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TIKARA  作者: 南の二等星
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第五話 もう俺には近づくな

「うーん……ビデオカメラだね、これ」


 柏木が声を低くして言った。手には本棚から引っ張り出されたビデオカメラが握られていて、その様子を、華世と神崎、そして瀬名が額を寄せ合うようにして覗き込んでいる。

カメラ発見後、職員室で居眠りしていた柏木を呼びに行ったのは華世と神崎だった。


「このことは、まだ僕以外の誰にも言ってないよね?」


 柏木は熱心な面持ちでレンズを見つめながら聞いた。三人は同時にうなずいた。


「生徒たちには大っぴらにしない方がいい……こいつは思った以上に深刻な問題だぞ」


「どうして?」


「相変わらず鈍いわね」


 華世の質問に答えたのは神崎だった。


「明日、ここで何が行われるかもう忘れたの? 女子の健康診断よ」


 華世は愕然とした。開いた口は開きっぱなしだった。


「つまり、そういうことだ」


 柏木が沈静な態度で続けた。


「誰かが明日の健康診断を盗撮しようと企てていたとすれば、只事では済まされない」


「でも、ちょっとおかしくないですか?」


 腕を組み、深刻な面持ちから暗い声を落とすと、瀬名はカメラを指さした。


「柴田さんがカメラを見つけた時、既に撮影は始まっていました。明日の健康診断までには気が早すぎます」


「予行練習だったのよ。写り具合や、位置を確かめておきたかったのかも」


 華世は推測した。瀬名はカメラを凝視したままうなった。


「そうだったとしても、やっぱりおかしい。そもそも、置いてあった場所が安易すぎる。見つけてくれと言ってるようなものだ」


「とにかく、再生してみるか」


 こちらに背を向ける柏木に向かって、華世は串刺しにするような力強い視線をぶっつけた。


「あたしたちが見つけたのに」


 華世はとどめとばかりに呟いた。柏木は諦めたようにこちらを振り返った。


「しかたない。特別だよ」


 口を尖らせながら柏木が言った。瀬名は顔を背け、「それはいけない」とか「何が映ってるか分からないんだぞ」とか忠告していたものの、結局は華世らに混じってカメラのディスプレイを覗き込んでいた。

 柏木が電源を入れ直し、不慣れな手つきで先ほどの録画記録を再生すると、大きな画面いっぱいに人間の手が映りこんだ。おそらく、このカメラを設置した何者かに間違いない。

映像はしばらくの間グラグラと揺れ動き、焦点が定まらないようだったが、やがて、ほの明るいオレンジの陽光に満たされた会議室の一端が映し出されると、後はそのまま静かだった。


「時刻は15時45分」


 柏木が録画時刻を指さしながら言った。


「二分後に僕が現れる」


 華世の背後から瀬名が言った。柏木は早送りのボタンを模索し、時間を送った。


「あっ、止めて止めて」


 カメラの視界に瀬名らしき男が映し出されたのを見て、華世が興奮気味に言った。柏木は慌てた様子で停止ボタンを押した。


「機械は苦手だ」


 柏木は見下ろすカメラに向かってぶつぶつ嘆いた。映像の中の瀬名は教室の時計で時刻を確認し、窓辺まで歩みを進めると、ガラス一枚向こう側を見つめたままピクリとも動かなくなってしまった。


「学級委員長の藤堂先輩に呼び出されて、こうして待っていたんです」


 瀬名が説明すると、柏木はすぐに顔を上げた。


「ここで? どうして会議室だったの?」


「分かりません。話があるからって……結局、本人は現れませんでしたけど」


「ふーん……うーん」


 なびくような声を出すと、柏木の視線は再びカメラへと戻っていた。直後、画面の向こうからドアのスライドされる音が聞こえてきた。


「瀬名くん?」


 カメラの音声が華世の声で言った。


「どうしたの? こんなところで」


 華世と神崎がカメラの視界に入りこんだ。神崎は画面の中の自分自身を観察し、「やっぱり私は横顔の方が綺麗よね」だの、「どうせ映るんだったらもっとモデルさんみたいに歩けばよかった」「だって、他に誰が見るか分からないでしょ?」などと取り越し苦労するのに余念がなかった。無論、カメラの中の本人でさえ取り合わない。


 華世、神崎、瀬名のやり取りがしばらく続いた後、画面の右端から現れたのは森下だ。といっても、映像に残されているのは遠慮がちに突き出た鼻の先端だけで、あの極端に猫背な姿勢を窺うことはできかなった。


