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TIKARA  作者: 南の二等星
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第十話 僕らの秘密

 学校新聞『春夏秋冬』が多くの生徒から好評を得ていたのは確かだった。新聞局長である朝倉仁が、校内で見え隠れする誰もが予測できなかった真実を収集してくるので、その人気は生徒どころか教師までにも及んでいた。

 注目を浴びた反面、彼の書く記事が問題視されることもしばしあった。一度は『スカートの丈が短い女子生徒ランキング(一位は膝上16センチの田所さん)』で厳重な指導を受け、一度は『担任の鼻を明かすコーナー(教師たちのトラブルや秘め事をさらけ出す、邪道な記事)』で停学処分寸前まで追い込まれている。

 朝倉の場合、一番厄介なのは、許可された新聞を刷る直前に記事を差し換え、監視役である担当教師の目をあざむく点だった。だが、ファンである生徒たち(一部教師)がその行為を心から期待していることもしかり、もっと過激な記事を切望していることもしかりだ。

 そんな男、朝倉仁が階段から転げ落ち、全治三ヶ月の重傷を負い、しまいには一ヶ月の入院生活に陥ったとなれば、朝倉ファンが黙ってはいなかった。ベッドの上で記事を書くべきだと意見する者もいたし、彼の記事が一ヶ月もおあずけになり、生き甲斐を無くしたと嘆く者も現れた。


 だが不謹慎にも、そのことを良く思う者もいた。神崎美奈子は、これにて学校の秩序は守られ、少し遅れて天罰が下ったのだと、華世に言って聞かせた。それは、彼の入院先が街外れの総合病院であると、教室で噂になっているのを盗み聞きした時のことだった。


「悪は絶対に裁かれるのよ。あいつが私にした悪行を記事にできないのは残念だわ」


 そう言って、美奈子は無機質な笑みを浮かべた。

 結局のところ、朝倉の件が美奈子の関心をそれ以上強く引くことはなかった。美奈子にとって一番の問題は、あのウサギの着ぐるみの中身が鬼山かどうかであって、階段を転げ落ちたのがオタクだろうがおむすびだろうが、そんなことはどうでもよかったのだ。

 華世の観点からするに、その後の鬼山の態度はとても歯がゆかいものだった。鬼山は態度にこれといった変化を見せず、いつもどおり熟睡し、いつもどおりタバコを吹かして下校した。

美奈子が朝倉に関心を持たないのと同様、鬼山にとっても、あの日の出来事にはただ無関心なだけかもしれない。元々、面倒事には首を突っ込まないタイプの男なのだ。




 六月を迎えた。

 窓の向こう側は、ぬるくてしめっぽい、空気が肌に重たく感じる季節に変わった。曇天は石炭を燃やした時に出るどす黒い煙そのもので、打ちつける雨は雨雲を雑巾のように絞った具合だ。

 学校内は、生徒会の役員選挙と前期中間テストがほとんど同時にやって来ることもあり、生徒たちの多くがいつもピリピリと気を立たせていた。雨により閉塞された空間と、梅雨の季節特有の蒸し暑さが生徒たちの集中力を奪い、襲いかかる焦燥感に拍車をかけ始めた。

 選挙を来週に控えた金曜日最後の授業は、柏木康人の化学だった。詰まる所、最上の安眠作用をもたらすこの授業は、疲れ切った生徒たちに至福の時間を提供してくれるというわけだ。

 あくびをしようが、うたた寝をしようが、熟睡をしようが、はたまた真面目にノートを取ろうが、柏木は取り分け無反応であった。生徒たちの多くが、テスト勉強で損なわれた睡眠時間をそのタイミングで補うくらいの理性は備えていたし、またそれが、内申はともかく、テストの成績に何ら影響がないことも知識の内の一つだった。

 柏木は相変わらず授業がヘタだった。


「生徒会に立候補する子が何人かいたよね?」


 終業のチャイムが鳴る二分前、柏木が唐突に切り出した。頬杖でゆったりとまどろんでいた華世は、失いかけていた意識の中で柏木の言葉を整理した。


「帰る前に僕のところへ寄ってくれ。演説の原稿やら何やら、色々と渡すものがあるからね。それと……鬼山」


 柏木は手に持っていたチョークをケースの中へ放り込むと、そのカラッポな眼差しで鬼山を見つめた。机の下から大きくはみ出した足も、胸の上で組まれた腕も、垂れ下がった首も、柏木を完全に無視していた。


