第八話 ご無沙汰でした、“お前”です
五月最後の水曜日に行われた書記委員の会合では、眠気の差した顔にムチを入れなければならないような議題が出され、毎度だった華世のあくびはいよいよ封印された。
「六月九日に実施される、今年度の生徒会役員を決める放送演説会、及び投票までの流れを確認するため、本日の委員会を設けました」
書記委員長の小早川くんが口頭で述べた。
「投票の開示では私たちの中から一人が参加し、経過を書記することになります。生徒会役員への同時立候補は認可されていますので、興味のある方は後で私の所まで来てください。活動内容をまとめたプリントをお渡しします」
「生徒会なんて私には無縁の話。華世がやりたいっていうなら、応援してあげないこともないけど」
解散後、教室で待ってくれていた美奈子に委員会での内容を話して聞かせると、返ってきた答えがそれだった。華世と美奈子が互いの名で呼び合い、同じ席で昼食をとり、バス停までの道のりを一緒に下校するようになってから、もう三週間ばかり過ぎていた。
一人ぼっちの時間は格段に減ったものの、美奈子の毒舌が耳に不快な刺激を与えてくる機会が増えたのは確かだった。
「つまり、華世が当選するようにじゃなく、他の人が落選するように呪いをかければいいんでしょ? 簡単!」
しかし、そんな美奈子を憎めないのはどうしてだろうかと、頭を抱えるだけ無駄なことは百も承知だった。友情に理屈なんていらない。
「黒魔術なんかのオカルトに詳しい女の子が隣のクラスにいるけど、頼んでみよっか?」
華世は相手にしなかったのに、美奈子はまだそんなことを言っていた。
「いいってば。あたしはね、やるんだったら自分の力でやり通すつもりでいるんだから」
「それが不安だから提案してるんじゃない」
二人が教室を出て廊下を渡り、一階へと続く階段を下り始めた時、踊り場の陰から小さな男が一人、ひょいっと飛び出した。以前、学校で華世をナンパし、会議室で鬼山に投げ飛ばされた森下だった。
「ねえ君たち。今から俺とゲーセン……何だ、どっかで見た面だぞ」
華世と美奈子の顔に素早く目を走らせながら森下は言った。美奈子が鼻で笑った。
「そうかもね。あなたが会議室で鬼山くんにコテンパンにされるのを、私は確かに見たもの」
「あたしは前にもあなたに声をかけられたしね。森下くん」
森下の顔がみるみる強張ってきた。ボサボサの頭をかきむしる姿は、ひどく当惑しているようにも見えた。おりしも、階段を上る足音が三人の元へ近付いてきた。
「また君か、森下くん」
このシチュエーションに、華世ははっきりと見覚えがあった。そう声をかけたのは藤堂だった。美貌に満ちた紳士の風貌は相も変わらず、それは、彼の足元に広がる埃っぽいただの階段が宮殿の階段に見えるほどだった。
「いい加減にしないと……」
藤堂はつばで喉を詰まらせたように言葉を切った。間違いない。華世と目が合ったその瞬間に、藤堂は口をつぐんだのだ。
「お久しぶりです、藤堂さん」
華世が言葉をかけた。ほとんど挑戦的な口調と笑顔だった。
「森下くん。君はもういいから帰れ」
森下は何も言わず、藤堂の気迫に押されるようにしてその場を去っていった。残されたのは三人の男女と、言い知れぬ緊迫感だった。
「もしかして、藤堂先輩?」
美奈子が沈黙を破った。華世と藤堂が知り合いだなんて、まったく信じられないという顔つきだ。
「いかにも。僕が藤堂渉だ。君は確か……神崎……」
「神崎美奈子です。あたしのこと知ってるんですか? 嬉しい!」
美奈子はちょっぴり頬を赤らめると、右へ左へくねくねしながら言った。藤堂が優しくほほ笑みかけた。
「同級生の朝倉が、君にひどいことをしたと聞いてね。あいつの計画を阻止できなかったことを、僕は今すごく恥じてる。……あいつは退学になるべきだった」