「あ? 話が違うじゃねえか」


 森下が言った。何度聞いても、意味の分からない言動だ。


「あんたが瀬名雄吾?」


「この学校に、瀬名雄吾って名前の生徒が僕一人ならね。でも、僕はあなたを知らない」


「俺のことはどうだっていい。お前に話がある」


「僕にはない」


「お前の兄貴に関することだ」


 一時停止し、柏木が再び顔を上げた。


「これは誰?」


 柏木はかろうじて映り込む何者かの鼻の先端を指しながら聞いた。


「分かりません。いきなり教室に入ってきて、僕に突っかかってきたんです」


「ごめん……実はあたし、知ってた」


 弱々しく名乗りを上げる華世に、三人の視線が一気に集まった。


「え、知り合いだったの?」


 瀬名はショックを受けたような声色で聞いた。華世は頑張って頭を振った。


「違う違う! 委員会の帰りに校内でからまれたの。でもすぐに藤堂さんが助けてくれて、彼とはそれっきりだよ。名前は森下、三年生」


「柴田さんにからんでくるなんて、よっぽど暇だったのね」


 神崎の何気ない一言は、華世に反論させないほど的を射ている。瀬名のすぐ脇に立っていたはずの華世に気付かなかった森下を見るに、やはりあのナンパは単なる暇つぶし

でしかなかったのだろう。


「続き、早く見ようよ」


 華世は平然を装って煽るように促した。みんな黙ったままカメラに視線を落とした。映像の中の登場人物たちは再び動き出し、やがて華世が叫んだ。


「鬼山!」


 右端から一本の腕が伸び、小柄な森下を高々と持ち上げると、そのまま画面の外へ放り投げた。男の奇怪な悲鳴がおぼろに聞こえてくる。


「彼の暴力行為に関しては、今だけ目をつぶっておこう」


 柏木はまぶたを閉じながらそう言った。


「何でここへ来た?」


 しばしのやり取りをかわすと、画面の中の瀬名が聞いた。鬼山の横顔が、鋭い視線で瀬名を睨みつけている。

 二人のにべもない会話を聞くのは、もううんざりだった。大仏さながらの表情から繰り出される言葉には、相手を呪わんとする憎しみが滲み出している。鬼山が教室を去る姿を見届けると、画面の中でしかめっ面を浮かべる華世も、そんな自分を見つめる華世自身も、胸の奥がスッキリ晴れたような、安堵の表情になるのだった。

 鬼山のいなくなった会議室で、三人の会場作りが始まった。


「ずっと疑問だった」


 机を運びながら瀬名が言った。


「さっきの休み時間、教室で僕の兄のことを指摘されそうになった時の、鬼山の態度のこと」


「確かに変よね。いくら睡眠を妨害されたからって、立ち上がってガン飛ばさなくたっていいのに。それに、休み時間に教室が騒がしいのはあいつも承知の上だろうし」


「僕が思うに……こんなこと認めたくはないけど、僕をかばってくれたような気がしてならないんだ」


 会話は続き、やがて瀬名がこう言った。


「もしかしたら、鬼山は兄である瀬名大吾のことを知ってるかもしれない」


 映像の中の華世が、このカメラをまっすぐに指さしたのはその直後のことだ。瀬名の顔が間近まで迫った。


「ビデオカメラだ。どうやら、ずっとコイツに見られてたらしい」


 直後に映像は途絶えた。しかし、柏木は動かなくなった画面を見つめたまま硬直している。


「先生?」


 神崎が柏木を呼んだ。柏木はようやく、不安げな面持ちで自分を見つめる華世たちに気付いたようだった。


「どうしたの? もしかして、幽霊でも映ってた?」


 華世は半ばからかうように尋ねたが、柏木は怖い顔のままだった。


「何でもないよ。うん。何でもない」


 柏木は乱暴な手つきで電源を落とし、荒い目つきで華世たちを一瞥した。


「何度も言うようだけど、このことは他言無用だ。念のため、会場の移動を申し出てみる。君たちはもう帰ってよろしい」




 結局のところ、健康診断は無事に終わった(華世の体重が去年の計測から8kgも増えていた事実を“無事”と呼べるなら、の話だが)。会場がオーソドックスな保健室に移されたこともあり、本棚ならまだしも、簡易ベッドの下からも、排気口の隙間からも盗撮用のカメラが発見されることはなかった。


