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17.想いを言葉にのせて



 ユウトを床にめり込ませた後、スバルは一人執務室にいた。

 ユキの着替えを待っていても良かったが、時間がかかりそうだったので先に執務室に行った。ユキはあとで文句を言うだろうが。

 スバルは、自分の机に座って頬杖をついて書類を確認していた。しかし昨日のことが頭をよぎり、何も頭に入ってこない。


『……まだ、時間はあります。その間に準備をするんです。これからの生活が送れるように。私もなるべく早く婚約者を見つけるから』


 どうする。


 スバルは顔を歪ませる。

 エイシの言う通り、王族を抜け出す準備をするべきか。

 けれど、エイシはどうなる。あんなに身体を弱らせて、以前より身体も細くなっていた。三年前に余命は一年と言われていたが、二年もエイシは頑張った。けれど、それももう限界なのかもしれない。もう、無理はさせたくない。これ以上死期を早まらせる行為をさせるわけにはいかない。王という重い責務をこなそうとすれば、病気を悪化させてしまうだろう。

 なのにエイシは、スバルの為に王になると言った。


「……」


 きっとあの身体でも王になるといえば、あの父は了承するだろう。息子の死よりも国をいかに統治することに重きを置いているあの人ならば、エイシの能力を買って王位を譲るに違いない。それがどれほど在位が短くなろうともだ。国に何か新しい兆しをもたらすものならば、あの父は躊躇いもなく息子を差し出す。そういう人だ。だから今のこの国が発展してきたのだから。


 けれど、わかっている。

 スバルは必ず後悔する。自分のためだけに逃げてしまったことを。

 自分のために、尊敬しているエイシを置いて行ってしまうことを。



 そして、ユキだ。

 きっと今のユキに話しても、ユキはついてきてくれるだろう。スバルの為に護衛騎士になったユキならば、きっとどこまでもついてくる。ユキはそういう奴だ。


 けれどそれでも気になるのは、ユキをここに来させてしまったことだ。

 こんな命がかかわるこの場所になんか来てほしくなかった。だから手放したのに。

 スバルがただ傷つけてしまっただけだった。

 それだけがどうにも釈然としない。

 傷つけたくなかったから、傷つけてまで放したのに。

 ユキは相変わらず予想外の行動をとるやつだ。

 優しくて、弱くて、けれど時々意地を張って素直じゃなくて、泣きたいくせに泣けなくて。

 だから、目が離せなかったのだ。


 だからこそ、スバルはユキを――……。


 そこまで思って、ふと思い出した。



『この……ッ、バカ王子! お前なんか、大っ嫌いだ‼』




「……そういえば、嫌いって言われたな」


 ユキを牢獄に入れる前、騎士になったユキを否定したスバルに怒り任せに言われた言葉だ。

 

 あの言葉が本当なら、ユキにもうスバルへの気持ちは今はもうないということか。

 今思えば婚約者時代ではしなかった口喧嘩も多くしたし、ユキのことも否定し続けたし、怒鳴ったりもしたし、牢獄にも入れた。嫌われる要素しかしていない。

 本当に嫌われてしまったのかもしれない。


「……くそ……」


 スバルは、顔をあげて無意味に天井を見た。


 ああ、気持ちがごちゃごちゃだ。

 ユキに離れてほしいのに、離れてほしくなくて。

 嫌いでいてほしいのに。嫌わないでほしい。

 どこかで幸せになっていればいいと望むのに。その隣に自分がいたいと望む。

 

 苦しい。息がしずらい。

 

 自分が望むものと、気持ちが相反していて、なんだか気持ちが悪い。

 おかしくなってしまいそうだ。



 エイシのことも、ユキのことも――……。


 

