ある日の水戸黄門
諸国漫遊から戻った光圀は、のんびりと旅の疲れをいやしていた。
うららかな春日和。やわらかな日差しにほころび始めた梅の花をながめていると、時の流れさえゆったりとしているように感じた。
「おお、そうじゃ。国許におるとはいえ、いざというときにそなえ、いんろうも虫干ししておかねば」
袖口から手を引き入れると、彼は衣類をまさぐり始めた。
たあいもない雑談を交わしながら歩いてきた助三郎と格之進、廊下の角を曲がるやいなや、その光景を目にし、ハッとばかりひれ伏した。
「ご老公、そのようなものはめったやたらにお見せなさらぬよう。だれがお庭を通らぬとは限りませぬ」
二人の狼狽ぶりに、光圀は口元に笑みを浮かべながら答えた。
「よいよい。相変わらずそちらは堅苦しいのう。長い間用いておらぬゆえ、わがいんろうを日に当てておるだけじゃ」
「は、しかしながらお大事なものゆえ……」
「はっ、はっ、はっ。しかしながら、久しぶりに手にとってみると、いささか変色しかけておるようようにも見えるのじゃが。もしかして青カビでも生えたのでは」
「いえいえ、まさかそのようなことは」
困惑の表情で、二人は顔を見合わせた。
「そうかそうか。いやしかし、なかなかのものじゃろう、この素晴らしき紋様は。色深き葉脈の波打つかのごとき優雅な形は、天下広しといえ、このワシのものくらいではあるまいか」
「御意」
と二人が答えたそのとき、ふすまが静かに開き、腰元らを従えた奥方がしずしずと入ってきた。
「おう、ちょうどよかった。ちょっと余のいんろうを見てくれぬか。その方はよく知っておろう。ちょっと傷んできてはおらぬかのう」
ちらり横目でその場のようすを見た彼女は着物の裾を直すと、おもむろに腰を落とした。
「また、そのような」
「いやいや。格之進や助三郎は余の身の回りの世話をし出してから日は浅い。その方なら余のいんろうは昔からよく知っておろう」
「いえ、変わってはおられませぬ。先代ご存命のおり、わらわがこちらへ嫁ぎましたみぎり、初めてお見せいただいたのとお変わりはございませぬ。どちらかと申しますと、色つやともに深みの増されたのではないかと」
「ホッ、ホッ、ホッ。そうか。余の気のせいかのう」
うなずきながら光圀は、しかし目を細め、満足げなまなざしを庭の老木に向けた。
赤く染まった腰元たちの頬の色がえもいわれぬ風情をかもし出していた。
まだ鳴きなれぬうぐいすが、梅の木でけきょと飛びはねた。
(了)
〔おわび〕
文中「いんろう」とあるのは「いんのう」の誤植とわかりました。間に合わず未訂正のままアップされてしまいましたことを、心からおわび申し上げます。
校閲ボーイ