言い終わる頃、藤堂の顔にはひとつまみの笑みさえ残っていなかった。視線を落とし、過ぎ去った出来事にひどく憤怒しているようだった。
「あのう……あんまり気にしないで下さいね。藤堂さんは何も悪くないんだし」
藤堂は美奈子の気遣いに笑顔で応えたが、華世の方を見る時には軽いしかめっ面だった。
「それじゃあ、瀬名くんによろしく。六月の役員選挙、楽しみにしてるからって」
そう言い残して去っていく藤堂の後姿は、雄々しいたくましさと自信に溢れていた。だが、藤堂が華世を避けているのは明らかだ。
「あたしとは関りたくないのよ。あの人が校内でケータイを使ってるのを、あたしに見られたもんだからさ」
美奈子に物言われる前に、華世は早々と説明していた。しかし、美奈子はほとんど聞いていなかった。
「鬼山くんもいいけど、やっぱり藤堂先輩も捨てがたいわよね。現実的な目で見れば藤堂先輩なんだけど……。でもやっぱり、アダルトで尚且つ人生に刺激を求めるなら、鬼山くんは外せないわ」
帰りのバスに一人乗り込んだ華世が、美奈子に対して深いため息を漏らすことに何のためらいもなかったのは事実だった。バス停までの道のりは美奈子の恋愛理想論一色になっていたし、何より、その話し相手が華世一人だけとなると更に気苦労だ。
美奈子が鬼山を好いているという話は、どうやら本当のことらしい。昼休みの話題は常に『鬼山くんを振り向かせる方法』のことで定着しているし、鬼山の寝顔をボーっと眺めることはほとんど美奈子の日課になっていた。
『あいつに襲われそうになった時、そこに鬼山くんが現れたの。彼のことは前々から気にはなってたんだけど、あれは決定的だったわね。私のハートは芯からわしづかみにされちゃった』
いつかの美奈子の言葉を窓の向こう側に浮かべながら、華世は再びため息した。過ぎゆく景色が、過去の思いと共に視界から失われていくようだった。
『今のあたしだったら、神崎さんにも負けない気がする』
強気な意思を本人の前で声に出してみたはいいものの、本当のところは言うほど大した自信などなかった。誰もが羨む美にまとわれた神崎美奈子と肩を並べて、まともにやりあえる女子など皆無に等しい。
しかも、よりによって好きな男の子が一緒となれば、誰だって自らの非力さを恨んで嘆息の百発でも吐き出したくなるものだ。
男の取り合いでせっかく芽生えた友情を傷つけたくはない……あの二人がそれで幸せになれるのなら、華世は手を引いてもいいとさえ考えていた。
バスを降り、家路を辿っていると、途中の小さな公園に女の子の姿を見つけた。砂場に身を屈めてスコップを振り上げ、夢中で砂をほじくっている。それが誰だかはっきりした時、華世の心が躍った。
「沙希ちゃん!」
女の子は顔を上げ、華世のことを見つけると、握られた子供用スコップを頭の上で振った。
鬼山沙希……鬼山勝二の妹だ。
「久しぶりだね!」
駆け寄ると、華世は沙希の砂だらけの笑顔と向かい合った。
「お姉ちゃんだ! ずっと会いたかったんだよ! 家に遊びに来てくれないんだもん!」
沙希がむやみにスコップを振り回すので、華世は砂がかからないようにカバンでガードした。
「ごめんごめん。二年生になってから色々と忙しくって……小学校はどう? 楽しい?」
本当は鬼山を避けていたためだったが、そうは言えなかった。とりあえず話題を逸らしておいた。
「楽しいよ。幼稚園じゃ本の読み聞かせばかりだったからね」
一年近く会わない間に、沙希はずいぶん心変わりしてしまったようだ。前までは鬼山の家へ遊びに行く度、コンビニで調達してきた少年誌を読み聞かせてやったものだった。
「ずっと一人で遊んでたの?」
公園内を見回しながら華世は聞いた。華世と沙希の他に人の気配はなかった。
「ううん。みんな帰っちゃった。あの子たち、砂場遊びが嫌いみたい。だってね、クツの中に砂が入るとすごく嫌な顔をするんだもの」