 それから三日が過ぎた。


 会議室での一件は教師の輪の中だけに留まり、生徒でその事件の一端を知る者は華世と神崎、瀬名の三人だけということになっている。無論、柏木に釘を打たれたとおり、華世はそのことを誰にも口外していない。おしゃべりの過ぎる神崎が、ある種の栄光と引き換えに、今回の件を露呈していないのも明瞭だ。華世にとってはそれが一番不安でもあったのだ。

 四月最後の金曜日は、華世にとって心躍るような一日になるはずだった。

宿題はないし、脳みそがあくびを吐き出しそうな退屈な授業もない(実際にそんなことは有り得ないが、心が楽しいことで満たされている時くらいは、誰でもそんな上質な気分に浸れるものだ)。明日は休日だし、何より、窓の向こう側は春の陽気に包まれた具合の良いお天気だ。濃い青の空に浮かぶちぎれ雲は春風に漂い、時間に追われるような朝の慌ただしいひと時を一瞬でも忘れさせてくれる風貌をかもしている。

 春風に身を任せる雲のように、華世はゆったりと身支度し、しかしかなり早めに家を出た。閑散とした住宅地の中を、バス停に向かって歩を進める。すっかり見慣れた青いバス停と、すっかり見飽きた長身の男が、華世の視界へ同時に入り込んだ。


「よう」


 華世はいつもの調子で挨拶した。今日ばかりは、うんざりするほどの悪口を吐き出したい、という気分でもなかった。


「よう」


 鬼山がまっすぐ前を見つめたまま言った。華世は思わず一歩退いた。


「何? 何で挨拶したの? 気持ち悪っ!」


 華世は隣に立つ男をじっくり観察し、自らの頬をつねり、青空を見上げた。大丈夫。男は間違いなく鬼山勝二であり、これは現実であり、空が落っこちてくる心配もなさそうだ。


「あんたが挨拶を返すなんて……きっと今日は、ものすごく良いことがあるか、ものすごく悪いことが起こるかのどちらかね」


「……あのな」


 鬼山が不機嫌そうに華世を睨んだ。


「俺の口は悪態をつくためにあるんじゃないし、この手は人を殴るためにぶら下がってるんじゃないんだぞ」


「そんなの分かってるよ。でも、やっぱ鬼山が素直に挨拶するなんて気持ち悪……」


 華世は言葉を切った。突然、鬼山に首根っこを乱暴につかまれ、グイッと引き寄せられたのだ。鬼山の口がすぐ耳元まで接近し、華世の心臓は狂ったように脈打った。


「じっとしてろ。何か変だ」


 鬼山が耳元で囁いた。確かに、何かおかしなことが起きている。華世は耳の根元まで真っ赤に染まるのを感じた。


「いいか。絶対に俺の名を口にするなよ」


 最後にそう言って、鬼山は華世のことを突き放した。青春のドキドキは、何の進展もなく終わった。


「んもう! 何なのよ! 鬼山のバカバカ!」


 華世は怒りに任せて殴りかかったが、一人の男がバス停に並ぶや、鬼山から本腰の入った睨みを浴びてしまった。その時、華世もはっきりと感じた。じれったい違和感と、鬼山とは別のもう一つの確かな視線。今しがた二人の後ろに並んだ男が、じっとこちらを見つめている。

 埃っぽいダボダボのズボン、派手な赤シャツの上に長い金髪をなびかせた、言わば夜の街を徘徊するヤクザのような男は、携帯電話を手に持ち、こちらをチラチラと窺いながら親指を電話の上で走らせている。メールを打ちこんでいるようだった。間もなくバスが来た。


「俺から離れるな」


 乗り込む間際、鬼山が小さく呟くのを、華世はかろうじて聞き取った。まだ何も理解できないままだったが、鬼山に促されるまま、華世は一番前の座席に座った。鬼山は空席を前にして座ろうとせず、華世の後ろにピタリと貼り付いて吊革につかまった。

