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TIKARA  作者: 南の二等星
12/16

第十一話 自分を演じて何が悪いの?

「夏目さん……どうして?」


 疑念を込め、それでも平静を保とうと意識しながら、華世は震える声で聞いた。そんな華世を、夏目は嘲るような視線で見下ろしてくる。


「そうよね。柴田さんには知りたいことがたくさんあるだろうし、その権利もあるでしょう。藤堂をここに呼び出した勇気も評価しなきゃね。でもその前に……」


 夏目はその細く長い腕を、いきなり壁の穴の中に突っ込んでまさぐり始めた。そして、中から手にすっかり収まるほど薄い、謎の銀色の機材を取り出した。ちょうど、角ばった小銭入れのような形をしている。

 夏目は側面の小さなスイッチを押し、満悦そうにポケットにしまいこんだ。華世はまばたきもせずにその様子を窺っていた。


「朝倉の意志……言わば、録音機材。別名『盗聴器』。あいつはこれを幾つも使って、学校中の噂話や個人的な情報をかき集め、記事を書いてたの。そして、その隠し場所の一つがコエダメの壁の中だった。スイッチを入れたのは、朝倉の後輩あたりでしょうね」


「じゃあ、藤堂さんを“コエダメに呼び出せ”って言ったのは、このやり取りを盗聴して記事にするため……?」


 華世は自分の言っていることが信じられなかった。


「それが朝倉のやり方だ」


 藤堂がフラフラと歩み出た。


「そして彼は、僕らの計画を遂行する上では最高の存在であり、森下は僕の最高のパートナーだった」


「森下って、いつも校内でナンパしてるあの森下のこと? 一体どういう意味?」


 華世はもう訳が分からなかった。できるものなら、五分ほど時間を止めて考えに耽りたかった。


「順を追って話してあげないと、柴田さんが混乱しちゃうじゃない」


 夏目は藤堂にたしなめると、華世の方に悠然と向き直った。その風格たるや、あの藤堂が幼い子供に見えるほどだった。


「まずは、そうね……私たちの計画から話しましょうか。率直に言うと、生徒会長候補の藤堂を、選挙で勝たせて任命させることが計画の真意なの。私たちはそのために、様々な手を尽くしてたってわけ」


 それまでの苦悩を思い返すような苦い表情のまま夏目は言った。


「この計画に朝倉を利用しようと考えたのは、学校新聞というメディアを使って藤堂の名を広めようと思い立ったから。一つでも多くの票を得るには、藤堂の“日頃の行い”を学校中に周知させる必要があった」


「朝倉がどの記事を……?」


 華世は素朴な疑問にぶち当たった。夏目は顔をしかめた。


「柴田さん、学校新聞に目を通したことある?」


 華世は首を横に振った。学校新聞の『春夏秋冬』は定期的に生徒たちへ配布されたが、華世は間違ってもそれを手に取って読むなんてことはしなかった。新聞を『見る』ならまだしも、『読む』ことになると、華世にとっては時間を浪費するだけでしかない。


「藤堂が“良い人”であることを広める一番のやり方は、朝倉に記事を書かせること。だけど朝倉は、真実しか報道しないことで有名なプライドの高い奴。そこで私たちは、その真実をでっち上げることにしたの。森下に女の子を口説かせ、藤堂がそれを華麗に叱責する……浅はかな演技を、誰もが信じていった。助けられた女子は藤堂の名を知り、やがて噂は広まり、朝倉も藤堂のことを記事にするようになった。思惑通り、藤堂の株は右肩上がり。そうして、その時初めて、私たちは朝倉に計画のことを打ち明けた」


 華世はやはり首を横に振った。今度は、夏目そのものを否定した。


「そんな……だって、そんなの有り得ない。学校中を騙してたってこと?」


「まあ、悪く言えばそんなところだな」


 藤堂が空っぽな表情でぼそりと声を投げかけた。まるで、自分がやってきたことを何も自覚していないような態度だ。


「朝倉は頑固で扱いづらい奴だったけど、記事のネタをちらつかせれば簡単に手なずけることができた」


 窓を伝う雨音に溶け込ませるように、夏目は小さな声で続けた。


「藤堂が選挙で勝つには、自身の名を広め、同時に、最大のライバルを蹴落とすことにあった。昨年、僅差で藤堂に敗れた一人の男子生徒を、私たちは今回の要注意人物の一人として数えた。……瀬名雄吾のスキャンダルが、私たちにはどうしても必要だった」


