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TIKARA  作者: 南の二等星
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第十三話 全部この僕だ!




 華世の過去の経験から推察すると、学校祭という行事が“派手に退屈な代物”であることは確かだった。

 去年はステージの上で『私をハグして!』などと書かれたプラカードを掲げて舞い踊ったし、中学校では不気味なピエロの格好で校内パレードに加わり、よくゴミをぶつけられては「気色悪い!」と追いやられたものだった。

 そんな華世の知らない所では、今まさに成就した初々しい恋があったり、恋人たちが手をつないで後夜祭の花火大会に参加したりしているというのに……。

 故に学校祭とは、まったくもって“派手に退屈な代物”であり、今年もそうなることはとっくの前からお見通しだった。


「聞いててよ、私の今月の運勢」


 学校祭が五日後に迫った、とある昼休み。美奈子は弁当の上にまたもあの雑誌を広げ、今月の自分の運勢を読み上げ始めた。深刻な顔で「相談がある」と言うので聞いてみたところ、このザマである。


「やぎ座のあなた……『当たって砕けろ』」


「すげえワイルド」


 華世は受け合った。美奈子は無視して読み続けた。


「君が日常で『後悔』と呼んでいるものの実態は、行動していない君自身である。行動した者は決して悔やまない。その失敗は、明日につながる成功だからだ。今月の君は恋愛運にすこぶる強い。当たって砕けろ……大丈夫、当たっても砕けない」


 山並みから日が昇るように、雑誌の向こう側から美奈子の顔がゆっくりと現れた。熱心に瞳をギラギラさせたまま、ビビンバ弁当を口に頬張っている。どうやら、華世の意見を求めているらしい。


「つまり……当たって砕けてくるってこと? 鬼山に……告白して?」


 言葉をつなぎ合わせるように、華世は切れ切れと答えた。自分でもはっきり分かるほど動揺していた。


「砕けないわ。そう書いてあるもの」


 雑誌に絶対の信頼を寄せる美奈子にとって、その言葉は自信に満ち溢れたものだった。


「正確にはね、学校祭を一緒に見て回れたらなって……でも、あわよくば、告白なんかしたいなって……」


 美奈子の紅潮した顔は鬼山の姿を捉えていた。昼食を食べ終えた鬼山は、たまに右足をピクンとさせながら眠っている。垂れかかった絨毯みたいな様は、今にも椅子から滑り落ちそうだった。


「何十年もあいつと一緒にいたあたしから言えるのは、たった一つ。当たったら粉々」


 箸先でゆで卵をバラバラにしながら、華世は半ば脅すように言った。美奈子は口の中の物をごくりと飲み込み、威嚇するように華世を見つめた。


「それでもいい。だって、これはチャンスだもの。雑誌にも書いてあるし……」


「ただの占いじゃん。そんなものにすがるのやめなよ」


「占いの何が悪いの? 何にすがろうと私の勝手でしょ」


「鬼山だけはやめときなって、そう言ってるの。その雑誌が、あいつの何を知ってるのさ?」


 華世はムキになって言い返していた。焦りが、華世をそうさせていた。


「……華世なら応援してくれると思ったのに」


 ふてくされたように、美奈子は得意の仏頂面で口を尖らせた。美奈子が雑誌の占い以上に華世を頼って相談してくれていたことを、華世は今頃になって気付いた。


「ごめん。何か……うん……ごめん」


 心の内を伝えようとしたものの、華世の口から出てくるのは空しい謝罪の言葉ばかりだった。

 本当は“当たっても砕けなかった”時のことを、ずっと不安に感じていた。美貌に包まれた美奈子だからこそ、万が一の場合を安易に想定することができたのだ。

 恋愛に疎い鬼山が、もし、美奈子からの誘いを引き受けるとしたら? 考えるだけで、華世は嫉妬の荒波に飲み込まれていく錯覚に身を震わせるのだった。


「いつ誘うの?」


 粉々になったゆで卵の欠片を口に運びながら、華世はボソッと尋ねた。


「今日の放課後。もう時間もないし」


「そっか。……ねえ、あたしの占いも読んでよ。しし座のとこ」


 話題を逸らそうと、華世はわざと明るい声でそう煽った。美奈子はちょっぴり嬉しそうに雑誌を持ち直した。


「しし座のあなた……『灯台下暗し』」


「とうだいもとくらし?」


 華世はちんぷんかんぷんだった。美奈子はやれやれと首を振った。


「華世、これはね、国語の辞書じゃないのよ。灯台下暗しっていうのは、身近な物事はかえって分かりにくいことの例えよ。灯台は遠くを照らせても、その足元は照らせないでしょ?」


