14.忘れていたこと
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(言ってしまった……。きっともっと嫌われてしまった……)
ユキは先ほどスバルに放った言葉を思い出しながら、後悔していた。
朝日が昇ったが、まだ早朝で冷える。昨夜の薄着のままでいたものだから、思わず腕を撫でる。けれど身体だけではなく、今は心も冷え切っている。これは腕をさするだけでは暖かさが戻らない。胸に広がるのは、冷たい後悔と悲しみだけだった。
あの時は必死だった。
ユキはあの戦闘の後、重傷のセトウを城まで運んだ。浅い息を繰り返していたセトウが、だんだんと呼吸音が弱くなっていくのを感じながら、ユキは必死にセトウを城に連れ帰った。その後城で待機していたウェジットの対応により、セトウは今治療を受けている。
ユキはそのあとすぐにヒュイスを攫ったタクミの情報を得るために、センたちのアジトに急いで向かった。するとそこにタクミがいたのだ。楽しそうに、笑っているタクミが。
その姿を見た時、一瞬で怒りが湧いた。
セトウを傷つけた男が楽しそうに笑っている。
それが、許せなかった。
だからユキは一緒に来ていたウェジットを置いて、タクミのもとに突っ走った。
ああ、あの時、キリエルに稽古をしてもらった時、笑みを教えてもらってよかった。
あの時笑みを浮かべたから、自分の感情をいくらか抑制でき、古城の時とは違い自分の力を発揮して戦えた。あの感情のまま戦っていれば、おそらくユキはタクミに負けていただろう。そのおかげでタクミを追い詰めることができた。しかし油断してタクミに逃げられ追いかけようとした時、誰かに止められそうになった。その妨げにイラつきユキは思わず相手の顔を見ずに攻撃をした。
それがスバルだと分かった時、どれほどユキが絶望したか。
あの時のユキの心はもう限界だったのだ。
ユキのせいでヒュイスが攫われた後悔
ユキのせいでセトウは生死を彷徨っているという恐怖
そしてスバルは自分を必要としていないかもしれないという不安を抱えて。
やはり、スバルは無事だった。
無事で、センのもとにいたのだ。助けようとしていたユキのもとに戻らずに。
そう思った瞬間、スバルに対して初めて憎しみを抱いた。
同時に怒りが湧いて、悲しみが広がり、涙が込み上げてきた。
この感情をどうすることもできず、笑みを浮かべようとしても抑えられなかった。だからスバルを目の前にしたユキはもう感情を抑えることができず、そのままをスバルにぶつけたのだ。
スバルが何か言おうとしていたけれど、もう疲れて、どうしてと考えるのも億劫で、もう何も聞きたくなかった。
だから諦めることにした。
誓ったけれど、そばにいると約束し、そうありたいと望んだけれど。
こんな気持ちでスバルに仕えることはもうできないと思った。
無下に婚約破棄をされて、護衛騎士としても必要とされていないのなら、ユキのいる意味はない。どれほどユキが望んでも、こんな気持ちになるのであれば、もう、無理だ。
ただ、最後に一瞬だけ見たスバルの表情が、とても苦しそうで悔いているような、そんな表情をしていたから。少しだけ、気になってしまった。
ユキは、スバルの表情を思い出しながらウェジット達がいる方へ歩いていくと、なぜかウェジットは先ほどの噴水の近くではなく、路地裏の通りの近くにいた。それに、ユキは顔をしかめた。後をつけられ、先ほどの会話を聞かれていたのはすぐ分かったからだ。
ユキがウェジットの前で立ち止まると、ウェジットは心配そうな表情でユキを見下ろした。
「良いのですか?」
いつもの厳格そうな声とは違い、優しい声色で問いかけてきたウェジットに、ユキは不快に思って眉を潜め、ウェジットの視線から逃れるように顔を背けた。
「……関係ないだろう」
そう突き放すように言ったがそれでもウェジットはじっとユキを見下ろした。
「後悔しないのですか、それで」
「関係ないって言ってるだろ⁉」
