第三話 なんて美しい字なの!
学力テストの一件から二日が過ぎ、クラス中を漂っていた生徒同士の警戒心(特に鬼山への警戒心は、野生の熊を相手取るのとほとんど変わらなかったはずだ)が薄れ始めてきた、そんな朝のこと。朝一番のHRで、柏木がこう言った。
「六時限目のHRは委員決めをするから。サクサク進むように、今から自分が何をやりたいのか考えておいてね。内申にも影響してくるぞ」
華世にとっては、ちっとも面白くない話だった。この長い学校生活において、一度だって委員会に名乗りを上げたことなどなかった。女子の学級委員がなかなか決まらず、『ジャンケン大会』という名の壮絶な死闘を繰り広げたのは、つい一年前の話だ。華世が委員を避ける理由は三つ……。
「メンドイ。シンドイ。それに、目立つのはイヤ」
一時限目の授業が始まるまでの休み時間、含み笑いをうっすらと浮かべてこちらに歩み寄って来る神崎に向かって、華世は言い放った。
「まだ何も言ってないし」
華世の机の上にドンと座り込みながら神崎は言った。
「どうせ、あたしに学級委員をやれって言うんでしょ。去年もそうだったし。ていうか尻どけろ」
「委員は一度もやったことないって言ってなかった? なんでメンドイって分かるの? すごく楽しいかもよ」
熱のこもった眼差しでこちらを見つめる神崎の算段は、華世にだけはお見通しだった。この女は、自分自身が委員会を避けるため、一つでも多くの決定枠を潰しておきたいのだ。去年の後期委員決めの時、クラス中の女子に商談と称して触れ回っていた姿は、今もなお華世の記憶に鮮明だ。
「だったら自分がやれば? もしくは、私以外の誰かにお願いすることね。去年みたいにさ」
華世がほとんど相手にしないような態度をとると、神崎は諦めたのか、それ以上何も言わず、教室の隅で談笑している女子の輪の中へ突き進んで行った。女子たちの顔から笑顔が消えたところを察するに、さっそく委員会の話題を持ちかけたに違いない。その姿勢は、自分が学級委員を回避できるのなら、金でも宝石でも差し出してやるといった調子だ。
その日の昼休み。期限が明日までの国語の宿題を提出しに行こうと、華世は一人、教室を出た。真新しいノートを片手に廊下を進む華世の足取りは、軽快とはほど遠いものだった。次の科目は苦手な数学だったし、その後のHRには悪夢が陰を潜めている。
もし、学級委員に選ばれでもしたらどうしよう……たくさんの視線を浴びながら教壇の前に立ち、大勢の前で必死になって声を張り上げる自分の姿を、華世はなるべく想像しないようにした。
職員室のドアに手をかけようとすると、華世の前で勝手にドアがスライドした。中から威勢良く出てきた女子生徒が、華世に覆いかぶさるようにして体当たりしてきたのはその直後だった。
「うあ……っぷ」
二人は真正面からぶつかった。華世はよろけつつも何とか踏ん張ったが、ノートが床に落ちた。
「ごっめーん。鼻、つぶれてない?」
目の前に現れたのは、華世の鼻の安否を気遣う、凛々しい顔立ちの女子生徒だった。華世と同じセーラー服を身にまとっていなければ、その奇妙に大人びた表情とスラリと伸びた長身から、教師と間違っていたかもしれない。
「いえ、大丈夫です。あたし、生まれつき鼻は低いから」
華世は無理に笑顔を繕ってそう言った。本当のところ、結構痛かった。
「よかった、安心した。前にね、部活のランニング中に男の子とぶつかっちゃって、その子、鼻折れちゃったのよね」
気さくに話しかける女子生徒は足元に落ちているノートに気付いたようで、拾い上げようと腰をかがめた。しかし次の瞬間、鼻の痛みが華世の全身を駆け抜けていくような衝撃が走った。女子生徒が手にしたノートから一枚の紙切れが……入れっぱなしだった38点の国語のテストが、逃げ出すようにひらりと宙を舞った。
「あら……? こ、これは……これは!」
女子生徒の目玉が飛び出した。後を追いかけるように、華世の目玉も飛び出した。
