21.手を差し伸べる
ヒュイス達に見送られてから一日が経った。コントラス王国からカグネ王国の道のりは二日かかる。なのでもし到着するとしたら今日の昼ごろにはコントラス王国に到着する予定である。
そんな中、スバルとユキは行きと同じように馬車に揺られながら、向き合って座っていた。
二人の間には重い沈黙が続いていた。もちろんお互い事務的な会話はしていたが、こんな風に同じ空間に長くいることなどあの喧嘩以来なかった。スバルはその気まずさを誤魔化すように、意味もなく馬車についている小さな窓を見ていた。
「……そういえばユウトのお土産買いそびれましたね」
「……ああ」
先に沈黙を破ったのはユキだった。気まずそうにしているスバルとは違い、ユキは落ち着いており、スバルに優し気な笑みを向けた。それにスバルは内心困惑する。どうして彼女は今もそんな笑みをまだスバルに向けてくれるのだろうか。
そんなスバルの内心を読み取ったようにユキは苦笑いをしながらも、話を続けた。
「お酒を飲む約束もしてましたし、カグネ王国産のお酒を買うのも悪くなかったかもしれませんね」
「……お前」
約束。
それはカグネ王国に行く前にユウトとした約束だ。帰ってきたら三人で飲み会を開こうという約束。
お酒を買うということは、ユキはユウトとの約束を守る気でいるということだ。つまりそれはユキがまだスバルの護衛騎士でいるつもりであるということ。
その事実に驚いたように目を開いてユキを見ていると、ユキは目を細めて笑った。
「やめませんよ、私」
優しい瞳、優しい声で、ユキは告げる。
スバルは信じられなかった。
どうして、なんで、そんな言葉だけが頭の中で浮かぶ。
あれだけスバルに対して怒っていたはずだ。ユキを蔑ろにしていたはずだ。
「どうして……」
思わず零れた言葉。誰に問いかけるでもない、消え入りそうな声で、スバルは茫然と呟く。しかしそんなスバルとは対象にユキは優しく微笑むばかりだ。
「約束、しましたから」
『誓いましょう。私は決してあなたのそばから離れたりしない。あなたを守って見せます』
ああそうだ。あの日、あの夜、彼女は俺に跪いて誓いを立ててくれた。それを、その誓いを必死に律儀な彼女は守ろうとしているのだ。例え傷つけた相手であろうと、嫌いな相手であろうと。彼女はその誓いを守り通そうとしてくれている。
今度こそ、間違えない。
彼女の誠意に、スバルは応えなければならない。
例え、ユキにもうスバルへの気持ちがなくなったとしても。
彼女はきっとがっかりしただろう。こんなスバルを、ユキを大事にできない、自分ばかりに必死なスバルなど。
スバルは今度はちゃんと目の前に座っているユキに向かい、頭を下げた。
せめて、態度と言葉で彼女の優しさに応えよう。
「……ユキ、今回は、本当に悪かった。俺の勝手で他の奴らにも迷惑をかけた」
「そうですね。けど、大丈夫ですよ。殿下をお守りすることが私の、私たちの役目ですから。迷惑ぐらいかけてもいいんですよ。それぐらい、王子なんだから当然のわがままです」
ふふっとユキは楽しそうに笑った。それがなぜだかスバルにとっては少し不気味に感じた。
先日までユキはスバルに怒っていたはずだ。ユキはスバルを助けるためにあらゆる手段を使い、尽力をつくしてスバルのもとに駆け付けてくれた。それを踏みにじったのは誰でもないスバル自身なのだ。それは本当に勝手で、自分の中にある葛藤を正当化させたいがためのものだった。王子であるスバルの立場で何かあれば周りがどう影響するかなどわかっていたはずなのに。それでもスバルは自分のことを優先させた。スバルの護衛騎士であるユキがどれだけ頑張ったかも知らないで。
「……どうして俺を許す?」
笑っているユキがあまりにも痛々しくて、スバルはぐっと顔を歪ませた。
「お前は言っただろう。疲れたって。俺に失望したって、言ってただろう。それなのに、なんでまだ、俺のところにいようとするんだ……」
確かに彼女は言った。スバルに失望したと、スバルが何を考えているのかわからなくて疲れたと。そばにいると言ってくれた優しいユキを、スバルはまた傷つけて、突き放した。
