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TIKARA  作者: 南の二等星
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第九話 くしゃみをしたら死ぬと思いなさい






 結局のところ、鬼山のおばちゃんが衝動買いしてきたあの大きな壺が、そのえん美な肢体に触れた者へ絶対の幸福を与えるなんてことは、よほど手の込んだ作り話だと解釈して差し支えなさそうだった。

 鬼山家からの帰り際、華世はかなり“特別扱い”で壺に描かれた赤子の頭をなでさせてもらった。


「なでると、どうなるの?」


 不慣れな手つきで鶴を折りながら美奈子が聞いた。


「幸せになれるんだって。自分が望むものを手に入れられることが、本当の幸せと呼べるのならね」


 次の日の昼休み、華世と美奈子は向かい合い、騒々しい教室の中で鶴を折っていた。初めは不承不承だった美奈子も、鬼山の母親と妹のためだと説明してやると、後はずっと己を誇るような笑顔だった。

 しかし美奈子の場合、尾を引くと翼が動く“鶴もどき”ばかり完成させてしまうので、華世がちょっとでも目を離すことは許されなかった。

 次の折り紙の束を机の中から引っ張り出す華世に、美奈子はグッと迫った。美奈子が身を乗り出した分、華世は背もたれでのけぞった。


「頭をなでなでする前から、華世は幸せ者だったのよ。鬼山くんの家に入れてもらえるんだから」


 華世を見つめる美奈子の顔が、まるで映画のラブシーンでも鑑賞するように、ほんのりと赤く染まり始めた。華世と鬼山が家の中でイチャイチャしている姿を想像しているからだと、華世にはおおよそ察しがついた。


「あのね。鬼山とはちょっと会話しただけで、美奈子が妄想してるようなことは絶対に起こってないから。そんなこと考えてると……ほら! また“もどき”になってる」


「わざとよ」


 購買のメロンパンにかじりつく鬼山をつぶさに観察しながら、美奈子は恍惚げに言った。今やその身も心も、鬼山勝二に全てを捧げる覚悟ができたとばかりだ。


「ねえ、知りたくない?」


 前髪を撫でつける仕草をしながら、美奈子が囁いた。


「何を?」


 華世は素っ気なく返した。


「さっき言ってたじゃない。最近の鬼山くん、学校からの帰りが遅いんでしょ? 放課後に何をやってるのか、知りたくない?」


「別に」


 手元の鶴に集中しながら、華世はできるだけ短く答えた。


「嘘よ。ごまかさないで」


「本当だってば」


 言って、華世は顔を上げて美奈子を睨みつけた。その表情は、悪ガキが『とっておきのイタズラ』を思いついた時のニヤニヤ笑顔そのものだった。


「どうする? 後をつける?」


 華世はさっそく乗り気だった。こんなに心をワクワクさせるのは、高校の入学式以来久しぶりだ。あの当時は、自身を待ち受ける青春に大きな期待を寄せたものだ。


「それが一番手っ取り早そうね。今日の放課後なんてどう?」


「おっけー。土曜日は決まって朝帰りらしいし、金曜日の今日は間違いないはず」


 二人は鶴のことなど忘れ、いつの間にか緊急の作戦会議を開いていた。鬼山尾行作戦に昼休みの残り時間を全て費やす覚悟はできていたし、五時限目の英語の宿題がまだ手つかずだったことは、この際あえて忘れた。