「だが、それは彼にとっちゃたやすいことだった」


 夏目の背後から藤堂が言った。至極静かに、ゆっくりと、藤堂が夏目の真横に並んだ。


「僕は瀬名くんの兄である瀬名大吾が、大麻所持で逮捕されていたことを知っていた。そこで、今年の選挙を決定的なものにするため、そして彼を陥れるため、僕と森下はもう一芝居打とうと計略した」


「最低ね。人間のクズよ」


 喉元からたぎる憤然とした言葉が、華世の口を突いて飛び出していた。しかし、藤堂はただ冷笑している。まるで、東京タワーに向かって小石をぶつけるような感覚だ。


「夏目が言った通り、朝倉は真実しか報道しない。瀬名くんの特ダネを餌に朝倉を言いくるめ、あいつにカメラの設置を促すのは容易なことだった。四月のある日、僕は瀬名くんを会議室に呼び出した。直後に森下が現れ、仕掛けられたカメラの前で瀬名大吾のことを暴露する“はず”だった……」


 とびきり嫌なことを思い出してしまったかのように、藤堂が低く呻いた。その時何が起きたのか、華世はその場にいる誰よりも詳しく知っているつもりだった。


「鬼山に邪魔されたのよね。ざまあないわ」


 言ったそばから藤堂に睨まれてしまったので、華世は逃げるように夏目のスカートの裾あたりに視線を泳がせた。


「鬼山勝二……会議室の前で待機していたら、いきなり喰って掛ってきやがった。どこで嗅ぎつけたのか知らないが、あいつ、僕と森下の計画のことを全部知ってるみたいだった。僕は森下に計画失敗のメールを送り、『歯を折られたくなかったらさっさと消えろ』と脅されたので、一目散にその場から逃げ出した。計画は失敗だった」


 藤堂が説明するかたわら、夏目のため息が聞こえた。


「同じ男なら一発くらいかましてやりなさいよ」


「できるもんならとっくにやってるぜ」


 藤堂が反論したが、夏目は無表情のままじっと睨み返していた。華世は、泳いだ藤堂の視線が自分のスカートの裾あたりで据わるのを見た。


「敗因は鬼山だけじゃなかった」


 視線を落としたまま、藤堂がうつろな声を響かせた。


「僕としたことが、翌日に健康診断が控えていたことを忘れていた。そのせいで、君たちがその場に居合わせてしまった。首尾よくいけば、瀬名くんは森下の挑発に乗って瀬名大吾のことを話し、カメラがその一部始終をとらえるはずだった。そうすれば、朝倉に記事を書かせることができたんだ。あいつはそういった類のネタが大好物だからね。だが、泣きっ面に蜂……しまいには、朝倉が回収するはずだったカメラが先に見つかった。無論、誰もがそのカメラを、健康診断を盗撮するものだと信じて疑わなかった。そのことが、更に事態を悪化させた」


 藤堂は小さく身震いし、肩をすくませると、再び口を開いた。


「カメラを仕掛けたのが朝倉だと知れるのは非常にまずかった。朝倉が口を割れば、僕たちの計画が明るみに出るのは時間の問題だ。だがそれは杞憂だった。誰も朝倉のことを疑おうとはしなかったんだ……ただ一人、神崎美奈子を除いてね」


 華世は毅然と顔を上げた。今度はしっかりと藤堂の目を見た。藤堂の落ち込んだ視線の先は、まだ華世を見てはいなかった。


「美奈子は正しいことをしたのよ。朝倉は……あなたたちは、美奈子の心に深刻な傷跡を残した。一生ぬぐい切れない傷を……」


「そのことに関しては深く反省してる。先週話したように、神崎さんにはひどいことをしたと、心からそう思ってる」


 華世の瞳を見つめながら藤堂が言った。華世は夏目を睨んだ。


「ええ、そうね。悪かったわ。同じ女としては、本当に許しがたい行為だものね。でも少しだけ良い訳させてくれる? あれは朝倉が勝手にしでかしたこと。誰の命令でもないわ」