すると、ユキはうーんっと小首を傾げ悩む素振りを見せた。
「……あれ殿下ですよね?」
「……? なんのことだ」
スバルが眉を潜めると、そんなスバルがおかしかったのか、ユキはふふっと控えめに笑った。
「タクミに不意を突かれたとき、タクミの肩に矢が飛んできたんです。あのマントの男、殿下でしょ?」
「……」
スバルは少しだけ瞠目した。
まさか気づかれているとは思わなかった。マントもしていたから顔も見えなかったはずなのに。
あの時スバルはユキとタクミの戦闘を遠くから見ているしかなかった。なにか援護はできないかと弓矢を構えていたが、あまりにもユキの速い動きに、逆にスバルのその援護自体も邪魔になると思い、思いとどまっていたのだ。だから決着がついたとき、正直スバルも気が抜けていた。しかし背後からタクミがユキに斬りかかろうとしている姿を見て、スバルの身体は勝手に動いていた。気が抜けて下ろしていた弓矢を引き、タクミに目掛けて矢を放っていた。
「おかげで助かりました。もし殿下が気になさるなら、これでチャラってことにしましょう?」
そう首を傾げて微笑むユキに、スバルは納得できなかった。
ユキを助けることは当然だ。
いや、もしかしたらスバルの助けがなくとも、ユキはあの状況でもなんとかしてしまったかもしれない。それでも、あの時スバルが何もしないという選択はなかった。
それなのに、ユキはそれとスバルが彼女を傷つけたことと同じ重さだと言った。だからそれでスバルを許すと。
そんなことで、代償になるというのか。そんなわけがない。
「……なんで……」
「納得、できませんか……?」
「……」
あれはただ射てたから射っただけだ。タクミがスバルのいた方向に背を向けていて、なおかつスバルの存在に気づいていなかったから、射てたのだ。おそらくユキであればあのぐらいの油断、対処できただろう。スバルがただのお節介を焼いただけだ。
射てたから射てた。ただそれだけなのだ。
それだけのことが、ユキにしたことと釣り合うとはとても思えない。
そう悩んでいると、ユキはふっと笑みを浮かべた。
「やっぱりあなたは優しい人だ」
「は……?」
スバルはわけがわからず眉を潜める。
ユキは何を言っているのだろうか。さっきの話でどうしてスバルが優しい、ということになるというのか。
これだけ酷いことをしたスバルを、どうして『優しい』など言えるのか。
優しいのは、そんなスバルを許そうとしているユキなのだ。
けれど、怪訝そうにしているスバルに、ユキは苦笑いをすると少しだけ目線を下げて、自分の膝に乗せた指をいじった。
「私の知ってるあなたは、ちょっと捻くれてて無愛想で口が悪い。器用になんでも卒なくこなすし、頭が良くて、他人なんかどうでもいいって態度をする冷たい人」
楽しそうな、明るい声で、ユキは過去を思い出すかのように目を伏せた。
「けど本当は心配性で、世話焼きで、なんだかんだ他人を放っておけない優しい人。器用な癖に人に優しくしようとするときは不器用で、わかりにくい人」
そう言うとユキはゆっくりと目を開き、苦しそうに顔を歪めているスバルに顔を向け、安心させるように微笑んだ。その瞳に、以前に向けた冷たい感情は一切なかった。
「私は、それを知っています。いえ、知っていたんです。知っていたのに……」
「買いかぶりすぎだ。俺は……」
「いえ、殿下。あなたが優しいから、私の先ほどの提案に納得されなかったのです。あなた自身が私を傷つけてしまったことに、まだ申し訳なく思っているから。それはあなたが優しい証拠だと、私は思うのです」
「……」
思わず目を逸らしそうになる。ユキの優しい言葉に、優しい気持ちに。そんな感情を向けられる資格はないのに。
スバルはユキが言ったような人間じゃない。
ユキがなんとスバルを庇おうと、スバルがスバル自身を許せずに、一番に嫌悪しているのだから。
「……スバル殿下」
ユキの顔を見てられずに視線を下に向けていると、おもむろにユキに名を呼ばれ顔を上げる。
