8.想っても、想っても、届かない
ユキが青年に襲われて、スバルに救出された後、すぐに大勢の衛兵を連れたユウトが来た。どうやら、あの青年が情報を流していたスパイだと掴んだスバルたちは、青年を捕縛するため、青年の見回りのルートを捜索していたらしい。
ユキは自分のあられのない姿に、急いで散らばった服を拾ってなんとかズボンだけは履いたが、上はまだ下着のままだ。小屋から出てきたユキに、ユウトは一瞬恥ずかしそうに目を逸らして、すぐさまユキがスバルに借りたジャケットのボタンを留めた。一つにくくっていた髪も落ちかけボサボサで、見苦しい姿を見せてしまった。しかし、そのユウトの気遣いにユキは微笑んだ。
「ありがとう」
「いえ……。冷えるでしょう。送っていくっす」
「うん。ありがとう」
そう言ってユウトがユキに手を伸ばす。ユキはユウトの優しさがうれしくて微笑んでその手を取ろうとした。
「いや。俺が送っていく」
するとスバルが伸ばしたユキの手を掴んだ。一瞬目を瞠っていると、スバルはユキの返事も聞かずにそのまま手をつないだまま引っ張っていった。
「スバル殿下……⁉」
少し強引なスバルの行動に、ユキは驚いて声をあげる。しかし、まるで離さないというように強く握る手が、少し弱っていた心に暖かさを与えた。その暖かさに少し安心したユキは、落ち着いて口を開いた。
「スバル殿下、あの……。先ほどの青年の発言ですが……」
「なんだ?」
歯切れの悪いユキに、スバルは顔を向けないまま続きを促した。
『ツクヨ男爵だ! ツクヨ男爵に言われてやったんだ……ッ‼』
青年の言葉を思い出し、ユキは口を開こうとしたが、躊躇するようにまた口を閉じた。
「……。いえ、なんでもありません」
スバルはそのまま何も言わずに、ユキの部屋にたどり着いた。
「ありがとうございます、スバル殿下。しかし、私は大丈夫ですよ」
そう言って微笑むと、スバルは怪訝そうに眉を寄せる。
「……大丈夫なのかよ」
「大丈夫ですよ。あんなことぐらいで怖がるような、そこらにいる女ではございませんので」
「……そうかよ」
いつものように得意げに微笑むとスバルは不貞腐れたように顔を逸らした。
「では、殿下。おやすみなさい。良い夢を」
ユキは、胸に手を当てて礼をとり、自室に入った。ユキは後ろ手に扉を閉め、そのまましばらく顔を俯かせた。
「……」
ゆっくり息を吐き、暗い自分の部屋を見渡す。
暗い、暗い、部屋の中。
その瞬間、突如襲われた青年の顔が浮かんだ。
ギラついた瞳で、獰猛な笑みを浮かべ、服をゆっくりと脱がされていく恐怖。
身体が急に思い出したかのように震えだす。
震えが止まらず、押さえつけるように自身を抱きしめる。
怖い、怖い怖い怖い――……!
