最終話 小さな物語の、末恐ろしい結末
最終話です!
重大なネタバレを含みますので、前話までを未読の方は注意してください。
二人は互いに腕を取り合い、住宅地を抜けた大きな通りまで黙々と歩いて行った。そこでタクシーを拾い、二人は急いで乗り込んだ。初老の男性ドライバーは、スリット状のスカートから伸びる流血した華世の足を見て目をパチクリさせ、顔中あざだらけの鬼山には警戒心をむき出しにした。
「行き先は……病院でいいよね?」
ルームミラー越しにドライバーが尋ねた。無論、二人の向かう先は学校だった。
「体、大丈夫? 痛くない?」
タクシーが学校へ向かって走り出すと、華世はぐったりとシートに座りこむ鬼山に視線を移した。
「こういう事態には慣れてるが、痛みに慣れないのは残念だ」
完全に脱力しきった声で鬼山が答えた。それから、すがめた眼で華世の足を見た。
「お前こそ、血が出てるぞ」
「平気。かすり傷よ」
本当はかなり痛かったが、華世は悟られまいと頑張って平然を装った。
「これからやらなきゃいけないことって、もしかして瀬名くんのこと?」
華世はずっと気になっていたことを聞いてみた。走り抜けていく街灯の明かりに照らされるのは、鬼山のどこか悲哀を感じさせる横顔だった。
「五十嵐が言ってただろう。俺が神崎からの誘いを受けたのは、柏木の行動を観察するためだって。だがそうじゃない……俺が本当に把握しておきたかったのは、むしろ瀬名の方だった」
「何それ、どういうこと?」
華世はすぐさま切り返した。
「瀬名が今日一日何をやってたか分かるか?」
華世は首を横に振った。思い返してみると、朝礼の時以外、瀬名の姿を校内で見かけた覚えがなかった。
「俺の見た限り、あいつは学校祭のほとんどを教室で過ごしていたはずだ。たった一人、あのカラッポの教室でずっとだ」
「鬼山を待ってる……」
理由ははっきりしないが、華世はそう直感した。そしてそのことに関しては、鬼山も同意見だった。
「追い込まれた闇の中で、瀬名は安息を求め始めてる。……もっと早くに行動してやるべきだった」
タクシーが学校へ到着すると、華世たちの頭上で色鮮やかな花火が何発も夜空を彩った。どうやら、学校祭のフィナーレを飾る花火大会が始まったらしい。束の間、華世は全てを忘れて夜空を見上げていた。
「行くぞ。もたもたしてると、瀬名が何をしでかすか分からない」
我に返った華世は、校舎に向かって歩いて行く鬼山の背中を追った。
静寂の闇に覆われた廊下を、花火の鮮やかな光彩が一閃し、内臓を震わせる重低音がその後を駆け抜けていった。二年五組の教室の前に辿り着くと、華世は締め切られたドアの前で深呼吸した。この縄で縛られるような胸の苦しみが何なのか、華世には分からなかった。あの瀬名雄吾を相手に、案ずることなど何一つないはずだった。
芽生えた迷いを振り切るように、華世は勢い良くドアをスライドさせた。途端に、ムッとするような夏の夜特有の蒸し暑さが顔に触れた。机の一切を取り払われたカラッポの教室は月明かりに照らされていた。しかし、花火の閃光が窓から射し入る時以外はほとんど何も見えない。
鬼山と共に教室へ足を踏み入れた時、華世は窓際に浮かぶ一つの人影を見た。こちらに背を向けるそのシルエットは、校庭を望む窓から天を仰ぎ、時折、夜空に咲いては散っていく艶美な炎の明かりで明瞭に照らし出された。
瀬名雄吾がそこにいた。
「学校祭が終わるまでに、君たちに会えて良かった」
こちらに背を向けたまま、瀬名は柔らかな物腰でそう切り出した。窓に反射して華世を見つめるのは、瀬名雄吾の凛とした表情だった。
「今なら、誰にも邪魔されないで済む。こうして君たちと慎重に接触できる時間を、僕はずっと望んでいた」
瀬名がおもむろにこちらを振り返った。両手を所在無げにズボンのポケットに突っ込み、威嚇するような鋭い視線で華世と鬼山を睨みつけている。瀬名の姿を借りた何者かが、目の前に立っていた。
「もう限界だった。だから早く君を……鬼山勝二という存在を、この手で倒さなければならなかった」
花火のように燃え上がるその瞳を、瀬名はほんの一瞬だって鬼山から逸らすことをしなかった。
「僕は何よりも君が憎い。君の存在を葬るためなら手段を選ばない程にね」
華世は表情一つ変えない瀬名の声色が、不気味に上ずっていくのを聞いていた。それは、炸裂した花火の余韻の中でもはっきりと鮮明だった。
