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0.甘いお菓子に、苦い風

第三章です!

よろしくお願いいたします。



 あれは十の頃だっただろうか。ユキと見合いをする前の時だ。


 時々、無性に抜け出したい時があった。


 何から、と言われれば形容しがたいもので。

 それが口うるさい教育係からなのか。

 見合いを進めてくる周りの大臣からなのか。

 王城で舞踏会が開かれるたびに色目を使ってくる令嬢たちからなのか。

 無条件に敬愛される視線からなのか。

 城という牢獄からなのか。

 それとも、それらすべてそうさせてしまう王子という立場からなのか。


 自分でもよくわからなかった。

 けれど、何か行動をしないと押しつぶされそうで、気持ち悪くて、城からよく一人で抜け出していた。王家の教育の一環で王都の様子を直に見るのも勉強だと自分に言い聞かせながら、街の様子を見ていた。

 しかし王都探索にも少し飽き、スバルは王都から外れた地区にある貧民街にまで来ていた。ここは観光地とされている王都からは簡単に来られない位置にあり、貧民街の様子は見えなくなっている。

 貧民街は労働者もしくは貧困層の居住区だ。そこには捨てられた子どもや放浪者のたまり場になっており治安も悪い。建物も整備がいきわたっているとは言えず、崩れかけの建物や即席で作られたような木の建物なども存在する。何人かすれ違う人がいたが、陽の当たりも良くないからか、その表情は暗い。


 人々を横目にスバルは眉を潜める。王都が華やかな分、こういった光景を見るとどうにも苦しく、自分が汚いものに思える。誰しもがこんな生活を望んでいたわけではないはずなのに、スバルは王子という身分というだけで、贅沢な暮らしをしてしまっている。それがどうにも許せず、だからと言ってここの人たちをどうにかできるわけでもない自分がもどかしい。

 

 直視できずに俯いたまま真っ直ぐ居住区を突っ走ると、橋があった。橋と言っても小さな川なのでそれほど大きくない簡易な橋だ。その先にもまだ貧民街は繋がっており、ここから先はさらに治安が悪いらしい。

 さすがに先は難しいか。そう思いスバルは橋の手すりの上に座り、川を眺めて休憩をすることにした。


「あんた、何してるんすか?」


 ぼうっと意味もなく川を眺めながら休憩していると突然後ろから話しかけられ、声の方向に振り返った。


 そこには同じ年頃の少年が立っていた。


 金髪にエメラルドグリーンの瞳を持つ整った顔をした少年だった。少し汚れたブラックのズボンとウエストコート、白いシャツを着ており、少し痩せているが健康にはそれほど問題がないように見える。


「……」


「ありゃりゃ、無視っすか」


 ただ観察していただけなのだが、金髪の少年はどうやらスバルが無視をしたと思ったのか苦笑いをして肩をすくませた。


「私に何の用だ」


「なんすかその気取った喋り方。変なの」


 よっと言いながら少年は平然とスバルの横に座ってきた。話し方を指摘され、スバルは不機嫌そうにむっと口を結んだ。


 なんだこの子どもは。


 身分を隠しているから仕方がないが、それとは関係なく、会ったばかりの人間に話し方が変だとか言わないだろう。デリカシーというものがないのか、それともただの馬鹿か。そっちだって人のことは言えないはずだ。

 スバルはじっと睨むように隣に座った少年を見た。


「そなたに言われたくないが」


「俺ユウト。あんたは?」


「……そなたの耳は機能してないのか」


 全く話を聞こうとしないユウトと名乗る少年にスバルは目を眇めた。しかし対してユウトは好奇心溢れたキラキラした笑顔を向けてくる。じっとスバルの返事を待っている様子にスバルは溜息をつきながら答えた。


「……スイ」


 スイ、とは偽名だ。

 この貧民街までにはスバルの顔は知られていないと思うが、名前はわからない。スバルは念のため偽名を使って正体を隠すことにした。するとユウトはスバルの返事に、というより返事をしたことが嬉しかったのか、満足した笑みを浮かべていた。


