9.雨がすべてを打ち消してしまえばいいのに
ユキが襲われて次の日の朝方。
ずっとユキの隣で起きていたスバルは、朝日が出たと同時に部屋を出た。襲った青年は、牢獄に収監されているため、もうユキに危害はないと思うがスバルはユキのそばから離れる気になれず、そのまま隣で朝までそばで見守っていた。ついでに、ユウトには自室で休むように命令して休ませた。
スバルは、部屋をでて尋問の様子を見るために牢獄に向かう。スバルにはまだ仕事がある。今回の黒幕を、突き止めなければならない。誰もいない廊下にスバルの足音だけが響く。すれ違うのは、わずかに残った官僚たちと見張りの衛兵だけだ。
ユキをあんな目に合わせた奴を、許しはしない。
『ツクヨ男爵だ! ツクヨ男爵に言われてやったんだ……ッ‼』
昨夜の青年の証言を思い出して、思わずスバルは顔をしかめる。
頑なに黒幕について話そうとしなかったあのメイドと違って、あの衛兵の青年はいとも簡単に話した。
この差はなんだ。
あのメイドは『あの人のため』と言っていた。よほど慕われている人物のはずだ。なのに、あの青年は、簡単にツクヨ男爵の名前を言った。ひどく怯えていたせいで、そんな余裕がなかったということも考えらえれるが。
わずかな違和感だが、気になる。
「スバル殿下」
考え込みながら廊下を歩いていると、後ろから声をかけられ振り向く。
「……キリエルか」
そこには、ユキの師範であるキリエルがいた。キリエルは、スバルと目が合うとわずかに腰を下げて挨拶をした。
「おはようございます、スバル殿下。早い時間に申し訳ございません。あの顔合わせ以来ですね」
キリエルはいつもの堅い表情のままスバルを見た。
キリエルは、騎士団団長を引退はしているが、今でも騎士団の指導者として王城の出入りはしている。しかし、主にスバルのような王子やユキのような専属の護衛騎士などの部屋がある宮殿には、足を踏み入れる機会がない。なのに、キリエルがなぜいるのか。スバルは怪訝そうにキリエルを見返した。
「……珍しいな。お前がこの宮殿に来るなんて。いつもは訓練場にしか入り浸らないのに」
「はい。その……ユキが襲われたと聞きまして……」
キリエルが言いにくそうに、目を逸らす。キリエルのその態度にスバルは少し瞠目した。
いつも厳しく、たとえ指導している騎士団員に対してだって厳格な態度を崩さないキリエルが、こんな歯切れの悪そうな口ぶりをするなんて。
「その、無事、なのでしょうか?」
キリエルが顔をあげて心配そうに、スバルに尋ねた。
「安心しろ、少し怪我をしてしまっているが、命に別状はない。……ただ、今は休んでいる。面会はあとにした方がいい」
「そ、そうですか」
スバルは、いつもの口調を隠し王族らしい口調で応える。するとキリエルは安心したように息をついた。
「……スバル殿下。少しお話よろしいでしょうか?」
「……ああ。わかった」
本当はすぐにでも尋問の様子を知りたかったが、キリエルの真剣な眼差しにスバルはあきらめたように頷いた。キリエルが戦闘のような真剣な表情をするときは、たいてい本当にスバルのためのことだったりする。スバルはそのことがわかっているから、了承したのだ。
スバルはキリエルをつれて、宮殿をでて王城の客間に案内した。
「……で、話とはなんだ?」
スバルは客間のソファに座り、目の前で同じように座っているキリエルを見返した。
そういえばこの客間はユキを婚約破棄を伝えたときの部屋だったな、と思い出し思わず顔をしかめる。しかしキリエルはスバルの表情には触れず、淡々と話し始めた。
「ユキは、いかがですか? ちゃんと任務をこなせていますでしょうか?」
「……私に剣を向けてきたから、最近牢獄に入れた。が、脱獄して今に至っている」
「…………ま、誠でしょうか?」
「真実だ」
スバルから聞くあまりのユキの行動に、キリエルは顔を引きつらせた。昨夜の一晩で起こったことなので、まだ王城中には広がってはいない。キリエルが知らないのも無理はない。しかしスバルは大して気にしてはいない。牢獄に入れたのも、周りの衛兵が騒いだため形式上のものだったし、脱獄したのもユキのことだから、スバルを守るためとか護衛騎士だからとか、そんな理由だろう。