「鬼山、君も後で職員室に来い。……おい、鬼山!」


 空気がわななくほどの怒鳴り声が、眠気で油断していた生徒たちの鼓膜を突き抜けていった。華世を含めたほとんど全員が一斉に頭を持ち上げた。


「僕を最高にイラつかせるのはいつも決まってお前だ」


 おもむろに顔を上げる鬼山に向かって、柏木が鋭く言い放った。変貌した口調の中で、声がわずかに震えている。


「僕は知ってる」


 柏木は優越げに続けた。


「どの授業でも、お前は寝てなんかいなかった。そんな姿勢で構えて、ずっと耳を傾けて授業を聞いてたんだろ。生ぬるい悪役を演じ続けて、いざとなったらヒーロー気取りか」


「一部違うな。あんたの授業だけは本腰で熟睡してた」


 柏木の顔は怒りに歪んだが、その口元だけは醜悪気味に微笑むのを華世ははっきりと見た。しかし今は、もうこれ以上はやめてくれと、鬼山を睨みつけるだけで精一杯だった。


「生意気な奴だ……後で職員室に来いよ。話がある」


 最後のチャイムが、残忍極まりない二人の会話に終止符を打った。張り詰めていた空気は若干和らいだものの、雨の静けさは教室中を満たしたまま離れなかった。




 十分後、職員室にいる柏木を訪ねたのは華世と瀬名の二人だけだった。


「鬼山はどうした?」


 出し抜けに、腹の中の苛立ちを当たり散らすような調子で柏木が聞いた。


「分かりません。二階の廊下ではないでしょうか? 放課後、あの廊下に不良たちがこぞるのはいつものことですし」


 瀬名が淡々と答えた。瀬名も華世と同じ、今の柏木の態度に憤りを感じているのはその語調からも明白だった。


「まあいい。あいつがその気なら、こっちにだって考えがある」


 ぼそりと呟き、手元のミネラルウォーターを一口含むと、柏木は華世を見つめた。途端に、華世は少し驚いた。半ば夢の中だった授業中には気付けなかったが、柏木の眼球はほのかに充血し、まぶたは赤く腫れぼったい。恋人と別れて泣きの一夜でも明かしたのだろうか?


「僕の顔に何かついてるか?」


 華世はとっさに視線をそらした。どうやら、柏木の顔を必要以上に注視してしまっていたらしい。


「いいえ。でも、目が……」


 その声に案じ色が含まれるように心がけながら、華世はさりげなく指摘した。


「ああ。軽度のものもらいだよ。たまにあるんだ」


 言って、柏木は再びミネラルウォーターのペットボトルを口元に運び、もう片方の手で原稿用紙を取り出した。


「演説会でのルールは簡単。放送室のマイク越しに、自分の書いてきたスピーチの原稿を読み上げればそれでいい。その後に全校生徒たちが投票し、その日の内に開示となる」


 用紙をそれぞれに手渡しながら柏木が説明した。


「演説成功のキーは、枠にとらわれず、自分の素直でまっすぐな気持ちをありのままにぶつけること。かつてあった、長いスピーチの手法は校長先生のせいでとっくにマンネリだ。大切なのは個性を主張すること。そして、斬新な発想力。これに限るね」


「今年の立候補者の傾向はもう出ましたか?」


 瀬名が尋ねると、柏木は教材の中に紛れていた赤いファイルを迅速に見つけ出し、手際良く机の上に広げて眺めた。


「全体的に立候補者のバランスが良いね。投票が面白くなりそうだ。生徒会長への候補者は、瀬名くんと前会長の藤堂くん、一年生の橋田くんに三年生の森くんの四人だ。書記は柴田さんを含めて三人。三年生の露木さんと、同じく三年生の松本くん。あっ、そうそう」


 柏木は忙しない手つきでファイルをめくり、途中にはさまっていた一枚のプリントを華世に手渡した。華世は訳の分からないままそれを受け取り、上から下まで眺めた。『書記委員会・投票開示の務め』と書かれている。


「是非、柴田さんにやってほしいと、選挙管理委員会から推薦がかかったんだ」


「これってたしか、選挙の投票結果を書記していく役目ですよね。それを何であたしが?」


 狐につままれたような表情で、華世はプリントと柏木を交互に見つめ続けた。柏木は、そんなことはこっちが聞きたいとばかりに、思いっきり肩をすくめている。


「さあね。僕はあそこの直属じゃないし、詳しいことは分からないよ。でも、生徒会立候補への影響はないみたいだし、リアルタイムで自分の投票結果が分かるんだから、やってみる価値はあると思うよ」