ズカズカと何も知りもせずに勝手なことを言うウェジットにイラつき、ユキは思わず怒りに任せて声をあげた。見ていたとはいえ、事情も知らないましてや隣国の者に何がわかるというのか。これはユキとスバルの問題だ。こんな風にいたずらに口を出されてもユキをイラつかせるだけだった。心配してくれているのかもしれないが、余計なお世話だ。
そう思いながら睨みを利かせていると、ウェジットはふと笑みを浮かべた。
「こう見ると、あなたも幼いな」
「何?」
急に浮かべた笑みに、言葉に、ユキはまるで馬鹿にされているように感じてさらに顔を歪ませた。しかしそれに対しウェジットは苦笑いを浮かべながら手を振って否定した。
「ああいや、馬鹿にしておるのではないよ。ただ、今もそうだが、君がセトウを運んできたときも、君が泣きながら助けを求めていたときも、城で見た勇ましい姿とはあまりに真逆で、少々驚いたのだよ」
「……」
ユキはふとあの時のことを思い出した。
『お願い!……お願い助けて! セトウが……ッ!』
タクミとの戦闘のあと、まだ息があったセトウを引きずるように背負い、カグネ王国の城まで戻ってきた。あの時はもう必死で、自分の弱さに打ちひしがれていて、セトウが死んでしまうのではないかという恐怖に支配されて、自分を繕っている余裕などなかった。涙も隠さず、さぞ情けない姿だったに違いない。
今、セトウは城の救護班のところで治療を受けている。全力を尽くしてくれているだろうが、助かるかは、不明だそうだ。
あの時ほど、自分を殺したくなった時はない。もっと力があれば、心がもっと強ければ、セトウはあんなことにはならなかった。
あの時、怖くて怖くて仕方がなかった。
けどそれは、タクミに対してではない。
自分もこんな風に死んでしまうのではないかという恐怖に支配されたのだ。
今まで戦っているときは、そんなこと考えなかった。会場での戦いも、古城での戦いも、スバルを守るのに助けるのに必死で、考えてる暇なんかなくて。
けれど、身近な人の死を見せつけられ、初めて自覚したのだ。
自分の死も、この戦闘で左右させられるのだと。
そしてそれは、等しく平等に訪れるものなのだと、初めて悟ったのだ。
死にたくなかった。あんな風に殺されたくなくて、怖かった。
ただそれだけの感情で、自分の保身を優先してしまったばかりに、セトウは傷つけられ、ヒュイスも連れ去られてしまった。
すべてはあの時生まれた弱さのせいで――……。
あの時助けられたはずなのだ。ユキなら、自分の実力ならば、やれたはずだ。
後悔だけがずっと心の中で渦巻いている。
死にたくなかった。けれど、誰かが傷つくのは、もっと嫌だ。
死にかけていたセトウを思い出し、今はそう思う。けど、あの時もっと早くそう思えていたら、何かが違っていたはずなのだ。
思い出し悔しくなってユキはぎゅっと拳を握った。
その様子を見て、ウェジットはそっとユキの拳に触れた。驚いて顔をあげるとウェジットはユキの拳を丁寧に、ゆっくりと、一本一本外していく。その表情はとても優し気だった。
「君には少女らしからぬ勇ましさと鋭さで圧倒されたものだが、今は年頃のおなごのように感情が表にでていて、なぜだか安心してしまってね。初々しいものだ」
そうして全部の指を優しく解いたウェジットは、そう懐かしそうに目を細めユキを見下ろした。その表情に虚を突かれる。無愛想な表情のない老人かと思っていたが、こんな表情もするのかと驚いたのだ。
ウェジットは、セトウを運んできたユキに一瞬驚いたもののすぐに救護班を呼んで対応してくれた。その後ヒュイスがタクミに攫われたことを言ってもユキを責めはしなかったし、ユキの相談相手に何度もなってくれた。仏教面で少し近づきにくい雰囲気もあるが、話してみると話しやすいし、聞き上手な紳士な男性だった。セトウを連れ帰って混乱していたユキに根気強く聞いてもくれた。しかし表情だけはあまり変わらなかったのだ。
ユキは一瞬気をとられたものの、はっとして解いてもらった手を払いのけて、不快そうに眉を潜めた。
