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TIKARA  作者: 南の二等星
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第十二話 僕に足りない10点って……?


 『これで良かったんだ』と自分に言い聞かせながら歩くのは、あまり心地よいものではなかった。投票開示の会場となる会議室は、放送室からたかが長い廊下を一つ渡った程度の距離だった。しかし、罪悪感に苛まれた華世からしてみれば、この廊下はまさに処刑台へと続く懺悔の道のりそのものだった。


 『生徒会なんてやりたくない』は、華世が本当に伝えたかった意志だった。その言葉に偽りはないし、後悔だってしていない。ただ、やはりあの行為は愚かであり、全校生徒の前で恥を晒したことも事実だ。卒業するまでの間、後ろ指を指され続ける自分を想像するだけで、五臓六腑が縮み上がる思いだった。

 会議室に入ると、既に待機していた十数人の選挙管理委員の面々が一斉に華世を捉えた。軽蔑の視線をぶつける者や、ねっとりと絡みついてくるような笑顔を投げかける者もちらほらいた。少なくとも、華世に同情の意思を示してくれる者は一人もいなかった。こんな時、美奈子がそばにいてくれたらどんなに心強かったろう。


「票はあと数分でこちらに届きます」


 華世に近づいてきた管理委員の代表者らしき人物が言った。顔を上げてよく見ると、それは夏目だった。嘲りに近い表情を浮かべ、高い鼻の上から華世を見下ろしている。縮こまった気持ちのせいで、ただでさえ高身長の夏目がまた更に大きく見えた気がした。


「とりあえずは、票が来るまであの席に座って待っていて下さい」


 指示された席は五十嵐の隣。五十嵐のことをほとんど疑いにかかっている夏目は、華世を徹底的な監視役に回すつもりらしい。

 華世が隣に座っても、五十嵐は取り分け無反応だった。皮肉の言葉の一つでも浴びせてくれれば、どれだけ気が楽だったかも分からない。何もない長机の上を見つめたまま、五十嵐は彫像のように押し黙ってしまっている。

 五分後、クラスごとに分かれた票が届けられた。票には立候補者の名前が縦に並べられていて、それぞれ気に入った役員の候補者名に○をつけるシステムになっている。華世はなるべく自分の名前が視界に入らないよう心がけ、黒板のすぐ脇に用意されたホワイトボードの前に立って指示を待った。

 夏目が黒板の前まで進み出て、足長の教壇の上に勢い良く両手を着いた。そうして、教壇に置かれた自分の腕から腕時計を覗き込むと、凛々しく顔を上げて教室を見回した。


「六月九日。十四時五十分。担当教員監視の下、ここ会議室において、投票の開示を始めます。経過を書記していくのは、書記委員の二年生、柴田華世さんです。柴田さん、よろしくお願いします」


 夏目が深々と頭を下げた。夏目が本当にお願いしたいことが何なのか、華世だけは知っていた。華世も小さく礼をしたが、顔を上げる頃には教壇に夏目の姿はなかった。クラス毎に分けられた票を、管理委員の面々に配布している。

 隅の方に座っていた五十嵐が最後の束を受け取った。その際、夏目は露骨にも、五十嵐へいぶかしげな睨みをぶつけ続けていた。逃げ場のない強烈な視線が物語るのは、『お前の不正は許さない』『やったら退学に追い込んでやる』といった脅迫の風貌そのものだ。五十嵐がわざと夏目と目を合わせないようにしていたのは明白だった。


「では、集計を初めて下さい」


 教壇の手前まで戻ってくると、夏目は両手をパチンと合わせて呼び掛けた。


「先ほども説明したとおり、事前に配布した用紙に、それぞれの役員候補者名とその集計結果を記入するだけで結構です。役員ごとの集計が終わり次第、用紙を私に手渡しして下さい。ホワイトボードにて明記し、最後にまとめて合計します」


 その後、作業は黙々と進められた。

 担当の教官は後ろの方で突っ立ったまま、夏目にすべて任せっきりのようだった。当の夏目はその期待に応えようと、巡回する刑務官さながらの強面を披露し、左右を往復しながら集計の様子を観察している。

 中でも、五十嵐に対する警戒心は異常だったに違いない。夏目は教室の隅から隅まで移動したが、その間、据わった瞳がほんの一瞬だって五十嵐の姿から外れることはなかった。暇を持て余していた華世が確認したのだから、間違いない。