しかしスバルにとって、これは絶好の機会だった。
これで、ユキを護衛騎士から解任できる材料ができた。
スバルはバレないように、膝の上の拳を握る。
まだ、まだ間にあう。
手放せない、離れたくない、そう思っていても。まだ、スバルの理性はちゃんと残っている。
大丈夫。大丈夫だ。まだ、まだ、演じきれる。
心のどこかで、騒いでいる声が聞こえる。嫌だと、叫んでいる声が聞こえる。
しかし、スバルは無視した。無視しなければならない。
昨夜、思ってしまった気持ちを押し殺さなければならない。
このまま、キリエルがユキは使えないと判断して引き取ってしまえば、ユキは二度とスバルのもとに来ることはないだろう。
それでいい。それでいいんだ。
泣いていたユキに、優しすぎるユキに、スバルのそばは不似合いだ。
すると、顔を引きつらせていたキリエルはふっと困ったように笑いをこぼした。
「スバル殿下も、人が悪いですね。確かに感情的になりやすい子ですが、あの子があなたに対して、理由もなく剣を向けるはずありません。脱獄も、きっとあなたのためと思ってのことでしょう」
「……なぜ、そう思う?」
スバルは一瞬瞠目したが、気づかれないように表情を戻した。それに気づいたのか気づいていないのか、キリエルは微笑ましそうに目を細めて笑った。
「騎士になりたい理由を、聞いたからです」
@@@@@@@@@
「……なぜ、そこまでして騎士になりたいのだ。それはもう、女としての道を捨てることになるぞ」
雨が激しく降る中、雨に打たれるのも気にせずに、騎士になりたいと懇願してきたユキに、最初こそは断ったものの、引き下がらない必死な様子にキリエルは少しユキに興味を持った。
何が彼女をそこまで動かしているのか。どうしてそんなにも強くあろうとするのか。それが気になった。
王国騎士団の、さらに団長になりたいなど、途方もない夢だ。
王国騎士団は、庶民や貴族、身分関係なく入団できるものであるが、正式に入団するには、血反吐を吐くような鍛錬を受け、それに耐えなければならない。実際に死人を出すこともしばしばある。それでも生き残って、鍛え上げられた者が入団できるのだ。そんな屈強な男ぞろいの中で一際強者と言えるものが団長になる。そんな力関係で成り立つ、ある意味平等な世界で、女であるユキが通じるとは到底思えない。
しかし、彼女に強い意志を感じる。それがなにか、キリエルは気になった。
すると女は考えるように少し俯いたあと、まっすぐにキリエルを見て口を開いた。
「ただあの人の、スバル殿下のおそばにいたいのです」
思ってもみなかった発言に、キリエルは目を開いた。
「なに?」
茫然としたまま聞き返すキリエルに、ユキは困ったように微笑んだ。
「驚かれますよね、こんな理由。だけど、婚約破棄された私が、あの人のそばにいくには、もうこれしかないんです。騎士団団長までなれれば、あの人の護衛騎士にも匹敵するはずです」
その言葉を聞いて、はっと目を開いた。
そうだ。どこかで見たことがあると思っていた。
一度だけ、第二王子とその婚約者が参加するという舞踏会で、見かけたことがあった。華麗に、アドリブを交えた素晴らしいダンスをしていた、あの赤みがかった茶髪の女性。
髪色は違うが、この満月のような黄金の瞳、少し切れ長の目元、少し幼さなさを残した美しく整った顔つき。
間違いない。
第二王子スバル・サラエル・ジ・コントラスの婚約者、ユキ・ツクヨだ。
キリエルは、ユキの正体に気づいてすぐさま向けていた剣先を下した。
「なぜ、あなたが……」
驚いているキリエルに、ユキは変わらず微笑んだ。
「婚約破棄されたんです。家も出ました。なので、かしこまらなくても結構です」
「し、しかし……」
キリエルは困惑した。
なぜ、スバルの婚約者であったユキが、こんな従者もつれず雨に打たれ、剣を習いたいなどと言うのか。
さらに、婚約破棄されただと。キリエルは信じられなかった。
スバルは、よく無表情のことが多くとっつきにくい印象ではあったが、婚約者のユキの前では、その表情も雰囲気も以前より柔らかくなっていた。お互い好き合っていると思っていたのに。まさか婚約破棄をしただなんて。
キリエルが困惑していると、ユキは諦めたように微笑んだ。