 もうここまで来たのだから、引き下がる理由なんか無いだろうと、華世は即座に考えを巡らせていた。しかも、選挙管理委員会から直々に推薦されたとなれば、尚更断るわけにもいくまい。


「はい、やってみます!」


 華世は歯切れ良く言ってみせた。たった三秒で答えは出ていた。


「伝えておくよ。では、二人とも、幸運を祈る」




「分からないなあ」


 教室へ戻る道すがら、瀬名が呟いた。


「あたしも。何を書いていいのかさっぱり分かんない」


 原稿用紙の端をつまんでブラブラさせながら、華世は呆然と答えた。


「いや、スピーチのことじゃなくて……僕が言いたいのは先生のことさ」


 放課後の生徒たちで騒がしい廊下の真っ只中で、瀬名は暗い声を出した。窓を打つ雨も手伝って、その横顔はより一層深刻そうに見える。


「あの鬼山を嫌う理由は分かる。けど、あそこまで露骨な態度に出てたら、近い内問題になるんじゃないかな? 先生を見てて、自分が何を言ってるのか分かってない時があるんじゃないかって、たまに心底不安に思う時があるくらいだ」


「ほら、前に柏木が『幽霊を信じるか?』って話をした時に、鬼山と一悶着あったじゃない? まるで、鬼山に何か大きな秘密を握られてるかのようなやり取りだった。柏木にとって、鬼山は遠巻きにしておきたい相手なのよ。……そして何より!」


 華世は語気を強めた。


「まさかあいつの狸寝入りが見抜かれるとはね。瀬名くん、授業中ずっと鬼山が起きてたってこと、気付いてた?」


「結構前からね」


 瀬名はニッコリ笑った。


「本当に熟睡の場合もあったんだろうけど、大抵の授業は目を覚ましていたんだと思うよ。鬼山は、今後の自分にとって必要のある授業なのか否か、それを明確に分別できる能力に長けているみたいだった。テストでトップの成績を取れたのも、それで納得がいく」


「あたしは小学生の頃から鬼山の居眠りを見てきたけど、一度だってそんな風に考えたことなかったよ。あいつが成績良いのは、生まれつきの天才だって信じてたからなんだもの」




 日曜日。

 華世は自室の机に向かい、まだ真っ白なままの原稿用紙を眺めていた。シャーペンをアゴでノックしてみたり、上の空で鼻歌を口にしたり、鏡に向かって最高の微笑みを投げかけたりしたものの、原稿用紙からは文字が浮かび上がってくる気配さえ窺えない。華世は、それこそ、用紙に水でも撒いて太陽の下に置いておけば文字が勝手に生えてくるだろうと期待していたので、考えてもらちが明かないものを無闇にほじくるのはよそうと腹を決めていた(問題なのは、灰色の雲が空を覆ってしまっていることだった)。

 故に、鬼山沙希からの連絡は華世にとってグッドタイミングだった。手元の携帯電話が華世を呼んだのは、シャーペンを宙に投げ出した直後のことだ。


「もしかして、できた? 千羽鶴」


 相手が沙希だと分かるや、華世は即座に尋ねた。


「うん! お姉ちゃんが手伝ってくれたおかげだよ。ありがとう」


 沙希の嬉々とした声が電話越しからでもはっきりと伝わってきた。美奈子の手伝いもあり、千羽鶴は予定よりもずっと早く、かなり低コストで完成したのだ。


「今からお母さんの所へ行くんだけど、お姉ちゃん、一緒に来てくれない? 勝兄はまだ帰ってきてないし、おばちゃんは家のことで忙しいって言うし。……一矢兄ちゃんは論外ね」


「いいけど、あたしなんかがお見舞いに付き添っちゃっていいのかな? 迷惑じゃない?」


「そんなことないよ! 前にね、お母さん、お姉ちゃんに会いたがってたもん。沙希がお姉ちゃんのことを話したらね、会いたいって言ってたよ」


「そっか! じゃあ、家まで迎えに行くから、待ってて」


 華世は上機嫌で家を出た。飽き飽きしていた原稿作りを回避するためのうまい口実ができて、気分は上質でとても高揚していた。空は曇っていたものの、カジュアルに決め込んだ華世の容姿にはむしろピッタリ映えている。

