第七話 あたしを美しくしてよ
最近の華世の心状を例えるなら、まさに二年五組というこの教室が一番ふさわしかったはずだ。時に騒がしく苛立ち、時に不安の中で静寂し、時に孤独は悲しみを呼び寄せたものだ。欠落した二つの座席は、華世の心に大きく開いた風穴そのものだった。
その一つは、鬼山勝二の席だ。
鬼山と朝倉の両者に一週間の停学処分が下ったのは、もう五日も前のことだった。朝倉はともかく、鬼山が停学にされるなんて、華世はまったく納得がいかない。
「鬼山の場合、決定的な器物破損と過度の暴行。本人も認めてる。かたや、朝倉の場合は大方が未遂に終わり、また過失は神崎さんにもある。聞けば、脅迫じみたメールを何通も彼に送っていたみたいじゃないか」
つい先日、柏木が言った言葉がこれだった。「ちゃんと説明しろ」としつこい華世を前に、面倒臭そうな面構えで応える柏木の顔は、今でも華世の脳裏に鮮明だ。
「神崎にも過失がある」だなんて、担任の口からよくもそんな言葉を吐き出せたものだと、華世は今でも思い出すたびに腹の底が煮えくりかえる。
柏木の教師としての劣悪ぶりは、最近になって目に余るものがあった。授業が下手なのは相も変わらず、廊下を歩けば恍惚な表情を浮かべ、職員室へ尋ねてみればもっぱら居眠りばかりだ。首元のネクタイはいつも気だるそうに曲がっていた。
「五十嵐、答えなさい」
鬼山の謹慎から六日目の朝、平然と登校してきた五十嵐に向かって、華世は出し抜けに詰め寄った。五十嵐はすでに何事かを察知しているらしく、顔を背けたまま自分の席に座った。
「あの日、どうして鬼山は朝倉と神崎さんの所にいたの? どうして柏木があのタイミングでやって来なきゃならなかったの?」
「柴田には関係ない」
笑い声の交差する騒がしい教室の中で、五十嵐はかろうじて聞き取れるくらいの小さな声でそう言った。華世は更に間合いを詰める。
「関係ないって? だから露骨に避けてるわけ? この六日間、あんた変よ」
「……知ってたんだ。あの場にいた先輩の一人が」
しばしの沈黙を破り、不承不承、観念したように五十嵐はほのめかした。
「何を?」
「朝倉と神崎が密会することをさ。朝倉はみんなに言いふらしてたらしい……だから、先輩が鬼山くんに教えた」
「じゃあ、柏木に告げ口したのは誰? 放課後、滅多に行動しないあいつが、何も知らなかったあいつが、あの現場を自主的に見つけ出すことなんて不可能だったはず」
五十嵐が本腰を入れて顔を逸らしたのは明確だった。のめるようにカバンの中をまさぐるその行動は、顔まで中に突っ込んでしまいそうな勢いだった。
「まさかあんた……」
「違う! なんで僕が鬼山くんを陥れなきゃいけないんだ? 勝手なこと言うな!」
「じゃあ誰が密告したのよ!」
「お前には関係ないって言ってるだろ!」
「クラスメートの一人が登校拒否になってんだよ! 真面目に答えろ!」
周囲からシャワーのように視線を浴びていることを、華世は今頃になって気付いた。今や笑い声は消え、発狂も寸前の二人の姿を、たくさんの冷たい視線が串刺しにしている。
「もういい。せいぜいそうやって、鬼山の腰巾着にでもなってればいいのよ」
言い残し、華世はその場から逃げるようにしてトイレへと向かった。イライラした時、トイレにこもるのは華世の日課になっていた。
手洗い台の前で談笑する数名の女子生徒を脇目に、華世は鏡の中の自分と睨めっこして気を紛らわせていた。無表情を装って覗き込んでいるはずなのに、つり上がった眉も、しわの寄った眉間も、への字に曲がった口元も、何か文句を言いたげに憤怒している。
ふと、制服の胸ポケットから何か顔を出しているのを、華世は向こう側の自分を見つめている内に気が付いた。引っ張り出してみると、それはいつか神崎からもらった『KANZAKI美容院の無料優待券』であった。