「さあ、仕事よ」


 数分後、二枚の用紙とペンを華世に手渡しながら夏目が小声で言った。


「この集計用紙どおりにボードへ書き写していって。どんどんくるから急いでね。こっちのシートは、候補者の最終結果を学年別に表記するものだから、最後にこれを仕上げればあなたの仕事は終わりよ」


 何も言わず、華世は黙ってそれらを受け取った。用紙には途中までの投票結果が数字で記されている。注目すべきは三人。藤堂の欄には『43』、瀬名の欄には『32』、華世の欄には……なんと『3』と書かれている。

 美奈子以外であたしに票を入れるなんて、とんだ変わり者もいたもんだ。ボード上でペンを走らせながら、華世は心底驚いていた。しかし反面、そのままの自分を認めてもらえたことが素直に嬉しかったのも事実だ。

 用紙が二枚同時にやってきた。一枚目は、藤堂が『42』、瀬名が『46』、華世が『4』。二枚目が、藤堂が『48』、瀬名が『36』、華世が『2』だ。

 ほとんど憐れみ同然の華世の票数を数えてみるのも面白いが、やはりここは、この学校始まって以来、未だかつて例を見ない最大の熱戦に注目しておくべきだろう。藤堂と瀬名による世紀の一戦は、他二名の生徒会候補者を完全にないがしろにしていた。それは、フルマラソンを走る先頭集団の中でも、更にトップを疾走するランナーが二人、肩と肩を激しくぶつけ合い、たった一つの頂点を目指す、果敢な雄姿そのものだった。

 次第にホワイトボードは数字で満たされ始めた。作業を終えた生徒たちは、ボクシングのタイトルマッチを生観戦するような熱い眼差しをホワイトボードに向け、その決着の瞬間を今か今かと待っている。

 残るは、五十嵐の結果を待つだけであった。


「まだですか?」


 夏目が荒々しくせっつき始めた。五十嵐は、頭を抱えてふさぎ込むような姿勢で作業に取り組んでいる。

 夏目の注意が全力で五十嵐に向けられている隙を狙って、華世は仕上げに使うシートをひっくり返し、隅の方で計算を始めた。ボードに記された藤堂と瀬名の票数の合計を知りたかった。藤堂の言ったとおり、五十嵐が『瀬名を助ける』ための不正に及ぶとしたら、まさに今しかない。

 結果は、藤堂が320。瀬名が304だった。五十嵐が算出した結果次第で、この二人の運命が決まる。名声と肩書をプライドに乗せて生きる男と、本当に学校を変えたいと望む男の運命の末路が、かすんだ霧の彼方にぼんやりと見え隠れし始めた。


「まだなんですか? 遅すぎます」


 夏目が近づくと、五十嵐は投票用紙に覆いかぶさるように身を伏せた。


「あと少しなんだから、邪魔すんなよ」


 五十嵐がすごんだ。しかし夏目には効果がない。


「もう結構です。私がやります」


「やめろったら!」


 五十嵐の怒声が会場の空気を凍りつかせた。今や全ての注目が二人のやり取りに集まっている。沈みきった沈黙の中で、夏目は深く嘆息を漏らした。


「分かりました。それなら、終わったところだけでも口頭でお願いします。生徒会役員くらいなら済んでるでしょう?」


 夏目は自身が許す限りの範囲内で妥協し、これ以上は譲らないとばかりに五十嵐を睨み落とした。五十嵐は納得したように顔を上げると、何か語りかけるような眼差しで華世を一瞥した。華世は五十嵐のとった謎の行動に、あえて気付かないフリをした。


「じゃあ、言うからな」


 声に若干の緊張感をちらつかせながら、いよいよ五十嵐が切り出した。


「藤堂が39票。森が8票。橋田が5票。瀬名が……瀬名は56票だ」


「投票用紙を貸して」


 間髪入れずに夏目が言った。


「今言っただろ! 藤堂が39、瀬名が56だ。瀬名が勝ったんだよ!」


「もういい。柴田さん、あなたが数えて。同じクラスの柴田さんなら、あなたも安心でしょう?」


「夏目」


 このやり取りを後方でずっと黙視し続けていた男の教官が、突如夏目の名を呼んだ。昼休みにいつも廊下を散歩している初老の教師だった。その名も武田。


「選挙管理委員以外の者が票を数えるのは違反行為だ。ここは、五十嵐を信じて……」


「できません」


 夏目がピシャリと言い返した。先生は面食らったように目を瞬かせた。


「五十嵐より、柴田さんの方がよっぽど信頼できます。私が見込んで推薦したのだから、間違いありません。それに、このことで何か問題が起こった場合、もしくは罰則の発生する場合、全ての責任は私が負います」