 華世がルームミラーから見たのは、ズボンを引きずり回す男の足が、二人の位置から少し離れた反対側の席まで進んでいく様子だった。

 バスがゆっくりと動き出した。


「何だかヤバそうね……もしかしてあたし、巻き込まれてる?」


 出発してから三つ目の停留所でバスが止まった時、華世は小さく口を開いた。初老の男が一人、スーツ姿できびきびと乗り込んできた。


「一緒に話してるのを見られた上、お前は俺の名を言った。自業自得だな」


「そりゃ悪かったね、フクロウ」


 エンジンにかき消されそうな小声で、加えてまばたきもせずに会話をかわす内、スーツの男が華世の二つ後ろの席に落ち着くのがルームミラーで分かった。

 バスがゆっくりと動き出した。

 更に二つ目の停留所でバスが止まると、乗って来たのは若い女だった。スパンコールがキラリと煌めくタイトな黒のワンピースに身を包み、女性なら誰もが羨む美しい脚の持ち主だ。そんな女が華世の反対横の座席に腰を下ろしたものだから、なかなか気になってしょうがない。


「おい。キョロキョロするな」


 鬼山にたしなめられて、華世はとっさに窓の外へと視線を走らせた。

 バスがゆっくりと動き出した。

 二十分ほど経ち、華世たちの降りるバス停が大きなフロントガラス越しに確認できた。二人がバスを降りると、それに習うように三人の乗客が続いた。


「今日は特別だ。俺から右斜め前方、1メートルの距離を保って歩き続けろ。道はこっちで指示する」


「ちょっと、冗談でしょ」


 赤信号を前に立ち止まりながら、華世は全力で抗議した。


「この信号が青になったら、一目散に逃げてやるんだからね」


「お前は顔を見られてるんだぞ。相手は気取りのチンピラなんかと違う、もっと厄介な奴らだ」


「じゃあどうすんのよ。あんたがやっつけてくれるってわけ?」


 焦燥感にかられつつ、華世は鬼山を見た。一瞬……ほんの一瞬、鬼山の横顔がとても勇ましいものに見えた気がした。その男の顔には、いつもの眠気を帯びた表情はない。


「お前には俺が付いてるってことを、思い知らせてやればいい。安心しろ。絶対に守ってやる」


 今の鬼山なら、クマだろうがゴリラだろうが、分別なくケンカ相手に選べたはずだ。その勇ましい面持ちにみなぎる闘争心のオーラは目に見えない力だったが、その力が、鬼山に絶対の自信を与えているのは確かだった。なぜ鬼山がここまで恐れられるようになったのか、華世はその本当の理由が分かった気がした。


「信じてるよ、あんたのこと」


 信号が青に変わった。華世は言われたとおり、鬼山の右斜め前方を歩いた。信号を渡り、コンビニの前を通り過ぎ、閑静な住宅街へと足を踏み入れた。学校まではまだ十分ほどの距離がある。静かな宅地に、複数人の足音が響いた。


「次を左だ」


 指示されるまま、華世はがちがちに固まった関節をきしませながら次の十字路を左へ曲がった。春の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込みたい華世の思いとは裏腹に、息を殺して歩き続けるのはあまりにもつらすぎた。更に悪いことに、華世が曲がり際にチラと見たのは、二人の後を追う“複数人”の姿だった。


「心なしか、増えたわね」


 あれがただの通行人でありますようにと願いながら、華世は囁いた。目の前に現れたのは、さびれた小さな公園だった。うっそうと生い茂った草地にブランコがたたずみ、砂場はただの荒れ地のようだったし、小さな山は禿げたコブのようだ。

 二人は公園の中ほどまで進んだ。ちょうど、小山のふもとに当たるところだった。華世が来た道を振り返ると、静かな朝の宅地に騒々しい足音を響かせる、三人の男女の姿があった。それは、バス停で会った金髪の若者と、途中乗り合わせた初老のスーツ男、二人に少し遅れてワンピースの女だった。


「俺は逃げも隠れもしない」


 肩で息をする三人に向かって、鬼山が言い放った。華世は、そんな鬼山の大きな背中に身を隠して様子を窺っていた。


「よく分かったわね。私たちがあんたの後をつけてるってこと」


 おぼつかない足取りで近づきながら女が言った。


「だから言っただろ! ハイヒールはやめろって! 足音が響くだろが!」


 金髪が大声で怒鳴ると、近所の飼い犬がけたたましく吠えた。女は向きを変え、金髪に詰め寄った。


「トイレの芳香剤みたいな香水を頭からかぶってるのは誰よ。そんな臭い香水つけてるから、においでバレたんじゃないさ!」


「あーあ、これだから女と仕事すんのはイヤなんだ。だいたい、何なんだその厚い化粧はよ! 祭りの仮面みたいじゃねえか!」


「あんたこそ、もっと身だしなみに気遣ったら? 見習いのとび職じゃあるまいし!」


「よし、黙れ」


 冗舌な論争を黙って見物していたスーツ姿の男は、冷静な態度で間に割り込むなり、二人を一瞬で沈黙させた。その紳士な顔つきには年輪のようなシワが刻まれ、それは、男のこれまでの苦悩の生き様をひしひしと物語っているようだった。