 軽快すぎた足取りが危うく華世の体を宙へ浮かべそうになった時、目の前はすでに鬼山宅だった。


「ピンポーン」


 インターホンの機械音に華世の声が重なった。五秒後には小さな足音が聞こえ、更に五秒後にはドアが開いていた。


「玄関で待ってて。すぐ行くから」


 出し抜けに言い残し、沙希はすぐに踵を返して家の中へ引っ込んでしまった。華世は言われるまま玄関で待ち、そこから居間を覗き込んでみた。以前、おばちゃんが衝動買いしてきたあの大きな青い壺が、窓際の台の上に置かれているのがはっきりと確認できる。おばちゃんの好みにタチの悪さを感じたのは、その壷の模様が無数の赤子の顔だったからだ。はっきり言って気味が悪い。

 結局、華世はそれから十分も動けずじまいだった。沙希は髪型が思うように決まらないらしく、たまに顔を覗かせては「ごめんね。もう少し」と言い残して姿を消した。その髪型は現れる度に変化を見せたが、最終的には赤いリボンで結んだツインテールに落ち着いた。


「待たせちゃってごめんなさい。ちゃんと準備しないと、お母さんに会う時恥ずかしいから」


 沙希は水色のボレロに、プリーツのあしらわれた白いドレスをまとい、片手には千羽鶴の入った大きな手提げ袋を持っていた。


「気にしないで。あたしの方こそ、化粧の一つでもしてくれば良かったくらいなんだから」


 よれたロングTシャツにジーパン姿の自分を恥ずかしく思いながら華世は言った。


「あっ、勝兄。お帰りなさい」


 二人が外に出ると、ちょうど、鬼山が帰宅したところだった。身につけた黒のダウンベストと茶のカーゴパンツは、鬼山が昔から好んでいた外出スタイルだ。おそらく、パチンコ屋の仕事から帰って来たところだろう。


「どこ行くんだ?」


 学校では絶対見せない、優しい温かみのある口調で鬼山が尋ねた。


「お母さんのところ。完成した千羽鶴を渡しに行くの。お姉ちゃんも一緒だよ」


 鬼山がじろりとこちらを見たので、華世は曖昧に笑っておいた。


「勝兄も行くでしょ?」


「俺は寝る」


 言うと、鬼山は財布をひっくり返し、小銭をあるだけ沙希に手渡した。


「交通費だ。余ったら花でも買っていきな」


 鬼山は二人の脇をのろのろと通り過ぎたが、またすぐにこちらを振り返った。その視線は、静かに華世を捉えている。


「何?」


 もどかしさに耐え切れず、華世は聞いた。


「柴田……いや、何でもない」


 そこまで言いかけて、鬼山は逃げるように家の中へ引っ込んでしまった。華世は、途中で注ぐお湯が足りなくなったカップラーメンの半端な残骸を思い出していた。


「うわぁ……後味悪いわね。でも、余ったお金で花を買えだなんて、息子らしいとこあるじゃない」


 その横で、沙希が小さな笑い声を上げた。


「でも見て、十円玉ばっかり!」




 二人はバスに乗り、街外れにある病院を目指した。

 学校よりもはるかに大きな総合病院に着く時には、小さな籠におさまったフラワーアレンジが華世の手の中で生き生きと花を咲かせていた。沙希は駆け出したい衝動を無理に抑え込んだような足取りで華世の前を歩いている。

 院内のロビーは、はるか頭上のガラス張りの天井まで吹き抜けで、広くて明るい構造になっていた。備え付けの長椅子にはたくさんの患者が座っており、純白のナースたちは沙希を見習うように忙しく歩き回っている。ナースとすれ違うたび、病院特有の消毒薬のにおいがより強く華世の嗅覚を刺激した。華世はこのにおいが苦手だった。

 二人は階段を上り、ほの明るい廊下をしばらく歩いた。


「こっちこっち」


 沙希は手招きし、数ある病室の内の一室に入っていった。ドアの横には紙に書かれた四人の患者名が記されていて、その中に『鬼山奈津美』という名があった。華世が部屋を覗くと、白いカーテンで仕切られた四つのベッドの一つに、見覚えのある女性が半身を起して座っていた。沙希を抱きしめている。


