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TIKARA  作者: 南の二等星
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第二話 言わば、正義と……悪

 その男の登場は、ドラマで例えると台本通りで、漫画で例えるとよくある展開で、柴田華世の観点からすると「ナイスタイミング」だった。取っ組み合いのケンカが開戦されようという只中に、待ったをかけたこの男は一体何者だろうか?


「おっと、おはよう!」


 行儀の悪い三体のマネキンを眺めるような表情で、男が驚き混じりに挨拶した。この男から見れば、今の三人の姿はとてもこっけいに見えたに違いない。抗争する男たちの中に飛び込まんとする悲哀な表情の女……演劇部の練習風景を投影しているように見えたはずだ。


「……先生!」


 男を振り返るなり、瀬名が驚嘆した。


「え、先生だったの?」


 華世は本人に聞こえないよう、声を沈めて聞いたが、静まり返った教室では何の意味もなかった。


「新任の柏木康人だ。今年度からこのクラスの担任になったんだよ」


 柏木康人かしわぎやすとはムスッとした表情で銀縁メガネを押し上げ、忠告も兼ねるようにそう自己紹介した。言われれば、この柏木という男は教師以外の何者にも見えない。

 地味色の背広に締まったネクタイ。ヒゲの一本だって見当たらない清潔そうな顔には、初々しい若者の、教師としてはまだまだ未熟なあどけない表情がかいま見える。メガネの奥に閉じ込められた瞳から、ひしひしと伝わってくる教師としての熱意とプライドが、今まさに炎となって燃え上がらんばかりだった。

 瀬名雄吾がもう一人現れたと、華世は思った。


「廊下まで聞こえてたけど、君たち今、一悶着起こしそうな雰囲気じゃなかった?」


 華世と瀬名が顔を見合わせると、鬼山が大きな音を立てて席に着いた。ほとんど重力に任せて椅子に座り込んだような調子だった。


「もう少し、新任の僕をいたわってくれたら嬉しいんだけどね。教師としては二年目だけど、この学校で教えるのは初めてなんだ。先生と生徒、幸先の良いスタートを、お互いに望もうじゃないか」


 無垢な笑顔を振りまきながら柏木は言うと、その手に持っていた二枚折りの大きな用紙の束を瀬名に手渡した。


「これを、さっき渡し忘れてたんだ。年間行事予定表。これも配っておいてくれると助かるよ」


「先生、すいませんでした」


 予定表を受け取りながら瀬名が頭を下げた。


「鬼山くんを相手に正義を気取ってしまったのは、本当に僕らしくなかったと反省しています。でも、僕は許せません。高校性らしからぬ言動や悪事を繰り返す、こういった社会に不適切な……」


「素直に生ゴミって言えよ」


 目も開けず、まるで寝言を呟くように鬼山が言った。


「君は生ゴミ以下だ」


「まあまあ、まあまあ」


 二人の間に割入ると、柏木は馴れたような手つきで再開された論争を制止させた。そして、鬼山を見下ろした。鬼山も柏木を見上げた。


「そうか、君が鬼山勝二か」


 鬼山を見据える柏木の目がほんの一瞬、とても冷たいものに見えたのは、華世の気のせいだろうか?


「前に僕が赴任していた学校にまでその名を広めるほどの不良……僕らの立場から言わせれば“厄介者”だ。この学校にいるとは聞いてたけどね……まさか僕の生徒になるなんて夢にも思わなかった」


「先生。鬼山は厄介者なんかじゃないよ。そりゃあ、一緒に歩いてもろくなことないし、会話なんかまともに成立しないけど、でも鬼山って、根は良い奴なんだよ」


 華世は一生懸命フォローしたつもりだったが、場の空気をかき乱しただけで、逆効果だったのは誰が見ても明らかだ。笑顔の戻った柏木の表情が、まっすぐに華世を見つめたのはその直後だった。