実行はすこぶる早かった。
あっちが来ないなら、こっちから出向くまでのこと。放課後、華世はいつもと別のバス路線へ切り替え、『KANZAKI美容院』のある街中へと向かっていた。そこへ行けば神崎に会えることを大いに期待していた訳ではないが、黙ったまま指をくわえているよりかは幾分マシだ。
神崎美奈子……彼女ほどけなし甲斐のある奴がいない学校生活なんて、華世にとっては今を生きる楽しみが一つ失われたことに相違なかった。瀬名に言われて初めて気付かされた華世にとっての大きな存在。それが“あの女”でもあったのだ。
下車すると、そこは広い街並みをまあまあ一望できる中層建物群のど真ん中だ。華世は雑踏を突っ切り、目的の住所を目指してひた歩いた。小・中学生の頃によく遊び場としていたゲーセンやら、地下駐車場、空き地などが見えていたが、今目指すのは未だかつて踏み込んだことのない『美容院』という未踏の領域だ。
最後に髪を切ったのは四年前。中学校へ進学する直前に自分で切った毛先5ミリが最も記憶に新しい。行くことを拒んでいたわけではない。自分の容姿に自信のない華世が、“きっかけの美”を手にする場を美容院に選ばなかっただけのことだ。
気なぐさめ程度の些細な美貌なんて、咲いては散っていく桜も同然。流れ行く時間こそが、女から美を奪う天敵の象徴だ。そんなものに金を浪費するなんてバカげてる。
ただし、『無料』となれば話は別だ。『KANZAKI美容院』のガラス戸の前に立ちながら、華世は確かに心を入れ替えた(本来の目的である神崎の救済を忘れかけていたのもまた事実だった)。
「いらっしゃいませ」
入店すると、甘い香りが鼻翼を優しく包み込むと同時に、女の声が華世を迎え入れた。白壁に覆われた店内はたくさんの小さな照明で照らされ、左手にはソファー付きの待合席、右手には鏡台と革張りの心地良さそうな椅子がズラリと並んでいる。
気付くと、目の前にはカジュアルな服を着こなす若い女性が立っていた。華世の体内を、今頃になって緊張の波が押し寄せてきた。
「お名前は?」
レジのそばに立つ銀製のラックから名簿のような物を手に取ると、女はそれを覗き込みながら尋ねた。ラックには他にもKANZAKI社製の美容品が惜しみもなく並べられている。華世はこれらを眺めつつ、名前を聞かれていることを何となく理解していた。
「柴田です。柴田華世」
「予約、されました?」
華世は首を横に振った。女は至極残念そうな顔をした。
「ごめんなさい。うちは完全予約制なの」
これは予想外の展開だった。気持ちばかりが先走りして、予約しておくのをすっかり忘れていた。華世は、自分がますます場違いな人間のような気がして、穴があったら頭からダイブしたい気持ちだった。
「いいのよ。今ちょうど、キャンセルの電話が入ったところだし」
その透き通るような声に引き寄せられるように、華世はまっすぐ顔を上げた。店の奥から現れたのは、まるでファッション雑誌から飛び出したモデルの女性そのものだった。
上から下まで非の打ち所がない完璧な“美”をまとい、純白のジャケットと、身に付けた数々の宝石が輝く様は、さながら手足の揃ったダイヤモンドといった具合だ。ふわりとカールした髪の毛は肩の辺りで曲線美を描き、淡いブロンドに輝いてキラキラしている。思わず手で触れたくなるような白い肌は、向こう側が透けて見えそうなほどエロティックで、派手すぎない化粧に覆われたその顔は……まさしく、神崎美奈子に瓜二つだった。
「あの……こんにちは」
気付くと、華世はそんなことを口にしていた。どこかの国の女王様を謁見しているような気分だった。それは至高でありつつも、劣った自分を痛感する最悪の瞬間でもあった。
「こんにちは。こちらへどうぞ」
