第十四話 鬼ごっこは終いだ
職員室はカラッポだった。切れかけの蛍光灯がカチカチと明滅し、カラオケ大会で盛況する生徒たちの声が、ずっと彼方からぼんやりと鼓膜を打ってくる。華世と鬼山を見つめるのは、雲間に見え隠れする欠け落ちた月だけだった。
「柏木のデスクは?」
肩で息をしながら鬼山が聞いた。
「あっち」
華世が示した窓際のデスクは整然としていた。一見、手掛かりになりそうな物は何も置かれていない。立てかけられた赤いファイルと、残り少ないミネラルウォーター、電卓、ペン立て……。
「あいつは瀬名から何を受け取ったんだ?」
乱暴な手つきでファイルを探りながら、鬼山が歯がゆそうにうなった。
「焦りすぎたのよ。もっとしっかり聞いとけば良かった」
遠慮もなく引き出しの中へ手を突っ込みながら華世は言った。中身は目薬の空ケースや、授業で回収した生徒たちの実験レポート用紙ばかりだった。
「一番下が開かないよ。何で?」
力いっぱい引っ張ったものの、その一番大きな引き出しは開かなかった。どこを探しても鍵穴らしきものは見つからない。
「くさいな」
ファイルを投げ捨てるように放り出すと、鬼山はしゃがみこみ、一番下の段を念入りに調べ始めた。手際良く側面をコンコン叩いたり、周囲をくまなく観察したりする様は、訓練のいき届いた警察犬さながらだった。
「くさいな」
犬のごとく鼻が利くらしい。鬼山はそれを繰り返した。
「ねえ、五十嵐の言ってたことって本当なの? 美奈子の誘いを受けたのは、柏木を詮索するのに怪しまれないようにするためって……」
「今聞くことかよ」
机の底の方へ手を突っ込みながら、鬼山は呆れたような語調で呟いた。
「だって……だとしたらあんた、男として最低だよ。乙女心を何にも分かってない」
「ああ、分かんないね。俺は男だから」
「……バカ」
「くっそ!」
悪態を吐くと、鬼山は威勢よく立ち上がった。華世はとっさに隣のデスクまで避難した。
「お前こそ、今の状況を何にも分かってないみたいだな。言ったはずだ、時間がないって。柏木はもう動き始めてるんだ。こんな所で無駄口叩いてる暇なんかねえんだよ!」
鬼山のローキックが柏木のデスクに炸裂すると、悲鳴を上げた机が十センチは右に移動した。しかし、動いたのは机だけではなかった。
「……開いてる」
華世は足下を指差しながら愕然としていた。一番下の引き出しが、物言わぬ顔を向けたまま右の方へスライドしていた。二人は一緒になってかがみ込んだ。
「そういうことか」
鬼山は取っ手部分を掴んだまま右へスライドさせていった。手前の板だけが取り外されると、中から透明なプラスチック板が顔を出し、その奥には得体の知れない植物が植木鉢に植わって葉を茂らせていた。
「何よ、それ」
華世は恐る恐る聞いてみた。絶対に見てはいけないものを見てしまった気がした。
「覚えてるか? 柏木の趣味」
ネジで固定されたプラスチック板ごとゆっくり引っ張り出しながら、鬼山は試すように聞いてきた。瀬名とのやり取りで、それはもう予習済みだった。
「観葉植物の栽培」
華世が答えを出す頃には、引き出しの中身が完全にあらわになっていた。植木鉢が一つと、更に奥には四本のミネラルウォーター、そして一枚の写真。
「これは観葉植物なんて生ぬるいもんじゃない」
ノコギリの刃を想像させる、まだ小さな植物の葉を指でなぞりながら、鬼山は声を低くして言った。その口から何を聞かされるのか、華世には大方の予想がついていた。
「観葉はフェイク。こいつは立派な大麻草だ」
予想は的中だった。しかし、いざ鬼山の口から事実を宣告されても、にわかには信じられない話に変わりはない。
「でも……だって、どうしてそれが大麻だって分かるの?」
「瀬名大吾が育てていたものを見せてもらったことがある」
鬼山は極めて冷静だった。
「でも……だって、どうして育てられるの? こんな引き出しの中で……」
「見ての通りだ。窓際のデスク……板を外す……透明のプラスチック板を通して陽光を取り込む……ミネラルウォーターで水分を与える」
「じゃあ、ここでしょっちゅう水を飲んでたのは、それをごまかすため?」
「いや。あいつは多分、本当に水を必要としてたんだろうな。柏木は大麻の常習犯だったはずだ」
またも意識のくらむような言葉が飛び出した。走った後の熱も加わり、華世の頭の中はオーバーヒート寸前だった。
「柏木の異常っぷりを思い出してもみろ。以前起こった目の充血、喉の渇きによる過剰な水分摂取。俺の予想だが、職員室ではいつも居眠りしてたんじゃないのか?」
華世は大きく目を開いたまま何度もうなずいた。
「強い眠気も吸引時の特徴の一つだ」
事の重大さに、華世の動悸は高まる一方だった。
「引き出しに細工してまで大麻を育ててた……それも学校の中でなんて。どうして……どうして教師のあいつが、こんなことしなきゃならなかったの?」
「まだ分からないのか? あいつは暴力団……柳葉一家の組員なんだよ」
もう限界だった。短い間に何度も驚きすぎて、華世は卒倒しそうになる自分を十分に気遣わなければならなかった。
「今は時間がないので以下省略だ。とにかく、あいつが瀬名から何を受け取ったのか……」
鬼山は言って、鉢に横たわる一枚の写真を引っ張り出した。華世も一緒に覗き込んだ。
「これって……あたしたち?」
色あせた写真には、まだ幼い三人の子供が映し出されている。路上に白チョークで落書きという名の芸術を施す、華世、鬼山、そして記憶のどこかに置いてきてしまった一人の男の子……瀬名大吾だ。
