15.願いが一つだけだと誰が決めた
スバルは兄のエイシのいる宮殿へと向かう。スバルのいる宮殿からも王城からも離れているこの宮殿。かつて皇居と言われたところだ。もういない王の皇后の住む宮殿にエイシはいた。本来であれば第一王子であるエイシがこんな場所にいるはずないのだ。
スバルは慣れた様子で宮殿に入り、エイシのいる部屋に向かう。
「兄上、失礼します」
一声かけて扉を開ける。
すると目の前の光景に目を疑った。
そこにはいつものように微笑んでいるエイシの姿ではなく、ぐったりとベットに横たわっているエイシの姿だった。スバルは思ってもいないエイシの弱々しい姿に言葉を失った。
「……ああ、すみません。スバル。こんな格好で……」
エイシはスバルに気づくと横たわりながらゆっくりとスバルの方を向いて、微笑んだ。白を基調とした壁と床が、余計にエイシの顔を青白くさせていた。部屋のあたりに置いているランプがエイシの顔に影を落とす。その弱々しい微笑みにスバルは顔を歪ませた。それはユウトも同じだったのか、痛々しそうに眉を寄せた。
「……調子悪いんですか。だったら日を改めて……」
「いえ、大丈夫ですよ。君が来てくれると嬉しいです」
「……」
そう言ってエイシは安心させるように微笑みかけるが、ベットから身体を起こそうとしない。いや、起こせないのかもしれない。
スバルは少しためらったが、苦々しい顔をしながら部屋に足を踏み入れエイシの隣の椅子に座る。
するとエイシは苦笑いをしてスバルを見上げた。
「この前より顔色悪そうだ。今日は濃い日を過ごしたみたいですね」
「……」
顔色が悪いのはどちらなのか。
昨日会ったばかりなのに、昨日とは違い顔が青白く、目の下に少し隈もできている。それなのに、エイシはいつものように微笑むばかりだ。
「君の婚約者も、昨夜はひどい目にあったらしいですね。君もさぞご立腹でしょう。捕まってよかったです。あ、けど殺さないようにしてくださいよ。君は後からでも平気で殺していまいそうです」
「…………しませんよ」
「おや? 今間が長かったですよ?」
いつものように茶化すように笑うエイシに、スバルは痛々しそうに見つめる。
スバルはふうっと息を吐く。先ほど決意を言葉にするために、息を吐くことで落ち着かせる。
今からスバルは、第一王子で王位継承権第一位を持つエイシを裏切る。
スバルは、この国の王になる。
誰の断りもないが、スバル自身がそう決めたのだ。
落ち着かない心臓がうるさい。胸の内で一つ悪態をついて、スバルは口を開いた。
「兄上、俺は……」
「婚約者様は大丈夫ですか?」
言葉を開こうとしたスバルに、エイシの声が重なった。
言葉を遮られ、スバルは少し驚いたあと戸惑ったように答えた。
相変わらず情報が早い。
「……えぇ、まあ。けど今日は休めてますよ。あいつは不服でしょうが」
「ふふ、強いお人なのですね」
そう言ってエイシは楽しそうに笑い、顔を天井に向けて頭を枕に深く沈ませた。
「あいつは、弱いですよ。脆くて、護衛騎士なんて向いてません」
「けれど私は、君の婚約者には向いてる思いますよ」
「……またその話ですか」
エイシの一言にスバルは不機嫌そうに顔を歪ませた。そんなスバルにエイシは顔を向ける。それは昨日と同じように滅多に見ない真剣な顔だった。
「スバル、言ったでしょう。婚約破棄した理由が私のせいなら、今すぐやめなさいと」
「俺も言ったはずです。俺は好きでやっていると」
スバルも負けじと言い返す。
何度言われようと、ユキを婚約者に戻す気など毛頭ない。
歪な、歪んだ独占欲。
そばにいてほしいと望んでいたとしても、ユキがスバルのそばにいることは認めてはならないのだ。自分の気持ちを抑えてでも、ユキを遠ざけねばならない。
それができるかどうか、今のスバルには自信がない。
彼女がそばにいてほしいがために、彼女にすべてを隠し変わらないユキを望んだスバル。
