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TIKARA  作者: 南の二等星
7/16

第六話 ゲームオーバー?

「今日は体育館内の冷房装置を全面工事する日だから、授業、昼休み、部活動での使用は禁止ね。守れよ」


 朝のHRで、柏木が落ち着きのない生徒たちに向かって声を張り上げていた。

 朝の教室も、五月を迎える頃には賑やかさを増していた。各々が気の合う友を見つけ、末永く続けていくだけの価値がある友情と、そうでないものとに見切りをつけ始めたのだ。形ないその友情が深かろうが浅かろうが、こういったセンスはデパートでの洋服選びと大差なかった。大抵、試着室にこもらない者は失敗するものだ。

 しかし、寡黙で地味で控え目な人の多くは、試着などしない。類は友を呼ぶとだけあって、互いは自身を語らないままに自然と惹かれ合い、教室の隅で小さく打ち解けあうのが常だ。それは、試着なんてしている余裕のないほど、数限りないチャンスなのだ。


 そのどちらでもない場合があるとすれば、それは柴田華世だった。

 柳葉一家を名乗る暴力団との一件以来、華世は心を閉ざし、ほとんど誰とも口をきいていなかった。教室ではかくれんぼのごとく気配を消し、廊下を歩く時は抜き足に励み、トイレから出る時は首だけ突き出し、誰か怪しい者がいないかチェックするのに余念がなかった。

 例えば、平和の国にボケてしまった日本人が、たった十秒でもその命が脅かされる状況に追い込まれたら、かつての概念も、これからの感覚も、すべてが大きく一変するはずだ。柴田華世は、今まさしくその状況に置かされている。腹にナイフを突き立てられる恐怖に比べれば、友達0人の危機感なんてちっぽけなものだ。

 登校中、授業中、下校中……しまいには家にいる時でさえ、ナイフを手に持って誰かが襲ってくるのではないかと、そればかりが脳裏をかすめて気が狂いそうだった。ゴールデンウィーク、華世は片足さえ家の外に出すことを拒んだ。

 辛いのは、誰にも相談できないことだった。両親に話せば大きな心配をかけるだろうし、鬼山は華世を遠巻きにしている。瀬名は鬼山が絡むと無気力・無関心だし、柏木に至っては論外だ(あの面倒くさがりが、この手の話に小さじ一杯の興味さえ持たないことくらい、華世にはちゃんと分かっていた)。

 何事もなく時間が過ぎ去り、連休が終わっても、華世の心は闇で閉ざされたままだった。


「おっはよー、柴田さん」


 いつもの気取った挨拶が華世の背後から聞こえてきた。忘れてはならない、もう一人の“相談できない相手”、神崎美奈子だ。この女に相談したあかつきには、たちまち学校中に広まってしまう。新聞局の朝倉と接触のある彼女なら尚更だった。


「おはよう」


 華世は頬杖をついたまま流すように挨拶した。


「どうしたの柴田さん、疲れてるの? 最近ますます不細工ね」


 神崎は相変わらずな調子っぷりで嫌味を吐き出し、華世の机に尻を据えてでんと構えた。


「ほっといてよ。あたしはね、能天気なあなたとは違って、こう見えてかなり繊細なの。悩みだって山ほどあるし、心は傷だらけ……ていうか尻どけろ」


「こわーい。そんなに早口でまくしたてないでよ。それよりさ、良いこと教えてあげようか?」


「いい。一人にさせて」


 つっけんどんに突き放すと、神崎は聞こえない程度にブツブツと文句を言い残し、自分の席へと歩いていった。

 しかし妙なことに、いざ神崎がいなくなると、華世の心は寂しさと孤独感でいっぱいになった。かつて、何百回と彼女を追い払ってきたが、こんな気持ちになるのは初めてだった。

 神崎のどこか悲哀にまとわれた背中を目で追いかけながら、華世は今しがた抱かれた己の心情をいぶかっていた。そして、見知らぬ土地に置き去りにされるような孤独感を振り払うようにして、手の中に沈んでいた頭を持ち上げた。窓の向こうからこちらを見下ろす際限のない青空が、華世にちょっとだけ元気を分けてくれた。