「スバル殿下?」


 思考に耽っていたスバルは突然の声に驚いて身体がはねた。

 ユキの声だ。扉の方から聞こえてくる。どうやらやっと身支度を整えたらしい。


「あ、あの……入ってもよろしいでしょうか?」


「……ああ」


 遠慮気味に声をかけるユキに内心首を傾げながら、スバルは了承の返事をした。するとゆっくりと扉を開き、ユキが姿を現した。


 スバルはユキを見て目を見開いた。

 それはいつもの騎士の制服姿ではなかった。

 上衣、下衣はともに純白の地で、金のボタンが縦に並んだジャケットを羽織っている。ここまではいつもの服装だが、大きく違うのは下のズボンだ。まるで女性が着るドレスのスカート部分を短くしたようなデザインとなっており、膝より少し上のスカートの裾には白いフリルが施されている。太ももまであるレース状の長い靴下に茶色いショートブーツを履いている。ネクタイは紺色のリボンへと変わりその真ん中には赤い宝石がつき、腰にもひらひらと広がったフリルがついている。

 今まで騎士は男性でしかなりえなかったので、女性を前提として制服などない。だから今までユキが着ていたものは特別に用意されたものだが、それは男性ものと変わらないデザインだった。しかし今ユキが着ているその制服は、騎士団の制服と女性のドレスを組み合わせた女性ものの制服になっている。

 スバルは心の中で感嘆の声をあげた。このアレンジは思いつかなかった。


 髪もいつもぞんざいに一つにくくっていた髪は下して、横に小さい編み込みがされている。化粧も少々しているようだ。唇に紅をさしているその顔は色っぽく女性らしい。久しぶりに見た女性らしいユキの姿にスバルは思わず見惚れた。


 しかし当のユキは恥ずかしそうに顔を赤くして顔を逸らし、スカートの裾を下に引っ張った。


「あ、あの……これはその、サヤが勝手に……。私だって、こんな足を出したはしたない姿をしたくはなかったのですけれど……」


 もごもごと言い訳をしながら恥じらうユキにスバルは少しドキっとした。いつもとのギャップというのか、しおらしく顔を赤くして恥ずかしがりながら瞳を潤ませているその愛らしい姿に目が奪われる。いつものように堂々としていたらいいのに、裾を引っ張ることで余計にそこに意識がいってしまうことになぜ気づかない。スバルは無意識にユキの足に目がいった。

 いつもはズボンや長いドレスで覆い隠されていたそれが、今では見てくれとばかりに姿を現している。やはり透き通るような肌をしている。鍛えたその足は程よく引き締まっており細く、しかし試合の時にみたあの早い動きがその細い足から出ているようには思えない。

 それに、その制服がユキによく似合っていた。

 白銀の髪に、透き通るような白い肌を持つユキには、白い服がよく似合う。男性用の制服では思わなかったのに、こんな風に女性らしい恰好をすると……


 正直、正直に言ってしまうと、可愛いと思ってしまった。

 恥じらうその姿さえも、スバルの心を揺さぶる要因となっている。


 スバルが少々見惚れいていると、恥ずかしそうに目を逸らしていたユキは、スバルの顔をちらりと見て目を開いた。


「ス、スバル殿下? ご気分がすぐれないのですか?」


「……大丈夫だ。なんでもねぇよ」


 ぼうっと見惚れていたスバルは、ユキの言葉にはっとした。ユキの問いにスバルは顔を逸らして素っ気なく答える。

 まさか、見破られるとは。そんなに自分は顔色が悪いのか。 

 心配そうに見つめるユキにスバルは、気まずくなった。


 嫌われたかもしれない。


 先ほどの自分の考えが頭をよぎる。

 そう思うと、ユキと話すのが少し怖くなった。

 傷つけて、傷つけて。嫌われて。

 そう望んだはずなのに、心は思ったほど深く傷ついていて。

 自分の女々しさに、嫌気がさした。



@@@@@@@@@



 スバルに元気がない。


 ユキは元気がなさそうなスバルを心配した。

 何かあったのだろうか。けれど、聞いてもきっと教えてくれそうにないだろう。

 やっぱり疲れているのだろうか。だからこんなに顔色が悪いのか。


 ふと自分の格好を見やる。いつもと違う制服。こんなに足を男性の前で出すのは死ぬほど恥ずかしい。けれど服は可愛らしいと思う。いつもの騎士団の制服は、簡素で味気のないものだったが、サヤが少しアレンジするだけでこれほどまでに印象が変わるのか。短いスカートも初めてだ。サヤはキリエルに許可をとっているからと、ユキに着させたがこんなにアレンジをして大丈夫なのだろうか。