「生徒会長に当選することが、君を倒す上で一番の近道となるのは分かっていた。規則を改善して、コエダメにこびりつくゴミ共を徹底的に排除するつもりだった」
そこまで言って、瀬名は極端に顔をしかめた。
「藤堂のバカさえいなければ、僕の当選は確実だった。だが、あいつらの企みには早くから気付いていた。僕は対策を練った。計画を遂行する上で、格好の的は一人しかいなかった。ある日、廊下で、五十嵐が先生と話しているのを聞いた……鬼山がバイトしていることを密告しているところだった。僕は五十嵐を問い詰め、鬼山をスパイしていることを白状させた。そして、そのことをネタに五十嵐を脅迫し、僕が藤堂に勝てるよう、不正に票を加算しろと指示を出した」
「そんな……冗談でしょ?」
華世は息を呑んだ。瀬名は大きく、短く首を振った。
「本当だ。僕が命令した」
刹那、赤い閃光が目の前に立つ男の姿を照らし出した。それは紛れもなく、瀬名雄吾その人だった。
「じゃあ、五十嵐が選挙管理委員になったのは、瀬名くんが薦めたから?」
「それは違う。おそらく、彼はただ純粋に内申点のことを考えて委員会へ入ったんだと思う。どこかで足を洗うタイミングを見計らっていたんだろうな」
確かに、華世が五十嵐に問い詰めた時、そのようなことをほのめかしていた。どうやら、あの時五十嵐が言っていたことは本当だったらしい。
「僕が自分を最も汚らわしいと感じるのは、身も心も邪悪な気配に支配された時だった」
瀬名は落ち着き払った声で続けた。
「だがそんな邪心を振り払おうとはしなかった……不良共を圧しようとする僕自身が、彼ら以上の背徳を誇示しようとする時、体の中で踊るように血が騒ぐ快感に、何にも勝る強い力を得た気がした」
「……そんなの瀬名くんじゃない」
辛辣に否定すると、瀬名は浮かべた微笑の中で冷たい視線を華世にぶつけた。
「そうさ、僕じゃなかった。望むものを手に入れるためなら、僕はかつての自分を変えられることを知っていた。悪意に心を染める時、僕はいつもそこに兄を感じた。存在を否定していたはずの兄の姿を自分に投影していたんだ。……みんなが知ってる、頑固で生真面目なガリ勉の瀬名雄吾は、もうどこにもいなかった」
華世は絶句していた。返す言葉がどこからも生まれてこない。鬼山でさえ口をつぐんだままだ。
「汚い……」
瀬名は視線を落とすと、憎悪の滲む声色を放った。
「あらゆるものが薄汚れて見え始めた。自分の存在さえもだ。だが僕にとっての弊害は、そういった僕の“けがれ”を吹聴される可能性にあった。選挙の当選を確実なものにし、藤堂らの計画を阻止するのに、朝倉仁の存在は僕にとって都合が悪すぎた。……今、君たちの前だから言える……朝倉を階段から突き落としたのはこの僕だと」
誰かが脳みそに白い布を落としたように、華世の頭の中は真っ白になった。そして、何も意識しないまま、華世は瀬名から鬼山へと視線を流した。鬼山は相変わらず無表情のままだ……いや、今目の前に鏡があれば、同じような顔をこしらえた自分がこちらを見つめていたに違いない。
「朝倉を突き飛ばした後、僕はとにかく逃げ出した。目撃者はいない……HRの始まる直前だった。最低の罪悪感は、最高の安泰と自信によって打ち消された。これで鬼山に勝てる、そう思った。だが実際は何も変わっていなかった……変わらないどころか、僕は更に自分の心が汚れていくのを感じた」
瀬名は顔を上げると、暗闇をえぐる鋭い視線で華世を見た。その冷たい目を見た瞬間、華世の鼓動が一気に加速した。
「朝倉が退院した日、柴田さんが彼と何を話したのか、僕には知っておく必要があった。朝倉のことだ、自分を殺しかけた人間が誰か、もう気付いていたかもしれない。僕が五十嵐に投票数の改ざんを命じた時の会話を、盗聴されていたかもしれない……それらは杞憂だったが、美術室での君たちの会話から、僕は生徒会長の座を見送ることに決めた。派手な行動でこれ以上朝倉の気を引くのは危険だと考えたんだ。実際、朝倉は柴田さんがいなければ藤堂らの悪行を記事にしていただろうし、僕のことを勘ぐっているのもだいたい予想できた」
「正しさと過ちの境目を、僕は漠然と生き続けていた。柏木先生がいなければ、僕は人としての理性を失っていたかもしれない。疲れ果てた僕に、先生はとても親身だった。色んな相談に乗ってくれた……生徒会や進路のこと、成績のこと。そして、兄である大吾のことさえ、僕は打ち明けた」
