後編
運ばれて来たのは縁に巧みな彫刻の施された、大きな一枚鏡の姿見だった。私は心此処にあらずといった体で、準備が整うのを眺めていた。全てのセットが完了し、映写機から投射される光が当てられると、姿を現したのは制服を着たずぶ濡れの女子学生だった。年の頃は高校に上がりたてと言った感じだろうか。幽霊なので当たり前だが、色白の美しい肌を持った、端正な顔立ちの紛れもない美少女が其処にいた。美し過ぎて柔な男なら引いてしまうだろう、それほどの美貌に会場の男達は全員息を飲んだ。悲しげな表情でうつ向く姿は、男のサディスティックな欲望を疼かせるのに充分だった。
競りが始まる間際、彼女が何かを呟いていることに気付いた。耳を澄ますが女の子の呟きでは聞き取る事は不可能だった。ならばと目を凝らし、彼女の唇の動きを読み取ろうと努力した。
……ナ………ケテ………………
…………ミ……ス…テ…………
……ナミ…タス…テ……………
私には‘ナミを助けて’と読み…かけて改めて気付いた。ずぶ濡れの彼女に。
…ツナミ…タスケテ…
私は愕然とした。この娘は3.11の現場で津波に流されていたのか。もがき苦しむ人達の姿を直に見ていながら、奴はその魂でさえ売り物にする人間に成り果てたのか。悲しみにも似たやりきれなさに、私までも震災後の荒野に置き去りにされた気持ちだった。
競りが開始されると、会場は異様な熱気に包まれた。一人の女の子の幽霊を巡って、狂った大人達が激しい競り合いを演じていた。値段は青天井で吊り上がって行く。そんな光景に向かって私は叫びたかった。
‘お前ら聞けよ、彼女の声を! 読み取れよ、その苦しみを!’
しかしそう叫んだところで、この人達には何の意味もなさない事は確かだった。言葉だけが虚しく漂うのを眺めるしかないのだ。
'…俺はただ、眺めているだけだった。'
嫌だ、こんなのは間違っている。
今が良ければ過去も未来も生け贄に捧げる、それが世界の正義なら私はその今を破壊するテロリストになる、そんな気持ちが私の中に沸き上がって来ていた。何か出来ないのか。焦る気持ちが邪魔をして、考えは空回りするばかりだった。どうしたら良いのか思いあぐねて彼女を見ると、彼女の声が直接頭に届いて来た。
……シヌ……コワイヨ…………オカアサン…………
‘但しその時注意する点がある。戦争や暴力的な映像だと奴等は暴れ出すんだ。’
私はNの言葉を思い返した。映写機に暴力的なフィルムをセット出来ればもしくは…、しかし都合よくそんな物を用意出来る筈もなかった。その間にもセリはどんどんと進行して行く。 私は必死に考えた。3.11 あの日何があった? …叫び声…サイレン…非常ベル…!
あの日のニュース映像に非常ベルが鳴り響く場面があったのを思い出した。私は部屋を飛び出し、廊下で見かけた非常ベルに向かった。赤い小さなランプが灯る場所に走り寄り、馬鹿げた世界が崩れ落ちるのを祈りながらボタンを力一杯押し込んだ。建物全体にけたたましいベルの音が鳴り響き、暫くした次の瞬間、建物が小さく揺れ出したのを感じた。息を切らして再びホールに戻ると、バイヤー達が慌てふためく姿が目に飛び込んだ。椅子から転がり落ちる者、誰かの背中に隠れてやり過ごそうとする者、それら衆人の注目を一身に集めて、彼女がいた。ずぶ濡れの制服姿で身を守るように腕を交差させ、舞台上の空中に浮かび上がり、ひとり激しく嗚咽していた。彼女がしゃくり上げるたび部屋全体を振動させ、それはやがて建物すらも揺るがし始めた。今やこの空間は彼女そのものだった。小さな呟きでさえ、拡声器を通すように巨大な響きとなって、人々の内臓を震えさせた。
…コワイ……コワイ……オカアサン………………オカアサン!!!!!