「婚約破棄された理由は、私の落ち度です。けれど、あの人にとって私は、ただの道具だったみたいです。役に立てる人材であれば、誰でもよかったんでしょう。……きっと、すぐに新しい婚約者を見つけるはずです。私よりもっと賢くて、美しくて、立ち回りの上手な女性が」
「……」
そう言って目を伏せて微笑むユキに、キリエルは何も言えなかった。ここで二人のことで何か言葉を言うには、野暮で薄っぺらいものになるだろうと。
それでも、キリエルは納得できなかった。
「……いいのですか? 騎士になるということは二度とあの方と結ばれることはありません。ましてや護衛騎士なんて……」
騎士は、庶民から貴族までなれることから、身分的には低い位置に位置づけされている。その中でも、護衛騎士になればそれなりの位や身分は与えられるが、それでも王子の婚約者に選ばれるには、あまりに粗末すぎる。
けれど、ユキはまっすぐキリエルを見て微笑んだ。
「……ッ」
それはとてもきれいで、雨がまるで彼女の宝石のように輝いていて。
けれど、雨水が髪に、頬に伝って、泣いているようにも見えた。
「いいのです。それでいいのです。結ばれなくても、見てくれなくてもいい。……私は、どうしてもあの人のそばにいたい。婚約破棄された私が、あの人のそばにいるには、今はいない、あの人の護衛騎士になるしかないのです」
ユキは、祈るように胸の前で手を組んだ。
「……夢があるんです。護衛騎士になってあの人のそばにいけたら」
「夢……?」
茫然としながらキリエルは、聞き返す。
ユキは、ゆっくりと頷いた。
「私は、弱いですから。特訓して、心も身体も強くなって、護衛騎士になればきっと、役に立てます。私は剣を振って、あの人の外敵からお守りするのです。『よくやった』って褒められて、名誉勲章なんかもらえたりして。あの人の行く末を、そばで見守るんです」
想像しているかのように目を伏せ、微笑んで語るユキに、キリエルは目が離せなかった。
「それで、あの人の選んだ婚約者と結婚したら、もしかしたら私はあの人の王太子妃様の護衛に任命されるかもしれません。でもそれでも構いません。きっと、あの人が選んだ女性です。すごく優しくて、綺麗で。きっと私はその人が好きになります」
雨が弱まってきた。だんだんとユキの声も鮮明に聞こえてくる。
しかしキリエルは、もう、聞きたくなかった。
「女性同士なんで、あの人より仲良くなって、そしたらきっとあの人拗ねるんです。それを王太子妃様と二人で『おかしいね』って笑いあって友達になるんです。きっと楽しいはずです」
キリエルはゆっくりと首を振る。
彼女は、何を言っているんだ。
「それで、二人の子どもができたら、私はその人の護衛につきます。二人の子どもだからきっと可愛いはずです。私は、知識はあるから教育係も兼任することになるかもしれません。だけど、勉強ばかりじゃなくて、いっぱい遊具を作って遊ぶんです。きっと活発ないい子になります」
夢を語って、目を伏せているユキはキリエルの表情に気づかない。
「それでその子が大きくなれば、私はもうそろそろ歳で、引退も考えるかもしれません。その時は、わがままですけれど、引退まで、あの人のそばに戻りたいと思います」
雨が完全に止んだ。徐々に雲が晴れて、光が差す。
「それで私は、あの人が息を引き取る瞬間までそばにいて……」
ユキは、ゆっくりと目を開ける。満月のような黄金の瞳が、キリエルを捕える。
満月のような黄金の瞳が、不似合いのはずの晴れの空の下で印象深く輝く。
輝いて見えるのは、瞳いっぱいに涙をためているからだ。
けれどどこか幸せそうに、満足そうに微笑んで。
「幸せでしたよって笑って、最期を看取るんです」
彼女に光が差す。
それは、まるで天が彼女を祝福するかのように。彼女の夢を輝かせるように。
「そうなれば、きっと私は、世界一幸せ者になれるんです」
「……ッ!」
彼女の残酷な夢。それを幸せだと疑わないまっすぐな瞳。
なぜわからないのか。瞳にためている涙が、そうではないと否定していることに。
ユキは、微笑む。自分の輝かしい夢に。それが幸せであると信じて。もしくは思い込んで。
キリエルは、胸がつぶれそうになった。
なぜ、なぜ――……ッ!
