10.耳を塞いで 聞かないふりをする
『……あの子を認めてやってください。スバル殿下』
キリエルの言葉が頭の中で反響する。目の前で優しく諭すように微笑むキリエルを、スバルは苦し気に顔を歪ませて見返す。
(……何も知らないくせに。どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがって……)
そういえば、ユキも同じようなことを言っていた。
『私は、あなたの護衛騎士になるために努力した! あなたに無慈悲にも切り捨てられて、見返したくて、ここまできたのに!』
『なのに、どうしてそれすら認めてくださらない……⁉』
牢獄に送る前、スバルが毒を飲んだ後、ユキがスバルに対して怒鳴っていたのを思い出す。あの時はただただユキが騎士であることを否定したが、キリエルの話を聞いてあの叫びの悲痛さが、嫌というほど理解できる。愛おしさ、恐怖、切なさ、優越感、後悔、罪悪感、歓喜、怒りが濁流のように胸に押し寄せてくる。
スバルを見返すために、護衛騎士となったと言っていたユキ。しかしその真意は違っていた。
スバルのそばにいるため、護衛騎士になった馬鹿な女。
結ばれなくても、見てくれなくても、ただスバルのそばを離れたくないと言った、一途で愚かな女。
スバルも、なんとなくは気づいていた。
見返したい、嫌がらせだと口で言っておきながら、スバルを守るように懸命に動くユキに矛盾を感じるのは、そう難しくなかった。
最初は守るその行動こそも嫌がらせかと疑ったが、心配そうに必死にスバルを守ろうとするユキを見てその疑いは一気に払拭させられた。
だからこそ、スバルはユキを解任させたかった。
ユキに離れてほしかった。こんな形でユキを不幸にしたくなかった。
しかし同時に、自分のためにここまできたユキに、スバルは優越感すら感じていた。
自分のために騎士になってまでそばにこようとしたユキに、いじらしさを感じずにはいられない。それが、彼女にどんな苦しみを与えているかわかっていても。
時間がたつほどに、一緒にいる時間が長くなるたび、安心している自分がいる。
ユキがこのままスバルのそばにいれば、ユキは決して誰のものにはならない。
護衛騎士になった女など、誰も娶ろうとは思わない。そうすれば、ユキはそばに居続けるだろう。
そうだ。だから、このまま、ずっといれば――……
ユキは、ずっと、スバルのものに――……
『ねえ、スバル。永遠なんてものはね、存在しないのよ』
「……ッ!」
スバルははっと目を見開いた。そして、目の前のキリエルの顔をそむけるように首を振る。
何を考えているんだ。
ユキを認めてしまえば終わってしまう。そばにいることを許せば、自分が許せなくなる。きっと後悔するだろう。スバルはそれが怖い。
スバルのそばにいれば、ユキを永遠に失うかもしれない――……。
頭の中で、女性の声がスバルの考えを嘲笑うように響く。
(わかっている。わかっているさ……)
スバルは、顔を青くして手のひらで覆った。気分が悪い。
「スバル殿下?」
スバルの異変に気付いたキリエルは、心配そうに顔をのぞかせた。
すると、コンコンと扉を叩く音が聞こえ、扉が開いた。
「スバル殿下」
扉から出てきたのはユウトだった。ユウトはちらりとキリエルを一瞥して頭を下げると、ユウトはそのままスバルに近付き、耳打ちをした。
「……なるほどな」
ユウトの話を聞いた。スバルは一瞬目を瞠り、そして顔をしかめた。
「キリエル」
キリエルを見て呼びかけると、キリエルはスバルの顔を見て、先ほどまであった優しい微笑みを隠して、すっと眼光を鋭くさせた。
スバルもそれに満足そうに頷いた。
「お前に頼みがある」
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陽の高い晴天の昼頃。