緊張していることなどお見通しなのか、女性は華世の心をもみほぐすような優しい口調でそう促した。華世の両足は、まるで催眠術にでもかけられたようにフラフラと女性の後を追っていった。
「あの……ここは私が……」
華世を出迎えた女が案じ顔でそう言った。
「大丈夫、私にやらせて」
「でも……」
「いいから」
足元まで映す大きな鏡に見えるのは、夢見るような表情で椅子に腰かける華世、そして、完璧に美しい女性とそれなりに美しい女のやり取りだった。それなりに美しい女はそれ以上何も言わず、右手奥で他の客の相手をしている店員のサポートに回った。
「お荷物はこちらでお預かりしますね」
スラリと長い指が目の前まで伸びてきた。華世が手に持っていたカバンを託す際、女性の胸の上にきらめく名札がはっきり見えた。金字で書かれたそれは、明かりに照らされ、踊るようにこう読めた。『神崎幸江』。
華世は鏡の中の女性をまじまじと観察した。なるほど、どうやら神崎美奈子は、母親に宿る美の遺伝子だけを根こそぎ受け継いだらしい。そうでなければ、あんなねじ曲がった性格に育つものか。
「ここに来るのは初めて?」
幸江が華世のすぐ耳元でいきなり囁いた。華世は女神の息吹を内耳に感じた。
「実は……美容院が初めてなんです」
華世は白状した。何だかよく分からないが、今度こそ締め出されるかと思った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫。うちは赤ちゃんでも大歓迎なんですから」
幸江が笑うと、華世も自然と笑顔になっていた。その微笑みを見つめているだけで、誰よりも幸せになれる気がした。
「ちょっと痛んでるわね。枝毛も多いみたいだし。これくらい長いと、ケアするのも大変でしょう?」
幸江は腰まで伸びた華世の黒髪を丁寧に持ち上げ、数回撫でただけであっさり見抜いてしまった。
「そうなんです。でも切りたくないんです……ずっと伸ばしてきたから」
本末転倒。いつの間にか頭髪のお悩み相談になっていた。
「大事なのは、お風呂上がりと、そして寝る前にしっかりケアしておくこと。もしかして、髪の毛をそのままの状態で眠ったりしてない?」
「はい……ダメなんですか?」
「絶対ってことはないけど、あんまりオススメできないわ。シュシュを使うとか、緩く三つ編みにして寝るとベターね。クシを念入りに通しておくと尚良いわ」
幸江の細い指が髪の束の中を上下する度、華世は痛んだ毛先が治癒されていくのを実感した。
「痛んだ髪の毛を完治させるのは難しいから、毎日のトリートメントを欠かさず、定期的に美容院へ通うこと。納豆や海藻なんかの、ネバっとした食品を摂取するのも手の内よ」
こんなことならメモ帳でも持参してくるんだったと、華世はちょっぴり後悔していた。まさか己の美意識を向上させるのに、こんなにも簡単なやり方があったなんて予想もつかなかった。華世の中に、熱い意欲がフツフツと湧き上がってきた。
「あたし、もっと綺麗になれますか?」
生まれて初めて、華世は本当に美しくなりたいと、心からそう思った。
「もちろん。あなたの意志に、私どもは全力でスキルを提供します。今日は痛んだ毛先をカットして、少しすいておきましょう。トリートメントをして、越冬の際に乾燥して痛んだ髪の毛に潤いを与えます。その後はあなた次第です」
幸江の巧みな手さばきが、髪の毛をみるみるうちによみがえらせていくようだった。クシが髪の上を流れる度、ハサミが毛先をかすめる度、華世は綺麗に生まれ変わった数十分後の自分を忠実に想像することができるようになっていった。それは大げさに美化されたものだったが、美しくありたいと願う女性なら誰もが描く夢想である。
そんな夢見心地の華世に向かって、幸江が唐突に口を開いた。
「娘と同じ制服ね」