「また来てくれたんだ。ありがとう」


 沙希を抱きしめたまま女性が言った。鬼山奈津美、その人だ。美しく印象的だった長い黒髪はわずかに薄れ、笑顔の似合う愛嬌のある顔立ちにはえくぼが映えていた。


「お母さん、今日はね、プレゼント作ってきたんだよ。華世お姉ちゃんにも手伝ってもらった」


 沙希はまともに喋れないほど強く抱き寄せられていたが、苦痛で笑顔を絶やすことは決してしなかった。奈津美が入口で突っ立ったままの華世を振り返った。


「久しぶりだね、華世。おいで」


 華世はただうなずいて、吸い寄せられるように奈津美のベッドへ歩いていった。お腹のあたりを、奈津美が優しく抱擁してくれた。細い腕が、きゃしゃな体が、その優しい温もりが、華世を包みこんでいった。

 沙希のためにも、あの兄弟のためにも、この人を死なせるわけにはいかないと、華世は本気でそう思った。


「お久しぶりです、本当に。あの……これ、どうぞ。勝二からです」


 あんまりしゃべると堪えていたものが溢れ出してきそうだったので、華世はそばにあった来客用の丸椅子に腰かけ、手に持っていたフラワーアレンジでごまかした。奈津美はその青白い表情に小さな驚きの色を浮かべた。


「勝二から? そっか……」


 花びらを鼻翼に押しつけて、奈津美はその衰えた軟弱な体いっぱいに深く香りを吸い込んだ。たちまち、顔色に生気が戻ったように見えた。瞳が爛々ときらめき、口元は嬉しげに緩んでいる。


「沙希のも見て!」


 足元で紙袋を開くと、沙希は自分の背丈よりも大きく仕上がった千羽鶴を奈津美の視界いっぱいに広げて見せた。奈津美と一緒に、華世は思わず歓声を上げていた。沙希の手から溢れ出す千もの鶴たちは、グラデーションを彩る虹を帯びた滝のようだ。


「これ……本当に沙希が作ったの?」


「うん! お姉ちゃんと、お姉ちゃんの友達と、あと、勝兄にも一羽折ってもらったよ。お母さんの病気が良くなりますようにって」


 沙希はもう一度抱きしめられていた。鶴が潰れないように、片方の手を高々と掲げながら。


「お母さん……苦しい」


「死んでも離さないよ、沙希」


 その声は喜びに打ち震え、悲しみに歪んでいるようだった。娘を思う母の愛を、華世は直視することができなかった。


「お母さん、誰も死なないんだよ。だから泣かないで」


 奈津美は鼻をすすり、惜しむようにゆっくりと沙希から離れた。誰にも見られないように、華世は涙をぬぐった。


「ありがとう。勝兄とおんなじ、沙希も優しい子に育ってくれて、お母さん嬉しい」


 それから小一時間、三人はたくさんのことを話した。

 奈津美は、食事の時間がここ一番の楽しみであることや、カッコイイ先生を選別することが今の生き甲斐であると話してくれた(誰もが空気を読んだように、あの情けない、ていたらくな父親に関しては一切触れなかった)。

 沙希は母親の前で、その姉であるおばちゃんの悪口をまくしたてるのに何のためらいもないようだった。そんな奈津美も、昔からごう慢で自分勝手な姉を好いていなかったらしく、むしろ姉のせいで苦しい生活を強いられている沙希に同情してやるくらいだった。

 沙希と奈津美が口を揃えてするおばちゃんへの愚痴の中身は、世界中の突出した悪口をかき集めて出来たようなひどく恐ろしい様だった。聞いていて、華世は何度失笑を漏らしたか分からない。

 吐き出すだけ吐き出し、最後に『友達との付き合い方』を尋ねると、沙希は奈津美の膝の上に頭を置いてぐっすり眠り込んでしまった。


「ありがとう、華世。沙希のワガママ聞いてくれて」


 奈津美が改まったように礼を言った。しゃべり疲れたのだろうか、その表情には疲労の色が窺える。

 沙希の前髪を掻き上げ、額を優しく撫でてやるその光景は、どこかの美麗な絵画を眺めているようだった。


「いいえ、そんな。大事な親子の時間に割り入っちゃって、申し訳なく思ってるくらいです」


 頭を下げる華世を見て、奈津美は微かに笑った。


「もうすっかり大人だね」


 華世は面食らったように奈津美を見た。奈津美は疲れ切った笑顔で見つめたまま続けた。


「華世と勝二が幼稚園で出会ったあの頃から、あなたは私たち家族の一員だったんだよ。私も、沙希も、勝二も、それに一矢だって、あなたのことをずっと兄妹のように感じてた。だから、私の前では大人にならないで。ね?」