今日も天気がいい。心地いい風が髪を揺らす。
今日は庭園の花に水をやろう。そう考えて、アーチ状の赤と桃色の薔薇の入り口をくぐり庭園に入る。すると目の前に広がるのは、道に沿って左右に広がる色とりどりの薔薇の花たち。赤、桃色、黄色、オレンジ、白など様々な色の薔薇で揃えられている。
ここはお気に入りの場所だ。
孤児院に通い始めて数日。随分この孤児院も様変わりした。
以前はもっと寂れていて、中も隙間風が通って子どもたちが震えて寒さに耐えていた。そんな彼らを見ていられず、援助して孤児院を立て直した。その際、少し自分の趣味である薔薇園を作ってしまったが、子どもたちも喜んでくれているので問題ないだろう。
花に少しだけ触れて、屈んで匂いを嗅ぐ。
いい匂いだ。この薔薇の香りが好きで、オリジナルの香水まで作ってしまった。それがお気に入りで、毎日つけている。
薔薇が好きだ。家でも育ててしまうぐらいだ。
手入れや水やりは大変だけれど、とてもやりがいがある。蕾が開いたときの感動は、言葉が表せないくらい嬉しいものだ。
さて、今日も薔薇が元気になるように水やりをしよう。あまりに広大な薔薇の庭園を見渡し、やる気を出すように腰に手を当てて鼻をふんっと鳴らして意気込む。今日も大変だ。
すると、先ほど自分も通ってきた薔薇のアーチを通ってくる人影が見えた。
「どなた?」
そう問いかけその人物を見ると、フードを被っていて顔がよく見えない。無言で庭園に足を踏み入れる人物に、怪しんで恐る恐る近づく。
「ここは、孤児院よ。……もしかして、何か困っているの?」
フードの人物はまだ答えない。黙ったまま自分を見つめてくる。なんなのか、と怪訝に思っていると、その人物から声が聞こえた。
「……久しぶりだな。こうして二人で会うのは初めてか」
「え?」
聞き返すように声をあげると、その人物はフードをあげた。
そこから見えた顔に、驚いて目を見開く。
「あ、あなた様は……!」
何度も夜会の場で見かけたことがある。艶やかな黒髪に灰色に近い青い瞳、切れ長の目つきに端正な顔立ち。いつも無表情で、つまらなさそうに、夜会に出席していたのを遠くから見ていた。
「ス、スバル殿下……」
そこには、以前に見たときと変わらない端正な顔立ちで、まるで一枚の絵画のように、薔薇のアーチがこの人のためにあるかのように、スバルはそこで目の前の人物を見据えていた。
その時、自然の木々を思わせる暗い茶色の髪がなびいた。
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日差しが目に染みる。
ユキは、ゆっくりと目を覚ました。
「スバル殿下……?」
起き上がり、あたりを見渡しても目的の人物は見当たらない。それに少しがっかりと心が沈むのがわかった。
当然だ。スバルがずっとユキのそばにいるはずがない。それをする義理もない。
落ち込みを払うかのように、ユキは欠神した。
久しぶりによく寝た気がする。最近は、スバルの警護で一晩中起きていることも多かった。もちろん仮眠はとるが、疲れが完全にとれるわけでもない。寝ていても常に神経は張りつめているし、剣も外せない。だから、今朝のようにぐっすり寝るのは、あまりないのだ。
欠神をしたユキは自分の袖を見て、スバルのジャケットを未だに着ていることを思い出した。
「あ、これ。返さないと……」
そのまま寝てしまったせいで、皺がところどころできている。ユキは申し訳なく思い、脱ごうとした。しかしその時、かすかに香るスバルの匂いで腕を止めた。
「……」
じっとスバルのジャケットを着た自身の腕を見つめる。
伸ばすと腕が出ない。全体的にダボダボだ。これを見るとどうしてもスバルが男の人だと意識せずにはいられない。
抱きしめられたら、こんな感じだろうか――……?