 フリルがついたスカートは動くと華やかに動いて可愛らしい。ユキも久しぶりのおしゃれに少し心を躍らせた。やはりユキも女性ということだ。


『男性は女性が綺麗に変化するだけで、舞い上がってときめくものです。きっとお嬢様がおしゃれをして綺麗になれば、スバル殿下の気分も明るくなりますよ!』


 しかしサヤのいう事ならば、ユキのこの装いでスバルの気分は明るくなるはずだ。ちらりとユキはスバルを見やった。見てみるとスバルの気分は晴れているように思えない。ユキは落ち込んだ。やはりユキが少しおしゃれをしたところで、スバルの気分を変えられないのだ。

 ユキは、はあと溜息をついて後ろ手に持っていたものをスバルに差し出した。


「……あの、これ。ありがとうございました」


「ああ」


 ユキが手に持っていたのは、スバルが貸してくれたジャケットだ。男に襲われた時にスバルがユキを気遣って羽織らせてくれたものだ。スバルの優しさを思い出して、ユキはきゅんと胸が高まった。

 ユキが差し出したジャケットを見てスバルは思い出したかのように声をあげ、受け取るために立ち上がり、スバルはユキに近付く。スバルが受け取ろうと手を伸ばした時、少しだけスバルの指先が触れてどきりとした。


「……あ」


「なんだ?」


 声をあげたユキにスバルは不審気に声をあげる。それにユキは視線を逸らして俯いた。


「い、いえ……なんでも……」


 なんだか恥ずかしい。

 この格好もそうだが、洗濯したとはいえ一日中自分が着ていたものを渡す、というのはなんだか気恥ずかしい。さらにいえば、ユキはそのジャケットに残っていたスバルの香りを匂うというなんとも人には言えない、変態のような行為をしていた。

 好きな人といえ、なんだか申し訳ないし自分の行動を思い出しただけで恥ずかしい。


 そこでふと思い出した。


 

『この……ッ、バカ王子! お前なんか、大っ嫌いだ‼』



 あの時勢いで『嫌い』だと言ってしまったが、スバルはどう思っているだろうか。本当は嫌ってなんかいないのに。

 嫌われてしまっただろうか。といってもなんとも思われていないだろうが、せめてユウトぐらいには好かれていたい。

 気さくで、心を許しているような、信頼されているような。

 ユキは、まだスバルから信頼もされていなければ、頼られてもいないし、認めてもらってもいない。今はユキにとって最悪な状況であるだろう。

 けれど、「好き」だとはっきり言ってしまうと、ユキにとってはそれは別の意味になってしまう。


「スバル殿下」


「ああ?」


 顔をあげてスバルを見上げる。そのときスバルは受け取ったジャケットを着ていた。ジャケットを着ている姿すら凛々しくて、ユキは少し顔を赤く染める。

 まずい。こんな格好をしているからか、心がスバルが好きだったただのユキに戻っていっている気がする。

 

「えっと……」


 ユキはまた顔を俯かせた。そして顔を横に振る。

 こんな気持ちじゃだめだ。この気持ちは絶対に伝えてはならない。何のために騎士になったのか。想いが伝わらなくても、そばにいたいと望んだからだろう。こんな浮ついた気持ちでどうする。