「ああっ! ダメダメ、見ちゃダメ! ダメですって!」
職員室の前で、38点のテストをめぐるちょっとしたキャットファイトが催された。だが、対戦相手は華世より頭一つ大きな体を持つ生徒で、華世が劣勢なのはどう見ても明らかだった。嘲笑を浮かべる観衆が数名、二人の脇を通り過ぎた。
「なんて、なんて美しい字なの!」
華世が苦労の末に奪還した答案用紙を食い入るように見つめたまま、女子生徒は感銘の声を張り上げた。眼球はまだ飛び出たままで、そのままポロリと落ちそうだった。
「字? 字って、どの字?」
まさか『38』のことではないかと疑い、華世は怒気を込めて聞いてみた。
「あなたの純粋な心が、答案用紙に刻まれた炭の文字から伝わってくる! 字の鼓動が、私のハートと共鳴している!」
どうやら本当に、この謎の女子生徒は華世の書いた字を褒め称えているらしい。女子生徒は呆然と立ち尽くす華世を廊下の壁際まで引っ張っていった。
「申し遅れました。私、三年二組の夏目真紀といいます。次期『選挙管理委員会』を務めさせて頂く予定です」
「なつめ、まき、さん?」
丸めた答案用紙をポケットの奥に押し込みながら、華世は夏目真紀の顔を見上げて言った。その顔には、出会った時のクールな面持ちが戻っていた。
「あ……あたしは、二年五組の……」
「二年五組、出席番号十番、柴田華世さんでしょ?」
華世の驚いた顔を見て、夏目が短く笑った。
「そんな顔しないでよ。答案用紙に書いてあったのを見ただけなんだから。そんなことより、柴田さん、あなた生徒会役員の書記に立候補してみない?」
輝くような笑顔で夏目は言った。華世は即座に自分の耳を疑いにかかった。
「誰が何に、何ですって?」
己の聴覚をいぶかった末の、出し抜けの一言がこれだった。
「あなたが、生徒会役員の、書記に、立候補するの」
夏目は歯切れ良く言い切った。華世は、顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。
「そんなの無茶です。できません」
「どうして? 部活で忙しいの? 習い事があるとか?」
「いえ……特にそういうのとは無縁ですけど……」
「じゃあ、いいじゃない! やってみなさいよ!」
強引な夏目は調子に乗った時の神崎にそっくりだと、華世はガッカリした。
「委員会でさえ未経験なのに、生徒会の役員なんてできっこない。あたしバカだし、めんどくさがりだし、人前に立つのは苦手だし。それに、それに……」
この場を逃れようと、華世は思いつく限りの自虐を言葉にして並べ立てるのに必死だった。そんな華世の努力など露知らず、夏目は「探し物が見つかった」とばかりの歓喜の表情を投げかけてくる。
「そんなの関係ないない。私たちが求めるのは、柴田さんのような純粋な心の持ち主が書く文字なのよ」
「字を見ただけでそんなことが分かるの?」
華世はうさんくさそうに尋ねた。夏目は大きくうなずいた。
「文字にはね、書いた人の性格や心が、そのまま映し出されるのよ。さっき見た感じでは、思うに、あなたは様々なことにおいて自分に自信が持てない。違う?」
「うん……まあ」
たやすく図星を突かれたので、反論する言葉さえ浮かんでこなかった。
「でも今日から違う。あなたは気付いたのよ、自分の才能に。授業中、ノートをとる時や黒板に字を書く時、友達に宿題を見せる時、あなたはその才能をいちいち誇りに思うでしょうね。でもそれでいいの。誰にだって一つくらい、取り柄がなくっちゃ」
結局、まともな返事をすることができないまま、華世は宿題を提出し、そのまま自分の教室へ戻ってきた。
生まれてこの方、誰からも自分の書いた字を褒められたことなどなかった。華世自身、自分の字が下手だと感じていたわけではないが、極めて上手いとも思わなかった。自らの達筆さを取り柄にしている人間なんて見たことも聞いたこともないが、華世の場合、そんなことは特に問題ではなかった。字が上手くたって特に目立ちはしない……とにかく、華世にとってはそれが一番の安心要素だった。