「へえ。“灯台元暮らし”って、誰かが灯台に住んでるものかと思ってたよ」


 華世はケタケタ笑ってごまかした。美奈子は雑誌に顔をうずめて、笑い声を無理に押し殺していた。


「さすが、そうやって話の腰を折っちゃうわけね。面白いじゃない、そのギャグ。じゃあ、続き読むね」


 華世の全力の知識を『ギャグ』で片づけられてしまったのは腑に落ちないが、華世はあえて何も言わなかった。


「この月、君は近辺の情理に警戒しなければならない。生活はたやすくなく、本質は筋を通らないだろう。状況の打開には警戒以外ありえない。家族・友人・同僚を別の角度から観察してみることを薦める。灯台下暗し。足元の石は飛び越えろ」


「聞くんじゃなかったよ」


 華世は味わうこともせず、一気に弁当をたいらげた。




 六時限目の柏木の授業が終わると、華世は教室の真ん中で意味もなく息を潜めていた。教室を出ていこうとする鬼山に、美奈子が学校祭のことで接近したのだ。思い返してみると、あの二人が一緒にいるところを見るのは初めてだった。

 二人は教室と廊下の境目に立って会話していた。声はこちらまで届かないが、美奈子が身振り手振りを加えて懸命に話している姿はしっかり捉えることが出来た。


「柴田さん」


 バッドタイミング。華世の興奮がピークに達しようとするその時、二人の姿を遮るように現れたのは瀬名だった。


「何?」


 華世はテキトーに応えながら、椅子の上で体を滑らせて少しずつ二人の姿が視界に入るようにした。美奈子の顔が笑っているように見えた。


「見てもらいたい物があるんだ」


「え? ……うん、いいよ」


 曖昧な返事をしながらも、華世はしっかりと観察を続けていた。間違いない。美奈子は確かに笑っている。華世にも見せたことがない、喜びを爆発させたような満面の笑みだ。


「前に、写真の話をしたよね? 覚えてる? 兄と鬼山と君が写ってたっていう、十年前の写真のこと。あれを、家からこっそり持って来たんだ。どうしても見てもらいたくて」


 華世は、瀬名が何を言っているのかまったく理解できていなかった。頭蓋の中で、脳みそが完全に機能を停止させてしまっている。目が捉える映像も、耳が拾う音声も、今や何の意味も持たない。目の前にいる男子が誰なのかさえ、分からない。


「……瀬名くん!」


 瀬名がポケットから何やら取り出そうとした時、その様子を窺っていた柏木が大声で瀬名を呼び止めた。瀬名ばかりか、周囲の生徒たちも驚いたように柏木を振り向いた。


「その……帰りのHRまでに配っておいてほしいプリントがあるんだ。職員室まで取りに来てくれないか?」


「……分かりました」


 瀬名は手に握られていた物を惜しむようにポケットへ戻し、柏木と一緒にトボトボと教室を出ていった。瀬名と交代するように、美奈子が華世の前に現れた。真っ赤に染まった顔に潤おう、二つの瞳が華世を見つめていた。


「オッケーだった。学校祭、一緒に歩いてくれるって。なんか、夢みたい」


 これが夢であってほしいと願ってしまう感情を、華世はどうしても振り払うことができなかった。




 学校祭なんて始まらなければいい。そう思うようになったのは、開催日をいよいよ明日に控えた頃のことだった。学校祭の準備で学校全体が慌ただしいその日は、教室にいても二人のことが気になって落ち着かず、催し物の制作作業にいそしむ他のクラスを覗いたり、トイレの個室にこもって退屈をやり過ごしたりして時間を消化させた。

 華世のクラスはステージでの発表となるため、一部の生徒が教室の隅でヘンテコなダンスの練習に励んでさえいれば、華世が他に苦労することなど何一つなかった。

 ただ、それは表面上だけの問題であった。学校祭がここまで最悪なのは、華世にとって初めてのことだった。何しろ、本番はまだ始まってもいないのに、気分は底無しに落ち込んでいる。


 鬼山が美奈子の誘いを承諾したあの日から、華世の頭の中はありもしない妄想に次ぐ妄想の連続でパンク寸前だった。

 もし、鬼山も美奈子のことを好いていたとしたら? もし、二人がこのまま付き合うことになったら? もし、鬼山が華世の元から離れていってしまったら?