剣がどれだけ強くても、どれだけ自信をつけても、女である部分が本能的に恐怖する。
涙があふれてくる。あのまま、スバルが来なければどうなっていたのか。想像しかけて、首を振ってやめ、身体をさらに縮めさせる。泣くまいと思っていても涙は止まらず、声を出さないように、必死に嗚咽を押さえて涙を流す。
「……ッ!」
すると、突如扉が開いた。後ろ手で取手を持っていたユキは、そのまま後ろに倒れる。しかし、身体は床につかず何か暖かいものに支えられた。その正体を確かめるため、ユキは顔をあげた。
「で、殿下……」
そこには、先ほど別れを言ったスバルが不機嫌そうにユキを見下ろしていた。
「……馬鹿が。震えてんじゃねぇか」
スバルはそう呟くと、ユキの膝裏をもちユキを横抱きにして遠慮なく部屋に入っていく。ユキは突然のことに目を剥き、スバルのされるがままになっていた。
「で、殿下⁉ あ、あの……」
「黙ってろ」
有無も言わさないスバルの口ぶりに、ユキが口を噤むと、スバルはまっすぐユキのベッドに近付いてユキを優しく下した。ユキは茫然とスバルを見上げる。
「……どうして……」
ユキを下したスバルは、ベッドの端に座ってユキの方に顔を向けた。その際、ギシっとベッドが鳴ってわずかに身体が沈む。
「……変に強がってんじゃねぇよ。バレバレなんだよ」
いつものように不機嫌そうに眉を寄せながら、一瞬躊躇してスバルはユキの瞳に残っていた涙を拭った。それにユキは、諦めたように微笑む。
「バレバレ……ですか。うまく、やってきたんだけどな」
「お前がどれだけ強くなろうが、女らしくなかろうが、お前自身の根本は変わってねぇよ。お人好しで、思い込みが激しくて、強がりで素直じゃなくて」
「……」
「だけど本当は怖がりで、臆病で、寂しがり屋だ」
拭っていたスバルの手が、徐々に降りてユキの頬を包む。ユキを見つめるまっすぐな瞳に、ユキは顔を歪めた。
「……誤った評価だ」
「そうでもねぇだろ」
スバルはユキの頬から手を離し、ユキに布団をかけた。
その暖かさに、優しさに、ユキは否定するように顔を逸らす。
「……ひどい人だ……。あなたはそんなに私を弱くさせたいのか」
「お前は、弱い。ただ強がっているだけだ」
「……ッ」
スバルの無慈悲な言葉にユキは唇を噛む。
そんなこと知っている。だから強くなろうとしたのに。
剣が強くなれば、心も強くなると思った。
他人に翻弄されて、泣くだけの自分が嫌だった。
だから強くなるために、努力したのに。
涙を流さなければ強くなれると思った。力に立ち向かえば弱い心に蓋ができると思った。
だから、努力した。強くなって、スバルの護衛騎士になって。
そうすれば、きっと――……
しかし、今では、全くそれが意味がないことが証明された。
ユキは未だ弱いまま。
悔しさに、また涙が溢れ出てくる。
スバルに婚約破棄された時もそうだった。あの時も、ユキはこうして涙をためて、言われるがままだった。ユキは背を向けたまま、責めるように口を開いた。
「……あなたに婚約破棄された時、ひどい人だと思いました。何も事情も聞かずに、知ろうともせずに、私を一方的に突き放した。私は、あなたのお見合い相手に選ばれて、婚約者になってから、私、頑張ったんです。本当に……頑張ったんです……」
「……」
「ダンスのレッスン、覚えが悪くて寝る間も惜しんで毎日練習をしました。そのせいでかかとやつま先がえぐれて立てない日もありました。語学や経済、その他の淑女の作法を学ぶのに、父に一歩も外から出してもらえず、部屋にこもらされたことも何度もあります。早くあなたに会いたくて、勉強して、覚えて。けどそのせいで目の下に隈が出来て結局会いに行くことはできませんでした」
ユキの声が静かに部屋に響く。
「この髪も、これを隠すのに家の中でもウイッグをつけなくてはならなくて、蒸れてしまうんです。脱ぎたいのに、許してくれなくて。そのせいなのかわかりませんが、何度も夜中に吐いてしまったんです。喉が焼けて、数日は戻りませんでした」
それでもスバルは何も言わない。それが悲しくて、徐々に声が震えて涙が混ざる。
「私……ッ、精一杯努力したんです……。あなたのとなりに立ちたくて、あなたを支えたくて……。あなたと……結ばれたくて……ッ!」