「……という訳なんだけど、どう思う?」
教室に引き返すや、華世は瀬名の席へ直行し、夏目とのやり取りを言って聞かせた。鬼山以外の男子に私的な相談事を持ちかけるのは、これが初めてのことだった。
「悩む必要なんかない」
瀬名が励ますような笑顔で応じた。
「やってみようよ。でも確かに、階段を一段飛ばしていきなり生徒会役員っていうのは難しいだろうから、まずはクラスの書記になってみたら? 役員の選挙は六月だし、それまでの準備期間としてさ」
「準備期間……準備くらいなら、いっかな」
どう考えを巡らせても本番そのものだったが、瀬名に言われる内、華世は黒板に文字をつづる自分の姿も満更ではないなと思い始めていた。
「言うまでもないけど、僕は学級委員に、それから、生徒会役員にも立候補するよ。去年は生徒会長に立候補したんだけど、落選したんだ……」
「生徒会長って、役員のトップだよね? それを一年生の段階で立候補って……」
去年の今頃、学級委員の座を逃れようと、死に物狂いでジャンケン大会に参戦していた自分を、華世はひどく恥じた。その先にあったのは、まさに勝利の笑顔だけだった。
「もし僕が、今年こそ生徒会長に選ばれたら、この学校を変えてやるんだ。ゴミ一つ落ちていない、とてもクリーンで快適な学校にね」
瀬名の静ひつな視線の先には確かに、二つ前の席に座っている鬼山がいた。瀬名の言う『ゴミ』が何を指しているのか、そんなことは聞くまでもなかった。
「ありがと、瀬名くん! おかげで自信がついたよ」
さっさとこの話題は切り上げた方が良さそうだったので、華世は慌ててそう言い、寝ているのか起きているのかも分からない鬼山の後姿を見つめながら、その場を去っていった。
放課後、人の少なくなった教室には、華世と瀬名、そして神崎も残っていた。三人は同じグループで、つい先ほど教室掃除が終わったところだった。
「おかしい。なんで私が保健委員なわけ?」
下校の支度をしながら、神崎がまたそれを繰り返した。神崎は掃除中もずっとそのことを口にしていたが、すでに、誰からも返事が返ってこないことを承知の上らしい。恒例のジャンケン大会において、不幸中の幸い、神崎は学級委員を免れたものの、逃げ込んだ先は保健委員というベターなオチだった。
そして、書記の希望者は華世一人しかおらず、こちらはすんなりと決まった。
「ところで、柴田さんが自分から進んで書記になるなんて、どういう風の吹き回し?」
『裏切り者』と呼ばんばかりの口調と仏頂面で神崎が詰め寄った。
「気が変わったの」
華世は素直に答えた。机の中身を、乱暴な手つきでカバンの中へ押し込んでいた途中だった。
「そんなの嘘。学級委員を逃れようとして、無難な書記にでもなっておこうとしたんでしょ。もしくは、瀬名くんに説得されたかのどちらかね。昼休みに二人が話してるのを見たんだから」
「あたしはね、神崎さん」
机の奥に溜まっていたキャンディの包み紙をごっそりかき集めながら、華世は深刻な声色を発した。
「気づいちゃったの、自分の才能に」
華世は澄まし顔で立ち上がり、ゴミ箱のところまで優雅な足取りで歩を進める姿を、神崎の目にしっかりと焼き付かせた。出会って初めて、神崎美奈子より上の存在になれた気がした。
「ねえ、瀬名くん。柴田さんに何て言ったのよ」
神崎はとことん納得がいかないらしい。自席に座り、大きめな手帳に目を通している瀬名に向かって言葉を投げかけた。
「なんにも」
手帳をじっと見つめたまま、瀬名はすげなく返した。
「柴田さんがやる気だったから、背中を押してあげたんだ。……そんなことより、二人に聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
瀬名はようやく手帳から視線を逸らし、華世と神崎に向かって交互に目を走らせた。その表情は神崎と同じ、どこか腑に落ちない、といった調子だ。