思いやりもないそんな勝手な想いは、今すぐにも自分から離した方が、ユキのためなのだ。
そばにいてほしい。けれど、それをすればどうなるかスバルは知っている。
ユキを否定して、拒絶して、遠ざけないと。
そんなことを考えながら眉を潜ませていると、エイシはゆっくりとスバルの頬に手を伸ばして、触れるか触れないかの距離で止まる。
「君が何かを好きにやってることなどいつありましたか?」
「は?」
エイシからの言葉に目を開く。何を言われたのかよくわからなかったからだ。しかしエイシはそんなスバルを見て悲し気に目を細める。
「君、王族が嫌いでしょう?」
「……嫌いも何もありませんよ。王族に嫌いも好きもありません」
スバルの言葉にエイシはふうっと息を吐いて伸ばしていた腕を戻す。
「では、こう言いなおしましょう。君は、王族を抜けだしたかったのでしょう?」
「……!」
ひゅっと息を飲んだ。
さっきとは別の意味で心臓がばくばくとうるさい。全身の血が冷たくなっていくような感覚がして、ぞっと身体を震わせる。
なぜ、エイシがそんなことを――……。
そんなスバルにエイシは気にせず言葉を続ける。
「君は昔から勉強も剣も、君は優秀だった。覚えも早いし頭もいい。傍から見れば君は秀才な王子です。……けれど、君自身は違った」
エイシはまるで昔を思い出すかのように目をつぶって瞼の裏に情景を浮かばせた。
「なぜかどこか窮屈そうだった。周りから褒めたたえられても、何を送られても。君は息がしにくそうに、苦しそうだった」
その言葉でスバルも昔の自分を思い出し、膝の上で拳を握る。
「君は自由をどこかで求めていた。王族という身分で周りが見るのではなく、自分で選んで自分で歩んだ道を行きたかった。幼いころ、下町に行っていたのはその影響でしょう」
「……違う」
スバルは俯いて小さく呟く。しかしエイシは止まらない。
「だから君は、王族の身分を返上してどこか遠くに行こうと考えていた」
「……」
スバルは唇を噛んだ。
昔、確かに思っていたことだ。
物心ついたときから違和感だった。王族として生まれ、王子として育てられ、不自由なんてなかった。服だって食事だって勉強だって、一流の物が与えられ生きるのにも困らずスバルは恵まれた。きっと下町で貧民生活を送っている人々にとってはさぞ贅沢な羨ましい暮らしに見えるに違いない。
けれど、スバルにとってはその何もかもがスバル自身を縛る物でしかないように思えた。王族だからと王子だからと、身分だけで与えられ育てられ誰かもわからない人々に愛される。それはとても幸せなようで、恐ろしくぞっとするものだった。
身分というものしかスバルを見ない。どれだけ失敗をしたとしても決して怒られることなどない。スバル自身なにか特別なことをしたわけでもないのに、スバルは国民から、使用人から、衛兵から、様々な者から理由もなく敬愛される。スバルがどんな人物さえも知らないまま。自分の意思でもなくただ王子というだけで、周りは何も考えず当然の如くスバルを許し愛す。そんな周りが気持ち悪くて仕方がなかった。
昔から持っていた違和感。だからスバルにとって王族という身分は動きにくくて、そして不気味な場所だった。
だからスバルは抜け出そうと思った。スバルは王子という身分であるが王位継承権第一位のエイシがいる。スバルが離れても何も問題がないだろうとそう思っていたのだ。王族を抜け出した後、伯爵などの身分はいらない。どこか遠くの地に行って縛られずに生きてみたかった。
「けれどそこで出会ったのが、婚約者のユキさんだ」
「……」
ユキ、という名前に思わず反応する。
スバルは初めて会った時のことを頭でかすかに思い出す。
「君は彼女を愛した。だからこそ、君は愛した彼女を王族になんかに入れたくはなかったのでしょう? そして君は考えた。彼女を結婚した暁には、王族を返上して彼女とともにこの国から去ろう、と……」
「……ッ」
図星を突かれて俯いたまま目を逸らす。