「あっ、そうだ。五日くらい前、瀬名くんがあたしに見せたい写真があるって……きっとこれのことだったんだ」
「何で見なかったんだよ」
「……忙しかったんだもん」
華世は意地でも本音を言わないつもりだった。今度あの時の話を蒸し返すのは、五年先でも遅くないと思った。
「これって……表札を見る限り、あんたの家の前よね。たしか奈津美さんが撮ってくれたんだっけ?」
「ああ。この日のことは覚えてる。お前がドブにはまって大泣きした日だ。右足が黒ずんでるから間違いない」
「あんたが突き落としたんでしょ。ビービー弾を拾おうとして」
「金色のレア物だった」
二人は額を寄せ合い、しばらく郷愁にかられていたが、やがて二人同時に本来の目的を思い出した。
「柏木は何でこの写真を見たいと思ったんだろう?」
呟きながら、華世は落書きに注目していた。めくれた赤いスカート姿の華世は得体の知れない動物の絵。鼻水をぶら下げた眠気顔の鬼山は火を吐く人間の絵。自分の描いた絵を誇らしく指差し、写真を覗き見る者に訴えかける真剣な眼差しを向けるのは、弟そっくりの瀬名大吾……その絵は、花を咲かせた植木鉢だった。
「これって……瀬名大吾の絵、植木鉢だよね? 一体どういう……」
クレーンゲームで吊り上げられる人形のように、鬼山は恐ろしく静かに、ゆっくりと立ち上がった。それにつられて華世も立ち上がっていた。
「行かなきゃ……俺の家だ」
鬼山がブツブツ言い始めたその時、職員室に誰かが入って来た。足音もなく近づいてきたその人物を見て、華世は肝を潰すと同時に安堵した。選挙の投票開示の時に居合わせた、武田先生だった。夏目の気迫に言い負かされたあの気弱な様は、まだ華世の記憶に鮮明だった。
「話は全部聞かせてもらった」
力強いしゃがれ声で武田は言った。思わぬ登場と、思わぬ一言によって、二人はただ武田を呆然と見つめる他なかった。
「以前から、私も柏木先生のことを不審に思っていたんだ。ついてきなさい。駐車場に車を用意してある」
言い残し、武田は足早にその場を離れていった。
「信じようよ。時間がないんでしょ?」
怪訝そうに眉をひそめる鬼山に向かって、華世は説得を始めた。
「今誰かを信じなきゃいけないのは分かってる。けど……仕方ない」
二人は急いで武田の後を追った。
駐車場に着くと、一台の軽トラックが二人の元へノロノロと近づいてきた。運転席には武田が乗り込んでいる。
「見て、あのハンドルさばき。農家も真っ青」
華世の皮肉はうねるようなエンジン音でほとんどかき消されていた。軽トラは二人の前まで辿り着くと、鋭いブレーキ音を響かせてガクンと停車した。荷台はブルーシートで覆われ、真ん中辺りが少し膨らんでいる。
「乗りなさい。早く」
狭い助手席に、まず鬼山が、次いで華世が乗り込んだ。シートに染みついたタバコの臭いが、華世の気分を更に悪くさせた。
「まさか、これで通勤してるわけじゃないですよね?」
こめかみを窓に押しつけながら華世は聞いた。鬼山の大きな図体が、華世の体を外へ外へと圧迫していた。
「借り物だよ。さて、道案内を頼む。柏木先生がどこにいるのか、もう察しはついてるんだろ?」
「俺の家に向かってくれ。道はこっちで指示する」
「あいよ」
軽トラは快調に進んでいったが、車内では鬼山が道を指示したり、「もっとスピードを上げろ」と武田をせっついたりする以外、誰も言葉を発しようとはしなかった。華世の場合は、これから待ち受ける未知の恐怖と不安が、胸をしめつけ、喉を塞いでしまっているせいであった。体が圧迫されているせいか、まともな呼吸さえもままならない。
「次の交差点を左だ。信号なんて無視していい。……くそ」
車が赤信号で止まると、鬼山は腹立たしそうに悪態をつき、足を踏み鳴らした。極度の焦燥感が鬼山をイライラさせているのは確かだった。
「何で柏木があんたの家に向かったって分かるの?」
心なしか具合が悪くなってきたので、華世は無理をしてでも話題を出し、気分を紛らわせた。武田はブレーキをかけるのが下手だった。
「正確にはまだ何も分からない。ただ、直感で最悪の場合を想定しただけのことだ」
「今家には誰がいるの?」
「一矢と沙希の二人だけだ。叔母は出かけていて明日までは帰らない。……次を左、そのまましばらく直進だ」
指示を出す鬼山の指先が刀の切っ先のように空を切りつけた。
「警察に連絡しようよ。もしもの時のためにさ」
「必要にはならんよ」
武田が割って入った。華世はルームミラーに映る奇妙に冷静過ぎる男の顔を見た。夜の街灯に照らされるその顔は、寒気を覚えるような冷たい微笑みをたたえている。
「柏木先生が自慢していたよ。君たち二人は本当に賢い生徒だとね」
「何が言いたい?」
老いぼれの戯言などまっぴら御免とばかりに鬼山が凄んだ。
「ただ、君たちは度が過ぎたようだ。特に鬼山……犬みたいに嗅ぎ回る君の行動力は目に余るものがある。さっきだってそうだ。私が廊下で見張っていなければ、危うく君たちを取り逃がすところだった。ヘタをすれば警察が動いていただろう」
華世が武田の変化を悟るのに、そう時間はかからなかった。気分は更に悪くなる一方だった。
「柏木とグルだったわけね……じゃあ、あの選挙の日にはもう?」
「そうだ。夏目のワガママを素直に聞き入れたのも、柏木先生から『選挙をとどこおりなく進行させろ』という命令を受けていたからだ」