「いただきまーす」


 華世は机の上に母親の手作り弁当を広げると、ここ最近では見られなかった清々しい笑顔を浮かべ、手元のおかずを次々と口の中に詰め込んでいった。すぐ目の前では、膨れっ面の神崎がいかにも苛立たしげな目つきで華世を睨んでいた。


「なんで柴田さんが私の所でお昼を食べてるわけ?」


 神崎は言いながら、コンビニ袋の中から弁当を取り出し、いつもの半分のスペースしかない机の上に一式広げた。神崎家は資産家だが、その一人娘の昼食がコンビニ弁当か購買のパンに限っていることは有名な話だった。

 華世は悩んだ末、神崎と一緒に昼食をとることを選んだのだ。実のところ、神崎と並んで弁当を広げるのはこれが初めての試みだった。


「気にしない、気にしない」


 両者の頬は確かに膨らんでいたが、華世の口には幸福が詰め込まれている一方、神崎の膨らんだ頬の中身は吐き出したいほどの不機嫌だったはずだ。


「ねえ、さっき言ってた“良いこと”って何?」


 ミニトマトを箸でつまみ上げるのに苦労しながら、華世はずっと気になっていたことを聞いてみた。サラダにドレッシングをかけていた神埼が、華世の質問を耳にするなりその手を止めた。


「気になる?」


 言いながら、神崎は華世のミニトマトにドレッシングを一滴たらした。


「うん、気になる。教えろ」


「じゃあ、教えるからそのたまご焼きちょうだい」


「えー……あぁっ!」


 華世が渋っている間に、たまご焼きはもう神崎の口の中だった。華世は箸で目をつついてやろうと思ったが、やたらと美味しそうに頬張る神崎の笑顔を見ている内、芽生えた憤りも、数週間続いた恐ろしい悪夢も、はっきりと忘れることができたのだった。


「冷めててパサパサしてるけど、こっちのよりは美味しいわね」


 かなり遠回しな褒め言葉だったが、華世は素直に嬉しかった。


「当然でしょ。愛情という名の隠し味が込められてるんだから。それで、良いことって何なの?」


 弁当に夢中の神崎が取引のことを忘れる前に、華世は性急に尋ねた。


「新聞局長の朝倉、覚えてるでしょ?」


「頭が金たわしみたいな人ね」


 神崎は吹き出すように笑ったが、すぐに何でもなかったような無表情へ切り替えた。


「じゃあ、会議室に仕込まれてたビデオカメラのことも覚えてるわよね?」


「忘れるわけないじゃない」


 華世は自信たっぷりだった。


「まさか神崎さん、あの人のこと……」


「その“まさか”よ」


 声を低くして、神崎は箸の先端を華世に向けた。


「朝倉がカメラを仕掛けた犯人だって確信はあったから、その日の内にメールを送ったの。ほとんど脅迫じみてたと思う」


「でも、アドレスの紙は捨てたんじゃ……?」


「あの後すぐ拾いに行ったのよ。とにかく、『あなたがやったんでしょ!』みたいな内容を送るでしょ、そしたら、『アニコスの撮影をさせてくれるなら知ってることを教えてあげる』ですって。そもそもこっちは、コスプレの撮影を回避するために脅しをかけようと考えてたのにさ」


「ばらされたくなかったら撮影の話はなかったことにしろ、そういうこと?」


 話したら話した分だけ弁当を頬張る神崎に向かって、華世はほとんど耳打ちするようにそう言った。神崎はこっくり頷いた。


「あら、すごい自信。証拠でもあるわけ?」


「ないわよ。カマかけようと思って」


 神崎がもごもご言うのを、華世は顔をしかめながら聞いていた。


「柴田さんだって覚えてるでしょ。あの日、録画開始時刻から間もなく、会議室の方から歩いてきたのが誰なのかを。それに、柏木先生によると、あのカメラは学校側の所要物らしいじゃない。新聞局なら簡単に手に入れられるはず。ほら、明確な証拠はないけど、あいつを動揺させるだけの説得力はあるでしょ?」