「安心ね。私はこんな風に泣き叫ぶより、戦っていた方が何倍もマシだと思うよ」
そう言うとウェジットは先ほど浮かべていた笑みを隠し、すっと鋭い視線を向けた。
「戦場を逃げ場にしてはならんよ。戦場など一時のものにすぎん」
「……ッ勝手なことばかり! ……お前にはわからない! 私がどれだけ苦労してここまで来たか、どんな思いであの人のそばにいるか! お前に、お前なんかに、わかるものかッ!」
ウェジットの言葉に、ユキは怒りでかっとした。
わかっている。戦っていた方が余計なことを考えずに済むから、戦場を逃げ場にしていることも。けれど、そうでもしないと、この感情に押しつぶされそうなのだ。
悲壮、憤り、怒り、後悔、様々な負の感情が渦巻く。それは自分自身にも、信じて慕っていた主であるスバルにも。
それでもまだ、スバルを慕っている気持ちが消えていない自分にも、とことん呆れている。
いっそのこと嫌いになれば楽なのに。こんな苦しまずに済むのに。
どこまでも、スバルはユキを縛り付ける。
何も言ってくれないし伝えてくれないあんな男、殴り倒して踏みつけて罵声を浴びせて。そうでもしないとこの怒りは収まらないのに。そうできない自分に腹が立つ。
殴り倒したら心配してしまう。踏みつけたりなんかしたら自分がもっと嫌いになる。罵声を浴びせたりなんかしたらすぐ否定してしまう。
好きという気持ちは本当に厄介だ。
「……ッ」
報われない想いと憤りに心が決壊し、それが涙になってあふれ出てきた。悔しさとか腹立たしさとかそんな感情も含まれていて、もう感情がぐちゃぐちゃで涙になってぽろぽろと溢れてくる。それを拭う気にもなれず、せめて下を向いてウェジットから表情を見えないようにした。
けれど嗚咽漏らし身体を震わせて泣いているユキを見てウェジットは一瞬瞠目したものの、柔らかく目を細めてユキの頭を子どもを褒めるように優しくポンポンと叩いた。
「愛しているのなら、簡単に手放さぬ方がいい」
「また、勝手なことを……」
その声色が優しくて、同情されてるのがわかって、それが余計に惨めに思えて、ユキはウェジットの手を払いのけようとした。しかし次に語られたウェジットの言葉でユキはその手を払いのけることができなかった。
「私は、愛した女性を手放す羽目になったからな」
寂しい声に、言葉に、思わず払いのけようとした手が止まった。
愛した女性を、手放す――……?
(それって……)
ユキは以前ヒュイスから聞いた話を思い出した。
『母さんには当時恋人がいたんだけどね。その恋人と母さんをかけて戦って勝ったんだ。そんでそのまま母さんと恋人になった』
そう古城での作戦を練っていた時にヒュイスが話してくれた話だ。
たしか、今のカグネ王国の王、つまりはヒュイスの父がヒュイスの母を手に入れるためにその母の恋人に勝負を挑んで勝利し、ヒュイスの母を自分の物にした、という話だった。その時、ユキはとても反発した。
それはヒュイスの母親の気持ちも考えない身勝手な行動だと思ったからだ。どれだけ好きでも、相手の気持ちを無視するような行いは、それは恋ではないと思う。
ユキの知っている恋はもっとキラキラしたもので、相手を思う気持ちこそ、恋なのではないかと思うのだ。誰だって好きな人には幸せになってほしいものだ。それが自分が相手ではなくとも、相手が幸せなら自分も幸せになれる、これこそが正真正銘の恋だ。
それなのに、ヒュイスの父がしている行動はすべてが真逆のように思える。自分の気持ちを身勝手に押し付けているだけで、それではヒュイスの母も不幸になるだけだ。自分の想いだって伝わらない。それは、好きな相手にやってはいけない行動だ。
だから、ヒュイスの父がしたことは理解できない。
誰もが不幸になる行動だ。
けれど、どうしてだろう。
目の前のウェジットは、恋人が取られたと言っているのに、未練のようなものが全く見えないのは。
少し悲し気な影は見えるものの、そこには後悔も恨みも垣間見えない。