どんな表情をしていたのだろう。顔を上げたスバルにユキは一瞬目を開いた後、困ったように微笑んだ。子どもがした失敗を仕方がないなぁと笑って許す母親のような、そんな微笑みだった。なんだかバツが悪くて、また少しだけ視線を落とす。
「スバル様」
また名を呼ばれた。こっちを見ろ、ということだろうか。
スバルはもう一度顔を上げてユキを見た。そこには何度も目を逸らしてるスバルとは対象的に真っ直ぐにスバルを見つめていた。
そこで気付く。
ユキが『スバル殿下』ではなく、『スバル様』と名前で呼んでいることに。
その呼び方は、ユキがまだ婚約者だった頃の呼び方と一緒だった。
その時、ユキは信じられない言葉を発した。
「好きです。スバル様」
――……一瞬、時が止まったのかと思った。
「……は」
信じられない彼女の言葉。彼女がスバルに言わないであろう絶対的な言葉。
それなのに、その意味を理解した途端、心臓がどくりと鳴った。
「好きなんです。ずっとあなたが好きでした。婚約破棄されてからも今もずっと、私は……」
頬を少し赤らめながらユキは必死に言葉を紡ぐ。その表情に、その声に、想いを乗せて、スバルに伝わるようにと。
「護衛騎士になったのは、本当は嫌がらせとか仕返しなんかじゃありません。ただ、どんな形でもあなたのそばに来たかっただけなのです」
「……ッ」
知っている。知っている。
けれど、もうそれは過去のものだ。今はもう違っているはずだ。
ユキはもう、スバルのことなど微塵も想っていないはずだ。
あれだけの仕打ちをして、あれだけ泣かせた。それなのに、まだそんな想いが残っているはずなどあるはずがない。
ユキは勘違いしているのだ。
ただ約束を守ろうとするために、そうユキが思いたいだけに違いないのだ。
だから、おかしいのだ。
こんなにも胸を打つようなことは、スバルの心を揺さぶるようなことは、あってはならないのだ。
「だから、私は……」
「いい加減にしろよッ‼」
続けて言葉を紡ごうとしたユキを、スバルは遮るように怒鳴った。
「お前がうざくて婚約破棄したってのに、のこのこ戻ってきて、護衛騎士になんかなって、それでも役に立つから今までは置いてただけだったのに、好きとか言ってきやがって、いい加減気持ち悪いんだよ‼」
もう何も聞きたくない。
自分を慕うようなユキの言葉。それはスバルにとってとても幸福なことで。けれど、同時にとても不釣り合いなものだった。
誰かに慕われるような価値など、自分にはないのだ。
だから、スバルは突き放す。
いや、突き放さなければスバルが壊れそうな気がした。
「いい加減、俺の前から消えろッ!」
「……」
「……ッ」
狭い馬車の中、スバルの怒鳴る声が響く。しかしユキは何も言わず、悲しそうに泣きそうに目元を歪ませていた。そんなユキの表情にスバルはぐっと歯を食いしばった。
突き放すために出た思ってもみない言葉。どうしてユキがスバルに想いを伝える気になったか知らないが、勇気を出して伝えてくれた想いをスバルは無下にした。
もっと、何かうまい言い方があったのではないだろうか。こんな感情的な言葉でなくとも、もっとなるべくユキが傷付かずに済む言葉があったのではないだろうか。
もっと、もっと、何か――……
「……スバル様」
後悔に苛まれている中、名を呼ぶ声が聞こえる。傷つけた、彼女の声だ。しかし、その声に落ち込んだ色はない、凛としたいつもの彼女の声だった。
恐る恐る、スバルはその声の方向に顔を向ける。しかしそこには、先程の傷ついた表情はなく、射抜くように真剣な眼差しでスバルを見ていた。
「そちらにいってもよろしいでしょうか」
「は……?」
何を言われるか身構えていたのに、ユキは脈絡のないことを聞き出した。それに呆気を取られていると、ユキはスバルの回答も聞かずに席を立ち、スバルの横に座った。あまり広くない座席で、ユキとスバルの距離はお互いの手が触れそうな程に近い。それに少し身構えて距離を取ろうと身動ぎをとったその時、ユキがふいにスバルの手を握った。
「なッ」
「……やっぱり」
突然手を握られて驚いているスバルを他所に、ユキは納得したように握った手を見つめ、スバルを見上げた。