 神崎の無謀な好奇心は、名探偵気取り半分、お遊び半分で出来ているようだった。誇らしげな神崎の表情を前に、華世はただ眉をひそめるばかりだった。


「んもう。そんな怖い顔しないでよ」


 気分を害したような声色で神崎が言った。華世はミニトマトを転がしながら嘆息を漏らした。


「だって、もし本当に彼が犯人だった場合、どんな手段を使ってくるか分からないんだよ。神崎さんの口を封じて、なおかつ卒業までの一年間を安泰に過ごそうとするなら、それなりの手に打って出ると思うな」


「自業自得じゃない。それに、もし危なくなったら逃げるわよ。こう見えて逃げ足だけは速いんだから。……もしかして柴田さん、私のこと心配してくれてる?」


「全然してない」


 ちょっと左に視線を流しながら、華世はきっぱりと断言した。もちろん嘘だった。


「で? いつ会うの?」


「今日の放課後」


 あまりに突然のことだったので、華世はしばし言葉を失った。


「……ずいぶん急ね。場所は?」


「秘密。コスプレさせられた時の、最悪の状況を想定してるんですから。まあ、朝倉がいざ撮影モードに入ったら絶対に逃げてやるけど。……とにかく、盗撮したことを認めさえすればそれでいいのよ。あいつとの距離をおくことができるなら、私だって手段は選ばないわ」


 朝倉にここまで追い詰められていたなんて、華世はまったく知らなかった。鬼ごっこ以外で異性に追いかけられるなんて羨ましい話だが、それも度を超えるとただのヘンタイだ(朝倉の場合、神崎をアイドルか何かと勘違いしているようにも思えた)。

 神崎がその先天的な美貌を罪と認識し、猿山の猿たちへの誘惑をやめることができるのなら、あるいは今の状況を緩和させる新たな術が見つかるかもしれない。


「本質を見極めて、もっと慎重に行動した方がいいんじゃない? 今後のあなたのためにもさ」


 華世が慈悲といましめの感情を言葉に込めながらアドバイスしてみると、神崎は驚いたように目を大きくしてこちらを見つめ返した。


「いきなり頭良さそうな発言するのね。成績悪いくせに」


 華世は今度こそ箸で目をつついてやろうと思ったが、それどころではなくなった。


「鬼山くん、どこ行くの? トイレ? 僕も行くよ!」


 おもむろに席から立ちあがる鬼山を、五十嵐が目ざとく見つけたようだ。


「鬼山くんがかわいそう!」


 教室から出て行く二人を見送ると、神崎が小さく悲鳴を上げた。


「あのストーカー、最近になってますます鬼山くんに粘着してると思わない?」


「うん……そうかもね」


 華世は曖昧に返事をしたが、思っていることは神崎と同じだった。四月も終わりに近づいた頃から、五十嵐の見せる鬼山への腰巾着っぷりは度を超えていた。影のごとく行動を共にするそれは、勢い余ってトイレの個室にだって一緒に入りかねない。

 華世はそのことを気にしつつも、今はあまり鬼山のことを考えたくないというのが本音だった。


「ほっといたらいいのよ。どうせ五十嵐のことなんか、ほとんど眼中にないんだから」


 カラッポの意識のまま、華世はそんなことを口にしていた。



 放課後の掃除当番は、『二階と三階をつなぐ階段とその周囲』だった。要するに、不良たちの集う廊下“コエダメ”のそばにある階段ということだ。

 華世、神崎、瀬名、他数名で組まれたグループは早々と掃除を切り上げていた。不良たちの巣窟が間近なだけあって、生徒みんながここの掃除を嫌っていた。リーダーである瀬名がそのことを考慮してくれたおかげで、こうして早くに帰ることができるのだ。


「よし、ゴミは僕が捨てに行くから、今日はここまで」


 箒と塵取りを手に持ちながら瀬名が声を上げた。しかしその柔らかな口調とは裏腹に、角一つ向こうの廊下を見透かす瀬名の視線は、そこに転がっている本物のゴミたちを片づけたいとばかりに歯がゆそうだ。