「そんな大声出したら近所迷惑だし、この子たちが怖がるだろ。“自分こそが正義”みたいな言い争いなんて、聞いてるこっちが恥ずかしいぞ」


「……すいません」


 金髪が素直に謝った。


「ごめんね。樫本さん」


 女が猫なで声で続いた。男は愉悦そうに頷き、今度はしっかりとこちらを向いた。


「申し遅れました。私たち、こういった者です」


 男は革製の名刺入れから名刺を二枚抜き取り、一枚は鬼山に、もう一枚を華世に手渡した。華世は恐々と受け取りながら、男の左手小指の第一関節より上がなくなっていることに気付いた。


「かしもと……ひでき」


 鬼山は名刺に書かれた名を読み上げた。樫本は黄色い歯をたっぷり覗かせて微笑んだ。


「樫本英紀。二代目・柳葉<やなぎば>一家の二次団体組員です。以後、お見知り置きを」


 華世の最も恐れていた事態になった。春のポカポカした陽気とは遠く無縁な、暴力団の皆さんにからまれてしまっていたらしい。タバコに火を着ける樫本の姿を目の前に、名刺を持つ指先が震えた。


「それで、ヤクザが俺に何の用だ? 俺は早く学校へ行って寝たいんだよ」


 華世は全身が恐怖で凍りつく思いだった。鬼山は確かに暴力団を敵に回しているはずなのに、その態度は同級生を相手取るような、まさに狂った精神だった。


「残念だけど、おねんねは後だよ、フクロウ。真の名を鬼山勝二といったな」


「だったら?」


「君にいくつか聞きたいことがある。我々も手荒なことはしたくない。君が協力してくれるなら、被害は最小限に抑えられるんだ。但し、正直に答えてくれよ」


 鬼山は樫本をねめつけたまま、これといった反応をしなかった。沈黙の中で樫本と対峙する只中、最善の答えを導き出そうとしているのだと、華世には分かった。そんな鬼山の心中などお見通しとばかりに、樫本は不敵な嘲笑を顔いっぱいに広げている。いくら百戦錬磨の鬼山と言えど、今回ばかりは一筋縄でいきそうにない。


「分かった。俺の答えられる範囲内であれば、正直に答えてやる」


 たっぷり一分間睨み合った後、鬼山は答えた。その声には、華世を安堵させるような揺るぎない自信が溢れていた。


「賢い選択だ。さすが、場数を踏んできただけのことはあるな。ウチの腰抜けどもよか、よっぽど肝が据わってら」


「そんな奴らと一緒にしないでほしいね」


 樫本の後ろで佇立する二人をアゴで指しながら、鬼山が言った。怒りに顔を歪めた金髪が、子供だましさながらにヘタなファイティングポーズを決め込む姿は、見ていて鼻で笑えた。


「それで、聞きたいことってのは何?」


「うむ。じゃあ聞こうか」


 金の腕時計をちらつかせながら、樫本はタバコを咥えなおした。樫本の顔に、極道を行く者の本来の表情がよみがえった。


「鬼山、お前、瀬名大吾を知ってるはずだ。違うか?」


 聞くまでもない、といった様相の確信めいた質問だった。しかも、華世はその名前に聞き覚えがあった。瀬名が兄の名を語った時、確かに『瀬名大吾』と、そう言った。


「知ってる。あの人が今、どこで何をしているのかさえ、俺の中では鮮明だ」


 鬼山が本当のことを言っているのは華世にも分かっていた。しかしだとすると、色々と不可解な点が生じてくることになる。


「今あいつは刑務所住まいだ。シャバにはいねえよ」


 樫本はポケットに忍ばせていた携帯灰皿を取り出すと、今にも崩れそうなタバコの灰を器用にその中へと落としていった。


「それなら、瀬名大吾が我々柳葉一家の組員だったことも知ってるよな?」


 鬼山は樫本の荒ぶる猛獣のような鋭い睨みから顔を背けるようなことはしなかったが、その質問には口をつぐんだままでいた。その隙をチャンスと狙ってか、金髪が拳を振り上げた。