「はっきり言ったらどうだ。買収させられたって」
鬼山が指摘すると、武田は乾いた声で短く笑った。
「察しがいいな。その通り、裏で金が動いていた。だが、それは私が望んだものではなかった。昼休みの時間、私が校内の散歩を日課にしているのは知っているだろう? その時、たまたま居合わせてしまったわけだ。柏木先生が、ひと気のない廊下で電話をしている現場にね。その時だった……柏木先生が暴力団の組員だと知ったのは」
減速していった車が、完全にその動きを止めた。ここ一番というひどいブレーキのおかげで、車体は大きく前へつんのめった。その衝撃は、華世をどん底の恐怖へと陥れていった。
「お前たちが無事でいるのを見る限り、五十嵐の方は失敗だったみたいだな。私も彼と同じ、君たちを足止めするように命令されている。さあ、もういいだろう。つまらん芝居はここまでだ」
「降りろ!」
鬼山が叫ぶ前から、華世はもうドアを開けていた。吐き出されるように中から飛び出すと、すぐ目の前は公園だった。以前、学校帰りに沙希と出会った、あの公園だ。
華世は公園内に向かって走り出そうとした。しかしできなかった。殺気が……すぐ背後から感じる得体の知れない殺気が、まっすぐに華世を狙っている。
「何ぼさっとして……」
降りてきた鬼山が言葉を切り落とした。二人はトラックの荷台に注目していた。ブルーシートに覆われた荷台からゆっくりと起き上がる者……それは人ではなかった。愛嬌に満ちた大きな瞳に、殺気のたぎった憎悪をみなぎらせている。そして次には、軽い身のこなしで荷台から飛び降りていた。
ウサギの着ぐるみが、二人の前に音もなく着地した。
「また会ったな、フクロウ」
着ぐるみの中で漠然と聞こえてくる野太い声が、確かにそう言った。二人は公園の中へ同時に逃げ込んでいた。芝のこすれる音で、ウサギが後を追ってくるのが分かる。
「俺から逃げるのか、鬼山!」
あからさまな挑発が、鬼山の足に急ブレーキをかけさせた。華世はそんな鬼山を憤然と振り返った。
「逃げなきゃ! 鬼山!」
華世が言っても、鬼山は聞く耳を持たなかった。踵を返し、来た道を戻り始めている。
「……俺はもう、現実を否定しない。何からも逃げださない」
鬼山とウサギは砂場を挟んで立ち止まり、正面から睨み合った。
鬼山を突き動かすものの正体が何なのか、華世には分かっていた。鬼山は今、逃げ続けていた過去の自分自身と対峙し、決着をつけようと心を奮い立たせているはずだ。故に、鬼山がてこでも動かないだろうということは、その猛々しい表情からも安易に察することができた。
「闇の雄姿こそフクロウの名にふさわしい……そうだろ、鬼山」
どこか聞き覚えのある声でウサギが言った。華世の不安を掻き立てる一番の要因は、その声と容姿にギャップがありすぎるせいだった。
「さっさと正体を現したらどうだ?」
鬼山が静かに促した。闇の中、公園内に独立する一本の街灯がウサギの姿をほのかに照らし出している。ウサギが自らの頭部に両手をかけ、引っ張り上げた。
「こうして御二方に再会できたことを、俺は柏木さんに感謝しなければなるまい」
それは樫本だった。以前、公園で華世と鬼山を襲った、柳葉一家の組員だ。口元に深いしわを刻み、見る者を戦慄させる不敵な笑みを浮かべている。紳士の風貌に隠された冷酷さの一端が、その奇怪に瞬く瞳の中でろうそくの炎のように揺らめく様を、華世はただ黙して見つめていた。
その直後、華世は誰もいない後方を振り返っていた。すぐ背後にナイフを持った誰かが潜んでいるような気がした。記憶にはびこるトラウマの恐怖に、足元がすくみ始めている。
「執念深い奴だ。せっかくあの時生かしてやったのに」
「お前に人は殺せない」
着ぐるみを全部脱ぎ捨てると、樫本は辛辣に言い放った。
「だが俺は違う。お前にやられてからずっと、俺のターゲットは……鬼山、お前だった」
パリッと着こなすスーツの中に手を入れると、樫本が取り出したのは拳銃だった。黒々しい拳銃は明かりに照らされて一閃し、樫本の手の中で静かに自分の出番を待ち構えている。
「お前に関することはしらみつぶしに調べ上げた」
樫本が弾の装填を始めても、鬼山はひるんだ様子を見せない。
「お前がパチンコ屋で働いてることを知るのに、そう時間はかからなかった。俺は着ぐるみに隠れて外で待機し、殺すタイミングがあればそのチャンスを逃すつもりはなかった。だがこの策は失敗だった」
樫本の力強い視線が華世を捉えた。華世はとっさに鬼山の後ろに隠れた。
「そう……その後ろの女が俺の前に現れたんだ。不審そうに顔を覗き込まれた俺は、間違いなく正体がバレたと思った。それと同じくして、こうした俺の勝手な行動が柏木さんの癇に触れてしまった。あの人の命令は、鬼山を死なない程度に痛めつけて金の隠し場所を吐かせることだった」
「前に言ったはずだ。ドラッグの売上金のことなんか知らないと」
鬼山がズボンのポケットに両手を突っ込むと、樫本はその様子をさりげなく目で追った。ナイフを取り出すのではないかと警戒しているようにも見えた。
「夕方頃に柏木さんから連絡が入った。瀬名の隠した売上金は間違いなくお前が持っていると。俺はウサギに変装して学校祭に潜伏し、お前たちが柏木さんの邪魔をしないよう見張っていた」
樫本の表情に無邪気な笑みが広がったのは意外だった。どこか上の空で、若干悦に入ったようだ。