「それじゃあ、行ってくる。ついてこないでよ」


 神崎は華世にこっそり囁くと、小さく微笑んで階段を下りて行った。すでに勝利を確信しているような笑顔だった。


「柴田さん。ゴミ捨て場まで一緒に行かない?」


 遠ざかっていく神崎の足音に耳を澄ましていた華世は、驚いて瀬名の方を振り返った。


「え、あたし? ……うん、いいよ」


 集めたゴミは一人でも余裕で持っていけるほどの量なのにと、華世は戸惑いつつも了承した。結局のところ、華世が手にしたのは役目の終わった箒と塵取りだけだった。


「最近元気ないけど、何かあった?」


 階下へ向かいながら、瀬名は案じ声で華世に話しかけてきた。どうやら、華世と話す機会を作りたかったらしい。さすがに意表を突かれたものの、華世は嬉しさの余り歩調を弾ませていた。まさか、瀬名の方から声をかけてくれるなんて夢にも思わなかった。


「ちょっと色々と。……あっ、でも大したことじゃないんだよ」


 瀬名が深刻な顔つきになったので、華世は大げさに箒を振り回しながら言い添えた。


「もしかして、鬼山と何かあったとか?」


 瀬名が当てずっぽうで指摘したことは分かっていたはずなのに、華世は思わずその表情から笑顔を消してしまった。


「ごめん……深入りし過ぎだよね」


 玄関へと歩みを進めながら、瀬名は深刻そうな面持ちで謝った。華世は気を持ち直すようにして笑顔を装った。


「気にしないで。あいつが関係してるのは確かだけど、ほんと、乙女の小さな悩みなんだから」


 いくらなんでも『ヤクザにからまれて人質にされた』なんて言えないので、華世は努めて明るく振る舞うようにした。瀬名は一片の笑みをかいま見せ、そのまま外靴に履き替えた。ゴミ捨て場は体育館の横にある駐車場の一角に設置されている。

 二人が外へ出ると、狭い校舎前は勉学の呪縛から解き放たれた生徒たちで群れ返っていた。


「おお。これが先生の畑か」


 やっとの思いで生徒たちの群れを抜け、駐車場へと続く校舎脇の小さな庭園まで辿り着いた時、瀬名が何かを見下ろしながらそう言った。華世も隣に立って視線を落とした。

どうやら、花などが植えられているこの庭園の一角を、柏木が譲り受けたという噂は本当らしかった。手作り風な木製の小さな看板には、汚く歪んだ字で“柏木先生の畑”と書かれている。


「何を育ててるんだろ?」


 まばらに頭だけ突き出す雑草たちを観察しながら、華世は真剣に考えてみた。瀬名が首をかしげた。


「たしか、先生の趣味は観葉植物の栽培だったはず」


「それ、どっからの情報?」


 華世は嘲るように短く笑った。


「自己紹介する時に本人が言ってたじゃないか」


「ん? そうだっけ? ……どっちにしても、雑草を栽培するなんてあの人らしいわ」


 華世の呆れ声を残し、二人はその場を後にした。真っ赤な牡丹で彩られた楕円形の花壇に差し掛かった時、何の前触れもなく、華世はあることを思い出した。


「そういえば、瀬名くんにずっと聞きたいことがあったんだ」


 瀬名は返事代わりにこちらを振り向いた。


「ほら、会議室で隠しカメラを見つける直前、鬼山はお兄さんのことを知ってるかもしれないって……あれってどういう意味?」


「ああ、そういえば話が尻切れになってたんだっけ。……写真が見つかったんだ。十年も前の写真だ」


 そこまで言うと、瀬名は首を振り、牡丹畑の周囲を丹念に見渡した。まるで、誰かが花壇に身を潜めている場合を警戒するような仕草だった。


「兄が逮捕されたことで、無論、警察が家にもやって来た。薬物を実家に隠してる場合も想定できるからね。兄の私物は大方持っていかれたけど、数冊の写真アルバムだけは残された。その内の一枚に、かなり興味深い写真があったわけだ」