 華世を見据える夏目の瞳に、偽りはなさそうだった。


「僕たちが朝倉と縁を切ろうと決めたのは、そんなことが起こったからだ」


 藤堂が続いた。


「朝倉の独断による暴走は、僕たちを怖がらせるには十分すぎるほど残忍だった。そんな奴が、いつ手の平を返して僕たちの秘密を吹聴するか分からない。朝倉は危険な人物だと、気付くのにかなりの時間がかかってしまった。朝倉を遠巻きにする最善の策を練っていた時、あいつは階段から落ちて入院した」


 華世は悠然と腕を組んで鼻を鳴らした。


「そう。朝倉の存在が邪魔になって、それで階段から突き落としたってわけ?」


 藤堂は当惑そうに瞬きを繰り返し、夏目と目配せした。


「ずいぶんね。柴田さん、あなた刑事ドラマの見過ぎじゃない?」


 夏目はせせら笑ったが、藤堂はいかにも憤怒した顔つきで華世を睨んだ。


「僕たちはそこまで卑劣じゃない。それに、朝倉を突き落とすくらいなら、まず瀬名くんの名誉を突き落とすことに専念してるよ」


 ずいぶんうまいこと反論したなと感服しながら、華世は朝倉の言葉を思い出していた。


「でも朝倉は、誰かに背中を押されたって……背後に人の気配を感じたって、そう言ってた。あなたたちじゃないとしたら、一体誰?」


「さあね。朝倉を恨んでた人たちならたくさんいるでしょう。一体あいつが、今までにいくつの犠牲の上でその栄誉を掴んできたと思う? 柴田さんや神崎さんだって、その内の一人じゃない。違う?」


 夏目の的を射た指摘に、華世は逆に追い込められてしまった。しかし、華世の背後に広がるのは、延々と続く廊下という名の逃げ道である。まだまだ、戦える。


「どうしてあたしだったの?」


 荒涼とした雨音に満ちたコエダメの沈黙に、華世が終止符を打った。薄暗い廊下の中央で、夏目の輪郭がボーっと浮かんで見えた。華世のことをいぶかしげに見つめている。


「夏目さんが書記の生徒会に誘ったのが、どうしてあたしだったのかなって……」


「誰でも良かったのよ」


 夏目は淡々とした口ぶりで答えた。


「正確には、瀬名くんと同じクラスなら誰でも、って意味だけど。柴田さんと出会ったあの日、私は落ちた答案用紙を見て、あなたが二年五組であることを知った。その瞬間、これは絶対のチャンスだと察したわ。瀬名くんと同じ役員を目指す同志を作らせることで、彼との距離を縮めてほしかったの」


「なぜそんなことをする必要があったの?」


 何でも知りたがる好奇心旺盛な子供よろしく、華世は思い当たった疑問を素直にぶつけた。そうでもしないと、この高ぶる感情を抑制することはできそうになかった。


「最終的にはあなたを利用して、瀬名くんの監視役にしようと考えたからよ。彼にヘタな行動をされると厄介だもの。……でも、この計画はほとんど失敗だったんだけどね。柴田さんが私たちの期待以上に瀬名くんと親密になっちゃったせいで、この件をあなたに伝えるのはむしろ危険だと判断したの」


「瀬名くんとどんな仲であろうと、あたしはそんなスパイじみたことしません」


 華世は大きな自信の下でそう豪語した。夏目がわずかに口元を緩ませてうなずきかけた。


「でしょうね。今の柴田さんを見れば、自分の考えがどれだけ浅はかだったかが分かるわ。でもね、私たちには違う幸運が巡って来たの。あなたが書記委員になったことで、私は選挙管理委員の特権を活かし、あなたを投票開示時の書記役として推薦することができた」