「何?」
華世がすぐに受けた。
「さっき、自ら進んで『選挙管理委員会』に名を上げた五十嵐くんのこと」
「ああ……」
華世と神崎が同時に納得した。瀬名から発信されたわずかな情報で、二人の心はピタリと重なった。
「確かに、おかしな話よね。柴田さんが書記になる以上に」
神崎は努めて嫌味に聞こえるように気を付けているようだった。華世はなるべく無視した。
「こんなこと言っちゃあいつに悪いけど、委員をするってガラじゃないわね。一年生の時だって、委員会とは一切関わってなかったはずだし」
自分の席に戻りつつ、華世は明確な事実を伝えた。
「五十嵐くんって、鬼山勝二といつも一緒だよね? 彼から何か聞いてない?」
手帳片手に真面目な顔つきで聞き込んでくる瀬名は、ドラマに登場する刑事そのものだった。その時華世はようやく、あの手帳には先ほど決定した委員会の事柄がメモされているのだと悟った。
「何にも。まあ、そのことに鬼山が関わっていたとしても、あたしなんかには話さないと思うけどね。そういう奴だし」
「でも、もし本当に関わっていたとして、それが何になるわけ?」
神崎の意見だ。
「選挙管理委員会って、生徒会役員を決める時の選挙を取り締まる委員会でしょ? 鬼山くんが彼にそんなことをさせる理由なんて……」
「まさか」
今度は、華世と瀬名の心がリンクする番だった。二人は顔を見合わせ、同時に驚嘆した。
「もしさっきの昼休み、僕たちの会話を彼が聞いていたとしたら、その可能性は十分に考えられる。あの時、僕は確かに生徒会長に立候補するって、そう言った」
「でも……でも、あいつに限って、まさか」
「僕は彼を嫌ってる。彼が、僕のことを好いてるとは到底思えない」
瀬名はどこかで聞き耳を立てているかも知れない何者かへ配慮するかのように、声量を少しずつ落としながら言い終えた。
「でも、やっぱり考え過ぎだよ」
華世は頑として譲らなかった。
「あいつがそんな卑怯な手段に出るとは思えない。もし本当に瀬名くんの邪魔をしようとするんだったら、あいつは自分一人で行動に出るはずだよ」
絶対の自信を持って言い切る華世を、瀬名はまっすぐ見つめたまま離さなかった。その間、確信めいた決然たる表情を決して崩すまいと、華世は細心の注意を払った。
「分かった。柴田さんがそこまで言うなら、信じるよ」
貫くような華世の意思を、瀬名はちゃんと受け止めてくれたようだった。神崎が、その横でフンと鼻を鳴らした。
「何よ。二人だけで盛り上がっちゃってさ」
金曜日の放課後、各委員会に選出された生徒らが、それぞれ指定された教室へ集まった。書記は三年六組が本部だ。
「二年五組、柴田華世です。がんばりますので、よろしくお願いします」
深々と頭を下げながら、華世は今自分が目立ちまくりなことに薄々気づいていた。簡単な自己紹介が終わった後は、もう、脱け殻も同然だった。何でこんなことになってしまったのか……後ろを振り返っては後悔し、浅はかだった過去の己を叱責するために、今なら少しの時間があれば十分だった。
昨日までの余裕に溢れた笑みは消え、『書記の役割と、今後の活動方針』のプリントを眺めるその瞳には生気さえ窺えなかった。夏目から自分の書いた字を褒めちぎられ、瀬名からは背中を押された。身にまとった自身と勇気が自分を大きく変えてくれたと思ったのに、やはり、それはただ“思った”だけだったらしい。気の弱い自分は、何も変わってはいなかった。
この日は書記長と副書記長を決め(どちらも三年生がそれに選ばれた)、そのまま解散となった。教室を後にする際、手に持ったカバンが、一段と重く感じたのは気のせいだろうか。
玄関に向かって廊下を歩いていると、同じく委員会を終えた五十嵐とバッタリ出くわした。いつもの元気な様子は微塵も感じ取れなかった。
「一つ聞きたいんだけど」
なかなか目を合わせようとしない五十嵐に向かって、華世はいきなり問い詰めた。