 止まらない妄想は不安を呼び、華世を軽度のノイローゼにさせた。




 雲一つない快晴がかつての雨雲を吹き飛ばした海の日。一日限りの……そして一人ぼっちの学校祭が始まった。

 体育館での開会式が終わると、華世は一人で体育館を出て、配布されたパンフレット片手に学校中をうろうろしていた。

 そこらから絶え間ない笑い声が上がり、楽しげな足音が廊下を包み、出店から食欲を誘うおいしそうな香りが漂ってくるというのに、華世の心の中は頭上の空ほど晴々しくはなかった。

 状況は去年と同じ……いや、それ以下だった。何を見ても楽しくない。辺りに鬼山と美奈子がいるのではないかと、そればかり気になって落ち着かない。トイレにでもこもりたい気分だ。


「そこのお嬢さん、ワタアメでもいかが?」


 体育館横の幅広い廊下の一端で、華世はそう声をかけられた。誰とも話す気がなかった華世は無視しようとしたが、その聞き覚えのある声に、思わず振り向いてしまった。

 某アニメキャラの刺繍が施された『イタイ』ハッピを着こなす男が一人、金たわしのような頭髪に鉢巻きを締め、ニタニタ笑顔でそこに立っていた。朝倉だ。


「あんた、何やってんの?」


 華世は聞くまでもないことを聞いた。


「何って、見れば分かるだろう? ワタアメはいかが?」


 その安っぽい作りの綿飴屋さんは、演劇部がステージでよく使う、骨組式の背景のセットそのものだった。横から見ると、ベニヤ板一枚の薄っぺらい貧相な造りであるのが一目で分かる。外装はビーチの絵をペンキで塗りたくっただけだ。


「なんだか……とってもかわいそうね」


 『移動式ワタアメ朝倉店 チョーうめえ』と書かれた立て看板(よく見ると、改造された松葉杖だ)を憐れむように眺めながら、華世は冷たい声色で言った。


「そうか? 女の子を中心にもう五十本は売れてるよ。ワタアメ職人の朝倉って言ったら、ここらじゃ結構有名なんだけどなあ」


「移動式って、学校中を転々としてるわけ?」


 華世が尋ねると、朝倉は窓から手を差し出してきた。その瞬間、華世はこの男がどういう人間だったのかを思い出した。


「おいくら?」


 ため息と共に言葉が出てきた。


「80円」


 華世は全部十円玉で支払ってやった。朝倉は手際良く作り始めると、数秒後には顔二つ分ほどもある巨大な綿飴が完成していた。


「こんな機会は滅多にあるもんじゃない」


 綿飴を華世に手渡しながら、朝倉はようやく話し始めた。綿飴はズシリと重かった。


「全校生徒を相手に商売できるんだ。足の生えた記事ネタが学校中をうようよしてるようなもんさ」


「で、何か報酬はあったわけ?」


「そうだな……さっきまでいた化学実験室の前で、あるカップルを見かけた。誰だと思う?」


「……さあ」


 華世はわざと分からない風に顔を背けた。朝倉が醜悪な笑みを浮かべるので、それが誰なのかはもう明確だった。華世のイライラを加速させるのは、朝倉がその二人を『カップル』と呼んだことだった。


「神崎美奈子と、あの鬼山勝二だ。学校中の不良たちを牛耳る鬼山が、二年生のトップアイドル神崎さんと仲良く歩いてるんだよ? 思わずカメラを向けちゃったね。だって、鬼山と一緒に歩いた女は、今までにたった一人しかいないって囁かれてたのに。しかも、何の取り柄もなさそうな“普通の女子”だっていうじゃないか」