「どういうこと?」


 華世が尋ねると、しばらく押し黙っていた藤堂が一歩前へ踏み出した。


「君のクラスから名乗りを上げた選挙管理委員が誰だったか、覚えているだろ?」


 掘り返した記憶の中から、ある男の姿が浮かんで見えたのはすぐ後だった。


「五十嵐……」


 華世が囁き、藤堂が小さくうなずきかけた。


「五十嵐の過去も、鬼山との関係も、すべて調査済みだった。何の実績もない、不良の道でも半端者の五十嵐が選挙管理委員をやるなんて、まったくおかしな話だ。だとすると、鬼山が彼に管理委員をやるように命令したとしか考えられない。理由は一つ、瀬名くんを選挙で勝たせるためだ」


 目の前の男は、まさにあり余った強い自信の中でその言葉を言ってみせた、という風貌だった。しかし華世の場合、その男の言っている意味が不明瞭すぎて、口を開けたまましばらく呆然としているしかなかった。


「確かに、五十嵐が委員会をやるなんておかしな話だけど、それを、鬼山が瀬名くんを助けるための手段だったとは考えにくいよ。普通なら、その逆だと想像できるもの」


 最後にそう加えたものの、華世自身、鬼山がそんな卑怯な奴じゃないことは十分承知していた。


「裏で鬼山が絡んでくるとなると、どうしてもマイナスのイメージばかりがよぎってしまいがちだ。瀬名くんが大の不良嫌いとなると尚更だ。だが、鬼山がもし瀬名くんを落選させたいと望んでいたのなら、なぜ会議室で僕たちの計画を邪魔する必要があったんだ? 鬼山が初めからすべてを知っていたとなると、あながち僕の予想もハズレではなさそうだろ」


「でも分からない。瀬名くんのことを嫌っていた鬼山が、瀬名くんを助けようとするその理由が」


 華世はずっと当惑していた。梅雨の雨雲が晴れ空を隠してしまうように、鬼山の心に立ち込めた暗雲はその素顔をも覆い隠してしまっているようだった。


「明確な理由を判断することは難しいが、このままでは僕の身が危険だ。そこで、君を投票開示の書記として推薦したわけだ。これが何を意味するのか、君は分かってるはずだよ」


「五十嵐の不正を阻止するため、ですよね」


 華世は分かりきった数学の問題を解答する要領で、あっさりとそう答え、更に続けた。


「でも、ずるい話ですよね。あなたたち自身のことは棚に上げて、五十嵐の不正は許せないだなんて」


「彼が不正をするかどうかはまだ分からない。言わば、君は保険みたいなものだ。もしもの時のね」


 藤堂の満悦げな小さな笑みは狡猾に染まり、薄暗い廊下に不気味に漂って見えた。華世は、段々と落ち込んでいく気分とは裏腹に、目の前の二人には異様なまでの憤りを高めつつあった。


「結局あたしは、あなたたちの手駒でしかなかったわけね」


 やり場のない怒りが、胃の中でぐつぐつと煮えたぎるようだった。


「生徒会に誘ったのだって、投票開示の書記に推薦したのだって、全部あたしを騙して利用するためだったからでしょう? 何かあたし、バカみたいじゃん。自分に自信が持てたとか言って、一人で張り切っちゃってさ……」


「柴田さんはバカなんかじゃないよ!」


 自暴を始めた華世に向かって、夏目が一際大きな声でそう言った。華世はその時初めて、夏目の素に出会えた気がした。これで安心だ。どうやら、夏目はまだまだともな側の人間らしい。少なくとも、人としての情を忘れてはいないようだった。


「どうしてここまでするの? 学校中を騙して、人を道具みたいに扱って、どうしてそこまでして生徒会長になりたいと思うの? あなたにとっての生徒会長って何?」


 失意の闇の中で、華世は声を張っていた。雨足は風に乗って強まり、より大きな音を上げて窓を打った。


「君はおかしなことを聞くんだな」


 より強まった雨音にかき消されそうなか細い声がそう言った。言い終わる頃、その口元には冷笑がまとわれていた。


「生徒会長の座こそ、僕に最も相応しく、最も高貴な名誉じゃないか。クラスではみんなの人気者で、学校では悪党を退治する英雄だ。成績優秀。皆勤。弓道部では部長を務め、後輩や教師たちからも大きく信頼されている。重厚、穏和な性格は、弱い者には味方し、強い者には勇ましい。……そんな僕が行きつくべき高みがどこか、もう言うまでもないだろう」