沙希はもう一度かがみ込むと、持っていたスコップを砂の穴の中に突き入れた。
「何作ってるの、それ?」
その質問を待ってましたとばかりに、沙希は煌めく瞳で華世を見上げた。
「落とし穴」
まさかの“落とし穴”に、華世は思わず笑ってしまった。
「みんなには秘密なんだよ」
作業を進めながら沙希は言った。
「できるといいね、落とし穴。でもここでそんなことしたら、他のみんなに迷惑じゃない?」
「大丈夫。この公園を使うのは沙希と、あと、隣のおじちゃんくらいだから。犬の散歩コースなの」
「ふーん。ならいっか」
「ねえ、お姉ちゃん、これからお家に来ない? ……手伝ってほしいものがあるの」
立ち上がり、黒いワンピースから砂を払い落としながら、沙希は遠慮がちにそう言った。
「いいけど、何を手伝うの?」
「お母さんへのプレゼント。お母さん、入院したんだよ」
「え? 誰のお母さんが……?」
あまりに唐突だったので、華世は混乱していた。
「沙希のお母さん。病気なんだって。一矢兄ちゃんはすぐに治るって教えてくれたけど、たぶん嘘だと思う。目が真っ赤だったもの」
足元に転がっていたプラスチック製の黄色いバケツにスコップを投げ入れると、沙希は落ち込んだように黙ってしまった。華世はそんな沙希が不憫に思えてならなかった。
「きっと良くなるから、お兄ちゃんを信じようよ。お母さんへのプレゼント作り、あたしにも手伝わせて」
沙希の表情に幾分の笑みが戻った。左手でバケツを持ち、右手で華世の手を握った。
「すぐ行こう。落とし穴はまた明日」
鬼山宅は華世の家から百メートルほどしか離れていなかった。レンガ塀に囲まれたごく普通の一戸建てで、開かれた車のガレージには見知らぬ車が納まっている。小学生の頃は毎日のようにここへ遊びに来て、眠たそうな鬼山とよく遊んだものだった。まだ赤ん坊だった沙希を抱っこさせてもらったのも、今では良い思い出である。
当時はまだ元気だった鬼山の母親が病で倒れるなんて、華世は未だに沙希の言葉を呑み込み切れずにいた。あんなに優しくて笑顔の素敵だった、あの人が……。
「中にしまってくるから、ちょっと待っててね」
沙希はバケツを乱暴に振り回しながらガレージの中へと消え、すぐ手ぶらになって戻ってきた。二人は一緒に家の中へ入った。
「お邪魔しま……あ」
華世が玄関から居間を覗いた時、パジャマ姿の男とバッチリ目が合った。片手に牛乳瓶を持ち、今まさにラッパ飲みしようというところだった。
鬼山一矢……鬼山勝二の兄だ。
「何だ、お前か。おばちゃんかと思ったぜ」
無精ひげに覆われたアゴをボリボリかきながら、一矢は冷たくそう言った。眠たそうな目元と大柄な体格、悪い言葉遣いはそっくりだが、性格は弟ほどひねくれてはいない。
ただ、彼は典型的なひきこもりだった。華世の知るところでは、高校を半年で中退してからずっと家に閉じこもっている。
今現在はどうだろうか? 社会復帰できたのだろうか? ……答えは聞くまでもなかった。
「ご無沙汰でした、“お前”です」
華世は乱暴に言ってやった。一矢にはよくいじめられたので、これくらいつっけんどんならむしろ都合が良いのだ。
「おばちゃんって何のこと?」
ソファーの上に座りながら華世は聞いた。久しぶりと言えど、この家は昔から我が家も同然の扱いだったので、手元にリモコンがあればテレビでも見始めているところだ。しかし、テーブルの上には一つまみの埃すら乗っていないように見えた。
「母さんが倒れたろ。父さんも行方不明ときた。俺たちの面倒を見るのは母さんの姉しかいないってわけだ」
今『父さんも行方不明』と聞こえた気がしたが、華世はあえて気にしないことにした。
「嫌味な奴さ。いつも母さんの悪口を言ってるし、父さんのことなんか寝言でも口にしないようにしてら。筋金入りの掃除好きで、最近の趣味は俺たちを箒ではたくこと」