 けれど、伝えたい。せめて、せめて――……。


 ユキは決心したように顔をあげた。灰色に近い青い美しい瞳と目が合う。


 ああ、好きだな――……。


 思わずそう思った気持ちを抑える。

 ユキは少し背伸びをして内緒話をするように、スバルに囁いた。


「嫌いじゃ、ないですよ?」


「……ッ!」


 せめて伝えたかった。

 嫌っていないと。あの言葉は感情任せに言ってしまった嘘だと。

 好きだと言えなくても、嫌っていないということだけははっきりと伝えたかった。


 ユキの言葉にスバルは目を見開いて驚いているようだった。

 その表情にユキは慌てて取り繕う。


「あの、その、深い意味はないですよ⁉ もちろん王子として敬愛しておりますし! その、あくまで敬愛です! あの時はああ言ってしまったので……」


「……」


 無言がつらい。耐えられずユキはスバルの背を向けた。

 どう思われているのだろうか。スバルがどんな顔をしているのか見たくない。

 ユキは必死に強がった声をあげて見せた。


「中身は正直最低でひどい人と思っていますが、王子としては別です! 私は――……」


 言葉を続けようとしたとき、後ろから力強く引き戻された。

 背中に暖かいものが触れ、そしてそれはユキの肩に、胸の下に回った。

 突然のことにユキは反応できなかった。一瞬で頭が真っ白になる。

 そして後ろから香る嗅ぎなれた匂い。これは昨日、ユキが嗅いでいた香りだ。


「ス、スバル殿下……ッ⁉」


 スバルはユキの肩に腕を回し、もう片方はユキの胸の下に回されている。

 スバルに、後ろから抱きしめられているのだ。

 ぎゅっと力を強めて抱きしめられ、後ろからスバルの体温が直に伝わる。

 そう理解した時、顔が、身体中が、熱くなって、ユキは焦った。


「ああああの……ッ⁉ どうなされたのですか⁉ めまいですか⁉ 立ち眩みですか⁉」


 あわあわと焦ったようにユキはスバルに声をかける。しかしスバルは何も答えない。黙ったまま、ぎゅっとユキを抱きしめる。


「なあ、お前……」


 スバルの低い声が耳元で響く。

 ドキリと胸が鳴った。囁かれたスバルの声が身体中に回って身体を熱くさせる。

 こんなにスバルを近くに感じたことはない。顔が熱くなるのが止まらない。恥ずかしさで瞳が潤む。

 するとスバルは、ユキの肩に顔をうずめた。


「どうして俺のところに来たんだよ?」


 スバルの声にユキは瞠目した。

 苦しそうでつらそうな、寂しそうな、そんな声に、ユキは動揺する。


「そ、それは、前にも言いましたが、仕返しを……」


「本当に?」


「……ッ」


 心臓がうるさい。耳元でささやかれて、身体がしびれる。

 こんな甘いことをされてしまったら、本当のことを言ってしまいそうになる。

 ユキはわけがわからず、顔を少しだけスバルに向ける。

 ユキの肩に顔をうずめているせいで顔が見えない。しかしそれが項垂れているように見えて、落ち込んでいるようにも見えて。どうしてそんな風に感じてしまうのかわからなかったが、こんなスバルは見たことがない。見たことがないから、ユキは放っておけなかった。


「……本当ですよ。だって、私はあなたの吠え面を見るためにここまで来たんですから」


「……」


 なんて言葉をかけていいかわからなかったけれど、ユキはスバルの問いになるべく優しい声で答えた。


「あの時、婚約破棄された時は、ひどい人だと思いました。……だけど、私よかったなって思うのです」


 ユキは思い出すように目を瞑る。どうにか、せめてユキがスバルを嫌っていないという気持ちが伝わってほしくて、肩に回されたスバルの腕の裾をぎゅっと握る。


「あなたに婚約破棄されてから、少し自信がつくことができたんです。私は、何もできない、ダメな人間だって思っていたから」


 あの頃を思い出す。父に殴られ続けた日々。ひどい扱いを受け続けた日々。そしてスバルに婚約破棄された瞬間。愛されていないようなその行いがユキの自身の価値を落としていったように感じていた。

 自分はダメなのだと。愛される価値もないのだと。そう思うには十分すぎる扱いだった。ユキは思い出して心を痛めたが、今ではもう過去のことだと笑みを浮かべる。


「だけど、剣を習って、初めて褒められて。嬉しかったんです。もちろん、それでつらいことも多かったですけれど、周りから徐々に自分の力が認められて、嬉しかったんです」


 婚約者時代も努力していた。けれど、どこかスバルの力のような気がしていた。スバルに助けられているような気がした。『秀才な第二王子のスバルの選んだ婚約者』そんなレッテルが張られている状態で見られていた気がした。