 自画自賛の言葉の数々を耳にして、華世はヘドが出そうな思いだった。流暢に喋り終わった時の藤堂の満悦そうなツラが、込み上げてくる胸糞の悪さに輪を掛けていた。


「何を言っても、今のあなたじゃ信憑性に欠けるわね。一体、どこまでが本気で、どこからが演技なのか、あたしにはその境が分からない」


「鈍感ね」


 チクリと感じる注射針のように、夏目が鋭い口調でそう言った。


「何が?」


 華世は荒っぽく大胆になってそう聞いた。眼前の二人に自分の非を指摘されるのは、無性に腹立たしくてやり切れない思いだった。

 夏目は物憂げに華世を見つめた。


「あなただって、ずっと自分を演じてたじゃない」


 華世は更に困惑した。夏目は瞬きもせずにこちらを見据え、続けた。


「後悔の過去と、明瞭な現実と、漠然とした未来。その流れの中を、私たちは懸命に逆らいながら生きてきた。向こう側にあるはずの安息を求めてね。その束の間の安らぎのために、仲間を裏切り、他人を陥れ、自分を本質以上に強く見せてきた。……ねえ、自分を演じて何が悪いの?」


 華世の口から、もう言葉は出てこなかった。この二人が抱える自我の意志が余りにも強すぎる。それに、夏目の言い分はもっともだった。華世が己を大きく見せるために背伸びをして生きてきたことは、明日に迫った役員選挙が何よりも明確にその事実を証明している。華世は華世らしくいなさいと奈津美から言われたのは、つい昨日のことだ。


「僕が僕以上の存在であるには、こうするしかなかった」


 話し手が藤堂に移っていた。二人はこの時のための訓練を重ねてきたかのように、息もピッタリだった。


「自分のため、大学受験のため、将来のため。そして、夏目のためなら、僕は手段を選ばない。高みを臨み、プライドの許す限り、どこまでも這いつくばってやる。話はここまでだ」


 藤堂の奇妙に鋭利な視線が、華世の背後を捉えていた。夏目も一緒だった。その時になって、華世は初めて自分のすぐ後ろに人の気配を感じた。

 振り向くと、そこに瀬名が立っていた。微塵の気配もなかったので、床から湧いて出たかと疑うほどだった。その青白い顔は藤堂と同じくらいやつれていた。


「おはようございます、藤堂さん」


 瀬名は驚いた様子の華世など空気も同然に無視し、獲物を傍観する雄々しい獅子のような眼で藤堂をねめつけていた。それは、どちらが上の立場かを確固とした、瀬名の自負心の象徴のようなものだった。


「やあ、瀬名くん。調子はどう?」


 穏やかな二人の間に目には見えない電流がほとばしる様を、華世は最前線で感じていた。荒ぶる静電気が、髪の毛をビリリと撫でていくようだった。


「問題ありません。全て順調です」


 瀬名は答えたが、血相の悪い顔はこの薄暗いコエダメでも隠しきれていなかった。


「藤堂さんこそ、何かやり残したことはありませんか?」


 瀬名は言って、あけすけに軽蔑した視線で夏目を一瞥し、それから再び口を開いた。


「そんなことになったら、今までの努力が無駄になってしまいますからね」


 藤堂の顔がわずかに歪むのを、華世は見逃さなかった。瀬名の挑発に、藤堂が翻弄され始めている。


「いい選挙になるといいわね、瀬名くん」


 夏目は突然そう言って、藤堂の肩にそっと触れると、こちらに背を向けてコエダメから去って行った。藤堂は動かなかった。瀬名と向かい合ったまま、何か反撃の言葉を模索しているようだった。