「悪かったわね、何の取り柄もなくて」


 綿飴の頂から睨みつけてやると、朝倉は怪訝そうに顔をしかめた。


「何で柴田さんが怒るの? まあいいけど……あっ、そこのお嬢さん。ワタアメなどいかが?」


 華世が見ているそばで、朝倉はもう二本、華麗に売りさばいてみせた。


「去年より調子いいぞ。もう売上が4500円を超えた」


 朝倉も一人ぼっちのはずなのに、華世とは両極端に楽しそうだった。華世の心はますます鬱になった。


「ずいぶん元気が足りないんじゃないか?」


 朝倉は用意してあった椅子に座りながら、若干疲れたような声色で聞いてきた。どうやら、まだ完治していない方の足をかばって、ずっと片足立ちだったらしい。


「そんなことないよ。友達とはぐれちゃっただけだから」


 言って、華世は綿飴を口いっぱいに頬張った。あの朝倉に心配されるほど、暗い顔をしていたらしい。


「あんたこそ、一人でこんな所にいて寂しくないの?」


「それが僕さ」


 朝倉は淡々と答えた。


「僕を知る人は、記事のネタにされることを恐れて近づくことさえしない。でもそれでいいんだ。僕は面白い記事を書くためなら、どんな大切なものを投げ打ったって構いやしないから。友情だろうが、恋人だろうが、それこそ、足の骨一本でもね」


 夢と誇りに満ち足りたその笑顔を、華世は直視できなかった。何もない自分が惨めに思えてならなかった。


「……ごめん、もう行くね。綿飴ありがとう」


 急にいたたまれなくなって、華世は階段の方へ向かって歩き始めた。


「あっ、そうそう」


 そそくさと立ち去ろうとする華世に向かって、朝倉は白々しい語調で呼び止めた。華世が振り向くと、朝倉の顔にはいつもの狡猾な笑みが戻っていた。


「ゲームにはね、ラスボスの後に、たいてい裏ボスが潜んでるもんさ。そいつらは、ゲームをより充実させるために存在して、大方ラスボスよりタチが悪い。大切なのは、それが誰なのかはっきりするまで、しっかり用心することだ」


 朝倉は何か重大な真実を隠しているらしかったが、華世はそれを問い詰めようとは思わなかった。


『自分には関係ない……これ以上悪いことが重なるはずはない……あの占いだって、今朝倉が言ったことだって、みんなあたしを陥れるためだけのでっち上げに決まってる!』


 華世は逃げ出すようにその場を離れ、二階への階段を駆け上がった。その先は、賑わう校内でも一際騒々しい、不良たちの集まるコエダメだった。角一つ向こう側から、下品なバカ笑いが絶え間なく聞こえてくる。コエダメで繰り広げられる宴会場さながらの光景を、華世は簡単に想像することができた。


「そういえば、瀬名くんは今どこかな」


 華世は呟きながら、弾むような足取りで反対側の廊下へ進んだ。コエダメにこぞる不良たちから元気を分けてもらえたのは事実だった。


『あんな落ちこぼれたちでさえ楽しくやってるのに、自分がこんなことでクヨクヨしてどうする? もっと楽しまなくちゃ!』


 華世は自分に言い聞かせたが、途端に背筋が凍りつくものを見た。廊下を渡った向こう側に、鬼山と美奈子の姿があった。かき氷のカップを手に持ちながら、廊下に展示された美術部員の制作品を楽しげに眺めている。

 気付くと、華世は階段そばの防火扉の陰に身を潜めていた。自分でも驚くほどの身のこなしだった。


「何やってんだか……」


 自分を滑稽に思いながら、華世は三階への階段を上っていった。不良たちの笑い声が嘲るように追いかけてくるのを、華世はどうしても無視することができなかった。

 三階に着くと、不良たちの高笑いに代わって、今度は女子の黄色い声が廊下を満たしていた。何事かと廊下を覗くと、そこには、どこか見覚えのあるウサギの着ぐるみが廊下を闊歩していた。そのすぐ後ろを、金魚のフンのごとく女子生徒たちが群れている。


「あれって……まさか!」


 華世は目を疑った。どうしてこんな所にいるのか分からないが、あのウサギは間違いなく、以前、美奈子と一緒にゲーセンの前で見かけた着ぐるみそのものだった。あの愛嬌深い大きな瞳は、至近距離で見つめられたらなかなか忘れられるものではない。