 あの舞踏会の時だって、自分にまとわりつく悪い噂を払拭させたくて、ユキは努力した。けれど自分の力じゃダメだった、結局スバルに助けられた。それがとても、悔しかった。

 自分の力で証明したかった。スバルの隣に相応しいのは自分だと。危機的状況に立たされたからこそユキは自分の力で乗り越えて、証明したかった。けれど、やっぱりユキは誰かに助けてもらわないとだめで、無力で、弱くて、そんな自分が嫌だった。

 だから騎士になるために努力をして、徐々に褒められて、認められて、そんな過程が嬉しかった。やっとただのユキとして自分を見て、称賛され、自分の力として認められたのだ。


「私は、力をつけて、あなたの力になりたかったんです。自分で決めて、自分の足でしっかり歩いて、私はあなたのそばに行きたかった」


 スバルの体温を感じながら、ユキはスバルの腕に顔をうずめる。

 少しだけ、本音を交えてみた。

 仕返ししたかったのも本当だ。

 ただの駒として捨てられて、女性は男性に捨てられるだけだと思われて、簡単に自分の努力を無駄にしたスバルに何か仕返しがしたかった。

 けれど、そばにいたかったのも本当だった。

 捨てられて腹が立ったけれど、どうしても嫌いになれなかった。

 ユキにはスバルとの思い出ある。初めて会って笑った顔を見た事も。一緒に真剣な顔で本を読んだときの事も。庭園を散歩していた時に気遣うように手を伸ばしてくれた優しさも。照れたときに顔を逸らす癖も。悪ぶりながらユキを心配するその不器用な性格も。ユキは全部覚えている。

 これを忘れて、スバルを憎むことなどユキにはできなかった。


「ああけれど、誤解なさらないでくださいね。か弱いと思っていた女性に、元婚約者に守られる惨めで屈辱な思いをあなたに与えるためなんですからね」


 次いでユキは本音に気づかれないように、急いで言葉は発する。腹が立ったことも本当なので、これもちょっと本当だ。

 スバルは何も言わない。この人はいつも真剣な話をするときほど何も言わないのだろうか。それとも聞いていないのか。

 何も言わないスバルにユキは少し調子に乗って、言葉に本当の気持ちを乗せる。

 届かなくてもいい。けれど――……。


「だから、ずっとそばにいますよ。あなたの吠え面まだまだ見足りないんですから」


 ユキは口元に笑みを浮かべながら、優しい声で言葉を発した。


 なんだか泣きそうだ。

 最近泣いたばかりなのに、心が弱くなっているのだろうか。

 そばにいたい。たとえ否定されても、嫌われても、それでもいい。

 

「だから、おそばにおいてください。私を……騎士として認めてください」


 女性としてではなくても、せめて騎士として認められたい。

 スバルのために努力したこの力を。初めて自分の力で手に入れたこの誇りを。


「……ッといろいろ言いましたが! と、とりあえず私はそばを離れたりしないし、あなたをしっかりお守りしますよ! これも嫌がらせですから!」


 いい加減何も言わないスバルに、照れやら焦りや恥ずかしさが出てきてユキは早口で言葉を募る。


 というか本当になぜ今抱きしめられているのか。

 婚約者時代だって抱きしめられたことなど一度もないのに。


 すると、先ほどまで忘れかけていた恥ずかしさが急によみがえってきた。


「いえ、あの、でも最低でひどい人だとは思っていますよ! それだけはお忘れなきよう……」


 慌てて恥ずかしさを隠すように早口で言い募りながら、顔だけ振り向くとスバルが顔をあげていた。灰色に近い青い瞳と近くで目があってドキリと心臓がはねた。


(ち、近い近い近い近い……ッ!)