「んじゃ、スイ! 俺たちのところに行くっすよ!」


 そう言ってユウトは手すりから降り、スバルの腕を掴んだ。突然なことにスバルは目を開いてユウトを見返す。


「は? なぜだ」


「いや、なぜだって。行くとこないんすよね? だったら俺たちのアジトで一緒に暮らしましょうよ!」


「……」


 何も言っていないが、ユウトは何か勘違いをしているようだ。

 確かにこんなところで一人でぼうっとしていれば、行くあてもなく途方に暮れていた子どもに見えていたのだろう。だからユウトはスバルに話しかけたのだ。

 しかしスバルもこのまま連れて行かれるわけにはいかない。貧民街にはよく降りているが、自分の立場は理解している。もし何かあれば国が動く大事態になってしまう。こうして抜け出してはいるが、兄であるエイシはスバルが城を抜け出していることを知ってて見逃してくれている。もしスバルに何かあればエイシが責任を問われ、迷惑がかかってしまうかもしれない。


 スバルは断るためにユウトの腕を振りほどこうと引っ張った。


「いや、遠慮す……」


「なーに遠慮してんすか! 一人ぐらい増えても怒らないっすよ! ま、実際にいろいろ仕切ってるのはうちの兄貴分なんすけどね」


「いや、そういうわけじゃなく……」


「ほらほら!」


「いや、待て。ちょッ……!」


 断っているにも関わらず、ユウトは強引にスバルを引っ張り、無理やり手すりから降ろされてそのまま走った。

 こっちっすよーなどと吞気に話しながら、腕を掴んで案内をするユウトに、スバルは呆れたように溜息をついた。

 貧民街の詳しいの暮らしも気になっていたところだ。その現地の情報をエイシに話したら、きっと王になるエイシの為になるはずだ。

 スバルはそう心の中で言い訳をした。

 自分が知らない世界に飛び込もうとしているこの状況に、少し心が躍っている自分を誤魔化しながら。



 これがスバルとユウトの初めての出会いだった。



@@@@@@@@@



 カグネ王国から帰ってきて半月。夏が過ぎ、秋の季節がやってきた。

 太陽がまだ高いころ、ユキはローブを羽織り、王都ランタルを散策していた。

 街はいつも通り活気づいていた。市場が並び、観光客でにぎわい、カグネ王国の名産であるワインを嗜む人々であふれている。道には様々な露店が展開されており、赤、緑、黄色などの野菜や果物、青みのある新鮮な魚が店に並び、街を一気に色鮮やかにさせる。その品ぞろえの多さには、訪れた人々を目移りさせ、期待と好奇心を高め、街を楽しませる。

 笑顔であふれるこの街の風景とは対象的に、ユキは必死な表情で何度もあたりを見渡した。ユキの視線は店でも、並んでいる商品でもない。それを楽しむ人々の髪色に向けられていた。


 明るい茶色の髪、赤みがかかったレンガ色の髪、野原を思わせる緑色の髪。


 違う、違う。どこにもいない。太陽の様にキラキラと輝くあの美しい髪色を。

 ユキはうろうろと人の根をかき分けて進んでいく。

 ある人物を探すために。


「ユウト……」


 あまりの人の多さに、思わず探し人の名前を呟く。しかし名前を呼んでもその人物が姿を現すわけもなく、ユキはすれ違う人の肩にぶつかったと同時にその足を止めた。


「どうして、どこにもいないんだ……」


 頭に浮かぶのは、見送りの際明るい笑顔で手を振っていたユウトの姿。ユキはユウトを思い出して着ていたローブの裾をぎゅっと握る。


 約束したのに。

 

 帰ったら一緒に飲むって。

 いっぱい話したいことがあったのに。


 するとゴーンと鐘が鳴る音が聞こえ、ユキは鐘の方へ顔を向ける。

 もう昼の時刻。捜索は昼までだというスバルとの約束の時間だ。

 結局今日も何も情報を得ることができなかった。ユキは溜息をつきながら、王城ウィスタルス城の方面に戻っていった。



@@@@@@@@@



 ユキはこの国の第二王子で、主であるスバル・サラエル・ジ・コントラスの待つ執務室に戻った。戻ると早々にスバルは机から立ち上がり、戻ったユキの下へ足を運んだ。


「何か情報があったか?」


 ユキは上に来ていたローブを脱いだ。その際フードで隠れていた美しい白銀の長い髪が零れ落ちる。ユキは、スバルの問いに首を振った。


「いえ、何も……。ユウトを見かけたというのは酒屋の店主だけのようです。そこからは全く……」


 カグネ王国から帰ってきてから、ユウトは一度も執務室に顔を出さなかった。

 帰ってきた当初は少し出かけているだけだろうと思って、スバルと二人で待っていたが、夜になってもユウトは帰ってこなかった。そしてそのまま次の日になってもユウトが来なかったところで不信に思い、スバルたちは王都にあるユウトの住まいに向かった。しかしそこはもぬけの殻で、部屋の様子からユウトがしばらく帰ってきていないことがわかった。