ふつふつと湧き起こる怒りを無理に押し殺すように、瀬名は震える声でそう言った。
「兄のことを話した途端、先生の目の色が変わった。僕の口からその名が出るのを待ち侘びていたかのようだった。その時、僕は初めて利用されていたことに気付いた……先生の目的は、初めから兄にあった。柴田さんに例の写真を見せようとしたあの後、僕は先生が兄と同じ暴力団の一味だと察したんだ」
尾を引いて散っていく花火の残骸に照らされるのは、鬼山をねめつける瀬名の荒ぶる眼差しだった。
「教えろ、鬼山。君と兄との間に何が起こったのか。君の知っていることをすべて……今僕に必要なことをすべて」
両者の間に横たわる沈黙を満たすのは、絶え間ない花火の爆発音だけだった。華世は再び鬼山の横顔を見上げた。まっすぐ前を見据える鬼山の表情に、かつての瀬名に対する敵意はまったく感じられなかった。今はただ、壊れ行く瀬名の身を案じるように、且つ、傷だらけの己の体をいたわるように、静かに穏やかだった。
「お前に会うずっと前から、俺は瀬名大吾のことを知っていた」
喉の中でこすれた小さな声。それが鬼山の第一声だった。
「初めて会った日、名前を聞いてすぐに分かった。お前は大吾に生き写しだ」
「心外だね」
瀬名はぼそりと呟いた。
「いつもそばにいた俺にさえ、あの人は多くを語らなかった。悩みや秘密を抱え込み、孤高の中で自我を貫く彼の生き様に、俺は憧れていた。孤立し、どんな屈強にも一人で立ち向かうことが強い者の証なのだと認識していたんだ。だが今なら言える。誰からも恐れられるような強い人間も、結束された固い絆にはかなわない。……そして一年前、俺はとうとう瀬名大吾を見限った」
「どういうことだ?」
「俺が通報したんだ」
鬼山が答えた。その内容に瀬名は口をつぐみ、華世は思わず眉間にしわを寄せた。
「大麻の不正栽培に着手していたことは知っていた。自首しなければ警察へ通報すると、俺は強く説得した。もうあれ以上、あの人が堕落していく姿を見ていたくなかった。だがあの人は自首しなかった。『通報してくれるのがお前なら別に構わない』と、笑顔でそう言ったんだ」
瀬名は何もかもを否定するように、半ば困惑しきった様子でかぶりを振った。鬼山は更に続けた。
「俺が通報する前の日、俺は彼から二つのものを託された。一つはドラッグの売上金だった。柏木がお前に近づいたのも、この金のせいだ。あいつは大吾が隠した金を手に入れようと、この数ヶ月ずっとお前に付きまとっていた」
「なるほど……そう言えば、先生はどうした?」
瀬名はいぶかしげに二人を眺めた。
「あー……」
華世は困ったように声をなびかせ、すがるように鬼山を一瞥した。しかし、華世の救いを求める瞳に、鬼山が応えてくれることはなかった。
「さっき色々あってね。先生は鬼山の家で暴れて、頭殴られて気絶したけど逃げ出して、チャリで事故って警察に捕まったはず」
華世のぶっきら棒な説明に向けられた瀬名のしかめっ面は、闇の中でもはっきり明確だった。鬼山が注目を引きつけるように、軽く咳払いした。
「一つはドラッグの売上金。もう一つは彼の意志だった」
「兄の意志だって?」
瀬名は絶望的な声を上げた。
「やめてくれ……そんなの聞きたくない!」
反論する様子をチラリとも見せず、そのことに関して、鬼山は何も言わなかった。
「俺がここに来たのはお前を苦しめるためじゃない。過ちに気付かせるためだ」
「僕に情けをかけるのか? 君が? ふざけんな!」
瀬名が花火の轟音に勝るとも劣らない大声でがなり立てた。
「君と出会ってからの数ヶ月、僕は君を倒すことだけを考えて生きてきた。妬み……僕を突き動かすのはただそれだけだった。頭の良い鬼山、頼りになる鬼山、ケンカの強い鬼山、カッコイイ鬼山。なぜ……なぜなんだ? 不良の君に、なぜそんな力がある? 道義を冒涜する君に、なぜ人は憧れる? 正しい道を歩んできたはずの僕が、なぜ君に及ばない? そんな矛盾は、僕が許さない」
ずっとズボンのポケットの中だった瀬名の右手が、今ようやく姿を現した。その手の中に握られていた物が何か分かった時、落ち着きを取り戻しつつあった華世の心臓は再び狂ったように脈を刻んだ。
瀬名が手にしていのはナイフだった。それもただのナイフではない。