信じられなくて、ユキは震える声でウェジットに問いかけた。
「後悔、しなかったのか?」
そう問うと、ウェジットはふっと笑って首を振った。
「あの時は、自分の不甲斐なさに後悔はした。けれど、人生なんて、わからぬものでね」
ウェジットはそう優しい声で、柔らかく微笑んだ。その瞳に懐かしさがにじみ出しながら両手を前に出し、その手を見つめていた。まるで誰かを、赤子を抱えているように。
「憎んだこともある。殺したいと思ったことも。けれど、私も単純でね。二人の間に生まれた子ども抱いて、その子に一瞬で情が生まれてしまった。あまりに、可愛くてね。……その時にはもう、王を恨んだ気持ちなど、どうでもよくなってしまったのだよ」
あまりに優しい声で、優しい表情で言うものだから、ユキは信じられなかった。
もっと恨んで、もっと憎んでもいいはずだ。好きな相手を強引にわけもわからない理由で奪われて、どうして許せるのだろうか。もしそれが自分だったら耐え切れない。
それはきっとヒュイスの母親だってそのはずだ。強引にウェジットとの間を引き裂かれ、ヒュイスの父を恨んだはずだ。そんな相手を許せるはずなどないのだ。――……ない、はずだ。
(……私……思い違いをしているのか?)
相手の勝手な都合で行った行動は、必ずしも相手を不幸にする。そう思っていた。
だってそれは相手をあまりに考えない行動だったから。それが大切な人ならなおさら、相手を想って行動するものだと、思っていたからだ。
けれど、どうだろう。
今のウェジットは、不幸なのだろうか。
引き裂かれたヒュイスの母は、好きでもない王と結婚して、子どもを産んで、不幸せなのだろうか。
そしてその二人の間にできたヒュイスは、本当に不幸せに見えただろうか。
そう思って、ユキは今度はウェジットの顔から瞳を逸らさずに見上げる。
「ヒュイスが、大切?」
そう聞くと、ウェジットは強く頷いた。
「愚問だ。生涯守り通そうと、そう誓ったのだから」
「……」
ユキのなかで、何かが崩れる音がした。
それは自分の価値観、理念、そんな概念のようなものがガラガラと崩れ落ちていく。
強引な行動に、相手を想わない行動に、その先に幸せなどない。
けど、違った。
突き通した想いは、たとえ違った形でも、決して不幸ではなく、ただ形の違った幸せがそこにあっただけなのだ。
ヒュイスの父は自分の想いを突き通した。
そしてヒュイスの母は最初に想った相手とは結ばれなかったけれど、違った形で幸せを掴み。
引き裂かれたウェジットは、その子どもを守ることが幸せとなったのだ。
本当にそれは不幸なのだろうか。
いいや、勝手にユキが決めつけていただけだ。
よく見もしないで、勝手に。
(ヒュイスに、ひどいことを言ってしまった……)
作戦を練っているとき、ユキはヒュイスの父の行動は勝手でヒュイスの母を不幸にしている、と言ってしまった。それは裏を返せばヒュイスは望まれて生まれてきていないと言っているようなものだった。
今更になって、そのことに気づいた。
ユキは、誰かを想って行う行動を「正しい」ものだと思っていたからだ。
(ヒュイスの、言う通りだった)
ヒュイスはあの時言った。
『僕は父は間違ってないと思うよ。自分の願いを叶えた。それは立派な行いだよ』
あの時ユキはわかっていなかった。
ならもしヒュイスの父が好きな女性とウェジットとそのまま結ばれて、それでヒュイスの父の気持ちがどうなるかなんて、考えないで。
きっと幸せで、彼らを祝福しているだろうと。
そんなわけない。そんなわけないのに。
自分が同じ立場だから、そう思い込もうとしていただけだ。
ユキもそうだった。
大好きな人が絶対自分を好きになってはくれないから、見てはくれなかったから。
そういう意味では、ヒュイスの父もユキもよく似ていた。
ならば、せめてその人の幸せを想う自分になりたいと。
そうなればいいって、そう在りたいって、思ってたから。
でも実際はどうだ。
スバルに新しい婚約者ができる? その人と幸せになってほしい?