その瞬間、華世は肝を潰したような表情を浮かべる鏡の中の自分自身と目が合った。そんな顔を幸江に見られなかったのは、彼女が手先に集中していたお陰でもあった。
「……娘さんがいらっしゃるんですか? 同じ学校なんてすごい偶然」
華世は本当のことを言わなかった。いや、正確には言えなかったのだ。どう踏み込んでよいやら分からない。手足を拘束されているような窮屈感だった。
「二年五組の神崎美奈子。知らない? 聞いた話だと、高慢で八方美人で、自分の容姿を鼻に掛けていつも威張って人を見下してるんですって」
「……誰からそんなことを?」
「たまにいるのよ。同じ学年の女の子たちが客としてここに来て、聞こえよがしに愚痴をこぼしつつ、パーマをかけて出て行くの。ここがその神崎の美容院だって、ちゃんと承知の上でね」
幸江の繕うような笑顔を、華世はもう見ていられなかった。今はただ、込み上げてくる悔しさを押し留めるだけで精一杯だった。
「最近は具合が悪いからって、ずっと休んでる」
幸江の表情と声色がより一層落ち込んだ。
「あんな性格だもの、友人が少ないことはずっと知ってたの……でも、気の強い子だから、何とかなるだろうって……考えが安直だったよね。私は母親なのに、あの子には何もしてあげられない……美奈子の悪口を言いふらす子たちに、文句の一つだって言えやしない」
潤んだ目を赤くして、幸江はその場に立ち尽くしていた。ハサミを持つ手は震え、クシは髪の毛を捉えたまま動かない。
「神崎さん!」
事態を一早く察した二人の店員が急ぎ足で駆け寄ってきた。幸江の肩を二人で抱え込み、無理矢理でも店の奥まで引っ張っていこうとしているみたいだった。
「……待って」
幸江は弱々しく声をかけ、華世の方を振り返った。不安げに立ち上がっていた華世に向かって、幸江はじっとまっすぐに見つめ続けた。
「あなたもしかして、柴田華世さんじゃない?」
あの涙で輝いた瞳で見つめられた瞬間から、華世はもう観念していた。これ以上戸惑う理由なんか、どこにもなかった。
「黙っていてごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんです。……でも、どうして私のことを?」
「高校へ進学してから、美奈子がクラスメートの名を挙げるのはたった一人だけ。美奈子はその子のことをいつも悪く言うんだけど、なぜかその時だけ、ここ一番って笑顔になるのよ。それで、決まって最後にこう言うの。『友達じゃないんだからね』って」
「それが……あたし?」
神崎のことが分からなくなって、華世は少し混乱していた。幸江は小さくうなずいた。
「聞きたいの、どうしても。柴田さんは、本当に美奈子の友人じゃないの? あの子を救ってあげられないの?」
幸江のすがるような眼差しが、華世の心の奥底をえぐっていった。涙が頬を伝って流れ落ちるのを、華世はまばたきもせずにしっかりと見つめていた。
「あたしは、神崎さんの“友人”なんかじゃありません」
華世は静かに言った。
「神崎さんは、あたしにとって一番の良き理解者であり、心から互いをののしり合うことのできる“親友”です」
胸を張って言い切るその言葉は、すべて本心からだった。華世の揺るぎない心持ちは、その揺るぎない眼差しを通して、間違いなく幸江に届いているはずだ。
「校内一の不良と一緒にいるせいで、あたしには友達がいなかった……いえ、正確には、ずっとそばにいたことに気付いてなかったんです。神崎さんがいなければ、あたしは本当に一人ぼっちでした。だから、今度はあたしが神崎さんを救う番なんです」
KANZAKI美容院を後にした華世は、教えてもらった神崎宅の住所を目指して再び歩いていた。外は夜の戸張りに包まれ始め、周囲には会社帰りの疲労した面々が溢れている。夕陽を背に街の喧騒を抜け、閑静な宅地へと踏み込む華世の足取りは、これから一戦交えようというだけあってなかなか勇ましかった。