 華世はただうなずくばかりだった。胸の内側から喉をふさぐように込み上げてくる熱い感情を、唇を噛み締めることで抑え込んだ。奈津美の死という現実に、何も出来ない非力な自分が悔しくて、そして辛かった。


「もしかして、私の病気のこと知ってる? 余命のことも?」


 華世はしっかりとうなずいた。


「だいたいは勝二から聞きました。いつものあいつからは想像もつかないくらい、悲しそうな顔してましたよ。未だに受け入れられないって……」


「勝二にはいつも苦しい思いをさせてたわね……嫌な役回りはいつもあの子だった。父親のことだって、勝二には本当に悪いことしたと思ってる。私には何もできなかった」


「勝二と父親の間に、何かあったんですか? 父親が行方不明になってることも聞きました。あいつはそのことを良く思ってるみたいだったけど……」


 奈津美の手が止まった。目はまっすぐ前を見つめたまま据わり、その表情は悲哀に覆われていた。深入りし過ぎたようで、華世は少し後悔した。しかし、それは束の間だった。


「父親からの虐待が、まだ幼かったあの子に大きな変化をもたらしたのよ」


 奈津美がおもむろに切り出した。恨むべき者を把握しきった、しっかりとした語調だ。華世の感覚は、麻酔針で打たれたように鈍くなっていた。


「それってつまり……?」


 華世は考えようとしたが、とっさに諦めた。


「勝二が『フクロウ』と呼ばれ、恐れられる由縁。あの子はね、弱点を隠すために、あえて自分にそんなあだ名をつけたの」


「弱点? 勝二の弱点は、運動とチャリに乗れないことだったはず」


 華世は自信を持って指摘した。奈津美は笑ったが、表情にはすぐにまた暗い影が落ちていた。


「父親は……あの人は、酒の勢いで勝二をよく叱責した。ほとんど虐待だった。暴言を浴びせ、殴って、家の外に締め出した。目つきが気に入らないだとか、態度が悪いだとか……勝二もあんな性格だから、いつもあの人に反抗して、余計に逆上されて……私はあの人を止めることができなかった。そして、ある日を境に、勝二の生活は昼夜が逆転したの」


 輝きを失った奈津美の瞳が華世を静かに捉えた。華世は生唾を飲み込んだ。


「いつものように理不尽な説教が始まるとね、勝二は外まで引っ張られて行って、庭にある物置に閉じ込められた。一日中、ずっと、あの子の助けを呼ぶ声が聞こえてた。近所の人たちも不審に思ったでしょう……それでも私は、あの人の前では文句の一つも言えなかった」


「勝二は、完全に閉塞された暗闇の中で一日を過ごし、出てきた時は別人のようだった。げっそりと痩せ、爪は剥がれ、炎症を起こした喉はそれから五日も声を出せない状態だった。そして何より、あの子は夜に眠れなくなってしまった。華世……勝二はね、重度の暗所恐怖症だったのよ」


 まるで、医師から重い病気の宣告を受けたかのように、華世はその場で硬直していた。


「窓の外が暗くなるとね、勝二は今でも不安になるのよ。本人曰く、目を開けて、自分が今生きていることを実感しないと、生きた心地がしないそうよ。だから勝二がぐっすり眠れるのは、そんな不安と恐怖から解放された昼間の時間帯だけってわけ」


 華世はうんともすんとも言わなかった。鬼山勝二という存在が、未知なる謎に溢れた“宇宙”そのもののように思えてならなかった。そのことがとてもショックで、ついうっかり、声をどこかに忘れてきてしまったようだ。


「ごめんね。華世にこんなこと話すつもりはなかったんだけど……あの子、自分のことは話さないし、私もこんな状態だから、華世にだけは知っておいてほしいって、ずっとそう考えてたの」


「あたしに、そんな器なんかありません」


 華世ははっきりと言い切ったが、その口元にも、奈津美を見つめる眼球にも、本来あるべき正常な感覚がまだ少しも戻っていなかった。まるで、あらかじめ録音しておいた自分の声で会話している気分だった。


「あいつのことは、誰よりも知ったつもりでいました。でも、そうじゃなかった。あたしはいつだって利己的な考え方で、この前だって、その前だって、いつも自分中心でみんなを振り回して……」