「……」
「私の、何がいけなかったんでしょうか……?」
瞳から涙があふれる。今更こんな告白惨めだ。
初めて会った時に芽生えた、きらきらした小さな小さな、幼い想い。
けれど、それでもユキを突き動かすには大きな想いで。それだけで十分で。
だから平気だった。
父に冷たくされても、殴られても、愛情を碌にもらえずとも。
他の令嬢から嫌がらせを受けても。
時々他の男爵や侯爵に舐めるようにいやらしく見られても。
それでもよかった。先に待っている未来が、ユキが望んでいるものだったから。
しかし今ではもう、ただ惨めで。
もう二度と報われない、救われない。
ユキの告白にスバルは何も話さず、静かな声でユキの布団を肩まであげた。
「……もう寝ろ」
肩まで上げた布団からスバルの手の感触が伝わる。震えていたユキの身体を落ち着かせるようにゆっくりと撫でた。
ユキは、スバルに顔を向けた。
「……ッ、ひどい人だ……ッ!」
この優しさが、どれだけ無情な行いか。この人は知らない。
それでも、高鳴ってしまう自分の鼓動が、悔しくて仕方がない。
ユキはスバルを睨みつける。しかしスバルはその視線を受けても、ただ静かにユキを見下ろしていた。
「ああ。知ってる。俺はそういう奴だ。……だからお前は、俺のところに来たんだろ?」
「……ッ!」
その言葉にユキははっとした。
「そ、そうですッ! 私は、一方的に婚約破棄した女に守られる惨めなあなたを笑いにきたんだ! ひどいあなたに仕返しするために!」
「はいはい。もうマジで寝ろ」
ユキの発言に、スバルは聞き流すように、というかまるで追い払うかのように手を振った。さっきまでのしおらしさは消えて、一方的に婚約破棄された時の怒りを思い出したユキは、そんなスバルの態度に煽られるように、自ら布団を顔まで被った。
「寝ますよ! 寝てやる! 殿下が襲われても知らないッ! 言っときますが、一瞬でも私にいやらしいことをしようとたら、その腕叩き斬ってやりますからッ!」
「不敬罪で処罰するぞ」
しばらく黙って寝ようと試みたが、ユキは護衛騎士になってからどうしても気になったことをベッドに入って思い出し、おずおずと布団から顔を出した。
「……そ、その……」
「まだあんのかよ」
顔を出すと不機嫌そうに見下ろすスバルと目があって、ユキは顔を赤くした。
「い、一応確認なのですが、女の護衛騎士というのは、そ、その……ね、ねねねね、ねねねねね閨事のお手伝いとかも、しなければならないのでしょうか……?」
「…………は」
スバルは突拍子もないことを言われ、口を開けて茫然とする。
しかしこれは、ユキにとっては真剣な問題。今まで女の護衛騎士など例にない。しかし女だからこそ任される仕事というのもあるのかもしれない、とユキは少し不安だった。
その仕事の一つが閨事だ。
ユキは、「男女で裸でベッドに入る。もしくは抱き合う」ぐらいの知識しか知らないが、役目を果たせるのだろうか。
主の欲求というものを解消させるのも、護衛騎士の役目だとしたら――……
ユキは、顔を赤くして不安げな表情でスバルを見上げた。
「ど、どうなの、でしょうか……?」
驚きから戻ってきたスバルは一瞬顔をしかめたが、そのあと表情を戻して完全に解けきったユキの髪を一房すくった。
「……ま、お前がそうしたいっていうなら、そうしてもいいが?」
「……⁉ い、いや……ッ結構です!」
平然と言い放つスバルに、ユキは思わず顔を赤くしながら否定して布団に潜り込んだ。身を捩った際に、スバルの手から髪が離れる。
「そうかよ」
それにスバルは表情を変えずに応えるが、ユキはその言葉に意識せずにはいられなかった。
「ほ、ほんとうに……?」
顔を赤くして布団から顔をのぞかせておずおず問うと、スバルは苛ついたように顔をしかめた。
「いいから寝ろよ! つか、お前の身体に微塵も興味ねぇよ!」
その言葉に、意識していた心と顔の熱が一気に冷えていくのを感じて、真顔になる。
「………。そうですか。はいわかりました。おやすみなさい」
そう言って、やっとユキは布団のかぶった。しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