「朝倉が神崎さんを倉庫で襲った時、あいつが持っていたナイフだ。床に落ちたのを拾った時から、ずっとこいつを制服に忍ばせていた。……君も刃物の一つくらい持ってるんだろう? こいつで刺し合いでもすれば、すっかり目が覚めそうだ」
ナイフの刃を愛おしげに眺めながら瀬名が言った。花火の赤い閃光に照らされた切っ先は、真っ赤な血に染まって見えた気がした。
「……やれよ」
突然、全てを投げ打つように鬼山が言った。華世は驚いて鬼山を見上げた。
「気の済むまでやればいい。俺も今までに、たくさんの人を傷つけてきた……自分の存在を確かなものへ結び付けるためだけに。瀬名。お前もそうなんだろ? 認めてもらいたいんだろ? 自分の力を証明したいんだろ? 俺はお前のやり方を否定しない」
瀬名は両手でナイフを持ち直し、胸の上で構えた。興奮で息遣いが荒くなり、それにつられて手元が震え始めた。
「こいつを使うのは最悪の手段だった……けど、やってやる! もうあの頃には戻らない……自分に嘘をついてきたこれまでの生き方を、僕はもう振り返らない!」
夜空に咲く特大の花火が爆音と共に開花するのと同じく、瀬名と華世は同時に動き始めていた。鬼山に向かって突進する瀬名の前に、華世が立ちはだかったのだ。恐怖、緊張、不安が混沌と渦を巻く華世の頭の中で、脳みそがその機能を平常通り保てるはずがなかったのだ。
それは、鬼山のことを一途に愛した女がとった、まさに狂気の自殺行為だった。
数秒後、体のどこにも痛みはなかった。華世は固く閉じていたまぶたをゆっくりとこじ開けた。すぐ目の前に瀬名が立っていた。荒々しい息遣いはそのままに、華世の腹部辺りに視線を落としている。
華世はすぐ背後に暖かな重みを感じた。鬼山の体が覆いかぶさるように華世の背中にのしかかっていた。生ぬるい吐息が耳に触れ、長い腕が華世のすぐ前方まで伸びている。
ナイフの刃が、鬼山の左腕に深々と突き刺さっていた。小さく悲鳴を上げた瀬名が恐々とナイフから手を離し、そこから数歩退いても、その切っ先は腕に食らいついたまま離れなかった。
やがて、静寂の訪れた教室に、血の滴る音が鳴り響いた。幕を閉じた花火大会に代わり、鬼山の腕から流れ落ちる鮮血が床に花を咲かせ始めた。淡い月光に照らされるその花はいつまで経っても散ることはなかったものの、思念をぶつけ合った男二人の戦いに終止符が打たれたのは確かだった。
「弟を頼む……それが大吾の意志だ」
瀬名はその場に膝からくず折れ、声を上げて泣いた。
柴田華世の長い一日が終わった。
その日起こった一連の事件が噂となって一人歩きし始めるまで、たった一日もあれば十分だった。次の日、まだ学校祭の冷めやらぬ興奮が校内を蔓延する中、柏木が逮捕されたという事実が教師や生徒たち一同に告知された。学校側は明確な理由を公言しなかったので、生徒たちは学校祭の後片付けをしながら、柏木が逮捕された理由を憶測で意見し合うのに夢中になった。
華世と鬼山は重要参考人として出頭を申し立てられ、その日は学校を休んだ。華世にとって、昨日その身に降りかかった災厄の数々に比べれば、警察署という絶対安全地帯での尋問など、漢字の小テストくらいたやすい事に思えた。実際のところ、警察を前にしての極端な緊張はなく、華世はその目で見たこと、聞いたことをありのままに伝えた。
事件から二日が過ぎた終業式の日、華世が登校すると、校舎前にはマスコミと思しき人間たちが十数人ほどたむろしていた。どうやら、柏木が大麻所持で逮捕されたことが正式に発表されたらしい。カメラの前でマイクを構える女性や、メモ帳にペンを走らせる男の姿が点々としている。
「君、ちょっといいかな?」
華世がこっそり校舎内に入ろうとするのを、肩にカメラを担いだ若い男が目ざとく見つけて話しかけてきた。華世はカメラを向けられるのが大嫌いだった。
「今回の事件に関してインタビューしたいんだけど? 顔は映さないからさ」
「すいません……今急いでるんで……」
「事件に直接関った二人の生徒がいるみたいだけど、同じクラスなのかな?」
華世が拒否するのを強引に無視して、カメラマンは更ににじり寄って来た。カメラのレンズを膝で割ってやりたい衝動にかられるのは、これで二度目だった。一度目は、そう、この男が華世の前に初めて姿を見せたあの時だった。
「ねえ、僕がインタビューに答えるよ」