 話し声や笑い声のやかましさが幸いし、二人の秘密会議は順調に進んでいった。あらゆる状況と展開を想定し、主な内容と注意事項を折り紙の裏に書きまとめたのは華世だった。


「歩行以外は有り得ないわね。バスに乗られたらどうする? 自転車ならアウトね」


 美奈子が熱心に意見する姿を見て、華世は改めて彼女の鬼山に対する本気の情熱を窺えた気がした。同時に、もっと他のやり方がなかったものかと狼狽したのも事実だ。


「あいつがバスに乗った時はいさぎよく諦めようよ。でも、チャリの心配はいらないわね。あいつ乗れないから」


「うっそ。カァワイー!」


 持て余していた両手で折鶴作りを再開させながら、美奈子は黄色い声を上げた。


「ずいぶん楽しそうだね」


 二人は驚いて頭を上げた。瀬名が二人の脇に立ってこちらを見下ろしていた。その顔には、誰もが『微笑ましい』と認める光景を見る時の、優しい笑みがほのかに広がっている。


「楽しいよ。でも、瀬名くんにはちょっと理解できないかもね」


 鬼山を尾行する旨を説明したら、瀬名は一体どんな反応をするのだろう? 華世は考えつつ、作戦内容をしたためておいた折り紙を急いでひっくり返した。


「そう? こう見えて折り紙は得意だよ。子供の頃、エリマキトカゲばかり作ったもんだから、家の中はいつも爬虫類博物館みたいだった」


 声を上げて笑う三人は、教室のどの会話グループよりも仲むつまじく見えたはずだ。心の隔たりを越え、三人は兄妹のように会話し、あるいは笑い合って時間を過ごした。


「そういえば、今日は柏木先生の所へ行かないの?」


 美奈子が突然思い立ったようにそれを尋ねた。瀬名が質問に答える時には、すでに彼の手に一匹のエリマキトカゲが出来上がっていた。ネクタイが似合いそうなほどの立派なエリマキは、とても高い完成度だ。


「あ、やっぱり気付いてた?」


 瀬名は苦笑に顔を歪めた。


「そりゃね。放課後だって、かなり親密に会話してるじゃない? 特に最近はさ」


 指摘する華世の頭の中には、瀬名と柏木が親しげに話をする光景が投影されていた。最近の記憶を掘り起こしたせいか、両者の姿はその楽しそうな表情までも鮮明だ。


「実は、間近に迫った生徒会役員選挙について、先生と会って話してるんだ。すごく親身になって聞いてくれるし、それと兼ねて進路の相談にも乗ってくれるから、とても助かってるんだよ。今日は授業の準備があるから無理みたいだけど」


「あっ、そうそう」


 華世はポロっと落とすような具合に声を出した。目玉の裏側に藤堂のキザな笑顔が突如浮かび上がったのだ。


「藤堂先輩が瀬名くんに『選挙楽しみにしてるから』だって。凄いよね。前生徒会長から直々に名前が挙がるなんて」


 華世は尊敬の眼差しで瀬名を見上げた。心外にも、瀬名の表情に明るい兆しはなく、むしろ暗く沈んで見えた。


「嬉しくはないみたいね」


 エリマキトカゲの分解を始めながら美奈子が言った。


「その言葉が何を意味するのか、僕には分からない」


 白く濁った黒板を遠くに眺めながら、瀬名はそう呟いた。美奈子は華世を見た。華世は瀬名を見た。


「ただ、あの人がどんな手段に出ようと、僕は正々堂々と戦う。そうすれば、例え選挙で負けたとしても、僕は誰も責めずに済むんだ……」


 二人の元を去っていく瀬名の背中は、闇の中で一人戦い続ける孤独の戦士を思わせた。華世が書記の生徒会役員を希望する仲間だということは、もうすっかり記憶の彼方らしい。




 放課後、華世と美奈子はトイレ横の手洗い場に身を潜め、その時を待っていた。ここからなら、不良たちの集うコエダメを隠れながら観察できるし、壁に殴られて開いた小さな穴まで鮮明に把握できる。

 猿山のボス猿のような出で立ちでタバコを吹かしている男こそ、今回のターゲットである鬼山勝二、その男である。華世と美奈子は、鬼山がコエダメを離れ、放課後に起こす謎と秘密の目的を遂行するその一部始終を、その目でしかと見届けようというのだ。