「おいおい。知らないとは言わせないぜ。てめえはウチらのブラックリストに入ってるからな。身に覚えあるだろーが?」


「記憶の彼方にな。それに、あの人が柳葉一家と深く関与していたことも知っていた」


「関与どころか、柳葉一家の一味だったなんて、夢にも思わなかったわけだ」


 樫本は愉快げに指摘した。悔しさからか、ここにきて、鬼山の表情が初めて歪むのを華世は見た。


「あの人は俺に多くを語らなかった」


「まあいい。次の質問だ。瀬名大吾が隠した売上金の1000万だが、今現在も行方が知れない。鬼山、もしかしてあいつは、お前にその金を預けたんじゃないか?」


「……何の売上金だって?」


 樫本は歯茎を見せつけるほどニンマリと微笑んだ。


「後ろのお譲ちゃんに気を使ってるのか? 分かってんだろ。ドラッグの売上金だよ」


 吹き抜ける風は暖かいはずなのに、華世の全身を駆け抜けたのは寒気だった。自分の知らないところで、鬼山は一体何をやってきたのだろうかと、華世はとても怖くなった。だが、華世の不安を和らげたのはそんな鬼山の言葉だった。


「俺は何も知らない。本当だ。あの人が麻薬の売買に関っていたのは認めるがな」


「瀬名と深い関係を築いていた外部の人間がいるって噂を聞いてね。最近になって、鬼山勝二の名が浮上してきたのよ。でもあんたじゃないとすると、また振り出しってわけね」


 手鏡を取り出し、化粧を直しながら女は言った。金髪が苛立たしげに舌を打った。


「おい、こいつを信じるのか? どう考えたってこいつが一番怪しいじゃねえか」


「いや。彼の言ってることは本当だ」


 樫本が優雅な手振りで説得した。


「これから嘘をつくって時に、あんな眠たそうな目でいられるか? 我々柳葉一家を前にして虚言を吐くなんざ、狂気の沙汰だ。普通なら黒目がひっくり返っちまってる。俺はそういう輩を、何人も見てきたんだ」


 樫本の重圧的な目線が再びこちらを捉えた。華世は知らぬ間に、鬼山の学ランを固く握りしめていた。


「最後の質問だ」


 短くなったタバコを指に挟むと、樫本が声を張った。鬼山は両手をポケットに突っ込んだまま、悠然とした態度で華世の前に立っている。


「今日、我々はこうして君の前に現れた。命令を……鬼山勝二を潰せという命令を受けたためだ。この意味が分かるか、鬼山。我々はお前と面談しに来たわけじゃないんだ。これ以上でしゃばった真似ができないよう、お前を殺さない程度に痛めつけるのが最大の目的だ。そこで尋ねよう……我々にこの命令を下したのは誰だか、お前は気付いているな?」


「……さあな」


 鬼山のわずかに上ずった声を、樫本が聞き逃すはずがなかった。


「瞳孔が震えてるぞ、鬼山。俺は言ったはずだ。正直に答えろ、と」


「俺は探偵じゃないし、柳葉に対する興味だって毛頭ない。憶測立てて物事しゃべるのは好きじゃないしね。それに、売られたケンカは買うだけだ」


 これはすでにケンカの域を超えている。華世が説得する隙などなく(あったとしても、張り詰めた緊張感の中、この口が素直に言うことをきいてくれるなんて都合の良いことは、絶対になかったはずだ)、鬼山がポケットの中の両手をおもむろに取り出し、金髪が子供だましのファイティングポーズを構えるまで、そう大して時間はかからなかった。


「もうやっちゃっていいんですよね、コイツ」


 金髪は情けないジャブを空中で繰り出しながら尋ねた。


「気いつけな。噂じゃ、ゲーセンのパンチングマシンを素手でぶっ壊した野郎らしいからな。手抜くと、ヤケドじゃ済まねえぜ」


 樫本はタバコをくゆらせながらモゴモゴ言った。そのかたわら、女のため息だ。


「弱いくせに見栄張っちゃってさ。……ヤダからね、気絶したあんたを運ぶの」


 その時、鬼山の大きな手が華世の肩に触れた。


「少し離れてろ」


 華世は鬼山のシワの寄った大きな背中を見つめたまま後退した。そしてふと、万が一、鬼山がやられるようなことが起こったら、自分の身はどうなるのだろうかと思いつめてしまった。いくら鬼山でも、三人相手は無謀なのではないか?