華世の背後から現れたのは朝倉だった。まだ完治していない足をひきずるように歩き、得意の狡猾な笑みを浮かべてこちらへ近づいて来る。胸元にはご愛用の一眼レフカメラをぶら下げている。
「急いでるんだろう? 行きなよ」
朝倉は痙攣混じりのヘタクソなウインクを投げかけると、華世を押しのけてカメラの前に立ちはだかった。華世は小さく礼を言ってその場を離れた。
華世が玄関から外の様子を窺うと、早々に切り上げてきた朝倉が玄関の扉をくぐってくるところだった。
「いい写真が撮れたぞ」
大急ぎで上履きを履きながら朝倉が声を弾ませた。
「僕をインタビューするカメラマンの写真。現像したら一枚やるよ」
「いらない」
華世が無愛想に断ると、朝倉は極端に残念そうな顔をしてうなだれた。気付くと、華世は声を出して笑っていた。そして、その瞬間を待ってましたとばかりに、朝倉は華世にカメラを向け、シャッターを切った。
「やっと笑ったね。君の笑顔を初めて見た」
朝倉は嬉しそうに言った。華世は怒るのも忘れて呆然としていた。
「あんたって……変わってるのね」
華世は心底呆れていた。朝倉は笑顔だった。
「みんなから言われるよ。でも僕は、そんな変わってる自分が嫌いじゃない。むしろたまに、変わり者で良かったと感じる時があるくらいだ。……そんなことより、大変だったみたいじゃないか。柴田さんと鬼山だろう? 警察に出頭した重要参考人ってのは?」
「うん、まあね。……もしかしてあんた、全部知ってた? 柏木のことも、瀬名くんのことも?」
「確信はなかった。でも、柏木がただの教師じゃないことは察していたし、瀬名くんが陰で何をやっていたのかも大方把握していた。頭は悪いけど、僕は鬼山勝二くらい鼻が利くんでね」
朝倉は誇らしげに胸を張ったが、その足を怪我させたのが誰か、まだ分かっていないらしい。もちろん、華世はそのことを指摘しなかった。話がややこしくなるようなことは避けるべきだと、ちゃんと承知していた。
「今回のことが記事に間に合わなかったのは残念だ。明日から夏休みだし、柏木の悪事を毒舌できないなんてもどかしすぎる! ねえ、これは急きょ、今日中に号外を出すべきだと思わないか? ……何で怒ってるの?」
朝倉は華世の膨れっ面を覗き込みながら、怪訝な声色で尋ねた。
「あたし、美奈子のことでまだあんたを許したわけじゃないから」
華世はつっけんどんに突き放した。
「あんたのそういう自分勝手なとこ、直した方がいいと思う。素敵な文才を持ってるんでしょ? だったら、もっと楽しい記事を書いてよ。自分のためじゃなく、みんなのために」
華世は言うと、朝倉に背を向けて歩き出した。
「……ありがとよ」
朝倉の声が聞こえても、華世は立ち止まらなかった。ただ、心から溢れてくる喜びでその表情が笑顔に変わっていくのを、華世ははっきりと自覚していた。朝倉と仲良くなるには、もう少し時間がかかりそうだ。
「おはよう」
華世が席に着いて間もなく、登校してきた美奈子が挨拶した。どこか遠くを見据える抜け殻のような表情から出てくるのは、いつもの快活さを忘れた空虚な声だけだった。
「おはよう……どうしたの? 死体が歩いてるみたいよ」
「うん。私、二日前に死んだの」
からかったつもりなのに、返答する美奈子の声には本当に生気が感じられなかった。二日前といえば、学校祭のあった日である。
「何かあったの? その……あいつと?」
華世はドアの方に目を向けながら言った。ちょうど、鬼山が教室に入ってくるところだった。美奈子は無表情で振り返ったものの、再び華世と向き合う時には泣き出しそうな面持ちだった。
「また後でね」
去っていく美奈子の背中を見送りながら、これは只事ではないぞと、華世は覚悟を決めていた。
瀬名が姿を現さないことは、華世だけでなく、クラス中の不安を煽るような一大事だったに違いない。不治の病を患ってもお構いなしに登校してくるような瀬名雄吾が学校を休むなんて、前代未聞の大事件だった。
みんながもっぱら口にするのは、柏木の逮捕に関係しているに違いない、ということだった。当たらずとも遠からず。華世にもはっきりとした理由は分からないが、あの教室でのやり取りが何らかの影響をもたらしているのは明確だった。