「確かに、一緒に歩かせてくれるんだから、根は良い奴なんだろうね。きっと、君は彼にとっては特別な存在なんだろう。えっと……」


「柴田です。幼馴染の、柴田華世」


「違う。腐れ縁だ」


 前もって準備していたかのように、鬼山は即座に訂正した。


「どっちでもいいけど、授業内でのいざこざは勘弁してくれよ」


「杞憂だね」


 鬼山の言葉からは、たっぷりと練り込まれた皮肉な感情が滲み出していた。柏木はそんな鬼山を嘲るような視線で一瞥すると、瀬名に「後はよろしく」とだけ言い残し、教室を出て行った。



 華世が瀬名を手伝ったので、三十以上ある机の一つ一つにプリントを配布する作業は、とても早く片付いた。『学校新聞“春夏秋冬”』『図書通信』『年間行事予定表』『PTAから保護者様への通知』『健康診断について』『進学・就職のススメ』……などなど。

 しかし、華世はプリントを配りながら、もっと他のことにも集中しなければならなかった。瀬名が鬼山の席に近づくたび、殴り合いのケンカが勃発するのではないかと懸念したり、鬼山が足をひっかけるんじゃないかと足元を注視したり(過去の経験上、鬼山がそんなせこい行動にでないことくらい、華世には分かっていたが)、何か起こったら全速力で二人の元へ駆けつけられるよう、歩きながら足首の準備運動をしたり。プリントと同時に汗をつかんでいたのは、華世の知るところではなかった。

 無事、何事もなく終わったプリント配りの後、二年五組のドアをくぐってやって来たのは、長い静寂だった。鬼山は大人しく眠り続けているし、瀬名はプリントを黙読するのに熱心だった。

 華世は『年間行事予定表』で今年度の学校スケジュールをチェックしていた。しかし、華世の場合はもっぱら、ゴールデンウィークの連休数や、夏休みの日数を数えることに専念していたので、すぐ近日まで迫る学力テストや身体検査のことには目もくれなかった。

 やがて、教室は生徒たちの笑顔(一部案じ顔)と声で満たされ始めた。教室に入って来た生徒たちは鬼山の姿を見て驚きおののき、卒業までの二年間を案じるような眼でどこか遠くを見据えた。中には、玄関に貼られた名簿で鬼山勝二の名をすでに見つけていて、大方の緊急事態を把握しきった顔つきで教室に入ってくる者も数名いた。その場合、あえて鬼山の方を見ない生徒が大半だった。もし互いの視線が真正面からぶつかり合いでもすれば、十秒後の自分がどうなっているのか見当もつかない。


「鬼山くん!」


 教室へ飛び込んでくるなり、脇目も振らず声を張り上げる一人の男子生徒……自称“鬼山勝二の友人”である『五十嵐遼いがらしりょう』だった。五十嵐はその丸っこい童顔に満面の笑みを広げ、鬼山の右隣の席にダイブした。


「また同じクラスだね! ねえ、鬼山くん、起きてる? 僕だよ、遼だよ!」


 周囲の生徒は、「せっかく眠ってるのに、余計なことをするな!」と言いたげな冷たい眼差しで五十嵐に訴えかけている。だが、五十嵐はそんなことを歯牙にもかけない。


「ねえ、鬼山くんってば!」


 華世は、迷惑極まりないといった表情で二人のやり取りを見つめる瀬名を見た。そして、眠たそうな眼をすぼめ、おもむろに五十嵐の笑顔を見つめる鬼山の横顔へ視線を流した。睡眠不足の顔色が、不快な暗褐色に染まっていく一部始終を、華世は確かに見届けた。