 夏目は憤然と振り返り、華世をまっすぐに見つめた。


「柴田さん、お願いできる?」


 華世は夏目の真剣な顔を見、先生の当惑じみた顔を見、五十嵐の怯えたような顔を見た。


「分かりました」


 華世は五十嵐の所まで歩いていき、その手から投票用紙の束を受け取った。五十嵐も夏目と同じくらい華世に信頼を寄せているらしい。用紙を渡される際、『頼んだぞ』と語りかけてくる五十嵐の視線を、今度ばかりはどうしても無視することができなかった。

 華世はその場に突っ立ったまま票を数えていった。緊張のせいで指先は震えたが、しっとりと滲んだ汗が用紙をうまく掴んでくれたおかげで、作業は順調に進んでいった。

 結果は、藤堂が39、瀬名が52だった。その瞬間、五十嵐の嘘が発覚し、同時に、瀬名が負けた。

 正直に言えば済むものを、華世はつい考えを巡らせてしまった。五十嵐が真実を偽ったのも確かだが、藤堂や夏目がとってきた今までの行動だって、不正に値するだけの行為だったと言い切れないだろうか? 自分の力だけで頑張ってきた瀬名が、これではとても報われない。


「あなたを信じてる」


 数え終わったのを一早く察した夏目が、華世に柔らかな物腰でそう言った。華世は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。


「あなたが『五十嵐は正しかった』と言えば、私はそれを受け入れます」


 華世は夏目に投票用紙の束を差し出した。最後まで自分に正直であろうと、そう決断した瞬間だった。


「藤堂さんが39票、瀬名くんが52票でした。間違いありません」




 開示による凄惨な余韻が物語るのは、まがいもない真実だけだった。

 五十嵐の行為は『ただの数え間違い』だと夏目によって判断され、事がそれ以上大きくなることはなかった。そして、当選した者は素直に喜び、落選した者は現実を受け入れるのにしばしの時間を要した。

 しかし、華世の場合は例外だった。華世の落選を期待することは誰にでもたやすいことだったが、100票以上の支持が集まることを事前に予知することは、誰一人できなかったはずだ。華世本人さえも、である。


 その日の内に瀬名と話すことはできなかった。放課後、結果が柏木の口から報告されると、瀬名は誰とも顔を合わせずに教室を出て、下校する生徒の群れに溶け込むようにして姿を消した。


「ほっとけ」


 後を追いかけようとした華世の背中に向かって、鬼山の声が乱暴に呼び止めた。振り向くと、薄っぺらの学生カバンを肩に引っ掛け、今にもその場を立ち去ろうとする鬼山の姿があった。


「でも……」


「お前と違ってデリケートな奴なんだ。ほっとけばいい」


 鬼山の言うことに強い抵抗もなく従ったのには、ちゃんと理由があった。華世は口元が意思に反して緩んでいくのを抑えることができなかった。


「あんたが何を企んでたのか、あたし知ってるよ。瀬名くんを助けようとするなんて、一体どういう風の吹き回し?」


「何で俺があいつを助ける? 冗談はさっきの演説だけにしてくれ」


 華世は、さっそうと歩き去っていく鬼山を呼び止めるつもりはなかった。しかし、柏木は別だった。


「おい、鬼山」


 教壇からのめるように体を突き出しながら、柏木がその名を呼んだ。鬼山が気だるそうに振り向いた。柏木から何を言われるのか、すべて把握しきったような表情をこしらえている。