「あんた、鬼山に何か言われたの? 選挙管理委員をやれって……」
「違う。自分から進んで申し出たんだ……先生が、内申にも影響するって言ってたし」
五十嵐は言ったが、その視線の先は相変わらず窓の向こうだった。
「私は、真実を知りたいの」
気の抜けた声で華世は更に迫った。華世が一歩前進すると、五十嵐は三歩後退した。
「本当だって。それ以上言いがかりつけると、鬼山くんに言いつけるぞ」
委員会という慣れないことに疲れているのか、華世と同じ、五十嵐の声には抑揚がない。華世はもうこれ以上話しても無駄だと思った。鬼山に芯から忠実な五十嵐が、こんなところで口を割るはずがないと判断したのだ。
「好きにしなよ。じゃあね」
華世は踵を返してその場を立ち去った。今は、鬼山と五十嵐の両者を信じたい。どちらを疑おうと、誰も得などしないのだから。
一階への階段を下りると、華世の目の前に一人の男子生徒が飛び出してきた。廊下と階段をしきる壁の死角から突如現れた男子生徒は、褐色に染まったボサボサの頭髪にきつい香水を振りまき、痩せた小柄な体つきは華世とさほど変わらない。華世はとっさに、関わってはいけない相手だなと察した。
「ちょっと待ってよ」
何事もなく通り過ぎようとした華世に向かって、男子生徒が声をかけてきた。華世は黙ったまま振り向いた。薄気味の悪い笑顔が宙に浮いていた。
「君、どこのクラス? 結構かわいいね。これから一緒にゲーセン行かない?」
華世は驚いてその男子生徒を見つめた。自分ではない、後ろにいる誰かに話しかけているのではないかと思ったほどだ。
「あたしに言ってるの? 校内でナンパするなら、もっと相手を選んだ方がいいと思うよ」
華世は冷静になってそう言ったが、心臓はまだ胸の内側を強く叩いている。男の顔がグッと近づいてきた。
「俺の目を見てよ。ほら、君を見てるだろ? というより、君しか見えてない。一目惚れってやつだな、きっと」
その顔で言うのは百年早い、と言ってやりたかったが、華世は自分の顔から今にも火が燃えあがりそうなのが分かっていた。学芸会のセリフ以外で、異性からそんな言葉をかけられるなんて夢にも思わなかった。
「ダメだよ、私なんかじゃ。それにもう帰らなきゃいけないし、お金だってないもの……」
嬉しいやら、気味悪いやら、複雑な心境のまま華世は言った。直後、男子生徒が姿を現した廊下からまた誰かがやって来た。今度もやはり男子生徒だったが、このナンパ男とは両極端な風格だった。
気品に溢れた歩き方はまさに紳士そのもので、彼の歩いてきた道のりにレッドカーペットの幻想が浮かんで見えるほどだった。生まれ持った高貴なオーラはその顔立ちに美を与え、華世を見つめるその瞳は輝く漆黒だ。まるで、黒曜石が埋め込まれているようだった。
「森下くん、やっぱり君か」
やれやれ、といった調子で男が言った。その口元を彩る綺麗な歯は、真珠のネックレスを入れ歯にした具合だった。
「やべっ! 藤堂さん!」
森下というナンパ男は、大げさに見えるほど大胆に上半身をのけ反らせた。藤堂と呼ばれた男は、前髪を優雅にかき上げながら華世の前まで接近した。
「大丈夫ですか? 不快な言動や卑猥な行為はありませんでしたか?」
まっすぐにこちらを見つめる藤堂の瞳が、胸の鼓動を更に加速させた。このままでは、激しく脈打つ心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
「何でもないんです。ただ、ちょっと声をかけられただけだから」
「そうなんですよお」
森下が華世と藤堂の間に躍り出た。
「だから今回は見逃してくださいよ、このとおり」
胸の上で手を合わせ、深々と頭を下げる森下の表情には、まだ狡猾な笑みが広がったままだった。
「しょうがない。今日だけは見逃してあげよう。用が無いならさっさと帰りなさい」