「また同じクラスだね! 僕だよ、遼だよ!」


 機械的にそれを繰り返す五十嵐の高声は、今や教室中のどの声より響いてやかましい。一年生の時から、五十嵐はいつもこんな調子だった。


「俺が寝てる時は話しかけるな。耳障りなんだよ、その声。犬の遠吠えじゃあるまいし」


「遠慮しなくていいんだよ、鬼山くん。もっと素直になって喜んでくれても……」


「俺さ、お前嫌いなんだよ」


 鬼山は痛烈に言い放ったが、こんなことでひるまない五十嵐の根性っぷりは、さすが自称“鬼山勝二の友人”といったところか。


「そんなこと言わずにさ、また僕になんでも命令してよ。何か欲しい物はある? すぐに調達してくるよ!」


 鬼山は面倒臭そうに顔をそむけたが、何か思いついたように、すぐにまた五十嵐の方へ向き直った。


「……じゃあ、ツナサンドとコーヒー牛乳」


 五十嵐は空を切り裂くほど勢いよく親指を立てると、教室を飛び出していった。


「どっちも学校の購買で扱っていないじゃないか」


 瀬名は鬼山の二つ後ろの席から、独り言を囁くようにそう言った。


「厄介払いできて清々したね。しかも昼飯に困らなくて一石二鳥だ」


 やはり独り言で返すように鬼山が言った。その静けさに包まれたやり取りの中に、今にも火の着きそうな爆薬が仕込まれていることを、華世だけは知っていた。


「あんなに君をしたってるのに、君には情のかけらもないのか」


 鬼山は答えなかった。すでに目を閉じ、浅い眠りへと入っているようだ。そんな会話を耳にしていた大半の生徒が、鬼山と対等に話し合うこの勇敢な紳士に疑問を抱いたことだろう。「一体何者なんだ?」と。


「おっはよー、柴田さん」


 その聞き覚えのある声に、華世はほんの一瞬、当惑した。今、明らかに自分に向かって発せられたその声の持ち主は、華世の脇をさっそうと通り過ぎ、一つ前の席へ腰を下ろした。華世の視界に現れたのは、やはり『神崎美奈子かんざきみなこ』だった。

 神崎美奈子は、化粧品の大手有名ブランド『KANZAKI化粧品』社長の一人娘だ。華世とは一年生の時からの付き合いで、それなりの関係を築いていたものの、友人と呼ぶには値しない存在であった。

 まず、誰がどう見ても『鬼山のせいで友達のいない柴田さんに、仕方なく付き添ってあげているだけ』という感覚が丸出しの、上辺だけの友人気取りであるのは火を見るより明らかだった。それに加え、誰に対しても優越な態度で相手をさげすみ、男子生徒と教師に対しては八方美人で振る舞った。

 同じ女子としては遠巻きにしておきたい手合いではあるが、神崎美奈子が本物の美人であることは過去の経歴からも証明済みだったし、時折見せる箱入り娘の純な性格を強く憎めないという点もまた、彼女を否めない大きな要素であった。

 そして決定的なのは、神崎美奈子も華世と同様、友人が一人もいないということだった。


「おはよう」


 華世は気の抜けたような声で挨拶した。正直、神崎とまた同じクラスになってしまうことは、華世にとって大きな誤算だった。名簿を確認する時、鬼山と自分の名前ばかりに集中していたせいで、神崎美奈子という名がすぐそばにあることにまったく気付かなかった。

 鬼山にとって五十嵐が耳障りなら、華世にとって神崎は目障りそのものだった。ただでさえ美人のくせに、その自慢の顔に化粧を乗せてくるものだから、華世を含め、嫉妬にまみれた女子からの敵視は日に日にその力を増している。そう……それはあくまでも、神崎への嫉妬にすぎないのだ。