「沙希のお尻を掃除機で吸うんだよ」
沙希が補足するように言い添えると、一矢はそんな沙希を下から上までじろりと見た。
「お前はいつも砂にまみれて帰ってくるからな。ほら、顔に泥がついてる。今度は雑巾で鼻の頭をゴシゴシされるぞ」
一矢は架空の雑巾を持ち出して顔をゴシゴシさせられるジェスチャーをやってみせた。そんな醜い一矢の姿に向かって、沙希は舌を突き出し、洗面所へ引っ込んでしまった。
「ガレージの車はおばさんの物なんだ……ねえ、今家にいないの?」
牛乳をこぼしながらグビグビと飲み続ける一矢に軽蔑の視線をぶつけながら、華世はさりげなく聞いてみた。
「いねえよ」
ゲップ混じりに一矢は言った。
「隣町のスーパーまで行ってる。ご愛用のママチャリは俺たちよりも愛おしいって感じだな。勝二と意気投合して、チャリのブレーキに細工してひと泡吹かせてやろうって計画立ててんだけど、お前も乗るか?」
「ばっかみたい。……あっ、沙希ちゃん、プレゼント作ろっか!」
泥を落とし、鼻の頭をちょっぴり赤くさせた沙希が戻ってきたので、華世はすぐさま提案した。
「うん! あたしの部屋に行こ!」
つまらなそうに舌を打つ一矢には目もくれず、華世は沙希に連れられて居間を後にした。
「一矢兄ちゃん、後でおやつ持ってきてよ」
階段を駆け上がりながら沙希が注文した。一矢の不気味な笑い声が後を追いかけた。
「棚の奥に隠してあったおばちゃんの大福を差し入れてやるよ」
夕暮れの赤いオレンジに満たされた沙希の部屋に入った瞬間から、それは華世の目に強く鮮明だった。真新しい学習机の上に置かれたそれは、紙で折られた鶴の連なる、まだ完成には程遠い千羽鶴だった。
「綺麗! これ全部一人で作ったの?」
一枚一枚丁寧に折られた鶴たちは、沙希の意志を受けて今にも飛び立ってしまいそうだ。
「そうだよ。図書室の本で作り方を調べて、沙希が全部一人で折ったの」
沙希はベッドの上に無造作に置かれた赤いランドセルから一冊の本を取り出すと、それを華世によこした。『千羽鶴・完全マニュアル』と読める。
「お小遣いから計算するとね、一日で十羽が限界なの。学校でもう十羽折ってきたけど、今日はお姉ちゃんがいるからもっとたくさん作っちゃおっと」
沙希は本に書かれていることを当たり前のようにこなしているらしかった。本をパラパラとめくってみた時、華世は素直に驚嘆した。それは折り鶴の起源や由来を語る難しい文章から始まり、所々に複雑な挿絵が散りばめられている。矢印と説明書きだらけの図解に至っては、医学書の人体解剖図と競い合うように難解だ。
どうやら鬼山勝二と同じ、先天的に秘められた秀才の血が、ここにきてその底力を発揮し始めたらしい。
「とにかく、鶴をひたすら折りまくればいいのよね!」
それは赤子でも理解できる結論だった。そんな華世に笑ってうなずきかける沙希は、本当に無垢で可愛らしかった。
「お母さんの病気が治りますようにって、ちゃんとお願いしなきゃダメだよ」
二人は互いの近況をしゃべりながら鶴を折り続けた。華世は友達との付き合い方について熱心に尋ねられたが、この手の話は苦手分野だった。鬼山とは一向に間がこじれたままだったし、美奈子との付き合い方は独特で、きっと参考にはならないだろうと思えた。
「相手を思いやること。その優しさも大事だけど、誰からも好かれる素直な心でいることが一番いいんじゃないかな。友達だけじゃなく、クラスのみんなが沙希ちゃんを好きになってくれるはずだよ」
語る華世の頭の中は、なぜか瀬名雄吾のことでいっぱいだった。この場合、最も模範的な人間が何と言うのかを考えた時、真っ先に思い浮かんだのが瀬名の姿だった。華世は瀬名に成りきったつもりで助言していた。
「学校でのこと、お兄ちゃんたちには相談しないの? ……おばちゃんとか?」