「あの約束、どうなった? え?」


 このやり取りをこっそり立ち聞きしている生徒たちへ配慮するかのように、柏木は言葉を濁してそう尋ねた。


「守りましたとも」


 鬼山がうやうやしく返した。


「向こうに確認の電話を入れるぞ」


「ご勝手に」


 鬼山は今度こそ華世の前から姿を消した。柏木の言う『約束』が何なのか、華世にはさっぱり分からなかった。


「ねえ、今の聞いた?」


 柏木が教室を出ていくと、華世はさっそく美奈子のところへ詰め寄った。美奈子は机の中の教材をカバンの中に押し込んでいる最中だった。


「聞いてたよ。でもそんなことより、私に何か言うことがなくって?」


 美奈子は教科書を一つカバンに放り込むたび、目を上げて華世を睨んだ。ずいぶんご立腹のようだ。心当たりは一つしかない。


「選挙でのことは悪いと思ってるよ。一言も言わなかったし……」


「何で言ってくれなかったの? そこまで思い詰めてたなら、相談乗るのに」


 美奈子の口からそんな言葉を聞けたのはとても意外だった。華世が素直に嬉しさを表情に出せなかったのは、美奈子がまだ険悪な顔つきでこちらを見つめているせいだった。


「ごめん。……でもあれは、あたしが本当に主張したかったことだし、そのことで美奈子が怒ってるんなら……」


「だから、違うって。華世が何も話してくれなかったことに腹を立ててるの。私たち、直前まで一緒にいたんだよ?」


「それは……」


 美奈子の心を静めることができる言葉を、華世は知らなかった。

 そして、今になってようやく、自分が鬼山と同じであることに気付いた。鬼山が心に秘める思いを言葉にできなかったその理由が、やっと分かった。


「それは……美奈子だったから」


 華世はポツリと呟いた。美奈子の手が止まった。


「相手が美奈子だったから……心配させたくなかったし、それに、あたしのケジメってやつを示したかったの。あたしの中で、美奈子はいつも大きな存在だったから」


「ふぅん」


 嬉しさを無理に抑え込むような表情で、美奈子はただそれだけを口にした。数秒前の自分にそっくりだと華世は思った。

 その帰り道、二人は近くの喫茶店でパフェを食べた。美奈子のおごりだった。




 それからの一週間は、風を切る矢のように過ぎ去っていった。

 控えた前期中間テストは生徒たちを一方的に苦しめたが、暇を見つけては降り続ける雨がその疲れを洗い流してくれるわけではなかった。

 他の生徒同様、蒸した空気によって奪われた集中力が勉強をはかどらせない点については、華世も同じだった。しかし華世の場合、勉学に対する意欲に関しては昔から大きく欠落していたため、今頃になって梅雨特有の蒸し暑さに難癖をつけるつもりはなかった。

 ただ、一夜漬けを成功させるための算段を組むことに際しては、華世の右に出る者はいないだろう。試験範囲の隅々まで行き届いた計算処理は、ギリギリ赤点を回避できるだけの力を十分に備えていた。


 日毎に増していく試験勉強の疲れを目に見える形で観察でき、それに見合うだけの模範的な生徒を挙げるとすれば、うってつけなのはまさしく瀬名雄吾だったに違いない。

 選挙前から始まっていた瀬名の衰弱っぷりは、ここにきてピークを迎えつつあった。目のクマは青白い顔の中で不気味に映え、覆いかぶさるような前髪はその瞳からあらゆる活力を奪ってしまっている。日を追うごとに頬が削げ落ち、口元にはうっすらと無精ひげが伸びている。

 心配になって毎日のように声を掛けていた華世も、テストを前日に控える頃になると、それもためらわざるをえなかった。いきなり声をかければ、瀬名は驚いた拍子に昇天してしまうかもしれないと懸念するようになったのだ。


 前期中間テストが終わると、生徒たちは時折覗かせる青空のように清々しく、さっぱりと心地の良い気持ちになって、雨上がりの爽やかな空気に身を任せて気分を高揚させた。

 華世が、この数週間でつのらせた苦心を解消させるのとほぼ同じく、瀬名の顔から疲れの色が取り除かれていくのがはっきりと分かった。月曜日にもなると、瀬名は『一日三十時間は寝た』とでも言うような、超健康的な笑顔で華世に朝の挨拶をした。


「おはよう、柴田さん。今日は天気がいいね」


 第一声がこれだ。この日は曇り空だった。


「おはよう。もうすっかり元気だね」


 華世も負けじと、とびきりの笑顔を引き出して挨拶した。瀬名とまともな会話をするのは、かなり久しぶりに感じた。


「柴田さんには心配かけちゃったみたいで、本当に申し訳ない。役員選挙の落選も相まって、身も心もボロボロだった。昨日はね、うん、まるで三十時間は寝たんじゃないかってくらい、ぐっすり眠れたよ」