今の神崎を学校へ引き戻すのに、トランクケースいっぱいの宝石をちらつかせたところで何の手応えも無いことは明確だった。いかなる手段であれ、あの神崎を相手取って一筋縄ではいかないことくらい、華世はしっかりと認知している。
神崎邸を見つける苦労は、目線をちょっと上に動かす手間と、少しの時間を消化するだけでよかった。
高級住宅街のど真ん中、周囲の家々もさることながら、神崎邸の大きさは群を抜いていた。アニメやドラマに出てくるような大豪邸というわけではないが、しっかりと手入れされた生垣の向こうに広がるのは、立派な松などの植わった大庭園だ。その先には塔のような邸宅がそそり立ち、すぐ脇には五台のリムジンがすっきり収まってしまいそうな程の巨大な車庫がでんと構えている。
華世は幅の広い石畳の道をゆっくり進んでいった。道の小脇には研磨された大きな岩がいくつも置かれ、その背後から、松の大木がふんぞり返るように華世を見下ろしている。根元には池が広がり、水面に夕陽を浴びながら鯉が優雅に泳いでいる。
最後に石段を登り、いよいよ神崎邸の入り口前まで辿り着いたのは、庭園に足を踏み入れてから二分も後のことだった。それは、華世にとっては十分すぎるほどの距離だったはずなのに、腕を伸ばせばすぐ届く場所に設置された呼び鈴までの距離は、もっともっと遠くに感じた。緊張と不安が、華世の感覚を鈍らせている。
「変な顔」
どこからか神崎の声が聞こえてきて、華世は顔を上げた。どこにも見当たらない。
「上よ、上」
華世が仰ぐと、天蓋に設置された防犯用カメラがこちらに焦点を合わせていた。華世は小さく笑いかけた。
「なんだ。やっぱり生きてるんじゃない。学校に顔出さないから息絶えてるのかと思ってた」
「……何しに来たの? 冷やかしならお断りよ」
「神崎さんとお話ししようと思って。つべこべ言わずに鍵を開けなさい」
「もう開いてるわよ」
取っ手を引いてみると、ドアは何の抵抗もなく開いた。しかし、真っ先に華世を迎え出たのは神崎ではなく、金色の大きな犬だった。しかもこの犬、華世に向かってめちゃくちゃに吠えまくっている。
「コーラ!」
気付くと、神崎がやぼったいパジャマ姿で立っていた。犬を叱りつけ、奥まで追いやると、華世と向かい合った。
「コーラって名前? それとも『コラ!』って怒ったの?」
華世は立ち尽くしたまま漠然と尋ねた。別にそんなことはどうでもよかった。
「名前。オスならペプシだったけどね」
二人は小さな笑顔で見つめ合った。互いが何を思い、考えているのか、手に取るように分かる気がした。
「ちょっと痩せたんじゃない?」
華世が何でもない素振りで聞いた。
「4キロくらいかな」
神崎は青白い顔を覗かせながら答えた。
「上がってよ……私の部屋に来て」
神崎は促すと、無駄に派手なパジャマの裾を引きずったまま玄関の向こう側へと消えて行った。華世は急いで靴を脱ぎ(こういった場所では靴をきちんと並べて置きたくなるものだ。華世もまたそうだった)、神崎の後を追った。扉の向こうは、まるで宮殿の一室がそっくりそのまま越してきたような具合に出来上がっていた。
天井の高いリビングはテニスができそうなほど広く、その足元は幾何学模様の赤い絨毯で覆われている。目を見張るような美しいインテリアが顔を揃え、『手を触れてはいけません』の札が脳裏に浮かぶ華世にとっては、ここは余りにも敷居が高すぎた。
総じて目立つ木製の棚の奥には数々の骨董品が飾られ、高く吊るされたシャンデリアの明かりに照らされたその様は、一つ一つが私を見てくれとばかりに強く訴えかけてくるようだ。棚の一番下の段には、お馴染みの『KANZAKI化粧品』の一味がひっそりと息を潜めていた。