「言ったでしょ、大人にならなくていいんだって」


 励ます側なのに、逆に励まされるような笑顔をされてしまったのは、華世にとっての不覚だった。しかし、華世の心はそんな奈津美の優しさで少しずつ満たされていった。


「華世が華世らしくいることを、私は一番に望んでるんだよ。無理に強がらないで、自分のペースでいいじゃない。だから、そんな華世にお願いがあります」


 沙希をそっと枕に寝かせて、奈津美はまっすぐに華世と向かい合った。


「勝二が困ってる時や、沙希が寂しそうな時、私に代わってあなたがそばにいてあげて。その時は無理をせず、華世らしく振る舞ってくれればそれでいい。私はあなたの意思を、強く尊重するし、深く信じてる」


 華世はいきなり立ち上がった。『立ち上がらなければいけない』と、突然そう思い立ったからだ。奈津美は目を丸くしてこちらに顔を向けている。


「あたし、自分に正直になります」


 自らを奮い立たせるように、華世は勇ましい口調でやにわにそう言った。


「柴田華世って子は、何の取り柄もない普通の女の子でした。目立つことが嫌いで、そんな自分に満足していたんです。でも、環境があたしを変えました。委員会に誘われたり、親友ができたりする内、もっと自分を磨きたいと思えるようになった。無茶に背伸びして、空回りすることもありました。でも、強がることも、自分に嘘つくことも、もうやめにします」


 鼻から深く息を吸い、吐き出すと、華世は更に続けた。


「この病院に、知人が入院してるんです。そいつ、親友を傷つけたひどい奴で、文句を言う機会を探ってました。親友のことを思って、ずっとそいつのことを避けてたんです。でも今、この高揚した気分をぶつけなきゃ、一生後悔すると思う……だから、ちょっとだけ待っててもらえますか? あたしの気持ち、ぶつけてくるので」


 奈津美がしっかりとうなずきかけるのを見届けると、華世は胸を張って病室を出て行った。ロビーに引き返し、受付のお兄さんに病室を訪ね、教えられたとおりに三階へと向かった。

八人用の大きな病室の一角で眠りこける男こそ、その朝倉仁だった。


「お見舞いに来てやったわよ」


 出し抜けの口調は、見舞いの花に代わり、お腹にいっぱいの悪態を詰め込んできてやったと言わんばかりだった。目の前に横たわる男が少なからず健全だと思えるのは、ここが病院の中だからだろう。刑務所の冷たい簡易ベッドだったら、ほとんど虫の息に思えたはずだ。

 ターバンまがいの包帯は特徴的だった金たわしのような頭髪を覆い隠し、右足はギブスに覆われて紐で吊るされ、かろうじて無事だった両腕(あざだらけの腕を無事と呼べるのは、他が余りにも痛々しく見えたせいだろう)はベッドの上に投げ出されている。美奈子を襲った男の成れの果てを、華世はさげすむような目で眺め続けた。

 朝倉のまぶたが重たそうに開いた。


「……柴田」


 かすれ出る朝倉の声は、とても弱々しかった。口から漏れる生ぬるい吐息が、男の残りわずかな生気まで一緒に吐き出してしまっているようだった。


「光栄ね。あたしの名前を覚えてるなんて」


「柴田……僕は覚えてる。神崎さんと、同じクラスメ−ト」


 それは、外人が覚えたての日本語を話すようなたどたどしい調子だった。


「あんたが襲ったのよ。美奈子の心に、深い傷をつけた。あたしはどうしても、あんたの行動が理解できない。意味はあるのに、それが分からないの。会議室のカメラだってそう。あれって、女子の健康診断を盗撮するために仕掛けたんじゃないんでしょう?」


 華世が指摘してやると、朝倉は布団に口元だけを隠して、息を詰まらせたように短く笑った。体は弱り切っても、あの不気味さが衰えることはなかったらしい。


「君は要領が良いんだね。まったくその通り、あのカメラにはもっと別の意味があった」


 失われていた朝倉の力が、ここにきて戻りつつあった。笑顔で覗き返す表情も、胃がムカムカしてくるような喋り方も、本来の彼の姿だった。


「どういう意味?」


 華世は乱暴に尋ねた。その全てが、本当の自分そのものだった。


「前に言ったはずだ。学校を徘徊する影の者に、君たちはまだ気付いていないと。ザコキャラである僕に指示を送っていた、真のボスキャラが誰なのかをね。僕がこうしてここにいるのは、その得体の知れない者の手によって学校から追放されたからだ」