 その後、カグネ王国の訪問の間、ユウトの姿を見た人がいなかったか、家の近所や王城で働く兵や官僚、大臣までにユウトのことを尋ねた。すると一人の官僚が数日前に王城を出る姿を見たらしく、それ以来王城には姿を現さなかったという。


 そこでいろいろな店にユウトのことを尋ねてみたところ、一つ有力だったのがある酒屋でユウトにワインを売ったという店主の話だ。店主の話だとワインを数本買った後、王城の方面に歩いていったと言っていた。それを頼りに聞き込んではいるが、ユウトの足取りがどうしても追えない。

 スバルも一部の兵を使って捜索にあたらせたり、信頼のある侯爵に協力を求めたりして情報を集めているが、有力な情報は上がってこなかった。

 

 もし何かしらの事情で長期に出ることになったとしても、ユウトならスバルたちに伝言を残すなどするはずだ。それが一切ない、ということは何かしらの事件に巻き込まれた可能性が高い。


 そう考えてユキは顔を歪ませた。嫌な想像だ。


 するとスバルも同じことを考えたのか同じように顔を歪ませ、考え込むように顎に手を当てた。


「……あいつのことだから、そこまで心配することもないと思うが」


「ユウトは前にもこういうことが?」


「仕事で調査を頼んだ時とかで長く出てたことはあったが、連絡がないことは初めてだ」


 ユキはチラリとスバルを盗み見た。心配することない、と言いながらもその表情には憂いが見える。

 普段スバルはユウトに対して雑な扱いをし、それにユウト自身も憤慨していた姿はよく見ていた。

 しかし、それはスバルがユウトを信頼している証でもある。何があっても絶対に自分を裏切らないという信頼。その信頼があるからこそ、スバルにとってユウトが何も言わずにいなくなるということはないと、そう思っていたはずだ。

 それはユキだって同じだ。

 ユウトは話し方から不真面目な印象に捉えられがちだが、仕事に真面目でスバルに対する忠誠だってあった。以前ユキがスバルの暗殺を指示していたアティシアを庇った時、スバルに対する忠誠のブレを指摘したのだってユウトだった。そんなユウトが何も言わずに勝手に出ていくなど考えられなかったのだ。


 ユキは執務室にあるユウトの机を見つめた。前までそこでユキとスバルと三人でくだらない話をしていたというのに。


「何か、事件に巻き込まれたのでしょうか……?」


 不安で思わず零れてしまった言葉に、ユキは後悔して口を押えた。

 最悪な状態を考え、心配しているのはスバルも同じだというのに。

 申し訳なく思い、スバルをチラリと見上げる。しかしそんな心配も他所に、スバルは何やら思案気な表情をしていた。


「……一つ、心当たりがある」


 スバルが呟いたその言葉に、ユキははっと顔をあげた。


「で、では、行ってみましょう! そこにユウトがいるかも!」


「……」


「スバル殿下?」


 長い付き合いであるスバルに心当たりがあるというのなら、ユウトがいるかもしれない。そう期待が高まり、ユキはスバルに詰め寄るように一歩前に出た。しかしスバルはユキとは違い、少し苦い表情をしながら、もう一度考え込むように顎に手を当てていた。スバルの反応にユキが首を傾げた瞬間、スバルは顔をあげた。


「いや、そうだな。そこしか今はねぇ。すぐに出るぞ」


「はい!」


 先ほど考え込んでいるスバルは気になったが、今はとりあえずユウトの行方を探し出す方が優先だと思い、ユキは深くは考えず、スバルの背中を追うように走っていった。



@@@@@@@@@



 ユキとスバルは王都に降り立った。王都は相変わらず活気づいていて料理店や街並みに露店が立ち並ぶ。美味しそうな匂いが街中に広がり、鼻孔をくすぐる。お互いローブを羽織り、顔が見えないようにフードを被る。一見怪しい二人だが、観光客の多いこの王都では異国の人間が多く、様々な格好をしている人が多い。ユキ達の恰好も変に怪しまれないだろう。