 しかし、瀬名が快活な原動力の下で学校生活を送れたのは、ほんの束の間だった。

 各授業の始めに答案用紙が返され続けると、三日目の帰りのHRには成績上位者の名が柏木の口から放たれることになった。


「はい。恒例の成績優秀者の発表ね」


 義務づけられた面倒事に首を突っ込むかのように、柏木はおっくうげにそう言った。瀬名が胸の上で、祈るように指をからませる姿を華世は見た。


「三位、千田早苗。メイン五科目・500点中466点。はい、よく頑張りました」


 柏木は拍手したが、乾いたような音が情けなく響いただけだった。


「二位、瀬名雄吾。500点中487点。学年では三位の成績でした。おめでとう」


 柏木がしけったクラッカーを連発させるような音で手を叩く中、瀬名の横顔は落胆に沈んでいった。普通なら喜ぶところだが、瀬名にとってはそうもいかない。次に呼ばれる名があいつのものであるなら、尚更だ。


「一位、鬼山勝二。500点中497点。学年でもトップです。みんなも、あいつの良い所だけを手本とするように。授業中に狸寝入りしろと言ってるわけじゃないからね」


 当の本人はいなかったものの、クラス中を疑念の波が広がっていく速度は凄まじいものだった。『なぜよりによって、またあの鬼山が?』という心の声が、そのたくさんの困惑な表情から明確に窺うことができた。その中心で、二つ前のカラッポの席を悔恨のごとく眺める瀬名の姿は、華世の視界にはっきりと鮮明だった。




 放課後、掃除の終えたひと気のない教室に、瀬名雄吾はいた。高得点の連なる答案用紙を物憂げに眺め、たまに恍惚な表情を上げては鬼山の席に視線を走らせている。華世と美奈子は心配で帰るに帰れず、元気付かせてあげることを目的にそっと声をかけようとした。


「僕は“また”敗北したんだ。あいつに……鬼山勝二に……」


 華世が声をかける前に、瀬名はもう喋りはじめていた。以前、これとまったく同じ光景が教室で繰り広げられたのを、華世はまだはっきり覚えていた。


「気にすることないよ。あたしなんか国語のテスト43点だよ?」


 あえて当時を再現してみたが、やはり手応えはなかった。


「10点……たったの10点差だ」


 瀬名がまた嘆き始めた。


「僕と鬼山とを引き離すこの10点差は一体何だ? 僕に足りない10点って何なんだ?」


 華世も美奈子も顔を見合わせたまま、その場に突っ立っていた。同情の余地はいくらでもあった。選挙では藤堂に敗れ、テストでは鬼山に連敗だ。今の瀬名を勇気づける言葉なんか、どこを探したって見つかりっこないはずだ。

 瀬名が肩を落とすかたわら、美奈子がおもむろにカバンを下ろし、中をまさぐり始めた。取り出したのは真新しいファッション誌だった。


「瀬名くん、誕生日は?」


 美奈子がやぶから棒に聞いた。瀬名の視線が、答案用紙と鬼山の席以外に向けられるのは、ここにきて初めてのことだった。その光輝を欠いた二つの瞳は、静かに美奈子を捉えていた。


「十一月……二十日……」


 知識の中にあって当然というべき自分の生まれた日を、瀬名は手探りで何とか思い出すことができたようだった。美奈子の雑誌をめくる手の動きが止まり、空咳がコホンと飛び出した。


「さそり座のあなた。『果報は寝て待て』。……占いよ」


 美奈子が言った。


「野望に挑むのなら、敵の衰退を待て。幸福を望むのなら、君は自らの非力を認め、辛苦を乗り越えろ。やがて訪れる選択肢が、君に与えられた六の月最後のチャンスである。果報は寝て待て。時間に逆らうな」


「それ信用できるの?」


 瀬名がそんな顔をしていたので、華世が代弁した。


「結構当たるよ、この雑誌の占い。つまり、瀬名くんの六月はまだまだこれからってことよ」


 美奈子は揚々と言ったが、瀬名の顔は浮かないままだった。


「占いに頼るやり方は好きじゃないけど……でも、ありがとう」


 瀬名ははにかんだように顔を背け、耳を赤く染めた。


「何だか、カッコ悪いとこ見せちゃったね。たかだか10点くらいで……ハハ」


 瀬名は笑ったが、その表情はどっぷりと沈み切ったままだった。それから、どこか惜しむように答案用紙をカバンにしまうと、ゆっくりと席を立った。


「待ってみるよ。そのチャンスってやつを」




 チャンスは六月最後の週に突然やってきた。

 華世が朝のまだひと気のない教室に早々と登校すると、中で柏木と瀬名が深刻な顔を向かい合わせて話していた。二人は教壇を挟んで突っ立ち、華世が教室に入って来たことにさえ気付いていないようだった。