そうだ。スバルはユキと離れたくはなかった。けれど、王族にもさせたくなかった。だから、王族としての身分を返上し、ただのスバルになれば、彼女と共に国の外で暮らそうと、そう考えていた。そうすれば彼女を父のツクヨ男爵と完全に関わることはないし、彼女を解放できる。優しいユキも事情を話せばきっとわかってくれる、ついてきてくれる。そう確信していた。
「けれど、問題が起こった。……王位継承権第一位である私が病に伏せってしまったからだ」
「……ッ‼」
ベットに横たわったままのエイシをスバルは勢いよく顔をあげてみた。そこには、いつものように微笑む兄の姿。けれどそれはどこか寂しかった。
エイシが倒れたのは三年前。それは突然だった。
エイシは部屋で倒れているのを発見された。それが幸いしてか公にされることもなく、一部の貴族や官僚にしか知られていない。
流行病でもなんでもない。けれど原因不明の病だった。だから王である父は感染の疑いをもち、エイシをこの宮殿に隔離したのだ。まるで息子を人とも扱わない父に憤りを感じたのは言うまでもない。しかし徐々にエイシに症状が確実に表れた。
最初は手足のしびれが表れ、そしてついには一日歩くのがしんどくなり全身の筋肉が衰え始めた。どうせ働きすぎで最初は疲れが出たのかと思っていたスバルも、さすがにエイシのこの症状には驚いた。そんな症状は聞いたことがなかったからだ。どんどん弱っていく兄。倒れてから一か月、そのころにはベットから出ているところをまるで見なくなった。スバルがいくら文献を読み漁っても、病名は決して見つからなかった。このままもし筋肉が衰えていくならば、声はどうなるのか。食事はどうなるのか。心臓は――……。
もしかしたらという最悪な状況を想像せざる終えなかった。
それはスバルだけでなく、貴族たちや官僚たちの間で何度も協議された。
次の王候補について――……。
エイシは申し訳なさそうに微笑む。
「私の余命はもう少ない。三年前のあの時で、本当はあと一年と言われていたのだから。だから君は彼女を手放した」
「違う……」
スバルは呟く。小さな小さな否定を呟く。
「私がいなくなれば、君が王になるしかなくなるからだ」
「違うッ‼」
スバルは勢いよく立ち上がり声をあげてエイシの言葉を否定した。立ち上がった拍子に椅子が後ろに倒れる。エイシは、怒りに染まり恐ろしい剣幕で見下ろすスバルを静かに見返す。
「何勝手にべらべらしゃっべてんだ! 知ったような口ききやがって‼ そのこととあいつと、ユキとは関係ねぇだろッ‼」
「関係はあるよ。だって君が彼女を手放したのは、母のことがあったからだろう?」
「……ッ!」
息を飲み拳を強く握る。先ほど強く握った際に傷ついた傷口が開き、血が再度あふれ出す。
エイシは横目だけでその様子を見る。
「母は弱かった。心も身体も。子どもが産めない身体だったのに、二人も産んでくれた。しかし、それが身体の負担を悪化させた」
弱かった母。元々の身体の弱さから、皇居に閉じ込められ、王の寵愛すら受けずにいた母はその精神さえも弱っていった。
それでも決して息子を恨んだり、憎んだりはしなかった。人並に大切にしてくれたと思う。話せば答えてくれたし、話しもしてくれた。勉強だって教えてくれたこともあった。
いい母だっと思う。けれどただ、皇后には合わない、普通の人だった。ただそれだけだった。
「そして、彼女は毒を盛られて死んだ。呆気なくね」
「……」
毒で死んだ母を思い出す、最期は安心して笑った母を思いだす。
思い出して身体が震える。いつもスバルは母の死を思い出すと身体が一気に冷えていくのだ。
「君は、ユキさんと母を重ねたのでしょう? いつか彼女が母のように命を狙われ死んでしまうことを。精神を蝕まれ日に日に弱っていく母を」
「……ッ」
もし、スバルが王になればどうなるのか。
王になってしまえば婚約者であるユキが皇后となる。側室はいらない。ユキだけでいい。
けれど、そうするとどうなる。ユキは一体どうなる――……。