「またあなたと同じクラスになれるなんて、神様の粋な計らいに感謝しなきゃね」


 発声に添って美しく滑らかに動くその表情を恨めしく見つめながら、華世は「そうだね」と相槌を打った。


「明日は学力テストだけど、復習は大丈夫? 成績に関係ないからって手抜いちゃダメよ」


「分かってますって」


 専属の家庭教師じゃあるまいし、と心に思いながら、華世は膨れっ面で返事をした。


「同じクラス出身者は、柴田さん、野田さん、中山くん、五十嵐くん……そして、鬼山くん」


 鬼山の横顔をまっすぐに眺めながら神埼が言い終えた。そんな神崎の瞳が、鬼山の二つ後ろの席に座っている瀬名の方へと動いた。


「……まさか、鬼山くんとあの瀬名雄吾が同じクラスとはね」


「瀬名くんを知ってるの?」


 質問する華世の声は、なぜだか自然と小さくなっていた。


「少なくとも、この学年で私の知らない男はいないの。みーんな調査済み。でも、彼は例外ね。中学が一緒だから」


 アゴをツンと突き出しながら神崎は言った。


「どうして鬼山と瀬名くんが同じクラスだと、“まさか”なの?」


「正反対だから。言わば、黒と白。表と裏。北と南。正義と……悪」


 熱を込めて『悪』を言いきると、神崎の頬にピンクが差した。華世は小さく首をかしいだ。


「さすが、鈍いわね。要するに、あの二人が一緒になったらマズイのよ。瀬名くんは中学の時から不良って類の人種を嫌ってる。理由は分からないけど、とにかく、視界に入るのさえ苦痛って感じね。瀬名くんって度が過ぎるくらい正義感の強い人間だから、道徳に背く鬼山くんの存在は徹底的に眼中の邪魔者ってわけ。決まり文句は『不良は生ゴミだ』」


「ああ……なるほど」


 華世は心の底から納得した。


「でも、瀬名くんが不良を忌み嫌う理由って何だろう?」


 華世の疑問は、朝一番のチャイムによってかき消された。鼓膜を震わすチャイムの余韻が消えるその前に、神崎は優雅な風貌で自分の席へと突き進み、勢いよく開いたドアからは再び柏木先生の姿が現れた。ゆっくりと教室の中を見渡すその顔に、微かな笑みが含まれている。


「起立!」


 教壇に立つなり、柏木が声を張り上げた。鬼山以外、その場にいた全員が一斉に尻を持ち上げた。


「おはよう、諸君!」


 華世が柏木の語調と威勢の良さから感じたのは、『俺が二年五組という名の王国を支配する王様だ!』という、耳には届かない心からの叫び声だった。まばらに挨拶をする生徒たちの中でも、一際大きな声で返したのは瀬名だった。


「元気があってよろしい。はいはい、着席ね」


 柏木は瀬名に注目しながら笑顔で言ったが、白っぽい顔色を見るに、余力は乏しそうだ。


「進級おめでとう。目の前に見知らぬ男がいて、戸惑っている生徒も多いだろう。そんな人のための自己紹介」


 柏木はチョークを手に取り、不慣れな手つきで黒板に文字をつづっていった。生徒たちの多くがチョークの白い足跡を目で追った。


「柏木康人。ルビもふっておこうか? “かしわぎやすと”だ」


 縦に書かれた文字は少し歪んでいて、ちょっぴり情けなかった。


「この春、この学校、このクラスを受け持つことになった新任の柏木です。担当科目は化学。ちなみに二十六歳。独身。血液型はO型。趣味は……観葉植物の栽培かな」


 信じられないことに、それから二十分の間、柏木は自分のことをペラペラと喋りまくっていた。出身が北海道であることや、その生い立ち、内気だった少年時代、初めて彼女ができた高校時代、教師になったいきさつなど。この奇妙に冗舌な男は、この日、この時のために学校へやって来たとばかりの勢いでまくしたてた。

 華世を含めた大部分の生徒が、眠り続ける鬼山を羨ましげに眺めていたのは事実だったし、結局のところ際立って役立つ話はなく、柏木に投げかけられる視線が時間を追う毎に冷たいものへと変化していったことを、恐らく当の本人は知らない。



 次の日の午前中に実施された学力テストには、二年五組の生徒全員が出席した。無論、鬼山が目を開いて試験に臨んだことを前提としての話だ。学力テストは、国語、数学、英語の三科目のみ実施され、範囲は一年生時に習ったことの総まとめのようなものだ。直接成績には関係ないが、ここで点を取れなければ『去年、私は学校で何をやっていたんだろう』という虚しさに苛まれかねない。

 試験結果は答案用紙に赤ペンが入れられた状態で、その日のHRの終わりに返却された。名前欄のすぐ脇に、各々の脳みその強さが数字になって大きく書き記されている……。


「あらら。お気の毒」


 華世の答案用紙を頭上高くから見下ろしながら、いかにも無関心な声色でそう言ったのは神崎だった。


「勝手に見ないでよ」


 言いながら、華世は答案用紙を机の奥まで押し込んだ。ほとんど渾身の力を込めたので、時々、紙の裂ける音が机の中で響いた。


「家に帰ったら、ご両親にちゃんと見せるんだよ」


 帰り際の騒々しい教室の中で、柏木が声を張り上げていた。


「破いて捨てたり、燃やしたり、ヤギに食わせようとしたって無駄だぞ。テストの点数と偏差値は通知書として家庭に送付するからね。ちなみに、どうでもいいけど、今回の上位三名ね。三位、神崎美奈子。300点中272点」