「もしかして、鬼山とお兄さんが並んで写ってるとか?」


「足りない。もう一人写ってた」


「誰?」


「君だよ」


 華世は目をパチクリさせた。しばらくの間、華世の頭はこんがらかった。


「つまり……どういうこと?」


 整理しようとしたものの、華世の脳みそはその意思についてこられなかった。


「写真の日付から平成十年の八月ってことは分かった。十年も前の写真だけど、面影は鮮明に残ってる。あの写真に写ってるのは間違いなく、兄と鬼山、そして柴田さんだ」


 気付くと、目の前はゴミ捨て場だった。鉄板を組み合わせただけの粗末な造りの建物は、自然の力で地面からニョキニョキと生えてきたような様だった。スライド式のドアは口を大きく開け、男子生徒が一人、今しがたその中にゴミを投げ入れたところだった。


「それってどういう写真なの?」


 狭くて真っ暗な空間にゴミ袋を放り込む瀬名の後姿に向かって、華世は質問した。


「塀の表札は鬼山と読めた。路上にチョークで絵を描いてた」


「うーん……覚えてないなあ。その写真、今持ってる?」


「いや。兄の写真は誰にも見せるなって、親から言われてる。両親は……僕もだけど、瀬名家の血筋から兄の存在を消したいんだ。でも、現実にはそんなこと不可能だろ? だから忘れたいんだ。一刻も早く……」


 怖い顔で遠くを見つめる瀬名を前に、華世はかけるべき言葉が浮かんでこなかった。それに、樫本が言っていた『瀬名大吾が隠したドラッグ売上金の1000万』について、弟である瀬名雄吾が知っているのかどうか、その確認も今は難しそうだ。これ以上瀬名を追い込みたくないし、華世がなぜそのことを知っていたのか疑念を抱かれれば、また厄介なことになりかねない。それこそ、逆上した瀬名が、柳葉一家相手に何をしでかすか見当もつかない。


「あの……瀬名くん、今日は声かけてくれてありがとう」


 帰る道すがら、華世はちょっぴりはにかみながら礼を言った。思い詰めるようにだんまりしていた瀬名の顔に、明るい兆しが舞い降りるのを華世は見た。


「私、このところずっと一人で悩んでた……だから、心配してくれる瀬名くんがいて、一緒に話してくれる神崎さんがいて、今日はすごく恵まれた一日だったと思う」


「苦しみは分かち合えるものだよ。こんな僕で良ければ、いつでも肩を貸すよ。……そういえば、今日は神崎さんと一緒に昼食をとってたよね。いいなあ、親友って」


「えっ、親友?」


 いきなり何を言い出すのだろうかと、華世は全力で首を振った。


「違う違う。神崎さんとは親友なんかじゃないよ。友達でもないし」


「そう? たまに会話してるのを聞くけど、二人って自分たちの思ったことを素直に言い合ってるみたいで、すごく仲が良さそうに見えるけど」


 庭園に差し掛かり、五月のそよ風が花々の香りを運んできても、華世は何とも思わなかった。かつて味わったことのない意識と感覚が、漠然とした感情の中で激しく混じり合い始めた。


「本音でぶつかり合える存在が、どんな形であれ、親しい友と呼ぶに値する価値あるものなんだと、僕は解釈してる」


「そんな……そんな大げさなものじゃないよ。だってほら、あたしっていつも鬼山と一緒でしょ? だから、みんな怖がってあたしには近づいてこないんだよ。神崎さんは……きっと、どこか感覚がおかしいのよ。そうに決まってる」


「それは違うんじゃないかな。神崎さんだけは、柴田さんと一緒にいても鬼山からの危害は何もないことを、ずっと知ってたんだ。つまりそれは、君のことを信じてる証になるんだよ」


 瀬名は言い、空を仰ぎながら苦笑した。


「……時々気付くんだ。僕には、本音で語らえる親友どころか、冗談を言い合える友人さえいないってことに。上辺だけで築いてきた人間関係なんか、ここにきて何の役にも立たない。だから、僕は柴田さんがとても羨ましいよ」