終業式での校長先生による発表で、生徒たちは事件の“ほぼ”全貌を知ることとなった。時折言葉を濁すのを聞いて、校長がわざとかいつまんで説明しているのが華世には分かった。事件に直接関った華世や鬼山の名が挙げられなかったのはありがたかったが、式の後、二人は職員室に呼び出され、校長から直々の『口止め』を受けた。
「この一件は他言無用です。君たち二人は私以上に知り過ぎている。学校の名誉において、今後このような……」
こんなに間近で校長先生を拝めるなんて、まるで夢みたい。広い額に刻まれるしわの数に注目しながら、華世は校長の話にぼんやりと耳を傾けていた。傷だらけの鬼山を気遣う言葉など一つもありはしない。目の前のきゃしゃな小男は、『校長』という肩書きに支配され、今回の失態をどうにかして揉み消してやろうと額に汗を光らせる、見るも無残な人の成れの果てだった。
大人たちを腐らせるまで追いかけ回すそのモノの正体が、華世には分からなかった……いや、分からなくて良かったのだ。正体に気付いた時にはもう、破滅への一歩を踏み出しているはずだ。
もしかしたら、瀬名はもうその正体に気付いていたのかもしれない。
放課後。閑散とした教室には、若干名の生徒たちに混じり、机を挟んで向かい合う華世と美奈子の姿があった。明日からワクワクするような夏休みが始まるというのに、二人を取り巻く空気は、笑顔の欠片もこぼれないような哀愁で満たされていた。
「恋って甘くないのね」
カラッポの鬼山の席を愛おしげに眺めながら美奈子が切り出した。今の美奈子にとって、柏木の逮捕などどこ吹く風らしい。
「美奈子の口からそんな言葉を聞けるなんて、きっと重症ね。そりゃ死体も歩くわ」
「今まで、私に言い寄って来る男ならたくさんいた」
美奈子は華世の方に毅然と向き直って話し続けた。
「でも、私が好きになった相手は誰も私を好いてくれなかった。ねえ、どうしてなんだと思う?」
やはり鬼山との間に何かあったらしいが、華世はそれ以上深く考えなかった。
「そんなの、カンタンよ」
華世は笑顔で答えた。
「神崎美奈子って女の子は、プライドが高すぎるのよ」
「私、プライドなんか持ってない」
美奈子は否定したが、華世はこめかみの上で指を振った。
「チッチッ。それは気付いてないだけ。美奈子は、自分のことを好きな男子には興味がわかないのよ。道を歩いてて、自分の美貌に気付かない男がいると、わざわざそいつの前に戻って振り向かせてやりたいって思う時あるでしょ?」
「そんなこと……あるかな」
美奈子は正直だった。
「あたしにしてみればとっても羨ましい悩みね。自慢のある人って、その力を誇示することに何のためらいもないんだから。美奈子はきっと、振り向いてもらいたかったんだよ。その人のことを好きになっちゃうくらいね」
本で読んだ知識を、華世は余すことなく絞り出していた。そんな華世に向かって、美奈子は真剣な眼差しをぶつけ続け、やがておもむろに口を開いた。
「華世、あたしね……告白してたんだ。学校祭の日に」
束の間、華世は呼吸のやり方を忘れた。
「……マジ? いつ頃?」
華世は机が傾くほど身を乗り出して問い詰めた。それに引き寄せられるように美奈子も身を乗り出した。
「夕方。カラオケ大会の始まる直前。結果は……分かってると思うけど、フラれちゃった」
「ちょ、ちょっと休憩……」
華世は頭の中で整理するのに、うつむいたまましばらく押し黙っていた。鬼山とゴミ捨て場の前で会ったのは、カラオケ大会の始まる直前だった。だとすると、あの時既に、鬼山は美奈子からの告白を断っていたことになる。
「ねえ、聞いてもいい?」
考えに耽りっぱなしだった華世に向かって、美奈子が声をかけた。華世が目を上げると、案じ顔でこちらを覗き込む美奈子の顔がそこにあった。
「ん? 何?」
「……私たち、これからどんなことがあっても親友だよね?」
「何よ、いきなり」
「どんなに周りの環境が変わっても、私たちの関係は変わらないよね? ずっとそばにいてくれるんだよね?」
何かの冗談かと思ったが、美奈子は本気らしかった。美奈子の決然たる輝きを放つ瞳の奥深くを、華世はまっすぐに見つめ返した。
「もちろん、美奈子はあたしにとって最高の親友だよ。美奈子ほど本気で語り合える人間が、この先あたしの前に現れるとは思えないもの」
「それを聞いて安心した!」
美奈子はいきなり席から立ち上がると、顔の隅々にまで笑みを広げて華世を見下ろした。
「じゃあ、私は帰るから」
「えっ……ちょっと!」