「君は賢い。王という身分に様々な制約があって動けないことを知っている。父のことも、反発しながらも君は納得している。母を守れなかった父を、君は理解している。だから君は嘘でも彼女を守る、なんて言えなかったんだ」
「……ッちが」
違う。スバルは今も許せていない。母を守れなかったことを。あの人なら知っていたはずだ。母がそこまで強い人間ではないことに。もっと何かできたのではないか。母が幸せになるために、生きるためにもっと何か、何かできたはずだ。
けれどスバルは知っている。王というのは本当は誰よりも不自由で、誰よりも縛られて、誰よりも重責を抱えていることを。そして多くの権力を持ちながらも、決して自分の本当の望みをかなえられないことを。
だから、もし、と考えた。
もしユキが皇后になれば、優しい弱いあのユキを自分は守れるのかと。
守りたいと思う、死なせたくないと思う。幸せにしたいと思う。幸せにしてやりたいと思う。
けれど、理性の部分が叫ぶ。
そんなこと、不可能だと。
スバルはユキを守ってやれない。欺瞞や悪意で満ちた政治の中ではそこかしこに多くの企みが渦巻く。それを一つ一つ対処しきれない。その中でユキのことだけを守るなど。そんな余裕は王にはない。王が皇后にできることは、ただ一つの寵愛。けれど、寵愛だけでは命までは守り切れない。
そんなの、御免だった。
「君が一番に恐れたのは、彼女の死だ。だから、彼女を手放した。自分が王になる可能性があったからだ」
エイシが亡くなる可能性が浮上してきたとき、真っ先に話題に上がったのが第二王子のスバルであった。当然ながら現王の血を受け継ぎ、能力的にも問題ないと思われている。エイシの次はスバルだと。そう信じて周りは疑わない。
「君は、優しくて責任感が強い。私が死んで自分だけが自由を手に入れることを、決して認めない。そこまで非道にはなれなかった。愚かであれなかった」
スバルは自由を望んでいたが、それは兄であるエイシがこの国を継ぐと思っていたからだ。だからスバルは安心して王族をやめられると思ったのだ。
けれど、病気のエイシを置いてなお、王族として育てられた責務を捨てることなどスバルにはできなかった。決してこの国に愛着があるとか、周りに恩があるからではない。昔から植え付けられた王族としての責務をスバルが持ち合わせてしまったというのもある。けれど、ただエイシの負担を取り除きたかった。病気で死にかけているのに自分だけ逃げて丸投げして、重荷にさせたくなかった。
身分だけで周りを見てくる他の人たちと違い、エイシはたった一人スバルを見てくれる人物であり、たった一人の兄弟だったから。
騎士になりたかったと泣いていたアティシアを思い出す。そう、スバルもアティシアと同じだったのだ。この責任を放置するほど、愚かではいられなかったのだ。
エイシはスバルを見上げる。本来立っていればエイシの方がスバルより身長が高いはずなのに、スバルはエイシを見下ろしてしまう自分が嫌だった。
「……言ったでしょう? 私のせいで君が不幸になることはない。君はこれからも……」
「うるせぇなッ‼ 違うって言ってんだろ……ッ‼ 俺は王になる‼ あんたが呆気なく死んでくれるおかげで、俺が王になれるんだ……ッ! だから、だから……ッ!」
スバルは怒鳴り声をあげて、エイシの言葉を遮った。部屋中にスバルの声が響く。後ろで控えていたユウトはスバルの悲痛な響きを聞いて、悲しそうに顔を歪ませた。
「スバル。君がそんな顔していれば私もおちおち死んでられないよ」
エイシの言葉にスバルは声を失う。決して大きい声で遮られたわけでもないのに、静かな声に、優しい瞳に、スバルは一瞬頭が真っ白になった。
一体自分はどんな顔をしていたのか。
王になると決めた。エイシが倒れてからずっと考えて、考えて、考えて、やっと決めたんだ。
死なせたくなくて、生きてほしく、様々な国から医者を手配させた。