 今思えば、こんな風に抱きしめられたのは初めてだ。

 昨日のユウトの時と全然違う。

 心臓は早鐘してうるさいし、スバルの体温が近くに感じる。

 この心臓の音が伝わっていないだろうか。

 するとスバルはぎゅっと抱きしめる力を強めた。胸の下に回された腕が強まり、密着度が高まる。それが恥ずかしくて、ユキはさらに顔を赤くした。そのせいか汗もじわりと浮き出てくる。

 恥ずかしいのでもうそろそろ放してほしいと思い呼びかけてもう一度振り向いた。


「あ、の、殿下……」


 スバルと目が合った時、心臓が一瞬止まったように感じた。


 知らない。こんな熱っぽい瞳。

 

 いつもの冷めた瞳ではない。まるで愛おしいものを見るかのような熱を帯びた瞳。灰色に近い青色の美しい瞳に、自分の赤くなった顔が映りこむ。


「……ッ」


 見ていられなくて勢いよく顔を逸らした。

 頭が真っ白になる。そんな中、スバルの吐息を耳元で感じた。


「ユキ」


「……ッ!」


 耳に響く。久ぶりに呼ばれる自分の名前。

 少しかすれた低い、色っぽい声が耳ともで囁かれて、ぞくっと身体が震えた。

 また全身が熱くなったのがわかる。心臓がバクバクうるさい。全身の力が抜けてくる。腰が抜けて倒れこんでしまいそうだ。けれど、スバルが支えてくれているおかげでユキはまだ立てている。もういっそのこと腰を抜かして、この腕から抜け出したいとすら思う。


 恥ずかしくて、ドキドキして、抜け出したいけれど、抜き出したくない。


 ドキドキと鼓動を早まらせながら、ゆっくりとスバルの方を向いた。

 すると、目の前に熱っぽい瞳のまま、スバルの顔が近づいていた。ユキの頭に手を回され固定させられる。もう逃げられない。


 息が触れる。まるでスローモーションのようにスバルの唇が近づく。

 

(なに……、なになになになに……⁉)


 ユキは混乱した。なぜ今スバルが顔を近づけてくるのか。

 このままではお互いの唇が当たってしまうではないか。

 

(待って、待って、待て待て待て待て待て待て――……‼)


 ユキは混乱を心の中で叫んだ。

 この状況はなんだ。スバルは今何をしようとしている。

 怖い。なんだかこのまま流されてしまえば、とんでもないことが起こる気がする。

 けれど、逃れられない。この瞳に捕まってしまえばユキはもう逃げられないのだ。

 何より大好きなスバルを、なぜ拒否することができるのか。


「あ……」


 唇が触れそうになる。恥ずかしさと怖さで、ユキはぎゅっと目を瞑った。


 





「スバル殿下ー! もうひどいじゃないっすか! 気絶させたんだったら面倒みてくださ、い……よ……」


 すると執務室の扉が唐突に開いた。

 そこには後頭部を抑えているユウトの姿。

 ユウトは扉を開いた先の光景を見て、言葉が徐々にしりすぼんでいった。


「……」


「……」

 

 ユキの頭は真っ白になった。茫然とユウトが驚いた顔をしているのを見つめる。そのせいかスバルの動きも止まっており、同じように扉の先を驚いた表情で見つめていた。

 

 そういえば、着替え終わった時にユウトが床にめり込んでいる姿を見たような気がする。

 こんな現実逃避なことをユキは考えた。


 しばらくお互い無言で、見つめあっているとユウトが気まずそうに視線を逸らした。こんな風に抱きしめられ、顔を近づけさせていれば、誤解もされる。すると、ユウトは何も見なかったというように目を瞑り、扉の取っ手に再度手をかけて、部屋の外に出ようとした。


「あー……、お邪魔しましたー……」


 その言葉を聞いて、ぶわっとユキの顔に熱が集まった。


「わああああああああああああああああああ‼」


 あまりの恥ずかしさに、ユキは奇声をあげながらユキの肩に手を回していたスバルの腕を両手で力強く掴み、そのまま背負い投げをした。ドスンッっと物凄い音を立てながらスバルの身体は床に投げ出される。