 どうやら、瀬名は今自分が本音で話していることに気付いていないらしかった。華世はそのことに気付いていたが、指摘できるほどの余裕がなかった。目の奥から押し寄せてくるあらぬ感情を抑えるのに、全神経を集中させなければならなかったのだ。



 瀬名は委員会があるからと、教室に戻るやカバンを持って本部へ向かった。瀬名を見送ると、華世は自分の席に座って物思いにふけ込んでいた。

 瀬名に言われて初めて、華世にとって神崎がかけがえのない存在であることに気付いた。この高校生活を振り返ってみると、いつもそばには、神崎美奈子がいた。昨日までは単なる“うざい奴”だった神崎が、今ではかけがえのない大切な存在に思えてならなかった。

 結局、華世が教室を出たのはそれから十分後のことだった。ほとんど意識しないまま玄関まで足を運んだ時、カバンの中で携帯電話の振動する音がかすかに聞こえた。華世はカバンの中でコッソリ画面を覗き込んだ。メールが二通届いていた。

 どちらも神崎からのメールだと分かった瞬間、言い知れぬ不安が華世の指先に流れ込んできた。一通目のメールは十五分前……瀬名とゴミ捨てに行っていた時だった。

「失敗かも」

 華世は短い文面を小さく読み上げた。迷わず二通目に目を通す。

「つかまったたすけにきてばしょは……」

 華世の予想していた最悪の事態が起きてしまった。

 絶望の淵で足が機能しなくなるその前に、もう華世は走り始めていた。部活動でランニング中のどの生徒たちよりも早く廊下を疾走し、階段は二段飛ばしで高跳びのごとく駆け上がった。登り詰めた先は、ついさっき掃除を終えたばかりの“コエダメ”のそばであった。こんな時頼りになるのは、あいつ以外考えられなかった。


「鬼山!」


 コエダメに滑り込むなり、群れる不良たちの中心でタバコを吹かす鬼山に向かって華世は叫んだ。たむろしていた他の仲間たちが一斉に華世をねめつけた。


「鬼山くんに何か用?」


 壁にもたれていた一人が不快そうに尋ねてきた。華世が睨み返してやると、相手は五十嵐だった。


「うるさい。あたしは鬼山に用があるの」


 肩で息をしながら、華世はせき込むように言った。本物のヤクザを目の当たりにした華世からしてみれば、こいつらは見せかけだけの“品の悪い子供”にしか見えない。


「ねえ、鬼山。神崎さんが危ないの。三年の朝倉って奴に捕まって……」


「ここへは来るなと言ったはずだ」


 夕暮れに目を細めたまま、鬼山は冷たく言い放った。華世は引き下がらなかった。


「でも、神崎さんを助けられるのは……」


「もう一つ。俺に近づくなとも言った」


 華世はいよいよ頭に血が登ってくるのが分かった。強く噛み合わせた奥歯が音を立てて折れそうだった。


「こんなこと、あんたにしか頼めないんだよ! 力になってよ!」


「俺の知ったことじゃない。さっさと失せろ」


「バカ! 根性なし! 意気地なし!」


 声が枯れるまで叫び散らし、華世は息も整えないまま階段を駆け降りていた。階段を一段踏みしめる度、自分一人で何とかするしかないというプレッシャーがのしかかってきた。しかし、肝心の居場所が分からない。