 神崎美奈子という響きが教室の隅から隅へと伝わった時、本人の優越そうな表情に拍車が掛かる瞬間を、華世はついうっかり見てしまった。その姿はまるで、優勝という華やかなスポットライトから少し外れた、ミス・ユニバースの出場者だった。


「二位、瀬名雄吾。285点」


 瀬名は嬉しいやら悔しいやら何やら、珍妙な表情をこしらえて顔を上げた。華世の察するところ、本人は自分がクラスで一番だと思っていたに違いない。しかし、その上をいく何者かが現れたことで、一時的に混乱しているのだ。

 早く一位を発表してくれとばかりに瞳をギラつかせる瀬名を尻目に、華世には、その一位が誰なのかもう大方の予想がついていた。案の定、柏木の口から飛び出したのは、あいつの名前だった。


「一位、鬼山勝二。299点」


 騒がしかった教室が、水を打ったように静まり返った。鬼山本人は教室にいなかったが(帰りのHRに出席しないのはいつものことだった)、自称“鬼山勝二の友人”である五十嵐が自分のことのように喜んだのを皮切りに、また教室中がざわめき始めた。昨日、初顔合わせとなった生徒たちが、額を寄せ合ってこの一大事件についての討論をかわしている。

 華世の耳に聞こえてくるのは、「カンニング」やら「前々から問題を知っていたんだ」やら「誰かを恐喝して答案用紙を交換したに違いない」やら……信用のない者が陰でどんな悪口を言われるのか、それがはっきりと露呈された瞬間だった。


「一年生の頃の鬼山くんを知らない子たちは、そりゃ驚くわよね」


 口が半開いたままの瀬名を愉快げな表情で眺めながら、神崎が華世に話しかけた。鼓膜を突き抜けていった『鬼山勝二』という名の衝撃波は、瀬名という男の意識と活力を、その原動力ごと破壊してしまったらしい。今の瀬名は、電池の切れた携帯電話くらい機能しない存在となっていた。



 夕暮れ間近の淡いオレンジ色に染まる廊下を、華世はたった一人で歩いていた。校舎の三階にある、この西から東へ伸びる短い廊下は、常にひと気がなかった。なぜなら、誰も危険を冒してまでその廊下を渡ろうと思わないからだ。学校中の不良たちがこぞって集まる場所……今華世が突き進む廊下こそ、その場所だった。

 ちょうど一年前。不良たちの集会場であるこの廊下を“コエダメ”と名付けたのは鬼山だった。彼が学校に入学して間もなく、この廊下に巣食う三年生の番長をケンカで倒したことから、鬼山が強引に新たな番長として選ばれた。鬼山がこの廊下を“コエダメ”と名付けたのはその時だった。


「よう」


 華世は、窓辺に立つ一人の男に向かって声をかけた。手垢まみれの窓から射る暖かな夕陽を浴びるのは、長身の、明るい茶の前髪で重そうなまぶたを見え隠れさせる鬼山勝二だった。


「やっぱりここだったんだ。好きだよねえ、あんた」


 鬼山の数歩手前で立ち止まり、華世は一緒に並んで夕陽に目を細めた。


「三年生がいなくなって、このコエダメも静かになっちゃったね」


 朝のバス停と同じ、鬼山はやはり何も答えなかった。だが、華世にとってはそれで充分だった。鬼山とこうして立っていられることが、最も簡単で単純な幸せだということを、心からかみしめることのできるひと時だったから。