「明日、放送室で会おう」


 二人はしばらく憎み合うような睨みをぶつけていたが、突拍子もなく回れ右をし、互いに背を向けたままその場を離れていった。華世は完全に蚊帳の外だった。




 心に辛苦な思いをぶら下げていると、なぜか時間の流れは加速するものだ。華世が藤堂と夏目との会話を鮮明に思い返すことになったのは、翌日の昼休みのことだった。

 午後に放送演説を控えていた華世は、美奈子と一緒に昼食を食べていた……つもりだった。好物ばかり詰め込まれた弁当箱を目の前に、箸も食欲も進まない。まるで、胃液が胃袋を全部溶かしてしまったようだった。


「食べなよ」


 美奈子が案じ顔で声をかけた。


「うん……でもさ、胃袋がなくなっちゃったみたい。欲しくないもの」


 華世は器用にも、これからの選挙のことと、昨日あったことを同時に思い出していた。それだけでお腹はいっぱいだった。


「そんなこと言って、お腹の音が放送されちゃっても知らないよ。ほら、『あーん』して」


 言われるまま小さく口を開くと、美奈子は自分のハンバーグ弁当からポテトをつまみ上げ、華世の口の中へ強引に押し込んできた。


「はい、よくできました」


 むせ込む華世を眺めながら、美奈子は嬉しそうに言った。華世は怒鳴ってやろうと涙目を向けたが、美奈子が本当に楽しそうに笑うので、そんな気は吹っ飛んでしまった。


「美奈子って昔よく、走りながら人の耳の中に綿棒を突き刺してたでしょ?」


「何それ、意味分かんない」


 美奈子はまた笑ってくれた。華世はその度に、緊張で落ち込んでいた気分が元気付けられていくのが分かった。そのお陰か、休みが終わる頃には弁当箱の半分をたいらげることができた。


「安心して。例え演説を放棄したとしても、私は華世に票を入れるからさ」


 そう言って、美奈子は華世を送り出してくれた。教室を出ると、廊下で瀬名が待ってくれていた。瀬名は昨日よりも更に衰えてみえた。頬がこけ、頭髪は所々がねじれてくしゃっとなっている。


「スピーチはうまく書けた?」


 会場となる放送室へ向かいながら瀬名が話しかけてきた。


「うまくは書けなかったけど、徹夜した甲斐はあったかな。瀬名くんは?」


 華世も聞いたが、この際、瀬名のスピーチのことはほぼどうでもよかった。今は、一日で三歳は老け込んでいく瀬名の顔色の方がよっぽど不安だった。


「僕の場合、春にはもう言いたいことがほとんど固まってたからね。でも、最後の仕上げにはやっぱり力を入れちゃって……。来週は中間テストだし、そっちの方にも手を回さなきゃならなかったから、なんだかとても疲れたよ」


 瀬名は笑ったつもりらしいが、疲労で輝きを失った瞳は死んだままだった。そのせいで、取ってつけたような笑顔になった。




 華世が放送室に入るのは初めての試みだった。

 中に一歩踏み込みと、蒸した空気が肌にまとわりついてくるのが分かった。様々な形状の機材に囲まれた放送室の壁は白一色で、清潔感のある綺麗なタイル張りの床が足元を覆っていた。

 中には既に、自分の番を待つ何人かの生徒たちが椅子に座って待機していた。どれも緊張した面持ちで、蛍光灯を仰いだり、落ちつかなげに辺りを観察したり、機材から伸びるコードがどこに繋がっているのかを目で追ったり、原稿用紙に目を通すなどして各々過ごしていた。


「お名前は? 何年何組?」


 右のこめかみ辺りからいきなり声が聞こえてきた。華世の背丈ほどしかない小さな女の先生が、二人のすぐそばに立っていた。ふくよかな体つきに、緊張した心を安心させるような優しい笑みを浮かべている。華世の知らない先生だった。