「かなり危険な賭けではあったが、久しぶりの学校祭はかなり楽しめた。腕前を披露した射的場では『スナイパーラビット』と称されたし、移動式の綿飴屋から買った綿飴は、この俺を一瞬だが童心に返らせた。こう見えて、夏のお祭りは大好きでね。花火大会にも参加したかったくらいだ」
「廊下では女子にも囲まれたし、さぞかしご満悦か」
「それも悪くなかった。だが俺の高揚した気分が落ち着かない一番の理由は、今ここで、やっとお前を殺すことができるからだ」
たっぷり含んだ笑顔のまま、樫本はやおら拳銃を構えた。撃鉄が独特の金属音を闇に響かせ、高まる華世の恐怖心を更に煽った。
「俺を殺すのはマズイんじゃなかったのか?」
鬼山は声色一つ変えずに指摘した。樫本の顔から笑顔が消し飛んだ。
「関係ねえんだよ、鬼山。あの日お前から受けた屈辱は、俺の中に傷痕を残した。この足にナイフの刻んだ痕が残ったようにな。つまり、さっき言ったとおりだ。殺すタイミングがあれば、俺はそのチャンスを逃さない」
樫本が段々と接近してきた。もう、いつ引き金を引いてもおかしくない。砂の上でかすむ足音が、夜の静寂に包まれては消えていった。突きつけられた『死』という名の銃口が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
「終わりだ、鬼山。俺に逆らうことの愚かさを、その者の末路を、今ここで……」
夢中で喋っていた樫本が、突然バランスを崩した。両手を着いたが間に合わず、顔面からもろに砂場へと突っ込んだ。手からこぼれ落ちた拳銃が勢い良く足元まで転がってくると、華世は訳が分からないまま急いでそれを拾い上げた。
両手を投げ出し、尻を空に向かって突き上げ、顔面を砂にうずめたままというその恰好は、見ていて何とも不可思議であった。よく見てみると、なんと、樫本の右足は膝から下が全部砂に埋まっていた。
「落とし穴だ……」
呟く華世の顔は、自然と笑顔になっていた。
「落とし穴? よく分かんねえけど、ラッキー」
樫本の襟を掴み上げると、鬼山は声を弾ませた。樫本は口の中の砂を吐き出しながら、苦しそうに喘いでいた。顔中の穴という穴に砂が詰め込まれている。喋ることもままならない状態だ。
「あんた、沙希ちゃんに感謝しなさいよ」
樫本を引きずって行く鬼山の背中に向かって華世は言った。指先でつままれた拳銃は、どんな善良な市民にだって渡すまいと、背中の後ろでブラブラと宙に揺れていた。
「やれやれ、こいつでもダメだったか。見かけによらず頼りないな」
武田は車から降りてくるなりそう言った。激しくむせ続ける樫本を幻滅しきった表情で見つめている。
「俺たちはこのまま自宅へ向かうので、こいつは先生に任せます。煮るなり焼くなり、好きにしてください」
それを聞いた樫本が何か言おうと身を乗り出した。しかし、無慈悲にも鬼山が固い歩道の上で手を離したので、頭を強打した樫本の口からは呻き声しか出てこなかった。
「私はこいつと一緒に自首するよ。長い目で見ると、それが一番良さそうだからね」
武田は吹っ切れたように、朗らかな口調で言った。
「先生は柏木に脅されただけだもん。警察だって分かってくれるよ、きっと」
同情を示す華世に、武田の手が伸びてきた。背中に隠した拳銃を指しているのだと、華世はすぐに察した。
「私はお前たちを止めはしないが、それだけは預からせてもらう。もし柏木と対峙することがあっても、君たちがそれを使うようなことが起こってはならない」
華世は躊躇したが、鬼山が深くうなずきかけるのを見てようやく決心がついた。武田の手に拳銃が渡った。
「くれぐれも、無茶だけはするな。特に鬼山、これはお前に関る重大なことだ。さっさとケリをつけてこい」
武田に激励され、二人は夜の住宅地に向かって走り始めた。
暖かな明かりの灯った家々に囲まれるのは、闇の中にポツンと置き去りにされた鬼山の家だった。そばの路肩には白い乗用車が停車しており、中から人の気配は窺えない。おばちゃんの物だろうか、ガレージの脇には一台の自転車が止められている。
「柏木の車かな?」
呼吸を整えながら華世は車の中を覗き込んだ。しかし、鬼山の注目はすでに家の中だった。締め切られたカーテン越しに中の様子を窺おうとしている。どの部屋からも明かりは漏れていない。
「中に入るぞ。……怖くないか?」
塀の陰に身を潜めると、鬼山が優しく尋ねてきた。息は乱れ、額にはしっとりと汗が滲んでいる。華世は恐怖を振り払うように首を振った。
「ここで待っててもいいんだぞ。これは柏木と俺の問題だ。お前が首を突っ込む必要はない」
華世はやはり首を横に振った。
「あんたといる方がよっぽど安全だってことは分かってる。それに、あたしは今でもあんたを信じてるから……だから、全部終わらせよう、二人で」
「それを聞いて安心したぜ。俺もお前がいてくれると心強い」
ドア付近まで這うように突き進みながら鬼山は言った。心なしか、その声は軽い歩調と共に弾んで聞こえた。
「行くぞ」
静かに声を掛けると、鬼山の手がノブを握った。ドアは何の抵抗もなく開いた。
中は真っ暗だった。気味が悪いほどの静寂に、物音ひとつ聞こえてこない。柏木がいるのかいないのか……沙希の安否さえも定かではない。華世は鬼山を先頭に更に前進を続けた。
居間に通じる玄関扉を開け、まず鬼山だけが中へと入り、すぐ右手にある照明のスイッチに手を触れた。居間全体が明るく照らし出された瞬間、華世は息を呑んだ。
鬼山のすぐ左横に誰かいる……柏木だ!