その死への恐怖の叫びは彼女の周りに居た者を吹き飛ばし、壁すらも砕き建物を崩落させかねない勢いだった。 バイヤー達は恐怖におののき、我先に部屋から脱出しようと出口に押し寄せた。押し合いへし合い倒れた者を踏みつけ、生存本能を剥き出しにして、逃げ延びようと喘いでいた。
私はそんな光景を尻目に、いざ騒ぎを起こしたもののこの後どうすれば良いのか、分からずにいた。幽霊を鎮めて取り逃がす事など、私には出来かねる芸当だった。そうこうする間に一人の主催者が手に何かを持って彼女ににじり寄って行く姿を見た。黒くねじれた木の棒の先に飾りを付けた大きな鳥の足が数本、複雑に結わえ付けられた品を持って。鈍く光る鋭い足の爪が、何もかも残酷に切り裂くように感じられた。
’魔術の道具でいたぶる‘
私は床に置き去られたバイヤーの残した鞄を手に取り、背後からその男の頭に叩きつけた。男は道具を取り落とし、呻きながら頭を抱えてうずくまった。
もう成るようにしかならない。そう腹を据えると、手近にあった椅子を頭上に高々と持ち上げて、大きな鏡に向けて投げつけた。鏡はカン高い乾いた音をたてて、薄暗い照明を反射しながら、映画のスローモーションのように、キラキラと砕けて散った。それが狂宴の終わりを告げる合図となって、ホールを圧迫した巨大な力は風船がしぼむかのごとく薄れ、何かが一陣の風となって私の横を吹き抜けていった。
気が付けば静まり返った部屋に彼女の姿は無く、エゴイスト達の狂騒の乱れた跡だけが残されていた。
そこからのバイヤー達の逃げ足の早さは特筆ものだった。そうやって人生の修羅場を潜り抜けて来た、サバイバーの姿を見せつけているようだった。警察や消防が集まる頃にはもう誰も居なかった。私も野次馬に紛れ、その場を後にする事にした。
人混みを抜けNの車に辿り着くと、其処に奴が待っていた。私は思わず怒りに任せてNの胸ぐらを掴んでいた。
「殴りたいなら殴っていい、だが此処では止せ。人が多すぎる。」
睨み合ったままではらちがあかないと思い、私達は車に乗り込んだ。黙ったままの男ふたりを乗せ、走り続けた。最初に口を開いたのはNだった。
「すまなかったな、俺の尻拭いをさせて。だがお前なら、俺の望む行動を取ってくれると信じていた。」
お前は心苦しく無かったのか、震災に遭った者の魂を汚して、と聞くと
「言いたいことは分かっている。だがもう後戻りは出来ないんだ。精神を削りながら幽霊を捕獲する事に生き甲斐を感じ、オークションでのやり取りに酔いしれ、モラルを食い荒らされている。もう俺は普通の人間じゃ無くなっているんだ。もうあの娘を救える勇気を、俺は持ち合わせていなかった。だからお前を呼び寄せた。会場で暴れてくれる事を祈って。」
私は‘お前は俺を道具に使ったのか! ’と問い詰めた。
「ああ、その通りだ。俺の側にはもう誰もいない、師匠も逝ってしまった。俺にはお前しか頼れる奴がいなかったんだ。
依頼されたとはいえ彼女を捕獲した夜、自分の愚かさに気が狂いそうだった。その場で何度も逃がそうと考えた。だが出来ないんだ。…兵士の霊が安い金で取引されたのを覚えているだろう、あれは俺達さ。国や会社のために死ぬまで働いて働いて、どこが豊かな先進国なんだ、ずる賢く立ち回れる奴等だけが生き残って、最後は使い捨てのその他大勢で終わるだけじゃないか。津波と汚染に土地を荒らされ、ずるい連中に利用されて、そんな世界を黙って耐えて生きて行くなんて俺には出来ない。…だからゴーストキャッチャーを始めた。この仕事なら普通に働くより大金を掴める。ろくでもない奴等から貰う金だからな、気兼ね無く下らない使い方が出来る。俺の性に合っているのさ。それをたかが小娘一人の魂のために足を洗うなんて、割に合わない考えにしか思えなかった。さっさと主催者に鏡を渡して何処かでノンビリしたかった。だけどな、鏡を運ぼうとすると激しく振動するんだよ。ビリビリ、ビリビリって。夜になると俺を責めるかのようにますます振動が激しくなっていた。強い力を持った鏡は、霊力の増幅器になっちまうんだ。俺の中に残った負け犬根性が、祟りへの警戒信号を発していたよ。甘っちょろい俺自身にウンザリして賭ける事に決めた。金か、似合わないラブソングでも歌うか。サイコロになるのはお前しか思い浮かばなかった。金が手に入ったら、日本中のキャバクラを巡る積もりだったんだがな。宛が外れちまったぜ。