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「たく……」
その様子にスバルは、溜息をついた。
先ほどまで、男に襲われ、震えて泣いてたくせに。
なのに、急に閨事がどうとか。
相変わらず、この女の思考は読み取れない。
「素直じゃないのはあんたもでしょ」
「あ? ユウトか」
部屋の扉が開いたとともに、ユウトが入ってきた。外で会話を聞いていたようだ。ユウトは、ユキが寝ているベッドに近付き、安心したように眠っているユキを見下ろした。
「ほんっと素直じゃないよ、あんたら。お互い素直になったらもっと簡単に結ばれたんじゃないっすか? 見てられないっすよ」
「……うるせえ」
スバルはユウトの痛い言葉に顔を逸らすようにユキの寝顔を見た。ユウトもユキを見て痛々しそうに眉を寄せた。
「本当、一途ですよね。痛いほどに。……スバル殿下、わかってます? この子の本当の目的」
「……ああ、わかってる。……だから馬鹿なんだ。せっかく逃がしてやったのに」
そう言ってスバルは、ユキの頬に手を伸ばし優しく包み込んだ。
悲し気に、切なげに、愛おしそうに目を細めて、けれど泣きそうにも見えて。
「本当にお前は馬鹿だ。………もう、逃がしてやれない。手放してやれない」
スバルは、そっとユキの目元をさすった。
また会いたいと思ったのは、いつだっただろう。
そばにいたいと思ったのは、いつだっただろう。
笑顔が見たいと思ったのは、いつだっただろう。
声をもっと聴きたいと思ったのは、いつだっただろう。
柔らかそうなその手に触れたいと思ったのは、いつだっただろう。
その細い身体を抱きしめたいと思ったのは、いつだっただろう。
その白い透き通るような肌に、触れたいと思ったのは、いつだっただろう。
その小さな唇に、触れたいと思ったのは、いつだっただろう。
その瞳に、自分しか映らなければいいのにと、思ったのは、いつだっただろう。
この気持ちが、好きだと気づいたのは、いつだっただろう。
愛おしいと、思ってしまったのは、いつだっただろう。
スバルは、あふれだす想いに泣きそうに、苦しそうに唇を噛んだ。
きっと、伝えればうまくいく。
ありのままをそのまま伝えれば、きっと。
ユキは微笑んで、受け入れてくれるだろう。
けれど、それでは意味がない。意味がないのだ。
あの時、ユキを手放した意味が、決意が、無駄になってしまう。
けれど、戻ってきたユキを、スバルはあの時のように突き放すことは、もうできない。
手放せない。離れてほしくない。
「ユキ……」
吐息混じりに、切なげにユキの名を呼んで、もう一度涙の跡を拭うように、親指でさする。
その際、殴られたのであろう少し腫れた頬を優しく撫でた。
こんな風に、傷ついてほしくなかった。
こんな風に、泣いてほしくなかった。
ただ、幸せになってほしいと、そう願っただけなのに――……。
うまくいかないな、とスバルはわずかに自嘲した。
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その様子を見たユウトは、目を逸らしてぽつりとつぶやいた。
「……ほんと、見てられないっすよ」
ユウトは、スバルがなぜユキを手放したのか知っている。
こんなにも婚約者を愛していたスバルが、悩んで悩んで、苦しんで、この結論を出した。
まだ後戻りできる前に、これ以上欲を出さないように、気持ちが溢れてしまわないように。
スバルは、ユキを婚約破棄した。
しかしユキは、戻ってきた。スバルの護衛騎士という形で。
なぜ、ユキが護衛騎士になってスバルのもとに戻ってきたのか、ユウトはなんとなく察している。
それは仕返しをするためなんかじゃなくて――……
ユウトは、苦々しく顔をしかめる。
どうして、うまくいかなかったんだろう。こんなに愛し合っていたのに。
誰にでも、幸せになる権利はある。王子だって、なんだって、誰にでもある権利のはずだ。
それを手放して、この二人だけが不幸になる必要などない。
苦しんでもいい。泣いてもいい。ただ、最後は幸せになってほしい。
そうユウトは流れ星のない夜空に、静かに願った。