「二年五組の瀬名雄吾です」


 瀬名が歯切れ良く、快活に答えた。その瞳にはわずかだが、いつもの輝きが戻っていた。


「同じクラスの、柴田華世です」


 奥歯がガタつかないよう、なるべく大きな口を開けて華世は言った。先生は名簿らしきものを手元に広げ、赤ペンでチェックを入れた。


「はい。じゃあ、座って待っててくれる? 瀬名くんはあそこ、柴田さんはこっちね」


 候補役員順に並べられた椅子を赤ペンで指しながら、先生は丁寧に説明してくれた。華世が指示された椅子へ向かう際、さりげなく背中を押してくれたのはとてもありがたかった。緊張が腰からスーッと抜けていくようだった。

 静寂で張り詰めた教室の空気が、華世の気持ちをソワソワと掻き立て始めた。華世は耐え切れず、壁際に並ぶ生徒会長候補の席を眺めていた。藤堂を先頭に四人が縦に並び、一番後ろが瀬名だった。心なしか、間に挟まれた二人の生徒は肩身が狭そうだ。

 藤堂は腕を組んで悠然と前を向き、その横顔には確信させた勝利の微笑みをちらつかせている。瀬名は原稿用紙を持ち出し、指で文をなぞっては首を振り、かと思えば納得したようにうなずいたりしていた。


「時間です」


 自分の腕時計と放送室の掛け時計を見比べながら先生が言った。空気の流れが完全に止まった気がした。


「生徒会長候補の生徒から演説を始めます。呼ばれた生徒はこちらのマイクを使って演説して下さい。この上のランプが青く点灯している間は放送中です。私語や物音は控えて下さい。その他の注意事項は……」


 華世は耳を傾けてはいたものの、その内容はほとんど頭の中に留まっていなかった。耳の穴へ入った言葉は、脳みそへ辿り着く前にみんなその穴からこぼれ落ちてしまっていた。親指で栓でもしておきたい気分だ。


「以上です。それでは、藤堂渉くん、お願いします」


 藤堂はその余裕に満ちた優雅な自分の姿を見せつけるように立ち上がり、マイクの設置されてある、より機材の密集した机に向かって歩いていった。藤堂が席に着くと、先生が黒々とした機械の一つに手を伸ばし、赤いスイッチを押した。壁に埋め込まれた山型のランプが青く点灯した。

 藤堂の演説は“普通”だった。悪いわけではないが、これといった盛り上がり所もない。マイクを使った派手な独り言のようだった。だが、藤堂にはこれで十分だったのかもしれない。その広く知られた名声が最高の味方でいてくれる限り、これが無難なやり方だと言い切ってしまうのは、まったくもってその通りだった。

 後に続いた二人も、藤堂とほとんど代わり映えしなかった。『もっと校内の環境を改善したい』だの、『生徒会長としての責務を全うしたい』だの、政治家の寝言を聞いているようで、華世は頭の内側がむずかゆくなるのを我慢しなければならなかった。


「瀬名雄吾くん、お願いします」


 先生が遂にその名を呼び上げた。今や、華世は自分のことのように緊張していた。高鳴る心臓の音が余りに大きいので、耳の中で脈を打っているのではないかと錯覚するほどだった。

 瀬名が席に着き、先生がスイッチを入れた。輝きを失っていたランプが青く点灯するのと同時に、瀬名の顔に生気が舞い戻って来る瞬間を、華世ははっきりと目の当たりにした。その顔に、もう疲れの色は窺えない。


「全校の皆さん、こんにちは。今期、生徒会長に立候補しました二年五組の瀬名雄吾です」


 引き締まった声が放送室に広がり、少し遅れて廊下に反響するのが聞こえてきた。深呼吸二つ分の間を置くと、瀬名は続けた。


「僕が生徒会長を望む理由はただ二つ。指導、指揮していく場に立ち、『意識』と『校則』の変革を促すためです。歴史ある校訓に傷をつけようというのではありません。軸としてきた校訓よりも更に根本とする指針があるとすれば、それは生徒や教師による意識そのものです。法律やスポーツのルール、それこそ校則なんてものは、みな人間の下で創られ、人間の上に成り立つ、具現性のない漠然とした価値でしかなかったはずです」