華世は訳が分からないまま、教室を出て行こうとする美奈子を目で追った。
「次は華世の番だよ。結果は後でメールちょうだい」
太陽のような笑顔で言い残し、美奈子は快活な足音を廊下に響かせて去っていった。
教室に取り残された華世は、しばらくボーっと座ったまま黒板を眺めていた。美奈子が何を言いたかったのかも、次にとるべき行動が何なのかも、華世にはちゃんと分かっていた。
掻き集めた勇気を束にすると、華世はしっかりとした足取りで教室を後にし、廊下を渡っていった。気付くと、目の前はもうコエダメだった。タバコを咥えた男が一人で立っている。ボサボサ頭の、高い背のてっぺんに眠そうな顔をこしらえた、鬼山勝二だった。
「よう」
アザだらけの鬼山の横顔を見上げながら、華世は上ずった声で挨拶した。いつもと同じやり取りのはずなのに、心臓は高鳴り、体中の関節は指の先まで固まってしまっている。
「よう。まだいたのか」
開かれた窓の外へと煙を吐き出しながら、鬼山は静かにそう言った。
「美奈子とね、話してたんだ。……あんた、美奈子の告白断ってたんだって? どうしてあの時教えてくれなかったの?」
「お前には……」
「お前には関係ない、でしょ?」
鬼山が煙と一緒にため息を吐き出すのを横目で見ながら、華世はしてやったりとばかりに笑ってやった。そうやって笑っている内、緊張の縄がほどけていくのを感じた。
「……瀬名」
鬼山が突然その名を呼んだ。華世が鬼山の見つめる先に視線を向けると、そこには確かに瀬名の姿があった。左手に伸びる廊下からコエダメに向かって突き進んでくる。凛とした表情がまっすぐに二人を捉えていた。
「間に合った。君たちならここにいるんじゃないかって、そう思ったんだ」
二人の数歩前で立ち止まるなり、瀬名は出し抜けに言った。
「間に合ったって……全然間に合ってないよ。もう放課後だよ?」
華世が驚いて指摘すると、瀬名は優しく微笑んだ。華世の知っている、いつもの瀬名雄吾だ。
「そうじゃない。転校が決まったんだ。今日をもって、僕はこの学校の生徒じゃなくなる。だからどうしても最後に、君たち二人に会っておきたかった」
瀬名の言葉を完璧に呑み込むのに、華世は頭の中に芽生えた疑問の数々を一つ残らず消化しなければならなかった。
「転校ってどういうこと? 何で急に?」
華世はいきなり核心に迫った。
「全て僕が決めたことだ。すぐにでもこうしなければいけなかった」
後悔のない、きっぱりとした口調で瀬名は言った。
「鬼山、分かったよ。僕がなぜ君より劣るのか。僕に足りない10点が何なのか。自分を犠牲にして大切な人を守ろうとする志……それがその答えだった」
鬼山は窓の外を眺めたまま何も答えなかったが、短くなったタバコをそれ以上くゆらせようともしなかった。
「格好や世間体ばかり気にして、自分の名誉のためだけに生きてきた僕がかなわないはずだよ。君には大切な人たちがいて、その人を守るためならいくらでも自分を犠牲にしてきた。気付いたんだ……教室で君が柴田さんをかばったあの時、今の僕じゃ絶対に君には勝てないだろうって」
「……何勘違いしてんだよ」
窓枠でタバコの火を消しながら鬼山が言った。その目は、しっかりと瀬名を見つめていた。
「俺は誰かのために投げ出すこの身を、決して犠牲にさらしてるとは思わない。そもそも、お前は根本的に間違ってる。人の価値は見てくれで決まるのか? テストの点数で決まるのか? 俺は一度だって、お前より強いと思ったことなんかないんだ」
鬼山は言うと、正面から瀬名と向き合った。瀬名は……笑っている。
「君の言う通りだ。さすが、僕が見込んだだけのことはある」
「お前に認めてもらうなんて、何だか胸糞が悪いね」
「誰も認めたとは言ってない。規律を乱す奴は誰だって目障りだ」
「だったらすぐに帰った方がいい。じゃないと、俺は目の前でもう一本タバコを吹かすことになる」
「止めてやる」
「やってみろ」
「はい、ストップ!」
華世が大きな声で割って入った。
「ズルイわよ、二人ばっかり喋って。あたしも混ぜろ」
鬼山はやれやれと首を振ったが、その傍らでは瀬名が声を上げて笑っていた。鉛のような空気がマシュマロのように軽くなるのを、華世は肌で感じた。
「この学校で君と巡り会えたことを、僕は後悔していない。君たちとの出会いは、僕にとって最高のきっかけとなった」