少し、想像しかけて顔が赤くなる。誰もいないのに赤くなった顔を袖で隠すと、スバルの匂いが鼻孔をくすぐった。恥ずかしいが、まだこうしてスバルを感じていたい。
ユキは、目を閉じてスバルを思い出しながら袖を顔にあてた。
「あ、ユキさん。おはようございますっすー」
「わああああああああああああッ‼」
「ぶッ‼」
すると、急にユウトがノックもせずに部屋に入ってきた。ユキは驚いて、ユウトに向かって力いっぱい枕を投げた。ユウトも急なことに対応できずに、そのまま枕に顔をぶつける。ユウトは顔に当たった枕をとって、ユキに突っかかった。
「……ッ。なんすか⁉ 一体!」
「そ、そっちこそなんだ! ノックぐらいしろ!」
まだ寝てると思ったんす―っと悪びれもないユウトに、ユキは顔を真っ赤にして憤りを感じた。一応、女の身であるユキに全くの配慮がないその態度に、ユキは少し複雑な気分になる。令嬢を捨ててから時間は立ったが、それなりにまだ恥じらいというものは残っている。着替え中だったらどうするつもりだったのか。今のように気にせずズカズカ入ってくるのだろうか。じとっとユキはユウトを見た。
しかしユウトは気にせず、ユキのもとに向かい昨夜のスバルと同じようにベッドに座った。
「……大丈夫っすか?」
ユウトの気遣うような眼差しに、ユキは一瞬目を瞠りそのあと苦笑した。
「大丈夫だよ。みんな心配性だな。あんなことぐらいでへこたれないさ」
「……そうっすか」
ユウトは眉を潜めながら、ユキから顔を逸らした。何か気に障ることでも言ってしまっただろうか。ユキは小首を傾げながらユウトを見ていると、ユウトはぼそりと呟いた。
「泣いてたくせに……」
「え?」
「なんでもないっす」
よく聞こえず聞き返したが、ユウトにはぐらかされてしまった。一体なんなのだ。
ユウトはそっぽ向いたまま、頬杖をつく。ユキはその様子を首を傾げて見つめた。
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――昨日は、あんなに泣いてたくせになにが大丈夫、だ。
ユウトは、ユキから顔を背けながら不機嫌そうに眉を寄せた。ユウトは昨日扉から聞いていたユキの泣く声を思い出していた。
昨日スバルを心配して、青年を連行した後ユウトもユキの部屋に向かった。
スバルは今頃ユキが襲われて腸煮えかえっているに違いない、と思ったからだ。
すると、スバルがユキの部屋の前で立っているのを見かけた。扉が閉まっているのにどこにも行こうともしないスバルに、ユウトは遠目で首を傾げた。すると、スバルは扉の取っ手に手をつけそのまま引いた。そして扉から現れたのは、瞳に涙をためて身体を震わせていたユキだった。
いつもからでは想像できないような、か弱い、女の子の姿がそこにはあった。
そこでユウトは、ユキが女性だということを改めて自覚した。
いつも強気な態度を崩さず、剣も強くて、物怖じしない、そんな人だと思っていた。
しかし違うのだ。ユキだって女性だ。あんな風に襲われれば怖いと思うはずなのだ。
なのに、なぜ彼女なら大丈夫だと思えたのか。
ユウトはあの時あまり心配していなかった。
送ると言ったのも、心配というより立場的にスバルにそんな事務的なことはさせれないと思ったからだ。あくまで彼女は護衛騎士。そんな彼女が護衛対象であるスバルに送ってもらうなど、周りから変に思われるだろう。それなら気心がしれているユウトの方がいいだろうと、そう思った。見たところ彼女も微笑んでいたし、それほど怖い思いはしていないのだろうと。形式上は送ったほうがいいだろうと。
次の日も平気な顔して、執務室にいるに違いないと。
ユウトは、昨日の自分を悔いた。
ユキの気持ちも知らないで、どれだけ怖い思いをしたのかも知らないで。
勝手に決めつけて、笑っているから大丈夫だって思って。
自分の薄情さに吐き気がする。
スバルは気づいたのだろう。ユキが強がっているだけだという事に。
だから彼女を送ると言ったのだ。