「何を、恐れているのですか」
「ッ‼」
真っ直ぐな、迷いのない瞳で問いかけたユキに、スバルは息を飲んだ。
それはとても突拍子のない問いだった。先程、告白をし突き放された後に問われる言葉ではなかったはずだ。他の人なら頭をひねるような問いに、スバルだけは心臓がひやりと冷えた感覚がした。
恐れているのは、ユキがスバルに近づこうとしていること。スバルを知ろうとしていること。そしてそれでユキを傷つけること。そしてスバルのそばに居続けた結果、ユキが不幸せになること。
それがスバルには何よりも恐ろしい。
「あなたは先ほど、私がうざくて婚約破棄されたと言っていました。けど、私はあなたがそんな理由で婚約破棄を……私を切り捨てたりなんかしない」
美しい黄金の瞳が、動揺しているスバルを映す。
「私が知ってるあなたは、そんなことできる人じゃない!」
違う。違う、違う。
できる、できるのだ。例え婚約破棄した理由は違えど、ユキを傷つけることが、突き放すことが、切り捨てることが。現に今、酷いことを言って傷つけて、突き放そうとしたじゃないか。
必死に伝えようとしているユキに、スバルは逃げるように手を引こうとするが、ぐっと手を強く握られ逃れられない。それに少しだけ苛立った。
「ッ思い上がりもいい加減に……ッ」
「思い上がりでも!」
否定しようとした言葉を、より強い言葉でスバルの声を遮る。
「思い上がりかもしれないけど、けど、だってスバル様が、私よりも傷ついた顔、してるから」
そう言ってユキは切なげに目を細め、スバルを見上げた。そんなユキにスバルは目を開く。
傷ついてる?
違うだろ。一番に傷ついてるのはユキだ。
もしそんな顔をしてるにしろ、その資格がスバルのどこにある。
するとユキは、握っていたスバルの手を見つめた。
「手だって震えてる。今目の前にいるあなたが。あれは、本当に本心からの言葉だったのですか……?」
「あ、当たり前……だろ」
手が震えていることに初めて気づき動揺したが、かろうじてユキの問いに答える。
突き通さなければならない、この嘘を。
知られてはいけない。見せてはいけない。
怖がってばかりの、こんな情けない自分など。
だから好きだなんて言わないでくれ。
自分も好きなのだと、応えてしまいそうになる。
こんな自分のそばにいては、また傷つけて泣かせてばかりで、幸せに出来ない。
スバルはそれが一番怖いのだ。
しかし、ユキはそんなスバルの思いとは裏腹に、言葉を紡ぎ続ける。
「スバル様が私を好き、なんて思っているわけではありません。……ただ、ただ私が鬱陶しいという理由で、あなたは私を、いえ私でなくとも、あんな蔑ろにはしない! 意味もなく放り出したりしない!」
必死に、一生懸命に、ユキはスバルの心に、一歩また一歩と足を進める。
スバルはユキに碌な言い訳も聞かずに一方的に婚約を破棄した。それをユキはおかしいと言っているのだ。
スバルなら訳も聞かずに、一方的に突き放すようなことはしないと。
そこには何か理由が、意味があるのではないかと。
スバルにはわからなかった。
スバルの何が、そこまで彼女を突き動かすのだろうか。
スバルが何をしたというのだろう。何をしてあげたというのだろう。
わからないけれど、良いのだろうか。
このドロドロした重い感情をぶち撒けても。
優しい彼女に縋っても――……
「何を、隠しているのですか……?」
「……」
心配そうに見上げるユキに、その濁りのない美しい瞳に、スバルは握られてる手の力を抜いた。
もう、何もかも言ってしまおうか。
そうしたらきっと楽になる。
このしがらみから解放されるはずだ。
だから――……
「俺は……」
『ねえ、スバル。永遠なんてものはね、存在しないのよ』
しかし口を開こうとしたその時、脳裏に浮かんだのは母の死顔と口癖のように時々言っていた言葉。
永遠と思われた愛すら失い、死を安らぎとすら感じてしまった母の姿が走馬灯のようにスバルの頭を駆け巡る。
伸ばしかけた手を、母が止めたように感じた。
ガタンッ!