「おーい、柴田さん」


 一階まで下りると、玄関側から誰かが声をかけてきた。勢いよく振り向くと、ぼやけた視界に瀬名の姿が飛び込んできた。華世の心は躍った。


「瀬名くん! 委員会は?」


「早くに終わったんだよ……どうしたの?」


 自分がすごい剣幕なのは分かっていたが、高ぶる感情を前にどうすることもできなかった。華世はすさまじい勢いで事情を説明した。


「で、これがそのメール」


 額の汗をぬぐいながら、華世は届いたメールを瀬名に読ませた。


「『つかまったたすけにきてばしょは』……途中で切れてる」


 ようやく、瀬名も事態の深刻さに気付き始めたようだ。


「漢字変換も句読点も、肝心な場所さえ打ち込めない……かんばしくないな。先生には言った?」


「言ってない。事が大きくなると思って。それに、結局場所が分からないんじゃどうしようも……」


「落ち着いて。よく考えてみて。神崎さんは何かヒントになるようなものを残していかなかった?」


 酸欠で停止寸前の脳みそをいたわっている暇はなさそうだった。華世は記憶を掘り起こし、神崎の行動一つ一つを思い出してみた。


「一階……」


 華世は曖昧に呟いた。


「掃除が終わった後、神崎さんは一階に下りて行った」


「じゃあ、手分けして一階を探そう。もし見つけたら僕に知らせて。一緒に助けに行こう」


 二人が一階の教室をすべて見て回るのに、十分もかからなかった。トイレはおろか、普段は清掃員のおばちゃんしか踏み込まないような用具室まで覗いたのに、そこには人の気配すら感じられなかった。


「あとはここだけか」


 二人が落ち合ったのは体育館の前だった。巨大な両開きの扉は、今は静かに閉ざされている。


「たしか、冷房装置の工事があるから使用禁止だって、柏木が言ってたよね?」


 華世の言葉を聞いて、瀬名は悔しそうに頭をかきむしった。そんな瀬名を見て、華世もようやくひらめいた。


「体育館が絶好の隠れ場所だってことに、どうして気付かなかったんだろう!」


 瀬名が絶望的な声を響かせた。


「撮影するならここ……体育館の倉庫しかなかったんだ!」


 二人は息もピッタリに扉をこじ開け、足並み揃えて体育館へ飛び込んだ。中では作業着に身を包んだ十数人の男たちが壁際に立って工事をしていたが、華世と瀬名がその脇を走り抜けてもお咎めはなかった。

 金属音やらネジの転がる音、ドリルの回転音に二人の足音が重なった。右手奥に見える倉庫への扉は開いていた。


「何かおかしいぞ」


 瀬名は息を荒げながら傾いた扉を観察した。扉は蝶つがいごと外され、内側にベコリと折れ曲がっていた。その様は、サンドバッグと勘違いされて蹴られたような具合だった。短い下り階段の下から、淡い光が漏れている。


「行こう」


 訳が分からないまま瀬名に促され、華世は恐る恐る中に足を踏み入れた。忍び足したものの、老化した階段はしきりにきしむのであまり意味がなかった。中ほどまで来た時、下から声が聞こえた。二人は顔を見合わせ、一気に駆け降りた。

 倉庫の明滅する微弱な明かりに照らし出されていたのは、目を疑うような現実だった。

 ナイフを構えた朝倉と、後ろ手に縛られ、身動きが取れなくなっている神崎、そしてすぐ手前には、不敵な様相で仁王立ちする鬼山の姿だ。


「あーあ、また増えちゃったね。みんな、そんなに僕のこと嫌い?」


 光を受けて怪しく輝く朝倉のナイフを、華世はまじまじと見つめてしまった。その瞬間、あの日の恐怖が体内を疾駆し、大津波となって華世を襲った。壁にもたれ、華世は立っているのがやっとだった。


「降伏しろ。面倒事は御免だ」


 授業用具に囲まれた狭いスペースでナイフの切っ先を突き付けられているというのに、鬼山は動じることさえしなかった。朝倉をさげすむような面持ちは、埃の舞う薄暗い空間の中でも鮮明だった。

 華世は朝倉の肩越しに神崎の姿を見た。セーラー服は胸元から切り裂かれ、下着が露出している。青白い顔には生気がなく、その震える口元からは声が奪われてしまっているようだった。足元には開かれたままの携帯電話が転がっている。

 朝倉はまとまわりつくような不気味な笑顔を広げた。


「ゲームオーバー? ありえないね。ゲームはこれからも続くよ。僕はザコキャラにすぎないけど、僕の意志はまったく別のところで今も動き続けてる」


「君に一つ聞きたい」


 瀬名が進み出た。


「大方の事情はもう聞いてる。健康診断の前日、会議室にカメラを仕掛けたのは君か?」


 朝倉の笑顔に、心の奥底に潜む醜悪な部分が滲み出てきた。


「神崎さんと同じことを聞くんだね。あぁ、もしかして、あのカメラを見つけたのって君たち? 回収しようと思ったらなくなっててさ、参っちゃったよ。……いかにも、あの日、会議室にビデオカメラを置いたのはこの僕さ」