 初めからあの中身が鬼山でないことは分かっていたものの、いざ決定的な事実を突き付けられると、華世はもう戸惑うことしかできなかった。前に会った時、確かにあの着ぐるみは、華世のことを見て逃げる素振りを見せたのだ。足をひきずるように歩きながら……。


「どうなってんのよ。この学校祭は」


 綿飴をむしゃむしゃ食いちぎりながら、華世はどこへ向けてよいかも分からない不安を怒りに変え、夢中になって頬張り続けた。




 夕刻が迫ると、学校全体が後夜祭の準備で再び慌ただしくなった。後夜祭は校庭で行われるクラス対抗の『カラオケ大会』に始まり、あらゆる予算を大幅に削って催される盛大な『花火大会』で締めくくられるのが、この学校のならわしだった。

 冷めやらぬ興奮を蓄えたまま、生徒たちがゾロゾロと校庭へ向かっていった。華世もそれらに混じって外へと出たが、校舎前の階段を下りたところで五十嵐に呼び止められた。どこか深刻な表情に、少し上ずったような声が飛び出した。


「やっと来たか。鬼山くんがお前を探してたぞ」


「あいつが? 何で?」


 『美奈子と一緒にいるはずなのに』と付け加えようとしたが、やめておいた。もうこれ以上、自分で自分を追い込みたくなかった。


「理由なんか知らない。でも急いだ方がいいぞ。駐車場にあるゴミ捨て場で待ってるってよ」


 五十嵐は言い残し、人波に混じって姿を消した。駐車場は校庭とは反対側だったので、華世は生徒の流れに逆らいながら足早に歩いた。やがてひと気のない庭園を抜け、夕陽も届かないじめりとしたゴミ捨て場前に辿り着いた。ここには以前、瀬名と二人で来たことがある。朝倉の綿飴屋も顔負けの乱雑な造りは、相変わらず鉄板を張り合わせただけの粗末なものに違いはなかった。

 そして確かに、鬼山はそこにいた。一人だけだった。


「何か用? 待たせてる人がいるなら、さっさと済ませた方がいいんじゃない?」


 そんなつもりはなかったのに、華世の口から出てくるのは冷たい言葉ばかりだった。


「お前がそれを言うか?」


 鬼山が驚いた様子で聞いてきた。華世は呆然と鬼山を見た。


「お前が呼んだんだろ。大事な話があるからって」


「違うわよ。あんたこそ、あたしを探してたんでしょ」


 長い沈黙が二人の間を流れていった。噛み合わない二つの歯車が時間を壊してしまったようだった。ずっと遠くの方から、カラオケ大会の開催を告げる花火の音が聞こえてくる。


「今日はずっと美奈子と一緒にいたんだよね?」


 華世は喉から絞り出すような声でそう聞いた。花火の余韻が、耳の奥で鈍く響いていた。


「そうだったかな……」


 鬼山はポケットに手を突っ込んだまま視線を泳がせ、ごまかすように言った。鬼山がなぜそんな態度に出るのか、華世にはさっぱり分からなかった。


「美奈子とのデート楽しかった?」


 あけすけに嫉妬の言葉を並べることに、華世は何の抵抗もなくなっていた。鬼山はうんざりしたような眼差しで華世を見据えた。


「何でそんなこと報告しなきゃいけないんだ? お前には関係ないだろ」


「美奈子の気持ちを、あたしはあんた以上に理解してるつもりだよ。ていうか、美奈子はどこなの? さっさと戻った方がいいんじゃない?」


「もういいんだよ、おせっかいヤロウ」


「何でもういいのよ! ……あんた、美奈子の気持ち全然分かってないじゃない」


「こっちは遊びでやってるんじゃねえんだ。俺の気も知らないくせに……」


「あんたのことなんかさっぱり分かんないわよ。何よ、自分ばっかり苦しいみたいに言っちゃってさ。あたしだって……あたしだって、今日はあんたと一緒にいたかったのに!」


「俺だってお前と……」


 鬼山の声がプツリと途絶えた。同時に、固い物がぶつかるような重低音が辺りに響き、次には、鬼山が膝から折れて地面に手を着いていた。露になった鬼山の背後に、五十嵐が立っていた。花壇のレンガを手に持ち、夕闇の陰に同化して鬼山を見下ろしている。