「……それにしても、最近人が多いですね」


 ユキはあたりを見渡しながら眉を潜めた。

 ここ王都ランタルでは、海岸沿いの観光地として海水浴や特産品のワインを使った料理や酒などが有名だ。だとしても先ほど王都を探索した時もそうだったが、最近はいつもより人が多い気がする。季節ごとに人の多さにはまばらが出るが、この時期だと夏に比べればもう少し人も落ち着いているというのに。人を避けて通るのも難しい、大盛況並みの人の多さだ。

 ユキの言葉にスバルはユキの前を歩きながら、顔だけ少し振り向き答える。


「ああ。近々ランタン祭りがあるから、それのせいだろう」


 ランタン祭り。

 かつてコントラス王国ができたばかりのころ。海が近いこの国では夜の海岸は暗く足元がおぼつかないせいで、怪我や事故、そしてその暗さに乗じた犯罪が多くあった。そのことを憂いたかつての住民たちが暗くても明るく、そして人の心も照らすようにと願いを込めて、家や路地に多くのランタンを置き、そして海すらも明るく照らされるようにとランタンを海に流したという逸話がある。それがこの王都ランタルの名前の由来なのだとか。逸話によると秋ごろにその出来事があったとされることから、毎年この時期には先人に倣って家に多くのランタンを灯し、そして海に流す祭りが開催されるようになった。


(そっか。もうそんな時期なのか……)


 ユキは改めてあたりを見渡した。

 去年もこの祭りは行われていたのは知っていたが、ユキはキリエルとの鍛錬に明け暮れていたので、祭りには行っていないし、ツクヨ家にいた時も外出を禁じられていたので、ユキにとっては初めての祭りだ。こんなに人が多くなるものだったのか。


 よく見ればいろいろな形のランタンが売られていて、恋人同士が仲良さそうにランタンを選んでいる。

 夜に灯すランタンの炎の揺らめきは、自然の癒しがあるし、さらに恋人同士だと雰囲気をよくするロマンチックさがあるのだろう。そのせいか、恋人同士でランタンを一緒に流すと永遠に幸せになれる、なんていうありきたりなジンクスもある。思わず街中を歩く恋人同士がちらほらと目についてしまう。仲睦まじい様子に、ユキは少しだけ羨ましくなった。今は任務中だからあんな風にははしゃげないが、今思えばこうしてスバルと街中を歩くのは初めてだ。任務中でなければ、きっと浮かれていた。今回は残念だが、今度はユキがスバルを街へ誘ってみようか。きっと楽しいに違いない。


 楽しい想像に、ふふっと笑みを浮かべているとすれ違う人の肩に、ユキの肩がドンっと勢いよくぶつかり、少しよろめいた。


「あッ」


 しまった。変なことを考えているせいで、注意散漫になってしまっていた。そのせいで前を歩いていたスバルとの距離があいて、ユキは焦って小走りでスバルの背に近づく。すると、それに気づいたスバルがユキの方に振り返り、不意に手を伸ばしてきた。


「ほら、はぐれるなよ」


「は、はい……」


 心配するように伸ばされスバルの手を、ユキはおずおずと掴んだ。

 婚約者の頃、足場の悪い庭の散歩道でも手を差し伸べられたことがあった。あの時もドキドキと緊張はしたが、今の方がもっとドキドキする。


 ユキはもうスバルに想いを伝えたのだ。


 伝えたうえで握ろうとするその手は、ユキにとって少し特別なように思える。

 しかし当の本人はユキのそんな心情を知らずに、何もないようにユキの手を握り返した。こちらはそんな少しの力でさえドキドキしているというのに、スバルは全く何も感じていないように見える。というより、本当にはぐれないようにと親切心で手を握ってくれているのだろう。ここでの反応の差が、二人の想いの違いを象徴しているようで、ユキは少し落ち込んだ。

 一応だが告白したというのに、意識もされていない。告白の直後にユウトの失踪が発覚したこともあり、スバルにとってユキのことを気にする余裕がないのかもしれない。


 ユキは落ち込むように溜息をついた。すると、前を歩いていたスバルが少しだけ視線をユキの方に向けた。


「……そういえば、髪隠してるんだな」


 スバルはユキが被っているフードに目を向けた。その時に少しだけ細められた瞳にドキッとする。その灰色に似た青い瞳で見られるとどうにもユキの胸は高まってしまうのだ。告白したというのもあり、前よりスバルを意識してしまう。