ただ、それだけが胸に広がる。こんなこと思っても、意味はないのに。
なんて、痛々しくて、一途な想いか。
ただ、そばにいたいという思いだけで、ここまで自分の気持ちを犠牲にできるものなのか。
キリエルは、もう一度ユキをまっすぐみた。
決意したように、幸せに向かおうとしているユキに、もうキリエルでは止められないと悟る。
「わかった。あなたを鍛えよう」
「………ッ! 本当ですか⁉」
キリエルの言葉に、ユキはぱっと顔を輝かせた。
「ただ、私の特訓は生半可なものじゃありませんよ」
「はい! ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げるユキに、それにキリエルは複雑な表情で見下ろした。
この選択は間違えているのかもしれない。彼女を悲惨な末路に辿らせてしまうかもしれない。
しかし、キリエルがしてやれることは、今の彼女の望みをかなえてやることだけだ。
キリエルは、頭を下げているユキにそっと手を差し伸べた。
「家を出たと言っていたね。なら私の家に来なさい。その方が特訓しやすい」
ユキは、一瞬目を瞠ったように目を見開いたが、そのあとおずおずとキリエルの手をとった。
これが、ユキが護衛騎士になる最初の一歩だった。
@@@@@@@@@
「これが、あの子があなたの護衛騎士になった出来事と理由です」
ユキがキリエルを訪れた日を語り終えたキリエルは、スバルに優しく微笑んだ。しかしスバルは、ひどく顔を歪ませた。まるで、泣きそうになっているのをこらえているかの様だ。その姿にキリエルはふっと息を吐くように笑った。
「……その反応ですと、別にユキを嫌いになって婚約破棄したわけではないのですね。何か別の事情がありそうだ」
「……お前には関係ない」
スバルは、顔を歪ませながらいつもより低い声で、キリエルを突き放す。しかしキリエルは動じなかった。
「そうですね。けれど、私はあの子を娘のように思っているのです」
キリエルは、思い馳せるように天を仰いだ。
「私と妻には、子どもはできませんでした。毎日戦いにでていた私のせいで。だから、あの子と暮らすようになって初めて娘ができたように感じたのです。妻のアティシアも、それはもう、可愛がっていました」
スバルは不快そうに眉を寄せ、俯く。スバルが知らないユキの話。これまで、何をしてどうやって護衛騎士になったのか。それをスバルが聞くには、胸が張り裂けそうだった。
「……あの子を認めてやってください。スバル殿下」
キリエルの優しい響きの言葉に、スバルははっと顔をあげる。
目の前には、もう『コントラスの鷹』と呼ばれる英雄はおらず、そこには一人の父親としてのキリエルがいた。
「あの子は、三年間ほんとうに厳しい訓練に耐えてきたんです。何度も吐いて、苦しんで、痛い思いをして。けれど涙も弱音も決して見せなかった」
「……」
「どうか、その努力だけは認めてやってください。頭ごなしに否定しないでください」
力強い目が、スバルを見る。しかし、スバルは目を逸らしたかった。
こんな話を聞かされては、もう、ユキを解任になんて、できるはずがない。
「私が、『コントラスの鷹』が言うのだから、間違いありませんよ」
キリエルは、優しく、諭すように微笑む。
スバルにとってそれは残酷だ。
彼女を、ユキを、逃がしてやりたいのに。
つなぎとめる理由ができたことに、心のどこかで歓喜している声が、聞こえた気がした。