エイシは性格は良いとは言えないし、人をからかうのが好きだし、うっとおしいと思ったことも多くあったし、何を考えてるかわからない笑みも苦手だった。けれど、母が死んでからスバルを寂しくさせないように構って、からかうようになったのをスバルは知っている。スバルのために勉強を教えてくれた日もあった。剣の稽古をつけてくれた日もあった。構いすぎなぐらいエイシはスバルのそばにいた。
大切にしてくれていたことを、スバルは知っている。
だからユキを手放した。
本当は手放したくなかった。ずっといてほしかった。
けれど、ユキが傷つくのは、死ぬのは、嫌だった。母のように弱っていく姿を見るなんて嫌だった。
せめて、せめて、彼女だけは幸せになってほしくて。自分じゃなくても、もっと他にユキを幸せにしてくれる誰かと一緒にいて、幸せであってくれればそれでよかった。あの暴力的なツクヨ男爵から離すために、スバルはユキを残し、ツクヨ男爵を遠くに地に追いやろうと手配していた。せめて、それだけは彼女のためにしたかった。痛みを隠して愛しもしない父のために庇っていたユキを。せめて、せめて――……。
「君は、優しい。優しすぎる。私のために、私が責任を感じないように悪ぶって、なりたくもない王になろうとまでして。愛した女性を守るため、たった一人愛した女性さえ手放した。……君ほど、王に向いていない者はいないよ」
スバルは首を振る。
違う。違う。そんなんじゃない。
悪ぶったんじゃない。本当にそう思ってる。スバルが王になれば、責務から解放されれば、エイシはまだ少し生きられるはずだ。
ただ、生きてほしかっただけなんだ。幸せになってほしかっただけなんだ。
けれど、そんな甘い考えを持つスバルは、思惑が渦巻く政治の中を生きられないかもしれない。だからこそ、ラシフェル・サラエル・ジ・コントラスは王に相応しかったのかもしれない。誰も特別扱いせず、ただ淡々と、冷徹に、冷静に判断を下す。ある意味ラシフェルほど平等な人はいないだろう。それでこそ、国に公正な判断を下す王に相応しい人物だったのだ。
そう絶望しながらエイシを見つめていると、エイシはいつものようにスバルをからかうような笑みを見せた。
「……スバル。私は結婚するよ」
「…………は」
唐突な宣言に、スバルは口を開けて呆けた。
「もちろん今すぐにではないけど。私のことを理解して、ちゃんと子孫を残してくれるような聡明で、強い女性を選ぶつもりです」
「あ、あんた、何言ってんだ。そんな身体で……」
スバルは無意識に首を振った。
何を言っている。昨日の今日で寝込んでしまうようなそんな身体で、結婚して子供を作ると言っているのか。
スバルの呟きに、エイシは苦笑いを浮かべる。
「だからなるべく早くにです。私の子であれば、王位継承権第一位の私の子であれば、きっと誰も文句は言わない」
エイシの言いたいことがわかり、スバルは目を開いた。
「私が死んだあとは、その子に継がせます。宰相には私が信頼を置く人物を選ぶ予定です」
エイシの言葉を徐々に理解する。何を言っているか理解した途端、勝手なことを考えているエイシにスバルは怒りで頭に血が上った。
「なに……何言ってんだよ‼ 俺が、俺が王になればいいだろ⁉ あんたがそこまでやる必要なんてないッ‼」
「私には、あるよ。大事な弟のためだ」
「……ッ」
大事な弟。その言葉でスバルは言葉が詰まった。
するとエイシは申し訳なさそうに笑った。
「すまないね、スバル。私のせいで君につらい思いをさせてしまいました。もっと早くにこうしていればよかったのに、なかなか決心がつかなかった。まるで忘れ形見を置いていくようで、私も、死ぬのが怖かったんだ」
エイシは微笑みながら顔を天井に向けた。けれどエイシが見えているのはきっとこれからの未来なのだ。
「でも、もう大丈夫だ。君にたくさん甘えてしまったけれど、これからは幸せになりなさい」
その言葉を聞いてスバルは無意識に身体が震えた。
――幸せ、幸せだと?