「よほど暇よね、あたしたち」


 蛇口から水が滴るのを眺めながら、華世は己に舌を巻いた。確かに、作戦を練っている時は夢中だったし、ワクワクするような展開に胸を躍らせていたことも否定しない。しかし、華世は自分でも驚くほど時間の使い方が下手くそだと、そう実感していた。


「あたしも瀬名くんを見習って、柏木に進路相談でも持ちかけようかな」


「ちょっと、ブツブツうるさいよ。もうちょっとで会話が聞こえそうなんだから」


 美奈子はコエダメから死角となる手洗い場の壁際から額だけ突き出し、バレてない“つもり”のまま観察を続けていた。美奈子に覆いかぶさるようにして華世も覗き込んだが、鬼山はまだコエダメを離れる気配をちらつかせない。


「不良どもの真ん中で威風堂々とタバコを咥える鬼山くん……なんてダンディなの!」


 美奈子の幸せそうな笑顔は、恋という名の熱で完全にとろけてしまっていた。


「どうでもいいけど、五十嵐がいないわね。いつも鬼山の影みたいにまとわりついてるくせに」


 美奈子の背後から華世が指摘した。途端に美奈子が振り返った。


「ねえ、そんなどうでもいい奴のことなんかほっといたらいいじゃない。いないならそれでいいのよ、あんなストーカー」


「今の自分を棚に上げてストーカーはないでしょ」


「だって気味悪いじゃない、あいつ。二年になってから特にそう。もう度を超えてるわよ。こう……『鬼山くぅん! 鬼山くぅん!』て」


 美奈子が五十嵐のモノマネで言って見せた。声どころか表情までそっくりなので、華世は思いっきり笑ってしまった。


「そんなに面白い? 『鬼山くぅん、僕もトイレ行くよぉ。鬼山くぅん、一緒にご飯食べようよぉ。鬼山くぅんってばあ、無視しないでよぉ』……あっ!」


 腹を抱えて笑い続ける華世を置き去りにし、美奈子はカバンを持って不意に走り出した。そんな美奈子に面食らい、そのうち何がそんなに面白かったのか不思議に思い始めた矢先、華世もようやく気付いた。

 鬼山がいない。

 じめりとした手洗い場に放ってあったカバンを引っつかむと、華世は鬼山の後を……というより、美奈子の後を必死で追いかけた。美奈子は足が遅いはずなのに、意中の相手を追跡するその足運びは、まるでカール・ルイスの魂でも乗り移ったかのようだった。廊下を疾風が吹き抜け、階段では埃が舞い上がっている。

 ぜえぜえ言いながら玄関まで辿り着くと、美奈子が下駄箱の陰に身を潜めて『こっちへ来い』と手で合図していた。華世がのろりと近づくと、美奈子は玄関扉の向こう側を突っつくように指差した。


「美奈子、あんたいつからそんなに“歩く”のが速くなったの?」


 髪の毛どころか鼻息さえ乱さない美奈子から校外へ視線を移しながら、華世は皮肉を吐いてやった。外には鬼山と思しき生徒の背中が確認できたが、すぐに姿が見えなくなってしまった。


「追うわよ」


 テレビの中に登場する腕利きの女刑事を目の当たりにしているようで、華世の落ち込みかけていたモチベーションは彼女の『助手役』として再び燃え上がってきた。


「カバン、お持ちします」


 校舎前の階段を慎重な足取りで駆け下りながら、華世は演技たっぷりに美奈子のカバンをもぎ取った。


「あら、気が利くのね。近隣の地図はある? ここらの地理を把握したいんだけど?」


 美奈子はノリが良かった。


「地図なら、この頭の中に大方詰め込まれてますよ。でも神崎さん、この一件は、地図以上に信頼性のある私たちの“コンビネーション”が試される時なんじゃないでしょうか? 何せ、相手はあの『フクロウ』や『全身ゴキブリアンテナ』の異名を持つ鬼山勝二ですからね」