「ちょお⁉ えッ⁉ あんた何してんの⁉」


 まさかのユキの予想外の行動にユウトは目を剥いた。

 しかしユキは気にせず取り繕うようにわざとらしく声をあげた。


「スバル殿下! 危なかったですね! 毒虫が背中についていましたよ⁉」


「は⁉」


 これもまたまさかの発言にユウトは理解できないというように声をあげる。


「大丈夫です! こうして駆除いたしましたので! いやあ! 私ってなんて優秀な護衛騎士なんでしょう‼」


「何言ってんのあんた⁉」


 わざとらしく、一仕事終えたというように額の汗をぬぐう動きをするユキにユウトは混乱した。


「…………てめぇ…………」


 すると、地を這うような低い声が下から聞こえ、ユウトとユキはゆっくりと目を向ける。

 そこには投げ出されたまま背中を床につけたスバルの姿があった。あいにくスバルも突然のことでまったく受け身をとれておらず、攻撃をそのまま食らってしまっていた。

 あまりの仕打ちに、スバルは眉間に青筋を立てながら勢いよく起き上がって目の前のユキに怒鳴りつけた。


「王子ぶん投げるなんざいい度胸だ‼ 表に出やがれッ‼」


「はッ! あなたが私に勝てますかね? 日頃の運動不足が身体に祟るのではないですか⁉」


 怒鳴りつけられたユキは、なぜか得意気な顔をしながら言い返した。これは恥ずかしさを隠すための虚勢というものだ。しかし今は怒りでスバルはそこまでわからない。


「てめぇのそういうところがむかつくんだよ‼ ちょっとはしおらしく大人しくできねぇのか‼」


「護衛騎士に大人しさを求めるなんて、殿下はなんと愚か、いえ馬鹿なのでしょう!」


「馬鹿なのはお前だこのポンコツ女‼」


「言いましたね⁉ 表に出ろッ!」


「望むところだ‼ 口のきき方を教えてやるッ‼」


「いやいやいやいやいや‼ 何やってんですか‼ 二人とも落ち着いて……ッ!」


 状況についていけず、右往左往していたユウトは燃え上がっていく言い合いに割って入った。どう考えても自分のせいだ。ユウトはなんとかしてこの場を収めようとした。すると扉の外からガチャガチャと鎧がすれる音が近づいてきてユウトは焦った。


「スバル殿下! 今物凄い物音がいたしましたが……ッ!」


 思った通り、王城の衛兵だ。

 先ほどユキがスバルを投げたときの音が外に漏れ、急いで駆けつけてくれたのだろう。普段ならその仕事ぶりを称賛したいところだが、今はそれどころではない。


「いえいえ! なんでもないっす! ただ本を落としただけっすから!」


 ユウトは急いで扉に近付き、開けさせないように押さえつけて誤魔化す。その間にもユキとスバルの言い合いは火がついていった。


「私が、あなたより強いということを骨の髄まで叩き込んであげましょう!」


「この前までピーピー泣いてた女が、どの口開いてんだ!」


「……ッ上等だ‼ 王子だからと言って手は抜かない! 覚悟しろッ!」


「かかってこい! この鈍感女が‼」


 ユキは腰につけていた剣を抜いてスバルに剣先を向ける。スバルも挑発に乗りいつも下げている剣を抜いてユキに向ける。

 その光景にユウトは青ざめた。


「ちょちょちょちょッ‼ やめて! ここで抜剣しないで‼」


「抜剣⁉ 今、抜剣とおっしゃいましたか⁉」


「いやいやいや‼ 言ってないっす! 言ってないんで早く帰って!」


 扉の外にいた衛兵に話し声が聞こえ、ユウトは苦し紛れの言い訳をする。


 ユウトの頑張りのおかげで、執務室で乱闘にはならなかった。

 しかし、ユウトは決意した。



 部屋に入るときは、ノックをちゃんとしよう。




 

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