七羽目の鶴に差し掛かりながら、華世はさりげなく聞いてみた。十羽目を折り終えたところで、沙希は手を止めた。悲哀の漂う視線が華世を見つめた。
「しないよ。おばちゃんは沙希たちのこと嫌ってるし、一矢兄ちゃんはあたしのことバカにするもの。……それに、夜になるとね、一矢兄ちゃんの部屋から変な声が聞こえてくるんだよ」
「変な声って?」
嫌な予感が脳裏をかすめていったが、それでも華世は聞いてみた。
「一矢兄ちゃんね、女の子の名前を呼びながら苦しそうな声出すの。真っ暗な部屋から明かりが漏れてたけど、怖くて入れなかった」
「沙希ちゃん。声が聞こえても、絶対に部屋に入っちゃダメだからね。絶対だよ」
部屋の空気が一気に重たくなるのを感じた。沙希がそれ以上深く追求してくる前に、華世は急いで話題を変えようとした。
「その……勝二兄ちゃんとはどう? ケンカしてない?」
妙に緊張しつつ、華世は聞いてみた。鬼山を一人の男として見るようになってしまったいつの時からか、華世は鬼山のことなら何でも知っておきたいという感情にかられる時がしばしあった。
そして、今がまさにその時だった。
「勝兄は好きだよ。優しいもん」
沙希は嬉しそうに言った。華世も嬉しかった。
「勝兄はね、勉強も教えてくれるし、おやつも沙希にくれるんだよ。一緒に『一石二鳥ゲーム』してくれるのも勝兄だけだし。……でも、最近たまに帰りが遅いんだよね。土曜日と日曜日は朝まで帰ってこないもん」
沙希は作業を再開させたが、気が落ち着かないせいかすぐに手を止めてしまった。
「おばちゃんは、お友達と遊び歩いて悪さしてるんだって言うけど、沙希は違うと思う」
「心当たりあるの?」
七羽目の仕上げにかかりつつ、華世は即座に聞いた。興奮した指先が、鶴を真ん中から裂いてしまいそうだった。
「ないけど……でも、違う気がする。勝兄は良いことのためにしか悪さしないもん」
その時、一矢がノックも無しに部屋へ入ってきた。両手でうやうやしく持つ銀トレーの上には、グラスに注がれた牛乳と、皿に盛られた大福が乗っている。
「大丈夫だって。さっきのとは別の牛乳だし、大福は勝二の分をくすねたんだ」
華世が無言で睨むのを、一矢は面白がるように観察し、弁解した。沙希は、一矢がわざと牛乳をこぼすのではないかと察したように、テーブルの上の鶴たちを急いで避難させた。
「沙希、おばちゃんが気味の悪い壺を持って帰ってきたぜ。言うこときかないと、あの中に頭から入れられちまうかもな。でも狭くて暗い場所がお仕置きなら、むしろ勝二にうってつけなんだけど」
「壺って何のことだろ?」
一矢が出て行った直後、沙希は好奇心に独り言を乗せて呟いた。
「壺も気になるけど、最後の一言も気になるわね。狭くて暗いお仕置きが勝二にうってつけなんて……」
「一矢兄ちゃんの言うことなんか気にするなって、お母さんがよく言ってたよ。意味なんかないんだってさ」
二人が笑いながら作業を再開させると、階段を上って来る足音が聞こえてきた。笑顔でいられなくなるほどの恐々しい足音だった。再び部屋のドアが開くと、そこに女の顔が突き出した。
「いるんじゃないの。返事くらいしなさいな……あらま」
女の怒った顔が、華世を見つけるなり徐々に和らいでいった。華世はこの人がおばちゃんに違いないと、すぐに勘付いた。ドアに隠れて見えないが、恰幅の良い体つきであることは、重なったアゴの辺りでそれとなく分かった。
「あ、初めまして。柴田華世です。勝二くんとは同じクラスで……」
「ああ、はいはい。あのろくでなしの」
華世が鬼山の知人だと分かるや、おばちゃんは肉付きの良い顔にしかめっ面を浮かべ、その大きな目で差別的に華世を見つめた。
「あの子の悪友なら、一応忠告しておくけどね。ここは禁煙で、あんたらに出すようなお酒は一滴もないよ。変な騒ぎを起こしてごらん。警察を呼ぶからね」
