバルは怒りも通り越して、自分にもユキにも呆れた。
「スバル様」
「……」
今では名前を呼ばれるだけでページを捲るようになってしまったスバルは、あきらめたようにページを捲る。いつからかユキのペースにのまれている。第二王子を顎で使うとはこの女、最初の印象と全く違いすぎる。
そしてふと肩に顔をよせて本を読んでいるユキに目を向けた。
よく見ると、美しい容姿だと、思う。
十歳ながらの幼さはあるが、大きな瞳は満月のように丸く、静かに、美しく輝くその瞳が、彼女の雰囲気を神秘的にさせている。見つめると吸い込まれそうだ。全体的に落ち着いた大人びた雰囲気なのはそのせいだろう。その瞳が今、真剣な眼差しで本に向けられている。凛々しいその表情にスバルは少しだけ目が離せなかった。
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――――
―――――――――
それから三十分。見合いを始めてから一時間がたった。
本の最期のページを捲り終えると、ユキは顔を離して、ふうと息をつき、顔をあげた。
「……」
「……なんだよ」
驚いたように目を開いているユキに、スバルは眉を潜めた。今更何を驚いているというのか。こちらは、もう驚きっぱなしだ。
「………ッ⁉ んぎゃッ!」
「お、おい!」
ユキは顔を赤くして、はじかれたようにスバルから離れるように立ち上がった。その際ソファの脚に引っかかたのか、後ろに大きく転んだ。それに少しスバルは慌てて駆け寄る。
しかし、ユキはすぐに起き上がって勢いよく頭を下げた。
「も、申し訳ございません! こここ、こんなはしたない真似……というか無礼な真似を……ッ! で、ですが、これも試験のためであって……あの、その……」
「は? 試験?」
「………ッ」
ユキの言っていることがわからず困惑していると、ユキは勢いよく顔をあげて詰め寄った。
「試験は、やはり、不合格になってしまうのでしょうか⁉」
思いがけない、というかもう完全に意味もわからない発言にスバルはとうとう口を開けて茫然とした。
――試験? 不合格? 一体何の話だ。
しかしユキの必死な表情から、彼女が本気で言っていることはわかる。わけがわからずじっとユキの顔を見る。
何なんだ。この女。わけがわからない。
するとだんだんと、笑いがこみ上げてきた。
「……ふ、……ッくくくく、はははッ!」
「………ッ!」
スバルは、ついに声を出して笑った。しかしすぐにスバルは声を押さえるように手の甲を口にあてる。ユキから顔を背けるが、それでも笑いは収まらず、押し殺した笑い声で肩を細かく揺らした。
こんなに笑ったのは、いつ以来か。
この女、おかしくて仕方がない。
急に近寄って王子を顎で使ったかと思ったら、急に試験やなんだと顔を赤くして騒ぎだして。
この女の頭の中はどうなっているんだ。
声を殺して笑っているスバルに、ユキが少し頬を染めて茫然としていた。そんなユキにスバルは笑いながら顔を向けた。
「あー……なんだった? 試験?」
「へ⁉ あ、そうです。やはり不合格でしょうか……?」
おずおずと自信なさげに見上げるユキに、スバルはおかしくてまた笑いがこみ上げそうになったが、必死にこらえた。
「そうだな……。まあ、合格だ」
「……ッ! やはりこれが最適解だったのですね⁉」
合格、と言っている自分も面白いが、スバルの言葉に喜んで笑っているユキはもっと面白い。この茶番、いつ終わらせようかとほくそ笑んで考えていると、扉からノックが聞こえた。目を向けると使用人が顔を出した。
「スバル殿下。お時間です」
「……ああ。わかった」
スバルがそう返事をすると、ユキは慌てたように扉にパタパタと走らせた。そして振り向き、パンパンとドレスを払い、入った時と同じように淑女の礼をとった。
「スバル殿下。本日は、とても楽しい時間を過ごせましたこと、誠に感謝いたします。またお会いできる機会がございましたら、どうかまた、夢のひと時を」
そう言ってユキは、目を細めて花がほころぶように微笑んだ。
それは本当に、花がほころぶように。蕾が花を咲かせたかのように。
「………ッ」
先ほどの凛々しい顔つきと違う、その可憐さに。心臓が高鳴ったのが分かった。
その笑顔のまま、部屋を後にしたユキをスバルはしばし、ぼぅっと見つめた。すると、ふと足元に花のコサージュが落ちていることに気づいた。先ほど、ユキが転んだときに編み込んだ髪についていたものが取れたのだろう。スバルはそのコサージュを拾い上げて、届けようと足を向けた。
しかし、ぴたりと足が止まる。
――次に会った時に、渡せばいい。
スバルは、ユキを思い出す。
驚いた顔、真剣な顔、慌てた顔、喜んで笑った顔。
そして、花が咲いたような優しい微笑み。
もう一度、見てみたい。
スバルは、願いを込めて少しだけ手に力を込めた。
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客間から出たユキは、使用人に城の外まで見送ってもらっている中、あの時のスバルの笑った顔を思い出した。
いつもの冷たい相貌からは想像もつかない、柔らかい、年相応な笑顔。
困ったような、呆れたような、けれど、とても優しい、そんな不器用な笑顔。
顔をそむけた隙間から見えた横顔は、泣きたくなってしまうほど綺麗な、無邪気な笑顔。
あの時、そんなスバルに見惚れた。あまりにも、楽しそうに笑うものだから。
今でも、心臓がうるさい。頬もまだ熱い。
一体どうしてしまったのか。スバルを思い出すたび、泣きそうなほど心臓が鳴り響く。
――また、会いたい。
ユキは、頬の熱を冷ますように手の平を頬にあてる。でも全く効果はなくて。
どうやったら、この熱が収まるのかサヤに聞いてみよう。
あと、父にも報告しなければ。うまくいったと。きっと喜ぶだろう。
また、スバルと会えば、また父も喜んでくれるだろう。
ユキは知らない。もう父のためにスバルと会おうと思っていない事を。
スバルは知らない。どうしてコサージュを届けなかったのかを。
その感情を、二人はまだ知らない。