「どうせあの人たち、コエダメの意味なんか分かっちゃいなかったよね。結局、カッコイイ英単語か何かと勘違いしたまま卒業しちゃったんじゃない?」


 華世は笑いを堪えながら言ってやった。


「ああ。そうだな」


 鬼山は無愛想に返事をしたかと思うと、ポケットからおもむろにタバコを取り出し、ライターで火を点けた。


「タバコやめなって。百害あって一利なし、よ。ていうかさ、どうやってタバコ手に入れてるの? TASPO持ってるの?」


 手でタバコの火を扇ぎながら華世は質問した。


「ここは嫌いじゃない。灰が焦がした黒ずみや、殴って壊れた壁を見てると、気持ちが落ち着く」


 あえてタバコの件を無視するように、鬼山は話題を切り替えた。


「ふーん。それじゃあ最近は、気持ちが落ち着かなかったってわけ? もしかして、瀬名くんのせい?」


 ちょっとからかってみようと思って聞いてみただけなのに、鬼山は咥えたタバコの先端を見つめたまま、物思いに耽ってしまったようだ。立ち昇る煙が華世と鬼山の間を覆っていった。


「あんたが瀬名くんをどう思ってるのか知らないけど、いじめたりしたらダメよ」


「あいつが俺をいじめてるんだろ」


「だったら尚更だよ。パンチで仕返ししようだなんて、絶対に考えないでよね」


 鬼山が鋭い視線を放ちながら華世を睨みつけた。その冷酷な眼球を間近で目の当たりにした瞬間、華世は腹の底が内側に引っ込む感覚を覚えた。


「お前も瀬名と一緒だな。二人の間に立って、仲裁して、それで保護者のつもりか? 何も知らない奴は、黙って見てりゃいいんだ。もうそれ以上でしゃばるな」


 脅しに等しい鬼山の暴言にはもう慣れっこの華世だったが、心の芯までえぐり通すようなあの目には、今でさえ寒気を感じる。鬼山が背負う悲哀な過去の象徴が、その漆黒の瞳に刻まれていた。


「分かった。もう行くね。教室に忘れ物を取りに行く途中だったんだ」


 華世はあえて鬼山を見ずにそう言って、壁際まで伸びる男の大きな影を踏み越え、廊下の暗がりまでとぼとぼと歩いた。


「……柴田」


 呼び止めるその声に、華世は自分でも驚くほど速く後ろを振り返った。その先には、いつもの眠たそうな眼でこちらを見つめる、鬼山の姿があった。


「もうこの廊下は渡るな。ここを渡っていいのは、それこそ、コエダメに頭の先から突っ込まれるだけの価値がある人間だけだ。お前は、お前にふさわしい廊下を歩け」


 陽の届かない暗がりから、華世は微かな笑みを投げかけた。華世の心を包み込み、暖めてくれたのは、窓から差し込む夕暮れのオレンジではなく、鬼山の不器用な優しさそのものだった。