華世は耳を疑った……というより、目の前にいる女を疑った。その分厚い唇から出てくる言葉は、どうやら挨拶代わりの冗談というわけではなさそうだ。
「あたし、そういうつもりで遊びに来たわけじゃありません」
折りかけの八羽目が、華世の握られた手の中で悲鳴を上げるのがわずかに聞こえた。おばちゃんの視線が華世から沙希へと移った。
「あんたが上げたのかい? 相変わらず紙ばっか折って、ちょっとは家事の手伝いでもしなさいな。何だい、その目つきは。え?」
「お姉ちゃんは悪い子じゃないよ。良い子だもん」
沙希は勇ましくきっぱりと言い切ったが、おばちゃんの険しい睨みにとうとう顔を逸らし、左の頬だけ物凄く膨らませた。
「聞き分けのない子だね、まったく。まあ、子供たちがこれじゃ、妹も病気になっちまうわさ。出来の悪さは、あの甲斐性なしで飲んだくれの血を引いちまったんだろうね、きっと。引きこもりに不良……あんたもきっと、これから何かやらかすに決まってる」
華世は沸き立つ怒りで体を震わせていた。おばちゃんがあと一言でも嫌味を吐き出そうものなら、その減らず口に折り紙を突っ込んでしゃべれなくさせているところだっただろう。それこそ警察を呼ばれるにふさわしい行為だが、幸い、おばちゃんは豚みたいに鼻を鳴らして部屋を出て行ったきりだった。
華世は牛乳を手に取り、垂直に傾けて一気に飲み干した。
「ごめんね、お姉ちゃん」
沙希が悔しそうな声で言った。鶴の尾をつまんでクルクル回している。
「いいのよ、気にしないで。ほんと、怒ってないから」
クシャクシャに丸められた八羽目が華世の手元に転がっていたので、その言葉には何の説得力もなかった。華世は努めて明るく笑って見せた。
「またおばちゃんに嫌なことされたら、『一石二鳥ゲーム』を持ってあたしの家へおいでよ。おばちゃんの悪口言いながら、一緒に遊ぼ」
その後、作業は再開したものの、やはり華世の気分は落ち着かなかった。こんな時は、トイレに限る。
「トイレ、借りるね」
華世はそそくさと部屋を出ると、慣れた足取りで二階のトイレへこもった。華世の中でもやもやしていたのは便意ではなく、おばちゃんへの怒りだった。
あそこまで人間らしくしない人間に、華世は初めて出会った。学校で不良と呼ばれる輩の方が、まだよっぽど愛嬌があって可愛らしく見えてくる。血のつながりは無いといっても、子供相手にあそこまで残酷になる必要があったのだろうか?
スリッパのつま先と睨めっこしながら、華世はそのことに関してじっと考えに耽っていた。案の定、結論など出やしなかった。
「やめた」
とりあえず用を足して、華世はトイレから出た。
すぐ右手に一つ部屋があり、ドアが半分ほど開いていた。鬼山の部屋だ。
何となく……本当に突然、華世は思い立った。後ろを振り返り、誰も見ていないことを確認すると、ドアノブに手をかけた。
「お邪魔しまーす」
念のためにそんなことを囁いたが、部屋には誰もいなかった。薄暗い部屋は夕闇の静寂に包まれ、華世を素直に迎え入れてくれた。
鬼山の部屋に入るのはかなり久方ぶりだったが、ほとんど変化は見られなかった。カラッポ同然の部屋には机と箪笥しかなく、刑務所の独房を思わせるほど殺伐としていた。ただ唯一、華世の興味を引いた物を挙げるなら、それは窓際に置かれた大きな植木鉢だ。
「あいつ、アサガオでも育ててるの?」
華世は鉢を上からしげしげと覗き込んだ。それは一般的に見られる茶色の土鉢で、質の良さそうな土でたっぷり満たされている。しかし、何も植わってはいなかった。教材の積み上げられた机の上に、ミニサイズのじょうろが置かれているのに華世は気付いた。
「あの人は、俺に二つのものを残してくれた」