そう突然音を立て馬車が止まった。それに驚き、お互い身体が揺れる。すると御者が馬を宥めているのが聞こえた。
「スバル殿下。御到着です」
馬車の扉の向こうから、先に降りた兵がコントラス王国に着いたことを知らせてくれた。それにより、ユキとスバルの会話は途切れ、沈黙だけが残った。気まずい雰囲気が出るかと思ったが、ユキはすぐに立ち上がり、馬車を先に降り、スバルに振り向いた。
「殿下、どうぞ」
「……」
そう言ってユキはスバルに手を差し伸べた。
それはまるで、スバルの心に手を差し伸べているかのように。
スバルはその光景にぐっと辛そうに顔を歪めた。
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ユキは苦しそうに顔を歪ませるスバルに、目を細める。
私はあなたが知りたい。
あなたは優しすぎるから、不器用だから。
きっと自分が傷つくことをいとわない人だから。
だから、守りたいと思ったのだ。
そばにいるために守っていたのではない。
あなたが好きだから、守りたいとそう思ったのだ。
けれど、あなたは今も私に何かを隠している。
それはきっと優しい殿下らしい、不器用な殿下らしい、優しい嘘なのではないかと思うのだ。
私は諦めない。
あなたを守ることも、あなたを好きでいることも。
いつか、あなたを振り向かせる。
できなければ、苦しくて、辛いことは知っている。
それでも、私はあなたに好きになって欲しい。
押し付けているこの気持ちを、あなたは気持ち悪いと思うだろうか。
それでも諦めるのは、頑張れるところまで頑張った後でもいいのではないだろうか。
かつて戦友の父がそうであったように。
傷つくのが怖かった。婚約破棄されたあの時の、足元が無くなったかのような絶望と心が押しつぶされるような苦しみや惨めさは、もう嫌だった。二度と味わいたくはなかった。
だから諦めたふりをした。せめてそばにいることだけが自分の望みで、もうこれ以上は望まないと。そうやって自分を偽っていれば、いつかは本当になって、あんな絶望を味わうことない。きっと手を伸ばせば、また傷つく。
けど、それだけじゃ嫌だった。
最初はそばにいるだけでよかったのに、あなたのことがもっと好きになった。
無愛想で捻くれ。そんなあなただけど、時々見せる優しさがたまらなく好きで、執務室で一緒に仕事をしているとき、時々気遣うような視線が、優しくて、好きだった。
だから、まだ怖いけど、どれだけ傷つけられても構わない。
きっとまた泣くだろう。
喚き散らすだろう。
怒るだろう。
けれど、もう覚悟を決めたのだ。
自分が傷つく覚悟を、あなたに疎ましく思われる覚悟を、あなたに嫌われるかもしれない覚悟を。
好きでもない女に、好きだと言われ、付きまとわれるのは嫌だろう。
けど、それしか今はわからない。
こうやって頑張るしか、わからないのだ。
嫌がるだろう。もっと嫌われるだろう。
けど、それでも、傷つかないことに安堵し、何もしないことに後悔するよりも、傷ついて泣いて、邁進してやり切る方が、きっと一番後悔しない方法だと思うから。
それにそう言った行動が、決して悲劇になるわけではないと知った。
『自分の幸せのための努力をした方がいいよ』
かつてヒュイスの言った言葉を思い出す。
そうだね、ヒュイス。
私は、決してあの人を不幸にしたいわけじゃない。
私もあの人も、幸せになれる道を、見つけるだけだ。
私は、あなたに誓う。
あなたのそばに居続けて、私があなたを幸せにすると。
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手を差し伸べ続けるユキに、スバルは苦しそうに顔を歪めながら目を伏せた。
俺はお前を一番にできない。一番に大切にしてやれない。
それが今までの自分の行動から出ている。
初めは兄のために。そして二度目は自分のために。
これが最善だと思う事が、すべて裏目にでて、ユキを傷つける。