 華世が止める間もなく、五十嵐は振りかざしたレンガの塊を今一度鬼山の頭部に叩きつけた。鬼山はその大きな体を冷たいアスファルトの上に投げ出し、うつ伏せに倒れ込んだまま微動だにしなくなった。割れたレンガの欠片が五十嵐の手から滑り落ちると、鬼山のピクリとも動かない肢体の脇に転がった。

 華世は、今目の前で何が起こっているのか、理解するのに相当な時間がかかってしまった。やがて五十嵐が哄笑した。


「やった……鬼山を倒したんだ! この僕が!」


 足元の砕けたレンガを拾い上げながら、五十嵐は尚も笑い続けた。半ば狂いかけの五十嵐を放置し、華世はゆっくりと鬼山の元へ歩み寄った。


「鬼山? ねえ、鬼山?」


 耳元で呼び掛けるも、応答はなかった。だが、多量な出血は見られないし、息もある。ここにきて、華世はようやく我を取り戻してきた。


「どういうこと? ねえ……どういうことなのよ、五十嵐!」


 高笑いを続ける五十嵐に負けじと、華世は大声で怒鳴りつけた。五十嵐は不意に笑うのをやめ、殺気立った瞳で華世を睨みつけた。握られたレンガの欠片が、手の中でわなわなと震え出すのを華世は見た。咄嗟に、これ以上五十嵐を刺激するのはまずいと感じた。


「何でお前ら二人をここに呼び出したのか、まだ分かってないんだろう?」


 冷淡な声が愉快げに言った。


「あの人の計画の邪魔なんだよ、お前たちはさ。だから、しばらくこの中で監禁されててほしいんだ」


 五十嵐は脅すようにして華世をゴミ捨て場の中へと追い立て、続けてぜえぜえ喘ぎながら鬼山の体を引きずり、中に運び入れた。


「こんなことして、あんた退学じゃすまないわよ」


 これが最後の警告だとばかりに華世がすごんだ。


「望むところだね。さあ、ケータイをよこせ。鬼山のやつもだ……早くしろ! 頭を割られたいのか?」


 華世は携帯電話を投げ渡し、ゴミの一際密集する奥の方まで後ずさった。五十嵐はポケットから取り出した鍵をこめかみ辺りでちらつかせると、そのままドアをスライドさせ、外から鍵をかけた。


「僕はすぐ外で見張ってるからな。もしヘタに抵抗しやがったら、今度こそ殺してやる」


 くぐもった声が外壁を通して伝わって来た。

 中は真っ暗だった。完全な暗闇は、今目を閉じているのか開いているのか、その感覚さえも定かではない。それは、華世に死という恐怖を強くイメージさせた。閉塞された闇の中で生きる華世の意識は、まさに『死=無』の概念をほうふつとさせている。

 息の詰まるような恐怖の中で発狂しそうになるのを、華世は手の中に顔をうずめることで強引に抑え込んでいた。




 学校祭の準備で排出されたたくさんのゴミが、今にも華世の頭上に降り落ちてきそうだった。鬼山はまだ意識を失ったままだ。一体どれくらい閉じ込められたのだろう? 華世は時間が知りたかった。隙間から漏れていたわずかな残照も、今や夜の闇の色に変わってしまっていた。

 どうしてこんなことになってしまったのか、華世は胸中にはびこる不安を振り払って冷静に考えてみたものの、明確な答えを導き出すことはできなかった。ただ言えるのは、あれはいつもの五十嵐ではなかったということだけだ。彼の身に何が起きたのか、皆目見当もつかない。

 何もできない歯がゆさの中で時間ばかりが過ぎていき、夜の戸張りの静けさが辺りをひんやりと満たし始めた頃、華世の隣で横たわっていた鬼山が体を動かし、低く呻いた。華世はハッとして鬼山の顔のある方を覗き込んだ。