「確かにそうだわ。些細な失敗が命取りになりかねない、危険なミッションなのは確かね。いい、柴田助手? くしゃみをしたら死ぬと思いなさい」


「大丈夫です。くしゃみとしゃっくりは五分も前に封印してましたから」


 二人は他の下校生徒に紛れて鬼山を尾行していたものの、徐々に生徒の数は減り、いよいよ華世と美奈子だけになったのは、飲食店が軒を連ねるそれなりに大きな通りに出た時のことだった。

 夕方のこの時間、比較的多い人通りの中に身を潜めることができたのは幸いだった。しかし、それが災いして幾度も鬼山を見失いそうになったのも事実だ。長身の鬼山がボサボサ頭の一つでも人混み越しに見せていなければ、二人はとっくに彼を見失っていたはずだ。


「それにしても、あいつがバスやタクシーに乗らなくて良かったですね、神崎さん」


 夕刻の買い物時、本格的に賑わい始めた人々の雑踏の中で、華世は久々に口を開いた。学校を離れてから二十分以上が過ぎていた。


「まだやってたんだ、それ」


 美奈子は呆れたように、しかし嬉しそうな笑顔で言った。


「だって、こっちの方が緊迫して面白いじゃん」


 カバンを美奈子に返しながら華世は言い返した。刑事ごっこをやめていたなら、早くそう言って自分のカバンくらい持てよと華世は思った。


「あんまり調子に乗って、墓穴掘ったって知らないわよ。……それより、ここってどこらへん? 学校出てから結構経つけど」


「たぶん、美奈子の家の方面じゃないかな。でもここら辺ならバスでも来れるんだけど。あいつバス代ケチってんのかな……?」


 美奈子が立ち止まったのが見えて、華世は驚いて振り返った。次には、美奈子に腕を強引につかまれ、目の前のゲームセンターまで引っ張られていった。


「痛い痛い……痛いってば!」


 よろけながらも、華世は腕を振り払おうともがいていた。意味が分からないくらいの凄まじい握力だ。


「見えなかったの? すぐ隣のパチンコ屋だった。入っていくのが見えたもの!」


 美奈子はもうすっかり興奮状態だった。ゲームセンターの入り口はガラス張りになっているので、外の様子はその薄汚い泥と手垢まみれのガラス越しからでも鮮明だった。そこから窺い見るに、確かに隣の店は大手のパチンコ屋だ。


「学ランでパチンコなんて自殺行為よ」


 街中の雑踏よりも騒々しい店内を尻目に、華世は冷静な見解を述べた。美奈子はかぶりを振った。


「正面じゃなくて、裏手からよ。ほら、ここからギリギリ見えるじゃない?」


 美奈子が突き刺すような勢いで裏手にある金属製ドアを指差すので、華世は寸でのところで身をかわさなければならなかった。


「落ち着いて、よく考えてみよ」


 美奈子の心を静めようとして、華世は大声でそう言った。耳の中にガンガン響いてくるゲーセンの不快な轟音を無視するのは、かなり至難だった。


「本当に裏口から入っていったんなら、鬼山はほぼ間違いなくあそこで働いてるってことになる。でしょ? でも校則でアルバイトは禁止になってるし、そうでなくても、高校生がパチンコ屋を出入りするなんて厄介な事実よ。でしょ? つまり、どういうことか分かるよね?」


 美奈子は目をパチパチさせながら曖昧にうなずいた。


「つまり……みんなには内緒ってことでしょ」


「まあ、いい線いってる」


 華世は認めた。


「これからどうする?」


 裏口をしきりに観察し続ける美奈子に向かって、華世は声を投げかけた。数人の男子学生たちが二人の脇を通り、店内へ入っていくところだった。


「ちょっと寄ってかない? このままここで見張ってたって、あいつ出てこないかもよ?」


「寄ってくって……まさか、ここに?」


 騒々しい店内を眺める美奈子の目つきは、まるで道端に転がっている汚物でも見るような冷たいものだった。


「野蛮よ、こんなとこ。前々から、こういった施設を利用する人はバカだけだと思ってたし」


「バカでもいいじゃん。おごるからさ、ね。ハイ、決まり!」


 有無を言わさず、華世はほとんど強引に美奈子を店内へ連れ込んだ。華世は何度か来たことのあるゲーセンだったが、美奈子にとっては、この異質な空間に足を踏み入れること自体が初めての試みらしかった。