 その視線から逃れるようにユキは被ったフードをもう一つの手でぎゅっと下した。


「え、ええ。目立ちますし、王都では白銀の髪を持ってる女はスバル王子の護衛騎士だと認識している人が多く、おそばにいるとスバル様の素性が一発でわかってしまうので、それで……」


 ユキは、そうフードを強く被り直しながら答えた。

 以前、スバルがユキの技量を計るという建前で開催した試合で、ユキは初めて人前でその姿を見せた。女性が騎士になるというコントラス王国では異例の事態に貴族たちは動揺していたが、同時に興味本位で多くの貴族たちが試合を見に行っていた。その試合でユキが勝ったことと珍しい白銀の髪に、『白銀の髪の女騎士が第二王子のスバルの護衛騎士になった』と一時は王都中に広まったのだ。

 普通に歩く分には特に問題はないのだが、どうしても目立つし、スバルの護衛騎士であるユキが男性と歩いているとなると、どれだけスバルがローブで顔を隠していたとしても、自然とその男性がスバルではないかと疑われてしまう。だからユキはフードを被って髪を隠しているのだ。


 ユキはもう一度ぎゅっとフードを強く引っ張った。


「……勿体ないな、綺麗なのに」


「え?」


 ぼそりと聞こえたスバルの声に聞き返してみたが、スバルはもう前だけを向いて、ユキを見てはいなかった。

 しかしユキも聞き返しておきながら、はっきりと耳に届いていたのだ。


(綺麗、って……)


 心の中で復唱すると、ユキはかあっと顔に熱を帯びた。


 ほら、こういう嬉しいことを言う。

 この人はずるいのだ。


 そういえば前にもスバルはこの髪は嫌いじゃないと言ってくれていた。もしかしたらこの髪はスバルの好みなのだろうか。

 目の端を微かに掠める自身の髪に顔が綻ぶ。

 スバルが好きなものを自分が一つでも持っているということが本当に何よりも嬉しい。嬉しくて、それが伝わるようにユキはスバルと繋いでいた手をきゅっと軽く握った。

 大胆な行動をしてしまったかとドキドキしていると、スバルが突然振り向き、立ち止まった。それにつられてユキも足を止め、スバルを見上げる。


「あ、あの……?」


「……」


 首を傾げて見上げる。目が合ったスバルはぐっと苦しそうに顔を歪めていた。繋いでいた手をするりと離され、手に喪失感を覚える。寂しさを感じながらも、ユキはスバルの表情の意味を考えた。


 もしかして強く握りすぎたのだろうか。


 軽く握ったつもりだったが、力加減を間違えてしまったかもしれない。怪我をしていないかスバルの手を伸ばそうとしたとき、その手を避けられた。


「スバル様?」


「……悪かった。手なんか握って」


 ユキが呼びかけると、スバルは罰悪そうに顔を背けた。


「い、いえ、私は全然! こちらこそ強く握りすぎてしまったでしょうか?」


 『手を握る』という言葉に先ほどまでスバルの手のぬくもりを思い出し、ユキは顔を赤くしながら手を振った。しかし意識して顔を赤くしているユキとは対照に、スバルは先ほどの苦し気な表情を隠し、冷たい瞳をユキに向けた。


「……気にすんな。もう二度と握らねぇから」


 そう言って背を背けて歩き出すスバルを、ユキは茫然と見送った。


「……」


 ユキは少しムッとしてスバルの背中を少しだけ睨みつけた。


 なんなのだ。優しくしてくれたと思ったらこれだ。

 そっちから手を伸ばしたくせに。

 ――……嬉しかったのに。

 

 ユキは先ほど握っていた手を見つめた。

 大きい手だった。ユキの手がすっぽりと包まれるほどの。

 それが改めてスバルが男の人だと意識してしまい、なんだか少し恥ずかしい。


 けれど、スバルは違うのだろう。

 ユキのことなんてきっと何も思っていないし、告白しても、きっとそれは変わらない。


 ユキはぐっと手を握り、小走りでスバルの後を追った。少し人込みで見失いそうになったが、ユキがスバルの姿を見失うわけがない。

 スバルに追いつくと、ユキはスバルのローブの袖をぎゅっと握る。急に引っ張られたからか、スバルはユキの存在に気づき振り返った。


「おい」


 諫めるように声を掛けられるが、ユキはふんっとそっぽ向いた。


「手は握っておりません」


「……」


 イラついたような気配を感じたが、ユキはそっぽ向いたままスバルの顔を見なかった。

 これぐらいいいだろう。

 本当のこと言うと、ユキはもう少し握っていたかったのだ。

 それに二度と握らない、なんて急に言われて少し腹も立っている。何をしたというのだ。


 ふつふつと不満を心の中で呟いていると、はあっと重い溜息が頭上から聞こえ、ユキはチラリと横目で盗み見る。呆れたような複雑な表情をしたスバルは、ユキの手を払うことなく、そのまま進んだ。