「全校生徒の皆さん、誰か一人でも、生徒手帳に記されている校則を一から十まで読んだことのある方はいますか? 僕はありません。今後もないでしょう。なぜなら、意識しなくともルールは成り立つからです。制服の乱れや頭髪の脱色、アルバイト……赤信号を無視して渡るように、僕たちは影で、ごく当たり前のようにルールを犯している。言ってしまえば、校則の意義なんて無いに等しいのです。注意してくれる教師がいれば、ただそれだけで済むことですから。しかし、規制がなければ心は堕落し、自由を自由と呼べなくなってしまう。僕はみなさんに、意識変革の機会を提供する者として、生徒会長に立候補したのです」


「そして、僕のそういった意志は、校則への向上意識を衰退させる象徴というべき、“みだらな生徒”たちの徹底排除・改善へとつながっていきます。皆さんは、二階にある『コエダメ』と呼ばれる廊下をご存知でしょうか? その廊下には毎日のように“みだらな生徒”が溢れ、タバコを吸い、酒を飲み、ケンカをし、通ろうとする人には足とツバを引っ掛ける、まさに無法地帯と批判すべき空間です。知る人は恐れ、近づくことさえしないでしょう。僕はそれが許せません。ルールを違反する者が我が物顔でいて、自己を満足させるために好き勝手しているのです。それはただの迷惑であり、且つ理不尽の極みです。具体的な案の打ち出しは投票の結果次第ですが、僕は任期の許す限り、この問題に挑み続ける覚悟はできています。悪あがきは得意ですから」


「長くなりましたが、僕のスピーチはこれで終わりです。皆さんの清き一票、そして、校則への意識変革に目覚めるその意思を、お待ちしております。瀬名雄吾を、どうかよろしくお願いします」


 マイクのスイッチが切れると同時に、瀬名の中で張り詰めていた緊張の糸もプツリと切れたようだった。席へ戻る足取りはフラフラとおぼつかなく、すぼまったまぶたは今にもその役目を終え、深い眠りへついてしまいそうだ。

 瀬名の演説が前の三人より遥かに高レベルだったことは、今の華世にさえ理解できることだった。具体性に富み、瀬名の人柄がはっきりと伝わる内容だった。藤堂もそのことを認めてか、どこか悔しそうにマイクの方を睨みつけ、時折足を踏み鳴らしていた。拍手を送りたい衝動は、数分経った今でも華世の中に健在だ。

 副会長候補の二人と、書記候補の三年生二人が終わると、いよいよ次は華世の番だ。同じ書記候補者である二人が何を喋ったのか、ほとんど覚えてはいなかった。

 先生が名前を呼び上げる……立ち上がる……みんなが見つめる中を歩く……マイクのある席に座る……その行動の一つ一つに、やけに重力を感じた。まるで、スローモーション映像を頭の中で再生しているようだった。

 鈍い。原稿を手に取る動作も、先生がマイクのスイッチを入れる動作も、高鳴る心臓の鼓動でさえ、すべて鈍く感じた。いや、周囲が鈍くなったのではない……華世が極めて冷静なのだ。

 華世はマイクの下で原稿を広げた。しわの寄った原稿用紙は真っ白だった。


「皆さん、初めまして。二年五組、生徒会書記に立候補する柴田華世です」


 数分前までの緊張感は嘘のように、華世の中から綺麗さっぱり排除されていた。今、華世を突き動かすのは、『ありのままの自分を伝えよう』という気持ち、それだけだった。


「告白します。私の手元にある原稿用紙は、もらった時のまま、まだ真っ白です」


 華世はマイクに向かって声を張り上げた。学校中からこぼれるどよめきの声が、華世には聞こえた気がした。それでも尚、華世は続けた。


「ペンを握ってじっくり考えたものの、出てくる言葉は綺麗事ばかりでした。いつの間にか、自分を強く見せようと必死になっていたんです。でも、今日、ようやく答えが出ました」


 深く息を吸い、華世は力の限りで叫んだ。思いのたけの全てをぶつけるように……そして、華世のすべてをぶつけるように。


「私は生徒会なんてやりたくない!」





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