 誇らしげに胸を張るその姿は、見ていて不快そのものだった。朝倉はかかとを滑らせたまま後ずさりし、呆然と立ち尽くす神崎と肩を組んでピッタリと密着した。


「神崎さんったらね、そのことで僕に脅しをかけるんだ。バラされたくなかったら撮影会の話をなかったことにしろって。……嗚呼、胸糞悪い。だから今日、僕はここに彼女を呼び出したわけだよ。初めから強姦するつもりだった……」


 朝倉はナイフの先端を再び鬼山に向けた。


「……お前が来るまではな、鬼山勝二!」


 ナイフが空を切り裂く音を、華世は確かに聞いた。朝倉の掲げたナイフが鬼山目がけて振り下ろされた時、張り詰めていた空気がバラバラに引き裂かれた。舞い踊る塵と埃の向こうに、戦慄そのものを絵に描いたような光景が広がっていた。

 鬼山の顔に向かって振り下ろされた刃の先端は、額の上数センチのところで止まっていた。鬼山は寸でのところでつかんだ朝倉の手首をグイっと捻じ曲げ、その手に物を握っていられないほどの苦しみを与えた。朝倉の手からナイフが滑り落ち、高い金属音を響かせて床に転がった。

 朝倉が尚も無理な姿勢でナイフを拾おうとするので、鬼山は足でナイフを蹴り、朝倉の首根っこをわしづかんで壁際に叩きつけた。ナイフは埃っぽい床の上を滑り、瀬名のすぐ足元で止まった。


「何か言い残すことはないか?」


 空いている方の手で拳を握りながら、鬼山が優しい柔らかな声でそう囁いた。それは、朝倉に最後のチャンスを与える鬼山からの情けだったのかもしれない。


「言っただろう」


 朝倉は潰れた声で答えた。


「ゲームオーバーはありえないって。今この学校で何が起こっているのか、まだ誰も気付いちゃいないんだ。影で動き回る真のボスキャラを、僕の意志たちは捉え始めているぞ」


 朝倉の性悪な笑顔に鬼山の拳が炸裂した瞬間、それは爽快以外のなにものでもなかった。朝倉は一発でノックアウトされ、床に大の字に倒れて動かなくなった。


「そこまでだ」


 華世は驚きのあまりその場から飛びのいた。すぐ背後に、柏木が立っていた。


「柏木先生……なんでここが?」


 華世はほとんど意識しないままそう尋ねていた。まるで、別の誰かが華世の声を借りて質問したようだった。


「鬼山……君か」


 柏木は華世を無視した。今その目には、鬼山の姿しか映っていないらしい。


「君がやったのか?」


 今や微動だにしなくなった朝倉を指さしながら、柏木は聞いた。


「それがどうした?」


 鬼山は平然と答えた。それは、人を殴ることに何の抵抗もなくなり、感覚が一般人とは大きくずれてしまっている者の発言だった。


「これは重大な暴力行為だ」


「先生、お言葉ですが」


 瀬名が悠然と口を挟んだ。


「過失は殴られた彼にだってあります。一方的に鬼山くんを叱責するのは……」


「君の意見なんか聞いてない」


 柏木は一瞬たりとも鬼山から目を逸らすことなく、冷たくあしらった。


「僕と一緒に来て、事情を説明してもらおうか、鬼山」


「あたしも行く」


「鬼山だけでいい!」


 柏木が吠えた。天井の梁から束になった埃がいくつも降ってきた。


「取り乱してすまない。最近色々なことがありすぎて、疲れてるんだ」


 柏木は華世と瀬名の方を振り向くと、いつもの朗らかな笑顔をかすかに広げた。


「……柴田さん、神崎さんに何か着せて、保健室へ。瀬名くん、ここを出る時は、鍵をかけなくていいからね」




 次の日。鬼山勝二、朝倉仁の両名に、一週間の停学処分が下された。

 神崎の席はカラッポだった。



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