ユウトはちらりとユキを一瞥した。ユキはきょとんと首を傾げたまま見返す。
細い身体だ。
スバルから借りたのだろうジャケットはダボダボで袖からは手が出ておらず、ユキの身体を覆っている。
細い身体。細い肩。細い腕。細い首筋。
その身体は女性そのもので、ユウトはまた視線を逸らした。
剣が強いから、本当に忘れてしまう。
男のような口調で話すから、本当に忘れてしまう。
彼女が、強がりで、本当はか弱い、ただの女性だという事を。
ユウトは、はあと溜息をついた。
違う。こんな風に落ち込みに来たのではない。
ユウトはユキに向き直った。急に向き直ったユウトにユキは少し目を瞠った様子だった。
「……今回の黒幕が、わかりましたよ」
「……ッ!」
ユウトの衝撃の言葉に、ユキは目を開いて驚いた。しかしすぐに冷静になってユウトを見返す。
「……ツクヨ男爵だろ?」
「いえ。違います」
ユキは顔を歪ませた。それにユウトも目を細めてユキを見る。
「ツクヨ男爵はフェイクです。大方、犯人に仕立て上げるのにぴったりな人物だったんでしょうね。あの発情期野郎が証言したあれは、犯人に命令されたものだと思いますよ」
犯人はおそらくあの青年が捕まる可能性も考慮して青年に命令していたのだ。自分が犯人だとたどり着かせないために。
しかし、ユキはなぜか焦ったような表情をした。
「け、けど……、怯えていたし、そんな余裕なかったんじゃないか?」
「その可能性もありましたけど、あの毒殺メイドは自白剤打っても口を割らなかったのに、あの野郎だけべらべら話すには、犯人の人物像が一致しないっすよ。わざと言わされていると考えるのが妥当っす」
あの口の割らなかった忠誠心のあるメイドから、犯人はよほど慕われている人物だと分かる。しかし、青年のように脅されてべらべらと話されるような人物では、わずかに違和感が残る。しかし、脅されて怯えていても、しっかり犯人からの命令を守ったのだとしたら、犯人の人物像と一致する。
そう言って肩をすくめて話すユウトに、ユキは首を振った。
「そんなのわからないじゃないか。あの人は、スバル殿下のことも私のことも恨んでいた。許せないって怒っていたのを、私は見た! 動機は十分だし、間違いないだろ!」
「……」
必死に言い募るユキに、ユウトは冷たい視線を送る。その視線を受け、ユキは押し黙って逃れるように俯いてシーツを握る。
「ツ、ツクヨ男爵の……父のせいでいいだろ?」
苦しそうに、呻くように声を発したユキを、ユウトは同情するように見下ろした。
「あんた、知ってますね? 今回の黒幕を」
「……」
ユキは、押し黙ったまま話さない。話す気はない、と意思表示しているのか。しかしユウトは気にしないように話を続けた。
今回の事件の黒幕を、はっきりとさせなければならない。
スバルのためにも。必死に黒幕を庇おうとする愚かなユキのためにも。
「今回の黒幕は……」
「ダメだ……。やめてくれ……ッ」
ユキは涙が混じった声をあげながら、自身の耳を塞いだ。まるで聞きたくないというように、そのまま頭を抱えた。その様子をユウトは静かな目で見下ろした。
子どものように耳をふさぎ、身体が震えている。怖いのだろう。
昨日あんな目にあっても、人の前では気丈に振る舞っていたユキが、この黒幕の名前を呼ぶことに怯えて、泣いている。
ああ、やっぱり。この人は優しすぎて、そして弱いのだ。
昨夜のスバルの言っている意味がようやくわかった。
「言わないで……ッ」
懇願するように放つユキの言葉に胸が痛む。しかしここではっきりと言わなければならない。
ユウトは一度目を閉じ、決心したように目を開いた。
「今回の黒幕は、キリエル・ヴァンモスの奥方、アティシア・ヴァンモスです」
黒幕の名前を聞いてゆっくりと顔をあげたユキの瞳には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
その潤んだ黄金の瞳が綺麗だと、一瞬でも、ユウトは思ってしまった。