 しかし、相手は見せかけだけの金髪と、きゃしゃな女と、初老のおっさんだ。その点を踏まえれば、鬼山には十分な勝算があるはずだ。


『信じてるよ、鬼山』


 自分の中の迷いを振り払うかのように、華世の胸中ではその言葉ばかりが繰り返された。信じる鬼山への思いの他に、今の華世を支える手段は何もなかった。


「いっくぜえ! ヒュッ! シュッ!」


 金髪はいきなり叫んだかと思うと、間髪入れずに連続パンチを繰り出した。しかし、それなりにスピードのある拳は鬼山の体をかすめるも、まともに当たりはしなかった。というより、鬼山が華麗な身のこなしを披露するものだから(あの運動オンチからは想像もつかない足さばきだ)、金髪の拳が空を切るのも納得だ。

 攻撃手が鬼山に移ったのは、金髪が草地の禿げた部分に足を取られ、隙だらけの攻撃に更に隙間が加わった、その一瞬だった。

 鬼山は自分の顔めがけて飛んできた金髪の左手をつかむと、そのまま中腰になり、すばやく足払いをかけた。金髪の体が宙に浮き、背中から地面に叩きつけられるまで、ほんの数秒の出来事だった。

 鬼山が自らの大きな拳を高々と振り上げたその時、金髪の表情に不快な笑みが広がるのを華世は見た。投げ出された金髪の右手が地面を這い、ズボンのポケットの中から折り畳み式のナイフを取り出すと、その鋭い切っ先を鬼山の顔に向けて放った。

 華世は思わず小さな悲鳴を上げていた。鬼山はかろうじて刃をかわしたものの、左の頬からは多量の血が溢れ出している。あごを伝って滴る鮮血は、草地を赤く染め始めた。


「コイツの切れ味、サイコーだろ?」


 金髪は身軽に立ち上がると、ナイフの刃先に舌を這わせた。思わずゾッとするような姿だった。


「なっちゃいないな」


 痛みなど感じないのか、それともやせ我慢か、鬼山は平然とした態度を崩さなかった。


「よく見とけ。ナイフってのはこうやって使うんだ」


 言うと、鬼山がポケットから取り出したのは小型のナイフだった。覆っていたカバーを外すと、あらわになった鋭い切っ先が光を浴びて怪しく一閃した。鬼山は駆け出し、華世は息を止め、金髪は思わぬ展開に棒立ちだった。


「ダメ!」


 鬼山のナイフが鈍い音を立てて金髪の腹部を捉えた時、華世は必死になって叫んでいた。青ざめた顔のまま呆然と立ち尽くす金髪に向かって、鬼山は今しがた人間の体に突き立てたはずのナイフを……血の一滴も見当たらない綺麗なナイフの刃を、男の目の前に掲げて見せた。


「押したら引っ込むオモチャのギミックナイフだ。命拾いしたな」


 言って束の間、安堵した金髪の腹に向かって、鬼山は左の拳を深々とぶち込んだ。金髪は膝からくず折れ、地面に沈んで動かなくなった。どうやら気絶したようだ。


「お遊びはここまでだ」


 華世が心を落ち着けたのはほんのわずかな間だけだった。樫本が鬼山のこめかみに突きつけた黒い塊は、テレビの向こう側でしか見たことがない、あの拳銃と呼ばれるものだった。


「言っとくが、これはオモチャなんかじゃねえ。無論、ライターでもなければ、花束の飛び出すマジックの道具でもない。……肉をえぐり、骨を砕き、内臓に風穴を開け、生きるモノを死に至らしめる、人が人を奪うための兵器だ」


 その時、華世は後方に人の気配を感じた。鬼山と樫本のやり取りに気を取られていたため、気付いた時にはもう手遅れだった。背後から伸びてきた細い腕が華世の首根っこに巻きつくと同時に、金髪が持っていたはずのナイフの先端が自分の脇腹を狙っているのがはっきりと見えた。