「鬼山!」
叫んだが、既に遅かった。柏木は狂ったような激しい息遣いで鬼山に掴みかかり、右の拳で顔面を殴り飛ばした。鬼山はソファーまで吹っ飛んだが、すぐに立ち上がり、柏木に向かっていく。しかし、不意を突かれて足下のおぼつかない鬼山の反撃はヒラリとかわされてしまった。バランスを崩した鬼山の腹部に、柏木の膝が食い込んだ。
小さく呻いて膝を着く鬼山に、柏木が追い打ちをかけた。靴を履いたままの足で側頭部を蹴り上げ、倒れ込んだ鬼山の腹に何発もの蹴りを入れ続けた。柏木の磨き込まれた革靴がその足と共に振り下ろされる度、鬼山は床の上で体を縮めていった。
清閑をまとった空間に刻み込まれるのは、人が人を痛めつける戦慄の破壊音だけだった。
「クソガキが……俺をナメるなよ、鬼山!」
柏木は呼吸を落ち着かせようともせず、かすれたおどろおどろしい声で叫び散らした。
「教師の俺が下手に出てりゃ図に乗りやがって。目障り極まりないお前を停学という形で引き離すのに、俺の手をどれだけ焼かせやがる! ……聞いてんのかよ、鬼山!」
柏木は鬼山が仰向けの状態になるまで再び蹴り続けた。鬼山は口角から血を流し、青白い顔でぐったりとしていた。うっすらと開かれた目には、もうわずかの生気しか感じられない。
このままでは鬼山が殺されると、華世はその場に佇立したまま絶望しきっていた。今の状況を打開できる手段が……鬼山を守ってあげられる手段が、何も見つからない。
「こんなことはさっさと終わらせたい。だがその前に教えてくれ、鬼山。いつから俺の正体に気付いてた?」
「……ついさっきだ」
口の中の血を吐き出すと、鬼山は弱々しく答えた。
「四月から執拗に俺をつけ回してたくせに、知ったのはついさっきだって?」
「勘違いすんな」
鬼山が言った。衰弱でかすれた声色のその陰に、僅かな憤りを感じた。
「俺があんたに探りを入れたのは、そうしなきゃならなかったからだ。こっちは端から、あんたへの興味なんか毛頭なかった」
「じゃあ聞くが、俺を詮索しなきゃいけなかったその本当の理由は何だ?」
「……あんたには関係ない」
柏木の強烈な蹴りが再び鬼山の脇腹を捉えた。鬼山が悲痛に叫ぶと同時に、華世は手で顔を覆っていた。
「感心しないな。何の価値も持たないそういったプライドの誇示が、状況の悪化につながることを、お前は今すぐに理解しなければいけない」
激しい暴力とは両極端に、その語調には教師としての優しい声色がかいま見えた。
「なあ、鬼山? なぜ“ついさっき”なんだ?」
朗らかな口調はそのままに、鬼山の顔を覗き込みながら柏木は尋ねた。
「あんたのデスクを見た。細工してあった引き出しから大麻と写真が見つかった。十年前の瀬名大吾が答えを教えてくれた……」
鬼山は抑揚のない声で言った。
「答え?」
柏木は鼻で笑った。
「つかめそうだった答えをやっと手に入れた。あんたは柳葉一家の一味で、瀬名大吾が隠したドラッグの売上金を求めてあの学校へ赴任してきた。そうだろ? 決定的な情報を手に入れる一番のやり方は、肉親である瀬名雄吾に近づくことだ。ここまでくるのに、おそらく何人もの人間を買収してるはずだ。そうでなきゃ、これまでの展開はあまりにも都合が良すぎる」
切れていた真実という名の糸が、華世の中で次々とつながっていった。放課後に瀬名と会っていたことも、武田を買収して選挙を有利に進めようとしたことも、すべて納得がいく。
そんな中、柏木が汗の滴る横顔に冷笑を含むのを、華世は呆然と眺めていた。
「突出して優秀すぎる生徒は、見ていて気味が悪い。特にお前や瀬名みたいな奴は例外なく寒気がする」
静寂の中で柏木は言った。
「お前と瀬名を相手取って本来の目的を成し遂げるのに、たやすいことなど一つもなかった。お前を学校から追い払う口実探しに五十嵐を利用したが、あいつは予想以上の甲斐性無しだった。けしかけた部下の樫本らはお前から有力な情報を聞き損ない、買収した人間はどれも役立たずときた。目ざとく賢い瀬名相手に兄のことを聞き出すためには、それ相応の環境と信頼関係の構築、たくさんの時間が必要だった」
柏木は朽ち果てた鬼山の体をまたぎ、締め切られた和室へと通じるふすまの前に立った。玄関のドア枠に見え隠れする不明瞭な姿からでも、その冷酷な表情は華世の目に鮮烈だった。
「瀬名を手なずけるのに三ヶ月も費やした。クラスでは一番ひいきしたし、生徒会や進路の相談には度を超えて親密だった。スパートをかけたのは、瀬名が疲労で衰弱しきっていた先月頃からだ。精神面で弱り始めたあいつに付け入り、同時に監視した。だが、最近になってとうとう勘付かれた。柴田に助けを乞おうとしていたところを、俺は間一髪で引き止めた。落選やテストが重なり、瀬名はかなり追いつめられていた。俺は説得し、ようやく一枚の写真にこぎつけた。そうして、今に至るわけだ」