だから、早く愛想をつきて、離れてしまえばいいのに。
最初は俺が王になることで彼女を王族にしてしまうことを恐れて突き放した。それでも一度は手に入れようと思った。しかしスバル自身が彼女を決して幸せにできないのだと、悟ったのだ。だから今度こそ本気で突き放そうと思ったのに。
優しいお前はまだ、俺を想って、俺のそばにいようとする。きっとあの婚約破棄の真実を言ったら、優しすぎるお前はきっと心配して俺のそばに居続けようとするだろう。
ダメだ。絶対に。
母のようにはしない。
母のようなことにはさせない。
彼女が好きなのだ。
だから、俺の隣で泣かないでほしい。
きっと俺の隣だと、たくさんの涙を流させてしまうから。
俺は、いつも選択を間違えるから。
だから――……
俺は、お前に誓う。
俺のそばを離れさせて別の誰かの下で、お前を幸せにして見せると。
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スバルは馬車から顔を出し、馬車を降りた。ユキが差し伸べた手を掴まないまま、スバルはユキの横を通り過ぎた。ユキはその背中を切なげに見つめた。
「……そんなに上手くはいかない、か」
そう寂しそうに呟き、差し出した手を固く握るのだった。
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兵たちからの軽い出迎えから、スバルとユキはお互い何も話さずに執務室に向かった。ユキは少し恥ずかしそうに下を向いてスバルについてきている。その様子をスバルもチラリと横目で見ると、憂いたように目を少し伏せて何も話さなかった。
そのまま二人とも妙な雰囲気を醸し出しながら、スバルはいつもの執務室の前まで来て扉を開ける。
「戻ったぞ、ユウト」
そう声をかけながら部屋に入り、いるであろう人物の名を呼んだ。
「……ユウト?」
しかし部屋に入ると、そこに誰一人いなかった。綺麗に整理されたスバルの机と作業用のユキとユウトの机があるだけで、ユウトの姿はどこにも見当たらなかった。その光景に続いて入ったユキも首を傾げる。
「出かけている、のでしょうか?」
「昼時だしな。飯に行ってるのかもしれねぇな」
そうスバルが先ほどの気まずさを他所に答えながら、少しだけ違和感を持っていた。スバルの机はともかくとして、ユウトの机が綺麗にされているのが気になった。ユウトにはここでスバルの代打とカグネ王国の密偵捜査、あとエイシの様子を見るように頼んでいる。ならユウトの机に仕事中の名残があってもおかしくないはずだ。それにこの部屋に入った時、少しだけ湿気交じりのこもった暑さがあった。いくら戸締りをしたと言っても、あまりにもこの部屋に熱っ気がこもっていた。
しかしユキはスバルの返事に素直にほっとして笑った。
「そっか。そうですよね、ユウトが帰ってきたらびっくりしますね」
「……そうだな」
スバルはそう答えながら、ユウトの机に触れた。
触れた指には、少々埃がついていた。
その日、いくら待ってもユウトが帰ってくることはなかった。
――……それから半月。
ユウトの姿を見た人は、誰一人いなかった。
第二章終了です!
読んでいただき、ありがとうございます!
やっと二人の関係が動き始めました。
二人の関係の一歩にカグネ王国、もといヒュイスの存在は特に大きかったです。
お互い色々悩んでましたが、ユキにとっては大きな影響で一歩踏み出す勇気をくれた存在です。
さて、スバルを面倒くさい奴と思っている方が多い、というか実際そうなんですが。
あの子は母の死がだいぶトラウマになってるのです。大切に出来ないとああなる、傷つけ続けるとああなる、王妃の末路はああなる、と色々見てきて、なおかつユキをそうしたくないからこそ怖いと思うんですよね。どうか嫌わないで 笑
もしよろしければ、コメント、評価、感想等いただけたら嬉しいです!
よろしくお願いいたします!