「鬼山? 気付いたの? 大丈夫?」


 耳元で囁くと、鬼山は更に体をねじり、より強く呻いた。そして次には、ゆっくりと頭をもたげていた。


「どこ……何も見えない……」


 鬼山のかすれ声が虚ろに響いた。何かに怯えるようにもぞもぞ動き、荒い息遣いのまま足をばたつかせている。


「鬼山。ねえ、しっかりして。ここは……イタッ」


 近づくと、華世の肩に鬼山の腕がぶつかった。何かにすがろうと、暗闇の中で手を振り回しているらしい。荒い吐息がわななく言葉に変わった。


「見えない……見えない……何にも……どこだよ……どこなんだよ! ここは!」


 ゴミの密集した狭い空間で、鬼山はとうとう暴れ始めた。光を求めて腕を振り回し、壁を蹴破ろうと足を振り上げている。ゴミ袋がなだれのようになって頭上に降り注いできた。


「いやだ……出せ! 出しやがれ! ちっくしょう!」


 けたたましい絶叫が中で反響し、華世はすくみ上がった。暴れるのをやめた鬼山は、膝を抱えて顔をうずめ、声の尽くす限りで叫び散らしている。


『勝二はね、重度の暗所恐怖症だったのよ』


 奈津美の言葉が、華世の脳裏をかすめていった。気付くのが遅すぎた。背を丸めて縮こまる鬼山の姿は、心にトラウマを埋め込まれたあの幼少期に、完全に戻ってしまっていた。


「……父さん」


 鬼山がかすれ声で囁くのを華世は聞いた。


「鬼山?」


 華世はそっと声をかけたが、返事はなかった。


「父さん……ごめんなさい。もう悪いことしないから……口答えもしないから……父さん、ここから出して……一人にしないで……」


 鬼山のことを思う華世の強い思念が、華世自身に次の行動を起こさせていた。気付くと、華世は鬼山の震える体をしっかりと抱きしめていた。


「一人じゃないよ、勝二」


 鬼山の震えが止まった。静寂が、再び二人を包み込んでいった。


「……華世」


 その名の意味を模索するように、鬼山の手が華世の肩に触れた。

 二人が初めて出会ったあの日から、何も変わっていなかった。どんな時もそばにいて、互いに見つめ合い、ケンカし、それでも手を取り合って生きてきた。華世と鬼山を分け隔てるものなど、この世には存在しなかったはずだ。

 密着する体の温もりを通して、心と心が、今、固い絆で強く結ばれていくのを華世は実感した。


「行こう。時間がない」


 恐怖を克服したように、鬼山はスッと立ち上がり、華世の手を取った。鬼山の大きな手が華世の手を包み込み、華世はほとんど力を入れずに立ち上がることができた。


「時間がないって、どういうこと?」


 華世は鬼山がいるあたりを見上げながら聞いた。


「ここから出れば分かる。……いいか? 一緒に体当たりだ」


 二人はドアの位置を確認し、掛け声を合わせて肩から体当たりした。ドアどころか建物全体が揺れたものの、その強固な鉄板はまだ二人の前に健在だった。


「もう一度だ。一、二の……」


 『三』が聞こえなかったのは、大きな金属音が覆いかぶさるように華世の内耳を襲ったせいだった。スライド式の鉄板は金属のこすれる音を響かせてドア枠から吹っ飛び、二人を乗せたままアスファルトの上に投げ出された。どうやら、老朽した建物の大雑把な造りがここにきて幸いしたらしい。二人は無事、夜の闇の中へと放たれた。


「言ったろう。抵抗したら殺すって」


 顔を上げると、そこに五十嵐が立っていた。砕けたレンガの欠片を手に持ち、瞬きもせずにこちらを見下ろしている。月明かりが、五十嵐の童顔に刻まれる虚無の笑みをおぼろに照らし出していた。


「お前が俺に何をするって?」


 鬼山は立ち上がっていた。五十嵐が手にする自慢の武器など、おもちゃの積み木くらいにしか見えないらしい。五十嵐がじりじりと後ずさりすると、華世は鬼山の後方に回り込んで二人の様子を窺った。


「僕に抵抗したら殺すって、そう言った。僕は……お前より強いんだ」


「あいつに何を吹き込まれたか知らないが、さっさと目を覚ませ」


「黙れ! これ以上僕に指図するな!」


 校舎に当たって反響した声が頭上から降り注いできた。五十嵐はレンガを構えているだけなのに、その落ち着かない呼吸は全力疾走した直後のように荒々しかった。


「いつも僕をコケにしやがって……」


 タンのからむようなかすれ声で五十嵐が言った。


「僕は強いんだぞ……お前にだって負けないくらい。あの人を慕うことで、僕は絶対の力を手に入れたんだ。……朝倉が倉庫で神崎を襲った時、お前を停学に追い込むため、あの人にその犯行現場を教えたのは誰だ? お前のことを尾行し、パチンコ屋で働いてることをあの人へ密告したのは誰だ? あの人の命令で、この数ヶ月、ずっとお前をスパイしていたのは誰だ? 全部この僕だ!」