 これは了承した、というより諦めたという感じだろうか。


 それでもいい。


 ユキは笑みを浮かべて、そのままスバルの後ろをついていった。



――――

―――――――――



 しばらく歩いていると、ある露店からいい匂いがしてユキは思わず立ち止まった。その際、袖を掴まれていたスバルの足も止まる。

 その露店はドーナツ屋だった。小麦粉と砂糖、バター、卵などを加えたリング状のもので、それを油脂で揚げた甘いお菓子だ。店に入らずとも露店ですぐに手軽に食べれるという事で、最近この王都で流行っているとメイドのサヤから聞いたことがある。

 確かに甘い匂いがして美味しそうだ。食欲がそそる。

 じっと見ていると、見かねたのかスバルがユキに話しかけてきた。


「……食べたいのか?」


「い、いえ! 任務中ですので!」


 じっと見ていたことが恥ずかしく、ユキは大慌てで手を振って否定する。しかしその瞬間、ユキのお腹からぐぅっと鳴る音が聞こえた。


「……」


「……」


「……昼時だったな。少し休憩するか」


「…………ハ……ハィ」


 そう気を遣うような素振りでスバルはドーナツ屋のすぐそばにある木陰のベンチの方へ向かった。しかし、そんなことより、ユキはあまりの恥ずかしさに顔を両手で覆った。


(恥ずかしい恥ずかしいッ! 殿下の前でお腹を鳴らすなんて!)


 しかもさらに言うならスバルが、お腹が鳴ったユキに気を遣うように、少し声を和らげたのが、なおのこと羞恥を増大させた。火が出るぐらい恥ずかしい。

 確かにお昼は食べてなかったし、街中を歩き回っていてお腹は空いていたが、まさかこんなタイミングで鳴るなんて。せめて人混みを歩いているときに鳴って欲しかった。

 そんな風に後悔しながら、スバルについていくようにベンチに向かい、腰を下ろした。木陰の涼しさに少し落ち着きふぅっと息をつくが、スバルがベンチにいないことに気づき、焦ってあたりを見渡す。そこで目の前に人の影ができたことに気づき見上げると、不機嫌そうな顔をしたスバルがユキに何かを差し出した。


「ほら」


 それは先ほどユキが見ていたドーナツだった。揚げたてなのか、ほのかに湯気が出ており、砂糖をまぶした甘い香りが胃袋を刺激する。お腹が空いていたので、ごくりと思わず生唾を飲む。


「……ありがとうございます」


 ユキはおずおずと手を伸ばし受け取った。もしかしてスバルがお金を払ってくれたのだろうか。護衛騎士なのに至れり尽くせりで、なんだか情けなくなる。

 しかしお腹も空いているのも事実。この目の前にあるドーナツの匂いを嗅いだだけで、またお腹が鳴りそうだ。ユキは意を決してまだ温かいドーナツにかぶりついた。


「……ッ美味しい!」


 噛んだ瞬間にジュワッと広がる油の感触。まぶした砂糖が舌を転がり口いっぱいにほのかな甘みが広がって、とても美味しい。揚げたてだから少々熱いが、この熱さの刺激も美味しさを奏でる要素なのだから、不思議だ。ユキはたまらずもう一口かぶりついた。空いたお腹にドーナツが染みる。

 もう一口かぶりつこうとして、ユキはふとスバルの方を向くと、スバルはじっとドーナツを食べているユキを見ているだけだった。その手にはドーナツを持っていない。


「スバル様は?」


「俺はいい」


 スバルは顔を逸らし、肘をついて街中を歩く人だかりを見つめた。そんなスバルをユキは見つめる。スバルだってお昼ご飯を食べていないはずだ。お腹を空いているに違いないはずなのに。