華世はその場で飛び上がり、そのままドアの方へ思いっきり振り向いた。鬼山勝二が部屋に入ってくるところだった。
「あの……これは、つまり、その、えっと……要するに、ごめん!」
華世は土下座も覚悟で謝ったが、鬼山はカバンを机の足元に放っただけで、怒鳴りも、殴ったりもしなかった。静かな足取りで近づき、華世のそばに立って植木鉢を見つめた。
「……怒らないの? 勝手に入ったのに」
横目でチラと鬼山を窺いながら、華世は震える声でそっと聞いてみた。鬼山は残照に目を細めながら、小さく口を開いた。
「俺と、お前の仲だろ? だから関係なかったんだ、今でもな」
華世を見下ろす鬼山の顔からは、確かに微塵の怒りも感じ取れなかった。思い返せば、鬼山の部屋に勝手に上がり込むなんて、今に始まったことではない。インターホンも鳴らさず、勝手に鬼山家へお邪魔していたのは、つい数年前の話だ。
「ついさっき、沙希ちゃんと公園で会ってさ。久しぶりに来てみたのよ。なんだか、ここも色々変わっちゃったわね。時の流れを感じないのはこの部屋くらいよ」
つま先立ちでクルッと部屋を見回しながら華世は言った。
「ところで、あの人って? 残してくれた二つのものって?」
「瀬名大吾。瀬名雄吾の兄だ」
華世はすぐにピンときた。
「あのヤクザたちがその名前を言ってた。鬼山、あんたずっと知ってたんでしょ。瀬名くんのこと」
「話に聞いてただけだ。あんな馬鹿丸出しじゃなかったら、もっとかわいがってやったのに」
「感じ悪っ! ……だとすると、瀬名大吾があんたに残したものって、瀬名くんのことだったの?」
鬼山が苦虫を噛み潰したような顔で華世を見た。
「そんなわけないだろ、バカ」
変な顔で動揺する鬼山が面白くて、華世は吹き出したいのをしばらく我慢しなければならなかった。
「一つは、これだ」
鬼山は植木鉢をアゴで指した。
「『これだ』って、ただの植木鉢じゃない。しかも何にも植わってないし」
「あの人が逮捕される前日、俺はこれを譲り受けた。毎日必ず水をやってくれって……芽は出ないがな」
「ねえ、こういうことあんまり知りたくないんだけどさ……」
華世は一段と声を小さくして植木鉢を見つめた。
「瀬名くんから聞いたけど、瀬名大吾って、大麻を栽培してたんだよね? この植木鉢の中身ってもしかして、大麻なんじゃない……?」
「否定はできないな」
鬼山は冷静に答えた。華世は驚いて鬼山を凝視した。
「何カッコつけてんのよ。あんた共犯者にでもなりたいわけ?」
「どっちにしろ、大麻を育てるにはそれなりの環境と道具が必要なんだ。アサガオみたいに、ただ水と肥料をまけばいいわけじゃない」
「芽が出るとか出ないとか、そういう問題じゃないでしょうに」
言いつつ、鬼山が植木鉢に水をやる姿は見ていて面白かった。こんな人相の悪い男が主だなんて、芽が顔を出せないのも納得だ。
「聞いたけど、お母さん病気なんだって? 具合はどうなの?」
「余命三ヶ月半」
淡々と答える鬼山。華世は言葉を失った。
「末期の胃ガン。他の臓器に転移してて、もう手遅れらしい。今抗がん剤治療で……おい」
華世が目を真っ赤にしているのを見て、鬼山が言葉を切った。
「何でお前が泣く?」
鬼山は不思議そうな面持ちで尋ねた。涙を見られたくなかったので、華世はとっさに背中を向けた。
「やだよ、そんなの。やだやだ」
「イヤなのはこっちの方だ。あんな掃除婦を残して逝かれたんじゃ、俺たちには居場所がなくなる」
「お父さんは? お父さんはどうしたの?」
袖で涙を拭いながら、華世は自分の肩越しに鬼山を振り返った。鬼山のあんな悲しそうな顔を、華世は初めて見た気がした。
「あいつは関係ない。これは俺たち兄妹とおふくろの問題だ」
「一矢は行方不明だって言ってたよ。どういうことなのさ」
「そのまま、そういうことさ」
じょうろを机に戻すと、鬼山は椅子を引いてドカッと座り込み、足を組んで華世を見つめた。