――……誰がそんなこと望むものか。
この気持ちだって報われたい。好きだって言って欲しい。
自分だけを見てほしい。笑いかけてほしい。
ユキと同じ気持ちで、同じ想いでいてほしい。
ユキと一緒にいることで、スバルが幸せだって思って欲しい。
本当はそう思っているのに、押し殺していた。
だって、それは絶対に叶わないことだから。
ずっとそんな想いを抱え続けるのは、惨めなだけだから。
だからスバルの幸せを想うことで、自分を守っていたのだ。
それを徹底するばかりに、相手に押し付けることになっていてしまっていた。
自分の中で崩れ去った考えと、また弱い自分を見つけてしまい、情けなくなる。
こうなりたい、ああしたい、と理想はあるのに、たどり着けない。
そう思うと涙が余計に止まらなくて、嗚咽も止まらなく、袖で何度も顔を拭った。
そんなユキにウェジットはもう一度頭を撫で優しい声で語りかけた。
「だから今の私にはあの時のような後悔はない。けれど、あなたたちを見てて思う。私には、どちらも、お互いを大切にしあっているように見えたがね」
「……ッどこが……! うっ、ひっく、お前も見てただろう……⁉ 私は、必要とされていなかったのに……ッ」
「そうですかな?」
とぼけたようにいうウェジットをユキはキッと睨み上げた。こっちは真剣に悩んでいるのに。
しかし睨み上げてもウェジットは微笑ましそうに笑うばかりだった。
「私は王子がいたから後悔はなかったが、あなたたちは、こう、なんというか、すれ違ってるだけのように思える」
「すれ違い?」
「もしそうなら、あとで絶対後悔することになるのでは、と思っただけのこと」
ユキは首を傾げた。
何がどうすれ違っているというのだろう。
ユキは何もスバルの言葉を曲解はしていないし、変な理解もしていないと思うが。
そう疑問を持ってウェジットを見上げていると、ウェジットは苦笑いを浮かべていた。
「私も今実は王子には勘違いされておられてね」
「?」
ウェジットの突然の話題に切り替えに戸惑いながら首を傾げた。
「王子の母親、つまり王妃のために王子に尽くしてるだけではないかとね」
「……でも、違うんだろう?」
「ああ、もちろん。最初はただ王妃の近くにいれればと思った。それは真実だ。けれど、私はもうあの方のためにいるのではない。王子を、ヒュイスを守りたいからそばにいるのだ」
力強い意志、力強い言葉、力強い瞳。
それだけ見ればウェジットが本気でヒュイスを大切にしていることがわかる。
そして、どうして、ウェジットがヒュイスを襲ったことがあると、言ったのかも。
――……今のユキには、よくわかった。
ユキはまだ瞳に残っていた涙を強引に拭って、ウェジットに微笑んだ。
「伝わると、いいな」
「ええ。あなたも」
そう言いながらウェジットはすっとハンカチを懐から取り出して、ユキに渡した。
「きっとあなたも、彼も、お互い勘違いしておられる。もっと目の前の大切な人をじっと見つめた方がいいかもしれぬ」
「人生の先輩からのアドバイスだ」とそう茶目っ気たっぷりにいうウェジットを、ユキは小さく笑った。
勘違いならどれだけいいだろう、とそう思って笑い、もらったハンカチを強く握りしめた。
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三十分後、街の噴水のある広場の中央のテント、そこで作戦会議は開かれた。
そこにはユキ、ウェジット、セン、スバルの四人が机の周りに集まり、微妙な空気が流れていた。それは決して戦闘前の緊張だからではない。ウェジットはセンを脅してしまったので、友好とは言えない、ある意味険悪な雰囲気を漂わせているし、ユキとスバルに至っては少し話しずらい雰囲気が流れていてお互い目を合わせない。
そんな気まずい中で最初に口を開いたのはウェジットだった。
「タクミの居場所は?」
「……ここの別荘だ。まあ俺は行ったことねェんだが、よくここでタクミたちがたむろってるっていうのは聞いたことがあるぜ」
すると、センは渋々といった感じで机に広げている地図を指さした。そこは山地の一角で、建物のような図形が載っていた。それを見たユキは眉を潜ませた。