 醜悪な高笑いが駐車場にこだました。五十嵐が何を言いたいのか……“あの人”が誰なのか、華世は段々とつかめてきた。


「あの人にとって、お前は目障りだったんだよ、鬼山。だからあの人は、お前を停学にさせるための口実探しを、僕にスパイさせることで見つけ出そうとした。お前さえいなけりゃ、あの人の計画はとどこおりなく進んでたんだ!」


「それで、お前はどうしたいんだ? 今、そんな物を手に持って、叫び散らして、一体何がしたい?」


 鬼山は威嚇するように前進したが、五十嵐はそれ以上しりぞかなかった。勇敢にも、堂々と胸を張って鬼山と対峙している。


「僕は足止めするように命令された。あの人が計画を完遂させるのに最もふさわしいタイミング……それが今日だった。お前のことだから、どうせ勘付いていたんだろう? お前は今日一日ずっと、神崎と歩きながらあの人の近辺を探っていた。怪しまれないためには、神崎と一緒にいる方が好都合だったってわけだ。そうでなけりゃ、あの日、お前が神崎からの誘いを引き受けるはずがない」


「何ペラペラまくしたててんだよ」


 鬼山は大儀そうに呟いた。


「それがどうした? やっぱ弱いよ、お前」


 怒りと憎しみを混沌とさせた表情が、五十嵐の顔面を覆っていった。五十嵐がレンガを構えても、鬼山はお構いなしだった。


「五十嵐、お前はいつもそうだった。権力者の言いなりで、度胸もないくせに不良気取って、自分より強い者にはへつらい続けてきた。そんなお前は、ただ服従してるだけの弱虫だ」


 五十嵐が突如、鬼山に襲いかかった。怒りに顔を歪め、歯を食いしばってレンガを振り下ろした。華世が息を呑んだ時、レンガの欠片は鬼山の胸の上だった。間一髪、ギリギリの所で五十嵐の手首を掴みとる鬼山の手が、その動作を完全に殺していた。


「もう強がらなくていい。あいつは……柏木は、俺が何とかする」


 五十嵐の手からレンガが滑り落ち、固い地面を打ち鳴らして粉々に砕け散った。鬼山に手首を握られたまま、五十嵐は思いきり鼻をすすった。


「鬼山くんは僕の憧れだった……」


 泣きっ面でしゃくり上げながら五十嵐が言った。それは、いつも教室で見かける、あの五十嵐遼だった。


「僕が欲しいものを、君は全部持ってた。柏木は僕のそんな弱みにつけこんで、言葉巧みに言いくるめてきた……僕は初めて君より強くなれると、そう思うことができた」


 いてもたってもいられなくて、華世はソロリと前へ出た。


「そもそも、こんな奴を目標にするからダメなのよ。同じクラスに、瀬名くんって立派な生徒がいるじゃない」


「まったくだ」


 鬼山が呆れ半分で同意した。五十嵐は何も言わず、更に激しく嗚咽した。


「柏木が今どこにいるか、分かるか?」


 泣き声を遮るように、鬼山が大声で尋ねた。五十嵐はいきなり泣きやんだ。


「知らない。たしか四時頃に、職員室の前で瀬名から何か受け取ってるのを見たっきりだよ」


「分かった。俺たちは今から柏木を探しに行く。お前は、お前の意思で行動するんだ。もう誰からも命令されやしない。自分を信じろ」


 五十嵐をその場に残し、華世と鬼山は走り出していた。校舎前に辿り着くと、二人は顔を見合わせた。


「どこを探すの?」


 華世は地団太しながら早口で聞いた。鬼山は思慮深げにうなった。


「……職員室だ。柏木のデスクを調べれば、瀬名から受け取った何かが見つかるかもしれない」


 二人は再び走り始めた。




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