 もしかしたら食欲がないのかもしれない。ユウトがいなくなってから、ずっとスバルは働き詰めだ。ユウトが心配で捜索しているのもあるが、単純にユウトに任せていた仕事をスバルとユキでさばいているのだ。ユキも手伝ってはいるが、ユウトにしかわからないことはスバルの方に回ってしまうことが多い。そのため自然と負担はスバルの方に傾いてしまう。仕方のない事とはいえ、せめてユキのできる範囲でなんとかしてあげたい。

 ユキは食べていたドーナツを半分に割って、スバルに差し出した。


「では食べきれないので、半分いかがですか?」


「……」


 差し出したもう半分のドーナツを、スバルは振り向き眉を潜めてじっと見たが、やがてユキの手を取ってそのドーナツを受け取った。

 それにユキは満足げに微笑んだ。


 こんな無愛想なスバルだが、実は甘いものが好きなことは知っている。

 婚約者の時、王城の客間で談笑しているときはコーヒーとお菓子がいつも添えられていた。ユキのもてなしに用意されていたものかと思っていたが、どうやらスバルが料理長に頼んで用意させていると知ったのは、婚約者になってからしばらく後のことだった。

 きっかけは隣の街で珍しいお菓子ができたらしい、みたいな会話からだった気がする。サヤから聞いたことでただの世間話のつもりでユキから話を振ったのだが、スバルがいつもより少しだけ話に食いついてきたものだから、疑問に思ったのだ。

 いつもブラックコーヒーを飲むものだから、てっきり甘いものが好きではないと思っていたのだが、ブラックコーヒーはただの眠気覚ましなのだとか。それを不貞腐れたスバルから聞いたのだ。そういえばあのお菓子は普通より少し甘すぎていた気がする。ユキも甘いものは嫌いではないので、そこまで気にはならなかった。


 なんて少し過去に想いを馳せながら、ユキはふふっと少し笑いを漏らした。


 なんだか懐かしい。あの頃はまだ、お互い素直で、微笑みあっていたのに。


 今は、すごく遠くの記憶のように感じてしまう。


 それはユキが変わってしまったからだろうか。

 それとも――……



「お前、本当にやめる気はないのか?」


 少しだけ考え込んでいると、不意にスバルの声が聞こえ振り向く。そこにはいつものように目つきが悪く不機嫌そうな表情をしたスバルがユキをじっと見つめていた。その瞳には先ほどの苛立ちもなく、苦しそうな感情もなく、もちろん呆れなんてものもない。探るような、それでいて何かを訴えているかのような瞳だ。