「……ッふざけんなよ‼」
その瞬間、スバルの中で何かがはじけた。
ずっと胸に埋まっていて、吐き出せなかった思いが一気にあふれ出す。
「どいつもこいつも! なんでそこまでやれんだよ! なんで相手の為に自分を売るような真似ができんだよッ! もっと、もっと手を伸ばせばいいだろ……ッ⁉︎」
ユキもエイシもなぜ相手の為にそこまで身を粉にできるのか。スバルはわからなかった。
スバルは怒り任せに、エイシの胸倉を掴もうと近づいて、やめた。
襟から見える首元が、骨が浮き出て、あまりにも細かったから。乱暴にしてしまえば、折れて死んでしまうかもと一瞬頭をよぎってしまったから。
「……ッ」
怒ることもできない。昔にように取っ組み合いすらもできない。変わってしまっているエイシにスバルは、苦し気に顔を歪ませた。
そんなスバルの様子に、エイシは変わらない笑みを向ける。
「それは君だって同じだ。けどね、私は君だから自分がぼろぼろでも立てるんだよ」
スバルはもうエイシの顔を見なかった。本来であれば耳も塞いでしまいたい。
自分を想うような言葉は、聞きたくない。
聞いてしまえば、自分の中で固めた決心が鈍ってしまいそうだから。
「愛しているよ。たった一人の私の弟。私のために頑張ってくれた意地っ張りで、素直じゃなくて、けれど優しい弟。王族に生まれながらも、もっとも王には向かなかった優しい私の弟」
今まででない優しい声。
そんな声は、聞いたことない。聞きたくない。そんなまるで別れのような言葉。
スバルは俯いたまま、拳を強く握る。
「……ッだったら自分を酷使するのをやめろよ。俺が大切だって言うなら生きる努力をしろよッ! なんでそんな簡単に諦められんだよッ⁉︎」
エイシもユキも、なんで自分を諦められるのか。
こんな自分のために、行動できるのか。
「……スバル、もう私はダメなんだ。一か月前から碌に歩けないのです」
「……ッ!」
「スプーンでさえも、もう持てない」
衝撃の言葉だった。
報告は受けていた。ユウトにエイシの様子を見るように言って毎日聞いていたのに。いつのまにそんなに症状が悪化したのか。
その時、はっと後ろにいるユウトに振り返る。ユウトは静かにスバルを見返した。そこに動揺もなければ、焦りもない。そこで初めてスバルは気づいた。
ユウトは、エイシに言われてスバルに嘘の報告をしていたのだ。ユウトがまさかスバルに嘘をつくなんて信じられなかった。けれど、ユウトもスバルに言えなかったのだとわかる。
こんな残酷で、悲しい真実。
「三年前死ぬはずだったんです。けれど、ここまで生きてこれたのは、君が様々な医者を手配してくれたおかげです。……けど、それももう限界なのです」
スバルは、もう一度エイシを見た。相変わらずいつものように、何を考えているかわからない笑みを浮かべている。スバルは悔し気に唇を噛んだ。
「だったらやめろよ……。あんたがそこまですることないだろ……。俺が王になれば全部解決するんだ。あんたはゆっくり休んでろよ。なんで……ッ!」
「できないよ。こんなに弟が泣いて頑張っているのに、兄である私が休んでなんかいられない」
泣いてなんかいない。スバルの頬には涙は伝っていない。
けれど、視界がにじむ。エイシの笑顔が歪んでいく。
「……ッ生きろよ! もっと生きろよ! 俺は……あんたには生きててほしいんだよ……ッ!」
「うん。ありがとう」
「あんたは勝手だ‼ 好き勝手俺をからかっておいて、仕返しもまだできてないんだ……ッ‼」
「うん、ごめんね」
「まだ、聞きたいことが、教わりたいことがあるんだ……ッ‼」
「ごめんね。もう教えてあげられない」
スバルの願いは、無慈悲にことごとく否定される。
「だから、私の望みを叶えてください」
ユウトはスバルに手を伸ばした。その手が無理やり動かしているのか、腕全体が震えていて、手を伸ばすだけの動きのはずなのに、つらそうで、本当に筋肉が衰えていっていることがわかる。