「ママの趣味ね、ぜーんぶ。……何か飲む? コーラしかないけど」
呆然と立ち尽くしていた華世に向かって神崎が声をかけた。華世がうなずくと、神崎は小走りして部屋の奥へと消え、ティーカップに並々とコーラを注いで戻ってきた。あの犬も一緒だった。
「これティーカップじゃん。新手のギャグなの?」
カップを受け取りつつ、足元の犬に警戒しながら華世は指摘した。
「これしかないのよ。コーラなんて飲むの私くらいだもの」
犬が突然吠えたので、華世はこぼしかけたコーラを一口すすった。
「行こうか。柴田さん嫌われてるみたいだし」
二人はリビングを抜け、階段を上がっていった。
「追ってこない?」
「大丈夫。家の階段は上らないようにしつけてあるから」
途中、夕闇に映える庭園が窓の向こうに広がるのを、無視せずにはいられなかった。そこはちょっとした踊り場で、庭園を眺めるためだけに設けられたスペースに違いないと華世は思った。
「パパの趣味ね、ぜーんぶ。ママは、パパが死んだら一面フラワーガーデンにしてやるって、こっそり計画を立ててるの。うちのコックは、ママが食事に毒を盛らないように警戒してる」
「専属の料理人がいるの? なのに昼食がコンビニ弁当ってどういうわけよ」
眼前の美しい日本庭園より、華世の興味はもっと違う方へ流れてしまっていた。
「コックたちに任せたら、中身を誰にも見られないように机の下で食べることになるわね。だってあの人たち、料理する時はキャビアかトリュフかフォアグラのどれか一つでも使わないと発狂しちゃうような精神の持ち主なんだから」
他愛の無い会話をしている内、華世はたくさんある部屋の内の一つへ案内された。そこは今までの様子とは一変した“普通”の女の子の部屋だった。
ピンク色に染められた部屋は動物のぬいぐるみに囲まれ、机にはCDのラックとプレーヤー、本棚にはコミックが並べられている。一角に置かれているのはブラウン管テレビときた。
「私の部屋」
ふわふわのベッドの上に座ると、神崎ははにかんだように笑って、コーラを少し口に含んだ。
「普通ね……意外と」
華世は素直な感想を述べた。そして、雑誌が重ね置きされたテーブルの上にカップを置くと、遠慮がちに腰を下ろした。雑誌はたくさんのファッション誌だった。
「私の趣味ね、ぜーんぶ。小学生の時からほとんど変わってない」
確かに、その手に抱き寄せられるくたびれたテディベアも、後頭部の突き出たテレビも、使い古された年季入りであることは明瞭だ。
「でもまさか、柴田さんが私の家を訪ねてくるなんてね。明日はきっと雨だわ」
「晴れよ。明日の予報は雨だもん」
華世は言い返したが、これではいつもと同じやり取りであることにふと気付いた。
「実はさっき、『KANZAKI美容院』に行って来たの。神崎さんが学校に来ないから……」
「あんな野蛮人のいる学校なんか行きたくない」
人形ごと膝を抱え込むと、凄惨な過去を振り返るような悲哀に満ちた面持ちで神崎は言った。
「野蛮人って、朝倉のこと?」
華世がその名を口にすると、神崎は突き立てた指先を華世に向けた。
「やめて。あいつの名前は私が死ぬまでタブーよ」
神崎の気迫に押されて、華世は小刻みに何度もうなずいた。
「あいつが停学処分になったのは知ってる。心外よね。この私を傷つけておいて退学にもならないなんて。死刑でもいいくらいよ」
「じゃあ、もう学校には来ないつもり? お母さんはこのこと知らないんでしょ?」
神崎の鋭利な睨みが再び華世を捉えた。
「まさか、あいつのことをママに話してないでしょうね?」
華世はやはり小刻みに首を振った。ほとんど震え上がっているようだった。
「ならいいけど……先生にも口止めしてあるの。心配かけたくないし、たぶん聞いたらショック死すると思う」