「……別荘? 随分広いな」
「前の国の奴らの産物だ。どっかの金持ちのもんだっただろうなァー」
そう言ってセンはだるそうに腕を組んで答えた。
スバルもじっと地図を覗き込む。
「周りに木も遮蔽物も多いな。なるほど、射手のタクミにとっては都合がいいってわけか」
射手はまず見えない遠方から攻撃し、位置を決して特定させない。なぜなら特定されたが最期、背後を取られて死んでしまうからだ。接近戦での心得は多少はあるだろうが、それを生業とする騎士などが相手では負けることの方が多い。だから射手は相手に位置を悟らせないのだ。
だからタクミのような射手にとって遮蔽物が多いところは、最も自分たちが有利に働く場所なのだ。
「ま、さすがに見取り図とかはねェわ。だから王子様がどこにいるかはわからねェ」
センは頭を掻きながらお手上げといったように話した。
この別荘の周りは少し平地になっているが、他は木で覆われている。しかも地図から見るに別荘と言ってもそれなりの大きさだろう。しかし中の地図がないから中の構図がわからない。
ユキはそう考えて、眉を潜ませた。すると同じように考え込んでいたスバルが口を開いた。
「……いや、十分だ。だが、絶対に見回りや罠はあるはずだ。まずそいつらを内々で黙らせて、中にいる奴らを建物から外におびき出すっていうのはどうだ」
つまり、この別荘の見取り図がわからない以上中での戦闘を避けるため、なるべく別荘内の人数を減らす作戦だ。それだとヒュイスの救出も楽にできる。
ユキは一度頷いてスバルを見返した。
「どうやってですか?」
「まず周りの見張りを内々にバレないように倒し、安全を確保。そこからは外で騒ぎをを起こし、別荘内にいるやつらが外に出ている隙に、別動隊が裏から救出に向かう」
スバルは地図で別荘の地形を指しながら淡々と説明した。
なるほど、外での騒ぎは陽動でその間ヒュイスは救い出す、ということか。そこで問題なのは別荘内の人数と外にどれだけの見張りがいるかだが、この際考えても仕方がない。
するとセンがはあっと溜息をついた。
「ということは、見張りや周りに潜んでいる奴らを倒すのが肝になるな。しかも、バレないようにっていうのがなァ」
ここで重要なのは別荘からなるべく人数を減らすこと、さらに言うとタクミをおびき出すことだが、その前提には別荘の見張や見回りをバレないように倒して、敵に囲まれない状況を作り出さなければならない。もし少しでも敵が援軍を呼ぶ素振りを見せたら完全に囲まれて不利になり、ヒュイスの命が脅かされるかもしれない。まずは自分たちが戦いやすい場所を作り出すことから始めなければならないのだ。
誰にもバレず、確実に敵を減らすという難しい仕事だ。
そこでウェジットも口を開き、センをみた。
「そこはお前たちに任せたいのだが。なるべく隠密に向いている者をあててほしい。難しい仕事になるが、いけるか?」
そう問うとセンは少しウェジットを睨んだ後、仕方がないというようにガシガシと頭を掻いた。
「……了解。わかった。何人かいるからそっちに回すわ」
そうセンが了承するのを聞いて、ユキはほっと息を吐いた。
先ほどの険悪な空気もそうだが、ウェジットはセンを脅してしまったわけだから、もしかしたらさっきの頼みもきいてくれないのかもしれないと危惧していたが、なんとか割り切ってくれているようだ。
そこでふと気になったことがあり、ユキはスバルをちらりと見た。
「でん……スバル様も出られるのですか?」
思わず「殿下」と口に出しそうになったのを既の所でやめた。まだウェジットはともかく、センにはスバルがコントラス王国の王子だとはバレていないはずだ。ここで余計な疑惑を抱かれるのは困る。
するとユキの問いに、スバルは少し気まずように答えた。
「……ああ。俺とセンで外に出た奴らを引き付ける。その間、お前はウェジットとヒュイスのところに行け」
「……良いのですか?」
スバルの言葉に驚いて目を開く。
まさか、スバルの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