「幸せになりなさい、スバル。早く王族の位を返上して、彼女と幸せになるんだ。それが私の望みだよ」
エイシの言葉にまたスバルは首を振る。
必死に手を伸ばすエイシの手をスバルは握る。そしてスバルはそのまま崩れ落ちた。
あまりにも握った手が細くて、弱々しかったから。
この人の死が近いのだと、感じてしまったから。
「ふざ、けんな……ッ‼ 俺の望みは無視かよ……ッ。いつも偉そうに勝手に決めつけて……ッ‼」
声が震える。怒りと悲しみと、涙が混ざる。
「ごめんね、スバル。愛しているよ」
「くっそ……! 気持ち悪い事言ってんな……ッ」
涙があふれ出す。エイシの手を握り、願うように自分の額に当てる。
どうか消えないでくれ、と。
「ははッ。ありがとう」
悪口を言っているのに、まるでスバルの願いを聞いたかのようにエイシは笑う。それはいつもの何を考えているのかわからない笑みとは違い、少し嬉しそうに、照れたような笑みを浮かべた。
エイシは、スバルの泣いている姿に愛おしそうに優しく声をかける。
「……まだ、時間はあります。その間に準備をするんです。これからの生活が送れるように。私もなるべく早く婚約者を見つけるから」
「……ッざけんな……」
スバルは声にならない悪態をつく。
涙が止まらない。この人がいなくなってしまう現実が突きつけられる。
それが悔しくて、腹が立って、悲しい。
この人は一度決めたら、どんなことが合っても貫き通す。
何もできない自分が悔しい。この人にこんなことをさせてしまう自分が嫌だ。
なぜもっとうまくできなかったのか。何かもっといい方法はなかったのか。
そればかりが浮かぶ。後悔ばかりが胸を渦巻く。
みんな勝手だ。みんな卑怯だ。
スバルの気持ちなんか一切考えない。ひどい奴らばかりだ。
いや、違う。わかっている。
優しい奴らが多いから、何かしたいと思うのだ。だから、こんな風に泣いてしまうのだ。
ユキもエイシも、ユウトも。
なんで自分の周りには優しい人ばかり集まるのだ。
もっと嫌な奴らばかりだったら、こんなに悩むことなどなかったのに。
身体を震わしてエイシを手を握って泣く主を、ユウトは静かに見つめた。
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「悪かったですね。スバルに嘘をつかせて」
「いえ」
あの後、スバルは『また来ます』とだけ言って部屋を出た。部屋にはユウトとエイシだけが残った。今回のは相当堪えたらしい。あんなに泣いているスバルを見るのは初めてだった。その姿が今朝のユキの姿に重なりユウトは胸が痛んだ。
ユウトは、いつもスバルに言われてエイシの様子を見に行くとき、日に日に弱っていくエイシを見ていた。その姿を見るたびにエイシから黙っておくように命じられたのだ。本来の主はスバルであるが、これを報告すればスバルが気にすることとわかっていたのであえてエイシの命令を聞いたのだ。
「……俺、あんたのこと嫌いっす」
ユウトは、寝込んでいるエイシに容赦ない悪意のある言葉をぶつけた。
それにエイシは少し瞠目した後、エイシはいつものようなからかう笑みを浮かべた。
「おや、私は好きですが」
「……」
笑いながらもいつもと少し違う弱々しい笑みに、ユウトは顔をしかめた。こうやって当たり前に目の前にいるのに、死んでしまうのが信じられなかった。何度殺しても死なないんだろうな、と思っていたのに。
ユウトはふと思い出したように天井を向いた。
「……そういえばあんたに送られた下着セット、あんたに返したいんですよ。けどこの前、間違えて部屋にばらまいちゃったんっすよね」
「は?」
ユウトの脈略のない話についていけず、エイシは素っ頓狂な声をあげた。
「片付けるの大変そうで返すの遅くなりそうなんすよ」
「はあ……」