でも今回は、お前のおかげで不味い酒を飲まずに済んだんだ、礼を言うよ。ありがとう。」
その言葉を聞いて、私の怒りの感情が冷えていくのを覚えた。苦しみ続ける男に追い討ちをかけるほど、私は正義の味方ではなかった。
「だがなんだな、俺と一緒にいたお前が騒動を起こしたんだ、これでしばらくは、俺に仕事が回って来る事はないだろう。」
Nの顔にはイタズラがばれた後の言い訳とも、自責の念とも取れる苦渋の表情が浮かんでいた。主催者の依頼なら、もう一度あの娘を捕まえる事になるんじゃないのかと尋ねると。
「その事なら安心しろ、あの娘は自由さ。何処かに飛んで行って居場所も分からないんだ、余程の偶然が無い限り、見つけ出すのは不可能だろうぜ。」
でも代わりの娘を捕獲する必要になるのではないのかと訊くと。
「その時は、また強い霊力を持った鏡を用意して、オッサンが狼狽えて返品を申し立てるような、立派な悪霊に成るよう説得してやるよ。」
悪戯っぽく笑みを浮かべたNを見て私は知った。私の行動が失敗に終わっても、企みは続いていたという事を。
'お前ワルだな'
私の言葉にNはニヤリと笑って頷いた。また俺達の所に来いよと誘ったが、
「ダメだ、俺はもう普通の生活には戻れない。それにアイツらにとって大切な猟犬だからな、ほとぼりが覚めたらまた呼ばれるさ。最も、二度と会場には入れてくれないだろうけどな。」
再び私達は黙りこんだ。車は来た道を戻り続け、待ち合わせた場所に帰って来た。私は車を降り、最後の質問をした。
若くて可愛いくて、処女だと思ったから、あの娘を逃がす気になったのかと。
「見知らぬ女を助ける男に、それ以外の理由が必要か?」
英雄気取りの気恥ずかしさを隠す言い訳はそれで充分だった。俺達もくだらねえ連中の仲間入りだな。私達はそう言って笑い合った。そして真顔に戻ったNが切り出した。
「なあ、俺の仕事のパートナーにならないか。稼いだ金は二人で折半にしよう。この稼業は鉄火場と同じだ。気を抜けば人を出し抜こうと企む奴ばかりさ。だからお前みたいに信用出来る仲間が必要なんだ。歪んだ連中から大金をせしめて、面白おかしく暮らしていこうぜ、なあ。」
Nの顔は真剣そのものだった。その目の奥には、一人孤独にしのぎに耐え、やりきれない思いを影にして宿していた。
私はもうすぐ家族になる女が居ること、退屈かも知れない人生を地道に生きる事の方が性に合っている、だからお前の仕事を手伝う事は出来ないと告げた。
その時の絶望に打ちひしがれたNの表情を、私は忘れる事はないだろう。Nは分かったと了承し、私は開いた車の窓から別れの握手を求めた。しかしNは握手の替わりにダッシュボードにあったガムを投げて寄越すと、手を振りながら笑顔で告げた。
「幸せになれよ!」
走り去る車を別れた恋人が見送るように、車が見えなくなるまで私は立ち続けた。貰ったガムを噛むと、口にミントの香りが拡がり、何故か空を見上げたくなった。ミントに心をイタズラされるのは、初めての体験だった。
'お前こそ幸せに成れよだバカヤロー。'
その日を最後に、Nは消息を断った。
私は一人の友を失なった。
ゴーストキャッチャー 〈完〉
プロ志望ではない者の作品を、最後まで読んで頂きありがとうございました。皆様の暇潰しぐらいにはなれたでしょうか。そして暇潰しどころではない生活を送られている、知人をお持ちの方もいらっしゃると思います。人間の苦しみをエンターテイメントに変換している事を、お詫び致します。