「失踪したんだ。この春にな。おふくろが倒れてすぐのことだ」
「捜索届は?」
「出してる。けど、手がかりも、その足取りもつかめない」
絶望の闇の中で、華世は首を振った。
「お父さんまでいないなんて……一体どうなってるのよ、この家は」
「あんな奴のことなんかどうだっていい。あっちからいなくならなけりゃ、いつか俺が殺してた」
鬼山の父親のことを、華世はよく知っていた。酒乱な男は暴力にものを言わせてこの家に君臨し、パチンコと競馬に金を浪費させる凶悪なごくつぶしだ。奴が家にいる時は、よく公園で遊ぶように心がけたものだ。
それゆえ、鬼山が父親を殺したい意志に関しては、華世はむしろ賛成だった。
「ねえ……なんで?」
しばらく黙り耽り、華世は喉の奥から絞り出すようにして聞いた。
「なんで何も教えてくれなかったの? そうやってみんな抱え込んじゃってさ……あたしって、あんたにとって何なの? あたしとあんたの仲って何だったの?」
鬼山は答えなかった。かたくなに視線を逸らし、植木鉢の方を見つめたまま押し黙っている。
「あたしには何もできなかったかもしれないよ。でも、何も知らないまま一緒に登校して、授業受けて、こうやって会話して……あたしバカみたいじゃん。あんたの気持なんかちっとも考えないで……」
「何か履き違えてるんじゃないか?」
鬼山は物静かにそう言って、眠たげにすがめたその目で華世を見つめた。
「両親のことを話さなかったのは、俺自身がそのことを受け入れてなかったからだ。現実を否定し、俺は今も逃げ回ってる。どこへ逃げても、その先は必ず行き止まりだった」
「何それ。呆れた」
氷のように冷たい語調で華世が吐き捨てた。横目でかすかに、鬼山が顔を上げるのを確認できたが、華世はためらわなかった。
「あんたの口からそんな弱音聞きたくなかった。『病気なんて俺が治してやる』とか言って、机の上に医学書でも広げてればまだマシだったのにさ。……何で逃げるの? 立ち向かってよ。見せかけでもいい、ただの強がりでもいい……現実と向き合う力を証明してみせてよ。鬼山勝二のそんな姿、あたしにはもう見せないでちょうだい」
「お前は良い奴だな」
何を言おうとしていたのか、華世は綺麗さっぱり忘れてしまった。その一言が体中を巡って、しまいには頭の中で旋回している。
今が夕方で良かったと、華世は心底安堵した。そうでなければ、恥ずかしさで真っ赤に染まった耳を夕陽でごまかすことはできなかっただろう。
「何よ、やぶから棒に。あたしの話聞いてたの?」
羞恥な感覚に、出てくる声はすべて上ずっていた。鬼山はおもむろに立ち上がると、窓を開け、タバコに火をつけた。タバコの煙はたそがれの弱い風に舞い、夕陽に溶けて空へと昇っていった。
「お前の話……さあな。聞いてなかった。スマン」
鬼山の一貫性の無い発言は、形ないタバコの煙そのものだった。
「あっそ。……もう帰るね。沙希ちゃんに謝らなきゃ」
「柴田」
それはノブに手をかけた時だった。華世は男の寂しげな背中に向かって振り返った。
「たまに、沙希と遊んでやってくれないか? あいつが誰かを必要とした時、お前がそばにいてやってほしい。……俺も兄貴も、沙希が望むとおりにしてやれなかった。だから、頼む」
「そんなこと、あんたに言われるまでもなかったよ」
振り向く鬼山の顔がかすかに微笑んで見えたのは、窓から差し射る夕陽が起こした幻覚だったのかもしれない。しかし、今、華世の心は充実した喜びで満ち足りている。
「沙希ちゃんのことは任せて。それより、あんたはどうなの? もし誰かが恋しくなったら、あたしがハグしてあげる!」
「いらん。さっさと帰れ」
「つれない奴。……じゃあね、バイバイ」
後ろ手でドアを閉め、高鳴る胸に顔をほころばせると、華世は急いで沙希の部屋へと戻っていった。