話の真意がわからず、間抜けな声をあげて返事をしていると、ユウトは不満げな顔を逸らしながらぼそりと呟いた。
「……だから、簡単に死ぬんじゃねぇっすよ」
ぼそりと呟いた声だったが、確かに聞こえてエイシは目を開いた。ユウトは少し気まずそうに唇を尖らした後、決心したようにエイシに顔を向けた。
「あんたに返すまで、死ぬなよ」
思いもよらない言葉に、エイシは一瞬言葉を失い、口を開けて呆けてしまった。エイシは呆けた顔のまま話した。
「……あなたも意外に優しいのですね。なぜ女性にモテないのですか?」
「兄弟そろってうるせぇっすよ‼ 気にしてんだから!」
いつもの余計な一言に、ユウトは怒鳴る。
そんなユウトの様子に、エイシは安心したように笑った。ユウトもその笑みを見てほっと息を吐く。
けれど、エイシを見た拍子に布団のシミを見つけ、先ほどまで崩れて泣いていた主を思い出した。
「わかっているとは思いますけど、あの人は怖いんです。周りの大切な人を失うのが。それで自分が傷つくことを怖がってる」
「……ええ。知っていますよ」
エイシは頷く。その動きさえもなんだか辛そうだ。
「あんなに愛した婚約者を手放して、けど今では手放す方法を忘れて苦しんでる。そばにいてほしいけど、いることによって彼女が傷つくから。自分が傷つくから。その狭間でずっと戦ってる。……損な性格してるっすよ」
王になることもそうだが、スバルがエイシ以外でつらかったのはユキのことだ。スバルは、エイシにもユキにも傷ついてほしくなかった、死んでほしくなかった。
だから、スバルは彼女を婚約破棄する理由を探した。探して探して探したが見つからなかった。ユキは優秀だった。婚約者として、立派に彼女は振舞っていた。しかしその時、前にユキの悪い噂があったのを思い出した。スバルはそれを使うことにしたのだ。再度流して、婚約破棄する理由をつけた。
理由なんかなんでもよかった。周りが納得して、ユキを突き放す理由があればなんでもよかった。だからスバルは、それを理由に突きつけてユキを婚約破棄したのだ。
その姿を、苦しんでいる姿を、誰よりもユウトが見てきて知っている。ユウトにとっては、スバルこそ幸せになってほしい人だ。あんなに苦しんだんだったら、何か幸せがその先にあってもいいだろう。なのに、それを無意識に投げ捨てるのがスバルなのだ。本当に損な性格をしている。
「けれど護衛騎士にまで追ってきたその婚約者様にとっては、信頼していないと同義です。愛した人にこそ、信頼してほしいものですよ。彼女の望みは、スバルには届いていないのでしょうか?」
「届いてますよ。それでも、あの人はそんなつもりないでしょうけど」
信頼していないわけではない。けれど信頼しているわけでもない。
ただスバルは、信頼の仕方を知らないのだ。ユウトに対しては確かに信頼はあるだろうが、ユキに対しては好意を持っている女性ということもあり、異常なぐらいの過保護っぷりと執着と独占欲がある。守るために、そばにいることを否定するスバルは、そばにいたいと願うユキにとっては不本意なことなのだ。それは相手にとっては信頼されていないと捉えられてしまうだろう。
だからこそ、スバルにとってユキを信頼する、というのはとても怖いものなのだ。
「……怖がりで、優しいからね。うちの殿下は」
「知ってますよ。だって私の弟だもの」
そう自慢げに笑うエイシをユウトは悲し気に見つめた。
「だから、あまりスバル殿下苦しめないでくださいっすね」
「……」
わかっている。エイシがスバルのために行っているということも。
けれど、あんなに泣いて苦しんでいるスバルをユウトはもう見てられないのだ。
だから、なるべくスバルをもうこれ以上傷つけないでほしい。苦しめないでほしい。
それが無理な望みだと分かっていても。
ユウトの言葉に、エイシは初めて悲しむような、傷ついたような顔をした。