汗で額に張り付く前髪を掻き上げ、落ちかけていた銀縁の眼鏡を押し戻すと、柏木はレンズの奥から爛々と輝く瞳を覗かせた。やがて、腹の底から込み上げる嬉々とした声を部屋に響かせた。
「写真の中の瀬名大吾が示す答えに関して、俺とお前の意見は合致するはずだ。さあ鬼山、渡せ。瀬名大吾が逮捕される直前、お前に託した何かが……恐らく大麻の植わった植木鉢が、この家のどこかにあるはずだ。それは隠された売上金の場所を示す、最大の手掛かりとなりうるものだ」
しかし鬼山は答えなかった。静かに呼吸し、虚ろに据わった瞳を柏木に向けている。無論、華世にははっきりと心当たりがあった。以前、鬼山の部屋を訪ねた時、瀬名大吾から受け取ったという“芽の出ない植木鉢”と呼ばれる物を、華世は確かにその目で見ている。
「時間を浪費させるだけの意固地はやめとけ。そんな格好だけの強がりが通用するのは、ごく“平和”な日常生活だけだ。鬼山、今がどれだけその“平和”からかけ離れた状況なのか、お前はまだ気付いてないんだろ?」
柏木がふすまへと手を伸ばした。白い布張りのふすまは華世の視界の中でゆっくりと横へ流れたが、その暗闇の向こう側に何があるのかは確認できかった。しかし、鬼山の表情が横を向いたまま凍りつくのを見て、これは只事ではないと直感した。華世は見える位置まで身を乗り出した。
整然とした和室の真ん中に横たわるのが沙希だと分かった瞬間、華世は立っている感覚を失った。手足を縛られ、闇に投げ出されたまま身動き一つしない。口元はガムテープらしきもので覆われ、強く抵抗しないところを見ると、どうやら気を失っているらしい。
「生きてる……今はな」
声も無く睨み上げる鬼山に向かって、柏木はにべもない声を響かせた。
「お前次第だ、鬼山。さっき言っただろう。何の価値もないプライドは状況を悪化させるだけだと。俺にとっちゃ、あんなガキを殺すことくらい訳ないんだ」
華世は息を呑んだ。柏木がズボンのポケットに忍ばせていた果物ナイフを取り出し、鬼山の首に切っ先を押し当てたのだ。
光を受けて奇怪に一閃した刃は、華世の心を戦慄させ、視界を切り裂いた。冷たい金属の触れる感覚が全身を疾駆し、鳥肌がその後を追いかける。心の古傷が脈を打って激しく痛み出すのを、華世はどうやっても抑えることができなかった。
「さあ、長かった鬼ごっこは終いだ。瀬名大吾がお前に託したブツの場所を言え!」
柏木が吠えた。ナイフを突き付けられたまま、鬼山はゆっくりと首をもたげた。
「俺の部屋だ……瀬名大吾から譲り受けた植木鉢が俺の部屋にある……」
腕を着いて起き上がろうとする鬼山を、柏木がナイフを握った手の甲で押さえつけた。
「お前はダメだ。……柴田、お前が持って来い……行くんだ!」
華世は恐怖と緊張で強張った足を無理やり振り上げ、二人の脇を抜けて階段を上っていった。闇が視界を覆うと、関節のしびれは全身に広がっていた。真っ暗な鬼山の部屋に足を踏み入れた時にはパニックだ。これから自分が何を成し、結果がどこへ向かうのか、まったく検討もつかない。
植木鉢はあの日から何も変化はなかった。月光に照らされたそれは、無垢な風貌で窓辺に座り、雑草さえ生えない土で満たされている。華世は震える瞳孔で鉢を覗き込んだ。こんな物が何の役に立つのかさっぱり分からない。この最悪の状況を打開する決定的な勝算が、今手にした何の変哲もない植木鉢にあるなんて想像もできなかった。
「よし……ここに置け」
華世が植木鉢を持って階下に姿を現すと、柏木はアゴでテーブルの上を指した。華世は恐る恐る植木鉢を置き、テーブルとソファーの間をスルスルと後退していった。華世は柏木の乱れた頭髪越しに、沙希の小さな体が闇に溶ける様をしっかりと見た。
柏木はナイフの先端を鬼山に向けたまま、もう片方の手で植木鉢を探った。縁を持って回転させ、前後に傾けたり細かく揺すって表面の土を掻いたりしている。すると、おもむろに指先を土の中へ突っこんだ。
その瞬間、柏木の体に悪魔が宿ったように見えた。表情には邪道に心を染めた醜悪な笑みをかもし、残酷に輝くナイフの刃は、戦場で罪無き者を殺める剣の切っ先のようだった。
柏木が土の中から取り出したもの……それは透明のビニールだった。中身は折り込まれた紙切れのように見える。