「ハイヒールでも忍び足くらいできるのよ」


 耳のすぐ後ろで女が言った。華世は恐怖で凍りつき、声を出したら死ぬと思った。時すでに遅し。鬼山がこちらの状況に気付く頃には、華世はもう立派な人質だった。


「さあ選べ、鬼山」


 樫本は勝利を確信させた笑みを満面に広げ、弾むような語調で言った。


「足の一本でも撃たれてお譲ちゃんを助けるか? あるいはすべてを失うのか? 二つに一つ。考えなくとも、おのずと答えは出てくるはずだ」


「まだ……三つ目の選択が残ってる」


 鬼山は右手をポケットに突っ込み、左手でもう一度あのギミックナイフを取り出した。樫本は本格的に笑い出した。


「何かと思えば、そんなオモチャがお前の選んだ答えだと? 恐怖を前にして、気でも狂ったか?」


 顔を赤くして笑い続ける樫本に向かって、鬼山は何のためらいもなくナイフを振り下ろした。刃は樫本のズボンを切り裂き、太ももを切りつけ、赤い液体を草地にばら撒いた。樫本の顔はあるはずのない痛みに崩れ、その戦慄する表情にシワが寄った。低く、短い叫び声が朝の住宅地を貫いた。

 華世も女も、訳が分からないままその様子を窺っていた。


「こっちは本物だ。さっきのナイフは油断させるためのフェイクさ」


 右のポケットからもう一本同じ型のナイフを取り出すと、鬼山は淡々と説明した。樫本は痛みと怒りの入り混じったような表情で鬼山を睨むと、銃口を鬼山の額にまっすぐ向けた。

 だが、鬼山の方がよっぽど早かった。鬼山のハイキックが樫本の右手を捉え、拳銃を勢いよく蹴り飛ばした。すかさずその足で踏み込み、今度は左足で樫本の顔面を蹴り上げる。樫本は数歩よろめくと、地面に横たわる金髪の体につまずき、仰向けに倒れて動かなくなった。


「寄るな! この子がどうなってもいいのか?」


 こちらを振り向く鬼山が、本物の鬼のように見えたに違いない。女はナイフを突き立てて叫び、息を荒げ、華世を引きずったままヨロヨロと後退した。


「何だ? 刺すのか?」


 鬼山は自分のナイフをしまい込みながら聞いた。


「やってみろ。その自慢の顔が、人前にさらけ出せないほどグチャグチャになってもいいならな。俺は相手が女だからって容赦しない」


 それを聞くと、女は微塵のためらいもなく華世を解放し、困惑した表情で携帯電話を取り出した。華世は鬼山の所まで駆け寄り、女が電話で逃走用の車を手配するのを耳に入れていた。


「任務失敗。すぐに車を寄こして。あと、大の男二人を担げるだけの男手もヨロシク」


 女は電話を切ると、先ほど樫本の手から離れた拳銃を拾い上げ、悔しそうな面持ちをこちらに向けた。鬼山はすかさず華世と女の間に立ちはだかった。


「残念だけどあたし、これの使い方分かんないのよね。それにこんな住宅街で撃っちゃったら、あんたは殺せても、仲間が来る前にケーサツに捕まっちゃうじゃない?」


 女は拳銃をハンドバックの中にしまい込むと、眉尻を釣り上げて再びこちらを振り返った。


「自分が何をやったか、分かってるんでしょうね? 樫本さんって手段を選ばないし、狙った獲物は地の果てまで追いかける人よ。命が欲しいなら、その子連れてさっさとここから逃げることね」




「今日のことは誰にも言うな」


 教室に入るや誰もいないことを確認すると、鬼山は声を低くして言った。頬からの出血は止まったものの、その切り傷は五センチほどもあり、赤く疼いているのがはっきりと分かった。


「言わないよ。言わないけど……」


 自分の席へ崩れるように腰を下ろすと、華世は声を震わせた。刃の冷酷な感触が、制服を通して肌に伝わるあの感覚を、また思い出してしまった。


「これからは一人じゃ帰れない。鬼山、ずっと一緒にいてよ。今回のことだって、あんたは巻き込まれただけなんでしょ? 最後まであたしを守ってよ。ねえ、鬼山。ねえ……」


「もう俺には近づくな」


 まっすぐに前を見つめたまま、鬼山は静かにそう言った。華世は込み上げる悲しみが表に出てこないよう、深く息を吸い、そして胸の中で押し留めた。


「知り過ぎてしまうことを、俺は予測できなかった。お前はさっきの一件で首を突っ込みすぎた。……もうこれ以上、お前を巻き込みたくない。だから、もう俺には近づくな」


 華世は返事もせずに教室を飛び出し、トイレの個室へと駆け込んだ。恐怖、不安、悲しみ、絶望感が、瞳の奥からしずくとなって溢れ出すのを、どうしても止めることができなかった。



 壁に背を預け、華世は一人、泣いていた。迫り来る孤独の闇が、華世の心を少しずつ、しかし確実に覆い始めていた。

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