確かにヒュイスのことは自責に感じていたし、助け出したいと思っていた。けれど今回の作戦では、おそらくユキが別荘前で暴れた方が効果的だ。タクミは一度戦った相手には執念深いと聞いた。ならユキが暴れれば確実にタクミは出てきて、陽動作戦は完璧に近づく。なのにまさか、スバル自身からそれを勧められるとは思わなかった。
そう驚いてスバルを見ていると、それに気づいたスバルは驚いているユキを不審に思ったのか眉を潜めた。
「お前が、助けに行きたいんだろ?」
「……ッ」
そう平然と言い放つスバルに、ユキはぐっと唇を噛み首を垂れた。
「……そう、ですね。かしこまりました」
スバルの言葉に傷ついている自分がいる。
守りたかった人に、他の人を守れと、救い出せと、言われている。
ヒュイスを助けたい。これに嘘偽りはない。
けれど、だけど――……
それだけは、その言葉だけは、あなたに言って欲しくなかった。
勝手だ。
自分からヒュイスを救い出したいと、スバルに言ったのに。
スバルはきっとそのユキの気持ちを汲み取ったのだ。汲み取ってくれたのだ。
それなのに、その気遣いにユキは勝手に傷ついている。
どうしてほしかったと言われたら、わからない。
けれど、今はどうしようもなく、この人との距離を感じてしまうのだ。
ウェジットの心配そうな視線を感じる。
(だから言っただろう、ウェジット……)
これが勘違いなら、どれほどよかっただろう、と――……
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作戦会議が終わった後、ユキは一人テントの中で周りの地形の確認をしていた。これ以上の作戦は今のとこを思いつかないが、何か見落としがあるかもしれない、念には念だ。
するとテントに誰か入ってくる気配がした。
「ユキ」
「……なんですか」
入ってきたのはスバルだった。
ユキは先ほどスバルの言葉に傷ついたせいか、ついそっけない返事をしてしまい、心の中で少し後悔した。
しかしスバルはそれに少しだけ目を細めただけだった。その瞳からユキはスバルの感情が読み取れなかった。するとスバルが一歩ユキに近付いて口を開いた。
「お前の戦ってたときに使ってた武器……」
その言葉を聞いてユキは眉尻をあげた。
「ああ、あれですか。なんですか? 騎士らしくないって言いたいんですか?」
タクミとの戦闘でいろいろなナイフを使って反撃した。騎士らしくない、剣以外のもので戦う方法を取ってしまった。
前は違っていた。こんな雑多めいた戦い方はしなかった。けれど、以前に男に押し倒された時、力ではどうしても敵わなかった。だからそれに対抗するために隠し武器を身に着けるようにしていた。危ないときになったらと思っていたけれど、あの時はもう気が立っていて、どんな方法を使ってでもタクミを倒したかった。
騎士らしくない、あんな戦い方。
きっとスバルもユキを幻滅したことだろう。
いや、幻滅どころか、どうでもいいとさえ思われているのだ。そんなことすら思わないのだろうか。
そう思ってちらっとスバルの反応を伺っていると、思ってもみない解答が返ってきた。
「いや、違う。俺に貸してくれ」
「は?」
スバルは真面目な顔で手を差し出してきた。武器を貸してくれということなのだろうが、ユキにはあまりに突拍子すぎて一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「あ、その、いいですけれど」
「助かる」
ユキは服の中に隠していた数本のナイフと針、少量の火薬を渡した。あと念のため紐のついた鉤爪も。受け取ったスバルは状態を確認するように武器をじっと見た後、腰のホルダーにしまっていった。
そうしている間にも二人の間に会話はない。
(なんだか、気まずい……)
作戦前に、感情的になってスバルを一方的に責め立ててしまったから、どうにもユキからしたら、作戦会議の時はともかく、普通に話しかけてくるスバルに戸惑ってしまう。もしかして何も思っていないのかもしれない。
それはそうだろう。あの時もう必要ないと言われたようなものだし、もうこの先関係のない人間を気にするわけがない。そう思うとずきりと胸が痛んだ。