「これやろうよ」


 半ば挙動不審の美奈子に大声で言いながら、同時に、華世は彼女の反応の一つ一つを楽しんでいた。美奈子は、どのメロディがどの機械から発せられているのか全て突き止めてやろうとばかりに首を動かし、色とりどりのイルミネーションに瞳を輝かせていた。


「ねえ、これやろう」


 華世はもう一度、更に大きな声で美奈子に呼びかけた。美奈子は少年たちがレーシングゲームをプレイする姿を見て、少し驚いているようだった。


「免許はいらないみたいね。あれは交通事故を防止するためのシミュレーションゲームか何かなの?」


 一瞬、華世は美奈子に試されているのかといぶかったが、どうやら彼女は本気のようだ。少年たちがハンドルを握り、アクセルを踏み込む姿が不思議でたまらないといった表情だ。


「ゲームに理屈なんか求めないでよ。あるのはシンプルなルールだけ」


 説明しながら、華世は美奈子の手にバチを押しつけた。美奈子の顔が当惑に滲むのを、華世は笑顔で無視した。


「これやろう。太鼓のゲーム! ルールはね、ひたすら叩けばいいのよ」


 手始めにこのゲームを選んだのは大正解だった。音楽に合わせてリズム良く太鼓を叩くこのゲームは、うまく美奈子のツボにはまってくれたらしい。二人はまるまる三十分もその場を独占し、手に豆ができるほど太鼓を叩きまくった。


「パパに頼んで、この機械を買い取ってもらわなくちゃ」


 次の百円玉を握りながら美奈子は揚々と言った。次は華世が困惑する番だった。


「ちょっと待った。もう太鼓はいいから、違うヤツやろうよ。ね? ね!」


 美奈子は渋々と受け入れたが、もっと面白いゲームが自分を待ち構えているに違いないと思ったのか、店内を徘徊する足取りはスキップのように軽々しかった。いつの間にか、華世が美奈子の後をついて回るようになっていた。


「見て! 壊れてる!」


 壊されたパンチングマシンを見て、その場で興奮気味にとび跳ねながら美奈子は喜んだ。動物園で動物を見る度に狂喜する子供のようだ。


「ああ、これが……あの話は本当だったのね」


 パンチングマシンの無残な成れの果てに同情しつつ、華世はここまでやって来た本来の目的をふと思い出した。


「これ壊したの、鬼山らしいよ。素手で殴ったんだとか」


 周囲に張られた赤いロープに軽く身を傾けながら華世が言った。美奈子の恋心がときめく様を、華世はその表情からすぐに読み取ることができた。しかし次には、身も心も凍てついたようにその動きを止めていた。


「何であいつがいるのよ」


 華世はとっさに振り向いた。五十嵐だ。十メートルほど離れた所にあるプリクラ機の間を、忙しなく行ったり来たりしている。まだこちらには気付いていないらしい。


「あいつもつけて来たのよ。絶対そうに決まってる」


 一旦その場を離れながら、美奈子は憤慨していた。カバンを振り回し、踏みつける足音は騒音だらけの店内でもはっきりと聞こえた。


「偶然かもよ? コエダメにはいなかったんだしさ」


「どっかで待ち伏せてたのよ。気味悪い……あいつ、きっとホモよ」


 憤る美奈子を前に、反論する余地はなさそうだった。それに、五十嵐のホモ疑惑にはかなり以前から注目していたし、それに関して否定するつもりもなかった。ここまできたら、アイドルの追っかけファンも顔負けだ。