神崎はカップを傾けると一気にコーラを飲みほし、勢いよくテーブルに叩きつけた。
「学校へは行くわ。あいつが卒業したらね」
ベッドに倒れ込む神崎を見つめながら、華世は小さくため息を吐いた。鈍い時の流れが沈黙を運んできた。華世は上ってくるコーラの気泡を眺めながら、神崎は天井を眺めながら、互いに耽り込み、じっと押し黙っていた。
何分も過ぎた頃、改めて行動に出たのは華世だった。テーブルの上に一枚の紙切れを落とし、神崎に注目させた。
「この前あげた優待券じゃない……さっきママの美容院に行ったって言ってなかったっけ?」
「使わなかったの。あなたに使おうと思って。これであたしを美しくしてよ」
神崎はいぶかしげにこちらへ目を向けたが、華世は本気だった。
「神崎さん、前に言ったよね? あたしはもっと綺麗になれるって。その言葉を証明してみせて」
イジワルでもトンチでもない。神崎のことを心から信用しきった華世からの、切な願いだった。
どちらも分かっていたはずである。互いが“友達”以上の関係を求めているということを。しかし、それをどうしても言葉にできなかった。そして華世はひらめいた。神崎との確かな友情を証明するためのやり方を。
「分かった。ちょっと待ってて」
神崎は立ち上がり、クローゼットの扉を開けると、中から円形のシャレたボックスを引っ張り出した。テーブルの上から雑誌を払い落し、花柄の可愛らしいボックスをその空いたスペースに置いた。鍵を外して上蓋を持ち上げると鏡が飛び出し、更にボックスの真ん中を両側へ開くと、そこにはたくさんの化粧品が出番を待ち構えていた。
円柱状の化粧箱が次々と変形していく様は、SF映画に出てくる無駄に派手な宇宙要塞のようだった。
「役者は揃った」
そう口にする神崎は、人が変わったようだった。袖をまくし上げ、そのいかめしい表情は華世が今までに見たことがないくらい真剣そのものだ。
「本当ならおやつ一年分と言いたいところだけど、この優待券に免じて無償でお化粧してあげる」
「とか何とか言って、おでこに『肉』とか落書きしやがったらもう二度と口きかないから」
「ちぇっ……バレちゃった」
華世は様々なお化粧テクを神崎から学びつつ、そのプロのような手つきによって自分の顔が生まれ変わっていくことを、素直に喜んだ。神崎の手が自分の顔に触れる違和感は初めの内だけで、そのうち、華世は目の前の鏡を覗き込むのに夢中になった。
「上手だねえ。魔法みたい」
徐々に大きくなっていく目元に注目しながら、華世は感銘の嘆息を漏らした。
「メイクアップアーティストをこころざす私に向かって、そんな軽率な感想は不適切よ」
「そうだったんだ。初耳」
マスカラがまつ毛を上下しているにも関わらず、華世はつい神崎の方を向いてしまった。
「ちょっと、動かないで。次やったら額に『肉』よ」
「ごめんごめん……でも、神崎さんに夢があったなんてチョー意外」
「毎日をボーっと生きてる柴田さんとは違うんだから。私はね、いつか大物のモデルや、俳優のメイクを手掛けるプロのアーティストになりたいの。だから、ママの助手として店に行くこともあるし、そのための勉強だって始めてるのよ」
自分の夢を誇るように語れる神崎が、華世はとても羨ましかった。将来に明確な夢がないことは、誰あろう、自分自身が一番良く理解していることの一つでもあった。
「話は変わるけど、柴田さん、顔のパーツの一つ一つがとても綺麗ね」
華世は、顔が紅潮していく自分が鏡に映っているのをあまり意識しないようにしたが、即座に吹っ切れた。
「そう? じゃあ、あたしはアイドルでも目指さそうかな。テヘッ!」
もう一人の自分に向かって、華世は最高に可愛いと思える顔の角度で微笑みかけた。