 ユキも改めて表情を引き締めた。


「ないですよ。あなたの護衛騎士をやめたりなんてしません」


「……俺のそばにいると、またああやって泣くことになるかもしれないぞ」


「そうですか、では次は嬉し涙を流させてください」


 ユキは得意げに微笑んだあと、残りのドーナツにかぶりついた。


 何をどう言われようと、やめるものか。


 やめたらきっと、本当にスバルを理解しないままで終わってしまう。

 何もわからないまま、この人が何を隠しているのか知らないまま。

 あの時、カグネ王国から帰ったあの馬車の中、スバルは青白い顔色で、確かに震えていたのだ。

 何を恐れ、何に怯えているのか。

 ユキはそれが知りたかった。そしてその不安を取り除いてあげたい。

 苦しそうに、辛そうに顔を歪めるスバルを、ユキが助けてあげたかった。


 好きだから、大好きだから。優しいこの人を守ってあげたいのだ。


 そう思いながらユキはドーナツを頬張った。


「……なんで俺なんだ」


 ユキははっと目を開きながらスバルの方に振り向いた。

 それは普段のスバルから考えられないような、苦しそうな、呻くような、か細い声だったからだ。

 俯いた拍子に流れる黒髪がユキからスバルの表情を隠す。


「俺より、いい奴なんていくらでもいるだろ。なんで俺なんだ」


「……」


 なんで。

 そんなの、決まってる。

 あの日、初めて出会ったあの日からずっと、不意に見せるあの笑顔に、涼し気な眼差しに、不器用な優しさに。

 一目で心を奪われてしまったのだから。


「……そういうところ、でしょうか」


 ユキはふっと笑みを浮かべた。


「スバル様が泣くことになるって注意してくれたり、いい奴がいるって勧めてくれるのは、私の幸せを想っての事ですよね?」


 好きな人からいい奴がいる、なんて言われたら怒るところなのだろうが、ユキはそんな風には思わない。

 スバルが不器用で、そして優しいことをユキは知っている。だから、こうして突き放すように言うのも、裏を取ればユキの幸せを考えてのことだと、そう思うのだ。


 だから、これはきっと間違いなんかじゃない。


「私はスバル様のそういう不器用なところが、その……いいと思うのです」


「……」


 さすがに二回も『好き』と言うのはまだ恥ずかしく、ユキは赤くなった顔を隠すように下を向いた。少し言葉を濁してしまったが、きっと伝わっただろう。


「泣いてもいい、傷ついても構いません。私はあなたをもっと知りたい。もっと知って私も知ってもらって。そうやって、そばにいたい。だから――……」


「俺は御免だ」


 言葉を言い終える前に、遮るようにスバルの言葉が降ってきた。怒鳴られたわけでも、大きな声で遮られたわけでもないのに、言葉の中にこれ以上言うなと、そんな力強さが感じられた。

 見上げたスバルの顔は今にも泣きそうに、歪んでいた。


「泣くのも、泣かれるのも、傷つくのも、傷つかれるのも。俺はお前が思うほど、優しい奴なんかじゃない。優しい奴は、あんな風にお前を泣かせたりなんかしない」


 矢継に話される言葉に、ユキは茫然と見つめる。


「俺に何かを望むのはやめろ。俺は何もお前に返してやれない。……返してやりたくてもな」


 そう言ってスバルはユキのあげたドーナツを渡し、立ち上がった。


「俺じゃ、ダメなんだ。だから、お前も早く諦めろ」


 振り返りもせずに、スバルはユキを置いて歩き始めた。ユキの手には、先ほど分けたドーナツだけが残った。もう冷めきっている。

 まるでユキが伝えた想いを返したかのように思えて、ユキはぐっと眉を潜めた後、勢いよく立ち上がった。


「……ッわからずや!」


 どうして、なんで、そんなに頑なにユキがそばにいることを認めてくれないのか。

 どうして、何も話してくれないのか。


 ユキが頼りないからだろうか。

 もっとユウトのように頼りがいがあれば、頼ってくれただろうか。

 それとも好きだと言ってきたからだろうか。気持ち悪いって思われたのだろうか。

 それでも、頼って欲しいのに。知りたいのに。助けになってあげたいのに。守ってあげたいのに。


 諦められないから、想いを伝えたのに。


 自分の不甲斐なさと、スバルに対する憤りで、ユキは背を向けて歩くスバルに叫ぶ。しかしスバルは一瞬立ち止まったものの、そのまま振り返らず歩いていった。



――――

―――――――――



 スバルはユキに背を向けながら、歩いた。


 わかっていた。

 スバルのそばがユキを傷つけることになることは。

 だから離れさせたのに、それでもユキもそばにきてくれたから。甘えて、ずるずると曖昧にさせたまま、ここまで連れてきてしまった。

 けれど、カグネ王国で傷ついて泣いていた彼女を見て現実を突きつけられた。


 自分では彼女を幸せにできないのだと。


 せっかくの美しい白銀の髪をスバルのせいで隠し、おしゃれをして街を歩くという女性らしい楽しみもスバルは満足に与えてやれない。本当はそんなフードで隠すなんてもったいないものなのに。

 ユキの髪は太陽の光に反射し、まるで湖畔のようにきらきらと輝く。逆に夜の時は、月光に照れされまるで夜空のように淡く光るのだ。美しく、おそらく街中で歩けば誰もがその神秘的な雰囲気に振り向くだろう。それなのに、スバルのそばにいるせいで、堂々と歩くこともできない。そんな自分が情けない。


 自分がユキに与えられることなど一つもない。幸せさえも、与えてはやれない。


 スバルはふと一瞬ユキと繋いでいた手を見つめた。

 何も考えずに、握ってしまった。そんなこと、する資格もないというのに。

 握ってしまった手を後悔する。

 思わせぶりな、期待をさせるような行動をしてしまった。

 それはユキにとって残酷なことだ。


(俺も諦める。だからお前も早く諦めろ)


 一瞬でもユキと二人で幸せになる未来を望んだ、スバルが馬鹿だったのだ。


 いずれは王子という身分を返上して、気ままに二人で異国の地をまわる旅に出る、そんな叶いもしない夢を、一瞬でも夢見た自分が、馬鹿だったのだ。



 馬鹿な自分に少しだけ自嘲しながら、スバルは前だけを見て歩く。


 もう、決して振り返ることはない。


 冬の前触れを知らせる少し肌寒い秋風が、二人の間を分かつように強く吹いた。


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