「そういうわけだから、もし君さえよければ、代わりに生徒会長の席を担ってもらいたいんだ」


 柏木が言った。華世が聞き耳を立てずとも、静まった教室での会話はみんな筒抜けだった。


「急な話ですね……分かりました、時間をください。明日までには必ず返事をするので」


「待ってるよ」


 瀬名が華世の存在に気付いたのは、柏木が退室する様子を見届けた後のことだった。


「あっ、おはよう。……どこらへんから聞いてたの?」


 取って付けたような挨拶をすると、瀬名は当惑気味に聞いた。


「瀬名くんに生徒会長の席を担ってもらいたいって、そこらへんから。ねえ、これは一体どういう事態?」


 華世は身を乗り出して尋ねた。瀬名は自分の席に腰を下ろし、右斜め下を向いたまま低い声をなびかせた。


「うーん……藤堂先輩の不正が発覚したらしいんだ」


 心臓の中で爆竹でも破裂させたかのように、鼓動のリズムが一気に加速した。選挙前日、コエダメで藤堂と夏目の二人から秘密の計画を教えてもらったのは、華世一人だけのはずだ。壁の中に仕込まれていた朝倉の盗聴器は、夏目がその電源を切ったはずである。


「内部告発者が出たんだ」


 瀬名は続けた。


「名前は朝倉仁。前に、体育館の倉庫で神崎さんを襲ったあいつだ。新聞局長で、学校新聞の毒舌記事を手掛けてる。階段から落ちて入院してたけど、昨日退院したみたいだ。今日朝一番で職員室に駆け込んだらしい」


「みんなあの人の話を信じたの? 証拠は?」


 華世の声は興奮でほとんど裏返っていた。


「そのやり取りを録音したテープがあったらしいんだ。朝倉が自分で持ってきた」


「だってあれは……」


 そこまで言うと、華世はぐっと思いとどまった。瀬名の不審そうな顔が華世を覗き込んだ。


「柏木先生が教えてくれたよ」


 なだめるような口調だ。


「録音された内容は、藤堂先輩と管理委員の夏目先輩、そして柴田さんの三人のやり取りだったって。選挙前日の朝、僕は確かに、君たち三人をコエダメで見てる。柴田さんは、ずっとこのことを知ってたんだろう? ……そして、それは僕も同じだった」


「同じって、何が?」


「知ってたんだ。藤堂先輩が影で何をやっているのか。一度は森下とかいう同級生と計画について話してるのを聞いたことがあるし、ケータイを使ってそれっぽい会話をしている姿も見てる。僕が彼らに警戒心を向けるようになったのは、会議室で森下に兄のことを指摘されたあの日からだ」


「じゃあどうして……?」


「どうしてそのことを承知で選挙に挑んだのかって?」


 華世は何度もうなずいた。瀬名の顔にいちるの笑みがかいま見えた。それはどこか、最も瀬名らしくない、不適な微笑みのようにも感じた。


「目には目を……僕だって、勝つためなら手段を選ばなかったさ」


 その時、ドアが大きな音を立てて開いた。華世がそちらを振り向くと、まず一番に目に入ったのは金たわしのような頭髪だった。その下に、底意地の悪そうな笑顔が浮かんでいる。