「プッ。甘いわね。問題はパーツの位置よ。福笑いの最高傑作じゃあるまいし……嘘よ、冗談」
華世が拳を握ったので、神崎は慌てたように言い添えた。
「しまいにゃ殴るぞ」
「ほーらほら。そんな怖い顔したら、化粧が崩れちゃうよ」
神崎に口角を引っ張られて、華世はでたらめな笑顔にさせられた。
「化粧ってのはね、女を美しくするだけじゃなく、欠点まで補ってくれるもの。でも私は、欠点をごまかすためのメイクはしたくない。本人でさえ気付かない、内側に秘められた繊細な美を呼び覚ますことが、私の本望なのよ」
「でも結局は、その場しのぎでしかないんじゃない? こうやって綺麗になったって、家に帰って化粧を落とせば、目の前には避けられない現実。違う?」
「女はね、たった一瞬でもいいから、世界一美しくありたいと願う生き物なのよ。それに、美貌を求めることは罪じゃないわ」
神崎はまるで、女に不器用な男を相手にしているような語調でそう論じた。案の定、話がうまく呑み込めず、華世はしばらくうなっていた。
「そもそも、どうして女性は綺麗になりたいって思っちゃうのかな?」
華世が呟くと、リップブラシを手に持ったまま、神崎は微動だにしなくなった。
「それは……きっとあれよ……」
「何?」
神崎が言葉を濁すので、華世はチラと彼女の方に目をやった。どこか部屋の隅を見つめる青白い顔に、わずかな赤みが差している。
「だから……恋心よ。異性を思う熱い気持ちが……その……女に最も強く美を求めさせるのよ」
それを聞いて、華世はニンマリと笑いかけた。
「はは〜ん、は〜ん。さては神崎さん、好きな人がおりますな? しかも身近な人間とみた」
華世の鋭い洞察力は、思いのほか的を射ているようだった。神崎は否定することもせず、その後はただ黙々と化粧の続きに取りかかるのだった。
松の大木越しに月明かりが輝きだした頃、華世と神崎は庭園の中を歩いていた。帰宅する華世を、神崎が見送りに付き添って来たのだ。その表情は華世が来た時より、ずいぶん生き生きとしていた。
「柴田さん……来てくれてありがとう」
中ほどまで来た時、口を閉ざしていた神崎がやにわにそう言った。華世は背中に寒気を覚えた。
「伝わったよ、その心からの感謝の気持ち。寒気がするくらい鮮明にね」
確かに、五月の夜風にはまだ少し、冬の影が残されていた。
「あたしこそ、今日はありがと。おかげで、女自身についてもっと深く知ることができたし、私は自分が前以上に好きになった」
二人は向かい合うと、別れを惜しむように沈黙し、ただその場に突っ立っていた。
「えっと……ま、気が向いたら学校においでよ」
こんな空気には耐えられそうになかったので、華世は無理やり口をこじ開けそう言った。
「やっぱりさ、神崎さんが学校にいないと退屈なんだよね。溜まったうっぷんのはけ口が見つからないっていうか……だから、待ってるよ、あの教室で。……じゃあね、さよなら」
「柴田さん」
神崎は呼び止め、言った。
「私の好きな人ね……鬼山くんなんだ」
その声はとても小さなものだったはずなのに、言葉は夜の静けさをかき乱し、華世の心を貫いた。しかし気付くと、華世は笑顔で頷きかけていた。
「あたしたち、ライバルってわけね」
華世は、自分でも驚くほど冷静だった。普段の華世なら、流れ星が脳天に直撃するくらいの衝撃を受けていたはずだ。だが、今の華世はむしろ自信に溢れている。
「今のあたしだったら、神崎さんにも負けない気がする」
与えられた美のきっかけが、華世に絶対の自信をみなぎらせた。月明かりに照らされて、神崎が力強くうなずくのを華世は見た。
翌日、神崎美奈子は登校した。
二人は『友達ではない』と互いに認め合ったまま確かな友情を築き、その日を境に親友となった。互いを下の名前で呼び、仲良く悪口を言い合いながら……。
空は抜けるような晴天だった。