逃げ出すようにして反対方向へ走って行く森下を、二人はしばらく眺めていた。小柄な男の背中は奇妙に猫背で、廊下の突き当たりでその姿を消してしまった。
「困った奴なんです」
遠くに見える廊下の暗がりを見つめたまま、藤堂は言った。
「いつも女子生徒に声をかけては迷惑ばかり。彼が同じ三年生だと思うと、僕は後輩たちにあわせる顔がない」
「あの……ありがとうございました。と……藤堂さん」
華世は頬が紅潮していくのを感じた。毛穴から蒸気が噴き出しそうだ。
「藤堂くん、でいいですよ」
五臓六腑がとろけてしまいそうな笑顔で藤堂が言った。華世は、束の間の瞬きすらももったいないとばかりに、じっとその笑顔を見つめていた。
「私、二年五組の柴田華世です。今学期、書記委員会に立候補しました」
そう口にする華世の表情は、夢見る乙女を表現した自画像のようだった。
「僕は藤堂渉。実はついさっき、学級委員長に選ばれたばかりなんです。お互い、しっかり頑張ろうね。それじゃあ、僕はこれで失礼します」
とどめに濃厚なウインクを放つと、藤堂は急ぎ足で階段を登っていった。その足音が遠くに聞こえなくなるまで、華世はずっとその場に立ち呆けていた。
月曜日の朝。華世が早めに登校すると、教室にはすでに鬼山がいて、いつものように熟睡していた。偉そうに腕を組み、足を放り出し、寝息を立てて静かに眠っている。教室には鬼山の他に、華世が突っ立っているだけだった。
「変な顔しちゃってさ」
自分の席へ向かいながら、大きめの声で華世は言った。当たり前のように返ってこない返事が、華世をいらつかせた。
「いても寝てばっかで、何しにここ来てんの?」
鬼山の寝息が途絶えた。華世は更に続けた。
「ほんと、あんたって何考えてんのか全然分かんないよ」
「うるっせーんだよ」
前の座席を蹴り上げながら鬼山が吠えた。その声には、わずかに眠気が残っていた。
「何のつもりだ?」
華世はその目を見たわけではないのに、心の奥深くにまで、鬼山の鋭い視線が突き刺さるのを感じた。
「ただの独り言」
華世はそう呟くと、パンと割れてしまうのではないかというくらい頬を膨らませた。
「だったら便座にでも言ってろ」
華世は色々なもどかしさにかられて立ち上がり、足音で怒りを象徴するように、頑張って床を踏み鳴らしながら教室を出ていった。閉めたドアは静かな廊下に爆音のごとく響き渡り、学校中を駆け巡ったのではないかというくらいだった。
華世は本当にトイレへ行ってやろうと思って教室を出たが、わざわざ迂回し、不良どもの集まる『コエダメ』へと足を運んだ。鬼山にここへ来るなと言われたが、気分が荒れた時ほどここを通るに限る。照明も、昼間の陽光も行き届かないこのじめっとした空間は、華世も鬼山と同じ、なぜか心を和ませることができた。
「こんなつもりじゃなかったのに」
ひと気のない廊下の、誰かが殴って開けた壁の穴をじっと見据えながら、華世はかすれる小声で言った。鈍感な鬼山と、空回りした自分の言動で、猛烈に腹が立ってきた。
「あたしはただ、あんたの方がカッコイイ奴なんだって、証明したかったんだよ」
華世はもうそれ以上考えないことにした。このままでは涙が溢れてきそうだった。
「……うん、この調子でいけば、今年はバッチリだ」
その時、聞き覚えのある声が、向こうの暗がりから聞こえてきた。防火扉の手前には階段があり、廊下に弱く響く声はその上の方から聞こえてくる。
「ああ、作業は快調に進んでる。大丈夫、俺に抜かりはないさ……」
華世の前に姿を現したのは、間違いなく藤堂だった。向こうが華世の姿を見つけると、慌てた様子で携帯電話をポケットに押し込んだ。
「また会ったね。えっと……柴田さん」
藤堂の取って付けたような笑顔を見た時、華世は自らの記憶に違和感を覚えた。今目の前にいる藤堂と、先週会った藤堂とは、何かが違う。
「今、ケータイで話していませんでした?」