「さて、瀬名大吾が鬼山に何を託したのか、その真実を知る時だ。この紙の切れ端は宝の地図か? あるいは何かの暗号文か? 答えは……」
紙切れに視線を落とした柏木の顔から笑顔が消え去っていくのを、華世はその場で棒立ちしたまま、しかししっかりと観察していた。柏木が裏返した紙切れを掲げた。
「答えは……『ハズレ』だ」
そこには確かに、黒のペンで大きく『ハズレ』と書かれていた。柏木は紙切れを拳の中で握り潰すと、怒りにまみれた形相で鬼山に飛びかかった。
「知ってやがったな! 吐け! どこに隠した! ちっくしょうがっ!」
胸倉を掴まれ激しく揺さぶられる鬼山に、声を出す隙など微塵もなかったはずだ。鬼山は柏木の腕に掴みかかったが、小さな抵抗は何の意味も持たなかった。柏木の怒りは限界を通り越して我を忘れんばかりだったに違いない。黒目は天井へひん向き、よだれを飛散させて訳の分からないことを叫び続けている。そしていよいよ、宙にナイフを構えた。
「やめろーっ!」
華世の奥底に眠る闘争心にたまたま火が着いたのはラッキーだった。華世は無我夢中で絶叫し、獲物を狩るヒョウも顔負けの勢いで柏木の腕に噛みついた。柏木は唸るような悲鳴を上げ、痛みに逆らうようにもがき続けた。華世は意地でも離れまいと、歯を食い込ませたまま柏木の首根っこに腕を回し、力いっぱい締め上げた。すぐ眼前では、ナイフの刃先が振り子のように行ったり来たりしている。抵抗する柏木が、ナイフをでたらめに振り回しているらしい。
「離れろ……離れんか……ふんっ!」
柏木の背負い投げが華麗に決まった。公式戦で一本を取れるくらい豪快だったろう。受け身をしなかった華世が無事でいられたのは、運良くソファーの上に落とされたからだ。華世はすぐ様立ち上がり、柏木を振り返った。口の中は血の匂いと味で溢れていた。
「柴田華世……うだつの上がらないバカ女が……そんなに死に急ぐなら、まずはお前から殺してやる……」
にじり寄る柏木を前に、華世は逃げることさえできなかった。足の裏が床に吸いついてしまっている。厄介なことに、吹っ切れたはずの恐怖心が、ここにきて華世の元へと帰って来たようだ。
「何やってる! 逃げろ!」
鬼山の声が聞こえると同時に、柏木は前のめりに体勢を崩していた。床に寝そべったまま、鬼山が後方から足払いをかけたのだ。
「逃がさん!」
バランスを崩しつつも、柏木は執念深くナイフを振り下ろしてきた。刃はスカートの裾を切り裂き、華世の足をかすめてフローリングに突き刺さった。恐怖で薄れた鈍い痛みが、華世の足に感覚を取り戻すきっかけとなった。しかし、遅かった。息を吹き返した華世の足に柏木がしがみ付き、華世はその場に尻もちをついてしまった。ひるんだ隙を狙い、柏木の手が華世の首を捉えた。
「……俺は信じない」
そのまま華世の体を後方へ押し倒しながら、柏木はおぞましい声を上げた。目は見開かれ、唾液はアゴを伝って糸状に滴っている。
「俺は幽霊なんか信じない……無に近い不明瞭な未来に、俺は俺の思念を託さない! 俺は選んだ……成り行きだけで教師になった俺は、退屈な未来を捨てることを選んだんだ!」
柏木の全体重のほとんどが華世の首にのしかかっていた。かすんだ視界に、半狂乱の柏木の輪郭がおぼろに浮かんでいる。華世は今、その目で何を見、その耳で何を聞いているのか、正確な情報の分別がまったくできていなかった。
「金なんかもういい……過去に選び、選ばなかった選択肢において、今この瞬間に証明される俺の存在が、お前たちを全員殺してやる!」
華世はほんの一瞬、身に巣食う苦しみを全部忘れた。柏木の背後に立つ何者かが、おばちゃんの買って来たあの“不気味な壷”を掲げて立っている。そして次にはもう、柏木の頭部に向かって壷を振り落としていた。
狂喜の高笑いを上げる柏木が、陶器の割れる破壊音と、宙にばら撒かれる粉々の欠片と共に吹っ飛ばされた。もうろうとする意識の中で、華世は漠然とその一部始終を見届けた。
華世の視界の中に一矢が立っていた。残された壷の縁部分を両手でしっかり握りしめ、床にうつ伏せに倒れて動かなくなった柏木の肢体を何食わぬ顔で眺めている。包まれる安堵感と共に、華世の五感がそれぞれ力を取り戻し始めた。
「やっとおねんねだ。さっきからうるさかったんだよ、こいつ」
タータンチェックのパジャマに身を包んだ一矢は冷静に言葉を発したが、鼻息は荒く、首筋には汗の粒が滲んでいた。
「やったか?」
天井を仰ぎながら鬼山が聞いた。華世は床を這ったまま移動し、可能な限り柏木から離れ、可能な限り鬼山に近づいた。