「誘っといて悪いけど、もう帰ろう。五十嵐がいたんじゃ落ち着かないしさ」


 萎えてしまった気分も相まって、美奈子は素直に了承してくれた。

 二人が外に出ると、風船を手に持ったウサギの着ぐるみとバッタリ出くわした。ウサギは華世の方にその大きな目玉を向けたまま静かに硬直し、美奈子の小さな悲鳴が上がったのはその直後だった。華世はウサギの顔を覗き込んだ。


「華世!」


 美奈子が小さく叫んだ。


「え……まさか?」


 華世が美奈子の方を振り返ったそのわずかな隙に、ウサギはその場を離れていた。華世がひと度ウサギを見ると、ぎこちなさそうに足を引きずってパチンコ屋の裏手に入っていくところだった。

 美奈子がまた、不意に走り出した。


「待ってよ!」


 向かってくる通行人を巧みにかわしながら華世は叫んだ。


「待てない!」


 美奈子は手で顔を覆ったまま、がむしゃらに走り続けている。赤信号の交差点が目の前に迫った時、華世はようやく美奈子のカバンをつかむことができた。


「死にたいの? そんな走り方して……」


「死にたい!」


 美奈子の声は覆われた手の中でくぐもって反響した。その顔はまだ手で覆われている。美奈子自身、華世がカバンから手を離すと、車の往来する交差点に飛び込んで行ってしまいそうな程の余力が、まだ十分に残されている。華世は片手でカバンをつかみ、片手で美奈子の腕を握った。


「あの着ぐるみの中身が鬼山だって、自信を持ってそう言える? まだ何も分からないじゃない」


 信号が青に変わるのを待ってから、華世が切り出した。このまま赤に変わるとまた厄介なので、華世はガス欠の自動車を押し進めるような感覚で美奈子と交差点を渡った。


「でもでも、タイミングもバッチリだったし、あのウサギは華世を見て固まってた。それで……それで……逃げてった!」


 美奈子は今にも泣きだしそうだった。顔から手が離れると、そこには頬を真っ赤に染めた美奈子が立ちすくんでいた。


「どうしよう……もう学校で会えないよ」


「美奈子が逃げたりするからじゃない。いい? 鬼山はあたしたちが偶然、あのゲーセンにいたと、そう思うはずだったんだよ? まあ、あれが鬼山かどうかは分からないけどね」


「嗚呼……そうよ、そうだったのよ。逃げないで、ただ自然に風船をもらっておけば良かったのよ。たまたまあの場にいたことにすれば、万事解決だったのに!」


 自分に腹を立てる美奈子の声は、本格的に涙でかすれてきた。そんな美奈子に、華世はただ黙って寄り添ってあげることしかできなかった。




 月曜日の朝、華世と美奈子は女子トイレの手洗い台の前で、深刻な顔を見合わせていた。


「昨日メールで話したでしょ? 鬼山が見たのはあたしだけ。美奈子のことは見えてない」


「うん……でも、華世の名前を呼んだわよ」


「聞こえてないって。あっちもビックリしてて、それどころじゃなかったんだから。まあ、あれが鬼山かどうかは分からないけどね」


 最後にその一言を言い添えるのは、華世のお決まりになっていた。その言葉どおり、華世は美奈子ほど気にはしていなかったが、やはり鬼山と顔を合わせるのは気が進まない。少なくとも、鬼山がパチンコ屋で働いているという事実はぬぐいきれないのだから。


「もう戻らなきゃ。HRが始まっちゃう」


 その時、女子トイレに二人の生徒が入って来た。聞き耳を立てていたわけではないが、静まり返ったトイレの中で、二人の会話がはっきりと聞こえてきた。


「さっきさ、男子が階段から落ちたんだって。今救急車向かってるらしいよ」


「何それ、大ニュースじゃん! 新聞局が黙ってないね。で、誰なの?」


「それがさ、新聞局長の朝倉仁なのよ! さすがの彼も、傷ついた自分は報道できないわよね」


 折しも、救急車のサイレンが遠くの方で鳴り響いた。






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