「それって、あんたのボスに階段から突き落とされたってことを言いたいわけ?」


「そうかもしれないし、違うかもしれない。僕は人の気配を背後に感じたし、背中に手が触れた感触をはっきり覚えてる」


 華世には、朝倉がただの被害妄想を口にしているとしか思えなかった。この男のすべてがバカげている。


「信じてないんだろ」


 華世の頭の中を見透かすように、朝倉は鋭く指し示した。


「当たり前でしょ。あんたのことなんて根本から信じてないわよ」


 自分に正直になりすぎて、これはちょっと言い過ぎたかなと懸念したが、この男にはむしろ効果てきめんだったらしい。ひるんだ様子も見せず、朝倉は続けた。


「生徒会役員を決める選挙がもうすぐだったよね?」


 その弾んだ口調には、ますます強い生気が宿りつつあった。


「……うん。あさっての火曜日にね」


「その日、息を潜めていたボスキャラたちは必ず行動に出る。注意しないと、君のクラスメートが一人、泣くことになる」


 朝倉が何を言いたいのか、華世にはさっぱり分からなかった。


「そもそも、そのボスキャラって誰なのよ」


 華世は自分でも気付かない内に、朝倉のペースに巻き込まれていたようだ。ほとんど夢中になって質問している自分を、華世はあまり意識できていなかった。


「校内に点在する僕の意志たちが教えてくれたよ。君は、その人たちと何度か接触しているみたいだ。だから、攻略のヒントのために、この名前だけは教えてあげる。『藤堂渉』だ」


 華世には少し、頭の中を整理する時間が必要らしかった。しかし、朝倉はそんなことを歯牙にもかけない。


「ただし、藤堂は“真”のボスキャラじゃない。それが誰を指すのかは、君自身の目で確かめてくれ。そうじゃなきゃ、ゲームは面白くないだろう?」


「こっちは遊びでやってるんじゃないんだよ。そもそもね、あたしはあんたに文句を……」


「あーあ。またそうやって目くじら立てる」


 朝倉は後頭部を枕にこすりつけるようにして顔を振り、深いため息を吐き散らした。


「いいかい? クラスメートを救いたいなら、チャンスは明日の一度きりだ。朝のコエダメに藤堂を呼び出して、こう言うんだ。『朝倉から、あなたが役員選挙で企てている秘密の計画を聞いた』ってね。あいつはそれだけでビックリするだろうよ。うまく追い詰めれば、真のボスキャラ打倒はすぐ目の前だ。……そうだ、彼の連絡先を教えておくよ。上手に使ってくれ」


 朝倉は一人興奮するように、動かせる方の手足を出来る限りベッドの上でじたばたさせた。


「結果は後日に教えてくれよ。退院したらすぐに記事を書いてやるんだ。ヘヘ」




 梅雨特有の弱い雨が、月曜日の朝をしっとりと濡らしていた。

 華世は、朝のまだ誰もいない静かなコエダメで一人、肌で微かに感じる恐怖と対峙していた。どこからか吹きつける隙間風の音色は、壁に殴られて出来た穴が派手に呼吸しているようだった。穴は闇を放ち、華世を不安にさせた。

 突如、複数人の足音が廊下に響き渡った。高まっていた華世の緊張感がピークに達した時、階段のある側から一人の男がコエダメに姿を現した。藤堂渉が、柴田華世と静寂を挟んで向かい合った。


「こんな日が来るんじゃないかと、警戒していた」


 藤堂の顔に、いつもの優美さは一かけらも窺えなかった。血相が悪く、目は睡魔がまとわりついたように貧相だ。唇はほのかに紫がかっていた。


「少なくともあたしは、朝倉の話を信じた自分はとても愚かだったと、そう確信してます」


 勇気を奮い起こすように、華世は必要以上に大きな声でそう言った。


「だって有り得ないでしょう? あの藤堂さんが今回の役員選挙で、ある秘密の計画を企ててるだなんて」


「否定はしない」


 藤堂はよどみなく言った。あんまり素直なので、華世は拍子抜けしてしまった。


「君が朝倉に何を吹き込まれたかは知らない。ただ僕は、こうなるもっと前から、鬼山勝二と深く関りのあった君に、警戒の目を向けていた。そして期待通り、君はうまく突き止めたようだな。僕の秘密……いや、僕らの秘密を」


 藤堂の背後から、女子生徒がゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。その人物が誰か分かった時、華世は絶句した。

 朝倉の言っていた“真”のボスキャラが誰なのか、その瞬間、はっきりと理解できた。


「久しぶりね。二年五組、出席番号十番、柴田華世さん」


 凛々しくも優雅に、夏目真紀が華世の前に現れた。





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