瀬名は輝くような笑顔でそう言って、鬼山の前に右手を差し出した。鬼山がその手を力強く握った。
「いつでも帰ってこい。ここで待ってる」
目の奥から押し寄せる涙の津波が、華世から視界を奪っていった。華世は目にゴミが入ったフリをしてごまかした。
「きっとまた会いに来る。君を言い負かせるだけの悪口をたっぷり用意して」
「ねえ、あんた何でパチンコ屋なんかでバイトしてたの?」
瀬名が立ち去った後、華世はずっと心の隅に引っ掛かっていた疑問を聞いてみた。
「すぐにまとまった金が必要だった。おふくろの治療費とか、生活費とか、叔母にばかり頼ってられないからな。ちょうど、三年生でパチンコ屋にコネのある奴がいたんで、そいつに頼んで紹介してもらった」
「奈津美さんはできた息子を持ったよ、本当に」
華世はどこかに残っていた涙の余波を振り払いながら、声を震わせた。
「まあ、結局は辞めさせられたんだけどな。五十嵐が柏木にチクったおかげで、みんなダメになっちまった。『自分から辞めないと退学にさせる』とか言い出したんで、すぐに辞めてやった……ちょうど、役員選挙のあった日だな」
華世はその日のことを思い出していた。柏木の言っていた『約束』が何なのか、やっと理解できた。
「あんたって凄いよね、同じ人間じゃないみたい」
西の地平線に暮れていくオレンジ色の太陽に目を細めながら、華世は感銘で声も心も震わせた。
「こうやって、またあんたと並んで夕陽を望めたことを、あたしは本当に幸せだと思ってる。この幸せが永遠に続けばいいなって……そういう風に考えちゃ、いけない?」
「どうぞ、ご自由に。それにしても、お前の幸せってのはずいぶんと小さいんだな」
「余計なお世話よ……それとも、もっと欲を出してもいいっていうの?」
「どうぞ、ご自由に」
「あたし、鬼山が好き」
夕陽に頬を染めながら、華世ははっきりと言い切った。つむじから湯気が立ち昇っているんじゃないかと疑うくらい、頭の中が熱くなるのを感じた。恥ずかしさの余り、鬼山を直視できなかった。
「あの美奈子さえ受け入れなかったあんたが、あたしなんかを選んでくれるなんて思わないよ……でも、これだけは伝えておこうと思って」
奇妙にまくしたてる自分を滑稽に思いながらも、華世は鬼山の返事を待った。時間の流れがとてつもなく鈍く感じた。
「お前、俺が何て言って断ったか、神崎から聞いてないのか?」
「え……特に何も。何て言ったの?」
鬼山が露骨に視線を逸らしたのは確かだった。最恐と崇められた男が、平凡な女の子一人を前にその威厳をかすませている。
「ねえ、何て言ったのよ」
華世は興味津々だった。
「その……好きな奴がいるって……それは神崎じゃないって……そう言った」
「誰? ねえ、誰なの?」
目を合わせようとしないまま、鬼山はだんまりを決めていた。
「誰なのよ? ねえってば! ……ああっ、顔が赤くなってる!」
「……うっせぇ!」
「ねえ、誰なのさ、白状しなさい!」
「お前に決まってんだろ!」
鬼山は夕陽に向かって叫ぶと、廊下の隅に放ってあったカバンを引っつかみ、放心状態の華世を置いて行ってしまった。恍惚とした表情を浮かべる華世は、しばらく鬼山の背中を見つめることしかできなかった。
華世が意識を取り戻し始めた時、廊下の中ほどで足を止めた鬼山が、こちらをゆっくりと振り返った。
いつからか笑うことを忘れてしまった鬼山のその顔に、不器用な優しさに溢れた小さな微笑みが広がっていた。
「何ボーッとしてんだよ。……帰るぞ」
「……うん!」
これは、何の取り柄もない普通の女の子が登場する小さな物語の、末恐ろしい結末の一部始終である。
その後に何が起こったかって? それはこの記事を読んでの通りである。
とにかく二人が去った後、僕は壁の穴の中に隠された録音機を取り出し、家に帰って再生したわけだ。
まったく……最悪の夏休みになりそうだ。あんなの聞かされちゃ、彼氏や彼女のいない奴は誰だって鬱になる。
もっと最悪なのは、この記事を発表できないことなんだけどね。
まあ、とにかく、お二人さん。末永くお幸せにってこった! 朝倉仁
TIKARA −完−
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!感謝の気持ちでいっぱいです。
また機会があれば新作をアップしていきたいと考えていますので、その時はどうぞまた、足を運んでみてください。