『学級委員長のあなたが、校則で携帯電話の使用を認可されていないことを、まさか知らないとは言わせないわよ』と聞こえんばかりの口調で華世は聞いた。笑顔の失せた藤堂の表情は硬直し、そのまま時間が過ぎていった。言い訳を考えている風にしか見て取れない。
「ここだけの話、委員長の僕だけは特別なんですよ」
以前の藤堂に戻りつつあるその表情には、女の子を誘惑するような甘い笑顔が広がっていた。その馬鹿げた話を、危うく、華世は信じてしまうところだった。
「藤堂くんだけ特別なんて、そんなわけないじゃないですか」
あくまでも、華世は愛想よく答えた。
「だって、みんな平等じゃなきゃ校則の意味がないもの」
藤堂自慢の笑顔がはっきりと歪んだ。携帯電話と一緒に突っ込まれたままだった右手をポケットから出し、藤堂は、ゆっくりとこちらへ歩み寄って来た。刹那、華世は危機感を察し、後は漠然と藤堂を見つめる他なかった。自然と後ずさりを始めている両足が、何よりの証拠だ。
「おはよう、柴田さん」
その何気ない挨拶が、これほどまで嬉しいと感じたことがあったろうか? 肩越しに後ろを振り返ると、そこには宿題ノートの束を両腕に抱えた瀬名が立っていた。積み重なったノートの山の上から、目だけがかろうじて見え隠れしている。
華世は藤堂から逃げるようにして瀬名の背後に回り込んだ。その際、瀬名の手元からノートの束を半分、ちゃんと受け取ることを忘れはしなかった。
「あれ、もしかしてそこにいるのは、藤堂先輩じゃないですか?」
視野の広がった瀬名が、目の前にたたずむ藤堂を見つけることはかなり容易だったはずだ。藤堂はバツの悪そうな顔で瀬名を見つめ返している。
「おはよう、瀬名くん」
藤堂は笑顔で言ったが、強引な笑みを浮かべているのが見え見えだった。
「柴田さんも、藤堂先輩も、あまりここへは近づかない方がいいですよ。朝のこの時間帯はともかく、昼間になると学校中のゴミたちが集まって来るみたいですから。要するにここは“ゴミ捨て場”。毎日が可燃ゴミの日ってわけです。……じゃあ、僕はこれで。行きましょう、柴田さん」
吐けるだけ吐き尽くすと、瀬名は得意の華麗な回れ右を披露し、そのままの足取りで教室へと突き進んで行った。華世は別れの会釈ならまだしも、藤堂の顔さえ見ようともせず、その場を立ち去った。
「二人はどういう関係なの?」
ノートを返す作業を一緒に手伝いながら、華世は聞いた。教室には華世と瀬名の他に、相変わらず鬼山の寝姿だけだった。
「去年からずっと、委員会が一緒なんだ」
慣れた手さばきで次々と机の上にノートを置きながら、瀬名が答えた。
「そして藤堂先輩は、去年の生徒会長でもある」
華世は驚きのあまり、十数人分のノートをいっぺんに足の上へ落とすところだった。
「そうだったっけ?」
手探りで記憶をほじくり返しながら、華世はとぼけた声を出した。
「知らなくても無理はないよ。演説会に放送システムを採用してる学校だし、興味の無い人なら顔も名前も分からなくて当然」
「あれ……ということは、瀬名くんと藤堂くんは生徒会長の座を争ったライバルだったってこと?」
「“だった”ってわけにはいかないね、このままだと」
そう口にする瀬名の手元に、もうノートはなかった。
「噂じゃ、藤堂先輩は今年も生徒会長に立候補するみたいだ。……藤堂先輩のことを“ライバル”なんて呼ぶことはしないけど、正々堂々、本気でやり合う覚悟はできてるよ」
華世は先ほどの出来事を言ってしまおうか迷ったが、やる気を示している瀬名の手前、確信のない情報を露呈させるのは、むしろマズイのではないかと思った。藤堂に限って、本当に携帯電話を許可されているのかもしれないし、怖い顔で近付いて来たのも、華世の肩にとまった巨大なハチか何かを、手で払おうとしただけなのかもしれない。
「頑張れ、瀬名くん。応援してるよ」
「ありがとう……って、確か柴田さんも書記の生徒会に立候補するんじゃなかったっけ?」
華世は今度こそ、手に持っていたノートを一冊残らず全部足の上に落とした。