「見っけ」


 紛れもなく朝倉仁だった。手に抱えた松葉杖をもてあそびながら、ドア枠にもたれかかって華世の方を見つめている。


「柴田さん、ちょっと来てよ。……ここじゃあ話しづらいし」


 瀬名をちらと一瞥すると、朝倉は杖で促した。


「行きなよ」


 華世が当惑気味に目配せすると、瀬名が冷たく言った。倉庫で美奈子が襲われているのを見て以来、瀬名が朝倉に良い関心を持っていないことは、言うまでもなく明確だった。


「……別にいいけど、何か怪しい行動に出たら、その杖へし折るよ」


 二人は朝の静ひつな廊下を渡り、誰もいない第一美術室に足を踏み入れた。朝倉は杖を机の上に投げ出すと、不自由な方の足をブラブラさせながら椅子に座った。


「どうして報告しに来てくれなかったんだよ?」


 華世が向かいの椅子に腰かけると、出し抜けに朝倉が問い詰めた。


「病院で言ったろ。藤堂とのバトル結果を報告しに来てくれって。おかげ様で、記事がまだ手つかずだ」


 華世が怪訝そうな顔をするので、朝倉がそう付け加えた。華世は何となくその時のやり取りを思い出した。


「無理だったのよ。テストが間近だったし、そもそも、そんな醜悪じみた記事なんかに手を貸したくない」


 朝倉は顔をしかめた。


「失礼だな。立派な“真実”じゃないか」


 朝倉はズボンのポケットから、コエダメに隠してあったものと同じ形体の盗聴器を取り出し、誇らしげに掲げてみせた。


「こいつは音しか拾えない。君の目で何を見たのか、そいつを知りたかったんだ」


 華世は頭の中で膨らみっぱなしだった一つの疑問を、今解消すべきだと察した。


「先生たちに盗聴した内容を聞かせたみたいだけど、一体どういうこと? あの時確かに、夏目さんは壁の中から盗聴器を取り出したはずなのに……」


「そんなの簡単。穴の中に二つ入ってたんだ。夏目は一つしか取り出せなかった」


 単純で明快。華世は大いに納得した。


「こいつらの能力を最大まで活かす環境として、コエダメの右に出るものはない」


 小銭入れのような盗聴器を指先で撫で回す朝倉の姿は、孵ったばかりのヒナをいつくしむ勇壮な親鳥を思わせた。


「窓から特ダネでも飛び込んでくるわけ?」


 嘲笑すると、朝倉の不快げな表情が華世をねめつけた。


「校内でも特に劣悪した空間において、生徒や教師は、コエダメでは半ば理性を失い、思うままに心の内を明かした。藤堂をコエダメに呼び出せと君に助言したのも、あの廊下にそれだけの力があったからさ。だから僕が入院してる間も、コエダメにだけはこいつを仕掛けておくようにって、後輩には強く言い聞かせてた。けど、本当に重要なのはそんなことじゃない」


 朝倉は心躍らせるように息を弾ませた。


「毎日のように町内中をまわってバカ騒ぎし、校内の裏事情にも図抜けて詳しい不良たちは、僕にとってネタの宝庫だ。彼らが三人も集まれば、耳寄りな情報を盗み出すのには十分だった。会話内容をまとめて本にして、金儲けできるくらい濃厚だろうね。そうでなけりゃ、僕が藤堂と夏目の関係を知ることなんてなかったさ」


 華世の中で再び大きな疑問の風船が膨れ上がり、以前から抱えていたそれと重なって大きな一つとなった。


「藤堂が言ってたよ。夏目のためなら手段を選ばないって。前から気にはなってたんだけど、まさかあの二人って……?」


「ご想像どおりさ」


 歯茎が見えるほどニンマリ微笑む朝倉の口元は、縦に長い顔の半分を占めているように見えた。


「誰もが羨むお似合いのカップル。かなり異質な雰囲気をかもしてたけど、あの二人が特別な絆で結ばれていたのは確かだよ。夏目の一途な愛が、藤堂のプライドに火をつけさせたんだろうな。そんな二人が、ある日突然、僕に選挙に関する秘密の計画を打ち明け、協力してくれと頼み込んできた。僕がどういう人間なのか、気付くのにかなりの時間を要したみたいだ。飛んで火に入る夏の虫ってところだね」


「じゃあ、あんた初めから……」


「そうさ。藤堂たちを裏切って、計画のことを全部記事にするつもりだった」


 一つの記事を書き上げるために、ここまで冷酷になれる人間がこの世にいるのかと、華世は絶句してしまった。目の前でほくそ笑む男の心は、学校中の不良たちを束にしてもかなわない程ねじけていると、華世はそう確信した。


「そんな顔しないでよ」


 華世の愕然とした顔を覗き込みながら、朝倉は無邪気に笑っている。


「君がいなけりゃ、あの二人の不正を決定的なものにすることはできなかった。こう見えて、柴田さんには感謝してるんだよ」


「あんたの片棒をかつぐつもりじゃなかった」


 後悔の念に押し潰されそうになりながら、華世は暗い声で呟いた。


「あたしはただ、瀬名くんを助けたかっただけだもん。確かにやってきたことは間違ってるけど、でも、あんたがこれ以上あの二人を追い詰める理由なんかどこにもないじゃない。そっとしといてあげなよ」