 教室のドアを開けてまず華世の視界に飛び込んできたのは、瀬名が一人、さっき返却された答案用紙をボーっと眺めている姿だった。


「まだいたんだね。その……帰らないの?」


 何と声をかけてよいやら、華世は自分の席へ向かいながらも瀬名に話しかけていた。ここにきて、瀬名の虚ろな瞳が初めて華世を捉えた。


「僕は敗北したんだ。あいつに……」


 瀬名が何を言いたいのか、華世にははっきりと分かっていた。


「テストのこと、まだ気にしてるの?」


 瀬名の視線の先は瞬く間に、手元の答案用紙に引き戻されていた。華世は机の奥でくしゃくしゃに丸まっている“忘れ物”をわしづかみで引っ張り出した。


「瀬名くんの悩みなんて贅沢すぎるよ。ほら、あたしなんか国語38点だよ?」


 華世は得意になって答案を掲げたが、見向きもしない瀬名の前ではそれも空回りだった。ボロボロの紙切れのその様が、華世を侵食していく虚しさにスピードを与えた。


「僕が納得できないのはテストの点数じゃない。あいつに負けたことなんだよ」


 結局のところはテストの点数なんだなと、華世は解釈した。変えようのない点数という名の事実を受け止めきれない瀬名は、いつ答案用紙に火を放つかも分からない状況だ。


「教えてくれないか、柴田さん。あいつは……鬼山勝二は、一体何者なんだ?」


 迫り来る瀬名の圧力に、華世はたじたじだった。どこから話したら良いのか、その熱い眼差しに見つめられながら、しばらく考えることとなった。


「あいつはね、少なくとも、瀬名くんが思ってるほど悪い奴じゃないよ。ただ、不器用で、無口で、無愛想だから、そう見えちゃうかもしれないけど」


 言いながら、華世の心の中には自然と鬼山の姿が思い描かれていた。鬼山のことを良い方向へ理解してもらおうと、華世は自分なりに努力しようとした。


「鬼山って、学校に来ても寝てばっかりなんだよ。小学生の頃から昼夜の生活が逆転しちゃってて、夜は起きて、昼に眠るタイプなのね。そのせいで、あいつに付いた通り名が“フクロウ”。夜の街に出歩いて狩りをする鬼山を、不良たちはいつしかそう呼び始めたの」


「でもそれじゃあ、ますます納得がいかないな。どうして授業中眠ってるにも関わらず、あれだけの点数を取れるんだ?」


 瀬名は嫌なことを思い出してしまったとばかりに、顔を思いきりしかめながらそう聞いた。華世はしばらく考え込んだ。


「それは前々からあたしも不思議に思ってたことなんだけどね。理由は分からないの。でもきっと、ただの天才なのよ。あいつの脳みその出来は、小学生の頃からもうほとんど完璧だったもの。でも、そんな鬼山にも一つだけ苦手科目があるのよ」


 最後の一言は最小限に声を落としたので、瀬名は聞き漏らすまいとばかりに前のめりになった。


「あいつ実は、体育が苦手なのよ」


「体育? へえ、意外だな。運動オンチには見えないけど」


「ケンカの腕っ節は確かなんだけど、スポーツになるとからっきしなのよね。運動会のかけっこではいつもビリだったし、跳び箱は三段までしか飛べなかった。ボールを持たせたら、まるで爆弾でも抱えるみたいに怯えてたっけ。あれは笑えたなあ」


 いつしか過去の思い出に浸り始めた華世を、瀬名は黙って見つめていた。華世はハッとして我に返った。


「柴田さんって、本当に彼のことが大好きなんだね」


「えっ! 違う違う。好きとか嫌いとか、そんなんじゃなくって……」


「悪いけど、僕は彼のことを好きになれそうにない。絶対に」


 言い切った瀬名の表情からは、彼の揺るぎない確固たる意思がジワジワとあふれ出していた。


「どうしてなの? 神崎さんから聞いたよ。瀬名くんは、中学生の頃から不良たちをひどく嫌ってたって。……そりゃあ、好きな人なんていないだろうけど」


 瀬名は考え込むようにして黙ったが、やがて口を開いた。


「僕には二つ年上の兄がいた」


 夕日に染まる瀬名の顔に、目には見えない暗い影が落ちた気がした。華世は黙ってうなずいた。


「俗に不良と呼ばれる道を歩いていた兄は、中学生の時から暴力団と関わりを持っていて、家に警察が来ることもしょっちゅうだった。義務教育を終えた兄は高校へは進学せず、そのまま家を出た。連絡先どころか、何をやっているのかさえ分からなかった。家族みんなが、兄のことを忌み嫌ってた。名前さえ口にするのをためらうほどにね。……兄が逮捕されたという通知が届いたのは、去年のことだ」


 華世の頭の中からは、慰めの言葉さえ出てこなかった。今はただ、精一杯の同情の下、あわれみの視線を送り続けることしかできない。


「兄は借りていたアパート先で、同居していた仲間と一緒に大麻の栽培に着手していたらしい。転売して、多額の金を受け取っていた。最低な話だろ? だから、僕だけはしっかりしなきゃって、立派な人間になろうって、自分にそう誓った。もうこれ以上、両親を悲しませたくなかったから」


 華世は、凄惨な過去を語る瀬名の表情から、熱い力のみなぎりを感じ取った。それは、どんな困難にも屈しないぞという、瀬名に宿る力の具現化だったのかもしれない。

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