どうしてこの人は、何をしても自分を見てくれないのだろうか。
頑張ったのに、あんなに頑張ったのに。
せめてあの時、それでもそばに来てほしいと言ってくれさえすれば、ユキはすべてを許してそばにいたのに。
ひどい人だ。本当にひどい人だ。
何を成し遂げても、何をしても、ユキは一生報われない。
例え、この想いが報われなくても、自分の努力が報われれば、そうしてそばにいられれば、それでもよかったのに。
スバルから離れる選択をするなんて、そんな日が来るなんて、思わなかった。
ユキはちらりとスバルを盗み見た。
綺麗な青い瞳が、ユキの渡したナイフに映し出される。じっと見るその真剣な瞳に射抜かれると、どうしても胸がドキドキして堪らなかった。初めて見たときから、この瞳に捕らわれて、時々、本当に時々見せる子どもみたいな笑みも好きだった。誰かに優しくしようとするとき、少し細める瞳も好きだった。照れたときに逸らす顔だって、不機嫌そうに書類仕事をしてる姿だって、好きだ。口喧嘩のように少し言い合ったりするのも、本当は楽しかった。
そうだ、喧嘩なんかするときなんか普段に拍車がかかってもっと口が悪くなっていた。
けど、目つきも口調も悪いけれど、本当は優しい人で――……。
「……あれ?」
「どうした」
「あ、いえ、なんでも……」
ユキは思わず声に出してしまった口を押えながら、首を振った。
何か今、引っかかったような、そんな気がするのに、弾けて消えてしまった。なんだろうと、少し考えようとしたとき、スバルから躊躇ったような声が聞こえてきた。
「……お前、ここに残るとかいわねぇよな」
「え?」
驚いて声をあげてスバルを見ると、少し不安そうな、不機嫌そうなどっちとも取れない表情で眉を潜ませ、ユキを見下ろしていた。それにユキは戸惑った。
「……あの、さっきのは、その、あれで。コントラス王国には帰ろうかと……」
ユキは戸惑いながらも答えた。
これは本当だ。確かにヒュイスは好きだし、この国の人たちも嫌いではないが、カグネ王国に残って暮らそうとまでは考えていない。サヤもコントラス王国に残ったままだ。置いていくわけにはいかない。
するとユキの解答を聞いて、スバルはふっと息を吐いてまた武器の状態を確認するため視線を落とした。
「だったらいい。この国は危険すぎる」
「……」
いつもなら、弱いと思っているのかとかなんとか言って怒るところだけど。
(……心配、してくれてる?)
そういえば行きの馬車も心配してくれていた。ユキが男に襲われた日だって、慰めてくれた。ユキが命をかけてスバルを守るって言った時だって――……。
『きっとあなたも、彼も、お互い勘違いしておられる』
こんな人が、本当に、私を必要ないって、切り捨てるのだろうか。
何か、見逃してはいないだろうか。
自分の気持ちに必死になりすぎて、この人のことをちゃんと見ていなかったのではないだろうか。
こんなに心配してくれる人が、無慈悲に、何も思わず、私を放り出すのだろうか。
すると、じっと見ていたユキに気づいてスバルはユキを見つめ返した。
自分の姿が、その綺麗な青い瞳に映し出される。
その時、これまでの記憶が走馬燈のように流れだした。
(あぁ……)
おかしいな。自分でいつも言っていたのに。
この人は、優しい人だって。そう言っていたのに。
どうして、気づかなかったのだろう。
婚約者時代のとき、少し足場の悪い庭の散歩で、恥ずかしそうに手を差し伸べて「転んだら迷惑だ」って言っていたことを思い出した。
ある夜会のとき、ユキの緊張をほぐらせようと、わざと足を引っかけて驚かせられたことを思い出した。その時も「しけた顔をしてるからだ」と悪態をついてたことを思い出した。
そして、どこまでも、
不器用な人だったということを、思い出した。
ユキは純粋な恋しか知らない子どもなのです。
その人を想って自分は身を引くっていう愛し方もあるにはあるんですけどね。。
そう単純じゃないぞってことです。
例え誰かが傷つくってわかっても、自分の想いは報われたいものなのです。