「ん〜……柴田さんがそこまで言うなら……」


 朝倉はそこまで言って、その大きな目玉でギョロンと華世を見上げた。心の内側をえぐられるような感覚に、華世は視線をそらさずにはいられなかった。


「柴田さんがそこまで言うなら、交換条件だ。君のことを記事に書かせてくれ。そうしたら、藤堂と夏目のことにはこんりんざい関らない。どう?」


「やだ」


 華世は即答した。否定したはずなのに、朝倉はとても嬉しそうだった。


「いいじゃないか。君が承諾すれば、あの二人の悪事が大っぴらになることはないんだよ? 悪いようには書かないからさ」


 朝倉のライター魂を目の当たりにした華世は、その執念のがめつさに思わず感服してしまった。これほどのやり手から逃れる手段など皆無に近いのだろう。抵抗するだけ時間の浪費だと、華世は判断した。


「はいはい。好きにすれば」


 華世は不承不承言った。


「決まり!」


 朝倉はギブスに覆われた足を思い切り振り上げながら喜んだ。


「一体あたしの何を記事に……」


 華世の全身を鳥肌が疾駆していった。薄暗い廊下からこちらを見つめる強い視線と気配を感じた。反射的にドアの向こう側へ視線を走らせる。何者かの影が半分開いたままのドアの後ろでうごめき、遠ざかっていく足音が微かに聞こえた。


「誰かいた! 聞かれてた!」


 華世は不安に追いやられて立ち上がっていた。


「顔を見た?」


 朝倉はバカみたいに冷静だった。


「見えなかった。でも、男子だった気がする」


「別にいいじゃないか。僕だっていつも聞いてる」


 盗聴器を耳元でユラユラさせながら、朝倉は誇らしげに言った。華世はもううんざりだった。


「ほんと、あんたといるとロクなことない。もう戻るから」


 不安と憤りの入り混じった足音を響かせながら、華世は美術室を出ていった。


「学校新聞の配布は六月最後の日だよ!」


 朝倉の声が遠くの方から聞こえてくるのを、華世は完全に無視して歩き続けた。




 六月最後の日は、華世が思っていた以上に早くやってきた。

 空には珍しく純白の雲が漂い、心地良い鳥のさえずりが聞こえてくるというのに、華世の気分は鉛をたっぷり飲み込んだようにひどく落ち込んでいた。朝倉がどんな記事を書くのか、華世はまだ知らなかった。

 朝倉が面白がって記事にするようなことを、華世は何かしただろうか? 

 朝のHR。柏木が配る学校新聞『春夏秋冬』が手の中に届く直前まで、華世はずっとそのことばかり考えていた。

 新聞は『藤堂渉 生徒会長を辞退』の大見出しで始まり、『瀬名雄吾 繰り上がり当選で“してやったり”……しかし拒否』の記事で終わっていた。結局あの後、瀬名は生徒会長の座を蹴ったのだ。理由は「最初からフェアじゃなかった。いらない。また来年頑張る」だそうだ。

 安堵も束の間、隅の方をよく見てみると、どこか見覚えのあるセリフが小さく記されていた。


『私は生徒会なんてやりたくない!』


 華世は血の気が引いたが、震える眼球がその文面を読むことに何の抵抗も示さなかったのは確かだった。こう書かれている。


 今ホットな話題をピックアップだ。

 先日行われた生徒会役員・放送演説会において、梅雨の湿った緊張感の中、こんな名言を残した生徒がいる。


 <私は生徒会なんてやりたくない!>


 学校創立以来の珍事である。しかし、「だったら立候補すんなよ」なんてツッコミは、ここではタブーだ。なぜなら、今このセリフが密かなブームを巻き起こしているからだ。

 生徒はみな、退屈で嫌いな授業が始まると口を揃えて「俺は授業なんてやりたくない!」と悲鳴を上げる。はたまた、掃除当番がやたら面倒な時、「私は掃除なんてやりたくない!」と集団でのボイコットが始まる。

 追い込まれた土壇場でこんな自己主張をやってみせたのは、二年五組の柴田華世である。その気迫に根負けして、ついうっかり、やる気のない彼女に票を入れてしまった者も少なくはないだろう。


 我々は、もっと強く自己主張すべきなのである。理不尽な物事には屈強な勇気を示し、自分の意思を何よりも尊重できる“クセ”が必要だ。やがてそのクセは自信に溢れ、活路を開き、未来を築く大きなきっかけとなる。しかし、前述のような筋の通らない主張はただのワガママであり、自身を評価する点では意味を持たない。

 自己主張とは勇気の象徴だ。孤高の中、独りで戦える者はより強く、言葉に信頼性があれば尚良い。再び称賛しよう、生徒会へ立候補した生徒の一人一人に……その多大なる勇気に。


 さて、七月に迫った学校祭で、あなたは何を主張する?





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