「おう、クリティカルヒットだ。殺すつもりでやったからな」
割れた壷の縁を投げ捨てながら一矢は言った。
「警察に連絡してくれ……俺は沙希を見る」
「動いたらダメ。沙希ちゃんはあたしが見るから」
立ち上がろうとする鬼山をその場に押し留めると、華世は四つん這いのまま沙希の横たわる和室へと向かった。縛られた両手両足を解放し、口を覆っていたテープを剥がしてやっても、沙希は目を覚まさなかった。
「結局、その植木鉢の中身は何だったわけ?」
沙希をソファーに寝かせ、一矢が受話器を置くと、華世は非難がましく切り出した。鬼山はゆっくり歩けるまで回復していた。
「瀬名大吾が持ち逃げしたドラッグの売上金1000万円が振り込まれた通帳とカード、暗証番号のメモだ」
鬼山は淡々と答えた。それを聞いた一矢が目の色を変えて弟を振り返った。
「気付いたのは、あの日、お前が帰ったすぐ後だ。中身はある場所に隠した。瀬名大吾が戻って来るその日まで……まあ、あんな汚い金が世に出回るのは頂けないがな」
「汚いだって? それで尻でも拭いたのか?」
一矢がせせら笑った。極度の緊張から解放されて、いつものひょうきんな長男に戻っていた。
「なあ、勝二。俺がその金を綺麗に使ってやるよ。今日のことだって、半分は俺の手柄として妥当だろ? このおっさんを仕留めたのは俺なんだからさ。俺がいなけりゃみんな死んでた」
「可愛い妹一人を人質にさせて、のうのうと部屋に隠れてた奴が言うセリフか? クソ兄貴」
弟に真髄を突かれ、一矢は二の句を継げなかったらしい。それ以降は名誉挽回とばかりに、一向に目を覚まさない沙希に付きっきりだった。
「うぅっ……」
その時、柏木の呻き声が短くなびいた。背中に積っていた壷の破片がパラパラと床を打ち、柏木はゆっくりと身を起こした。
「やっとお目覚めか」
鬼山が近づきながら呼び掛けた。
「てめえ……死んだかと思った」
床に向かって声を垂らしながら、柏木は自分の頭部を愛おしげに撫で回した。折しも、遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえてくると、柏木は弾かれたように立ち上がった。
「くっそ……え?」
柏木はあたふたしながらポケット中をまさぐり始めた。鬼山が鼻で笑い飛ばした。
「車のキーや財布なら俺が預かってるぜ。今度学校で会う時にでも返してやる」
それを聞くと、柏木は血相を変えて家を飛び出していった。一矢が憤然とこちらを振り返った。
「あいつ逃げるぞ! 華世、一緒に追おうぜ!」
勝手に行けよと言いたかったが、鬼山は今走れる状態ではなかったし、もし柏木が万が一逃げおおせたとなると、またこの先が厄介だ。丸腰の弱りかけた男を一人追いかけることで、価値ある『安泰』という代償を手に入れられるのであれば、華世はそれも悪くないと咄嗟に考えを見出した。
華世は一矢に続いて家の外へ出た。柏木の姿はどこにも見当たらなかった。
「おばちゃんのチャリがなくなってる!」
ガレージの方を指差す一矢は、なぜかとても嬉しそうだった。
「あそこ!」
華世は街灯に照らされる狭い道路を指差した。自転車にまたがった柏木が猛スピードで逃げていくのがうっすら分かった。もうダメかと諦めかけたその時、自転車が何か固い物に激しく衝突する騒音が夜のしじまを破った。
「ビンゴ!」
その場でピョコピョコ跳ね回りながら一矢は拳を振り上げた。
「ターゲットは外れたけど、大成功に変わりはない!」
「どういうことよ!」
一人で盛り上がりっぱなしの一矢に向かって華世が怒鳴った。
「前に話したろ、勝二との計画のこと。それを実行したのさ! あのチャリンコのブレーキはぶっ壊れてた!」
華世は呆れ果てると同時に、その底無し級の悪知恵っぷりには思わず舌を巻いた。謎の小躍りは陽気なデタラメステップに変わっていた。
「きっとすぐそこのT字路に突っ込んだに違いない。死んだね、あいつ……おい勝二、どこ行く気だ?」
鬼山はおぼつかない足取りで家から出てくると、何も言わずに華世の腕をつかみ、そのまま強引に歩道まで引っ張って行った。華世は訳が分からなかった。
「警察が来る前にここを離れる。事情聴取は兄貴に任せたぜ……俺たちには、まだやらなきゃいけないことが残ってる」
華世の頭の中に突然ハッピ姿の朝倉が現れ、巨大綿飴を手に持ったままこう言った。
『ゲームにはね、ラスボスの後に、たいてい裏ボスが潜んでるもんさ。そいつらは、ゲームをより充実させるために存在して、大方ラスボスよりタチが悪い。大切なのは、それが誰なのかはっきりするまで、しっかり用心することだ』